「老残遊記」の下書き手稿について


               樽 本 照 雄


1.まぼろし の 手 稿

 劉鉄雲「老残遊記」第11回の手稿が存在していることを明らかにしたのは、劉大紳である。劉大紳は、その「関於老残遊記」1において、完全版ともいうべき天津日日新聞社版『老残遊記』の、ある部分が、この手稿にはない事実にも触れた。これが、のちのち問題となる。
 魏紹昌編『老残遊記資料』に、劉大紳「関於老残遊記」が収録されるに際し、劉厚沢の注がつけられた。手稿についても、より詳しい説明がなされている。すなわち、手稿は6枚、薄緑色の縦ケイが印刷された唐紙に書かれており、折り目に百登斎ー古の5字が印されているのだそうな。第11回の後半部分、「因又問道」から「且聴下回分解」まで全3084字、単行本と照合すると、「総之這種乱党」から「要緊要緊」までの78字2がないのを除いて、その他は1字も異ならない、とも書いてある3(下線樽本)。
 手稿は、1961年、劉厚沢によって南京博物院へ寄贈された。
 1979年、「江蘇省徴集文物展覧」で劉鉄雲の手稿が公表されたらしい。存在が明らかにされてから40年後である。同年12月3日付上海『文匯報』、および12月10日付『朝日新聞』大阪版夕刊でその事を知る。報告書もでた。郭群一、王少華「読新発現的《老残遊記》手稿三頁」4がそれだ。書き換えがあることを指摘し、一部原文を引用して紹介する。手稿は6枚あるはずだが、なぜ3枚なのか。公開されたのが3枚だけだったのか、はっきりしないが、とりあえず私は、引用された原文をもとに、手元の単行本と照らしあわせてみた。すると、二、三の文字が一致しない。78字がないのを除いて、その他は1字も異ならない、という劉厚沢の注が違っていることになる。郭群一、王少華の同文は、「読《老残遊記》手稿」と改題し、増補のうえ『随筆』第9集(1980.7)に転載された。手稿3枚は、訂正して6枚とする。しかし、この時も、手稿の全文が活字になるということはなかった。それ以上詳しいことはわからずじまい。もどかしいが、どうしようもない。
 私は、わずかな材料をもとに、手稿の書かれた時間を探った。論文「『老残遊記』の原稿」で言いたかったのは、6枚の手稿は天津日日新聞社に渡された原稿そのものではなく、「下書き手稿」であるということだ。5この区別を明確にしておかないと、後述する「文明小史」との「盗用」関係がわからなくなる。

2.コピー で 見る

 今、私の手元に、手稿の写真と、そのまたコピーの両方がある。劉徳隆氏からいただいたものだ。あまりにも字が小さすぎて判読不能の箇所が多くあるのは残念だが(本誌冒頭に掲げたのは拡大コピー)、貴重な資料であることには変わりはない。検討のうえ、本稿を草したところで、劉徳隆・朱禧・劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』(四川人民出版社1985.7)を入手した。6該書の口絵に手稿第3〜6枚が写真版で収録されている。どうせなら、ついでに手稿第1〜2枚も掲載していれば、全文初公開、となったのにネ、惜しいことです。
 手稿は、6枚である。薄緑色かどうかわからないが、縦ケイが印刷されている。ケイいり枠が左右に配置された、本来は、横長の用紙を、90度方向を変え、縦長に使用する。かわった使い方だ。版心(折り目)に「五十瓦登□ー古」(見えない「□」は、たぶん「斎」なのだろう)とかすかに読むことができる。劉厚沢の注で言うような「百登斎ー古」の5字など、どこにもありはしない。今まで、この間違いを指摘したひとが誰もいない、というのも不思議だ。
 劉鉄雲の甲骨文収集は、『鉄雲蔵亀』(1903)、『鉄雲蔵陶』(1904)の出版で有名だ。さらに、最近、未刊の『鉄雲蔵貨』が発見されている。7
 劉鉄雲の蔵陶は、はじめ数十だったそうだ。それで、「五十瓦鐙斎」と称した。「鐙」とは、あぶらざらのこと。これに文字が刻みつけられているのだろう。数を増やすにつれ、「百瓦鐙斎」から「二百瓦鐙斎」へと改称し、最後に「抱残守缺斎」と名乗るにいたった。8
 『鉄雲蔵亀』(1903)には、「抱残守缺斎所蔵 三代文字第一」とあるから、「五十瓦鐙斎」は1903年以前の名称であることがわかる。さらに、前出『劉鶚及老残遊記資料』の口絵に掲げられた劉鉄雲「壬寅(1902)日記」の原稿版心には、「五十瓦登斎雑著」と見える。すると、この手稿が書かれた時期は、1902〜1903年以降と推定できようか。また、「五十瓦登斎〓古」の刻印(「鐙」と「登」は同音)は、手稿がほかならぬ劉鉄雲のものであることの証明でもある。
 私が見ている手稿はコピーである。実物ではないので文字の判読がむつかしい。欠字は数えず、全部で3038字ある。加筆は約80字、削除が約70字、さらに41ヵ所にわたる訂正のあとが歴然と残る。たとえば、天帝を上帝に訂正するのが14ヵ所、上帝を3ヵ所上天に換え、天帝から玉帝への変更が1ヵ所ある、という具合だ。
 天津日日新聞社版『老残遊記』と照合すると、例の78字が手稿になく、異体字を除いて誤植を含んだ異同が、約50ヵ所あった。
 手稿と天津日日新聞社版『老残遊記』の本文間には大小の異同がある、という事実から導きだされる結論は、ただひとつだ。すなわち、現存する6枚の手稿は、商務印書館あるいは天津日日新聞社に渡された原稿ではなく、下書き手稿である。ケイを無視した、変則的な用紙の使い方も、このことを裏付けている。
 では、この手稿は、いつ書かれたものか。
 このたび、手稿のコピーを天津日日新聞社版『老残遊記』と照合した結果、その書かれた時期は、以前考えていたよりも前であるという結論に達した。
 劉鉄雲は、中断していた「老残遊記」をあらためて『天津日日新聞』に連載するに当たり、第11回を除いた第1〜14回は『繍像小説』に掲載されたものに手をいれてすませた。『繍像小説』でボツになった第11回分は、復元する必要がある。ボツ原稿が商務印書館から返却されたとは考えにくい。そこで、手元に残っていた下書き手稿を見ながら第11回原稿を復元した。その時、下書き手稿になかった78字を加筆したのだ(図参照)。
 以上のように考える理由を述べよう。例の78文字が問題となる。手稿が天津日日新聞社に渡す原稿Bの直前に書かれたとすれば、加筆される78字のうち少なくとも31字が何らかのかたちで出てきてもよい。『繍像小説』に渡した「老残遊記」原稿Aから、南亭亭長は「文明小史」第59回に「北拳南革」批判部分を取り込んだ。それには「老残遊記」よりも1字少ない類似の30字を見ることが出来る。そこから、原稿Aには、31字が加筆されていたと考えられる。ところが、手稿には、その31字はない。第11回復元に当たって下書き手稿を書いたとして、劉鉄雲の記憶からその部分だけ抜け落ちた、その上で、新聞社に渡すため、31字に47字を補
        「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「 
 「老残遊記」の            1903-4  1905    1906    
  執筆発表過程         原稿   繍像   原稿          
                A   小説   B           
         31字加筆            1     天     
          修改             /     津     
           、             10     日     
 第11回手稿    「ヨ「「「 11   ボツ   11     日     
                         12     新     
                         /     聞     
                         14           
                         15     1     
               78字加筆修改    /     /     
                新しく執筆「「  20     20     
                                    
                                    

った合計78字を加筆して原稿を作成した、という可能性もなくはない。しかし、手稿の他の部分に、2、3字ならまだしも、そういう大量の例は見出せず、その可能性は薄いのではないか。考えられるのは、原稿Aの下書きとして手稿が書かれたということだ。
 劉鉄雲は、毎晩、帰宅すると思いのままに数枚書き、翌朝、汪剣農(劉家の家庭教師)に渡すと、汪は書き写して連夢青の寓居へ送った。劉鉄雲は、計画に意を用いたこともないばかりか、見直したり修改したこともない、と劉大紳は証言している。9「見直したり修改した」跡のある手稿の存在は、劉大紳の証言と矛盾する。だが、劉大紳がどういう証言をしようとも、この場合は、実物から出発しなければならない。推敲を加えた手稿そのものが存在している以上、劉大紳の証言は「老残遊記」前半部分についてのものであり、少なくとも第11回には当てはまらない、と考えるのがよろしい。劉大紳の証言を重視するあまり、証言と矛盾するからといって、現物である手稿を疑問視する過ちを犯してはならない。
 物証と証言が一致していれば、問題はない。しかし、両者が食い違うこのような場合は、なによりも、まず、物証の方に依るのが基本である。言うまでもないことだ。

3.いわゆる「盗用」関係は?「「「文明小史」第59回との比較

 「老残遊記」下書き手稿と「文明小史」第59回を対照する。両者の類似部分は、手稿で1304字、「文明小史」で1268字ある。数字が異なるのは、両者に出入りがあるからだ。
 『繍像小説』へ渡された「老残遊記」の原稿を見ることができる立場にあった南亭亭長(李伯元+欧陽鉅源)10は、第11回の北拳南革批判部分を、自らの「文明小史」に流用した。「盗用」などという重大かつ深刻な問題ではない。ごく軽い、借用、拝借、その程度のものである。これが上の約1300字である。
 異説がある。劉鉄雲の方が「文明小史」を「盗用」したというのだ。11
 異説に有利なように、いろいろな条件を一切考慮せず、両者の関係を、本文に即して考えてみようか。劉鉄雲が「文明小史」から「盗用」したとしてみる。そうすると、現存する手稿は、「文明小史」を引き写したものでなければならないだろう。しかし、異同が多く見られるところから、とても引き写したとは考えられない。さらに、手稿にない「文明小史」の30字が、ここでも問題になる。劉鉄雲がその30字だけを写し忘れたとは考えられないのだ。ひるがえって、「文明小史」の側から見れば、「文明小史」は、『繍像小説』に渡された原稿に基づいているのだから、手稿と字句が異なるのは当然だ。
 結論をいう。現存する手稿6枚は、商務印書館に渡した原稿の下書きである。また、劉鉄雲が「文明小史」を「盗用」したとする説は成立しない。    ィ

【付記】手稿のコピーをお送り下さった劉徳隆氏に、末尾ながら、記してお礼を申し上げます。
【注】
1)劉大紳「関於老残遊記」『文苑』第1輯1939.4.15。のち、『宇宙風乙刊』第20〜24期1940.1〜5。また、魏紹昌編『老残遊記資料』中華書局1962.4。采華書林影印本による。以下『資料』と略す。60、75頁。さらに、劉徳隆・朱禧・劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』四川人民出版社1985.7。
2)問題となる78字の中国語原文と、その日本語訳をあげておく。
  総之這種乱党其在上海日本的容易弁別其在北京及通都大邑的難以弁別但牢牢記住事事託鬼神便是北拳党人力闢無鬼神的便是南革党人若遇此等人敬而遠之以免殺身之禍要緊要緊(要するにこの種の乱党は、上海、日本にいるものは判別しやすいが、北京および大都市にいるものは弁別がむつかしい。だがよくおぼえておきなされ、何事も鬼神に託するのが北拳党人で、鬼神なしと力説するのが南革党人じゃ。もしこれらの者に出会ったら、敬して遠ざけ、身をほろぼす禍を免れるようにな、ご用心、ご用心。)
3)注1に同じ。『資料』95-96頁。
4)郭群一、王少華「読新発現的《老残遊記》手稿三頁」香港『大公報』1980.1.13
5)樽本照雄「『老残遊記』の原稿」『中国文芸研究会会報』第22号1980.2.4。のち樽本『清末小説閑談』法律文化社1983.9.20に収める。
6)樽本照雄「劉徳隆・朱禧・劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』はよろしい」『清末小説から』第3号1986.10.1を参照。
7)魏紹昌「劉鶚及其未刊稿《鉄雲蔵貨》」『芸術館』1985年第1期。
8)劉ゥ孫『鉄雲先生年譜長編』済南斉魯書社1982.8。111頁。
9)注1に同じ。『資料』58頁。
10)樽本照雄「『官場現形記』の真偽問題」『清末小説研究』第6号1982.12.1。  同「李伯元と劉鉄雲の盗用関係2」『「唖彙報』第11号1986.6.25。
11)汪家熔「劉鶚和李伯元誰抄襲誰?」「文学遺産」第660期『光明日報』1984.11.6。同「李伯元と劉鉄雲はどちらがどちらを盗用したのか」『中国文芸研究会会報』第57号1986.1.30。

                          (たるもと てるお)