劉鉄雲辛丑日記を再構成する


               沢 本 香 子 編


                 解 説

 本稿は、現在、行方不明となっている劉鉄雲辛丑(1901)日記を、劉ゥ孫『鉄雲先生年譜長編』(済南・斉魯書社1982.8)によって再構成したものである。


 1935年、劉鉄雲の日記が、わずかだけ雑誌に掲載されたことがある。「劉鉄雲先生日記之一頁」と題する壬寅(1902)七月二十八日のもの、および沈虞希の名前が出てくる日付不記の「劉鉄雲先生日記中之幽黙」がそれだ。林語堂が主編する雑誌『人間世』第24期(1935.3.20)に登載された。これだけを見れば、日記の断片が突然公表されたような印象をどうしても受けてしまう。たしかに日記断片は唐突に公表されたのだが、ここにいたる道筋は推測出来ないこともない。
 人的関係である。林語堂と劉大鈞、また劉鉄孫だ。劉大鈞は、鉄雲の兄の息子である。劉鉄孫は、鉄雲の曾孫にあたる。林語堂は、早くから「老残遊記」の読者であったらしい。ある時、『鉄雲蔵亀』の劉鉄雲は「老残遊記」の著者・劉鶚と同一人物だと気がついた。さらに劉大鈞が鉄雲の親族であることを知った林語堂は、大鈞を訪問して劉鉄雲についてのいろいろな逸事をたずねるばかりか、大鈞にそれらを発表する場を提供する。それが劉大鈞「老残遊記作者劉鉄雲先生軼事」(『論語』第25期1933.9.16)であり「劉鉄雲先生軼事」(『人間世』第4期1934.5.20)である。 これがきっかけとなったのだろう、林語堂は、劉大鈞から「老残遊記」二集を見せられることになる。多くの読者を獲得していた「老残遊記」初集と違い、二集のほうは長らく埋もれたままであった。林語堂は、さっそく『人間世』第6−14期(1934.6.20−10.20)に、小説界の大発見だ、と鳴物入りで連載した。これを雑誌と同じ版元・上海良友図書印刷公司から単行本化するに際し、劉鉄孫に跋をもとめる。1935年2月28日の日付をもつ劉鉄孫の跋には、次のような表現があるのだ。「今、祖父の日記によると光緒二十八年(1902)九月からは、北京で甲骨文字を収集する時期に当る」 劉鉄雲日記の存在を明らかにしたのは、これがおそらくはじめてであろう。
 この流れに上記の劉鉄雲日記断片の『人間世』掲載をおいてみる。劉鉄孫の跋によって日記の存在を知った林語堂が、閲覧ないしそれに近いことを要望したのではあるまいか。『人間世』が日付通りに発行されたと仮定して、鉄孫の跋から日記の雑誌掲載までには、わずか20日しかかかっていない。編者・林語堂の意気込みがわかろうというものだ。ただし、後が続かなかった。いわば気泡がひとつ上がり、日記の存在がおぼろげに示されたにすぎない。
 気泡は、もうひとつあがる。『考古社刊』第5期(1936.12。実際の発行は1937年になってから)に載った「抱残守缺斎日記」だ。ここでは、辛丑(1901)九月日記と称して初一日、十月二十、二十八日、十一月初五日の四日分が公表される。掲載誌の関係なのだろう、いずれも金石文についての記述である。この記事につ
                                  ママママ
けられた劉厚滋(ゥ孫)の説明によると、劉鉄雲の辛丑九月日記は鉄孫が上海からゥ孫のもとに送ってきたものだという。辛丑以来の日記を整理して影印発行したいとも書いてある。劉鉄雲日記には辛丑以来のものがあるらしい、とこれからわかるのだ。しかし、劉ゥ孫が鉄孫から受け取ったのは、辛丑九月分だけだったのか、辛丑の年全部か、あるいは劉鉄雲日記全部だったのか、これだけでは判断できない。(ここで辛丑日記として発表されたものが、実は壬寅<1902>日記であると判明するのは、半世紀後である)
 これ以後、水面に気泡は、上がらなくなる。日記の内容が、部分的にも公にされることはなくなった。
 アワは出ないが、水底にゆらめく日記の影が見えかくれする。劉大紳の「関於老残遊記」(『文苑』第1輯1939.4.15)に、父「「劉大紳の父親が鉄雲「「の日記の一部分が淮安の寓居にあり……とある。ここからも日記は実在するらしい、とわかるのだ。しかし、それを見ることが出来ない。こういう情況が、その後、20年、40年あまりも続こうとは誰が予想しただろう。
 劉鉄雲日記の全貌が、おぼろげにわかってくるのは魏紹昌編『老残遊記資料』(北京中華書局1962.4。采華書林影印)からである。本書の編集には、前出劉ゥ孫とその弟厚沢が参加している。収録された文章に厚沢の詳しい注が施されているのも特徴のひとつだ。
             ママママ
 劉鉄雲日記は、もともと全6冊が保存されていたという。辛丑(1901)全年、壬寅(1902)全年、乙巳(1905)正月から十月までの約三年分は、厚沢の家に保管されており、戊申(1908)正月から三月十五日までの1冊は、淮安の寓居にあったものが鉄孫によって厚沢あて送られてきた(魏紹昌編『老残遊記資料』96頁劉厚沢注14)。
 地名のくいちがいがあるが、以上を総合する。劉鉄雲日記は、元来、劉鉄孫が淮安の寓居に保存していたが、劉ゥ孫のもとに一部が移された。のちにそれらすべてを集め劉厚沢が保管するようになった、ということになろうか。
 日記の保管について、劉厚沢はよほど気を使ったらしい。1961年、厚沢は「老残遊記」第11回手稿、劉鉄雲の印章、鉄雲の父・成忠の捻軍関係史料、太谷学派関係史料など一切を南京博物院へ寄贈している。しかし、その際、劉鉄雲の日記については、それが保存されていることすら一言も漏らさなかったという。その理由について、劉厚沢は兄・劉ゥ孫あての手紙で、祖父・劉鉄雲の盛名を万が一傷つけるようなことがあってはならないから、軽率なことはしなかった、という意味のことを書いている。思うに、劉鉄雲の日記には、李鴻章をはじめとする清末官僚との交際、欧州の資本家、日本の外交官、商人とのつきあいが克明に記録されている。時あたかも「老残遊記」批判の第一矢が放たれ(張畢来「『老残遊記』的反動性和胡適在『老残遊記』評価中所表現的反動政治立場」『人民文学』第64期1955.2)、論争が巻き起こっている時期である。劉鉄雲批判に、親族である自分が、わざわざ油を注ぐこともない、と劉厚沢が判断したとしても、なんら不思議はない。そういう時代だった。
 もうひとつ『老残遊記資料』で目をみはったのが、蒋逸雪「劉鉄雲年譜」である。蒋逸雪が以前作成していた年譜とは比べものにならないくらい詳細になっている。なによりも劉鉄雲日記から多数の引用があるのには驚いた。蒋逸雪は、ついに日記を目にしたか、と思ったものだ。ところが、あとで「「20年後にわかったのだが、蒋逸雪は、劉鉄雲日記の現物は見ていなかったのだ。蒋逸雪が、劉鉄雲年譜改訂にあたってもとづいたのは、劉ゥ孫が用意していた原稿「鉄雲先生年譜長編」であった。
 「文革」以前、劉ゥ孫は、保存されている劉鉄雲日記のすべてを利用して「鉄雲先生年譜長編」の原稿を完成していた。日記が、劉厚沢のところから劉ゥ孫の手元へ移管されたことがこの事実からわかる。劉ゥ孫、劉厚沢、魏紹昌の共同編集で『老残遊記資料』を出版することになり、ゥ孫の「鉄雲先生年譜長編」も収録される予定で原稿が出版社に渡された。ところが、いざ出版されたものを見るとゥ孫の原稿のかわりに蒋逸雪「劉鉄雲年譜」が掲載されている。不思議なことです。後に出版社から、「鉄雲先生年譜長編」は字数が多すぎるので単独刊行したい、と連絡があった。それではと、6度の修改を加えて「鉄雲先生年譜長編」最終稿が成ったところで「文革」が始まる。劉鉄雲日記を個人で保存することは困難だと判断した劉ゥ孫は、南京博物院に寄贈することにした。
 「文革」後、南京博物院も破壊され、その結果、劉鉄雲日記は行方不明。おまけに出版社に渡した年譜長編の原稿も失われ、これで万事は休した……とはならなかった。原稿の初稿が、さいわいにも見つかったのだ。こうして、『鉄雲先生年譜長編』が、最初の原稿完成から数えて17年ぶりに出版される(済南斉魯書社1982.8)。これには、劉鉄雲日記からの豊富な引用がある。日記全体の5、6割が、劉ゥ孫の引用から窺うことが出来る。
 1982年10月17日付上海『文匯報』が「劉鶚の四冊の日記が近く公表される」と報道した。日記の写真を添えている。壬寅(1902)が2冊、乙巳(1905)が1冊、戊申(1908)が1冊の合計4冊。劉鉄雲研究には欠かせぬ資料の発見といえるだ
                    ママママ
ろう。劉ゥ孫が南京博物院に寄贈した日記は3冊で、「文革」を経て、それらは現在にいたるまで行方不明になったままだという。ということは、行方知れずは、辛丑(1901)日記ということになる。
 行方不明の辛丑(1901)分を除いた残りの4冊が、劉徳隆・朱禧・劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』(四川人民出版社1985.7)において初めて全面的に公表された。説明によると、これら4冊の日記は、上海博物院で発見されたという。ここでいくつかの疑問が出てくる。
 1.発見されたのは4冊の日記である。行方不明の日記が3冊とすれば、単純加算をして劉鉄雲日記は合計7冊となる(『劉鶚及老残遊記資料』では、全7冊とする。207頁注1)。しかし、日記は、もともと6冊ではなかったのか。数が合わない。劉ゥ孫の記憶違いか?
 2.4冊の日記が、上海博物院で発見されたというのはどういうことか。劉ゥ孫が寄贈したのは、南京博物院である。日記をふたつに分け、一部を南京へ、残りを上海へ送ったのだろうか?それとも、一括して南京博物院へ送ったものが、なんらかの事情で一部分が上海に移管されたのだろうか?
 細かい部分のいきちがいはある。しかし、辛丑(1901)日記の現物が行方知れず、というのは事実であるらしい。なんとも残念だ。ただ、不幸中の幸いといえるのは、辛丑(1901)日記が、劉ゥ孫の『鉄雲先生年譜長編』の中に引用という形で部分的に生きていることだ。それゆえ、該書は、貴重な資料ともなっている。 劉ゥ孫は「鉄雲先生年譜長編」をまとめるにあたり、関連する記事を日記から抜き出し、ひとつにまとめるという執筆方法を取った。それはそれでうなづけるやり方だが、時間の流れの中に劉鉄雲の行動を見たい場合には、やや不都合である。
 辛丑(1901)日記を資料として、公表されたその他の日記と同じレベルで使用するために、敢えて元の形に再構成する。本稿は、劉鉄雲辛丑(1901)日記の現物が発見され、公表されるまでのいわゆる「つなぎ」である。
 『劉鶚及老残遊記資料』に見える劉鉄雲日記は、かなり詳細だ。これに比べると、劉ゥ孫の引用は、まさに自分が必要と考えた部分のみを集めたことがわかるだろう。劉ゥ孫が切り捨てた箇所にどんな重要な記述が含まれていたのか、今はただ本稿が、「つなぎ」としての役割を早く終えることを望むばかりだ。

  陽暦をアラビア数字で補う。
  日記本文の後ろにつけた数字は、劉ゥ孫『鉄雲先生年譜長編』の頁数を表わ   す。
  注は、調査のおよぶかぎりつけるよう努力したが、多くを劉ゥ孫『鉄雲先生   年譜長編』および劉徳隆・朱禧・劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』に負っ   ている。
  日本人の略歴については、主として以下の書によった。
   東亜同文会編『対支回顧録』下巻 原書房1968.6.20
   対支功労者伝記編纂会『続対支回顧録』下巻 大日本教化図書株式会社
   1941.12.20
   黒竜会『東亜先覚志士記伝』下巻 原書房1966.6.20
                         (さわもと きょうこ)


          劉鉄雲辛丑(光緒二十七、1901)日記         


二月初一日(3.20)
  午後赴錫金会館,東文学社開課也。(58頁)
  ★東文学社「「中島裁之(1869−1939)が、1901年北京で創設した私立学校。中国人を対象に、近代知識と日本語の教授を目的とする。呉汝綸、廉泉(恵卿)の協力と、劉鉄雲の寄付1000元をえて開学され5年半にわたって存続した。二月初一日は開学の当日。劉鉄雲は学校創立の協力者として招かれたものだろう。学校創設までの経緯を中島裁之は次のように書いている。(『東文学社紀要』)「呉師(中島の師・呉汝綸)ハ廉氏ト捐款ヲ各種ノ方面ニ試ミラルヽ事トナリテ尽力甚ダ周到ナリ然ルニ当時々局ニ刺激セラレ維新ヲ唱フル者又学校開辨ノ必要ヲ説ク者等少カラズト雖モ之レガ実行ヲ試ル者ニ至テハ寥々殆ント皆無ト評シテ可ナルベク且守旧派ノ圧迫ヲ怕レテ拱手傍観スル有様ナリシ独リ劉鉄雲氏ハ当時慈善会ヲ開設シ乱後ノ負傷病者ヲ収容医治シ死者埋葬等ノ慈善ニ勉メ種々実行ノ率先者タリシ人ナリシガ呉師及ビ廉氏ノ遊説ニ接シテ東文学社開設ノ為ニ一千弗ヲ捐款スベク承諾セリ之ニヨリテ学社開設ノ実行ハ着手セラレタリ而テ劉鉄雲氏ノ親叔ナリト云ヘル王儀鄭氏ヲ聘シテ学社ノ監督トシ余ハ総教習ノ任ニ推サレ廉氏ハ総理トシテ内外ノ事件ヲ処理スル事ニ当リ呉氏ハ在外援勢者トシテ間接ノ関係ヲ以テスルニ至レリ以上ノ人員任務定マリ廉氏ハ外城前孫公園錫金会館ヲ以テ校舎ニ当ツベク撰定シ一面ニハ直ニ左ノ東文学社開設ノ願書ヲ李中堂及慶親王ニ呈出セリ」
  劉ゥ孫『鉄雲先生年譜長編』に引用された葉昌熾『縁督廬日記鈔』には、王伯谷(弓または恭。引用文中に見える王儀鄭のこと)が江蘇会館を借り東文学社としようとした、とある。やや正確さを欠く。江蘇会館は、2番目の校舎である。開学してすぐ学生が180名にふくれあがった。手狭のため二月初五日、北半截胡同の江蘇会館に移転したのだ。
  【参考】中島裁之『東文学社紀要』1908.1.5
  佐藤三郎「中島裁之の北京東文学社について」『山形大学紀要(人文科学)』第7巻第2号1970.12.25
  さねとう・けいしゅう『中国人 日本留学史』くろしお出版1960.3.15初版未見。1970.10.20再版。89、210頁。


二月初二日(3.21)
  本日刺心之事,層見畳出。一北局米也;二南局票也;三聞西安之頑固也;四淮安索銭信也。晩間因為掩埋局人酬労,置酒焉。(57頁)
  ★一北局米「「米穀の放出、平糶局か
  ★二南局票「「救済金の募集、掩埋局か
  ★三聞西安之頑固「「西安に逃れた西太后、光緒帝らの頑固なこと
  前年の光緒二十六年九月初九日(1900.10.31)、劉鉄雲は、上海から天津に滞在する救済善会・陸樹藩のもとに駆けつけた。義和団事件で北京、天津に発生した難民を救済するためである。同年九月十二日(11.3)、鉄雲は20余名を引き連れて、遺体の埋葬と食料の確保などを主要な活動目的として北京におもむく。沈、とその事に当り、本年正月にはうち捨てられていた大刀王五の遺体を埋葬している。
  劉鉄雲の活動を伝える新聞記事より。(麻三斤坊<西村博>「天津だより」『大阪朝日新聞』明治34年<1901>3月26日)「動乱後上海から慈善会会長と為つて遣つて来て引続き北京に居る慈善会には自ら数万の金を捐したと云ふ事だ今は倉米を原価で売捌く事と貧民に衣類を与へる事と葬式の出来無い者へ棺材を与へる事を仕事として居る北京で不断廉い米が買へるのは全く劉の御蔭だと云つて支那人も喜んで居る」
  【参考】鷹隼(阿英)「庚子聯軍戦役中的老残遊記作者劉鉄雲」『剣腥集』上海風雨書局1939.3。のち、阿英『小説二談』上海古典文学出版社1958.5に収める。


二月初三日(3.22)
  往賢良寺,知捐局第一日開張,往賀之。並査由知府報捐道員銀数。原単録後,保挙不論双単月選用知府今捐道員不論単双月選用正項2,044.8合庫平足銀乙千三百八十両零三銭,免保在外。又部領照費庫平乙百零三両,庫平大公三両六銭。(72−73頁)
  ★賢良寺「「議和全権大臣・李鴻章の寓所。李鴻章をさす
  ★捐局「「官位売り出しの事務をとる機関
  ★庫平「「官庁出納の金銭に用いられたハカリの名
  劉鉄雲は、息子たち「「大章、大黼、大縉、大紳のために官位を買おうとした。そのための下調べ。


二月初四日(3.23)
  孟松喬来,擬開鉱章程。(64頁)
  北京西方の山における炭鉱開発の計画は、孟松喬が発議した。劉鉄雲と沙彪納が準備計画。


二月初七日(3.26)
  早起,知宝宅被盗……午刻沙、威二君来……作一函托威君転致提督。(59頁)  ★沙「「沙彪納、イタリア公使館員、福公司の職員ともいう
  ★威「「威大利、イタリアの商人


二月十一日(3.30)
  午後往匯豊商議借款,了救済会匯信事,不行。(57頁)


二月十二日(3.31)
  飯後即往妙光閣,致祭徐、袁、許三君子也。帰途繞施医院南局両処小坐。(61頁)
  ★徐「「徐用儀(1821−1900)
  ★袁「「袁 昶( ? −1900)
  ★許「「許景澄(1845−1900)
  三名とも、義和団の弾圧と対外和睦を主張したため罪にとわれ処刑された清朝の官僚。


二月十五日(4.3)
  六鐘半,二子二一妾到。(58頁)
  上海から家族の一部を呼びよせる。「二子」が長男・大章、次男・大黼だとすると、「二」は、それぞれ王氏(王星北の娘)、毛氏(毛実君<慶蕃>の娘)である。「一妾」とは、三番目の側室・王氏のことだろう。

二月十六日(4.4)
  午後赴賢良寺,知俄局確係決裂。而大局不知。……禍首単是已送到。(58頁)  五点鐘,青城夫人到。(58頁)
  ★青城夫人「「鄭安香(1871−1952)。前年(1900)の四月初二日、劉鉄雲の継室となる。のち、太谷学派の黄帰群に師事、星命の学に長じ、音律を解し、笛をよくする。

二月十九日(4.7)
  作上海信,為五層楼事也。(54頁)
  ★五層楼「「上海四馬路青蓮閣そばにあった五階建ての市場。劉鉄雲が借りて人に経営させていたもの。

二月二十一日(4.9)
  夜間十二鐘半,甫欲睡,聞西院喊有人,予遂躍出,前後倶起,賊已驚走矣。……義国兵到,告以情形。(59頁)
  接上海救済会信云:前款補解矣。(58頁)


二月二十二日(4.10)
  午後往安民公所致謝後,又往義署告以大略,約明日十一鐘与兵官晤。(59頁)  ★安民公所「「北京城内を分割し管轄区域を定めた各外国軍が、警察事務を敏活にするために設けた中国人の組織。

二月二十三日(4.11)
  八鐘,知義国兵官帯兵四人在米局翻査洋槍。急起,浣嗽畢,歩往義署,威君方起。折至沙君処,復至威処,約沙同来,恐兵之来査余宅也。帰則洋兵已去矣。両点半,至威処,亦無善法。(59頁)

二月二十六日(4.14)
  午後至徐相国処,談両点鐘之久。(60頁)
  ★徐相国「「徐東海、


二月二十七日(4.15)
  午後至粛邸処,前日汪君韶九来約也。人極和藹,此人当道固有益矣。(60頁)  ★粛「「粛親王(善耆)1866−1922


二月二十八日(4.16)
  午後遣人送慶邸寿礼。用‘九如’一座,‘綰綽眉寿 ’一具。……帰知慶邸之礼已収也。(60頁)
  晩作禀稿。(64頁)
  ★慶「「慶親王(奕)1836−1916


二月二十九日(4.17)
  午後往沙彪納処談西山事。申刻,孟松喬来,持鉱石一方,大約是水晶鉱。(64頁)


三月初二日(4.20)
  被徳国兵捉去充当苦力,捧草一把而罷。(59頁)


三月初九日(4.27)
  接羅叔蘊函……云湖北現有唐拓聖教序一本,値五百元,不能減,殊可惜也。(72頁)
  接羅叔蘊函並教育世界序例,甚佳。(73頁)
  ★羅叔蘊「「羅振玉(1866−1940)、浙江上虞の人。字は叔言。号は雪堂、貞松老人。史料の保存、甲骨学の考訂、敦煌写本の整理、漢晋木簡の研究などで著名。光緒三十一年(1905)四月十九日、劉鉄雲の四男・大紳に、羅振玉は長女・孝則を嫁いりさせている。羅の三女は、王国維の長男と結婚。
  ★聖教序「「碑帖。唐の太宗の著
  ★教育世界「「中国最初の教育専門雑誌。光緒二十七年(1901)四月、上海で創刊。発起人が羅振玉、主編は王国維。光緒三十三年十二月まで160期を発行。  【参考】徐万民「教育世界」 『辛亥革命時期期刊介紹』第1集人民出版社1982.7。


三月十三日(5.1)
  午後謁東海。(60頁)


三月十六日(5.4)
  東海着恵君来言:吏部衙署有洋兵往丈量,云即欲拆毀之,不知是義国否?予允其明日往査。(59頁)


三月二十一日(5.9)
  往義府,為恩宅事。……知已函告法使矣。(59頁)


三月二十七日(5.15)
  庚子劫所失之画,以黄大痴山水為最掛懐。前数日有人来云索価三百金,力拒之, 以三十金,隔十数日,居然送来,又一楽也。(83頁)
  ★黄大痴「「黄公望(1269−1354) 元の文人画家


四月初十日(5.27)
  至賈子詠処,知慶邸之批已下,携帰。(64頁)
  西山炭鉱開発計画の件。総理各国事務衙門の賈子詠を通じて慶親王(奕)の批准をとりつけたことがわかる。


四月十一日(5.28)
  午後送批与沙彪納,……孟松喬来,李崇山亦来。(64頁)
  威君来招,両鐘去,至則為覓房事也。(64頁)
  ★李崇山「「北京琉璃廠の骨董店秀文斎主人。
  後者は、福公司移転のこと


四月十四日(5.31)
  本日接哲美寄来姚松雲訃文,嗚呼哀哉,予生平知己,姚松雲第一,馬眉叔第二,周年之間,先後去世,不亦痛哉。(61頁)
  ★姚松雲「「劉鉄雲が山東済南で治河に従事していたころの親友。「老残遊
                   ウウ
記」第3、19回に荘宮保の文書記録係・姚雲松として登場している。名を入れ替えているところに注意。
  ★馬眉叔「「馬建忠(1845−1900)劉鉄雲と同じ丹徒の人。李鴻章に命じられてフランスに留学。帰国後、外交に活躍した。西洋語の文法を中国語法に応用した中国最初の文法書『馬氏文通』(1898 商務印書館1904初版)を著わしたことでも有名。
  【参考】坂野正高『中国近代化と馬建忠』東京大学出版会1985.2.20
  林教奎「馬建忠」 林言椒、苑書義主編『清代人物伝稿』下巻第2巻遼寧人民出版社1985.12


四月十八日?(6.4?)
  照訳各国公使擬賠款表:‘一九〇二年至一九一〇年計九年毎年帰本利十八兆八十二万九千五百両;合一百六十九兆四十六万五千五百両。一九一一年至一九一四年,計四年,毎年帰本利十九兆八十九万九千三百両;合七十九兆五十九万七千二百両。一九一五年帰本利合二十三兆二十八万三千三百両。
一九一六年至一九三一年,計十六年,毎年帰本利二十四兆四十八万三千八百両;合三百九十一兆七十四万零八百両。一九三二年至一九四〇年,計九年,毎年帰本利三十五兆三十五万零一百五十両;合三百十八兆十五万一千三百五十両。総共三十九年,計帰本利九百八十二兆二十三万八千一百五十両。’(75頁)
  原文には「辛丑日記十八日」とあるだけで月が明示されていない。北京列国公使団が、清国に義和団事件賠償総額4億5000万両を要求したのが、三月初一日(4.19)のこと。清国側が受諾するのは、四月十二日(5.29)である。この日記は、とりあえず、要求受諾後の「四月十八日」としておく。


四月十九日(6.5)
  清晨,沙彪納送羅沙第電報来,蓋言其信由本月三号発也。(64頁)
  ★羅沙第「「Luzatti, Angelo 福公司(Pekin Syndicate Limited)の中国駐在代表者


四月二十八日(6.14)
  至南局,知売米五百石,価二両六七銭。(63頁)
  帰,知李簡斎售房可成,然則又将遷居矣。(64頁)


五月十二日(6.27)
  昨日貝拉斯来信,今早検其合同,幸未遺失。(64−65頁)


五月十四日(6.29)
  本日撰《節流》一篇。(72頁)
  ★《節流》「「『天津日日新聞』の社説として書かれた。新聞そのものが残っていないので、該文は読むことができない。『天津日日新聞』は、本年正月十一日(3.1)、西村博が代表、方若(葯雨)の主筆という陣容で天津に創刊。劉鉄雲は、資力をもって援助していた。新聞社の一室が、鉄雲が天津を訪れた際の宿舎に当てられていたという。方葯雨も金石学に詳しく、鉄雲のよき話し相手であった。後年、『繍像小説』で中断する「老残遊記」が、葯雨の勧めで書き継がれ、『天津日日新聞』に掲載されることになるのも、この両者の関係があったからだ。


五月十七日(7.2)
  是日聞序東姪故,殊深通悼。作淮安、上海両信。(71頁)
  高子衡自保定来,述紹周老翁種種与為難,真奇矣。(71頁)
  ★序東「「劉鉄雲の兄・渭卿の長男
  ★高子衡「「字は爾伊。杭州の人。劉鉄雲とともに宝昌公司を経営、浙江の鉱山開発に参加。
  ★紹周老翁「「程恩培(字が紹周)の父・程文炳(字は従周)のこと。長江水師提督。劉鉄雲と浦口三洲地皮公司を経営。


五月十八日(7.3)
         ママママ
  往賢良寺,晤徐揚談許久,復至総布胡同見季皋,知洋兵撤退展限一月為船不便,非有他也。(58−59頁)
  ★徐「「徐次舟。劉鉄雲の友人。総理各国事務衙門に勤務
  ★楊「「楊廉甫、あるいは蓮甫、名は士驤
  ★季皋「「李経方(1855−1934)、李鴻章の息子


五月二十一日(7.6)
  接羅叔蘊信,並《教育世界》第四五冊。(73−74頁)


五月二十二日(7.7)
  午後出城看郭氏,病已深矣,奈何?(79頁)
  ★郭氏「「北京での四番目の側室。城外三眼井に住む。劉鉄雲らが住んでいたのは、王府井大甜水井。


五月二十三日(7.8)
  孟松喬来言木火通明,事皆可辧,然木較有把握云。/孟松喬来,云樹木事不
行矣。(64頁)


五月二十四日(7.9)
  至王筱斎処,商保定炉房事。(71頁)
  ★王筱斎「「義善源銀号の責任者


五月二十五日(7.10)
  本日接羅叔蘊来云北宋拓聖教序已代買,計三百金,嘱即匯去。(72頁)
  居恒読史,毎苦地理不熟,浅学寡味,去年草《唐十道表》,未成而輟。(57頁)
  近因読六朝事跡,姑草《晋十九州表》,成否未可知也。(75頁)


五月三十日(7.15)
  高子谷来,倉事清単携到。(63頁)
  ★高子谷「「総理各国事務衙門に勤務


六月初六日(7.21)
  今日借得六百金二分利。明日送炉房,備捐局上兌也。昨日査来清単,由不論双単月選用知府報捐道員,双月選用正項1,008合庫平足銀七百零五両六銭。部領照費合庫平足銀二十両零八銭九分,共七百三十三両六銭九分。本可不忙,禄蠧促我也。(73頁)
  ★禄蠧「「継室・鄭氏のこと


六月初七日(7.22)
  森井同郡島来拝,約明日六点半赴日本使署,謁見近衛公爵。(73頁)
  ★森井「「森井国雄(1867−1929)号は野鶴。幼時仏門に入り法名を覚巌と称す。1887年朝陽新報の記者となり、中国問題に目を注ぐ。1890年中国に留学、中国語と時事文を専攻する。帰国後、東京敬業社に入り教科書の編纂に従事した。1898年再び中国に渡り、視察。その頃より近衛篤麿の知遇を得る。1900年人民新聞社に入社、義和団事件には同紙の特派として天津に渡航、連合軍の北京占領後、帰国した。翌1901年農商務省の嘱託となり、華北の商工業視察に赴く。天津滞在中、方若と知り合い天津日日新聞社に入社する。1902年中島真雄我北京に順天時報を創刊するのをたすけ、1903年天津総領事伊集院彦吉の推薦により袁世凱の北清官報局に入り、創業に尽力、かたわら北支那毎日新聞を創刊した。
  ★郡島「「郡島忠次郎(1870− ? )1890年荒尾精が開く日清貿易研究所入学のため上海に渡航。同所を卒業後、日清戦争に従軍。1900年東亜同文会理事長根津一に協力し、南京同文書院拡張事業を助けた。翌1901年1月、根津の勧誘により天津有馬組の事業に関係することになる。1903年より高田商会の委任を受け中国軍部に武器の売込を行なってもいる。


六月初八日(7.23)
  十点半,森井、郡島二公至。……同往謁近衛公。儀表極佳,威厳之中,甚為和藹。(73頁)
  作王親家信,為二子功名事。(73頁)
  又作羅親家信,為《教育世界》事。(74頁)
  ★近衛「「近衛篤麿(1863−1904) 公爵。貴族院議員。東亜同文会を組織(1898)、南京同文書院を設立、のち、上海に移転し東亜同文書院と改称。『近衛篤麿日記』第4巻(鹿島研究所出版会1968.10.30)には、「二十三日 水曜日 大雨/一 面会 森井国雄 劉鶚。(後略)」(231頁)と見える。
  ★王親家「「王星北のこと。招商鎮江分局の総弁。娘が劉鉄雲の長男・大章に嫁いでいる。ゆえに鉄雲から見れば、王星北は親戚となる。王星北の兄が王伯恭(儀鄭)で、前出北京東文学社の監督。書道家。
  ★二子「「大章と大黼


六月初九日(7.24)
  昨日飭大黼送銀条至捐局,今日取照回。同盟諸人紹周、子詠、子衡皆先予過道班,予為殿軍矣。(73頁)


六月初十日(7.25)
  知哲美生来,李得亦至。往訪李得,相左。宝廷載之帰沙彪納処,暢談而別。(65頁)
  ★哲美生「「Jamieson 福公司の代理人。別に、同名の総支配人・ 美森(Jamieson, Sir George, 1843−1920)がいるというので、少々ヤヤコシイ。
  ★李得「「亜歴山大・利徳、ロシア人、福公司の技師


六月十一日(7.26)
  至子詠処,問自来水事,已得其詳。(74頁)
  午後往匯豊托呉幼塾匯《教育世界》五百元。蒙其允於礼拝一匯去,如釈重負。(74頁)


六月十二日(7.27)
  哲美生君約四鐘会,暢談一切,沢浦鉄路大有可成之機。……晩清福公司山西帳目,抄致子詠,並作函与之。(65頁)
  哲美生君約四鐘会,暢談一切,……又商議自来水事。(74頁)
  水道は、賈子詠らとの共同事業


六月十四日(7.29)
  下午江伯虞交哲美生条陳来,大意請加関税而裁厘金,総可加至値百抽十二・五云。(65頁)
  ★江伯虞「「また江伯漁とも、英語にくわしく、福公司の通訳、劉鉄雲の親戚


六月十五日(7.30)
  撰自来水説帖。(74頁)
  撰……哲美生条陳帽子。(66頁)


六月十六日(7.31)
  七鐘起,擬謁慶邸也,起即雨,稍遅,雨益大,復睡,午後乃去。因日本有会晤,不見,嘱将所事具禀。(66頁)


六月十七日(8.1)
  早起,飭人送禀帖。(66頁)


六月二十日(8.4)
  葉鶴卿自河南来。(66頁)


六月二十一日(8.5)
  接羅叔耘信,知聖教序業已寄。飭鄭斌冒雨取至,与所蔵南宋本校勘一過,喜不自勝矣。有此両帖,字不能進,何以対天乎。(72頁)


六月二十二日(8.6)
  昨夜草改免厘節略。(66頁)


六月二十三日(8.7)
  午後,送免厘節略至賢良寺,徐次舟嘱並商界図同呈。(66頁)


六月二十五日(8.9)
  午後至賢良寺,将哲条陳交徐髯代呈。(66頁)


六月二十六日(8.10)
  陰。申刻至粛邸,呈哲条陳。談甚久。(66頁)


六月二十七日(8.11)
  本日為黼児生日,ャ朱均来賀。(12−13頁)
  ★黼児「「次男・大黼。光緒七年(1881)生まれ。形の上では次男だが、実際は劉鉄雲の長男。1932年死。


七月初一日(8.14)
  未刻,至哲君処,偕往見粛邸。(66頁)


七月初二日(8.15)
  午後賈子詠来云:慶邸意見哲君,不必粛邸同去也。四点鐘,粛邸猝至,亦自慶邸処来,説与賈同。(66頁)


七月初三日(8.16)
  午前至哲美生処,談謁慶事。(66頁)


七月初六日(8.18)
  晩飯後至胡芸処談哲事,慫慂其幇忙也。(66頁)
  (与善耆往還「「劉ゥ孫 60頁)


七月十一日(8.24)
  哲美生君来辞行,明日動身矣。(66頁)
  午後至賢良寺,知和議電旨尚未到,礼親王出軍機。(75頁)
  ★礼親王「「礼親王(世鐸)


七月十二日(8.25)
  辰刻,往送哲君。(66頁)
  発准簽字電旨致方。(75頁)
  ★方「「方葯雨


七月十四日(8.27)
  陳少湍来商隴漢鉄路事。(76頁)


七月十五日(8.28)
  午刻,中島来談東文学堂事,並論村井擬開紙煙公司事,約余与村井合夥。(79頁)
  陳少湍来談白雲観張雲卿可通内線事。(76頁)
  ★中島「「中島裁之
  ★東文学堂は、東文学社の誤記
  ★白雲観「「道教の根本道場


七月十六日(8.29)
  帰知陳少湍来約往白雲観訪張開士。(76頁)


七月十七日(8.30)
  午初往白雲観,与張雲卿談黄庭内景経,並告以道徳五千之説。(76頁)
  郭氏病愈重,決計搬入城矣。(79頁)
  煙柳絲絲覆院門,凄凄切切近黄昏,城中城外人倶病,愁雨愁風客断魂。
  百薬不霊無上策,両花交萎怕中元,柔腸一寸重重結,半向人言半不言。(79頁)

七月十九日(9.1)
  早起,接沙彪納字云:‘羅沙第有信来,約四点鐘会’。……四鐘至沙処,羅信甚略,云詳文在下一班也。(66頁)


七月二十日(9.2)
  午後訪季皋,為羅君欲謀接待醇邸事。至則知此次因徳皇勒令参賛以下行三跪九拝礼,故帰途決無耽擱也。(66頁)
  ★醇「「醇親王(載 )1883−1951 対独謝罪使節の首席特使としてベルリンにおもむく。帰途の接待を福公司のルザッチがすることになり、劉鉄雲が代わりにその相談に出向いた。


七月二十四日(9.6)
  已刻晴,赴火車站,午刻登車,十二点二十分開車,四点半到天津。(79頁)
  赤十字での表彰式に出席するため、天津へ。北京での難民救済活動に対してのものだろう。


七月二十六日(9.8)
  一点鐘赴領事館行赤十字授章之典,宣白後,同拍一照。回寓,過武斎買信封五百,綢布両打。(57頁)


七月二十八日(9.10)
  晨起,登車回京。(79頁)


八月初四日(9.16)
  三点二刻,到三眼井,知郭氏已於三点鐘死矣,嗚呼哀哉。(79頁)


八月初五日(9.17)
  往三眼井 郭氏,哭之。……申刻王姨太太来哭之。申刻検点衣箱後,即回大甜水井。(79頁)
  ★王姨太太「「三番目の側室


八月十一日(9.23)
  本日接季皋信,知英使已向合肥言沢浦路事。相国允代向慶邸説項。(66頁)
  (陳少湍来「「劉ゥ孫 76頁)
  ★合肥「「李鴻章をさす。鴻章は、安徽省合肥の人。


八月二十日(10.2)
  孟松喬来,催大縉、大神捐官事。(73頁)


八月二十四日(10.6)
  帰寓躊躇捐指分事。細思,捐亦窘,不捐亦窘,竟捐之矣。(73頁)


八月二十六日(10.8)
  午後往外部拝李仲平,遇之。籌画改路事。李為鹿之門生,力言鹿処可不生阻力。(66−67頁)
  ★外部「「総理各国事務衙門は、六月初九日(7.24)外務部に改められ、六部の上に置かれる。
  ★鹿「「鹿伝霖(1836−1910) 西太后、光緒帝が西安に逃れるのを助けて両広総督を授けられ、軍機大臣に昇任、1901年、督弁政務大臣を兼務。


八月二十九日(10.11)
  下午沙彪納来云:哲美森已至,約明日往会之。(67頁)


九月初一日(10.12)
  往賢良寺知合肥署外部之信確。……至総布胡同,為哲君請見合肥之期,季皋允明日給信。(67頁)


九月初二日(10.13)
  遇哲君於玉河橋云:已接余信,知合肥約明日見。(67頁)


九月初三日(10.14)
  帰値哲君在寓,為来商派柯瑞往河南事,問伯肯作翻訳否?答容商。(67頁)
  ★柯瑞「「福公司の高級職員、鉄道技師
  ★伯「「常伯、英語に通じる、劉鉄雲の弟子


九月初四日(10.15)
  早起往哲君処,告伯已允同去,並告宜請徐桐春伴往,哲亦允諾。午後往総布胡同,因季子之招也。晤告哲托四事:一改路,二電詢呉楚生,三告晋豫明年開工,四為山東招遠金鉱。云 晋豫電倶発,改路亦面允。哲君接公司電云,催羅寄股票。(67頁)


九月初五日(10.16)
  早起造哲君,告 電已発。……回寓接子詠信云 :‘本日見慶邸,慨允無疑難。’知鉄君之信已到矣。晩飯後往哲寓,因下午哲来未遇也。知為抄合同第十七条事。(67頁)


九月初六日(10.17)
  賈子詠来候同赴哲招。……飯後回寓換服拝徐進斎及大興県。順往訪次舟,遇於廟前,渠已知為桐春事。……晩訪哲,為作函請徐事。(68頁)


九月初七日(10.18)
  文子和来招談云:‘鉄君来云邸已允諾矣。’徐桐春来,午後往賢良寺訪徐(不知指徐次舟抑徐進斎「「劉ゥ孫)不遇。至総布胡同,知李君招遠金鉱禀帖已到。(68頁)
  

九月初八日(10.19)
  午刻沙彪納来約勿出。未刻沙至,述羅沙第信,並其擬立新公司大概情形。又述股票所以不至,因各処票未斉,至発信之前一日方斉。約須再遅一月方寄,大約到在十一月間矣。晩見季公,告以羅信,並為沙彪納約礼拝一見。因知徐進斎放鉄路督辧。(68頁)
  (陳少湍来「「劉ゥ孫 76頁)


九月初九日(10.20)
  巳刻往送哲美森,至則行矣。午刻沙君来云:‘味爾生有電来,候電須往天津聴断失物。’(68頁)


九月十三日(10.24)
      ママママ
  晩間丁問搓来,告渠薪水加至百金,張宝廷加至五十金,並告邵依克来。(68頁)
  ★丁問槎「「名は士源(1879− ? ) 浙江呉興の人。英国ニュー・リンカン大学に留学、劉鉄雲の紹介で粛親王の秘書となる。福公司にも勤務?劉鉄雲の弟子。崇文門商税総稽査に就任、憲政籌備処会辧などに任じる。息子に方若(葯雨)の娘をめとる。
  ★張宝廷「「福公司に勤務
  ★邵依克「「上海嘉瑞洋行の職員

九月十四日(10.25)
  柯瑞自天津来,往晤談良久,斟酌到懐慶禀報開工日期,並嘱撰稿,允之。(68頁)


九月二十三日(11.3)
  五鐘起,赴車站……七鐘半開行,十二点到津。(80頁)


九月二十七日(11.7)
  接北京電,中堂於十一点三刻薨。(80頁)
  李鴻章、全権大臣在任のまま死去。


九月二十八日(11.8)
  七鐘上火車,九鐘半開,……三鐘半到京。知全権為コ帥,北洋為袁慰亭。 (80頁)
  ★コ帥「「王文韶(1829−1908)1901年国史館総裁、外務部会弁大臣、文淵閣大学士となり、義和団辛丑和約の締結に尽力。
  ★袁慰亭「「袁世凱(1859−1916)慰亭は字。李鴻章のあとをうけて直隷総督、北洋大臣となる。


九月二十九日(11.9)
  晴,晨起,往総布胡同弔焉。知已見上諭。謚文忠,晋太傅,封侯。(80頁)


十月初一日(11.11)
  早赴沙彪納之約。値子谷於崇文門内,立談,大概仁和深以某説為然也。(68頁)
  ★仁和「「王文韶

十月初二日(11.12)
  五鐘謁仁和,見暢談,午刻帰。(68頁)


十月初八日(11.18)
  午前至福公司晤哲君,暢談。(68頁)


十月初九日(11.19)
  三点鐘往喜鵲胡同,仁和頭暈不見客。将地図交鈞叔代呈。(68頁)
  ★鈞叔「「王鈞叔。王文韶の弟子


十月初十日(11.20)
  午後往粛王府謁見,談至暮。……今日将電底索回,明日送往。因随意翻閲摘抄於下:‘収蔵大臣電(正月十八日)銑電謹悉,羅沙第在滬,尚未来議。彼已派人前往勘度。遵俟該処人到与商大概,再請鈞示。宜懐謹粛,霰。’又張香涛阻撓鉄路一大長電,」紙録。(68頁)
  ★張香涛「「張之洞(1837−1909)政治家。当時、湖広総督。芦漢鉄道敷設を推進するなど富強政策をとる。


十月十一日(11.21)
  午前往公司晤李仲平、那子言二公,又告子詠明日勿謁邸。(69頁)


十月十三日(11.23)
  午前同哲君往謁仁和,辞以疾,並嘱予次日来。(69頁)


十月十四日(11.24)
  午前往謁仁和。見後告哲君以其来意。(69頁)
十月十七日(11.27)
  午後接子詠信,知慶邸変卦之説,有以処之也。(69頁)
  撰銀行芻議一篇。(76頁)


十月十八日(11.28)
  伯虞自公司来,云股票已至。(69頁)


十月十九日(11.29)
  下午送銀行節略与陳少湍。(76頁)


十月二十日(11.30)
  早起,赴哲美森処看股票。(69頁)


十月二十一日(12.1)
  往仁和処祝寿,吃面,与鈞叔暢談。(69頁)


十月二十六日(12.6)
  昨日内田夫人云:今日来也。至四鐘方到。服西人服飾,長身細腰,頗不類東人。在書庁坐一鐘許,到上房,並遍遊各房。容貌荘麗,挙止大方。聞其母家姓土倉,産多山林,東人謂之山林王。以如此富家,自小入学,未笄已為大学堂卒業生。到中国甫下車即延師教華語。其好学不厭,極為可佩耶!吾輩愧死。(84頁)
  ★内田「「内田康哉(1865−1936)外交官、政治家。1901年北京駐箚特命全権公使


十月二十七日(12.7)
  至公司新居一観。(64頁)
  福公司の移転先を訪問


十一月初二日(12.12)
  午前,延請閣送澄清堂帖一本来售。展巻墨光如玉,奇之。議価定,白金十笏。帰査《庚子銷夏録》,即孫退谷所蔵之一本也,不禁狂喜。(80頁)
        ママママ              ウ
  ★《庚子銷夏録》「「清・孫承沢撰『庚子銷夏記』のこと。書画の真跡、石刻について論じる。


十一月初四日(12.14)
  (陳少湍来「「劉ゥ孫 76頁)


十一月十一日(12.21)
  陳少湍来,明日動身。(76頁)


十一月二十八日(1902.1.7)
  九鐘往迎鑾。得詩四首。其一曰:‘也随郷老去迎鑾,千里花袍一壮観。風雪不侵清世界,臣民重睹漢衣冠。玉珂 金輪過,歩障東西輦道寛。瞻仰聖天竜鳳表,吾君無恙万民歓。’(81−82頁)
  西太后、光緒帝、西安より北京へ帰ってくる。


十二月初十日(1.19)
  録公司清款単,擬明日交哲美森君也。(69頁)


十二月十二日(1.21)
  嘱伯虞将公司清単送与哲君閲,午後往沙彪納処。(69頁)

十二月十九日(1.28)
  入城謁河南松中丞。到法華寺,云在瓦礫胡同。尋至云尚未搬回。大約明後日可搬也。(69頁)
  ★松中丞「「松寿( ? −1911) 満州正白旗人。字は鶴齢。河南巡撫。辛亥革命の時、革命軍に抵抗して自死。「中丞」とは、巡撫のこと。


十二月二十一日(1.30)
  午前至哲君処,午後拝松中丞,又不克見,帰已薄暮矣。(69頁)


十二月二十二日(1.31)
  午前,往謁松中丞,見之暢談。兼至哲君処告其詳。(69頁)


十二月二十四日(2.2)
  昨晩接大哥来信,知五層楼已倒出,得洋三千七百元,已大費周折矣。(54頁)

十二月二十五日(2.3)
  早起至哲君処問照会辞意。取其詳文回,訳出。午後至喜鵲胡同。在鈞叔書房坐,得見稚コ。五鐘仁和云:“改路事,勢在必辧,断無他説。即盛杏サ来電亦称勢在不得不允。須査問比国工程師,与芦漢是否有碍?儻有碍,応如何変通辧理之処,可以彼此通融。”云云。(69頁)
  ★稚コ「「王文韶の息子。
  ★盛杏サ「「盛宣懐(1844−1916)江蘇省武進の人。官僚資本家。1897年中国通商銀行を上海に設立、鉄道敷設のため外国借款につとめる。


十二月二十六日(2.4)
  午前,至哲君処,告知其説。(69頁)


十二月二十七日(2.5)
  往奥国府拝工程師,邵依克之函也。談大概,其人言甚易,不知能勝任否?(69頁)


  【付録】差し出されなかった手紙1通。辛丑日記にはさまれていたという。劉〓孫は、七月に書かれたものではないかと推測する。しかし、冒頭の「前日(二十七日)」が正しいとすれば、この手紙は七月に書かれたものではない。なぜならば、二十七日に劉鉄雲は賈子詠とともに慶親王に面会していることが文面からうかがえる。ところが、七月二十四日から二十八日まで、劉鉄雲は天津に滞在しているのだ。故に、ここでは、月日不明のものとして掲げておく。

  前日(二十七日)与賈子詠同見慶邸,已蒙面允,照去年所説: 将沢襄鉄路改為沢浦,准其載人載貨。当見時原経手之楊君約昨日晤,仍有話説,故前日未曾発電。昨日楊君云,此事例得有費用,邸中辧事人不能白効労。如無此説,雖面允亦当批駁云云(此款非楊君得,当可意会,楊君但得零頭耳。)故今日一面電白,一面函詳也。蓋前数日本先由楊君与邸説通,我輩方往謁見也。請与哲君説明,応如何辧法,允費若干,当密電沙彪納君立拠簽字与楊君説明,先由仲等立拠,俟批到手再交西字筆拠。似此辧法,較為妥当。即請籌安。再楊君索三十草。仲告以断做不到,渠尚未松口。