『 游 戯 報 』抄


                           麗  澤  生


     小 引

 『游戯報』が、大江敬香の主宰する『花香月影』と交換を行っていたことは、余り知られぬことの様である。交換の仲介に当ったのは永井禾原で、従って永井禾原と李伯元について語る時は、『花香月影』は必らず繰ってみなければならな
                              ししみみののたたわわごごとと
い雑誌となる。実は、頃日、本誌に寄せる積りで起稿した蕪稿「蠹魚囈語(その一)「「李伯元逸事三則「「」でそのことに触れ、一部を引用して置いた。その為、件の稿は徒らに長文となり、晦渋な漢字も多く、樽本君に迷惑が及びそうである。因て、更めて若干の解説を加え、資料をその侭に翻刻することにした。これならば、編輯の都合で、何処で打切られても差支えないし連載されるのもよい。私には興味のない資料でも、研究者によって様々に利用され得るであろう。
 大江敬香(安政四年十二月二十四日〜大正五年十月二十六日、一八五七〜一九一六)、名は孝之、字は子琴、別に楓山・愛琴閣主人と号した。阿波徳島の人である。初め藩校に学び、ついで英学を修め神童と称せられた。由来、徳島は神戸に近く、英学の盛んな土地で、明治の初期にヴェルヌ物の翻訳で活躍した井上勤(関西大学名誉教授で、英文学の泰斗とされる堀正人氏の叔父に当る)なども、徳島の産である。明治二年(一八六九)、十三歳の折、藩から選ばれて英国留学を命ぜられたが、病弱の故を以て辞し、六年(一八七三)上京して慶応義塾に学び、翌七年共立学校の幹事となった。未だ十八歳の少年に過ぎないから、極めて早熟であったと言って差支えない。この頃から、福沢諭吉や中村敬宇に私淑して影響を受け、東京大学に入って理財学を専攻したが、多病で成業せず、十年(一八七七)遠州掛川の私塾冀北学舎の教師となった。詩を志したのはこの頃からで、独学しつつ菊池三渓・森春涛の添削を乞うた。十一年(一八七八)転じて『静岡新聞』の主筆となり、『山陽新報』・『神戸新報』主筆と移った。十五年(一八八二)仕官を志して上京、参事院に入り、ついで東京府庁に移り、府立高等女学校に教鞭を執った。
 これより前、神戸に在った頃、彼は「修芸社」を起して、青少年に漢学の普及を試みたことがあったが、この頃それを「愛琴吟社」に改組した。この吟社は、十七年(一八八四)十二月、敬香が成島柳北病歿の後を承けて、『朝野新聞』漢詩欄の編輯を主管するに及んで隆盛を極め、松村琴荘・福井学圃・大久保湘南・佐藤六石・落合東郭・谷楓橋・森川竹 など若手の詩人が出入し、敬香の地盤も漸く固まった。かくて彼は、漢詩人として立つ決心を固め、二十四年(一八九〇)『学海』を創刊、二十六年(一八九二)三月『精美』と改称、専ら漢学の普及と年少詩人の育成に尽した。かくて、明治三十一年(一八九八)一月「花月社」を興し、同二十五日『花香月影』を創刊した。
 『花香月影』は、成島柳北の『花月新誌』に倣って編輯された小型袖珍版の雑誌で、江戸川紙を用い、二つ折にして大和綴の仕立て、毎冊十七丁内外で、本文には旧五号活字を用い、表紙の題簽は日下部鳴鶴が書いた。初め半月刊であったが、後に月刊となり、第六十六号(明治三十四年八月二十五日刊)を以て廃刊となった。その第一号には、三島中洲・信夫恕軒が序を書き、土屋鳳洲・永坂石 ・森槐南らが題詞を寄せているが、実際の顧問は田辺蓮舟で、編輯には敬香自らが当った。寄稿者には、木村芥舟・小野湖山・岡本黄石・杉浦梅潭・矢土錦山・菊池三渓・依田学海といった幕末の遺老、杉聴雨・芳川越山・末松青萍・土屋鳳洲など明治の顕官、詩人としては森槐南・永坂石 はじめ本田種竹・籾山衣洲・松村琴荘・土居香国・岡崎春石・上夢香など中堅から新進気鋭の人々。これらの漢詩・漢文が主体だが、紙面の三分の一ほどは、和歌や和文に充て近衛忠煕・東久世通禧・久我建通などの堂上歌人、高崎正風・小出粲などの御歌所寄人、諏訪忠元・松浦詮など旧大名、本居豊頴・小杉榲村・木村正辞などの国学者から、蜂須賀随子・税所篤子・鶴久子といった女流歌人の寄稿を載せている。
 以上、少しく饒舌の筆を弄したのは、『花香月影』など繙く人は、明治文学研究の専家でも極めて稀れであるし、市場にも滅多に出ない雑誌であること。にも不拘、その執筆者はかく多方面にわたって居り、反対から言えば、ここに抄出された『游戯報』の文章を、これら各層にわたる人々が読んでいたことを物語るからである。換言すれば、金港堂主・原亮三郎が『繍像小説』の編輯を李伯元に委嘱した時分には、游戯主人李伯元の名は、日本の女流歌人(勿論、素人の文芸愛好家の域を出ない)にまでも知られていた事実を指摘して置きたいからに他ならない。

 交換の経緯については、敬香の次の文に詳しい。

 かくて、「游戯報抄」が『花香月影』に登載されること八次、勿論、量的には極めて微々たるものに過ぎないが、『游戯報』「「若し保存され、戦災を免れているならば、三部は日本にも存するであろう「「を直接披見するを得ない我々には、有難い資料を提供して呉れることになる。
 勿論、『游戯報』から抄出されたものは、これに限らない。この時分の永井禾原の中国で詠まれた詩などは、『游戯報』から抜かれているものがかなりあり、初稿の姿を窺うには、『花香月影』に拠らねばならぬ。それらについては、上記の蕪稿に触れて置いた。
 敬香は又、明治四十一年(一九〇八)三月二十日、タブロイド型新聞形式の『風雅報』(月刊)を創刊する。「明治詩壇評論」や「明治文壇評論」などは、本紙を飾った読み物であった。新聞形式という着想は、明らかに李伯元の故知に倣うもの、その体裁も、一脈『游戯報』に通うものがある。
 敬香を援けて『風雅報』の編輯に当り、編輯兼発行人となったのは、古香安藤栄之助であるが、彼は大正七年一月『花香月影』を復刊した。これは藁半紙を二つ折にした謄写版刷りの漢詩雑誌で、百号近くまで出た。清末文学研究の開拓者風陵澤田君瑞穂が古香翁の許に出入したのは、昭和八・九年の頃からのこと、彼がまだ国学院に学んでいた時分であったが、その時には、これも廃刊になっていただろう。麗澤生は、古香翁の令息菊二氏と親しかったから、その頃の風陵君を知っているが、挨拶はせなんだ。もう半世紀も以前のことだ。閑話無用。「「
    *   *   *

                (第十一号。明治三十一年六月二十五日刊)

 署名はないが、李伯元の筆に成るものであろう。文中の甬東独臂翁は未詳だが、毘陵悔遅生は董康(綬経)、日本酒国淮陰侯は放浪牧巻次郎、長門剣侠は立庵山根虎之助、惜香生は富卿小田切万寿之助である。雅集があったのは、明治三十一年五月二十一日(光緒二十四年四月二日)と攷定される。この日から一月ほど遅れた六月二十五日(旧五月七日)に、山根立庵が『亜東時報』を創刊していること、彼が上海に赴いたのはこの年の早春のことで、李伯元と面識はあったにしても、その関係はさほど深くはないと見られることから推すと、演出者は小田切(上海総領事)で、禾原の帰滬を捉えて立庵・放浪と李伯元との顔つなぎを図るべく、董康あたりを語らって酒令を発したものと考えられる。酒席に侍る「小さな薛涛」達のうち、金小宝と林黛玉とは「四大金剛」に挙げられ、花麗娟と林絳雪とは、この四月八日『游戯報』が行った「司花」で、梅花と牡丹に擬せられた妓女であるから、すこぶる豪華なもの、と言える。
 尚、この席で、禾原が李伯元に贈った詩は、「与董綬経康・李伯元宝嘉・小田切富卿・山根立庵彪・牧放浪巻次郎飲天香閣、席上賦贈伯元」と題して、『来青閣集』巻二に収める七律の初稿である。これを紹介された入谷仙介氏が、結句「酒辺無夢到金台」の「金台は天帝の居処、結句の寓意がやや不明瞭だが云々」(「永井禾原と李伯元」、『清末小説研究』五)とされた個所も、初稿は「雲台」
                          ウウウウウウウ
であったこと、立庵が半畳を入れて、「児女風雲多少恨。休論金屋与金台」とやり、この夜の最大の傑作とされたことからして、その場の空気がどの様なものであったか想像がつく。禾原の原韻に和した李伯元や董康の詩(ともに佚詩)が見られるのも有難い。
 「贈 」は、民間外交の上で、李伯元の果す役割の大きいことを、日本の政治家も認識していたことを示す。日清両国の友好について、李伯元がどの様に考えていたか、「按ずるに」以下の文が語っている。


     〇

                  (第十二号。明治三十一年七月十日刊)

 「折柳」の徐雲標は、箕浦奎吾に托されて紀念の風呂敷を李伯元に届けた崑曲の名伶である(前掲「贈 」参照)。『紫釵記』の「折柳陽関」の一齣は、箕浦氏一行も観たものと想われる。
 「評花」・「林黛玉釵頭一捧雪」では、「四大金剛」の中で、李伯元が最も推
                       ウウウウ
したのは林黛玉であったことがわかる。その衣裳やかんざしが、妓女間で流行のファッションとなったというのだから、さしずめ今日の人気女優並みというところなのだろう。『庚子蘂宮花選』を紹介された樽本君の喜びそうな材料である。林黛玉は、永井禾原にも印象に残った妓女だった。『来青閣集』巻二の「聞有某校書捐建群花義塚之挙、書此以贈」七絶二首の某校書は林黛玉以下の「四大金剛」を指すもので、詩は李伯元編『玉鉤集』(未見)に収められるものであろう。義和団事件の折、「彼女は天津で横死した」という噂さがたち、李伯元は惜秋生(欧陽鉅源)と病紅山人(・樹柏)に委嘱して『玉鉤痕伝奇』十齣を作らせる。噂さは日本にも伝えられて、禾原は「瀟湘(悼林黛玉作)」七絶四首(『来青閣集』巻三)を作って、その死を弔う。ところが、この噂さは全くの訛伝で、上海に戻った彼女は、再び「雨瓊仙館」という妝楼を構え、容色未だ衰えず、門前に車馬市を成す有様であったことを、明治三十四年(一九〇一)大陸に旅した禾原は知り、小飲を試みる。「雨瓊仙館小飲席上、贈林黛玉詞史」(巻四)は、その折の作だが、案内に立ったのは勿論李伯元であったに違いない。

     〇

                  (第十四号。明治三十一年八月十日刊)

 倉山旧主とは袁祖志(翔甫)、銭塘の人などと説くよりは、袁随園の文孫といった方が親しみ易い。明治三十年(一八九七)、日本郵船会社上海支店長として、初めて上海を訪れた永井禾原が、先ず訪れた文人と言えば、袁翔甫であった。
  楊柳楼台訪袁翔甫(祖志)大令。大令為随園文孫。
海上相逢情已殷。騒壇旗鼓久推君。
夕陽楊柳楼台好。細熱炉香共話文。
と、禾原はその喜びを詩に托す(『来青閣集』巻二)。「花月会」の席上、その話は一同に披露されたことであろう。幕末時、大沼枕山あたりがしきりに袁随園を鼓吹し、それが明治初頭に於ける清詩流行の先駆となっているのだから、禾原の話は大いに人々を羨望させたことであろう。「酒話」の一篇は、そうした文人の知られざる一面を綴るもの、「酒は静かに飲むべかりける」か。「遵遺嘱」は、何処にもある話だが、中国に於ける『茶花女』の流行や「惜死」の問題を考える上で、私の興味を惹く。

     〇

                (第十五号。明治三十一年八月二十五日刊)

 悦庵と号する者は、当代に数人あるが、この悦庵主人は、張泰谷の『筆名引得』に、沈敬学、字は習之とするのに従うべきか。『南亭四話』(未見)巻一に、「贈沈悦庵詩」がある(『李伯元研究資料』三六三頁)。幸楼主人は未詳。『柔郷韻史』も未見。


     〇

                  (第十六号。明治三十一年九月十日刊)

 ずい分、皮肉な意見だが、その道に通じた人の筆に成るものであろう。
 以下、六・七・八次の「抄」と合せて、注を加えるのを「野暮」という。

     〇

                  (第十八号。明治三十一年十月十日刊)
     〇

                 (第二十四号。明治三十二年一月十日刊)

     〇

                 (第二十八号。明治三十二年三月十日刊)
     〇
 明治三十三年(一九〇〇)三月、三年にわたる上海での生活を切りあげて帰国する永井禾原を送別する宴が、天香閣で催された。席上、禾原は七律四首を示して、留別の辞に代えた(『来青閣集』巻三)。これに唱和する「南社」の同人三十七人の詩百五十六首を彙輯し、序を附して『淞水驪謌』と名付けて贈ったのが、李伯元である。遅れて、姚文藻から届けられた姚文藻・文廷華・汪康年・狄葆賢・洪述祖・沈士孫ら七人の詩二十三首を別集として、同年八月禾原は「来青閣」から上梓する。禾原と李伯元の友情は極めて深いが、『游戯報』と『花香月影』の交換も、その一端を示す佳話と言ってよい。李伯元の「淞水驪謌序」は、収めて『来青閣集』(序巻)にあるが、これ亦『李伯元研究資料』には収めないから、佚文とすべきか。

                        (なかむら ただゆき)


(編者注:本文を変則的に縦組にしましたのは、引用文と調和させるためです)