編 集 ノ ー ト


★いま、清末小説研究の分野で、大きな問題がもちあがっている。あの『繍像小説』が、従来いわれていた光緒三十二年(1906)三月よりもずっとおくれて停刊していたというのだ。単なる、雑誌の発行遅延に見えるかも知れない。ところが、これに李伯元の死去がからむことに気がつくと、その問題の重要性がわかる。つまり、李伯元の死後も、『繍像小説』が出ていたことになれば、彼の作品とされていた「文明小史」は、後半が他人の作となるのだ。作品の確定は、研究の基礎である。他人の作品かもしれぬ「文明小史」をもとに李伯元論を展開したこれまでのすべての論文は、その根拠をゆすぶられているといえる。張純氏によって口火を切られ(『晩清小説研究通信』1985.4.17)、私も油を注いだ(「『繍像小説』の刊行時期」『中国文芸研究会会報』第55号1985.9.30)。火の手のあがりようが、小さく、遠方であったためか、あるいは、従来の研究を根底からくつがえすほどに、問題があまりに深刻であるためか、中国の研究者も口をつぐんだままである。しかし、張純氏の詳論「関於《繍像小説》半月刊的終刊時間」(『徐州師範学院学報(哲学社会科学版)』1986年第2期総46期)が発表されたからには、もう沈黙は許されなくなった。今後の動向を注目している★本号に劉鉄雲に関する論稿が集まったのには、理由がある。新資料が出てくるからだ。劉徳隆・朱禧・劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』(四川人民出版社1985.7)は、その代表である。巻頭にあげた劉鉄雲の「老残遊記」手稿は、同資料にも写真が掲載されるが、「文明小史」の関連部分との対照は、本号が最初である。張純氏の紹介する「竜川夫子年譜」もめずらしい。麗澤生(中村忠行)氏の論稿は、氏ならではのものだ。日本での探求の余地が残されている、と強く感じる。時萌氏の「李伯元年譜」は、既出の材料を全部使ったはじめての李伯元年譜だ。中国第一線研究者の論文は、中国研究界の水準を示している、と私は受けとっている