劉 鉄 雲 と 日 本 人


               樽 本 照 雄


 劉鉄雲の交遊範囲に日本人が登場するのは、文献の上で見るかぎり、1900年庚子の年が最初である。その顔ぶれは、西村天囚、牧放浪、小田切万寿之助であった。

         1.西村天囚、牧放浪、小田切万寿之助

 西村天囚(1865−1924)、本名は時彦、別号は碩園。天囚は筆名である。鹿児島県出身。新聞記者、小説家、漢学者。東京大学古典講習科漢学科を中途退学。『さゝ浪新聞』、『大阪公論』記者をへて、1890年『大阪朝日新聞』記者となる。1893年、ウラジオストック特派員。1897年末、親善使節として渡清、張之洞と会見。上海で李伯元と知りあう。1900年、再び渡清、南京で中国事情を研究中、北京で義和団事件が発生、西村は上海に移り、当時、朝日の特派員であった牧放浪と同居することになった。1
 牧放浪(1868−1915)、本名は巻次郎。岡山県出身。新聞記者。東京専門学校に学んだが、病を得て帰郷。のち、上海に渡り『東亜時報』記者となり、さらに『大阪朝日新聞』上海特派員に転じている。2
 小田切万寿之助(1868−1934)、東京外国語学校で中国語を学ぶ。外務省留学生として天津、北京で修学、外務省書記生に任じられサンフランシスコ、ニューヨークなどに在勤後、1896年杭州領事、1897年上海総領事代理となる。西村天囚とは旧知のあいだがらであった。1897年、西村が上海に到着したその晩に訪問したのが、小田切である。小田切は、当時、新進気鋭の外交官として少なからぬ活動をしている。戊戌政変で上海に逃れてきた江標、文廷式らを陰に陽に援助したのは小田切であったという。3
 さて、以前から外国企業である福公司で働いていた劉鉄雲は、外国と通じていると保守派の剛毅から弾劾を受けることになった。これにくわえて、1900年5月頃から山東での義和団運動が激しさを増したのを見て、劉鉄雲の一家は、北京をあとにし、しばらく上海に留まることにした。上海では、五層楼商場を経営したりするが、これは失敗におわる。4
 八国連合軍が北京を攻撃し、8月15日、西太后は光緒帝とともに北京を脱出、西方へ逃亡してしまった。8月30日、山西大同府、9月10日、山西太原、10月26日に西安まで行き着くのだ。
 西太后北京脱出という知らせが上海に伝えられた後である。上海滞在中の劉鉄雲は、三人の日本人を招待した。南京から上海に出てきた西村天囚、その同僚・牧放浪、および天囚とは旧友の小田切万寿之助である。劉鉄雲の友人方葯雨が加わって、席上、詩のやりとりがおこなわれる。
 劉鉄雲は、次のようにうたった。

讖書劫運介猪牛  予言書では 猪と牛にはさまった年が厄年という
大厦将傾不可留  国家は倒れそうで どうしようもない
挙酒胸襟思挙国  挙国一致して国難を救おうという気持ちで一杯だ
同袍気概合同仇  中国人は 気持ちをひとつにして仇をうたねばならぬ
愁看大沢竜蛇起  国内に反乱がおこっているのが心配だ
忍使頽波日夜流  国運がかたむくのを傍観するのは忍びない
誰仮斧柯誅首悪  誰が斧をふるって首謀者を討伐してくれるのだろう
男児恥作杞人憂  男として取り越し苦労をするばかりでは恥ずかしい

一曲秦歌涙満裳  秦歌一曲に着物は涙でグショグショだ
仰瞻北斗断人腸  北斗星を仰ぎ見ればこらえきれなく悲しい
黄竜有厄遷西晋  皇帝に災難があり 西の方山西に移られた
蒼狗無端蔽太陽  雲はわけもなく太陽を蔽い
和局難成思魏絳  調停はむつかしく 昔 和議を主張した魏絳をおもう
都城出譲類劉゚  都をあけ渡すのは 劉備に降った劉゚に似る
破国孤臣惟涕泗  破れた国の私は ただ涙を流すばかりだ
崇文門外月如霜  崇文門外のさむざむとした月を思い出す5

 西太后らが山西省大同府に着いたのが、8月30日である。劉鉄雲の詩中に山西省とあるのだから、西村、牧、小田切らとの酒宴は、8月30日以降に催されたことがわかる。
 劉鉄雲は、憂国の情を吐露したばかりではなかった。

               2.西村 博

 八国連合軍の侵入と西太后らの脱出で、北京は、無政府状態に陥った。治安の乱れ、食料の断絶、死体の放置などという情況に、早急に対処する必要がでてくる。難民救済(死体の埋葬を含む)を目的に、陸樹藩らは上海において救済善会を組織し、義援金を募集した。陸樹藩、陳季同、厳復らは上海をたつと、10月19日(閏八月二十六日)、大沽に到着する。
 劉鉄雲は、救済善会に対して、私財1万2000両の寄付を申し込んだ。そればかりではない。陸樹藩らに遅れること約2週間後の10月31日(九月初九日)、劉鉄雲みずから、日本の和服に姿をかえ、上海から天津にやってきたのである。剛毅の弾劾を逃れて上海に下った劉鉄雲である。それが、なぜ、北京にもどる気になったのか。剛毅その人が西太后に随行して北京を逃げだしていたのを劉鉄雲は、知っていたからだとしか考えられない。
 陸樹藩と面談のうえ、劉鉄雲は、遺体の埋葬と食料の確保などを主要な活動目的として北京におもむくことに決めた。
 11月3日(九月十二日)、鉄雲は20余名を引き連れて北京に向かう。6
 北京では、沈、と難民救済活動に当り、翌1901年正月にはうち捨てられていた大刀王五の遺体を埋葬している。7
 当時の劉鉄雲の活動を伝える新聞記事がある。麻三斤坊こと西村博の筆になる「天津だより」で、『大阪朝日新聞』1901年(明治34年)3月26日に掲載された。めずらしい資料であるといえよう。

 北京に劉鉄雲と云ふ男が居る。官は候補道台で、元と英伊シンジケート(福公司)の総辧をして居つたが、事変前守旧党の御史から弾劾せられて、危い所を上海に逃れた。頗る濶達で、頗る無頓着で、能く書生を世話する、支那人にしては珍しい男だ。動乱後、上海から慈善会会長と為つて遣つて来て、引続き北京に居る。慈善会には自ら数万の金を捐したと云ふ事だ。今は倉米を原価で売捌く事と、貧民に衣類を与へる事と、葬式の出来無い者へ棺材を与へる事を仕事として居る。北京で不断廉い米が買へるのは、全く劉の御蔭だと云つて支那人も喜んで居る。8(後略 句読点は樽本)

 この記事を書いた西村博こそ、劉鉄雲とは懇意の日本人であった。
 西村博(1867−1930)、京都の人。1895年、大阪朝日新聞記者として台湾に従軍。翌1896年、天津に渡り、終生天津を拠点として新聞界に活動した。1897年、王修植、厳復、夏曾佑らによって天津で創刊された『国聞報』を、日本外務省はロシア側と争ったうえ買収、該報の発行者を西村博名義にする。1900年、義和団事件で国聞報館が破壊されたため、あらたに天津日日新聞を創刊した。代表者は西村、主筆は、国聞報主筆の方葯雨をすえた。劉鉄雲が、西村天囚、牧放浪、小田切万寿之助らと上海で酒宴を催したとき、参加していたあの方葯雨である。9
 劉鉄雲と方葯雨は、「金石文」の研究でも有名で、また、西村博も同じ趣味を持っていた。劉鉄雲の「壬寅日記」(1902)8月12日(七月初九日)に、西村を訪問し所蔵の「古泉」を見たとある。さらには、天津日日新聞社において外出からもどってきた方葯雨と、汗のしたたるのもかまわず「鉄銭」を争って選んだとも書いてある。10

               3.中島裁之

 劉鉄雲が、北京において難民救済活動に従事していたころである。劉鉄雲は、日本人が中国人のために創設した私立学校に寄付をした。
 学校の名を東文学社という。中国人を対象に、近代知識と日本語の教授を目的とした学校だ。創立者は、中島裁之である。
 中島裁之(1869−1939)、熊本の人。京都西本願寺の大学普通教校(今の竜谷大学の前身)を卒業。上海に渡り、中国国内を視察のため踏破した。一時帰国したが、日清戦争がおこると通訳として中国にふたたび渡る。1897年、三度目の中国行では、呉汝綸の蓮池書院に入門。1年で帰国。四度目の中国行は、成都の四川東文学堂の教習として勤務するためであった。しかし、1900年、義和団事件の影響が成都にもおよび、四川東文学堂が経営困難におちいったため、辞職。1901年、北京に入り、惨状をまのあたりにする。恩師呉汝綸に説き、李鴻章の賛意を得て、学校を開くことにした。のち、呉汝綸の妹婿の廉泉を協力者とし、劉鉄雲の寄付を受け、開校にこぎつけたのが、1901年3月20日であった。11
 その間の事情を中島裁之自身は、次のように説明している。

 呉師(中島の師・呉汝綸)ハ、廉氏ト捐款ヲ各種ノ方面ニ試ミラルヽ事トナリテ尽力甚ダ周到ナリ。然ルニ、当時々局ニ刺激セラレ維新ヲ唱フル者、又、学校開辨ノ必要ヲ説ク者等少カラズト雖モ、之レガ実行ヲ試ル者ニ至テハ寥々、殆ント皆無ト評シテ可ナルベク、且、守旧派ノ圧迫ヲ怕レテ拱手傍観スル有様ナリシ。独リ劉鉄雲氏ハ、当時、慈善会ヲ開設シ、乱後ノ負傷病者ヲ収容医治シ、死者埋葬等ノ慈善ニ勉メ種々実行ノ率先者タリシ人ナリシガ、呉師及ビ廉氏ノ遊説ニ接シテ、東文学社開設ノ為ニ一千弗ヲ捐款スベク承諾セリ。之ニヨリテ学社開設ノ実行ハ着手セラレタリ。而テ劉鉄雲氏ノ親叔ナリト云ヘル王儀鄭氏ヲ聘シテ学社ノ監督トシ、余ハ総教習ノ任ニ推サレ、廉氏ハ総理トシテ内外ノ事件ヲ処理スル事ニ当リ、呉氏ハ在外援勢者トシテ間接ノ関係ヲ以テスルニ至レリ。以上ノ人員任務定マリ、廉氏ハ外城前孫公園錫金会館ヲ以テ校舎ニ当ツベク撰定シ、一面ニハ直ニ左ノ東文学社開設ノ願書ヲ李中堂及慶親王ニ呈出セリ。12(『東文学社紀要』 句読点は樽本)
 一千元の寄付をしたためであろう、劉鉄雲は、錫金会館におもむいて開校式に参列している。(辛丑日記)

          4.近衛篤麿、森井国雄、郡島忠次郎

 劉鉄雲が近衛篤麿に面会したのも、同じく1901年、北京においてであった。
 近衛篤麿(1863−1904)、京都の人。号は霞山。17歳で大学予備門に入ったが病を得て、多く家で独学。1884年、公爵。オーストリア、ドイツに遊学。1890年帰国後、貴族院議員となる。1895年、学習院長、1896年、貴族院議長に就任。東洋の保全と改善を目的とした同文会を組織したが、1898年、同一目的の別組織である東亜会と合併し、東亜同文会と改称、近衛篤麿は、会長となる。1899年、欧米を歴訪したのち、中国で劉坤一、張之洞らと会見、南京同文書院開設のはこびとなった。1901年義和団事件後の実情を視察するため北京訪問の旅にでる。13
 7月18日、天津では中島真雄、伊集院彦吉領事らに出迎えられ、19日には方葯雨夫妻の訪問をうけている。中島真雄は、近衛篤麿の案内役のようなかたちであった。
 7月22日、劉鉄雲は、森井国雄と郡島忠次郎の訪問をうけ、明日、近衛公爵に謁見することを約束する。
 7月23日、森井、郡島とともに近衛篤麿にあった劉鉄雲は、自らの辛丑日記に、近衛のことを「風采きわめて麗しく、威厳がありながら、はなはだおだやかである(儀表極佳,威厳之中,甚為和藹)」と記している。
 一方、近衛篤麿もこの面会を日記にしるしてはいるが、「面会 森井国雄 劉鶚」とあるだけだ。14
 森井国雄(1867−1929)、号は野鶴。幼時仏門に入り法名を覚巌と称す。1887年朝陽新報の記者となり、中国問題に目を注ぐ。1890年中国に留学、中国語と時事文を専攻する。帰国後、東京敬業社に入り教科書の編纂に従事した。1898年再び中国に渡り、視察。帰国して近衛篤麿の知遇を得て、その門に出入りする。1900年人民新聞社に入社、義和団事件には同紙の特派として天津に渡航、連合軍の北京占領後、帰国した。翌1901年農商務省の嘱託となり、華北の商工業視察に赴く。天津滞在中、方葯雨と知り合い天津日日新聞社に入社する。1902年中島真雄が北京に順天時報を創刊するのをたすけ、1903年天津総領事伊集院彦吉の推薦により袁世凱の北清官報局に入り、創業に尽力、かたわら北支那毎日新聞を創刊した。15
 郡島忠次郎(1870− ? )、1890年、荒尾精が開く日清貿易研究所入学のため上海に渡航。同所を卒業後、日清戦争に従軍。1900年、東亜同文会理事長根津一に協力し、南京同文書院拡張事業を助けた。翌1901年1月、根津の勧誘により天津有馬組の事業に関係することになる。1903年より高田商会の委任を受け中国軍部に武器の売込を行なってもいる。16
 劉鉄雲の近衛篤麿訪問は、この森井国雄の周旋によるものである。
 7月29日、近衛篤麿が面会した人々の中に呉汝綸と廉泉の名前が見える。17中島裁之の東文学社に関係するものであろうか。

               5.中根 斎

 日本人の知り合いがふえると、商売がらみの交際の環が広がった。
 中島裁之が東文学社のことをはなしにきたついでに、紙巻きタバコ会社を設立したいという村井のことを紹介したり(1901.8.28)、山下が岡と土倉の友人だというこれもタバコ事業をやりたいというふたりを連れてきたり(1902.10.28)、山本と花田が醤油販売のことを相談に来たり(1902.11.7)、忙しいことだ。タバコ事業というのは、よほど魅力があるとみえ、1905年4月30日には曽根俊虎、斎藤、品川貞七郎らが、これまたタバコ事業を興さんと劉鉄雲を訪問している。
 劉鉄雲と「兄弟分の交わり」をしていたといわれるのは、中根斎である。
 中根斎(1869− ? )、熊本の人。熊本県立医学校、長崎高等医学校をいずれも中退、1894年、日清戦争に召集され山東に上陸。1896年、召集を解かれ、帰国。同年、ふたたび威海衛占領軍の通訳を命じられた。語学に堪能だったらしく、1898年、遼東半島還付にともない帰国してのちは、大阪商船会社に入り、もっぱら中国関係の事業に従事することになる。1900年、日中合弁の船会社を組織し業務は伸展したが、ときあたかも義和団が勢力を得る時期にあたり、排外熱が高まったため中国側が恐れをなし、同年6月、解散した。1901年1月、日中英露合弁の山東汽船会社を設立し、社長となるが、年末に汽船2隻が沈没、事業を断念せざるをえなかった。18
 この中根斎を劉鉄雲に紹介したのも方葯雨である。

 三十五年(1902)君(中根斎)は天津から河南省に通ずる運河に曳航業を始むるの目的で天津に赴いたが、恰も好し方若(葯雨)から劉鉄雲に紹介せられた。劉はシンヂゲート福公司の支那側総裁で政界財界に大なる勢力を有して居た人で、君の計画を聞いて大に喜び業務開始の暁には福公司が河南省で採掘着手中の石炭輸送を全部君に一任すると迄約束し、種々の注意を与へた。君は計画の当初から斯る有力者との提携が出来たのに勇躍し、三月航路調査に従事し、一ケ月間を費して詳細な観察を遂げ、其結果心中大に期する所があつたが天尚ほ君に幸せず、福公司が探鉱を誤り失敗に帰したので、君の計画も自然画餅に帰した。19(『続対支回顧録』下巻 440頁)

 中根斎の計画した小汽船による曳航業に、福公司が興味を示したのは事実である。劉鉄雲の壬寅日記三月初四日(4.11)には、次のように記されている。

 午前、前門に回り道をして公司に行き、義善源のことは決まったと告げ、さらに中根(斎)が小汽船を経営しようとしていることをもつげた。柯(瑞)君は、とても喜んだ。帰宅し、急いで中根君に手紙を書く。20(後略 156頁)

 「公司」というのは、当然、福公司である。柯瑞とは、福公司の高級職員で、鉄道技師、外国人であったという。
 事業関係にまつわる日本人の名前は、劉鉄雲の日記に多く見える。しかし、劉鉄雲がそれら日本人について、その印象を書き残している例は、それほど多くない。「その人、きわめて博学にして高尚である」と評された内藤湖南は、劉鉄雲に強い印象を残した人物だといえよう。

               6.内藤湖南

 内藤湖南(1866−1934)、秋田の人。名は虎次郎。幼少の頃より漢詩、漢文をつくる。秋田師範学校を卒業後、小学校訓導となったが辞職し、家に無断で上京、『明教新誌』の記者となる。『万報一覧』、『大同新報』の編集、『三河新聞』主筆、『日本人』の記者をへて、1894年、大阪朝日新聞記者となる。1896年、大阪朝日新聞を退社、1897年『台湾日報』の主筆となり台湾に赴き、翌1898年、転じて『万朝報』の論説記者となる。1899年、初めて渡清、厳復、方葯雨、文廷式、張元済、羅振玉らに面会筆談する。1900年、万朝報を退社、ふたたび大阪朝日新聞に入社し、1902年、新聞社より派遣されて二度目の中国視察の旅にでた。21
 内藤湖南は、1902年10月30日、天津に到着すると、西村博を訪れ、伊集院総領事に面会、方葯雨と旧交を温めた。方葯雨との会話は、もっぱら骨董、金石文に関するものであったようだ。
 北京に入った内藤湖南は、牧放浪夫妻から歓待をうける。
 劉鉄雲と内藤湖南の交流を、それぞれの日記、文章を並列することで見てみよう。お互いに補いあっているのがわかるだろう。

1902年11月10日(十月十一日)
 劉鉄雲「壬寅日記」:牧巻次郎、内藤虎君を伴い来る。内藤は、『朝日新聞』の主筆、その人、きわめて博学にして高尚である。言うところによると、足利はきわめて優れているというわけにはいかず、東京福井の所有する『劉夢得集』および『外台秘書』はみな北宋版で、これに及ばないということである。また、『経進東坡文集』は、日本には、ただ一部があるだけで、福井の所蔵であるという。去年、文芸閣が借りて書写することを望んだが、果たせなかった。
 内藤湖南「禹域鴻爪後記」:午後劉鉄雲氏ヲ崇文門外木廠胡同ニ訪フ

1902年11月24日(十月二十五日)
 劉鉄雲「壬寅日記」:答礼のために内藤を訪問
 内藤湖南「禹域鴻爪後記」:劉鉄雲来訪長安獲古編ヲ贈ラル

1902年11月26日(十月二十七日)
 劉鉄雲「壬寅日記」:本日、牧巻(次郎)夫妻、および内藤氏を招く。ちょうど陸潤生がやってきたので、これをつかまえ陪席させる。内藤がいうには、唐人の用いた筆には、雀頭 、鶏距 、柳葉 の三種類がある。ちかごろでは、筆職人の勝木氏がもっともよく模造するという。また、南都秘府正倉院には、聖武帝遺愛の筆一本が所蔵されるが、これは雀頭であるという。水戸彰考館には、多く国史書を蔵するが、中国古書であるならば、前田松雲侯家の所蔵がもっともよろしい。前田は、二百年前の名侯である。
 内藤湖南「禹域鴻爪後記」:午後一時牧氏及ビ其夫人ト劉鉄雲ノ招ニ赴ク劉鄭夫人モ亦出デヽ接ス山本滝四郎氏、上田三徳氏陸氏同ジク招カル

 内藤湖南は、この招宴に対する礼状を劉鉄雲あてに送った。

 鉄雲先生大人閣下 さきはご招待にあずかり、参上するやご高説を承りましたし、口にはうまき酒よきさかなに飽き、目には古書珍器に満足し、まことに入京以来第一の幸福でございました。拝借いたしました学海類編一本は、その夜より自ら抄録し、二晩をついやして終わりましたのでつつしんでここにご返却申し上げます。ご査収ください。小生、一、二の大臣に拝する約束がありますため、なお数日滞在しなければなりません。さらにこの間に、双渓酔隠集、島夷志略を一読いたしたいのですが拝借できますればまことにさいわいでございます。召使、すなわち牧君の老僕に二書をおもたせ下さってもかまいません。貴殿のご安泰をお伺い申し上げます。22(原文は漢文)

 劉鉄雲の「壬寅日記」は、12月5日(十一月初六日)までしか残っていない。12月6日以降と、翌年、1903年に入ってからの内藤湖南と劉鉄雲の交流を知るためには、内藤湖南の「禹域鴻爪後記」によるしかない。
 劉鉄雲の名前が見える部分のみを列挙する。

1902年12月6日:夜方葯雨ノ招宴ニ赴ク同ジク招カルヽ者劉鉄雲夫妻 昨北京ヨリ来リ将サニ上海ニ赴カントスト云フ
   12月8日:劉鉄雲夫妻同車ス(樽本注:天津から塘沽までの列車である)
   12月29日:羅氏ヲ訪フ在ラズ転ジテ劉鉄雲ヲ訪ヒ帰途掃葉山房等ニ在テ書ヲ購ヒテ帰ル(樽本注:上海でのはなし。羅氏とは、羅振玉である)
1903年1月1日:夜汪康年、劉鉄雲、夏曾佑、羅振玉、文廷華諸氏ヲ杏花楼ニ招宴ス
   1月3日:六時帰リテ直チニ劉鉄雲ノ招宴ニ公陽里ノ名妓盛月娥ノ家ニ赴ク

 内藤湖南と羅振玉は、内藤の第一次中国旅行の時に知りあった。金石文について多く意見をかわす仲である。
 内藤湖南に甲骨文の存在を教えたのも劉鉄雲であった。
 神田喜一郎が、内藤湖南の言葉を記録しているので、そのまま引用する。

 私(樽本注:内藤湖南のこと)は明治三十二年に支那へ参りましたけれども、其の時は私も真の赤毛布でそんな気の利いた話(甲骨文のこと)は実は何も聞きませぬ。それから三年程経つて明治三十五年に朝日新聞から支那へ派遣されたことがあります。其の際北京で劉鉄雲といふ人に会ひました。其の時にヘンなものを机の上に列べて拓本を作つて居りました。それは何であるかと聞くと、是は近頃河南で堀つた亀の甲であると云ふので、それに文字が彫つてある。其の時私は新聞社から出張した位で、さういふ閑問題を研究する考は無かつたので、唯珍らしいものであると思つただけで、何も研究は致しませぬ。23(神田喜一郎「内藤湖南先生と支那古代史」)

 周知のように、内藤湖南は、後年、本格的に甲骨文に興味をもち、それを中国古代史て京都にやってきた羅振玉、王国維に刺激されたものらしい。北京で劉鉄雲に甲骨片を見せられてから、ほぼ10年後のことである。

               7.鄭 永昌

 1905年の8月から10月にかけての劉鉄雲「乙巳日記」に、集中的に登場している日本人がいる。鄭永昌である。
 鄭永昌(1856−1931)、その父鄭永寧、および弟鄭永邦も、ともに外交官をつとめる。1870年、外務省官費生に選ばれ、同省内漢語学校に入学、1872年、父永寧の清国出張に伴われ、天津において北京語を学習。帰途、上海で南京語を学んだ。その後、北京公使館で一等書記見習、ニューヨーク領事館書記生、天津領事館書記生、北京公使館交際官試補をへて二等書記官に昇進する。日清戦争後、北京公使館に復職、1896年、天津領事を命じられ、在任中に義和団事件に遭遇した。1902年、官を辞し、直隷総督袁世凱の嘱託となるや、総督直轄の大清河塩田の産塩を日本、朝鮮、ロシア領沿海州へ輸出して直隷財源のひとつとすることを計画する。日露戦争で計画は中止となったが、遼東半島における塩業の調査に従事している。24
 1905年、日本国内で、産塩地の天候不良のため、食塩の供給が困難になったことがある。日本政府は、遼東半島の産塩を輸入することを検討したが、当地の産塩は少なく、価格も高いことから、直隷省長芦塩田の塩を緊急輸入することにした。
 はじめは、私企業に託して食塩輸入を企てた。これが、劉鉄雲と鄭永昌が天津で設立した海北塩公司である。直隷総督袁世凱の嘱託をしており、もと外交官、さらには塩業に詳しいのが鄭永昌であった。その任にうってつけの人物であるといえよう。
 劉鉄雲「乙巳日記」に書かれているのは、以上の食塩緊急輸入の件だ。抜粋する。

1905年8月24日(七月二十四日)
  鄭君を訪問するも、すでに北京に赴き、二三日で帰ってくるという。
1905年8月27日(七月二十七日)
  鄭永昌君来て話す、午後帰る。
1905年8月31日(八月初二日)
  食事を終わったばかり、日本総領事は、私が行くのを知っていた。神戸館に行き飲酒することを堅く約す。おおいに酔う。座中のもの、小村、高尾、坂、速水、西、河合である。中国人は、方葯雨、歛之および私の三人。鄭永昌、後に来たり、また酔う。
1905年9月3日(八月初五日)
  午前、鄭永昌来て話す。
1905年9月4日(八月初六日)
  午前、鄭君来て話す。契約定まる。
1905年9月5日(八月初七日)
  鄭君来て話す。
1905年9月6日(八月初八日)
  鄭君来て、契約に捺印する。
1905年10月10日(九月十二日)
  午前、鄭君来て、秘密契約を起草しおわり、倩子衡が代書する。午後、鄭君とともに領事館に行き、正式契約に捺印する。

 ここまでは、順調に事は運んだようだ。ところが、劉鉄雲が沈陽に着いて趙爾巽将軍に会ってみると様子が違ってきた。

1905年10月23日(九月二十五日)
赴き将軍に会うと、塩務は中国の利権であり、外人に譲ることはできないといわれた。いささか議論して退く。財政処に寄り、史都護に会うと、昨日、すでに将軍と相談して、許可したくないわけではなく、思い切って許可できないだけだ。もし、本初(袁世凱)の一札が得られるならば、できる、という。

 計画は頓挫したというべきだろう。「本初(袁世凱)の一札が得られるならば、できる」というのは、ヒントである。直隷総督袁世凱との交渉が必要となれば、もはや、一私企業の手には負えない。日本外務省の出番だ。

1905年10月29日(十月初二日)
  大原を訪れ、塩輸送のことを相談し、阿部を当てることに決める。

 外交レベルでの交渉は、上にまかせて、実務的な仕事をしておこうというわけであろう。
 ついでに言えば、この沈陽滞在中、劉鉄雲は、「老残遊記」巻11、また、巻15、16を日をおかずに書いている。巻11は、初出『繍像小説』で没にされのを復元したものだ。巻15、16は、新たな書きおろしである。
 1905年11月1日、内田康哉在清全権公使あて交渉を命ずる小村外務大臣名の電報が打たれた。内田全権公使、伊集院彦吉天津領事が正式に交渉した結果、清朝政府は、食塩二千万斤を寄贈する、隣国の民食に関することであるので代価は要求しない、との回答を得た。日本政府は、この好意を受け、輸入取扱人に小栗商店小栗富次郎、代理鄭永昌を指定したのである。
 1906年5月、塩二千万斤は、無事、輸入された。日本政府は、謝意を表わすため、小型水雷艇型ヨットを川崎造船所で建造すると、西太后に献上した。25

             8.丹波雪子、榎目夷真

 1906年、劉鉄雲は、日本を訪問した。それも1年間に2度である。26
 最初の来日は、2月、息子・大章、大紳のふたりを伴っていた。長崎到着から、神戸の布引の滝、奈良は春日神社、大阪にもどって、京都の清水寺、嵐山、足をのばして東京へ、という典型的な観光旅行である。
 初来日した劉鉄雲を紹介して『大阪朝日新聞』は、次のように報道している。

『大阪朝日新聞』明治39年(1906)2月12日  欄外記事
●観光清人 道台劉鉄雲氏は観光の為昨十一日上海より来着今朝奈良に向つ
て出発せり京都に一泊し明日東上の筈同氏は嘗て北京シンヂケート(福公司)
の総弁たりしことあり清国事業家の一人にして在清国本邦人とは交遊最も広
く本邦人にして同氏の家に寄食し居たるもの尠からず同氏は又有名なる蔵書
家にして金石に通じ所蔵古銅器、骨董品、古書画類の如き人目を驚かすに足
るもの多し同氏は留学の為今回二人の令息をも伴ひ来れり

 この記事から、劉鉄雲の訪日目的にふたつあったことがわかる。息子の留学と記事の標題にいう「観光」だ。
 2度目の来日は、10月である。ピョンヤン、ソウルをへて、仁川から日本向けの相模丸に乗船した。門司で下船し、下関、奈良、京都を通って、東京を中心に、日光、箱根に遊ぶ旅である。
 『大阪朝日新聞』明治39年(1906)10月11日の欄外記事「往来」欄に、「▲清客劉鉄雲氏 九日夕入洛(沢文)」と見える。「沢文」は、京都の宿である。
 日本人の友人を多く持つ劉鉄雲のことだ、この二度の日本訪問で、さぞかし多くの旧友に会ったと想像される。ところが、それを伝える資料は、今のところ、発見されていない。
 わずかに二人の名前が出てくるだけだ。詩集「東遊草」(『鉄雲詩存』所収)に丹波雪子という名前が見えるのがひとり。もうひとりは、劉鉄雲が、側室として中国へ連れ帰ったという「榎目夷真」である。劉ゥ孫氏は、彼女の名前を「ナツメ」だと私に語られた(1987.11.12)。そうすると「榎目」は、「夏目」の間違いだろう。「夷真」とは、日本語音に漢字を当てたものだろうが、はっきりしない。ふたりについての詳細は、残念ながら不明だ。

               9.御幡雅文

 最後に、御幡雅文にふれておく。
 御幡雅文(1859−1912)、長崎の人。1871年、東京に遊学、鄭永寧(鄭永昌の父)に漢学を教わる。外国語学校を卒業後、外務省留学生となって北京におもむく。中国語、中国事情研究をおえ、1882年頃帰国すると、熊本鎮台の中国語教師となる。荒尾精と知りあったのは、ここ熊本である。1887年、長崎に帰り、長崎私立商業学校に招かれ中国語を教えた。荒尾精が日清貿易研究所を設立するのに協力し、荒尾とともに上海に赴き、研究所の中国語教師となる。日清戦争では、陸軍一等通訳官となって出征。1898年、三井物産会社より招請されて入社、上海支店に勤務するかたわら、東亜同文書院において中国語教育に従事した。27
 御幡雅文の中国語というのは有名であった。井上翠は、次のように回想している。

 「北に鄭あり南に御幡あり」とは、明治三十年ごろ支那語学界では口口に称讃したものです。鄭というのは、鄭永邦氏(樽本注:鄭永昌の弟)のことで、御幡とは御幡雅文氏のことであります。二人はその時代の支那語の両巨頭と申してよく、鄭は北京公使館の通訳官、御幡は上海に出て、日清貿易研究所の華語教授でありました。28

 御幡雅文は、創設まもないころの東亜同文書院に中国語の講師として招かれた。その頃の様子を、

 華語講師の王廷臣は日本語を知らないので、なにがなんだか少しも判らない。困ったあげく中学の漢文教師だった学生の山田勝治に筆談通訳を頼んだが、 それでもサッパリである。 そこで三井洋行の御幡雅文に来てもらうことになった。 氏は荒尾・根津先生とも因縁の深い人、 著名な華語の大家であったが、本職があるので日曜だけしか来られない。そのため日曜は朝八時から正午まで、時には午後二時頃まで昼食ぬきでぶっ通しの講義。その間に一週間分の授業をうけてしまうのだ。学生はこれで日曜足止めとなり閉口した。29

と当時の学生が書いている。
 ただし、1908年の東亜同文書院教職員表には、御幡雅文の名前はみえない。そのころにはすでに退職していたものと思われる。
 さて劉鉄雲の戊申日記である。正月早々、劉鉄雲の身辺が騒がしくなった。
 1908年、蘇州で正月をすごしていた劉鉄雲あてに、御幡雅文から電報がとどいた。用事があるので上海に至急こられたい、という。上海の三井洋行に御幡雅文をたずねると、劉鉄雲の逮捕命令が出ているから、日本に避難されるよう、との鄭永昌の暗号電報を示された。劉鉄雲は、日本に行くのはよい方法ではないと考え、ひとまず日本旅館に滞在して様子を見ることにする。
 その後、劉鉄雲が狄楚青から得た確かな情報によると、1900年に発せられた逮捕命令が劉鉄雲逃亡のため履行されていない、劉は東三省で活動しているということだから、調査せよ、というものだった。東三省と上海では、方向が違う、とでも考えたのだろう。劉鉄雲は、緊急事態ではないと受け取った。
 1908年2月23日(正月二十二日)、劉鉄雲は、世話になったお礼に、御幡雅文と上海領事館の村山を宴会に招待している。
 ところが、それから5ヵ月後の7月、劉鉄雲は逮捕され、その年のうちにウル研究のムチに流されることになるのだ。

 以上は、劉鉄雲と交遊関係にあった日本人のわずかな部分を紹介したにすぎない。そのわずかな顔ぶれを見ても、新聞記者、外交官、実業家、商社員と職種は多様である。これは、そのまま劉鉄雲の行動範囲の広さを示すものとなっている。そればかりではない。それぞれの内容を見てみると、お互いの人事の糸は、結びあい、からみあわさり、劉鉄雲と日本人の交遊が、きわめて深いものであったことを知るのである。


★ 注
1)「碩園西村先生の略歴」 小沼量平編『碩園先生追悼録』懐徳堂堂友会1925. 2.10
「西村時彦」『東亜先覚志士記伝』下巻 原書房 影印1966.6.20。93−94 頁
「西村時彦君」『対支回顧録』下巻 原書房 影印1968.6.20。726−727頁
樽本照雄「李伯元と朝日新聞社の西村君」『中国文芸研究会会報』30号   1981.9.18
中村忠行編略歴 「西村天囚」『明治漢詩文集』明治文学全集62 筑摩書房 1983.8.25。427−428頁
「西村時彦」宮武外骨・西田長寿『明治新聞雑誌関係者略伝』明治大正言論 資料20 みすず書房1985.11.15。184−185頁
中村忠行「李伯元逸事三則「「日中文壇交流の一断章」『甲南国文』34号  1987.3.15
2)「牧巻次郎」『東亜先覚志士記伝』下巻 原書房 影印1966.6.20。519−520 頁
「牧巻次郎」『対支回顧録』下巻 原書房 影印1968.6.20。856−858頁
3)「小田切万寿之助」『東亜先覚志士記伝』下巻 原書房 影印1966.6.20。 168−169頁
「小田切万寿之助」『対支回顧録』下巻 原書房 影印1968.6.20 415−418。 頁
4)劉鉄雲の年譜には、蒋逸雪のものもあるが、劉ゥ孫『鉄雲先生年譜長編』(済南斉魯書社1982.8)が詳しい。以下、これによる。
5)西村天囚「滬上小詩」に収める。碩園先生詩集巻二『碩園先生遺集』懐徳堂記念会1936.10.1
6)陸樹藩「救済日記」佐原篤介・竕B同輯『拳匪紀事』巻六所収。佐原篤介は、のちにふれる御幡雅文と一時期、東亜同文書院で英語を教えていた。
7)狄平子『平等閣筆記』巻一、4オ 1922.3.21狄葆賢序
8)麻三斤坊(西村博)「天津だより」(小見出しは「劉鉄雲の慈善事業」)『大阪朝日新聞』1901.3.26。『清末小説研究』創刊号(1977.10.1)に付録として収録した。
9)「西村博」『東亜先覚志士記伝』下巻 原書房 影印1966.6.20。94−95頁
「西村博」『対支回顧録』下巻 原書房 影印1968.6.20。724−725頁
中下正治「国聞報と鄭永昌領事」『季刊現代中国』5号 1973.3.20
10)劉鉄雲の日記は、劉徳隆・朱禧・劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』四川人民 出版社1985.7所収。以下、同じ。
樽本照雄「劉鉄雲と李伯元をつなぐもの」『大阪経済大学教養部紀要』第4 号 1986.12.31
11)中島裁之『東文学社紀要』1908.1.5 早稲田大学図書館所蔵
佐藤三郎「中島裁之の北京東文学社について」『山形大学紀要(人文科学)』 第7巻第2号1970.12.25
さねとう・けいしゅう『中国人 日本留学史』くろしお出版1960.3.15初版 未見。1970.10.20再版。89.210頁
小川 博「船津輸助のこと」『燕京佳信(船津輸助の北京通信)』私家版  1978.8.15
沢本香子「劉鉄雲辛丑日記を再構成する」『清末小説』9号 1986.12.1
12)中島裁之『東文学社紀要』1908.1.5。4頁
13)「近衛篤麿」『東亜先覚志士記伝』下巻 原書房 影印1966.6.20。561−563 頁
「近衛篤麿」『対支回顧録』下巻 原書房 影印1968.6.20。884−991頁
14)『近衛篤麿日記』第4巻 鹿島研究所出版会1968.10.30。231頁
15)「森井国雄」『東亜先覚志士記伝』下巻 原書房 影印1966.6.20。735−736 頁
「森井国雄」『対支回顧録』下巻 原書房 影印1968.6.20。656−658頁
16)「郡島忠次郎」『続対支回顧録』下巻 大日本教化図書株式会社1941.12.20。 519−532頁
17)『近衛篤麿日記』第4巻 鹿島研究所出版会1968.10.30。235頁
18)「中根斎」『続対支回顧録』下巻 大日本教化図書株式会社1941.12.20。438 −445頁
樽本照雄「劉鉄雲と中根斎」『中国文芸研究会会報』34号 1982.5.15
19)『続対支回顧録』下巻 大日本教化図書株式会社1941.12.20。440頁
20)劉徳隆・朱禧・劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』四川人民出版社1985.7。  156頁
21)「年譜」『内藤湖南全集』第14巻 筑摩書房1976.7.30。659−669頁
樽本照雄「劉鉄雲とその友人たち「「内藤湖南の中国旅行記を手掛かりとし て」『野草』第17号 1975.6.1。のち『清末小説閑談』法律文化社1983.9. 20所収。
中村忠行編略歴 「内藤湖南」『明治漢詩文集』明治文学全集62 筑摩書房 1983.8.25。428頁
22)内藤湖南の劉鉄雲あて書簡 『内藤湖南全集』第14巻 筑摩書房1976.7.30。 270頁
23)神田喜一郎「内藤湖南先生と支那古代史」『敦煌学五十年』筑摩叢書169  筑摩書房1970.7.30。84−85頁
24)「鄭永昌」『東亜先覚志士記伝』下巻 原書房 影印1966.6.20。583−584 頁
「鄭永昌」『対支回顧録』下巻 原書房 影印1968.6.20。36−37頁
25)外務省記録「清国塩輸出一件」
26)樽本照雄「劉鉄雲の初来日」『清末小説から』第1号 1986.4.1
樽本照雄「再来日した劉鉄雲」『清末小説から』第2号 1986.7.1
27)「御幡雅文」『東亜先覚志士記伝』下巻 原書房 影印1966.6.20。134−135 頁
28)井上翠『松涛自述』大阪外国語大学中国研究会 1950.5付けのあとがき。
29)『東亜同文書院大学史「「創立八十周年記念誌』滬友会1982.5.30。93頁

 最後に、劉鉄雲の交際範囲に名前のあがった日本人を一覧表にまとめておく。(略)

(たるもと てるお)