「 老 残 遊 記 」の 中 の 黄 竜 子 た ち



樽 本 照 雄


 1.はじめに

 「老残遊記」には、何人かの不思議な人物が登場する。たどっていくと、それらの人々は、劉鉄雲が継承した太谷学派の思想と関係していることに気づく。1)
 黄竜子は、そうした人物のひとりである。

 黄竜子のモデルは、黄葆年だと長らく考えられてきた。
 ところが、黄葆年ではなく、李竜川である、という新説がとなえられている。それに賛同し、旧説を訂正する研究者も出た。
 あたかも、旧説がくつがえり、黄竜子=李竜川で決定したかのような印象をうけるのだ。
 しかし、問題は、それほど簡単ではない。


 2.黄竜子たち

 「老残遊記」に登場する黄竜子とその周囲の人たち、関係する部分を、翻訳して下にまとめる。

(引用1)初集第9回 頭をあげて見ると北の壁に四幅の大きな軸がかかっており、その草書は竜が飛び鳳が舞うがごとく生き生きと書いてある。ひとを驚かすに充分な出色のできである。下のほうにはふたつの書きこみがある。上には「西峯柱史正非」とあり、下には「黄竜子呈稿」と書いてある。
  ★黄竜子が名前だけ先行して登場している。「西峯柱史」をあとで問題にする。

(引用2)初集第9回 ふと窓の外に人が呼ぶのが聞こえる。「姑、今日、お客があるというなら、なぜに私にひと声かけてくれぬのか」娘は、その声を聞くといそいで立ち上がり、「竜おじさま、どうしてこのような時刻においでなさったのです」と、言いながら、見るとその人物はすでに入りこんでいる。濃い藍色の布をつづり合わせた綿入れの上着を着て、帽子はかぶらず、帯もしめず、短い上っ張りも着ていない。歳は五十足らずのようで、顔はまっかで、ひげはくろぐろとしている。
  ★ここではじめて黄竜子本人が登場する。「歳は五十足らず」に注目しておく。

(引用3)初集第20回 その青竜子というのは、わし(注:老残)も知っているが、隠士でな、行方は定まらず、さがすのは容易ではない。
  ★青竜子は、老残の知人であることが明らかにされる。

(引用4)初集第20回 ひとつだけ毒を解く薬がある。名を「返魂香」といい、西嶽華山の太古の氷雪のなかから出てくるのじゃが、これも草木の精が凝結したものじゃ。
  ★不思議な薬の出所が西嶽華山という。これに注意をしておきたい。

(引用5)二集第1回 慧生がたずねた。「君が昨日言っていた例の青竜子というのは、どんなひとかね」老残はいう。「周耳先生の弟子だということだ。この周耳先生は、号は柱史、もとより隠士で西嶽華山中の人蹟未到の地に住んでいる。弟子ははなはだ多い。しかし、周耳先生はそれほど俗世間に来られない。おおよそ先生に学んだ人が、ややもすれば相伝えていくものだから、そのなかで主旨を誤解した部分がはかりしれないくらいある。ただ、この青竜子たち兄弟数人は、周耳先生に親しく教えを受けた人たちだから、ほかの大勢とは違うんじゃ。わしはかつて黄竜子とうろつく日が多かったから、そのおおよそがわかるんじゃよ」
  ★周耳先生の号に要注目。ここで「兄弟」と言っているのは、「兄弟弟子」といった意味であろう。老残と黄竜子の関係が、言葉のはしから想像されるのではないか。

(引用6)二集第1回 わたし(注:黄竜子)は己巳の生まれ、青竜子は乙巳の生まれ、赤竜子は丁巳の生まれだもので、当時、友達が適当に呼んで遊んでいるうちに、おもわず知らず日が経って、人もそのように呼ぶようになった。  ★黄竜子、青竜子、赤竜子の生年が明示されている。

(引用7)二集第5回 逸雲がいう。「彼ら兄弟三人は、この赤竜子が歳がもっとも若いのですが、ところがいちばん勝手気ままでやりほうだいということです。青竜子、黄竜子のふたりはですね、見た目はきびしく生まじめで、きわめておだやかな人とはいっても、一目で有徳の士であることがわかります。それが赤竜子となると、人に見せても有徳の士であるとは言うことができません。買う、打つ、食う、とやらないことはありませんし、官吏、商人、士大夫、庶民、と交わらないものもありません。俗人といっしょにいれば、彼も同様に俗で、高雅な人と一緒であれば、彼もまた同様に高雅、ちっとも無理をするところがありません。それで人は、あの方のことを推し量ることができないのです。彼は、青竜、黄竜と同じ先生から教えを受けたために、人も彼を尊重しないわけにはいかないのですが、結局、彼の本当のところを知る人は少ないのです。
  ★赤竜子が最年小であることになっている。ここでも「兄弟(弟子)三人」となっていることに注目。

 以上に登場する、黄竜子を中心に、周耳先生、青竜子、赤竜子のモデルをこれから考えることにする。


 3.太谷学派の系譜

 詮索する前に、必要な手続きがある。太谷学派の人のつながりを明らかにしておかなければならない。これがないと、人間関係が複雑で理解できなくなる。
 記述に必要な部分のみ、次に書き抜く。2)



張積中(子中、石琴)
 1806?-1866 黄葆年(隰朋、帰群)
 周穀(星垣、太谷)  1845-?
李光(晴峯、竜川) 蒋文田(子明、竜渓)
            1808-1885 1845-?
劉孟鵬(鉄雲、鶚)
                        1857-1909



 太谷学派の思想が伝えられた経路である。周太谷が始祖、張積中、李竜川が第二世代、劉鉄雲らが第三世代となる。年齢的にもグループを形成していることがわかる。
 この系譜と世代差を頭において、諸氏の説に耳をかたむけることにしよう。


 4.黄竜子のモデルさがし

 4.1 劉大紳説
 黄竜子のモデルは、黄葆年である、と最初に指摘したのは劉大紳であった。

黄竜子については、はじめ意図はなかったが、のちに黄帰群先生を暗示している。3)

 黄帰群とは、黄葆年のことをいう。黄竜子=黄葆年という説は、長らく支持されることになる。
 劉大紳は、そのほかにもモデル問題について、次のような証言をしている。

二編で描いているのは、まったく自己(注:劉鉄雲)の学んだ環境について描写しており、赤竜子が自分自身を暗示し、青竜子は蒋竜渓(注:文田)先生を暗示しているほか、………4)

 注釈部分で、さらに詳しく説明する。

亡父(注:劉鉄雲のこと。劉大紳は鉄雲の息子)は丁巳の年にうまれ、干支では赤蛇である。黄帰群先生は乙巳の年に生まれ、干支では青蛇である。蛇は竜に属する。竜川が亡くなる時、ふたりの巳に道を伝えるようにと遺言があった。すなわち帰群と亡父を指して言ったのである。赤蛇が自分をいい、黄竜が帰群をいうのは、その姓が黄であるからだ。ただ、はじめ書いていた時は、もともとは青竜で帰群を指す文章の流れだった。亡父に姓が王という同学がおり、己巳生まれであった。三人はいつもそれを笑い話にしていたが、その後、構想がどうしたわけか突然、変わったものらしい。5)

 なかなかに複雑だ。もうひとつ、重要な指摘がある。

周耳は、周太谷先生を暗示している。6)

周先生、諱は星垣、号は太谷、江西廬山に隠居した。ゆえに、二編第一巻で、西嶽華山中に住んでいるというのである。7)

 モデル問題について、大枠は、劉大紳によって明らかにされた、と言っていいであろう。これ以後に出てくるのは、劉大紳説の鵜ノミか、その一部分の考証であったりする。

 4.2 盛成説
 新説をとなえたのは、盛成である。黄竜子は、李竜川だ、というのだ。
 「老残遊記」第9回に出てくる大きな四幅の軸の「西峯柱史正非」、「黄竜子呈稿」についていう。「柱史は、柱下史で老子のこと、姓は李である。李西峯は、すなわち李晴峯。(中略)黄竜子は、すなわち李竜川で、名は光である」8)
 たしかに、柱下史は老子をさすかもしれない。しかし、盛成は、「老残遊記」に見える「柱史」が、二集第1回に説明のあるように、周耳先生の号であることを忘れている。
 ここは、「西峯柱史正非」が詩を贈った相手、「黄竜子呈稿」は文字通り、詩の作者と考えるのが自然だ。柱史が李晴峯で、黄竜子が李竜川だとすると、ふたりとも同一人物となる。盛成説のおかしい点である。
 ところが、盛成説に賛成し、旧説は誤りだとする研究者が出てくる。

 4.3 厳薇青、劉闡キ説
 厳薇青は、次のように述べている。

私は、「老残遊記札記」で旧説に基づき、第9回の黄竜子は太谷学派の弟子黄帰群(注:葆年)を暗示していると考えた。最近、盛成および劉闡キ両先生はふたりとも李光、すなわち李竜川を指しているといわれる。闡キ先生は、補充して、李竜川は、清嘉慶十三年(1808)戊辰に生まれ、竜に属している、戊はまた土に属し、五行のなかでは黄色に属する、ゆえに書中で黄竜子と称するのである、と指摘されている。私と、私以前の旧説に対して誤りを正そうとされているのである。9)

 劉闡キの説明は、ほかとの整合性を無視すれば、正しいように思える。つまり、李竜川の生年が、「黄」「竜」に通ずるという部分のみは、その通りだろう。しかし、周耳先生、青竜子、赤竜子との関係を視野に入れると、そうはうまくいかない。


 5.ヤブに分け入る

 5.1 黄竜子の年齢の矛盾
 まず、(引用1)の「西峯柱史正非」、「黄竜子呈稿」の部分から考える。
 前述したように、「西峯柱史」は、周耳先生をいう。周姓の人物は、太谷学派のなかには始祖の周太谷しか存在しないからだ。黄竜子は、当然、その弟子の李竜川となる。
 ところが、これに(引用2)で明らかにされた黄竜子の年齢「五十足らず」を加味すると、話がおかしくなってくるのだ。
 「老残遊記」の年代は、基本的には光緒十七年(1891)に設定されている。10)
 1891年となると、劉鉄雲は三十五歳だ。ところが、李竜川は、それより以前の光緒十一年(1885)に逝去している。享年七十八。「五十足らず」どころではない。
 年代設定は1891年ではあるが、例外部分も、当然、存在する。
 たとえば、第1回の荒波にもまれる帆船は、1898年の戊戌の政変を暗示する。第11回の北拳南革は、北拳が1900年の義和団事件をさし、南革が同年の恵州事件をいう。
 寓話の部分と、見えかくれする太谷学派に関する部分は、基本設定から解き放たれて、「遊記」という現実の時間を超越しているといってよい。
 では、1891年という年代を離れて、見てみよう。
 劉鉄雲が揚州に赴き李竜川に会ったのが光緒二年(1876)のことである。劉鉄雲、二十歳、李竜川は、なんと六十九歳のときになる。
 劉鉄雲の前には、「五十足らず」の李竜川などいるはずがない。
 なんといっても、「黄竜子呈稿」とある詩そのものが、李竜川の詩ではなく、劉鉄雲自身の詩である点に気がつかなければならない。
 「五十足らず」に重点を置くとすれば、「老残遊記」を連載していた1903年当時の劉鉄雲が四十七歳であることの方が意味をもってくる。
 つまり、初集第9回の黄竜子は、李竜川を暗示していそうで、その実質は、劉鉄雲その人であるということだ。
 黄竜子の出番が、初集のみであれば、以上の解釈で終わっていたかもしれない。
 ところが、初集第20回で青竜子が登場し、妙薬「返魂香」の出所が西嶽華山としたことから、すこしずつズレが生じることになった。

 5.2 周耳先生とその弟子たちの矛盾
 初集第20回の西嶽華山を、二集第1回の周耳先生の居場所につないだ部分は、不思議の発生源が周耳先生あたりにあることを意味していて、興味深い。
 だが、「この青竜子たち兄弟数人は、周耳先生に親しく教えを受けた人たちだから、ほかの大勢とは違うんじゃ。わしはかつて黄竜子とうろつく日が多かったから、………」と書かれて、話が混乱する。
 老残と青竜子、黄竜子が兄弟弟子と読める。問題は、「周耳先生に親しく教えを受けた」という箇所だ。
 始祖の周太谷に「親しく教えを受けた」のは、第二世代の李竜川、張積中までである。黄葆年、蒋文田、劉鉄雲の第三世代にとっての先生は、あくまでも李竜川だ。黄竜子が李竜川だとすると、老残たちにとっての先生が、同時に兄弟弟子ということになってしまう。
 上の記述は、実際の太谷学派の世代差を無視したものだと言わざるをえない。

 5.3 生年の矛盾
 二集第1回(引用6)、第5回(引用7)に黄竜子、青竜子、赤竜子の生年が述べられ、そのうちで赤竜子が最年少であることが明らかにされる。
 まず、赤竜子から。丁巳の年は、劉鉄雲の生年1857年10月18日(咸豊七年九月初一日)11)と一致する。
 青竜子の生年は乙巳となっている。1845年(道光二十五)である。黄葆年、蒋文田のふたりとも、乙巳生まれであるという。12)生年は合致しても、青竜子がふたりを指すことになり、具合が悪い。
 黄竜子の己巳が問題となる。青竜子、赤竜子と兄弟弟子ならば、1869年(同治八)であろう。しかし、1869年だとすると赤竜子をとびこえて、黄竜子の方が最年少になってしまう。
 六十年さかのぼり1809年(嘉慶十四)にすると、赤竜子との年齢差が四十八となり、これでは兄弟弟子にはならなくなる。もっとも、李竜川の生年1808年とは、一年違いで近づくのではあるが。ただし、あくまでも「近づく」だけだ。黄竜子=李竜川とはならない。
 以上のように、実在人物と生年が一致するのは、赤竜子(劉鉄雲)、青竜子(黄葆年、蒋文田)だけだ。黄竜子が宙にうきそうになる。

 劉鉄雲の説明は、もともとが矛盾に満ちたものだといわなければならない。その矛盾の意味するところを述べてみよう。


 6.矛盾の意味するもの

 黄竜子に焦点をあてて、モデルのながれを追っておく。
 
 初集で出てくる黄竜子は、表面上は、劉鉄雲の先生である李竜川に見せかけながら、その実、劉鉄雲自身のことをのべている。
 二集になると、兄弟弟子とともに周耳先生(周太谷)から親しく教えを受けたことにし、実際の、太谷学派の系譜に見られる世代差を無視する。
 劉鉄雲の生年丁巳に赤竜子をあて、青竜子の生年を乙巳とし蒋文田の生年にあわせる。同年の黄葆年については、劉大紳の説明のとおり、黄という字を共有する黄竜子とした。これに別人の生年である己巳を振りあてる。「巳」にこだわったのだ。そのため、赤竜子が三人のなかで最年少という説明に矛盾が生じた。
 
 「老残遊記」は、断続して書きつがれた。そのため、劉鉄雲の矛盾した書き方は、作者のうっかりミスのようにも見える。
 「老残遊記」初集、二集だけでも、前後、おおきく3回に分けて書かれた。『繍像小説』の連載時、『天津日日新聞』にあらためて連載するために書き足した時、および二集を書いた時だ。
 しかし、著者・劉鉄雲の犯した、単なるうっかりミスであろうか。私は、大きな疑問を感じる。ことは劉鉄雲の中心思想である太谷学派に関係しているのだ。
 私は、劉鉄雲のうっかりミスではありえないと考える。劉鉄雲が意図的にはぐらかして書いているのではないかと推測する。わざと矛盾の生じるように、シカケを施したとしか思えないのだ。
 劉闡キは、次のように述べている。「太谷学派は、清の道光、咸豊、同治、光緒年間の、それほど大きくない学術思想の暗流──民間の学派であった。秘密結社であると言ってもよい」13)
 「秘密結社」は、表面に出てこないのが普通だ。
 かなり以前から、劉鉄雲の子孫たちが、あるいは別系統の盛成が、太谷学派の思想、人物について文章を発表している。しかし、一方で、太谷学派の別の系統の子孫たちは、現在でも、太谷学派と関係があることを公表することを拒否しているという。そればかりか、劉鉄雲の子孫が、太谷学派について文章を書くことに対して批判をしているのも事実であるらしい。
 「老残遊記」執筆当時の劉鉄雲に、黄竜子たちについて書くことへのためらいがあったとしても当然であろう。
 しかし、劉鉄雲は、「老残遊記」のなかに、太谷学派についてその内容と、人物を書き込んでおきたいと考えた。だが、あからさまな形で、人物が分かってしまうようには書きたくない。隠したい。かくしたいが、なんとか書きたい。
 この矛盾が、モデルを特定できないような書き方にさせたのではないか。


 7.おわりに

 姑のモデルを特定する時にも、困難を感じた。あれもこれも、どちらにでも解釈できるのだ。
 黄竜子についても、同じむつかしさがある。黄竜子が実在の誰に当るかを決めることができない、ということは、複数の人物の合成であることの証拠である。黄竜子は、李竜川であり、黄葆年であり、実質的には劉鉄雲自身でもあると言うことができる。
 青竜子も、黄葆年であり、蒋文田でもある。
 確かなのは、赤竜子が劉鉄雲自身をいい、周耳先生が周太谷を指しているということくらいだ。
 劉鉄雲がほどこしたシカケに、80年後の私がひっかかっているということなのだろうか。






1)姑のモデルを探ったことがある。樽本照雄「『老残遊記』のモデル問題」『野草』33号1984.2.10。
2)太谷学派の系譜については、詳しいものがある。劉徳隆・朱禧・劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』(四川人民出版社1985.7)の615頁を参照されたい。
3)劉大紳「関於老残遊記」『文苑』第1輯1939.4.15。今、魏紹昌編『老残遊記資料』上海・中華書局1962.4。64頁。日本影印。
4)同上。64頁。
5)同上。67頁。
6)同上。64頁。
7)同上。68頁。
8)盛成「関於老残遊記」『清末小説研究』(中文版)1983.12.1。10頁。
9)厳薇青「(老残遊記)再版後記」済南・斉魯書社版『老残遊記』1985.8第二次印刷。(1981.2初版)360頁
10)樽本照雄「『老残遊記』の年代を考える」『野草』第37号1986.3.20
11)劉鉄雲の生年月日は、旧暦九月初一日だ。西暦になおすと10月18日になる。蒋逸雪「劉鉄雲年譜」(魏紹昌編『老残遊記資料』上海・中華書局1962.4。134頁。日本影印)、同『劉鶚年譜』(済南・斉魯書社1980.6。1頁)、劉閨@ 孫『鉄雲先生年譜長編』済南・斉魯書社1982.8。2頁)など、いずれも「9月29日」と誤る。
12)注2)に同じ。63頁。
13)劉闡キ「太谷学派政治思想探略」『文匯報』1962.10.11。(初出未見)劉徳隆・朱禧・劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』(四川人民出版社1985.7)所収。591頁。

(たるもと てるお)