新聞に見る徐錫麟事件、秋瑾事件


沢 本 香 子


解 説

 魯迅「范愛農──旧時重提之十」(『莽原』第24期1926.12.25。のち『朝華夕拾』未名社出版部1928.9初版未見/1929.2再版)には、徐錫麟事件、秋瑾事件について、次のように書かれている。

 東京の下宿では、私達は、たいてい起きるとすぐ新聞を読んだものだった。学生が読んだのは多く『朝日新聞』と『読売新聞』で、社会の些事をもっぱら好むものは『二六新聞』を読んだ。ある朝、のっけから中国からの電報が目に入った。あらまし、次のようなものだ。
  「安徽巡撫恩銘、ジョシキリンに暗殺さる。暗殺者は捕縛」
 みなはポカンとしたが、たちまちイキイキと互いに語り合い、この暗殺者が誰であるのか、漢字はどんな三文字なのかを検討した。しかし、紹興の人間で、教科書しか読まないという者でないかぎり、とっくに分っていた。それは徐錫麟だ。彼は、留学から帰国すると、安徽で候補道になり、巡警事務をとっていて、ちょうど巡撫を暗殺する地位にいたのである。
 皆は、ついで彼が極刑に処せられるだろうし、家族も連座するだろうと予測した。ほどなく秋瑾女史が紹興で殺されたというニュースも伝えられた。徐錫麟は心臓を抉られ、恩銘の護衛兵によって、いためられ、きれいに食われたという。人びとは怒った。何人かの人が、秘密にある会を開き、旅費を集めた。こういう時に日本の浪人が役に立つ。スルメをさいて酒を飲み、ひとしきりオダをあげたあと、彼は徐伯の家族を引き取りに出発した。

 東京にいた魯迅たち留学生が、安徽巡撫恩銘暗殺を最初に知ったのは、日本の新聞記事によってであった。
 当時の新聞は、事件をどのように報道していたのか。はたして魯迅の記述そのままだったのだろうか。
 『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』、『東京朝日新聞』、『読売新聞』および『東京二六新聞』を調査した。これらのマイクロフィルムから、徐錫麟と秋瑾の事件に関する記事を抜き書きしてみると、いくつかの面白い事実が明らかになった。
 『大阪朝日新聞』と『大阪毎日新聞』には、ほぼ同内容の関連記事が掲載され、その量も五紙中ではもっとも多い。この両紙にみられる「安徽巡撫暗殺の光景」(7月18日付け毎日)と「安徽巡撫の殺害」(7月19日付け朝日)は、題名こそ違うが、同じ内容である。恩銘殺害の模様を詳細に報道するこの長文の記事は、今でいえばさしずめドキュメントということになろう。関連記事の量からみると、これに続くのは『東京朝日新聞』だ。しかし、これには上の長文詳細殺害ドキュメントを見つけることができなかった。
 『読売新聞』は、文字通り三面記事は充実しているのだが、海外ニュースは貧弱である。徐錫麟事件、秋瑾事件ともに触れられじまいで、関連記事ナシというありさまだ。
 『東京二六新聞』には、わずかにふたつばかりの記事があるだけである。
 さて、魯迅の書く「ジョシキリン(原文Jo Shiki Rin)」である。いかにも日本の新聞が漢字を当てずにカタカナで報道したかのような、書き方だ。
 ところが、最初の報道は、「風説に拠れば改革党員の爆裂弾を投ぜるものなりと云へるも信ずるに足らず」(『大阪朝日新聞』1907.7.8)というものである。「ジョシキリン」などは、出てこない。
 また、日本の新聞報道は、はじめは「爆弾破裂」、「弾丸爆発」で、恩銘の負傷をいうのみ。魯迅が書くような「暗殺(原文:刺殺)」などではない。
 『大阪毎日新聞』では、名無しの「革命党員」。翌7月9日の新聞で「巡警学堂会辧某」と同時に、はじめて「徐士林」の名前が挙げられ、恩銘暗殺の犯人と報じられた。
 その後は、「徐志林」と書かれ、7月12日になってようやく「徐錫麟」とされるが、これは『大阪毎日新聞』である。『大阪朝日新聞』が、「故徐錫麟(徐士林は誤り)」と訂正するのは、さらに遅れて7月16日である。ただし、同じ朝日新聞だが東京のは、ずっと早くて7月11日付けで、すでに徐錫麟と報じる。
 電報から漢字をあてはめる時、徐士(志)林と誤ったものであろう。「ジョシリン」ならわかる。魯迅が「ジョシキリン」としたのには、なにか別に考えるところがあったのかどうか、不明である。
 『大阪毎日新聞』7月18日付けで、「安徽巡撫暗殺の光景」と題し、長文の報道がなされている。徐錫麟処刑のくだりは、こうだ。

  直ちに東轅門の側に引立てヽ先づ其腹をKりて祭酒をなし、更に其首級を斬  りて梟せりと云ふ。

 いうまでもなく、その字の通り、腹をエグリ、酒を供えて祭ったというだけだ。
どこにも食ったとは書かれていない。魯迅が、「徐錫麟は心臓を抉られ、恩銘の護衛兵によって、いためられ、きれいに食われたという」と書いたのは、なにによったのだろうか。
 『大阪毎日新聞』より1日遅れた翌19日、ほぼ同内容の記事が『大阪朝日新聞』にも掲載された。しかし、こちらは、「直ちに東轅門外に引つ立て行き、梟首の刑に処したり」とあるだけで、腹をえぐり云々の部分は、削除されている。
 その点、中国で発行された新聞は、異なる。
 『同文滬報』7月10日付けの「言論」、ニュースともに、はじめから徐錫麟の名前は判明しているのだ。同紙7月20日付け「論徐錫麟案」という文章の中に、「心臓をえぐり、もって祭り、かつ人のその肝臓を分けて食すにまかせる(K心以祭且任人分食其肝)」という表現がある。魯迅のいうところに、やや、近い。
 秋瑾事件の報道は、最初は、「女教師」の処置、というかたちでなされた(7月19日付け『大阪毎日新聞』)。
 翌7月20日で、秋瑾の斬首が伝えられる。『大阪毎日新聞』は、名前を「沖瑾」に誤る。
 秋瑾処刑に対しては、同情的な報道がなされているのが目を引く。「当地の支那新聞は、浙江省官吏が学生女教師および徐錫麟の父に対してなせる処置について憤怒し居れり」とか、「浙江省紹興府知府貴福は女教師沖(ママ秋)瑾に対し適当の審問をなさずして処刑したりとの故を以て当地清国新聞紙より非難されたり」
など。さらに、「殊に安徽巡撫の暗殺に関し官の処置は残酷を極め、刺客を野蛮の刑に処せるのみか犯罪と関係なき店舗を封鎖し学生を殺し、更に女教師秋瑾を死刑に処せしより、皆冤を怨み民心彌離れたるに由る故に今は革命党の勢力増加を当然とし暗に同情を寄するの傾向あり」という記事から、当時の雰囲気というものを察知することができるだろう。
 徐錫麟事件、秋瑾事件ともに、日本にもかなり詳細に報道されたことが、わかる。そればかりではない。恩銘暗殺が引起こした中国政府高官のパニック状態をも、生々しく伝えている。徐錫麟の実力行使は、それなりの効果があったといえるのではないか。

 日本の各新聞を比較検討し、当時の情況を勘案すれば、魯迅が徐錫麟事件を知ったのは『東京朝日新聞』以外にはないことが明らかである。

 以下つけたし。『魯迅全集』第2巻(人民文学出版社1981北京第1版/1982北京第1次印刷)では、「范愛農」本文に見える『朝日新聞』と『読売新聞』に注をほどこして、次のように説明する。

『朝日新聞』と『読売新聞』 いずれも日本の資産階級の新聞。次の『二六新聞』は、『二六新報』とすべきである。人に聞き耳をたたせるニュースを掲載して有名。1907年7月8日と9日の東京『朝日新聞』には、徐錫麟が恩銘を暗殺した事件を報道する記事が掲載されている。

 上文で、『二六新聞』を『二六新報』とすべきである、というのは誤り。たしかに、『二六新報』という名で創刊された。しかし、幾度か改名しているのだ。

 二六新報   明治26.10.26−明治37.4.14
 東京二六新聞 明治37.4.15 −明治42.11.30
 二六新報   明治42.12.1 −大正3.7.25
 二六新聞   大正3.7.26 −大正3.10.31
 世界新聞   大正3.11.20 −大正7.2.11
 二六新報   大正7.2.12 −昭和15.9.11

という具合である。徐錫麟事件、秋瑾事件が報道されたのは明治40年だから、魯迅のいうように『二六新聞』でよろしい。中国の注釈をウ飲みにすべきではない。注をつけるとすれば、『東京二六新聞』が適当である。
 「1907年7月8日と9日の東京『朝日新聞』」、と具体的に日にちが明記してある。おそらく、竹内好訳『魯迅文集』第2巻(筑摩書房1976.12.10)の注を参照したのだろう(364頁)。本稿を見てもらえれば、徐錫麟事件、秋瑾事件の報道が、二日だけしかなかったわけではないことが、わかる。
 「范愛農」の日本語訳では、中国語の「刺殺」が出てくると、そのまま日本語の「刺殺」にしているものが多い(例外は、学研版『魯迅全集』第3巻1985.11.20。立間祥介訳)。これは、おかしいのではないか。日本語の「刺殺」は、刃物で人を突き殺す、という意味だ。しかし、中国語の「刺殺」は、「用武器暗殺」(『現代漢語詞典』)である。意味する範囲が広い。だから、日本語になおすならば、「暗殺」とすべきだ。新聞報道の事実に照らしても、「暗殺」でなければならない。                              

〔追記〕本稿完成後、次の文章があることを知った。大里浩秋「排満を叫んで駆け抜けた男の生涯──徐錫麟略伝──」(『中国研究月報』1984年10月号、11月号、1984.10.25、11.25)である。徐錫麟事件を報じる『東京朝日新聞』7月8日号、9日号その他が引用されている。

(さわもと きょうこ)


凡 例
  徐錫麟事件、秋瑾事件に関する新聞報道を時間順にならべる。1907(明治40)    年7月中の記事を抽出した。ただし、『同文滬報』は、印刷の都合上、    まとめてうしろにおく。
  記号★は、『大阪朝日新聞』を、
    ☆は、『大阪毎日新聞』を示す。
▼は、『東京朝日新聞』を、
▽は、『東京二六新聞』をあらわす。
  句読点は、編者がほどこした。本文の傍点、ルビは、省略する。
  漢字は、常用漢字を使用する。
  繰り返し記号で横組できないものは、適宜、変更した。
  例:7月8日(五月二十八日)は、カッコ内が陰暦をあらわしている。



★『大阪朝日新聞』明治40(1907)年7月8日(五月二十八日) 欄外記事
  ●恩巡撫の遭難 (上海電報 七日発)
安徽巡撫恩銘氏は、六日警務学堂生徒を検閲しつつありし時、突然爆弾破裂し、巡撫は負傷し、官吏数名に即死及び負傷を生ぜり。原因明かならざるも、風説に拠れば改革党員の爆裂弾を投ぜるものなりと云へるも信ずるに足らず。全く不明の出来事にて同伴の警務学堂総辧が之を弄びたるに由ると云ふが如し。

☆『大阪毎日新聞』明治40(1907)年7月8日(五月二十八日)
  ●恩巡撫等の奇禍 (上海来電 七日午後発)
安徽巡撫恩銘、練兵場において警務学堂学生の演習を検閲し居る際、突然弾丸爆発して巡撫は負傷し参列官吏中に若干の死傷者を出せり。原因は不明なるが、或る報道には革命党員が爆裂弾を投じたるものなりといふも信ずべき筋にては全く不慮の変災なりといひ居れり。同弾丸は警務学堂学監の配下が交付せしものなりと。

▼『東京朝日新聞』明治40(1907)年7月8日(五月二十八日)
  ●砲弾爆裂事件 (七日上海特派員発)
安徽巡撫は、昨日警務学堂学生の練習検閲中、突然破裂せる砲弾の為め負傷し、其他臨場の官吏に多数の死傷ありたり。椿事の原因は不明なり。或者は革命党員が爆裂弾を投じたるなりと言へど信ずべき筋の意見にては全くの怪我なるが如し。


★『大阪朝日新聞』明治40(1907)年7月9日(五月二十九日)
  ●巡撫暗殺 (北京電報 八日発)
安徽巡撫恩銘氏は、巡警学堂会辧某の為短銃にて暗殺さる。原因不明。(記者いわく、七日発上海電報に拠れば爆弾破裂の為負傷せしとあり、多分右報道を誤りしものならんか。暫く疑ひを存し置く)
  ●革命党征伐 (上海電報 八日発)
両江総督端方氏は、歩兵二箇中隊を安徽に派遣したり。更に五箇中隊を派遣する筈。湖広総督張之洞氏も又陸兵二千及び砲艦二隻を安徽に派遣せんとす。
  ●暗殺者処刑 (上海電報 八日発)
恩巡撫を暗殺したる徐士林は死刑に処せられたり。彼れは死に臨み革命党員たることを自白したり。尚、清国政府は、革命党鎮圧を各省督撫に電訓したり。是れ某国公使が外国の虚無党及び無政府党が孫逸仙等を助くる為資金を給与しつヽあることを密告したるの結果なりとの説あり。
  ●巡撫暗殺別報 (上海電報 八日発) 欄外記事
    ママ
安徽巡撫運銘氏は遂に死亡したり。布政使フエンスー氏署理巡撫を命ぜらる。尚、拳銃を以て運巡撫を射撃したる巡警学堂会辧候補道台徐士林は斬罪に処せらるべし。昨電砲弾爆裂云々は誤聞。運巡撫は孫逸仙等が水路揚子江より兵器を密輸入したるを探知し之が為革命党の恨を買へるなり。

☆『大阪毎日新聞』明治40(1907)年7月9日(五月二十九日)
  ●恩巡撫暗殺説 (北京来電 八日午前特派員発)
安徽巡撫恩銘は、同省警務学堂会辧のため短銃にて暗殺せられたり。革命党に関係あるならんとの噂なり。備考 上海来電の演習中の過失により負傷したりといふ説と符合せざれど併せ掲げて確報を待つ。
  ●恩巡撫暗殺原因 (上海来電 八日午後特派員発)
安徽巡撫恩銘は、終に死去せり。右につき布政使馮煦は一時同巡撫代理となれり。同巡撫を拳銃を以て(前報弾丸は誤り)射殺せし警務学堂学監にして道台候補を志望せる徐士林なる者は、斬罪に処せられたり。伝へらるゝ処によれば同巡撫は孫逸仙が揚子江沿岸に武器を輸入しつゝあることを発見せしため革命党の敵視を受け、終にその犠牲となりしものなりと。

▼『東京朝日新聞』明治40(1907)年7月9日(五月二十九日)
  ●安徽巡撫殺さる (同上<八日北京特派員発>)
安徽巡撫恩銘氏は、巡警学堂会辨の為め拳銃にて暗殺せられたり。原因不明。
  ●安徽巡撫暗殺 別報 (同上<八日上海特派員発>)
安徽巡撫恩銘氏は、終に死亡したり。布政使フエンスウ氏署理巡撫を命ぜらる。拳銃を以て恩巡撫を射撃したる巡警学堂会辨候補道台徐士林は斬罪に処せらるべし。昨電砲弾破裂云々は誤聞。恩巡撫は孫逸仙等が水路揚子江より兵器を密輸入せんとしたるを探知し之が為め革命党の恨を買へるなり。
  ●革命党征伐 (同上)
両江総督端方氏は、歩兵二箇中隊を安徽に派遣したり。更に五箇中隊を派遣する筈。/恩巡撫を暗殺したる徐士林は、死刑に処せられたり。彼は死に臨み革命党なることを自白したり。/湖広総督張之洞氏も亦陸兵二千及び砲艦二隻を安徽に派遣せんとす。/清国政府は、革命党鎮圧を各省督撫に電訓したり。是れ某国公使が外国の虚無党及び無政府党が孫逸仙等を援くる為め資金を給与しつヽあることを密告したるの結果なりとの説あり。


★『大阪朝日新聞』明治40(1907)年7月10日(六月一日)
  ●安徽巡撫後任
革命党の犠牲となりし安徽巡撫恩銘氏の後任は、同省布政使馮煦氏任命されたり。
  ●清廷の驚駭 (北京電報 九日発)
安徽巡撫暗殺は北京を震駭せしめ、近日頤和園に陸軍二営を添加し警戒を厳にせんとす。又八日三江両湖の各省に在る革命党中には陸軍武官の加担せる者多く、彼等は清暦八月各省一挙して反旗を翻すべく、若し外人之に干渉せんか大局の危険を招かんと上奏せし白旗都統某あり。為に西太后等大に憂慮し端方、張之洞両督に警戒すべく電訓したりと。
  ●革命党討伐 (北京電報 九日発)
両江総督端方氏は、南京より二箇大隊を派遣し、安徽の革命党を討伐せしむべしと。湖広総督張之洞氏も亦出兵すべし。

☆『大阪毎日新聞』明治40(1907)年7月10日(六月一日)
  ●革命党討伐隊 (上海来電 八日午後特派員発)
両江総督端方は、安徽方面に向け兵卒二中隊を送遣し、引続き五中隊を特派せんとす。又湖広総督張之洞も二千の兵と砲艦楚泰、楚有二隻を張師団長指揮の下に同方面に送遣せり。
  ●巡撫加害者処刑 (上海来電 八日午後特派員発)
恩巡撫の加害者徐志林は終に処刑せられたり。彼は自分の革命党員たることを白状せり。
  ●清政府の警戒
清国政府は外国の無政府党員等が窃に孫逸仙に資金を供給しつゝありとの某外国公使の警告に基き、此際革命党員に対し充分警戒する処あるべき旨を各総督巡撫に訓令せりと報ぜらる(前号欄外再録)
  ●革命党鎮撫策 (北京来電 九日午前特派員発)
政府は安徽巡撫恩銘が革命党員に暗殺せられたる警電に接し非常に驚愕し、両宮も亦恐を懐かれ、昨日軍機大臣会議を開きたるに、林紹年面奏して曰く、革命の風潮を除かんには天下に明詔を下し、臣民に広く立憲に関する言路を開き、依て下情を上達せしむるにありと。各大臣皆同意見にて、両宮も亦今回巡撫大官が革命派の手に斃れ到底捜索又は討伐等の圧政手段にのみ依るの不可なるを悟られたる折柄なるを以て、直に林紹年の意見を御採用ありたり。是れ昨日上諭の発表せられし確実なる原因なりといふ。
  ●新任安徽巡撫 (北京来電 九日午前特派員発)
昨日新任されたる安徽巡撫馮煦は、同省の布政使にして新任布政使呉引孫は前代理新彊巡撫なり。
  ●安徽討伐隊 (北京来電 九日午前特派員発)
端方および張之洞より安徽省の革命党討伐のため出兵すべし而して南京より出兵は二大隊兵なり。

▼『東京朝日新聞』明治40(1907)年7月10日(六月一日)
  ●安徽巡撫後任 (同上<九日北京特派員発>)
革命党の犠牲となりし安徽巡撫恩銘氏の後任は、同省布政使馮煦氏任命されたり。
  ●北京震駭 (九日北京特派員発)
革命党一撃の結果
安徽巡撫暗殺は北京を震駭せしめ、近日頤和園に陸軍二営を添加し警戒を厳にせんとす。/又昨八日三江、両湖の各州にある革命党中には陸軍武官の加担せる者多く、彼等は清暦中秋一挙して叛旗を翻へすべく、若し外人是に干渉助力せんか大国の危険を招かんと上奏せし白旗頭領某あり。為に西太后等大に憂慮し端方、張之洞両督に向ひて警戒を厳にす可き旨電訓せりと。
  ●刺客徐士林の党与 (同上<九日上海特派員発>)
上海に達したる総督端方氏の公電に依れば、安徽巡撫を殺害したる徐士林は満人排斥論者なる旨を自白したりといふ。/徐士林の処刑後其党与(半は巡警学堂の生徒)も捕縛され数名殺戮せられたるが内二名は広徳及桐卿方面へ遁走したり。


★『大阪朝日新聞』明治40(1907)年7月11日(六月二日)
  ●安慶静穏 (上海電報 十日発)
南京及び武昌の官兵到着以来安慶は平穏なり。
  ●暴徒追窮 (上海電報 十日発)
安徽巡撫恩銘氏を殺したる徐士林の党与にして逃走したるものは恵州及び廉州の暴徒に投ずるか或は海外に赴くならん。右関係地方へ彼等を捕縛する為其の写真を送りたり。

☆『大阪毎日新聞』明治40(1907)年7月11日(六月二日)
  ●巡撫暗殺後報 (上海来電 九日午後特派員発)
両江総督端方より上海道台に達したる電報によれば、恩銘を暗殺したる徐志林は多年間満州朝廷に反対の意見を懐き居ることを自白したり。又南京より軍隊及び砲艦二隻を安徽に派遣せられたるが同地の住民は徐の処刑後静穏なり。又徐の同類は多くは警務学堂員にして其兵器は押収せられ、其数人は殺され二人は逃走したるが、其同類は揚子江の諸港に充満せりと報ぜられしため地方官憲は厳重に警戒中なり。
  ●安慶の静穏 (上海来電 十日午後特派員発)
南京、五城鎮両軍の安慶に到着以来同地は静穏となれり。
  ●暗殺者同類警戒 (上海来電 十日午後特派員発)
恩巡撫暗殺者徐志林の同類二名逃亡して広東省欽州の匪徒に投ずるか、若しくは海外に遁るゝ虞あるを以て其通過すべき諸省に彼等の写真を配付し捕縛方を照会せり。

▼『東京朝日新聞』明治40(1907)年7月11日(六月二日)
  ●安慶平穏 (同上<十日北京特派員発>)
南京及武昌の官兵到着以来安慶は頗る平穏なり。
  ●徐錫麟徒与物色 (同上)
安徽巡撫恩銘を殺害したる徐錫麟の徒与にして逃走したるものは恵州及び廉州の暴徒に投ずるか或は海外に赴くならん。右関係地方へは彼等を捕縛する為め写真を送られたり。
  ●安徽省革命党猖獗
巡警学堂会辨徐錫麟の安徽省巡撫暗殺と共に爆発したる該地方一帯の革命運動は意外に猖獗を極め、両江、湖広両総督より陸兵並に砲艦を派して鎮定に従事中なる趣は既に屡次特電の報ずる所なるが、其筋にも駐在官より同一の報道頻りに到達せる由。
  ●徐錫麟の閲歴(巡撫暗殺者)
朝日記者足下  今回安徽巡撫を暗殺せし徐錫麟氏は、浙江省紹興府の人にして字を伯と云ひ平生教育に熱心し尤も意を満州排斥に注ぎ初は特に秘密会の中に運動して革命軍を起さんとせしが後ち暗殺を主張致候。適ゝ支那革命の志士中に○○暗殺団の組織せらるヽや氏は即ち身を此会中に投じ候。然るに大官を暗殺するには之に接近せざれば其目的を達すると能はず、因て大金を捐納して安徽候補道台の官名を買ひ跡を官場の中に混じて人の疑を避くるの策を取り候。氏は去年安徽に赴きたるが未だ一年に及ばずして今回の事件を生じ候。氏の恩銘を殺したるは即ち其排満の革命思想を表するものにして軍器密輸の事とは全く干係なきものに御座候。現今支那革命党の革命軍を振興せんと欲する者は多く孫逸仙と聯絡致候得共徐氏等の団体は満州の大官及漢人にして満州に興する立憲党の主なる奸物を暗殺するを専門とするものにて孫逸仙と其主義は同じきも手段は稍ヽ異なるものに御座候。日本人中には支那に○○暗殺団あるを知るもの少なく候に付一言御説明申上候。敬具
 七月十日 無名生


☆『大阪毎日新聞』明治40(1907)年7月12日(六月三日)
  ●匪徒拿獲の上諭 (北京来電 十一日午前特派員発)
十日付の上諭に曰く、昨端方、馮煦等の電奏に依り均しく悉す。安徽巡撫恩銘巡警学堂に赴き考試す。該学堂会辧道員徐錫麟胆敢衆を率ゐ槍(即ち銃)を持し、擅に撃ち該撫を殺害し、並に巡捕知県試用府経歴陸頤、収支員経歴顧松を傷斃すと。寔に不法の極に属す。徐錫麟は既に当場(その場において)拿獲し法を正すを経たり。并に匪徒数名を獲し、端方等兵艦衛隊を派遣し該省に前往し、協力防範するを経て現在地方平静人心安堵し、辧理尚妥速に属す。唯匪党光復子、陳伯平、宗漢水の査明厳なるも尚免るゝにあり。各省督撫に命じ文武員を督飭して厳拿せしむ。務獲懲辧漏網に委するなかれ。陸、頤、顧松は該部に命じ優に従ひ擬恤せしむ。
  ●恩巡撫加恩上諭 (北京来電 十一日午前特派員発)
同日の上諭に曰く、安徽巡撫恩銘は郷人、知県より道員に登り進んで境寄(即ち総督、巡撫等の事)に当り忠実能く其職を尽す。此度公に依て草卒害せらる。寔に憫惻に堪たり。恩を加へ総督陣亡の例に照らし優に従ひて擬恤し、任内一切の処分は悉く回復を与へ、其子参政候補道盛麟は道員を以て速補せしむ云々。
  ●安徽福建両布政使 (北京来電 十一日午前特派員発)
又上諭あり、曰く、呉引孫(新任安徽布政使)は原籍を回避せんことを(安徽は呉の原籍地といふを以て之を忌避するなり)奏請せり。依て呉は福建布政使に転補し安徽布政使は連甲をして地を代へしむと。
  ●匪徒同類銃殺 (上海来電 十一日午後特派員発)
恩巡撫を暗殺したる徐志林の同類にして逃亡したる二人は捕縛されたるが、其内の一名は抵抗したる廉を以て銃殺されたり。

▼『東京朝日新聞』明治40(1907)年7月12日(六月三日)
  ●安徽巡撫殺害後報 (同上<十一日北京特派員発>)
革命党員の為め暗殺されたる安徽巡撫恩銘の葬儀は総督殉亡の例に倣ひ営むこと及安徽布政使の進退伺を容れ福建布政使に転補すとの上諭昨十日発せらる。
  ●徐錫麟の部下逮捕 (同上<十一日上海特派員発>)
安徽巡撫を殺害したる徐錫麟の部下にして曩に逃走したる二名は逮捕され、其一名は抵抗したる為め銃殺せられたり。
  <三面に写真「安徽巡撫殺害者徐錫麟」が一枚ある。説明文はない>


★『大阪朝日新聞』明治40(1907)年7月13日(六月四日)
  ●徐士林の遺族 (上海電報 十二日発)
浙江巡撫は新任安徽巡撫の請求に依り、浙江省紹興なる徐士林の家族を逮捕し、其の家宅を捜索して手紙類を押収したり。徐の弟某は九江に於て捕縛さる。

☆『大阪毎日新聞』明治40(1907)年7月13日(六月四日)
  ●大官の恐慌 (北京来電 十一日発)
革命党が安徽巡撫恩銘を暗殺せしより大官等いづれも恐慌の状あり。由来大官は夏季に際し宮城及び満寿山の間なる昆明湖の水を引きて作りたる水路に蒸気船を泛べて往来したりしが、匪類の水雷を敷設せんことを恐れて本年は之を止め警戒を厳にしつゝあり。殊に慶親王は多年専横の跡を顧みて恐懼措く所を知らず。暗殺事件の御下問に対し、革命党を除くには速かに憲法を制定し之を発布するに如かずと奉答し、結局去八日博訪周諮の上諭出づるに至りしなりと。

▼『東京朝日新聞』明治40(1907)年7月13日(六月四日)
  ●徐錫麟の遺族 (同上<十二日上海特派員発>)
浙江巡撫は新任安徽巡撫の請求により、浙江省紹興なる徐錫麟の家族を逮捕し、其家宅を捜索して手紙類を押収したり。/徐錫麟の弟某は九江に於て捕縛さる。

▽『東京二六新聞』明治40(1907)年7月13日(六月四日)
  ●大官の恐慌 (同上<北京電報 十一日発>)
革命党が安徽巡撫恩銘を暗殺せしより大官等は悉く恐慌の色あり。従来大官は夏期に際し宮城及び満寿山の間は昆冥湖の水を引きて作りたる水路に蒸気船を浮べて往来したりしが、匪類の水雷敷設を恐れて之を止め且つ警戒を厳にす。特に慶親王は多年専横の跡を想ひて恐懼措く所を知らず。暗殺事件後御下問に対し、革命党を除くには速に憲法を設けて之れを発布するに若かずと奉答し、結局去る八日立憲準備の上諭出るに到しなりと。


★『大阪朝日新聞』明治40(1907)年7月14日(六月五日)
  ●安慶鎮定 (上海電報 十三日発)
安慶地方は既に平定せるを以て趙将軍の引率せる湖北軍は十二日同地を引揚げたり。
  ●巡撫着任 (上海電報 十三日発)
安徽新巡撫馮煦氏着任せり。安慶府の人心鎮静し湖北の兵帰れり。

▼『東京朝日新聞』明治40(1907)年7月14日(六月五日)
  ●安慶鎮定 (同上<十三日上海特派員発>)
安慶地方は既に平定せるを以て張将軍の引率する湖北軍は昨日同地を引揚げたり。


★『大阪朝日新聞』明治40(1907)年7月16日(六月七日)
  ●革命党与強圧 (上海電報 十五日発)
故徐錫麟(徐士林は誤り)の設立せる浙江省紹興の独逸学堂は其の筋の命令に依り閉校したり。学生は反抗を試みたるも遂に兵力を以て閉校を強制せられ且多数の学生は捕縛されたり。/又徐錫麟の父某が営める絹物店も亦閉店を命ぜられたるが、此の処置に対し浙江省の学生及び紳商は非常に憤慨し居れり。

☆『大阪毎日新聞』明治40(1907)年7月16日(六月七日)
  ●学堂閉鎖 (上海来電 十五日午後発)
浙江省紹興府において徐錫麟(恩巡撫暗殺者)の設立せる大通学堂は其筋より閉鎖を命ぜられ、学生は之に反対したれども軍隊の力を以て圧服せられ数名の学生は捕縛せられたり。
  ●罪商店に及ぶ (上海来電 十五日午後発)
徐錫麟の父の所有に係る絹布商店は是亦其筋より閉店せしめられ浙江省学者及び紳董の憤慨を惹起せり。

▼『東京朝日新聞』明治40(1907)年7月16日(六月七日)
  ●革命党征伐 (同上<十五日上海特派員発>)
故徐錫麟の設立せる浙江省紹興の独逸学堂は其筋の命令により閉校したり。学生は反抗を試みたるも終に兵力を以て閉校を強制せられ、且多数の学生は捕縛されたり。/又徐錫麟の父某が営める絹物店も又閉店を命ぜられたるが、此処置に対し浙江省の学生及紳商は非常に憤慨し居れり。



☆『大阪毎日新聞』明治40(1907)年7月18日(六月九日)
  ●安徽巡撫暗殺の光景
安徽巡撫恩銘が本月六日巡警処会辧候補道徐錫麟のために殺害されたることは既電の如くなるが、今当時の光景を聞くに、六日は安徽巡警学堂の修業証書授与式にて恩巡撫其他大官の臨場を求めしかば、午前十一時巡撫は巡捕に護衛されて式場に臨みたり。是より先、巡警処会辧徐錫麟は練兵場に在て学生等に対し、諸君は常に結団して祖国を救はざるべからずと絶叫し其語気慷慨悲壮を極め声は遠近に震ひ渡りぬ。然れども学生等は其意を解せず呆然たる折柄、巡撫布政使按察使提学使等文武官五十余名相前後して到着したれば、徐は先づ教室内に学課を見む事を乞ひ、巡撫は之を諾して文武官を伴ひ第三の式場に入れり。此時徐は軍服を着して式場の階上に立ち官生(官員にして学生よりなれるもの)等は列を作りて巡撫に礼を行ひ、次に兵生(普通の学生)の一組将に礼せんとせる時、徐は忽然歩を進めて挙手の礼をなすより早く靴の中に隠せる(支那の礼靴は長靴にして中には物を入れ得る様に製しあり)ピストル二挺を取り出し両手に一挺づゝ握り、恩巡撫を目がけて撃つ事数発、徐の門生にして徐を警衛せる二人も亦銃を手にして突進し処嫌はず乱射せし為め式場は忽ち阿鼻叫喚の大地獄と変じ、臨場の各員は或は殺され或は傷つき命からがら遁走し、巡撫を擁蔽せんとしたる巡捕も一名は重傷を負ひ一名は立ろに斃れ、巡撫も肩に腰に脇に数粒の弾丸を受けて地上に倒れたるを巡撫の下僕数名は肩に掛けて轎の中にかつぎ入れ、官署を指して急ぎ去りたるが、急所の痛手に堪へず午後二時遂に瞑目せり。此時警巡学堂の教員学生の多数は、皆四散して僅に二十余人を残せるのみ。徐は刀を抜きて式場を出で大喝一声「巡撫は既に刺されたり。我等は更に進撃して奸を捉へん。速に我革命の軍に服すべし」と絶叫したれば、諸生は驚愕為す処を知らず徒に戦慄せるにぞ。徐を護衛せる二人は左に利刀を執り、右にピストルを握りて諸生を横目に睨み、「気を付けツ」「左へ廻はれー」「駆足ー」と大呼したるに一名の学生は躊躇決する能はざるを見て、徐は憤然之を斬殺しければ、残余の学生は勢に畏れて一斉其命に服従せり。是に於て徐は隊伍を整へて軍器庫に押寄せ、巡撫既に命を殞す、我等は来て軍器所を保護するものなりと揚言したるに、軍器庫総辧周家Iは勢に怯ぢけて何処にか逃走し去りたれば、徐は内に入り学生に命じて新旧式の各砲を験せしめたるに、誰とて之を知るものなく大に気を焦ち居る折しも、緝捕営の杜春林、中軍兼巡防営標流劉利貞及び稽査知県労文J等各兵勇を帯し来て軍器庫を包囲したれば、徐は其護衛二人と共に正門を防守し辧勇六名を銃殺したり。然れども護衛等は衆寡敵すべからざるを知りて逃げ込みたれば、徐も亦急に退きて隣家の某方に躍り入りたり。それとも知らず緝捕営の勇士は功を争ひて倉庫内に闖入したるも不思議や彼の姿は見えずして只瓦石の錯乱せるあるのみ。労文J、劉利貞、杜春林の三人は遂に隣家に侵入して漸く徐を捕縛し、尚学生十余人並に衣服形容の学生に似たるもの約二十余名を捕縛して督練所に引立てたり。督練所にては布政使、按察使其他の大官徐を審問し、「巡撫の汝を待つ決して当を得ざるものなきに何故彼を殺害せしや」と詰問せしに、徐は、「我は私怨あるにあらず。然れども我の彼を刺せるは他に一大事のありて存す。我は革命党なり。我は先づ恩銘を殺して更に端方、錫良、鉄良、徐世昌等をも刺さんと欲せり。学堂の諸生は固より何等の関係なし。速に我を誅すべし」と臆面なく述べたれば、直ちに東轅門の側に引立てヽ先づ其腹をKりて祭酒をなし、更に其首級を斬りて梟せりと云ふ。元来此事件の原因に付ては未だ確知する能はずと雖も、今日迄に伝聞する所によれば徐錫麟は孫逸仙と常に文通しつヽあり。近来恩巡撫が徴兵を首とし警務にも亦力を極め、若し革命派のもの乱を起さんには一撃の下に之を鎮圧せんとの用意をなせるのみならず、武器弾薬等が革命派によりて長江一帯に密輸せらるヽを速かに発見し、これに関係あるものを厳に査拿する等の事あり。為めに徐は我党の仕事を妨害するは恩巡撫なりとて此暴行を敢てなしたる次第なりと。彼は字を伯生といひ浙江省紹興の人、曽て日本に留学し又独逸にも赴きし事あり。初め湖北省の候補道となり、後安徽候補道に転じ、陸軍学堂の総辧となり、次で今春巡警処会辧兼理学堂事務となり、花L二品頂戴を有し其警務を辧理して以来誠実事に任じ、上官亦彼に対して何等の疑ふ処なかりしと。尚彼は曽て書店を設け新民叢報其他新訳の書物を売り居たる事もある由。


★『大阪朝日新聞』明治40(1907)年7月19日(六月十日)
  ●大官と革命党 (北京電報 十七日発)
革命党は巡撫を殺せし徐錫麟の成功に鑒み挙兵の労多くして暗殺の便利なるを悟り、慶親王、端方、鉄良を手始めとして殺すべく、漢人に於ては張之洞、陳璧以下及び頑冥なる鹿傳霖等も免れざるべしとの説あり。彼等は之に対する措置及び自ら難を免るヽの方法に就き連日協議し、慶親王は数度辞意を漏せり。此の際尚書、侍郎中には満漢の融和を計り、一面疾く憲法を発布すべしとの議に賛成する者多し。蕭親王は革命党中に有為の材多く且愛国者に富めるを以て地方自治の制を布き、彼等自ら政局に当り責任ある地位に立たしめば漸次順良の民となるべしと主張しつヽあり。
  ●徐錫麟の余党 (上海電報 十八日発)
浙江省紹興府に在る独逸学堂の学生二名、徐錫麟の党与なりとの理由を以て斬罪に処せられたり。/上海の支那新聞は故徐錫麟の門弟及び未亡人并に其の父に対する浙江省官吏の処置に対し非常に憤慨しつヽあり。
  ●安徽巡撫の被害
本月六日安徽巡警学堂修業証書授与式に際し該学堂は、恩巡撫其の他大官の臨場を求めしより、同日午前十一時巡撫は巡捕に護衛せられて式場に莅みしに、諸学生は両班に 立して之を歓迎せり。之より先き、巡警処会辧徐錫麟は練兵場に在りて学生に対し、諸君は当に結団して祖国を救はざるべからずと絶叫し其の語気慷慨悲壮を極めたり。然れども学生等は其の意を解し兼ね呆然たる折柄、巡撫、布政使、按察使、提学使其の他府県の文武官五十余名相前後して到着したれば、先づ巡撫に請ひ学生の操練を検閲せん事を希望し将に其の座を起たんとするや、徐は偽つて教室内の学課を見ん事を願ひ、巡撫は文武官を伴ひ第三式場に入れり。此の時徐は軍服を着して式場の階上に立ち官生(官員にして学生たるもの)等は列を作りて巡撫に礼を行ひ、次に兵生(普通の学生)の一組が将に礼せんとせる時、徐は忽然歩を進めて挙手の礼をなすより早く長靴の中に隠せるピストル一対を取り出し両手に一箇宛を握り、恩巡撫を目がけて轟撃する事数発、此の時徐の門生にして徐を警衛せる二人も亦銃を手にして突進し処嫌はず乱射せし為臨場の各員は或は殺され或は傷つき命からがら紛竄したり。此の時巡撫を擁蔽せんとしたる巡捕の一名は重傷、一名は立ろに斃れ、巡撫自身も肩に腰に脇に数粒の弾丸を受け地上に倒れたるを巡撫の下僕数名は肩に掛けて轎の中にかつぎ入れ、官署を指して急ぎ帰りたるも、急所の痛手に堪へず午後二時遂に瞑目せり。此の時警巡学堂の教員学生の多数は、奔散逃避し僅に二十余人を残せるのみ。此に於て徐は刀を抜て式場を出で大喝一声「巡撫は已に刺されたり。我等は更に進撃して奸を捉へん。速かに我が革命の軍に服すべし」と絶叫せるにぞ、諸生は驚愕為す所を知らず只徒らに疑懼戦慄せるを、護衛の二人は左に利刀を執り、右にピストルを握りて諸生を横目に睨み、「気を付けツ」「左へ廻れー」「駆け足ー」と大呼したるに一名の学生が躊躇の状を見て、徐は憤然斬殺しければ、残余の学生は勢に畏れて一斉服従せざるを得ざりき。/徐は隊伍を整へて軍器庫に押し寄せつヽ、巡撫已に命を殞す、我等は来て軍械所を保護するものなりと揚言したるに、総辧周家煌は其の勢ひに怯ぢ気づき何処にか逃走し去りたり。徐は悠然中に入りて抵禦の計を為さんとて学生に命じて新旧式の各砲を試験せしめたるに、誰とて之を知る者なく大に気を急ち居る折しも、緝捕営の杜春林、中軍兼巡防営標統劉利貞及び稽査知県労文J等各兵勇を帯し来り軍器庫を包囲したれば、徐は其の護衛二人と共に正門を防守し辧勇六名を銃殺したり。然れども護衛等は衆寡敵せざるを知り逃げ込みたれば、徐も亦急に退きて隣家の某方に跳び入りたり。其れとも知らず緝捕営の勇士は功を争ひて倉庫内に闖入したるも不思議や彼れの姿は見えず。更に某家に侵入し捜査の結果、漸く徐を発見して立ろに捕縛し、尚学生十余人並に衣服形容の学生に似たるもの約二十余名を捕縛して督練所にと引つ立てたり。/督練所にては布政使、按察使其の他の大官の審問に対し徐は、「巡撫と私怨あるに非ざるも、我は革命党なり。我々は満人に仇せんとす。我は先づ恩銘を殺し後端方、錫良、鉄良、徐世昌等をも刺さんと欲せり。学堂の諸生は原より何等の干係なし。速かに我を誅すべし」と臆面なく述べたるより、直ちに東轅門外に引つ立て行き、梟首の刑に処したり。/此の事件の原因に就ては未だ確聞する所無きも、今日迄伝へらるヽ所に拠れば徐錫麟は孫逸仙と常に文通し居りて近来恩巡撫が徴兵を首とし警務にも力を極め、若し革命派のもの乱を起さんには一撃の下に之を鎮圧せんとの用意をなせるのみならず、武器弾薬等が革命派によりて長江一帯に密輸せられつヽあるを発見し、これに干係あるものは厳切に査拿する等の事あり。為に徐は我が党の仕事の妨害者は恩巡撫なりと推測して此の暴行を敢てするに至れる次第なりと。/徐の党派にて陳伯平変名光復子及び馬宗漢なるものありて一時逃亡したるも、両人とも間もなく捕拿せられたり。/安徽巡撫の後任は安徽布政使たりし馮煦氏に命ぜられて已に其の印綬を帯びたり。/斯く書き終らんとせる際、徐錫麟の弟徐偉九江にて捕はれ、又徐の一族は紹興に逃亡せりとて浙江巡撫より派兵追拿中なりとの報あり。

☆『大阪毎日新聞』明治40(1907)年7月19日(六月十日)
  ●学生斬首 (上海来電 十八日午後特派員発)
浙江省紹興府大通学堂の学生二名は徐錫麟の同類たる故を以て斬首せられたり。
  ●新聞紙の憤怒 (上海来電 十八日午後特派員発)
当地の支那新聞は、浙江省官吏が学生女教師および徐錫麟の父に対してなせる処置について憤怒し居れり。

▼『東京朝日新聞』明治40(1907)年7月19日(六月十日)
  ●故徐錫麟余党斬首 (同上<十八日上海特派員発>)
浙江省紹興に在る独逸学堂の学生二名は故徐錫麟の党与なりとの理由を以て斬罪に処せられたり。/上海の支那新聞は、故徐錫麟の門弟及び未亡人並に其父に対する浙江省官吏の処置に対し非常に憤慨しつヽあり。


★『大阪朝日新聞』明治40(1907)年7月20日(六月十一日) 欄外記事
  ●女教師斬首 (上海電報 十九日発)
浙江省紹興の明道学堂の女教師秋瑾、徐錫麟の徒党と認められ斬首せらる。学校も亦閉鎖されたり。
  ●革命党員 (上海電報 十九日発)
徐錫麟の弟徐某は恩巡撫殺害の謀に与らざる事分明し放免せられたり。浙江省紹興の知府は特別の審問をも為さずして徐錫麟の党類某を死刑に処せりとの廉を以て上海各新聞に非難の声高し。

☆『大阪毎日新聞』明治40(1907)年7月20日(六月十一日)
  ●女教師斬首 (上海来電 十八日午後特派員発)
浙江省紹興府なる明道学堂の女教師沖瑾は徐錫麟の徒党なりと認められ斬首の後其学校は閉鎖せられたり。
  ●徐偉釈放 (上海来電 十九日午後発)
徐錫麟の弟徐偉は全く暗愚なること判明し愈釈放されたり。
  ●紹興知府の非難 (上海来電 十九日午後発)
浙江省紹興府知府貴福は女教師沖瑾に対し適当の審問をなさずして処刑したりとの故を以て当地清国新聞紙より非難されたり。

▼『東京朝日新聞』明治40(1907)年7月20日(六月十一日)
  ●徐錫麟党与又斬罪 (同上<十六日上海特派員発>)
浙江省紹興県明道学堂の教師秋瑾は故徐錫麟の党与なりと認定され斬罪に処せられ学堂も同時に閉校を命ぜられたり。
  ●徐錫麟の弟 (同上)
故徐錫麟の実弟は安徽巡撫暗殺に全く無関係なると判明して放免されたり。
  ●紹興知県に対する非難 (同上)
浙江省紹興県の知県は相当の審問を尽さずして明道学堂教師秋瑾を死刑に処したりとて当地支那新聞の攻撃を受けつヽあり。


★『大阪朝日新聞』明治40(1907)年7月21日(六月十二日) 欄外記事
  ●青天白日 (上海電報 二十日発)
浙江省紹興府に在る徐錫麟の家族及び門下生等は悉く放免せられたり。

▼『東京朝日新聞』明治40(1907)年7月21日(六月十二日)
  ●故徐錫麟の遺族 (同上<二十日上海特派員発>)
故徐錫麟の遺族及門弟は皆放免せらる。


★『大阪朝日新聞』明治40(1907)年7月25日(六月十六日)
  ●留学生任用廃止 (上海電報 二十四日発)
前安徽巡撫恩銘氏殺害の結果陸軍部は外国より帰朝せる留学生の任用を廃止したり。又学務部も日本に留学する清国学生に就て何事か秘密に奏上したり。

☆『大阪毎日新聞』明治40(1907)年7月25日(六月十六日)
  ●留学生忌避 (上海来電 廿四日発)
安徽巡撫恩銘暗殺のため陸軍部は帰国留学生の登庸を禁止し又学部も在日本留学生につき秘密の建白をなせり。

▼『東京朝日新聞』明治40(1907)年7月25日(六月十六日)
  ●留学生任用廃止 (同上<二十四日上海特派員発)
前安徽巡撫恩銘氏殺害の結果陸軍部は外国より帰朝せる留学生の任用を廃止したり。又学務部も日本に留学する清国学生に就て何事か秘密に奏上したり。

▽『東京二六新聞』明治40(1907)年7月25日(六月十六日)
  ●学生不採用 (同上<北京電報廿三日発>)
陸軍部は軍事軍制軍学軍医軍法五司の軍吏を留学生及び学校出身の内より採用する筈なりしが、巡撫殺害の事ありし以後、鉄良は革命党を恐るヽこと甚しき為め、学生出身を採用せざる意見を主張しつヽあり。


★『大阪朝日新聞』明治40(1907)年7月28日(六月十九日)
  ●南清官憲警戒 (上海電報 二十七日発)
安徽巡撫馮煦氏は日本在留の清国学生方其の他若干名帰国して騒擾を惹起し以て徐錫麟の処刑に報復するの意志あることを偵知したり。其の結果長江流域の地方官は警戒を加へつヽあり。

☆『大阪毎日新聞』明治40(1907)年7月28日(六月十九日)
  ●安徽巡撫の警戒 (上海来電 廿七日午前特派員発)
新任安徽巡撫馮煦は日本における清国学生および其他の徒が帰国して徐錫麟の処刑に対し復讐せんがため騒乱を惹起さんとする陰謀あるを発見し、揚子江附近の地方官憲に警戒を加へつヽあり。

▼『東京朝日新聞』明治40(1907)年7月28日(六月十九日)
  ●南清官憲警戒 (二十七日上海特派員発)
安徽巡撫馮煦氏は日本在留の清国学生方其他若干名帰国して騒擾を惹起し以て徐錫麟の処刑に報復するの意思あることを偵知したり。其結果長江流域の地方官は警戒を加へつヽあり。


★『大阪朝日新聞』明治40(1907)年7月31日(六月二十二日)
  ●端方の進退 (北京電報 三十日発)
端方氏入京軍機処に入るべしとの説ありしが、安徽巡撫暗殺以来端氏も恐怖し、重要事件ありとて数回密電を発し入京の運動を為せるは事実なり。然るに目下両江督撫中満人三人ありしが恩銘殺され端方若し去るとせば人心動揺の憂ひある故、政府は入京を懌ばず行艱み居れり。
  ●革命党を怖る (北京電報 三十日発)
革命党の勢力増加に就き斯くて止まざれば彼等の事を挙ぐるに際し外国政府も之を公認するの憂ありとて各大臣会議を開き尚南方督撫の意見を電詢せり。
  ●革命党の勢力 (北京電報 三十日発)
数年前までは政府革命党を尋常草賊と同一視し、世人も之を厭ひ注意せざりしが、近来急に勢力を得土匪の乱を起すにも尚口を革命に藉り、勉めて声を大にするが如く、政府亦之を怖るヽこと虎の如きに至れり。是れ革命党の不屈の精神と漸次節制ある運動を取るに由るならんも、殊に安徽巡撫の暗殺に関し官の処置は残酷を極め、刺客を野蛮の刑に処せるのみか犯罪と関係なき店舗を封鎖し学生を殺し、更に女教師秋瑾を死刑に処せしより、皆冤を怨み民心彌離れたるに由る故に今は革命党の勢力増加を当然とし暗に同情を寄するの傾向あり。

▼『東京朝日新聞』明治40(1907)年7月31日(六月二十二日)
  ●総督端方入京問題 (三十日北京特派員発)
軍機処に入るべしとの風説ある両江総督端方氏が、安徽巡撫暗殺以来急用事件ありとて数回密電を発し入京の運動を為せるは事実なり。然るに恩銘は殺され端方は去るとせば満人の高官俄に減少し、人心動揺の虞あるより、政府は端氏の入京を悦ばず行悩み居れり。
  ●北京政府と革命党 (同上)
革命党の勢力近来日に益増加し斯て止まざれば彼等が事を挙ぐるに際し外国政府も之を公認するの虞ありとて各大臣会議を開き尚南方督撫にも警電を発せり。
  ●清国革命党現情 (同上)
数年前まで北京政府は革命党を草賊と同一視し、世人も亦之を厭ひ注意せざりしが、革命党は近来急に勢力を得土匪が乱を起すにも尚口を革命に藉り、努めて声を大にし、政府亦之を恐るヽこと虎の如くになれり。是れ革命党の不屈の精神と漸次節制ある運動を為せるに因るならんも、殊に安徽巡撫の暗殺に関し官憲の処置惨酷を極め、刺客を野蛮の刑に処せるのみか犯罪と何等関係なき店舗を閉鎖し学生を殺し、遂に女教師秋瑾を死刑に処したるより、皆冤を恨み民心愈離れたるに因る故に今は革命党の勢力増加を当然とし世人暗に同情を寄するの形勢あり。