〓 叟 と い う 人 物――呉〓人の筆名をめぐって 


樽 本 照 雄


 1.はじめに

 〓叟あるいは〓叟は、長い間、呉〓人の筆名であるとされてきた。事実、そうであると書く文章、筆名録などが、現在でも多い。
 ところが、〓叟は、実のところ、呉〓人の筆名ではないという新説が出されているのだ。そればかりか、呉〓人ではない別人の名前が、具体的に指摘されてもいる。
 にもかかわらず、新説が妥当であるかどうか検討されたことはない。さらには、あらたに出現した別人についても、今にいたるまで、探究はなされていない。名前のみで、いったい誰なのか、説明はないのだ。
 本稿では、〓叟非呉〓人筆名説を検討し、一歩すすめて、筆名の主を考えてみたい。


 2.呉〓人の号・筆名

 2−1.連想の筆名
 呉沃尭は、原名が宝震、又の名を沃尭、字を小允という。同治五年四月十六日(1866.5.29)に生まれ、宣統二年九月十九日(1910.10.21)に逝去した。
 呉〓人の号・筆名を一覧するために、張静廬、李松年「辛亥革命時期重要報刊作者筆名録」を引用する。 張泰谷重編『筆名引得』(台湾文海出版社1971.10)でもいいようなものだが、こちらは張静廬、李松年のものを、別の筆名録とあわせて編集しなおしたものにすぎない。やはり、原物を示したほうが、誤植がなくていい。

呉沃尭 呉〓人 繭人 繭叟 我仏山人 嶺南将叟 小允 焉@燧D 繭闇
    〓叟 〓叟 偈 怫 迪斎 老上海 息影廬主 中国老少年
    抽絲主人*1

 呉〓人のもとの号は、繭人であった*2。蚕が、糸をはいてみずからを縛る、自縄自縛からとったという。
 繭人につらなるものが、繭叟、繭闇、抽絲主人であるのは一目瞭然であろう。叟は、老人を、闇は、庵を意味する。上海での寓居を繭闇と称していたことがある*3。抽絲は、いうまでもなく絹糸を紡ぐことだ。
 のち、繭jianを同音の烽ノ改めた。烽ヘ、手足にできるタコの意味だ。すると、熕lはタコの人か4*。燧Dの廛は、すまいのこと。
 また、 瀚ianには、jiangという音もあり、将に通じるから、嶺南将叟なのである。嶺南(今の広州)と冠するのは、呉〓人は、北京生まれながら、広東南海県仏山鎭の人であるからだ。あえて区切れば、「我/仏山/人」ということになる。ところが「我仏/山人」と誤解されることが多く、そこから「偈」がでてきたり、「怫」(ムッとしてふさぎこむ)だりするのかとも思う。
 叟の方からは、老人→少年のとしおいたもの→「老少年」、という流れになるだろう。
 上の筆名録には収録されていないが「検塵子」という筆名もある。検jianは、繭、烽ニ通音し、「検塵子」は、チリひろい人、となる。
 同じく未所収の「野史氏」がある。「野史氏」という筆名をもった人物は、呉〓人ひとりではない。 学者・王晋卿(1852-1936)とか孫奇逢の名前をあげることが可能だ。筆名の意味は、本来、正史に対するものであろう。しかし、王、孫の場合は知らないが、呉〓人に「野史氏」とくれば、「也許是」(そうかもね)と連想したくなる。なまって読んでみてほしい。こうなると、ほとんど冗談の世界である。

 2−2.筆名マップ
 別に掲げた「呉〓人筆名マップ」は、呉〓人の筆名の使用例を作品と年代の両方にまたがって一覧したものである。これを見れば、どの筆名がいつ使われたのかが、すぐ、わかる。たとえば、繭を烽ノ改めたのは呉〓人四十一歳、1906年のことである、と魏紹昌は述べる*5。しかし、熕lの名前は、それより以前の1901年には早くもあらわれている*6。
 また、マップからは、繭人、小允、繭闇を使用した作品は、活字にはなっていない、あるいは、まだ発見されていないこともわかるのだ。
 この呉〓人筆名マップを見て、疑問に思われるであろう。そうだ。呉〓人の筆名だと一般にいわれており、筆名録にもはいっている〓叟、〓叟、迪斎、息影廬主といったものを掲げていない。これこそが、本稿の眼目なのである。


 3.阿英説その他

 3−1.息影廬主の場合
 まず、呉〓人の筆名といわれるようになった(嶺南)息影廬主から、みてゆく。いかにして、呉〓人の筆名と考えられるようになったのか。
 阿英の「晩清小説目」に、次のような本が採取してある。

 紅涙影 英巴達克礼著。息影廬主訳。宣統元年(一九〇九)広智書局刊。二十四回。四冊*7。

 該書が、1926年、世界書局から再版された時、その広告に「物故小説家我仏山人呉〓人の傑作」とうたわれたのだそうだ*8。それで、息影廬主は、呉〓人の筆名、ということになったらしい。わずか1例しかないのに、呉〓人の筆名と断定してしまったことになる。擁護していえば、作家本人が認めているもの以外は、筆名の判定をすることは、元来、むつかしいものなのだ。

 3−2.迪斎の場合
 迪斎の作品には、『盗偵探』がある。
 阿英「晩清小説目」は、奇妙なかかげかたをしているので見てほしい。

盗偵探 解朋訳。又題金歯記。宣統二年(一九一〇)群学社刊。
盗偵探 迪斎訳。光緒三十二年(一九〇六)月月小説本*9。

 訳者に、解朋と迪斎のふたりがいるように読み取れるが、解朋著、迪斎訳述が正しい。 阿英の書き間違いであろう。 最初、『月月小説』(1年2号−2年12期<24号>1906.11.30-1909.1)に22回が連載された。 後に、群学社から単行本(1910年)が出されている。
 解朋著、迪斎訳述『盗偵探』を呉〓人の作品に認定したのは、阿英『晩清小説史』だ。
 阿英は、呉〓人について説明し、

 著わした小説は、はなはだ多く、以上の各書のほかに、電術奇談二十四回、
     ママ
盗偵探二十四回、……がある*10。

と書いている。「盗偵探」22回を、なぜか24回に誤る。「盗偵探」を呉〓人の作品と記述するこの部分は、改訂版である北京・作家出版社本(1955)でも書き換えられていない*11。阿英の考えに変化がなかったことを示している。
 また、『晩清小説史』改稿を計画していた阿英が、部分的に発表した文章でも、

 著わした小説には、上述の各種のほかに、なお“恨海”十回、“劫余灰”十六回、“最近社会齷齪史”(すなわち“近十年目睹之怪現状”)二十回、
       ママ
“盗偵探”二十四回、……などがある*12。

と説明する。阿英は、一貫して、『盗偵探』は、呉〓人の作品、つまり、迪斎は呉〓人の筆名だと考えていたことがわかる。

 3−3.〓叟の場合
 〓叟を呉〓人の筆名としたのも、阿英である。商務印書館版『晩清小説史』に次のように書いている。

             ママ
 ……呉〓人には学界鏡八回(月月小説)があり*13、……

 この箇所は、改訂版の北京・作家出版社本でも変更されていない*14。「八回」というのは、「4回」の誤り*15。 『学界鏡』の作者・〓叟は、呉〓人であると阿英が認めたことになる。
 息影廬主は、1920年代の広告から、迪斎、〓叟は、1930年代の阿英『晩清小説史』から、それぞれ呉〓人の筆名ということにされてしまった。私も、そうとばかり思っていた。「学界鏡」を見てほしい。


 4.「学界鏡」について

 教育小説という角書をもつ「学界鏡」は、『月月小説』誌上に連載された。

第一回 〓叟著(目次は〓叟) 第2年第9期(原21号)戊申九月(1908)
第二回 〓叟 第2年第10期(原22号)戊申十月
第三回 〓叟著 第2年第11期(原23号)戊申十一月
第四回 〓叟著 第2年第12期(原24号)戊申十二月

 『月月小説』停刊後、作品は未完のまま単行本になっている。以下に示す。

学界鏡 4回 〓叟  上海群学社1909.7 説部叢書32
学界鏡 4回   〓叟  群学社 宣統2(1910)*16
学界鏡 4回   呉〓人 台湾広雅出版有限公司 晩清小説大系1984.3*17

 「学界鏡」の主人公は、方完民(真)である。27,8歳、「多血兼胆汁質」の方真が、6年間にわたる日本での留学を終え帰国する。彼が、上海で、蕪湖への船中で、また蕪湖で経験することを述べるものだ。
 従来の教育は、朝廷に有用な人材を教育するもので、国民のために教育するものではなかったこと、道徳心をもち国民の資格があるというところまで教育するのが教育普及といえる、と教育談義がおこなわれ(第1回)、船中での混乱とまきおこるスリ、 ケンカ騒動、 そのケンカをしずめる催眠術の達人・唐傑の登場(第2、3回)、母親の迷信からくる神経病をのべ、その治療法としての催眠術に言及し、方真が、女学校で女権について演説して(第4回)物語は中断する。
 講釈が長かったりはするが、わずか4回の中だから目立つわけで、連載が継続されていたら面白い小説になっていたかもしれない。
 題材が教育界である。おまけに催眠術が登場する。呉〓人は、教育に関心をいだいていたばかりか、実際に上海で広志小学校を開設している。また、彼には、催眠術が重要な構成要素になっている「電術奇談」という翻案小説がある。
 「学界鏡」は呉〓人の作品だといわれたら、私など、なるほどとすぐ納得してしまう。阿英が、「学界鏡」を呉〓人の作品にしてしまったのも、なんの不思議もないような気がするのだ。
 ところが、そうではないという。


 5.〓叟非呉〓人筆名説

 息影廬主、迪斎、〓叟の三種について、それが呉〓人の筆名ではないことを指摘したのは魏紹昌である。魏氏の編になる『呉〓人研究資料』の二ヵ所にわかれて記述される。

 5−1.息影廬主の場合
 それによると、息影廬主は陳梅卿である、と証言する許痩蝶の文章があるという*18。 証言があるのだから、そうなのだろう。本屋が宣伝に利用し、後の読者を惑わせる結果になった例である。
 ついでだから、無j羨斎についても触れておこう。

 5−2.無j羨斎の場合
 書店が、売らんがために呉〓人の名前を利用している同様の例が、もうひとつある。無j羨斎訳『情魔』(広智書局1906.9.27)だ。 初版から約20年後の1929年8月、広益書局が再版した際、我仏山人の名前を刻み込み、無j羨斎訳をけずって知らん顔をしている。
 しかし、こちらの場合、無j羨斎は、呉〓人の筆名、ということにはならなかった。無j羨斎、無j羨斎主、無j羨斎主人名義の訳書には、いまあげた『情魔』のほかに、『妖塔奇談』上下(広智書局1906.3.14/5.21。 黒岩涙香訳『奇中奇談 幽霊塔』扶桑堂1901)、『毒薬案』(『新小説』5号1903.7.9。のち、『最新偵探案彙刊』新民叢報社1906所収)、 『宜春苑』(『新小説』6-14号1903.8.7-?)、『劇場大疑獄』(広智書局1907)がある。 作品が多すぎて、呉〓人の筆名とは断定されなかったということか。

 5−3.迪斎と〓叟の場合――根拠を求めて
 話をもとにもどす。迪斎と〓叟に関して、魏紹昌は次のように説明する。

 ……「迪斎」訳述と署名する『盗偵探』(二十二回)、「〓叟」著と署名する教育小説『学界鏡』(四回、未完)の二種類が、べつにある。阿英は、『晩清小説史』で呉〓人の作品にいれるが、何によったのかわからない。調査によると、迪斎、〓叟は、ともに呉〓人の筆名ではない。『学界鏡』は、河北の人・談治の作である*19。

 これを読んだ私は、こう書いた。「新発見のある本(注:『呉〓人研究資料』)で、例えば、従来呉〓人の筆名とされていた、迪斎、〓叟、息影廬主は彼のペン・ネームではないという。そうすると、『月月小説』に載った「盗偵探」「学界鏡」は彼の訳述、作ではないということになり驚いてしまうのだ」*20 同時に、魏紹昌氏には手紙で、『呉〓人研究資料』には書かれていない「調査」の詳細をたずねた。しかし、「該書に説明しておいた」という返事をもらって当惑したのだった。迪斎と〓叟についてのそれらしき記述は、ないからである。
 魏紹昌に、迪斎、〓叟が呉〓人の筆名ではないことの説明、または証拠を要求したのは、私ばかりではない。中島利郎「魏紹昌編『呉〓人研究資料』について」は、次のように書いている。

 さて第二は、迪斎訳述『盗偵探』22回および〓叟著、教育小説『学界鏡』4回未完の作品が、魏氏によれば熕lの作品ではないという点(箋注11)。これら二作品は、阿英『晩清小説史』では呉〓人の作品として列挙されており、爾来我々も熕lの作として考えてきたが、魏氏の言に従えば「迪斎」および「〓叟」の筆名は熕lのものではなく、ことに『学界鏡』は河北人の手になったものとし、阿英はいったい何を根拠にこれらの筆名を呉〓人のものとしたのかと、疑問を提示される。しかし、「迪斎」「〓叟」の筆名が熕l自身のものにあらずという点については、魏氏の側の考えの根拠も明示されてはおらず、ただ「査考を経て」、とのみ記されているだけである。だが、ただ「査考を経て」のみでは我々は納得はできない。これらの筆名が、熕lのものであるといわれてきたことには、現在その依拠したところは不明になりつつも、それなりの理由があってのことだと思うし、また、これらが熕lの作品か否かは、熕lの作品研究上少なからぬ影響があると思うからだ。魏氏には、「『冰山雪海』是冒名李伯元編訳的仮貨」(『清末小説研究』第3号、1979.10)の如き論証を旨とされる論文がある。 是非共、氏の「査考」の根拠を御教え願いたいと切に望む次第である*21。

 こちらにも反応はなかったように聞いている。
 魏紹昌の指摘は、以来、表面だって問題にされることなく、現在に至っているといっていいだろう*22。
 迪斎については、詳細不明*23。 〓叟は、河北の人・談治といわれるのみ。談治とは誰か、解説はない。それらしい資料にもめぐりあえない。問題にする研究者もいない。暗礁にのりあげたままである。
 再度、魏紹昌氏に根拠をたずねる手紙を書いた。


 6.〓叟は、「談治」なり

 魏紹昌氏から返事は、大要、次のようなものだった。『学界鏡』は河北の人・談治の書いたものだ、ゆえにこの小説は「〓叟」と署名される、『月月小説』に言及した一文があるが、資料が手元にないので、調べたうえ、また知らせる、と(1989.7.15付け来信)。
 『月月小説』という手掛かりだけで、私には十分である。
 『月月小説』第2年第10期(原22号)戊申十月(1908)に掲載された「玉簫集」の序文末尾に、談治〓叟の文字を容易に見出すことができる。

光緒三十有四年戊申古燕談治〓叟拜敘時同客海上*24

 「古燕談治〓叟」が、魏紹昌説の根拠であった。
 魏紹昌は、「古燕」を河北と考えている。ゆえに、河北人・談治という。
 類似の例をあげてみよう。

 古呉九十三叟沈毓桂、古呉沈毓桂贅翁、古滬孤憤生、古滬縷馨仙史蔡爾康(上海図書館編『中国近代期刊篇目彙録』第1巻 上海人民出版社1965.12/1980.7二次印刷から抽出)
 古瀛西溪外史、古呉金木散人、古鄂紹呉散人知伯氏、古呉遜世老人、古瀛蓼花洲主人、古滬警夢癡仙(杜信孚、蔡鴻源『著者別号書録考』江蘇古籍出版社1986.4から)
 古呉井誌落j賈茗(陳汝衡『説苑珍聞』上海古籍出版社1981.12による)

 これらの例にならえば、古燕もなるほど地名である。
 魏紹昌は古燕を河北にしているが、あるいは、北京をいうのかと考えてみたりもする。あくまでも、古燕が地名であったなら、という条件付きである。あとでもう一度、触れることにする。

 さて、〓叟名義の小説は、『月月小説』の「学界鏡」一種類しか見当たらない。しかし、〓叟の名前は、当時の新聞紙上に見かけることを次に紹介しよう。


 7.新聞紙上の〓叟

 〓叟の名前が見えるのは、『民呼日報』『民吁日報』*25である。 〓または〓〓が使用される。クは、叟の本字だ。
 題名と掲載月日を以下にまとめる。(カッコ内は西暦)

預擬州県征銀解銀告示 〓 『民呼日報』己酉年4. 1(1909.5.19)
組織太監公会伝単    〓          4. 8(   5.26)
求雨大会議      〓          4.18(   6. 5)
竹枝詞         〓          4.19(   6. 6)
夜合園広告     〓          5. 4(   6.21)
東海放観        〓          5. 5(   6.22)
奉天皮肉行新議単    〓          5. 6(   6.23)
私報発刊詞     〓〓 『民吁日報』己酉年8.20(1909.10. 3)
雑感         〓〓          8.21(   10. 4)
擬学堂禁止学生抵制日 〓〓           8.23(   10. 6)
  貨告示稿
和旡生韵        〓〓           8.26(   10. 9)
昔元微之感張生事、為 〓〓           8.30(   10.13)
  続会真詩三十韻、
  杜牧之又従而和之、
  用韵与微之小有異
  処、殆伝写之訛也、
  新秋涼爽、因歩元
  韵、作反会真詩以
  自遣、初無指摘、
  亦聊為綺語云爾、
  時正辛丑七月也、
長淮放舟
婚嫁軍歌        〓〓           9. 4(   10.17)
月華清         〓〓           9. 9(   10.22)
満江紅
落花         〓〓           9.13(   10.26)
奪錦標         〓〓           9.15(   10.28)
秋江晩渡        〓〓           9.16(   10.29)
秋夜宿江干□船次友人
  韵
擬頂戴訟鴉片上政府稟 〓〓           9.17(   10.30)
流血之風雲児伊藤博文 〓〓           9.20-24
  伝略 (5回)                 (   11.2-6)
擬答告煙官文     〓〓           9.22(   11. 4)
満江紅         〓〓           9.23(   11. 5)
洞庭春色
黄鴬児         〓〓           9.28(   11.10)
紅楼夢逸編     〓〓           10.2-7
                         (   11.12-19)
無題         〓〓           10.1(   11.13)
遊仙         〓〓           10.2(   11.14)
遊仙         〓〓           10.3(   11.15)
遊仙         〓〓           10.6(   11.18)

 『民呼日報』は、1909年5月15日、于右任が上海で創刊した、革命派の日刊新聞である。大声で叫び、民のために命ごいをする、を表面にうたい、清朝政府官吏の腐敗をあばき、政界を攻撃した。そのため「名誉毀損」でうったえられ、于右任は逮捕下獄、8月14日、92号を出して停刊を命ぜられる。
 『民呼日報』停刊から約2ヵ月後、看板だけを塗り替えて創刊したのが『民吁日報』だ。10月3日に創刊。反日宣伝を展開し、日本駐上海総領事の圧力で、11月19日にはもう発禁となった。朱葆康(少屏)を発行人に、范光啓(鴻仙)を社長にたてたが、実質は于右任の主宰だった。援助者に、景耀月、王无生、周錫三、楊千里、談善吾などがいる*26。 『民吁日報』停刊後は、『民立報』にさらに受け継がれることになる。

 別の資料では、つぎのように記述する。

 (于右任は)日本に逃げ、その年(1909)の秋、談善吾を招いて『民吁報』を続刊し、もっぱら日本を攻撃した*27。

 二十四、民吁日報:一九〇九、十、三(宣統元年八月二十日)――一九〇      九、十一、十九(宣統元年十月七日)
  経理――談善吾
  主筆――景耀月*28

 于(右任)は、出獄してのち日本に逃げるが、いくばくもなく上海にもどり、続けて『民吁日報』を経営した。談善吾に表に出てもらい、フランス人の博士弁護士に依頼しフランス商の名義で、フランス領事館に登録したのである*29。

 以上に登場する談善吾に注目してほしい。談善吾こそ、〓叟なのである。


 8.談善吾を追求する

 8−1.〓〓=談善吾の根拠 その1
 中国でも「〓(ム)」という漢字など、現在では、ほとんど使われない。ゆえに、〓あるいは〓〓が出てくると、印刷時には作字するか、「贋」で代用する。「〓〓」「〓叟」は、「贋叟」と表わされるのである。
 藤田正典編『現代中国人物別称総覧』には、出典を明示して、

談長治 (別名)化名、老談、談善吾、贋叟 2,52,532*30
1868〜1937.3.12

とまとめる。引用文末尾の数字が、典拠文献を示す。
 典拠2は、該書の典拠一覧表によると、張静廬編『清末民初重要報刊作者筆名字号通検』(中山図書公司1972)というらしい。これは、張静廬、李松年「辛亥革命時期重要報刊作者筆名録」などの影印本なのであろう。元文献には、

談善吾 老談*31

とだけある。
 典拠52は、PAO-LIANG CHU “TWENTIETH-CENTURY CHINESE WRITERS AND THEIR PEN NAMES(二十世紀中国作家筆名録)" だ。

T'AN, CH'ANG-CHIH 談長治 (1868-1937)
Hua-ming 化名
Lao-t'an 老談
T'an,Shan-wu 談善吾
Yen-sou 贋叟*32

 生没年をいれ、贋叟と談善吾を採取しているところに注目されたい。贋叟は、当然、〓叟と書かれるべきものだ。
 典拠532は、鄭逸梅編著『南社叢談』である。

談善吾 別署老談、江蘇無錫人*33。

 こちらには、原籍が書かれている。
 以上、藤田本の三つの典拠を見ると、談善吾に関しては、典拠52が一番充実していることがわかる。

8−2.〓〓=談善吾の根拠 その2
 『民呼日報』『民吁日報』紙上に、〓、〓〓の作品が掲載されていることを述べた。この『民吁日報』(己酉年九月初二日<1909.10.15>)には、顔廷亮が指摘するとおり我仏山人投稿「中霤奇鬼記(短篇小説)」が載っている*34。 この事実に注目せざるをえない。
 つまり、〓〓と我仏山人の文章が同一紙に並存しながら、一方は「投稿」とされている点をどう考えるかである。〓〓、我仏山人とも呉〓人の筆名とすれば、わざわざ「我仏山人投稿」としているのは、不自然だ。しかし、〓〓が、『民吁日報』の談善吾であれば、投稿されてきた文章を「投稿」とするのは、当たり前のことである。

8−3.〓〓=談善吾の根拠 その3
 『民立報』(庚戌年9.26<1910.10.28>)には、「小説家逝世」と題して呉〓人の死亡が報道されている。死去の事実を述べ、本文わずかに 205字。扱いは、決して大きいとはいえない。もし、〓叟が呉〓人だとしたら、〓叟がおもなる執筆者となっている新聞において、もうすこし大々的に記事にしてもいい。〓〓が談善吾であってこそ、納得のいく扱いなのだ。

 8−4.談善吾という人
 談善吾は、先進的文学団体である南社の成員であった。ただし、機関誌である『南社』には、談善吾の名前をみいだすことはできない。
 柳亜子の記すところによると、

談善吾字老談已故(二九)*35

くらいのことしかわからない。和数字は、入社書未提出をいうのだそうだ(入社書のある場合は、アラビア数字が記入される)。 
 談善吾について書かれた文章は、多くない。鄭逸梅編著『南社叢談』(上海人民出版社1981.2)が、ほとんど唯一のまとまった記述であるかもしれない。それによって概略をのべる。
 談善吾、筆名は老談、江蘇無錫の人。父親の習性にならい、小説を好み、課業の余暇に文章を書きちらし、筆記小説を書いていた。于右任は、『民呼日報』を創刊するや、彼を編集に招き革命を鼓吹した。『民呼日報』が禁じられると、『民吁日報』をおこす。『民吁日報』が禁じられると、また『民立報』をおこし、すべて談善吾を主筆にすえたので、人は彼のことを「三民記者」とよんだ。談善吾の寓言小説「逐日演義」が『民立報』に連載されていた期間、葉楚ィの散記、徐血児の政論とともに、「『民立』の三妙」と称される。彼は、新聞社に住んでいたが、1911年の二月、新聞社が火事になったおり、ちょうど散髪中であった。頭の半分を剃っただけで逃げ出した様子は、奇妙なものだった。事件後、その様子を画材とした「民立劫火図」を刊行する。民国初期、袁世凱が帝制を断行すると『民立報』は発禁となった。のち、于右任は監察院に任じ、談善吾は会計検査部に奉職した。1937年3月12日逝去。著述は多いが、単行本になったものは、社会小説『真因果』一書のみである。該書は、また『公使現形記』ともいい、守銭奴、老官僚を諷刺して力があった。国学書室発行*36。
 散髪中のエピソードなど、いかにも鄭逸梅の文章らしい。
 同じく鄭逸梅編著『南社叢談』付録の名簿にも、「談善吾 別署老談、江蘇無錫人*37」と記録されている。
 これまた鄭逸梅の文章だが、『民立報』時代の談善吾を紹介して、次のような意味のことを書いている。すなわち、『民立報』の附刊は出色で、談善吾らが主編していた。談善吾の筆名は「老談」、毎日、小品文を書き、長編小説「誇父逐日記」(注:「逐日演義」のことか)では、日本の侵略野心家・大隈伯をあてこすったが、これには国民に警戒させようという意味が込められていた、と*38。
 そのほかの事実としては、1915年、上海で『中華新報』が創刊されたが、その参加者のひとりに談善吾の名前が見える*39。

 談善吾は、江蘇無錫の人であった。
 無錫の人ということになると、困ったことに、魏紹昌のいう河北の人・談治と一致しない。古燕について、あらためて考える必要がでてくる。


 9.結論――古燕談治〓叟をふたたび考える

 9−1.談治と談善吾は別人か
 〓叟という筆名をもつ人物が、ふたりいる。談治と談善吾だ。これは動かせない事実である。問題は、このふたりが同一人物であるかどうかだ。
 いくつかの可能性を示してみる。
 まず、

 可能性:1 談治と談善吾は、別人である

とするならば、どうか。
 こんなことがあり得るであろうか。〓叟という筆名をもち、談姓でもある人物は、私の知る資料では、今のところ談善吾ひとりしか浮かんでこない。例をあげれば、何でもいいのだが、たとえば南村という字号をもつ人物は、42名を数えることができる(『清人室名別称字号索引』)。42名のなかには同姓のものもいる。この場合、人物のみきわめはむつかしくなる。しかし、〓叟は、南村などというありふれたものではない。きわめて珍しい筆名の部類にはいる。同じ談姓で、さらに筆名も同じ〓叟というならば、普通に考えて、これは同一人物だ。
 談善吾は、別に談長治ということを思い出してほしい。談治は、談長治の第2字「長」をぬいた別名ではないのか。似た例として、許指厳の別号に、真ん中の「指」を抜いた許厳があることをいっておきたい*40。
 談治と談善吾が同一人物だとすれば、古燕をどう考えるか。次の問題である。

 9−2.古燕とは何か
 さきに古瀛、古呉、古鄂、古滬など地名をあらわすものを列挙した。古燕も地名のようだともいった。しかし、談善吾が無錫の人だとすると、古燕を河北、北京と考えたのでは矛盾が生じる。
 ふたつの可能性がある。どちらかを選択すれば、古燕についての解釈も違ってくる。

 可能性:2−a 無錫の人が間違い→古燕は、地名
2−b 河北の人が間違い→古燕は、別号

 2−a の場合。談善吾を無錫の人とするのは、鄭逸梅だ。鄭逸梅の記憶違いだとすれば、問題は発生しない。古燕は、地名と考えてさしつかえない。しかし、今、私は、鄭逸梅説を否定する材料をもたない。
 というわけで、無錫については疑う余地がないとすれば、私は、上の2−b を選択せざるをえない。つまり、古燕は、地名ではないことになる。
 無錫の人と古燕を矛盾なく解釈する方法は、古燕が談善吾の別号であると考えるしかない。

 結論:「学界鏡」の作者・〓叟は、談善吾のことである。談治は別名、古燕は別号だ。

 いま、手元の資料だけで以上のような結論にたどりついた。


【付録】談善吾(老談)著作一覧
 談善吾の作品および筆名・老談で発表した作品をまとめる。鄭逸梅があげている作品のうち確認できないものがあるが、そのままにしておく(『繁華雑誌』掲載以外のものは、未見)。なお、老談という筆名をもつ人物がもうひとりいる。何兆熊である。しかし、生年が1903年だから以下の作品の作者である可能性はない。

★鄭逸梅編著『南社叢談』「付録:南社社友著述存目」651頁による。
談善吾 剖心記傳奇 亡国奴傳奇 誇父逐日記 女ケ記 白絲巾 真因果
    孝感記 倒乱春秋 

★清末小説研究会編『清末民初小説目録』(中国文芸研究会1988.3.1)をもとにし、部分的に追加して作成した。

隔壁談(滑稽短篇小説)  老談 『民立報』庚戌年9.9(1910.10.11)
痴人夢(滑稽小説)    老談 『民立報』庚戌年9.10-12.26(1910.10.12-
1911.1.26)
逐日演義(寓言小説)25章 老談 『民立報』連載 宣統辛亥1(1911) 年
神運動観(滑稽小説)   老談 『民国匯報』1巻1期 1913.1.20
恩仇奇変        老談 『神州叢報』1巻2冊 1914.4.1
女ケ記*          老談 『甲寅雑誌』1巻1-2号1914.5.10-6.10
白絲巾*          老談 『甲寅雑誌』1巻3号 1914.7.10
誤解結婚(言情小説)   老談 『繁華雑誌』1-3期 1914.9-12?
孝感記*          老談 『甲寅雑誌』1巻6号 1915.6.10
貧民語          老談 『華鐸』1巻10-16号 1918.10.21-12.2
忘恩(社会小説)     善吾 『華鐸』1巻7-8号 1918.9.30-10.7
  (*印の作品は、のち『名家小説』亜東図書館1926.11四版に収められる)
その他
新閨中十二曲       老談 『小説月報』1年4期 1910.11.26
神州女学旬報発刊祝詞   老談 『神州女報』旬刊3期 1912.12(『中国近代期 刊篇目彙録』第3巻上315頁には民立報記者考談とある が老談の誤植だろう)
立国紀念日書感戯為旧官  老談 『民国匯報』1巻1期1913.1.20
  僚作
新隔壁聞語        老談 『民国匯報』1巻2期 1913.2.5
新失本休         老談 『民国匯報』1巻2期 1913.2.5
新必富          老談 『民国匯報』1巻2期 1913.2.5
新不達時宜        老談 『民国匯報』1巻2期 1913.2.5
恢復神権芻議       老談 『共和雑誌』2期   1914.10.15
海竜王宣布中立文     老談 『共和雑誌』2期   1914.10.15
擬文昌致魁星書      老談 『共和雑誌』3期   1914.11.1
民国高等官致前清大僚書  老談 『繁華雑誌』2期   1914.10?
新艶体詩         老談 『繁華雑誌』2期   1914.10?
生日維持会縁起      老談 『繁華雑誌』2期   1914.10?
新懦夫寄内書       老談 『繁華雑誌』2期   1914.10?
新悍婦復外書       老談 『繁華雑誌』2期   1914.10?
擬天閹与石女求婚啓    老談 『繁華雑誌』3期   1914.11?
怕老婆道情        老談 『繁華雑誌』3期   1914.11?
貧民語          老談 『戊午雑誌』1期1-2号1918.4-5


【注】

1)張静廬、李松年「辛亥革命時期重要報刊作者筆名録」 『文史』第1輯1962.10。93頁。
2)「呉〓人哭」魏紹昌編『呉〓人研究資料』上海古籍出版社1980.4。266頁。なお、魏紹昌は、同書3頁で、それを呉〓人二十五歳(1890)のときからとする。
3)「我仏山人軼事」『申報』1929.5.5。初出未見。『呉〓人研究資料』29頁。
4)王俊年は、曽祖父呉栄光『石雲山人詩集』巻14の「燻ノ詩存・序」から、熕lは燻ノの人という意味か、とかいている。「呉〓人年譜」『中国近代文学研究』第2輯1985.9。224-225頁。
5)『呉〓人研究資料』3頁。
6)魏紹昌著、中島利郎訳「呉〓人の佚文二篇」(『野草』第33号1984.2.10)によると、「食品小識」が呉〓人の名前で発表されたように見受ける。だが、確認できない。『燠矧O編(政治維新要言)』の呉沃尭熕lをあげておく。
7)阿英『晩清戯曲小説目』(増補版)上海・古典文学出版社1957.9。130頁。
8)『呉〓人研究資料』213頁。
9)「晩清小説目」『晩清戯曲小説目』147頁。
10)阿英『晩清小説史』上海・商務印書館1937.5。23頁。
11)阿英『晩清小説史』(改訂版)北京・作家出版社1955.8。16頁。
12)阿英「関於“二十年目睹之怪現状”――“晩清小説史”改稿的一節」(『文芸学習』1957年1期1957.1。『明清小説研究論文集』北京・人民文学出版社1959.2。364頁。
13)上海・商務印書館版『晩清小説史』273頁。
14)北京・作家出版社版『晩清小説史』179頁。
15)ただし、阿英「晩清小説目」『晩清戯曲小説目』(増補版)上海・古典文学
                      ママ
出版社1957.9新1版。104頁。では、「学界鏡 雁叟著。四回。宣統二年(一九一〇)群学社刊。又光緒三十三年(一九〇七)月月小説本。不完。」と、正しく4回と書いている。
16)阿英「晩清小説目」は、雁叟とする。
17)台湾広雅出版有限公司本は、〓叟を明示せず、そのかわりに呉〓人とする。
18)許痩蝶「説苑軼聞」(『永安月刊』118期所載。未見)だという。魏紹昌『呉〓人研究資料』213頁。
19)『呉〓人研究資料』6頁。
20)『清末小説ハガキ通信』第5号1980.9.1。のち、『清末小説きまぐれ通信』1986.8.1所収。
21)『清末小説研究』第5号1981.12.1。55-56頁。
22)盧叔度は、「我仏山人作品考略――長篇小説部分」(『中山大学学報』1980年3期。今、復印報刊資料による)において、社会小説の項目に「学界鏡」を入れている。当然、呉〓人の作品だと考えていたからだ。しかし、8年後の文章、「(我仏山人文集)前言」(『我仏山人文集』第1巻、広州・花城出版社1988.8)では、「学界鏡」について一言も触れていない。正面切って検討はしていないが、言及しないということで魏紹昌説を認めたのかもしれない。
23)楊廷福、楊同甫編『清人室名別称字号索引』上下巻 上海古籍出版社1988.11の下巻に、「顧宜啓 江浦 初彭 迪斎」(1783頁)とあることを指摘しておく。迪斎は、この顧宜啓のことか。
24)「月月小説総目録」(下)『大阪経大論集』第105号(1975.5) を作成した時、この部分を見ているのだが、まったく忘れてしまっていた。
25)『民呼日報』『民吁日報』の両種とも台湾影印本による。国会図書館所蔵。また、馬鴻謨編『民呼、民吁、民立報選輯』(1909.5-1910.12)1河南人民出版社1982.8がある。
26)『民呼日報』『民吁日報』については、つぎの文献によった。
馮自由「上海民呼日報小史」「上海民吁日報小史」『革命逸史』第三集1945.  9重慶初版/1945.12上海初版。314-330頁。
王中「民呼日報」「民吁日報」丁守和主編『辛亥革命時期期刊介紹』第三集  所収。人民出版社1983.11。522-547頁。
方漢奇『中国近代報刊史』下、山西人民出版社1981.6。481-487頁。
27)戈公振『中国報学史』生活・読書・新知三聯書店1955.3/1986.1北京第2次印刷。157頁。
28)胡道静「上海的日報」、楊光輝、熊尚厚、呂良海、李仲明編『中国近代報刊発展概況』新華出版社1986.9。286頁。
29)汪彭年、陳孚卿、銭化佛「上海国人自辧的中文日報」『上海地方史資料』5、1986.1。18頁。
30)藤田正典編『現代中国人物別称総覧』汲古書院1986.3。186頁。
31)前出張静廬、李松年「辛亥革命時期重要報刊作者筆名録」109頁。
32)PAO-LIANG CHU “TWENTIETH-CENTURY CHINESE WRITERS AND THEIR PEN NAMES(二十世紀中国作家筆名録)" G.K.HALL & CO,1977。258頁。
33)鄭逸梅編著『南社叢談』上海人民出版社1981.2。「付録:一、南社社友姓氏録」615頁。
34)顔廷亮「一篇新発現的呉〓人佚作」『寧夏社会科学』1987年4期(1987.7)沢本香子訳「新しく発見された呉〓人の作品」『清末小説から』第7号1987.10.1。
35)柳亜子『南社紀略』開華書局1940.12/上海人民出版社1983.4 (柳亜子文集の一冊として)。「付録之一 南社社友姓氏録」251頁/224頁。
36)「七、南社大事記」 鄭逸梅編著『南社叢談』上海人民出版社1981.2。242-243頁。
37)「付録:一、南社社友姓氏録」鄭逸梅編著『南社叢談』615頁。 談善吾は南社の成員というが、南社の機関誌『南社』全22冊の目録には談善吾の名前はみあたらない。
38)鄭逸梅「辛亥革命時期的号角――《民立報》」『書報話旧』上海・学林出版社1983.3。225頁。
39)曾虚白『中国新聞史』」 台湾・国立政治大学新聞研究所1966.4 初版未見/1977.3四版。275頁。
40)藤田正典『現代中国人物別称総覧』56頁。

(たるもと てるお)