阿 英『 晩 清 小 説 史 』の 改 訂


中 島 利 郎


 1.作品引用部分の問題点
 阿英の『晩清小説史』は、1937年5月にその初版が上海商務印書館から出版された。中国最初の「晩清小説」についての専著である。それは、阿英自身が独自に収集した豊富な資料が使用されたこと、そしてその資料類を彼独特の視点をもって十四章に分類したことで、前例のない個性的な「小説史」となった。以後、この一書は清朝末期の小説を研究する者にとって、多くの示唆と貴重な資料を提供し続けてきており、この期の小説を研究する者で該書の恩恵を蒙らなかった者は、おそらくいないと言ってもよいであろう。その章目は以下の通りである。

  第一章  晩清小説的繁栄     第二章  晩清社会概観(上)
  第三章  晩清社会概観(下)   第四章  庚子事変的反映
  第五章  反華工禁約運動     第六章  工商業戦争与買弁階級
  第七章  立憲運動両面観     第八章  種族革命運動
  第九章  婦女解放問題      第十章  反迷信運動
  第十一章 官塲生活的暴露     第十二章 講史与公案
  第十三章 晩清小説之末流     第十四章 翻訳小説

 しかし、この「小説史」にはいくつかの欠点があった。
 一は、この「小説史」は編年体式の記述ではなく、「晩清小説」を以上の章目に見るように、清朝末期に現出したさまざまな社会現象に基づきテーマ別に分類したことである。もとより、このテーマ別の分類が欠点と言うのではなく、それはこの「小説史」の最大の個性ともいえる。しかし、このテーマ別にまとめられた各章が『晩清小説史』全章を貫く阿英の小説史観で有機的に結ばれているとは言い難いのである。それは、この「小説史」の成立に由来する。つまり、この「小説史」の中に収められたテーマ別の各章は、最初から『晩清小説史』中の章として企図して執筆されたわけではなく、それぞれの章は『晩清小説史』が出版される以前に当時の雑誌や新聞に個別的に発表され、後に阿英はそれらを改刪増補して『晩清小説史』として出版したのである。悪く言えば寄木細工のような方法で仕上げられたと言えよう。この点については別に論じたので、いまは詳述しない*1。
 二は、この「小説史」の中に引用されている作品のかなりの部分が原作と異なることである。つまり、阿英は作品を引用するにあたって、引用の誤りや引用省略をかなりの作品について犯している事である。いま、いくつか例を掲げてみると以下のようである。すべて阿英が改行するかあるいは引用符号を使用するかして引用文として扱っているものばかりである。(各引用文の最初の数字は上海商務印書館初版の頁と行)

 先ず、引用文の省略されている例を掲げる。

30-11  這書造意的動機、並不是我、是愛自由者。他非別人、就是吾友金君松岑、

 『晩清小説史』第二章中の項目「東亜病夫及其〓海花」に引用された曽樸の「修改後要説的幾句話」の一節。いま、台湾世界書局『〓海花』(1967.12再版)に収載された該文により補えば、次のようになる。(傍線筆者、以下すべて同じ)

    這書造意的動機、並不是我、是愛自由者。愛自由者、本書的楔子裏就出現、但一般讀書往往認為虚構的其實不是虚構、是實事。現在東亞病夫已宣布了他的眞姓名、愛自由者、何妨在讀者前、顯他的眞相諱H他非別人、就是吾友金君松岑、

94-7  〜終夜如在水中。毎日毎人只給三合黒料頭、

 これは、碧荷館主人『黄金世界』第三回の中の一節。原作では次のようになる。

    〜終夜如在水中。日食三餐、請先生猜是何物?”建威道:“粥飯想不能、    自然總是麺包、精美想不能得、自然想是粗糲了。”毎日毎人只給三合黒料豆、

 以上紙幅の関係で二例のみを掲げたが、このような省略例は、枚挙に暇のないほどたくさんある。
 また、次のような例もある。

88-10  工房、就是高處不到三尺、深處曲了身子纔能進去。没有一張牀、一張棹子、只在地下舗上一層稲草、脚踏時又濕又冷。上面有椽没有瓦、薄薄的蓋些草。毎間要住四人、立着擡不起頭、睡着伸不直脚、還要用鐵索將四人連續鎖起。屋外有馬隊巡行。

 これは『苦社会』の一節であるが、これも原作に当該箇所を照すと以下のようになる。

    那工房是甚麼形状諱H高處不到三尺、闊處不到五尺。曲了身子進去、没有一張牀、一張ヌ子、只在地下舗了一層稲草、脚ネ時又濕又冷、不知澆上水、還不知是地下泛上的潮氣。上面有椽没有瓦、薄薄的蓋些草、稀稀的天日望得見。毎間要住四人、雖不算多、就只毎人占地一尺二寸零。立哩、擡不起頭;睡哩、伸不直脚、若然盤膝坐地、蹲脚伏地、鳧マ我的肩、我ノ髟G蓋、也不甚舒服。却有一層好處、照這様擠緊了、遇着冷天、倒是極暖和的。小工們既經到這地歩、自然是將就進望、没處強了。却有一層不好處、押解的巡捕、袖子裏嘩喇喇取出一件怪物、把四人連扣住了頚項。(以下四百字余り中略 筆者)朝前一望、十幾個騎馬的巡捕、拿
    着槍在前開路、直望利馬京城這條路上走。

 阿英は引用符号付きで引用するが、実際は原作を要約したものであることがわかる。先の省略に比べてこのような形のものは数は少ないが、しばしば見受けられる。(尚、阿英の死後に出版された呉泰昌の修訂本では、引用符号を外して引用文としての扱いはやめている)
 以上、三例を掲げただけであるが、『晩清小説史』における阿英の引用が、いかに曖昧なものであるかがわかるだろう。もっとも、上のような例では、阿英が原作そのままの引用ではあまりにも冗漫になるために、必要な部分のみ引用し、あるいは要約化を行なって読者の便をはかったという、善意の解釈も成り立つ。
しかし、以下に引く『晩清小説史』第二章の引用例を見ると、そのような善意の解釈も出来かねるのである。

16-2  打碎了景徳鎭都做不出來的外國人的杯子、這還了得!

 これは、李伯元「文明小史」初回、湖南省の永順府の旅館に西洋人が宿泊し、その洋人所有のコップを宿のボーイが壊すという事件が起き、それに驚いた永順知府柳継賢が発する言葉として引用されている一節。ところが、不思議なことにこの知府の言葉は初出『繍像小説』をはじめとする「文明小史」各版には、全く見当らないのである。これに近い言葉を同書中より探せば、次の知府の言葉が当該すると思われる。

    這是洋磁的、莫説磁器舗裏没有、就是專人到江西、他燒不到這様。

 この原文と引用文とのはなはだしい懸隔はいささか理解しかねるが、おそらく阿英は引用するに際して原作を手元に置いて対照することなく、自身の記憶のみを頼りに引用したのでこのような違いが生じた、と解釈する以外に、この相違を説明することはできない。この一事からもいかに阿英の原作からの引用がいいかげんなものか、わかるであろう。(尚、解放以後に作家出版社より改訂版を出すに際しても、阿英はこの間違いに気がつかずそのままにしているが、先の呉泰昌の修訂本では、引用符号を外して引用文としての扱いはやめている。)
 さらに同じ章よりもう一例を挙げる。

15-8  永順僻處邊陲、所以他那裏的民風。一直還是樸陋相安、固執不化。只因    這個地方

 これも「文明小史」の第一回からの引用で、李伯元が湖南永順の人気を述べた一節である。初出『繍像小説』では、以下のようになっていて、やはり杜撰な引用といえる。

    永順僻處邊陲。却未沾染得到。所以他那裏的民風。一直還是樸陋相安。執固不化。只因這個地方

 しかし、ここで問題にしたいのは、阿英の杜撰な引用の仕方ではない。次の一節を見ていただきたい。

    永順僻處邊陲、所以他那裏的民風。一直還是樸陋相安、…………只因這個地方

 これは、1955年8月北京作家出版社から出版された改訂版『晩清小説史』中の同じ箇所を抜出したものである。ここでは「固執不化」(初出では「執固不化」)の四字は「……」により省略されしまっている。阿英の意図的な改竄である。したがって、この部分に関する『晩清小説史』中における阿英の解説も商務印初版と作家版では次のように変ってしまった。

 商務印:即此也可以看到民衆在当時的叛逆的情緒、所謂「固執不化」的精神、和官僚的恐慌、洋人在羣衆力量前的顫抖、李伯元的写作技術、高強到了怎様的態度、於此可以想見。
→作家版:即此也可以看到人民在当時的反対帝国主義情緒、和官僚的媚外、洋人在羣衆力量前的顫抖、李伯元的芸術造詣、於此可以想見。

 商務印:很明白的是要先送出一個極守舊的地方、以与極力維新的湖北上海各處相對照。「民風強悍、固執不化」、文明小史湖南的一段、在這一方面、
→作家版:很明白的是要先写一個守舊的地方、以与維新的湖北上海各處相對照。「民風強悍」、就是富有鬪爭性、文明小史湖南的一段、在写這一方面、

 では、このような原作の書き換えをなぜ阿英は行なったのだろうか。それは、上に掲げた商務印版から作家版への阿英の解説の書き換えからもうかがえるように、時代の要請という以外に考えられない。
 中華民国から中華人民共和国へと中国は変った。したがって、「民衆」も解放されて「人民」へと変った。中国共産党によって解放された人民共和国の「人民」は「お上」たるものへ「叛逆的情緒」や「固執不化(強情で教化されない)的精神」をもつものではなく、「闘争性」に富んだ「反帝国主義情緒」を、解放後は勿論、清末期にももっていた。ましてや湖南は毛沢東出生の地なのである。故に、当然原作も書き改められなくてはならない。
 阿英が真実このような考えをもったためか、あるいは政治的な保身ために、この部分を改竄したのか否かはわからないが、作家版改訂に際して他の引用にはそれほど注意を払わなかった阿英が、この一節を以上のように書き改めた理由を、わたしはこのようにしか読み取れないのである。
 余談ではあるが、阿英は作家出版社より改訂版『晩清小説史』を出版して後、晩清小説に関する様々な資料類を発掘出版する。ことに「晩清文学叢鈔」や「中国近代反侵略文学集」などの叢書類は、当時は閲読の困難な資料として日本でも歓迎され、現在に至っても使用されている*2。これらの資料の「例言」には「〜本書徐特殊情節加以刪節者外、不便改動亦不能改動、読者當能辨之」(中国近代反侵略文学集4『庚子事変文学集』)や「〜由於本書意亦在提供資料、除特殊情況者外、不作任何改動」(中国近代反侵略文学集5『反美華工禁約文学集』)とあり、一見原作の資料的な意義を重んじほとんど改作されていないような印象をあたえるが、あちらこちらに「特殊情節」や「特殊情況」があるらしく、かなりの部分に以上と同様の原作とは異なった削除、改刪、改竄が行なわれており、それも大幅なものである*3。阿英が解放後の時代(党?)の要請に従って、いかに晩清の小説類を改竄したかを研究するのならともかく、この資料類は、晩清の作家・作品を研究する場合にはかえって混乱をもたらす内容となっているのである。
 さて、以上に掲げた以外にも阿英の原作引用に関する問題点は多々ある。
 たとえば、もう一例のみを掲げれば、これは原作引用の改竄や省略というたぐいではないが、『晩清小説史』第十二章中の呉熕l「劫余灰」のあら筋紹介における作中人物関係の誤り。鈴木郁子氏がすでに指摘しているように、阿英はここで、主人公の朱婉貞とその恋人陳耕伯を引裂くという悲劇の原因を作った朱婉貞の叔父朱仲晦を、陳耕伯の叔父の陳公孺と取違えて長々と紹介している*4。これは、作家版でも訂正されておらず、これまた阿英の杜撰な点を示している。作品を分析するに当っては、まずいかにその作品を正確に読むかは言を俟たない。ことにこのように小説史の中において、そのあら筋を読者に紹介する場合は、その作品の評価と緊密な関わりをもつのでことさら重要である。そして、阿英のこのような紹介の仕方は、ただ阿英の「劫余灰」に対する評価にだけではなく、『晩清小説史』全体に対する疑義にも繋がり、読者に各章における阿英の作品評価にも疑念をもたざるを得なくさせるのである。
 『晩清小説史』中の作品引用部分はおそらく全体の三分の一ないしは四分の一を占めるであろう。そして、そのほとんどには大なり小なり以上に見たような省略や改刪がある。つまり、阿英の『晩清小説史』中における引用部分は、決して信用できないということになるのだ。幸いにも、現在ではかなりの量の晩清小説関係の原載雑誌類が影印出版され、代表的な作品は一応初出とほぼ同様の形で見ることが可能となりつつある。しかし、阿英がこの『晩清小説史』中に引いた原作をすべてにわたって原作に当ることは未だ不可能であり、その場合には阿英の引用に従うより外に方法がないのであるが、無論それには注意が必要ということになろう。
 以上、阿英『晩清小説史』の作品引用部分を通して、その問題点について論じたが、次に阿英のそれらの作品に加えられた阿英の評価について、民国初版と人民共和国改訂版について簡単に比較検討してみたい。


 2.作家出版社版の改訂
 阿英著『晩清小説史』の版本は次の二種類ある。

    上海・商務印書館、中華民国二十六年(1937)五月初版
    北京・作家出版社、1955年8月(改訂版)初版

 この他にも台湾商務印書館版(人人文庫版)や香港中華書局、香港太平書局版があるが、前者は上記の民国二十六年版の影印(一部削除がある)、後者は作家出版社版の影印であって、版本とはいえない。また、1980年8月には人民文学出版社より阿英の女婿呉泰昌が生前の阿英の意を受け、内外の資料類を元にかなりの訂正を加えた修改新一版が出たが(しかし、まだ前述の引用を含めかなりの誤りが踏襲されている)、これも直接阿英の手を経ているわけではないのでいまは言及しない。
 この両版本の間にはかなりの改訂が行なわれている。それはほぼ全書にわたっており、小部分を含めると訂正、加筆、削除の行なわれていない頁はないといってもよいだろう。改訂の内容は多岐にわたっているが、ほぼ次のような点について行なわれている。(最初の数字は上海商務印書館初版の頁と行、→の右は作家出版社版の当該部分。)

(1)論旨には直接あるいはそれほど影響を及ぼさない字句の改刪増補。
 1-1   但其間所産生的小説〜→所産生的小説
 5-7   不断的對政府和一切的社会〜→不断對政府和一切社会〜
 64-7  以上述晩清社會總冩的小説盡。從這裏面是很容易看到〜
    →以上敘述全面的描冩晩清社會的小説盡。從這裏面不難看到〜

(2)誤りの訂正
 6-8   義和團之變(一九九〇)→義和團之變(一八九九)

(3)新出資料などによる改訂
 1-7   實則當時小説、就著者所知、至在少一千五百種上
    →實則當時成冊的小説、就著者所知、至少在一千種上
 12-3  此外則有文明小史六十回、活地獄四十二回、
    →此外則有文明小史六十回、中国現在記十二回、活地獄四十二回、
 280-6  〜(一名柔髪野外傳、一九一一)。此外還有些不知名的著作、
    →〜(一名柔髪野外傳、一九一一)、呉梼譯戈N機(按即高爾基)憂患     餘生(即該隱、一九〇七)。此外還有些不知名的著作、

 以上三点ついての改訂はこの「小説史」中でかなりの量を占めるが、作品評価など阿英の論旨にそれほど影響はない。論旨に大きな影響を及ぼすのは、次にあげる改訂部分であり、以下この改訂部分の主な点について簡述する*5。 

(4)解放以後の政治的配慮や作品に対する歴史的評価の変化による改訂
 『晩清小説』中には魯迅の『中国小説史略』とともに、胡適の「最近五十年来中国之文学」がしばしば引用されており、引用そのものについては作家版でもほとんど変りはない。しかし、阿英が自己の論述の中で胡適に言及した部分については、作家版では胡適の名前を削除するか、あるいは強い調子で指弾する、という具合に変化しているのである。阿英は元来胡適とは政治的にも文学的にも観点が異なっており、商務印版においても彼の晩清小説評価に対してかなり厳しい批判を浴びせている部分があるのだが、作家版ではよりその口調がより厳しくなっている。そのような阿英の変化は、当然、1954年末から55年にかけて展開された「胡適批判」の影響を受けたからであろう。胡適に関する改訂部分十箇所ほどあるが、いまいくつか抜出してみる。

7-10  但其原因、僅説是學儒林外史、實際上是不w。
    →但其原因、説是學儒林外史、完全是一種形式主義的論斷。
 41-8  胡適論小説、亦有所失、但對老殘游記的這評語、確是極洽當的。
    →胡適論小説、時有錯誤、但對老殘游記的這一方面的評語、基本上還是洽當的。
 200-9 持論頗是精當。後胡適作官場現形記序、又發展的説到此書的優點。只在佐雜的描写、亦很中〜
    →持論頗是精當。(以降削除)
 202-4  在人物描冩方面、誠如胡適所説、長處在於小官僚的佐雜的描冩。
    →在人物描冩方面、長處在於小官僚的佐雜的描冩。

 上に掲げた最後の一条は、胡適が「官場現形記」の評価した一節であるが、下線部を除いてしまうと、阿英の評価となってしまうのである。
 また、周作人については、以下のように全面的に削除の方針をとっている。漢奸とされてしまった周作人については、名前さえも挙げられなくなってしまったわけである。

 283-7  〜那就是魯迅與周作人。五十年來之中國文學説:十幾年前、周作人同他的哥哥也曾用古文來譯小説。他們的古文工夫既是很高的、
    →〜那就是周樹人(魯迅)兄弟。五十年來之中國文學説:他們的古文工夫既是很高的、
284-7 周作人序重印本域外小説集序、説「初出的時候、見過的人往往搖頭〜
    →重印本域外小説集序、説:『初出的時候、見過的人往往搖頭〜
 287-1  〜遂不能受讀者的注意。據苦雨齋舊日記鈔、周作人還托名萍雲女士、譯過一册侠女奴、即天方夜談中、亞利イイ和四十強盗的故事、丙午(一九0六)小説林社刊。魯迅也有譯作發表在當時的雜誌上。
    →〜遂不能為受讀者所注意。(以降削除)
 
 次に晩清小説の四大作家の作品について二三の例をあげて見よう。阿英は元来、李伯元および曽樸の作品を呉熕lや劉鶚の作品以上に評価している。作家版でもこの傾向は変らないが、呉熕l、劉鶚についてはより批判が厳しくなっている。たとえば、「上海游驂録」中に見える呉熕lの保守的な傾向については、次のように書き改める。

 62-10  他的思想、是封建的、比老殘游記的作者劉鐵雲更落後。
    →他的思想、是反動的、和老殘游記作者劉鐵雲同様反動。

 さらに、劉鶚については、「老残遊記」の成功の主たる原因を「決不在所説的『實物實景的觀察』和『語言文字上的關係』(胡適の「老残遊記」評価――中島注)、而是劉鐵雲頭腦科學化的結果」(「第二章」商務印版、作家版ともに同)と賞賛し、次の一段のような興味深い劉鶚評価を商務印版ではしておきながら、作家版ではそのすべて削除してしまった。

 42-4  人物方面、老殘是代表了作者自己、可是這自己、是指的実體的劉鐵雲。     他還有一個理想之身、也託附在書裏的異人身上、那就是初集裏的姑、     二集裏的逸雲。按鐵雲很歡喜把自己的理想、寄託在小説裏的異人身上。而這異人、又必須合乎他自己的理想、純淨的、疏放的、超塵絶俗的、對人間社會有絶大領悟的。這様的人物、當然不能求之於人間、為着適應於他的羅曼諦克的理想、他便不得不逞其才情、從事於創造。由於各個條件在舊時代人物理想的適合性、和作者自己心理上的原因、這個創造的理想人物、在性別上、必然是落在女的一面。所以在正集裏創造了一個姑、在二集裏、便不能不再來一個逸雲。
      劉鐵雲這人不僅疏放、也很羅曼諦克、因此、無論在什麼時間、他都是把「眞實的自己」和「理想的自己」並存的。前後集有了老殘、就再有了姑和逸雲、老殘是代表了人間性較強的人、姑逸雲卻是他的超現實的理想、一種空想的人生觀的創造。由此可以知道有科學頭腦的劉
      ママ
     鐵云、為什麼在冩實性很強的老殘遊記中、加上這様兩個架空的人物。
      姑逸雲雖同為劉鐵雲理想的寄託、在實質上、逸雲是更發展的、冩逸雲所耗費的力量所以然比冩姑用得大、也就是因為這是他更理想、更崇高的影子、是他晩年的人生觀和宇宙觀創造的凝集。在姑的談話裏、反映出的三教互參的道理、到了他晩年冩二集的時候、他完全的把重心落在佛家了。
      大概因為終於是一個理想、而不能和人間切斷。對於存在的人世、便依舊不能不有許多的牢騒與不滿從逸雲的談話裏、能以看到當時的官吏是如何的横行、也可以了解得人間世是如何的醜惡。並没有決然的和人世分開、讀者感到與這個人物皮相關、這人物創造得不失敗在此、作者的成功也就在此。至於逸雲跳出情網過程的自述、這完全是拿串鈴的老残的菩薩心腸。借此以超度人世、告訴讀者應該如何的超凡入聖此老残所以毫不留戀的送翠環入菴也。晩年的劉鐵雲、在遭受種種挫折之餘、雖説熱腸仍在、但他是免不了有倦怠之感了。其他人物性格的描冩、也相當的不差。(第二章)

 なぜ阿英はこの一段を削除したのか。それは、ここに登場する姑と逸雲という二人の女性についての阿英の分析に由来するからだろう。現実の劉鶚を書中の老残が代表し(勿論、創作であるかぎり劉鶚そのものではないが)、彼の理想をこの二人の女性に仮託する。そして、その女性たちは「純淨」「疏放」「超塵絶俗」で人間界にいるはずもない超現実的な女性である。このような解釈が作家版出版の頃の中国、「社会主義リアリズム」を創作と文芸批評の基本的政策とした当時の中国では受入れられないことは当然である。「科学頭腦」をもっていた劉鶚が「超現實的理想」を合せもつことは許されなかったのである。(尚、1955年初頭より張畢来に端を発する老残遊記論争も起こる。)
 阿英のこのような分析は商務印版出版当時においては、おそらく「老残遊記」に対する斬新な解釈であったろう。また、阿英自身も「作者的成功也就在此」と言い切っているのだから、この分析には自信もあったのであろう。この一段を削除してしまったことは「老残遊記」の理解をせばめるとともに、『晩清小説史』自体の価値をも損うのではないだろうか。

 この他にも歴史的評価の変化によった訂正は数限りなくある。たとえば、「民衆」や「細民」という語はほとんどが「人民」に訂正されているし、「維新派」についての記述も削除されている箇所が多い。義和団に批判的な部分も削除もしくは訂正されている。すべて解放以後の価値観による改訂であり、作家版『晩清小説史』と商務印版の懸隔は、はなはだ大きい。阿英の『晩清小説史』は商務印初版で読む必要もあるのではないだろうか。


【参考資料】
 以下、参考までに作家版で大幅に削除された部分のみを掲げておく。

★第四章中<〓海花庚子回目>
 曾樸〓海花計劃、本預備冩到義和團的、那知竟不曾冩完。但在初版本第一冊裏、關於義和團部分的回目、是曾經印出來的。既已無文、何妨存目、故附抄於此、以見預擬的内容:
  大義滅親善男女寃受無情棒;
  妖言惑衆小王公狂揮排外旗。
  黄蓮母升座總督堂;
  紅燈嬢鬪法親王府。
  破津門聯軍歌得寶;
  朝便殿矯詔殺同僚。
  豆粥素衣凄凉西狩;
  丹心碧血慘澹南雲。
  教育有效太守代槍;
  羅織無遺疆臣設網。
  三督保南天申江定約;
  一身當北道山左屯兵。
  夜宿鑾儀曹夢蘭從頭舊夢;
  私投歐幕沈愚溪借手殺羣愚。
  片語保郷閭二爺仗義;
  个臣投艱鉅八國協商。
  替矯娃代還風流債;
  參酷吏聊快士類心。
  駝路屍尚書受辱;
  遇夜盜侍郎吃驚。
  贈瓊瑶英雄悵歸國;
  下綸ハ典禮飾迎鑾。
  學西語校書行作女校師;
  睦東交使臣通謁公使婦。
  賞寶星陪臣叨異數;
  贖玉璽胡賈索鉅金。
 這是原定的第三十四回至四十六回、是冩庚子事變的全面、惜乎終未冩成、眞是遺憾、現在是祇能就此以略見其内容了。這可以説是庚子事變小説當時之在計劃中的。

★第六章中<亞東破佛雙靈魂>
 反為帝国主義服務、反充當漢奸的小説、還有可稱的一種、就是亞東破佛的雙靈魂。破佛本名彭遜之(兪)、又署守愚氏、竹泉生。著小説甚多、尚有泡影録、閨中劍、三家村、殲靈魂。雙靈魂這部書是對一班甘心媚外、具有奴性的人説法。認為除自家振作、將奴性趨除、獨立的存在殊難有望。故事説一個中国人、叫做黄祖漢、被一個在戈登路給強盗打死的印度巡捕警爾亞的靈魂攅入頭腦、從此他便有了雙重的靈魂。午前為黄祖漢、忘卻自己竓O有一個印度的靈魂、到了午後、卻變成印捕、關於黄祖漢的事、是一無所知了。因此上午他只自知為華人、下午卻認自己為印捕。把捕房家庭雙方、都弄得驚慌異常、將他交給醫士。醫士對此症亦無從着手、於是介紹到百科研究會。會裏考察了他的病根、開大會研究、聚訟紛紜、亦不得解決。最後的決定、是一個不用藥的方子:「趁其中魂發動時、婉辭而詳喩之。儻伊能自知身有印魂、必生憂危羞惡之心;有憂危之心則愼、有羞惡之心則奮。既愼且奮、吾不難培植其中魂、而銷熔其印魂。」實際上、這些人是連半個中魂都没有的。冩作方法完全模倣西洋小説、在技術上、無足稱處。

★第七章中<佚名康梁演義>
〜這兩部小説是和康梁演義一類的著作不同的。
 康梁演義四十回、作者不知為誰、石印本、大概是商賈牟利之作。把康有為冩得尤其不堪、在郷里包攅詞訟、詐欺取財、不能容身、逃至外洋。以後返國、又遍謁要津、倡立邪説、提倡維新。終於惡貫満盈、倉皇出走。這些不奇怪、最妙的是首二回冩他們的降生、説康有為是天上二十八宿中的心月狐、梁啓超是虚日鼠。因貪世界繁華、偸偸下世、分投康梁二家、有意的來擾乱世界。因此冩到康梁最得意的時候、又插上一回儒釋道三大祖師會議、認為他們還没有到惡貫満盈的時候、遂未捉他。直到冩完立憲事件、三祖師纔又會議起來、派人前去捉拿。無如他們在外国神祇勢力之下、捉他不得、函電紛馳、迄無效果。
 本書便在這裏終結、據説還有二集、冩三教向外國神祇興師問罪、那邊亦起兵抗敵。在英國大擺迷魂陣。儒釋道三教議破迷魂陣。康有為逃往美國。儒釋道三教會議、設十面埋伏陣、捉拿康有為。這是一部很落後的不足稱的書。

★第七章中<杭州老耘一字不識之新黨>
 又有一字不識之新黨二集三十二回、杭州老耘作、彪蒙書屋室刊(一九〇六)、亦是詆毀新黨之作、譏所謂新黨、都是不識之無的人物。顧雖標明所冩為新黨、實則廣泛的接觸到官僚的社会、特別是學校教育。這是一部極反動的小説、根本上反對學校的存在、甚至不惜出之以謾罵可以作例處頗多、這裏祇引出第二十七回的總批:
  通國之人、莫不願國家二無事、獨有學堂之人、深幸國家之有事。並非因有事  可以展其經濟、可以有用武之地、而為國家任重致遠也。實欲為洪秀全之續、  撹亂横行。得志則為石敬塘;不得志、則一帆風輪、非洲美洲、匿迹銷聲。此  今日學堂之變相、而政府、猶惑於報談、使學生之強權日甚一日、立改専制政  體。嗚呼!環球之人、均可以立憲共和待之、惟待學堂學生、不能不用専制壓  力。將來禍患之萌、必在此術最壞之學堂。
 其痛惡學堂的程度可以慨見。二十七回之冩衆學堂投效土匪、眞是不可謂為無因、但也不能不佩服他的卓識、就是後來的清朝天下、果然亡在這些學生手中。對維新的反動、這是最激烈的。〜
 
★第九章中<亜東破佛閨中劍>
 和黄繍球一様描冩婦女解放問題的、還有一部叫做閨中劍、亞東破佛著、自印本。書分五章、章五節、第一章説「教育為振興主義」(溯源、遭侮、勸學、課女、改題)。第二章説「算學係各科學之起點」(算學、奬勵、爭勝、觸機、論算)。第三章為「徳性為自強之精神」(風潮、立志、改装、定禮、放足)。第四章為「尚武之基礎在閨門」(論劍、尚武、立社、題畫、客散)。第五章為「論天與人之關係」(會親、看書、談天、説性、附學)。第六章為「天然戀愛之醇正」(傳習、論情、結婚、胎教、分李)。
 故事很簡單借家庭和學校的日常生活、随機的發抒著者對各項問題的意見。這意見、在目次上已説明了、在闡明教育的重要性、指出三育應該並重、無分男女、説明人與自然的關係、對婚姻問題的理解。全部是側重婦女立論、所以後來有許多女子、聯合起來組織學會、聘請講師、從事學問。大概作者的主要思想、是主張維新、但反對完全把舊的抛棄。主張講究實際、但反對一切的表面形式主義。主張徳智體並重、對於尚武神情尤其是三致意。
 其間成為問題的、是論性論天兩點、仍舊是表現着一種封建的腐儒思想。作者是認為有「天」的、而這個「天」、就是封建思想中的神明的主宰。因此、他相信科學、也相信有「天地鬼神」、是一種非常矛盾的存在。他覺得如果不講天道、那麼人類就變成「無法無大」了。他相信有「天」也相信有「命」、人之為男為女、聰敏愚笨、一切都由「天命」而來、不容不信。他論「性」、也是從這基點出發。閨中劍一書的冩作、主要的就是要傳播這一種思想主張。但作者的力量、不w把這些哲理、形像的描冩出來、因是便成為一種很率直的説教書、而不能説是小説。

★第十章中<靜觀子還魂草>
 繍像小説以外、有靜觀子的還魂草六回(改良小説社、一九〇九)、演蘇州沈蘇兩家事、是反「風水」之作。篇首有著者本意一文、凡差三千餘言、歴擧各省事實、暢論風水之害用。一個相信風水的隱士畏塵作線索、以連接兩家的關係。
 畏塵住在一個山上的廟裏、毎天看蘇州人的風水、總没有好的。某一個早晨、竟然有兩家風水極好的房子被他看到了。他於是去找尋。那知這兩家都不是富戸、一家是打石子的、一家是打魚的、都窮得很。打石子的叫做沈松夫、有一男孩名福生。捕魚的是蘇長生、有女名芸。他看兩小兒都極聰慧、看來風水是在這兩人身上。便紹了松夫與長生做了好友、 又結了男女之親、三個人也便成了「莫逆之交」。
 畏塵勸他們把兩個小孩都送去讀書、福生有宗祠裏的津貼、芸則由畏塵資助、果然成績極好。那知風水並不可靠。不久蘇州有了疫、長生夫婦在三天内都一齊死掉、芸只得寄養到住在城裏的的姑母處。畏塵自己也死了。松夫是一病數月、什麼都弄完、不得已搬到香山去住。到是没有看過風水的香山好、他因族人的資助、改事商業、竟而發了財、捐了官、福生也在大學畢了業、到蘇州教書。芸因為姑母的幇忙、也在中學畢了業。後經雙方幾度尋訪、纔ウ到頭、結了婚。
 故事並不怎様好、而且依舊滲雜了若干迷信的成分。結搆很平凡。文字方面、起始冩得還不壞、到後來卻遠不如前。中間還穿插了芸姑父也講風水、在父母死後、折了家房子、做自己祖宗的墓地、結果是父子雙亡。那買松夫房子的、以為得了好風水、結果也是兩個兒子、雙雙的犯罪、被捉將官裏去。這裏節引百數十字、以見此書的作風:
  緩緩的走下來、看那山下溪溝里的水、平空長了數尺。回想前幾天的雨勢、也  不見得恁大。大約當此春末夏初、正是桃花水發的時候、所以覺得溪水分外的  漲了。一路閑想、已到山下。沿着山溪灣灣曲曲的走將過去、不到半里路途、  見那所新蓋的草房、只隔着一條溪兒、離此不遠了。順便在板橋上渡過小溪、  轉過灣兒早見四面籬笆圍繞兩進小小平房、恰對フ帽峰蓋着、住歩細看、不覺  愈看愈愛。
 這是畏塵第一次訪問松夫、算是全書中最好的描冩、性格方面、都没有明顯的表徴。反映在書裏的作者思想、不外是一個「老新黨」、故一面反對迷信、一面卻保留丁不少的封建意識讚揚的成分、特殊是為舊禮教支配的兩性關係的描冩上。


【 注 】
1)阿英『晩清小説史』の成り立ちに関しては、拙稿「阿英『晩清小説史』の成立」(中国文芸研究会『野草』42号1988.8.1収)を参照。
2)この外にも1950年代より60年代に中国で出版された晩清小説作品には、多く改刪がある。 たとえば、呉熕l『恨海』(通俗文芸出版社1955.6)、李伯元『文明小史』(同前1955.7)、憂患余生『鄰女語』(上海文化出版社1957.7)などである。
3)「晩清文学叢鈔」がどのような改竄や削除を行なっているかについては、樽本照雄「版本のこと」(瘉之会『瘉』9号1977.11.30)、および拙稿「呉熕l『恨海』の版本」(大谷大学文芸学会『文芸論叢』14号1980.3)がある。
4)鈴木郁子「 阿英『晩清小説史』 中における呉熕l「劫余灰」」(瘉之会『瘉彙報』3号1982.7.30)
5)商務印書館版と作家出版社版の全書にわたる校勘については、阿英の原作引用部分をも含めて別に「阿英『晩清小説史』校勘記」として発表する予定で  ある。

(なかじま としを)