檢證:商務印書館・金港堂の合辧(一)


中 村 忠 行


(一) 商務印書館と上海商務印書館・中國商務印書館


(1)

 初期<商務印書館>の出版物を見ると,<商務印書館>・<上海商務印書館>の表記が極めて曖昧であることに,容易に氣付く。<上海商務印書館>とある塲合,<上海>は地名,<商務印書館>は商社名と解するのが一般の常識であるが,さうではなく,それ自體が固有名詞で,<商務印書館>とは別個の法人(商社)であることを示してゐる塲合があるし,<商務印書館>も,合辧を前提とする<金港堂>の匿名であつたり,買收原稿の譯者名に代へて用ゐられたりしてゐて,一樣ではない。
                             プロイセン
 具體例を擧げて説明しよう。光緒二十九年(1903)五月首版《普魯士地方自治行政説》の奧付には,次の樣にある(圖版1)。

光緒二十九年五月首版
****  編述者 日本 野村 靖
*書經*  譯 者 商 務 印 書 館
*存案*  校 者 張  宗  弼
*飜印*  校訂者 商務印書館編譯所
*必究*  發行者 商 務 印 書 館
**** 上海鐵馬路橋北錢業會館西文昌閣隔壁
      印刷所 商 務 印 書 館
     上海棋盤街中市
総發行所  上 海 商 務 印 書 館 

 譯者として<商務印書館>の名を掲げるのは,これが買取り原稿であつたことを暗示する。少しく穿ち過ぎるかも知れないが,校者に中國人(張宗弼)の名を示すことから推すと,譯者は日本人であつた可能性もあるし,日本語にやつと習熟した程度の若い中國人留學生であつたかとも考へられる。何れにしても,譯者<商務印書館>と校訂者<商務印書館編譯所>とは無縁の存在であらう。次に,<發行者>と<総發行所>とを並立させ,<商務印書館>・<上海商務印書館>と書き別けられてゐるのが注目されるが,後者は,館址を<上海棋盤街中市>としてゐる點から見ても,<上海>は地名,<商務印書館>は商社名と解すべく,區別して表記されてゐる訣ではない。それは,例へば矢津昌永原著・陶鎔譯《日本政治地理》(光緒二十八年十一月首版)の奧付(圖版2)と見較べて見ても明らかであると,一應は考へられる。

光緒二十八年十一月首版
          日本
****  原著人 矢津 昌永
*書經*  譯述者 秀水 陶 鎔
*存案*  校閲者 商 務 印 書 館
*飜印*  發行者 商 務 印 書 館
*必究* 上海鐵馬路橋北錢業會館西文昌閣隔壁
****  印刷所 商 務 印 書 館
     上海棋盤街中市
総發行所  商 務 印 書 館 

 <發行者>・<総發行所>を並列させ,共に<商務印書館>とするのは,この
                      フイリツピン ポンセ
一例に止まるものではない。前後して上梓された飛獵濱・捧時原著・東京留學生譯(巻頭には,<中國同是傷心人譯>とある)並に校閲の《飛獵濱獨立戰史》(光緒二十八年十一月首版)でも同樣であるのを始めとし,翌二十九年(1903)五月首版の商務印書館編譯所編《日本近世豪傑小史》あたりまでは,凡てさうなつてゐるのである。
 換言すれば,総發行所として掲げる<商務印書館>の名が,突如として<上海商務印書館>に改められるのは,管見の限りでは,上記《普魯士地方自治行政説》の奧付からのことで,以後合辧の正式調印時まで續く。<商務印書館大事紀要>(張靜廬輯註《中國出版史料補編》所收)には,光緒二十九年(1903)の條に<成立第一個分館――漢口分館>とあり,同年五月初一日創刊された《繍像小説》第一期の裏表紙奧付によつてもその開設が確認され,しかもその時期が《普魯士地方自治行政説》の刊記ともほぼ一致するから,或いは<分館>に對する<本館>の意味で,<上海>の文字を冠したものかとも考へられる。しかし,それは聊か考へ過ぎであるらしい。現に,光緒二十九年六月首版の《明治法制史》(清浦奎吾原著・商務印書館譯)はじめ,同年九月首版の《納爾遜傳》(中村佐美譯・何震彝編訂)などの奧付にも<漢口分館>の記載はない。歴史的に意義深い分館の設置であっても,當事者はその重要性を,さ程明確には意識してゐないのである。されば,この塲合さう解釋するのは適當ではない。のみならず,合辧以後に於てすら,<商務印書館>・<上海商務印書館>が使ひ別けられてゐる趣きが,見え隱れしてもゐる。
 一例を擧げよう。光緒三十年正月(1903.12)創刊の《東方雜誌》第一年第一期の表紙裏に,<上海商務印書館出版>として,《新譯俄羅斯》の廣告がある。アナトール・レルア・ポリュー原著・林毅陸譯《露西亞帝國》(東京專門學校刊,1901)の重譯で,重譯者は中島端――小説家中島敦の叔父で,小説<斗南先生>の主人公その人である。
 その廣告文の一節に言ふ。<本館特聘日本學者精通漢文之中島端君,秉筆譯文,再請通人校訂潤色。文筆雅暢,絶無尋常譯本,滿紙沙石之憾。云々>と。中島も商務印書館に勤めたことがるから,右の文中の<本館>を商務印書館と解釋すると,矛盾が起る。蓋し,後年中島は羅振玉に書を裁して,<………其後端閑居申江,殆且一年,窮不自支,始入商務館。館中諸子,初不與端相識,平居碌々,無自表見;又連遭凶厄,禁不敢動,俯仰間已三年矣。>(<與羅叔薀書,又>;《斗南存稿》所收)と言つてゐるからである。この尺牘には,又,<會兩宮上賓>の語が見えるから,光緒三十四年(1908)十一月中旬以後のもの,恐らくは翌宣統元年の書簡であらう。中島が商務印書館に就職したのは,その三年前――即ち,羅振玉の推挽で獲た(明治三十七年十月;1904)<蘇城學堂>教習の職も,同僚と折が合はず半年足らずで辭し,上海に間居して粗一年といふのであるから,まづ光緒三十二年(1906)の春であることは,推定して誤りない。しかも,同印書館に勤めたのは初めてのことで,職員中には一人として知人もなかつたといふのであるから,上記廣告文の<本館>は<商務印書館>ではなく,<上海商務印書館>と解さなくてはならない。つまり,兩者は全く別個の法人(商社)であることを,件の廣告は主張してゐるのである。その主張は,<上海商務印書館>の名稱が用ゐられ始めた光緒二十九年(1903)五月の時點まで遡らせて考へて,差支へあるまい。少しく遲れて上梓された《明治法制史》の奧付(圖版3)は,さりげなくそれをかう訴へてゐる。

光緒二十九年六月首版   定價洋九角五分
****  原著人 日本 清浦奎吾
*書經*  譯 者 商 務 印 書 館
*存案*  校 者  縣 章 起渭
*飜印*  印刷者 商 務 印 書 館
*必究* 上海鐵馬路橋北錢業會館西文昌閣隔壁
****  發行者 商 務 印 書 館
     上海棋盤街中市
総發行所  商 務 印 書 館 

 炯眼なる讀者は,前の二例では印刷所の肩に記されてゐた<上海鐵馬路橋北錢業會館西云々>の文字が,この例では發行者の肩に附けられてゐることに,氣付かれるであらう。これは誤植ではない。發行者は<商務印書館>を稱してはゐるが,舊來の<商務印書館>ではないことを,それとなく匂はせてゐるのである。端的に言へば,この印刷所は,<金港堂>が上海に開設した印刷所であり,<金港堂>の上海支店ででもあつた。その位置は上に示される通り――<鐵馬路>とは,北河南路の俗稱。往時,英國資本によつて敷設された<淞滬鐵路>の車站がこの邊りに在つたが故に,この名がある(姚公鶴《上海閑話》,國難後第一版,P.31)。<橋北>とは,蘇州河に架る<天后宮橋>(後の<鐵大橋>)の北の意。<錢業會館>は,民國の初年まで虹口文路に在つた。或いは,文監師路北河南路角に在つたとされる<錢莊會館>,蓬路の<錢業公所>も,同じ建物の内に在つたか。蓋し,文監師路と言ふも,蓬路と記すも,文路Boone Roadのことだからである。<文昌閣>は文昌星を祀る祠。土俗に學問の神とされるところから,科擧に及第を希ふ者の信仰を集めた。
 當時,商務印書館の印刷所は,回祿に遭つて(後述)北福建路二號に新屋を建てて程ない頃,その位置は北福建路が海寧路に突當る邊りといふから,距離的には彼此さして遠からぬ所に在つた訣であるが,全く別個の印刷所であることは贅するまでもない。未だ正式調印を見てゐないとは言へ,合辧を前提とする投資が既に行はれ,出版活動さへ營まれてゐたことは明らかである。
 では,金港堂は,何故これから合辧しようとする相手に對し,その自尊心を傷つけるかの樣に,<上海商務印書館>の名を用ゐるに至つたのか。


(2)

 端的に言つて,合辧に對する彼我の認識なり姿勢の相違と,それに由來する文化摩擦のあつたことが豫見される。
 別に説く樣に,金港堂の投資が行はれたのは,光緒二十八年(1902)七月の<舞馬の災>に商務印書館の經營が破綻に瀕してから以後,上記《日本政治地理》が上梓された同年十一月以前――例の<教科書疑獄>などの,一部で密やかに囁かれはしてゐたものの,摘發されるに至るまでには三・四個月もある時であつた。而して,兩者の中間に立ち,仲介・斡旋の勞を執つたのは,印錫璋と山本条太郎とであることも,今日では周知するところである*1。汪家熔氏編著《大變動時代的建設者――張元濟傳》(四川人民出版社,1985)は,その間の經緯を説いて,かう記す。

  當時商務的資方之一高鳳池説:“山本倒有意同本館合辧。當時本館鑒到中國的印刷技術非常幼稚,本館雖説粗具規模,但是所有印刷工具能力,只有凸版,相差很遠,萬難與日本人對敵競爭。權宜輕重,只有暫時利用合作方法,慢慢地再求本身的發展,可以獨立。遂由山本介紹議定,由日方出資十萬,本館方面除原有生財資産〔估値五萬〕,竕チ湊現款亦並足十萬。”後來在十月初一日簽訂協議,十一月聘長尾槇太郎・小谷重等。沒有幾天,又聘請高夢旦進館。(PP.81-82)

 文中に見える高鳳池の言葉は,《同舟》――商務印書館の企業誌であらう――第二巻第十期に原載された<本館創業史>から拔かれたものであらう。誤りなくんば,實藤惠秀教授によつて紹介された*2<三十五年來之商務印書館>の一節の如きも,亦これに基く記述であるに違ひない。
 さて,高鳳池の文には,<山本倒有意同本館合辧>とあるから,救援の投資を求める聲は中國側から持込まれたもので,それに對し山本から,<いつそのこと,合辧會社を作つたら>と逆提案がなされたことは明らかである。金港堂主原亮三郎は,山本条太郎の嶽父である。女婿の勸獎を受けて,彼が腦裡に描いたところも,亦<合辧會社の設立>であつたことは,疑問の餘地がない。
 しかし,それには激しい抵抗があつた。
 由來,十九世紀末から廿世紀初頭にかけての前後四半世紀宛は,彼に素朴な民族主義が起り,それに伴つて利權回收熱(例へば,鐵道敷設權や鉱山開發權に見る)の熾烈となつた時代である。<外資の導入>などとは,おくびにも出せない。面子の問題もある。勢ひ因循姑息,しかも權略に滿ちた術策を弄せざるを得ないことになる。上に引く高鳳池の追憶は,それを如實に物語る。
 贅するまでもなく,合辧事業とは,外國の企業と共同出資して新しく子會社を作り,共同經營で運營に當る事業の謂である。從つて,商務印書館と,合辧によつて生れる新しい子會社とは,全く別個の法人であることは勿論,社名も親會社とは異るのが當然である。金港堂が,<商務印書館>と<上海商務印書館>とを呼び別けようとしたのも,相手の面目に配慮しつつ説得しようと試みた努力の證左と見たい。
 しかし,畢竟それは無駄な努力であった。折柄の教科書疑獄事件が金港堂の出鼻を挫き,彼等には<組みし易し>と慢侮の念を起させたことも,否定出來まい。正式調印の爲めに,原亮三郎の一行が上海に着いたのは,明治三十六年(1903)十月十五日(光緒二十九年八月二十五日),十一月十九日(陰暦十月一日)の調印まで,實に三十五日もの時日を費してゐる。準備萬端凡ての手筈が整つてゐて,しかもかくの如くであるのは,最後まで驅引が行はれたことを物語る。そして原も遂には妥協する。《教育界》第三巻第七號(明治三十七年四月;1904)の彙報欄に掲げる<清國に於ける金港堂の事業>は,自贊に滿ちてはゐるが,この合辧が,雙方とも完全に平等な權利と義務とを保有するものではなく,結局は妥協の産物に他ならなかつたことを物語つてゐる。

 昨年十月,原亮三郎氏は,社員小谷重・加藤駒二兩氏と共に,清國漫遊を兼ね事業經營の爲め南清に赴かれしが,其の結果,金港堂は,上海にて支那人の設立に係り印刷兼出版を業としたる會社と,對等の權利を以て合同し,新に一大會社を組織するに至れり。而して其の會社には,以前の名稱を繼承して商務印書館と命名せり。商務印書館は,合同前に在りても,斯業に於て清國第一に數へられたりしが,今回提攜の結果,益々事業を擴張することゝなり,現に着々歩を進め居れり。………(中略)………
………從來は,漢口に支店のある外は賣捌所のみなりしが,遠からず北京其の他の要地にも,支店を増設する豫定なり。………

 商務印書館と<對等の權利を以て合同し,新に一大會社を組織>するといふ點からすれば,合辧事業を企圖してゐることになるが,<以前の名稱を繼承して云々>といふ條りを重視すれば,同印書館の歴史から考へて,<合資會社>から<株式會社>への改組とも見られ,妥協の産物であることが,窺はれるのである。合辧會社の新設ではなく,合資會社乃至は株式會社が相手であれば,それは投資といふことになる。金港堂の清算に當つた原安三郎氏が樽本氏の質問に答へて,原亮三郎個人の投資であつて,金港堂・商務印書館の間には,投資關係はなかつたとされた*3のは,それを指して言はれたものと思はれる。
 その邊りのことを,中國の學究は,どの樣に見てゐるか。一例として,朱蔚伯氏が,<商務印書館是怎樣創辧起來的>(《文化史料》〔叢刊〕第二號,北京・文史資料出版社。1981)に説くところを聞かう。

  日本金港堂主人原亮三郎適於此時到上海辧印刷公司。金港堂是日本一家資力雄厚,有歴史有聲望的出版商,夏瑞芳聞訊,惟恐與日商對立競爭,於業務不利,權宜重輕,決定利用合作方式,與金港堂合股經營,華股日股各出十萬元,合成股本二十萬元。商務對這事情不宣揚,外面知道底細的也不多。一九〇三年十一月十九日(陰暦十月初一日)改組爲有限公司。與日方所訂協議書有兩個主要條件:一是經理及董事都是中國人,只擧日方一人爲監察人;二是聘用的日本人可以隨時退職。(<五,吸收日資進用日本技師和顧問>P.146)

 引用が些か長きに失したが,朱氏の研究のこの部分も,亦上に一言した實藤教授の紹介する<三十五年來之商務印書館>に據つてゐることを,指摘して置きたかつたからである。文中に,<改組爲有限公司>とあり,協定書中の注目すべき二點として擧げてゐるところを見ると,この事業に對する彼我の考へが著しく異つてゐることに,容易に氣附く。不幸な摩擦の原因は,金港堂側の安易な妥協の陰に祕められてゐたと斷じても過言ではない。
 汪家熔氏の記すところも,合資會社から有限株式會社への道を歩んだとするに近いが,若干朱氏の記述と異るところがある。

  商務印書館和金港堂合資各出資十萬,訂明“用人行政一律歸華人主持,所有日本股東均須遵守中國商律。”開始時中日各二名董事,隨着中國投資的増加,三年後董事改爲中三日二,再改爲中四日一,從宣統元年(一九〇九)起,日方不再擔任董事。(前掲書。P.156)

 當初,雙方の董事は各二名であつたが,中國側の投資家が増加するに隨つて,三年後には中國側の董事が三名となり,更に<中四日一>と均衡が破れるに至つたのは,事實であらう。<商務印書館大事紀要>一九〇五年(清光緒三十一年)の條に,<正式成立爲股有限公司。設京華印書局於北京云々。>とあつて,それが確認される。 上に <遠からず北京其の他の要地にも支店を増設する豫定なり>と金港堂の報じた北京支店なるものは,實は<京華印書局>といふ子會社の設立を意圖するものであつたのである。<小學師範講習班>といふ出版事業には直接關係のない企劃も,この年に始まつた。
 勿論,かうした重要な案件は,然るべき會議で討議され,議決を經たものであらう。金港堂側の董事も,これに預つたであらうが,<祇だ一二の日本人列席して傍聽するを得>といふ程度では,發言權もないに等しい。まして會議は,訛の強い上海語で,しかも早口にまくしたてられたらうことは想像に難くないから,文書になつて初めて事の重大さに驚き,抗議したに違ひない。しかし,得るところが何もなかつたことは,多言を要しない。


(3)

 《東方雜誌》第二期(光緒三十年二月二十五日刊)以下に,The Russo-Japanese War.(fully illustrated) なる畫報の廣告が,屡々掲載されてゐる。發行所は,<日本東京市、金港堂書籍株式會社>,総代理寄售所として,<上海棋盤街中市、商務印書館>とある。それが第二年第三期(光緒三十一年三月二十五日刊)掲載の第八號の廣告からは,發行所<大日本東京市、金港堂書籍株式會社>,総代理寄售所<清國上海棋盤街中市、中國商務印書館>と改められる(圖版4)。雜誌の背文字も,同時に<中國商務印書館印行>と改められる(圖版5)。<日本>の頭に<大>の一字を加へ,<大日本>として<清國>に對比せしめ,これまでは<上海商務印書館>と,相手を牽制するに止めてゐた態度を一擲して,<中國商務印書館>と誰の目にも異樣に映る呼稱を用ゐ始めたところに,問題點の所在や金港堂側の氣概が窺はれよう。その權幕に怖れをなしたか,創刊號に見えて以來久しく掲げられなかつた<日本の金港堂の在清國総代理店>といふ商務印書館の挨拶廣告が,二巻三期・五期・六期と續けて出る。殊に滑稽なのは第五期の塲合で,表頁が<中國商務印書館>を唱へる上記 The Russo-Jamanese War.の廣告,裏が右の代理店の廣告といつた工合で,嫌がらせとも覺しき空氣さへ感ずるのである。
 原來,《東方雜誌》は,<東方雜誌社>ともいふべきものの編輯するところで,組織の上から,商務印書館を総發行所としたまでのものと言ふも過言ではない。創刊號の巻頭に<社説>として別士(夏曾佑)の<論日中分合之關繋>以下三篇の論文,長尾雨山の<對客問>などがあるが,何れにも注して<本社撰稿>とある。<本館>ではない。<新出東方雜誌簡要章程>の第十四條にも,<本雜誌託上海棋盤街中市商務印書館爲総發行所及各書房>とある。その關係は,《外交報》の塲合に倣つたものであつた。張元濟の主宰する<外交報館>によつて編輯されたこの雜誌は,光緒二十七年十一月二十五日(1902.1.4)創刊,杜亞泉の經營する<普通學書室>から發行されるが,同書室の閉鎖後は総發行書を商務印書館に移し,第二十九期(光緒二十八年十月十五日刊:同11.4)以下は同印書館の發行するところとなる。しかも,<外交報館>が存續してゐたことは,その廣告に徴して明らかである*4。
 《東方雜誌》の塲合,編輯の中心となつて腕を振つた者が日本人であつたことは,創刊號の巻頭口繪の第一葉が,明治天皇の御眞影であることを指摘するだけで十分である。その編輯所も,<美租界新衙門東首祥麟里間壁成字一千三百六十四號>に在つた。商務印書館の編譯所は,回祿の後,長康里から老唐家 に移り,1903年(光緒二十九年)1月更に蓬路に移つたといふ(朱蔚伯氏,前掲文,pp.143,145,146)。右の新衙門を<會審衙門>と解すれば,その東首祥麟里間壁で,位置は蓬路(文路)にちかいことにもなるが,彼此同一であるか否か,手許の資料や地圖では確認出來ない。博雅の示教を俟つ。とまれ,有力な日本人が社内に在つて編輯に攜つてゐたればこそ,雜誌の背文字まで變へることが出來たのである。この騷動は間もなく收り,同年第八期からは舊に復するが,餘燼は後々までも燻り續けた。
 《繍像小説》の塲合も,亦同樣であつたらう。総發行所として商務印書館の名を借りてはゐるが,新書廣告の欄で<上海商務印書館>の名を隱見させてゐる。實は,原亮三郎が李伯元に委托して編輯させた雜誌で,金港堂上海支店發行としてもをかしくはない體のものであつた。文豪魯迅の名は,今日多くの日本人の知るところであらうが,それと同じ程度に李伯元の名は,當代日本の文學青年の間に膾炙されてゐたのである。その《繍像小説》も,第三十一期(推定光緒三十一年三月十五日刊)以降終刊までの柱記が,繍像の部分を除いて,凡て<中國商務印書館印行>に改まつてゐる。正確には,第三十二期以下の柱記がさうなつてゐ
                               ナカニシ
るので第三十一期の柱記は<中國商務書館>である。<中西女學堂に中西先生を
                アカゲット
訪ね,書館を圖書館か書肆と心得る赤毛布>とは,口さがない上海つ子が,日本渡來の新參者を嘲つた言葉だが,正にその愚を演じてゐるのである*5。ここでも,金港堂の意圖したところが,<新しい合辧會社の設立>であり,それを前提とする原の投資であつたこと,又社名變更の問題に安易に妥協してしまつたことへの後悔が,まざまざと窺へる。
 <中國商務印書館>の出版を主張して止まぬものに,又<説部叢書>がある。<説部叢書>の標目は,《繍像小説》創刊號や《普魯士地方自治行政説》巻末の新書廣告に見え,既刊書として《經國美談》前後編・《佳人奇遇》・《廣長舌》・《繍像小説》などの名を掲げ,近刊豫告書中にも《夢遊二十一世紀》・《伊索寓言》の名が見える。<説部叢書>出版の計畫が,早くから原亮三郎の腦裡に描かれてゐたことは,想像に難くない。《繍像小説》の創刊はもとより,雜誌の性格を異にするから別格としなければならないが,《東方雜誌》に小説欄が設けられてゐるのも,その下準備と言つて差支へない。右の《夢遊二十一世紀》や《賣國奴》は單行本が先に上梓され,《繍像小説》ではこれを分載する形を採つてゐるから暫く措くとしても,<華生包探案>(四期−十期)・<回頭看>(二十五期−三十六期)・<珊瑚美人>(二十七期−四十一期)など,《繍像小説》に連載されたものが,<説部叢書>・<小本小説>・<袖珍小説>などに收められた例は尠くない。又,《雙指印》(<説部叢書>第三集第一編)・《美人煙草》(同第六集第三編)・《空谷佳人》(同第七集第三編)など,《東方雜誌》に原載された小説で,色々な叢書に收められたものがあることも,多言を要しない。
 調印を見てから最初の一年間は,教科書類の出版が最も多く,新學書が之に繼ぎ,小説類に至つては,上記のものを除くと,數へて十指にも滿たぬ程度である。作品の選擇も亂雜で,とりとめもない樣であるが,

政治小説  例:佳人奇遇・經國美談
科學小説  例:夢遊二十一世紀・回頭看・環遊月球
冒險小説  例:金銀島・空中飛艇
探偵小説  例:華生包探案・案中案・奪嫡奇冤
純文學   例:英國詩人吟邊燕語

と並べてみると,一貫した主旨の下に,讀者の嗜好を探つてゐる趣きが,よく窺はれる。書物の形態――讀者の綫裝本への愛着が依然として強いか,洋裝假綴本でも受け容れられるか。本の大きさ,活字の大小,組版の樣式など,樣々に試み模索を繰り返してもゐる*6。
 されば,改組が行はれて正式に<股有限公司>が成立し,彼我の董事の數の均衡が破れると,これ亦素早く反應を示した。管見に入つた最初のものは,光緒三十一年四月首版の《珊瑚美人》(<説部叢書>第二集第五編。實藤文庫藏)で,奧付にも扉にも<中國商務印書館印行>とある。上海圖書館編《中國近代現代叢書目録》に據ると,或いは1905年2月初版とする《回頭看》(<説部叢書>第二集第二編)がその初例かとも見られるが,この本の初版は未見に屬する。かくてその例は,1906年11月の《波乃茵傳》(第六集第九編)・《尸 記》(同集第十編)・《二俑案》(第七集第一編)あたりまで續く。嘗て,<上海商務印書館印行>として上梓された《佳人奇遇》(第一集第一編)や《經國美談》(同集第二編。架藏)なども,表紙や奧付を改めて<中國商務印書館印行>とした*7。
 かくの如くであるから,光緒三十二年(1906)春,商務印書館が<開始刊行説部叢書第一,二,三集>(<商務印書館大事紀要>)と,派手な廣告を使つて大々的に宣傳し始めた時,日本側からは,激しい反撥があつたらしい。<林譯小説の廣告ばかりが目に着く>といつた多少小兒病的な抗議であつたらうが,《東方雜誌》三巻二期(同年二月)・四期(同年四月)と見られたその廣告は,以後姿を消し,味氣のない<上海商務印書館各種小説>の廣告だけが幅を利かす。明らかに,館内に摩擦があるのである。その根底に,相手に對する不信感があつたことは,否定出來ない。幸ひにして,この摩擦は年内に片が付く。第七集第二編《神樞鬼藏録》(光緒三十三年三月,1907)以後の<説部叢書>に,<中國商務印書館印行>とするものはない。

 宣統元年(1909)春,館内の機構に若干の修正があつた。

一九〇九年三月設立董事局。這是商務有董事會之始,在此之前,業務上重大問題常以編譯所會議決定之。日本股東加藤駒二(號鯖溪)・長尾槇太郎(號雨山)列席董事局,研究並協助圖書的編譯工作。長尾曾任日本文部省圖書審査官,高師教授,帝大講師,對編輯教科書有豐富經驗。同時在編譯所工作的還有中島端(號復堂),太田政徳(號母山,愛知縣師範校長),他們都是精通漢文的教育家和漢學家。(朱蔚伯氏:前掲文,P.147)

 中國側が強く望んだのは,印刷技術の指導と援助であつたから,もつとその邊にも觸れるべきだが,今は略して簡に從ふ。
 この文では,長尾・加藤の兩氏が,董事として尚踏み留つてゐた樣にも受取られるが,<從宣統元年(一九〇九)起,日方不再擔任董事>(汪家熔氏:前掲書,P.156)とするのが,正しいのではあるまいか。長尾先生は編譯所の顧問といつた形で,大正三年(1914)まで在滬せられるが,小谷・加藤の兩氏は比較的早く本社(金港堂)に歸つた樣であるし,後を享けて上海に移住し,經理に與つた原亮三郎の長男亮一郎も,辛亥革命の火の手が各地に擧ると,故國に引揚げた。明治三十八年(1905)十二月,<三井物産上海支店長>の職を藤瀬政治郎に讓つた後も暫く上海に留り,その後見に努める傍ら金港堂の相談にも預つてゐた山本も,やがて歸國,同四十二年(1909)三井物産が改組されて株式會社となるや,推されて常務取締役となつて多忙を極めるから,金港堂上海支店も相談すべき人を失
        カテ
つた貌であつた。糅て加へて,宣統二年(1910)春,印書館の資金を流用してゴム相塲に手を染めた夏瑞芳が,投機に失敗して十數萬元の損失を會社に與へる。その清算に原も一臂を借さざるを得ない(汪家熔氏:前掲書,P.160)。各地分館からの送金も,動亂に遮られて意の如くではない。翌々民國元年(1912)一月には,商務印書館を脱退した陸費逵(伯鴻)等が<中華書局>を起し,<商務印書館には日商資本が入つてゐる>と暴露し,素朴な民族感情に訴へて,盛んに攻撃を加へて來る*8。その坐落も<福州路河南路轉角>とあるから,<棋盤街中市(棋盤街北段四馬路口)の商務印書館からは目と鼻の先である。流石に剛愎な原も,合辧の將來に見切をつけた。嫌氣が差したのである。
 民國三年(1914)一月六日,商務印書館は日股を凡て回收し,完全に民族資本によつて運營されることになる。同印書館の經營權を一手に握り,殆ど獨裁者の如くであつた夏瑞芳は,日股回收が新聞紙上に廣告されたその日の夕刻,同印書館發行所の前で暴漢に刺殺され,劇的な最期を遂げた。

 最後に一言。
 商務印書館編譯所の育成に盡力された長尾雨山先生については,その遺著《中國書畫話》に附せられた神田鬯蛛E吉川善之先生の解説があり,それを踏まへた樽本照雄氏の文*9もあつて,多きを加へ得ない。ただ一つ,付言して置きたいのは,神田先生の擧げられた遺著の中の《儒學本論》は,先生が文科大學古典講習科に學ばれた折の謂はば卒業論文であることだ。これには,第二代・第四代の駐日公使として再度來日したヲ齋黎庶昌の序文があり,收めて《拙尊園叢稿》巻五にある。洗筆は光緒十六年(1890)十月。先生は東京美術學校に教授しては居られたが,未だ二十六歳の若冠である。序文は八百五十餘言と長文で,頗る懇切叮寧,先生の學才が,如何に公使館内の文人にも重んぜられてゐたかを證し得て十分である。
 商務印書館での先生の薪炭料は,月二百元であつたといふ。同印書館としては大奮發をしたところであらうが,當時招かれて中國に赴いた日本教習などと較べると,格段の差がある。例へば,明治三十六年(1903)一月,東亞同文會の斡旋で,劉坤一の<三江師範學堂>に招かれた教習たちのそれは,総教習の菊池謙二郎の月俸が四百元,一般の教習でも學士の肩書きがあれば三百元,學士ではなくとも華語を操り,日語教授及飜譯に從事した人は二百五十元であつた*10。日本教習の待遇が特別よかつた所爲でもあるが,長尾先生ならばその經歴から言つて,張元濟と對等(三百五十元)であつてをかしくはない。<教科書疑獄>の犧牲者で,日本教習として彼地に赴き,その程度の待遇を受けてゐた人が他にあるのを知つてゐる。しかし,先生はさうした阿堵物を口にされることを好まなかつた。
 原亮三郎の貢獻については,次章に讓る。 (待續)


【註】
1)樽本照雄氏<商務印書館と山本条太郎>(大阪經大學會《大阪經大論集》第147號)1982年4月。
稻岡 勝氏<金港堂小史――社史のない出版社『史』の試み>(東京都立圖書館《研究紀要》第11號)1980年3月。
その他。
2)實藤惠秀氏<初期の商務印書館>(《日本文化の支那への影響》所收)1940  年7月。
3)樽本照雄氏<金港堂・商務印書館・繍像小説>(《清末小説研究》第3號)  1979年12月。(《清末小説閑談》所収)
4)例へば,《東方雜誌》戊申年(第五年)の講讀者募集の廣告(同誌,第四年  第十二期所掲)を見よ。
5)拙稿<《繍像小説》と金港堂主原亮三郎>(《神田喜一郎先生追悼中國學論  集》二玄社刊)1986年12月。
6)拙稿<商務版《説部叢書》について>(《野草》第27號)1981年4月。
7)これらの幾つかは,註6の拙稿に圖版で示して置いた。
8)澤本郁馬氏(樽本氏の筆名<商務印書館と夏瑞芳>)(《清末小説研究》第  4號)1980年12月。(《清末小説閑談》所収)
9)註3の論文。
10)實藤恵秀氏《中国人日本留學史稿》日華學會,1938年3月。P.186

(なかむら ただゆき)