清末小説研究会についてのメモ――編集ノートにかえて


 本号を「第12号発行記念特大号」としたのには、理由がない、などといえば怒る人もいるだろう。まじめにやれ、と言われそうだ。しかし、あまりまじめにやりすぎると、しんどい。いつも息抜きしていてもいいではないか。
 しいていえば、本誌は、6号で終刊になりそうだったのが、はからずもその倍に長らえたというのが、記念号の由来である。ついでだから、あとは力の続くかぎりヤリマス、という意味もこめてある。正面切って宣言すると、義務が生じるような気がして、いやなのだ。いつつぶれるかわかりませんよ、といいながら、しぶとく続けるというのが、私のやり方なのである。
 本誌の誕生から現在までのいきさつをかいつまんで記録しておく。手短に述べるつもりだが、10年以上あるから、長くなるかもしれない。私個人の事柄に触れることが多くなるだろうが、ご寛容をおねがいする。過去をふりかえって、今後の方針がほの見えてくればいいのだが。(→印は、関連文章を示す。ただし、すべてを掲げているわけではない。)

1975年
★6月より「文明小史」の輪読会をはじめる
 場所は、上本町8丁目にあった大阪外大である。参加メンバーは、ときに変わったが、中島利郎、名和又介、樽本などが中心となる。輪読は、月1回の会合で実質的にはどれほども進行しなかった。今から考えれば、もっぱら研究情報の交換についやしたようにも思う。
★清末小説専門雑誌発行のはなしが、冗談のように出る
 11月、輪読会の帰り、喫茶店で雑談をするのが常であった。上本町6丁目にある喫茶店「スワン」で、中島氏が清末小説研究専門の雑誌を発行できないかと言った。私は、言下にムリだろうと答える。当時(も今も)、中島氏は『瘉』の発行に力を注いでいたし、私の生活は『野草』を中心に動いていたといってもいい情況だったからだ。時間をとられているうえに、論文を定期的に書けるほどの自信はなかった。清末小説研究を続けたいと考えてはいたが、勉学上の実力、印刷費用の点から考えても、専門雑誌を発行するなどできることではない、と一瞬の判断がそう言わせた。
 このころ天津日日新聞版『老残遊記』二集を見つける。昔からいわれている二集偽作説は根拠がないばかりか、さらには、二集1905年執筆説も誤りであることに気がついた(→「天津日日新聞版『老残遊記二集』について」『野草』第18号1976.4.30)。

1976年
★1月 雑誌発行へ気持がうごく
 清末小説に関する専門雑誌を発行することの可能性について、くりかえし考える。継続して発行できるだろうか。出すからには3号雑誌にはおわらせたくない。年1回の発行として、掲載できる論文が書けるだろうか。印刷方式とその費用はどうする。一方で、組版の体裁、表紙の意匠などを練っていた。気持がまよったということは、雑誌発行へ決心を固めたことを意味する。
★6月 編集計画案を作成する
 雑誌名は『清末小説研究』ときめる。雑誌の柱は、論文と資料の2本立てにする。論文は、それぞれが進めている研究成果を発表し、資料は、著作目録、文献目録、資料再録を考えた。B5判週刊誌大、80頁、活版9ポイント、刷数 500部を予定する。5号までの計画案を作成するが、論文欄はすべて空白、資料欄は順に、劉鉄雲資料、李伯元資料、呉熕l資料、曾孟樸資料と記入し、5号は資料名もない。実際は、活字の9ポこそ変化しなかったが、A5判に判型を小さくしたし、ページは 100頁近くにふくらむ。資料特集のほうも、順序が変更されることになる。また、資料再録についても分量がふえそうで、計画通りにはすすまない。
★7月 筆者をさがす
 同世代の研究者で、毎号論文を書いてもらえそうな人物として麦生登美江氏の名前があがる。手紙で論文執筆の承諾をもらった。夏休みを利用し、私は博多に出向き、新幹線の駅喫茶店で細かな打ち合せをした。以来、初期はほとんど毎号のように寄稿してもらう。また、雑誌の販売にも協力いただく。1989年、学会の前夜祭で13年ぶりで再会し、なつかしく感じた。増田渉先生には、『野草』2号清末小説特集(1971.1.15)で原稿をもらったことがある。 本誌創刊号にもぜひ、と依頼し、快諾してもらう。ただし、翌年3月、急逝され願いはかなわなかった。

1977年
★7月 原稿を印刷所にいれる
 巻頭には、澤田瑞穂「清末の小説」を復刻することにし、資料には、新発見の新聞記事を「劉鉄雲の慈善事業」と題して収録する。朝日新聞の記事だから、一応、大阪本社に連絡して再録許可をもらう。連夢青「鄰女語」の蝶隠評を劉鉄雲のものだとして復刻したのも、本誌が最初だ。印刷は、3ヵ所から見積書をとり、最終的に勤務先の論集を印刷している京都の真美印刷所に依頼する。
★『清末小説研究』創刊号を発行する
 10月15日、創刊号800部がとどく。総112頁。資料は、劉鉄雲研究資料目録。費用 571,920円を支払う。雑誌を発行するに当って問題になる最大のものは、印刷費用である。同人組織にする、会員をつのる、方法はいくつかあるだろう。だが、同人誌がつぶれるのは、往々にして印刷費用の分担がうまくいかないのが原因だ。会員組織にしようにも、清末小説のみの専門誌では会員が集まらないのはわかっている。そうなれば、個人が負担するほかない。「編集ノート」に、「私たちの学力と金力には限りがあるため、年1回10月発行の予定で、4号までは発刊するつもりだ。それからのことは、またその時考える」と書いたのは、まったく私の家庭の事情からであった。中村忠行先生より、また中島氏をつうじて伊藤漱平先生からご祝儀をいただく。
 この年の12月、はじめて中国を旅行する機会を得た。約2週間、北京、西安、洛陽、上海をかけめぐる。「文革」後間もないこともあってか日本側団体の自己規制を強く感じた。そういう私も、北京大学、復旦大学訪問のおりに『清末小説研究』創刊号を贈呈するなどつゆ思いもしなかった。自分でも自己規制をしていたのである。中国の研究者と個人的な連絡がつくようになったのは、これから約1年もあとのことだ。

1978年
★2月 印刷所を変更する
 早稲田大学印刷所に見積を依頼し、創刊号と同じものを約13万円も安く印刷できそうだとわかる。6号および中文版(7号に相当する)まで印刷をお願いする結果となった。
★3月 曾虚白氏にお会いする
 台北に曾虚白氏がご健在であることを知り、会いにいく。本誌第2号の巻頭を飾った曾孟樸の貴重な写真6枚は、帰国後、虚白氏よりお送りいただいたものだ。
★9月 本誌の反響が海外である
 当時、無視されることに慣れていたとはいえ、注目されるとやはりうれしい。黎活仁「日本新出版的『清末小説研究』」(『天地叢刊』創刊号1978.9.20)を目にした時である。黎活仁氏は、現在も香港大学で教鞭をとっていらっしゃる。『清末小説研究』6号の編集ノートに、これ以降1982年までの本誌に対する反響をまとめておいたのでここではくりかえさない。
★『清末小説研究』第2号を発行する
 12月4日、第2号の800冊がとどく。総114頁。資料は、曾孟樸研究資料目録。印刷費の請求は 584,490円。見積とかけはなれたので53万円に値切ってしまった。ゴメン。

1979年
★中国から原稿をもらう
 第2号の編集ノートに、「四人組批判後、魏(紹昌)の仕事を含めて清末小説に関する研究発表が行なわれる日はいつのことか」と書いた。おもいきって魏紹昌氏に直接手紙をだしてみる。2月、送られてきたのが「《氷山雪海》是冒名李伯元編訳的一本仮貨」である。今でこそ中国の研究者から原稿が送られてくるのは珍しくないことかもしれない。しかし、「文革」後、中国から、直接もらった原稿を掲載した研究誌としては本誌が最初ではなかったか。
★「清末小説研究会通信」を創刊する
 11月、思いついてハガキ通信を発行することにする。簡易和文タイプライタを使用し、縮刷印刷。こまぎれの話題をメモ形式で掲載した。不定期で合計51号、足掛け8年、実質6年間つづくことになる。のち、小冊子にする。
★『清末小説研究』第3号を発行する
 12月1日、800冊印刷出来。総136頁。資料は、呉熕l研究資料目録を中島氏が担当する。未製本200冊を頼んでいたのに全部が製本されている。200冊はあとで合冊する計画だったのだ。手違いがあったので、印刷費請求は 653,942円だが、60万円を支払い、あとは値切る。また、ゴメン。

1980年
★2月 資料収集をつづける
 目録でアメリカのスタンフォード大学に『新小説彙編』が所蔵されているのを知る。マイクロフィルムにしてもらう。京都で李伯元編『庚子蘂宮花選』を発見する。きわめて珍しい資料だ。紙面で紹介するのは、やや遅れ、本誌5号に影印を掲載する。
★ウツ症がでる
 病気なのだからどうしようもない。2,3月に動きすぎたのが原因か。4−6月頃まで活字を見ることができない。『野草』のほうで訪中を計画しており、参加できるかどうか不安であった。8月ころにはどうにかもちなおし、4号を編集する。
★『清末小説研究』第4号を発行する
 12月10日、印刷出来。800冊、総126頁。資料の特集は、ない。中村先生からの提供で秋瑾遺墨「滬上有感」をかかげるが、のちに中国で秋瑾の作ではないという文章が発表された。印刷請求は、 710,986円。訪中に間に合わせるため印刷所には急いでもらったし、値切る理由がないので、全額を支払う。
 中国文芸研究会主催の中国旅行(上海−杭州−広州−香港)を実施。上海に長く滞在し、資料収集を楽しむ。

1981年
★3月 ウツ症がでる
 今回も6月まで、ダメ。くりかえすのでつらい。気のあう仲間ばかりの中国旅行が、有意義かつ楽しく、つい動きすぎたのが原因だろう。ハガキ通信が3月から8月へとんでいるのもこれが理由である。
★11月 『清末小説研究』第5号の編集がおくれる
 原稿全体の印刷所入りがずれこむし、遠方へ校正ゲラをおくったりして、年内発行はできない。5号では、中国からの原稿が2本ある。呉泰昌氏へは私が執筆を依頼し、彭長卿氏の原稿は魏紹昌氏からの紹介である。本誌の存在が中国でも知られてきたらしく、以後、私のところへの直接投稿がふえる。
★「官場現形記」の重要版本を発見する
 世界繁華報館増注本である。この版本の存在は、「官場現形記」が李伯元と欧陽鉅源の共作である可能性を強く示している。本誌6号の文章で述べた(→『官場現形記』の初期版本『中国文芸研究会会報』第31号1981.12.1)。なお、1989年現在にいたるまで、中国を含んで、この版本に言及した研究論文を知らない。

1982年
★『清末小説研究』第5号を発行する
 2月5日、印刷出来。800冊。総106頁。資料は、李伯元研究資料目録。印刷費用は、538,777円。伊藤漱平先生よりご祝儀をいただく。
★総目録シリーズ作成がおわる
 1973年5月に『繍像小説総目録』を発表して以来、『月月小説総目録』(1974、75)、『小説林・競立社小説月報総目録』(1974)、『小説時報総目録』(1975)、『小説月報総目録(改革以前部分)』(1976)、『游戯世界総目録』(1981)、『新小説総目録』(1982)と作成してきた(すべて『大阪経大論集』に掲載)。研究上の必要にせまられての作業である。以上で清末の主要雑誌はカバーしているだろう。さらに、中国でも『中国近代期刊篇目彙録』全6冊(上海人民出版社1979-1984)という大部なものが出た。私の総目録シリーズは、とりあえずおわることにする。

1983年
★『清末小説研究』第6号を発行する
 1月20日、800冊がとどく。総118頁。資料は、四作家研究資料目録補遺1。印刷費用は、625,399円。活版印刷での経済的負担に耐えられなくなる。800冊を印刷しているが、書店売りでは 100冊を越えないだろう。在庫が空間を圧迫する。数字をだすのも恐ろしい。編集ノートに、「本誌の編集方針はただひとつ、私の読みたい文章を掲載することだ。好きにやっていることだから、本誌の発行は、私にとっての盆であり、正月であり、年に一度のお祭りだ」と書く。だが、年に一度のお祭りに息が切れはじめていた。これまでか、と思ったので、やや長目の編集後記を書き、本誌に言及した中国の評論をまとめたのである。
★「老残遊記」外編残稿の執筆時期について討論する
 時萌氏より通説に対して疑義が提出されたので、私の考えを発表した(→「関於《老残遊記》外編残稿的写作年代──与時萌先生商」「文学遺産」第582期『光明日報』1983.4.12)。
★『清末小説閑談』を発行する
 9月20日、大阪経済大学研究叢書]Tとして、出版してもらった。
★『清末小説研究』中文版を出す
 11月8日、印刷出来。 800冊、44頁。本誌中文版については説明が必要だろう。この年の2月に、高健行「日本学者研究劉鶚及《老残遊記》簡況」が『光明日報』(1983.2.2)に掲載された。これを読まれた盛成氏が、私に手紙をくださったのだ。盛成氏は、太谷学派の関係者である(といってもいいだろう)。『老残遊記』をフランス語に翻訳したのも、それゆえであるという。資料とともにもらったのが「関於老残遊記」という姑についての論文だ。気力的にも経済的にも7号を発行する力がなかった。しかし、貴重な文章だからこのままにしたくはない。一方で編集を進めていた『野草』(清末小説特集その2。1984.2.10)で、中国から5篇、アメリカから1篇の原稿があった。これらは日本語に翻訳するから、中国語の原文が未使用となる。盛成氏の論文とあわせれば、中国でも読んでもらえると考えた。各著者に了承を得て、本誌中文版とし、ページ数が少なくても発行したのである。

1984年
★秋瑾の来日年月日を考証する
 従来、秋瑾の来日についての正確な日付、到着地などは、不明だった。当時の新聞で確認し、まず、調査結果だけを短文で報告する(→「秋瑾東渡小考」「文学遺産」第629期『光明日報』1984.3.13)。のち、偶然、郭長海・李亜彬編『秋瑾事跡研究』(長春・東北師範大学出版社1987.12)を読むと、秋瑾の東京到着日に関して、私を名指しで間違っていると書かれている。私ではなく、郭長海・李亜彬両氏のほうが誤りだ、と反論(→「秋瑾来日再考」『清末小説から』13号1989.4.1)。掲載誌を東北師範大学へ送ったが、1989年10月、宛名人がいない、と返却されてきた。(のち郭長海と連絡がついたのは、本号に氏の論文がある通り)
★本誌の将来を考える
 4月より1年近く天津で学生生活をおくることになる。天津図書館でふぞろいの図書カードをめくりつつ雑誌をどうするか思案する。雑誌を継続発行するための最大の問題は、印刷費用だけである。活版印刷は費用がかさみすぎてむりだ。かといってタイプ印刷では、漢字の面で荷が重い。なにしろタイプ活字では、呉熕lの「焉vがないのだ。留学前に東京で東芝のワープロを見たことがある。液晶1行、プリンタ一体型で画期的にも70万円を切っていた。もうひとつ日立のブラウン管、プリンタ内蔵型が50万円というのも出てくる。雑誌発行の可能性があるとすれば、ワープロ採用の方向しかないように感じる。帰国後にはもっと新しくて安い機種が発売されているだろうから、それを見てからのことにする。天津で胃カイヨウをわずらう。
 天津で天津日日新聞社版『老残遊記』初版を発見したのは、収穫であった(→「天津で見つけた『老残遊記』初集」『中国文芸研究会会報』第48号1984.9.15)。
★『繍像小説』の編者について討論する
 汪家熔氏が、李伯元編者説に疑義を提出した。それに対して批判文を書く(→「誰是《繍像小説》的編輯人」「文学遺産」第653期『光明日報』1984.9.4)。編者問題は、「老残遊記」と「文明小史」の盗用問題に発展し、私の帰国後は、さらに、張純氏の『繍像小説』刊行遅延説をまじえて、ダイナミックに展開することになる。この問題に関して、日本の『中国文芸研究会会報』、『大阪経大論集』、『瘉』、『清末小説から』、および本誌がはたした役割は、小さくないと考える(→沢本香子「ワクドキ清末小説」『清末小説』8号1985.12.1)。
★山東・済南に旅する
 私は、もともと旅行好きではなかったことを中国で発見した。寒くなると身動きがとれなくなりそうなのであわてて済南にいく。「老残遊記」を体験するためだ(→「『老残遊記』紀行──済南篇」『野草』第38号1986.9.10)。

1985年
★清末小説目録作成の準備をはじめる
 帰国後の5月、中村先生のお宅で、中島、山内一恵、樽本が会合をもつ。おおまかな編集方針、カード採取基準を決め、とりあえずカードをとることにした。清末だけではなく、空白部分の民国初期を対象に含めることにする。民初をいれても、阿英の「晩清小説目」のせいぜい二倍、3000件くらいではないかと予想をたてる。2年後には、それが1万件にもふくれ上がろうとは思いもしなかった。
★雑誌発行の「救世主」をさがしあてる
 7月3日、リコーのワープロ、リポート2600を購入する。選択の条件は、印字したときの字体のきれいさである。有名メーカーの製品でも、見るに耐えない字体を採用しているものがあり、まだまだ未成熟の業界であるようだ。定価50万円に近かったものを値切り、附属品あわせて 416,250円。活版印刷であれば1号分の費用である。これで最低5年間、使用するつもり(当時はそう考えていた。実際は、3号分を出して、個人電脳に切り換える)。とすれば、組版代ぬきの印刷、製本費用のみで雑誌を発行することができる。いってみれば、印刷で一番費用のかかる組版部分を私がかわって行なうということにすぎない。なんのことはない、「救世主」とは青い鳥だったのだ。ついでにつけくわえれば、本誌では原稿料は支払っていない。できないのだ。外国からの原稿についても同じ。一律、掲載号を5冊(8号以降は10冊)送ることで勘弁してもらっている。中村忠行、中島利郎、麦生登美江の各氏に案内を出し、原稿をお願いする。
 このころ、呉熕l「電術奇談」の原作をさがしあてる(→「呉熕l『電術奇談』の原作」『中国文芸研究会会報』第54号1985.7.30)。
★『清末小説』と改題し第8号を発行する
 10月4日、300冊が邦文社より送られてくる。総96頁。 印刷製本費用は、10万円。ワープロ印字したものをページ割りし、柱は縮小コピーして所定の位置に貼り込む。ノンブルはインスタントレタリングを押し貼りする。印刷所は、そのまま印刷、製本すればよい状態の完全版下を、こちらが用意するのだから上記の費用におさまるのは当たり前といえばいえる。版型を週刊誌大に変更したついでに、誌名も『清末小説研究』から『清末小説』にかえた。「研究」をやめたわけではなく、誌名はよりシンプルにするほうが格好よく思えたからだ。改題したが、中文版を第7号とし、通して第8号とよぶことにする。

1986年
★『清末小説きまぐれ通信』を印刷する
 2月14日、 200冊が印刷出来。総52頁。ハガキ通信をまとめたもの。発行日付は8月1日になっているが、ハガキ通信の最後の方は、この小冊子をまとめるために書いたので、実際には郵送していない。それで、日付にズレが生じたのだ。日付のソゴは、つぎの『清末小説から』にも現われる。
★季刊誌『清末小説から』第1号を印刷する
 3月12日、第1号を 200部印刷。ハガキ通信では情報が収まりきらず、小冊子形式であらたに創刊する。当時、担当していた『中国文芸研究会会報』からはずれて、時間の余裕ができたこともある。情報量が多くなるだろうから、季刊と決めた。ハガキ通信の後継なので、発行の日付は8月1日にする。ところが、3月に印刷してしまい、黙って抱えておればいいものを、がまんできず(気持がせいたのだ)、配付してしまった。しようがなく、第2号でおわびし、第1号の発行日を4月1日に訂正した。ま、気が短いのですな。(1989年10月現在、『清末小説から』は、季刊をまもって15号を発行している。)中村忠行先生からご祝儀をもらう。
★個人電脳を導入、清末小説目録の整理に使用する
 6月、勤務先に日立のホストコンピュータが導入されたのを機に、個人電脳を使ってみることにする。スイッチを入れれば使えるワープロと異なり、日立2020は各部品を接続し、動く状態にするのがひと騒動。ほかの個人電脳を知らなかった。日立2020独特の使い勝手の悪いのには気がつかず、こんなものかと納得していたのはおめでたい。8月、データベースソフトのTIMSUを購入(138,000円)、清末小説目録のカードを入力しはじめる。ときおりブラウン管が万艦飾にハレツする。おかしなことがあるものだと、感じはした。問い合せてみると、開発元のミスなのだ。暴走もバグも知らなかったほどの素人である。これ以後、1年以上にわたって、ひたすら書名を入力、にゅうりょく、ニュウリョク!の生活。一方で、『清末小説』の原稿を入力。なんという生活なのだ。
★『清末小説』第9号を発行する
 11月12日、300冊印刷出来。総116頁。印刷費用12万円。「新出資料で劉鉄雲特集」とうたうが、結果的にそうなったというのは、いつものことである。

1987年
★個人電脳と悪戦苦闘がつづく
 清末小説目録の入力とそれにともなう騒動のかずかず。ハードディスクの領域割り当てが最初の2メガバイトでは少ないので、初期化をやりなおすとか、データの退避(バックアップ)に数時間かかるとか(この話をしても誰も信じてくれなかった。いま使用しているエプソンなら数分だ)、などなど。それにくわえて資料の再点検、とりこぼしの補充追加、いつ終わるか見当がつかない。いつかは作業が終了するはずだ、終わらないわけがない、と自らを励ますよりしかたがないではないか。
★劉鉄雲学術討論会がひらかれる
 11月、淮安で開催されるというので訪中する。開催会場で宿泊し、中国の研究者と同じ食事をしたが、会議そのものへの参加は許可されなかった。いまもってなんだったのだろうと不可解である、ということにしておく(→「劉鉄雲故居訪問日記」『清末小説から』第8号1988.1.1)。
★『清末小説』第10号を発行する
 12月9日、300冊、総114頁。印刷費用は12万円。中国にいっていたので発行が遅れた。11本の文章を掲載するが、そのうち7本は中国からのものだ。日本語の論文が読みたい。伊藤漱平先生からご祝儀をいただく。

1988年
★『清末民初小説目録』を発行する
 3月1日、200部ができあがる。印刷費用は、総額1,235,000円。こちらで完全版下を作成したから、この金額で収まった。仮に、諸設備、入力代金など試算すると総額1000万円以上は軽くかかっている仕事である。約1200頁にわたって柱とノンブルを張り付ける作業を想像してもらえれば、おおよその実態が理解できるのではないだろうか。中国文芸研究会と共同出版なので、印刷費用の半額を支払う。休む間もなく、目録の増補訂正作業にはいる。中村忠行、伊藤漱平両先生よりご祝儀。たびたびで心苦しい。ただ感謝。リコーのワープロ専用機では能力不足のため、エプソンPC-286Vを購入、ワープロソフト「新松」を使うことにする。
★部数を減らして『清末小説』11号を発行する
 11月10日、印刷部数を50冊減らして250部とする。総104頁。印刷費用は10万円。部数を削減しても 100部以上在庫が残る。中国語の論文を翻訳せずそのまま掲載しているところからもわかるように、本誌は研究者と大学院生以上を対象とした専門誌である。書店扱いが約70冊、日本国内で直接郵送(贈呈を含んで)が約30冊、中国、欧米への寄贈(個人が主)が約50冊。寄贈の数は、経済上の理由で、数回にわたってしぼりこんである。約 150部というのが世界の現状なのかもしれない。配偶者が、このワープロ画面を覗いて、なんで、個人でそんなに奉仕しなくちゃいけないの、というております。

1989年
★ン、日立、私は嫌いです
 3月31日、いつものように日立2020を動かして増設ハードディスクに清末民初小説目録のバックアップをとっていたら、突然、停止してしまった。目録のデータが一瞬にしてパアだ。パア、パア、パア ……。ユルサンッ。日立のアホ。あーん。気をとりなおし、生き残っているデータをエプソンに移す。エプソンと日立の外字の定義が異なっているため、その確認と訂正に2ヵ月を必要とした。
★『清末小説』第12号の発行
 □月□日、印刷部数 300冊、総178頁、印刷費用□□万円。

 本誌は、ふりかえれば「文革」とは無縁のところから出発している。
 思い出して欲しい。1950年代後半から「文革」中にかけて、中国での清末小説研究がいかなる状態であったか。清末のおおかたの作家は、否定さるべき存在であった。否定的に研究するもの以外は、研究することじたいが反動であるといわんばかりであったのを。中国での研究文献目録を見ていただければ理解できよう。てっとり早く知りたい方に、袁健・鄭栄編著『晩清小説研究概説』(天津教育出版社1989.7)を紹介しておく。
 「普通」に考えれば、中国で白目をむいている分野をなにもより好んで日本で研究する必要はない、といえるかもしれない。さいわい、私のまわりには、中国での評価をそのまま日本に持ち込み、性急に適用しようとする人はいなかった。
 現在、中国では、清末小説研究が白眼視されていたのは、すでに過去のことになっている。最近の研究の盛りあがりを見るにつけ、時代は音をたてて、きしみながら変化していることを痛感しないわけにはいかない。
 本誌は、創刊以来、年1回の発行をほぼ維持し、当初、予定していたよりも多くの号数を重ねることになった。原稿をよせてくださった研究者に感謝したい。私たちが何をしたのか、本誌の総目録を見ていただければおおよその想像はつくはずだ。
 1989年6月4日の血塗られた天安門事件は、悲しむべき事件である。しかし、あの事件があったからといって、日本にいる私の研究方法が変わるということはありえない。

 進歩しているかどうかはわからないが、いままで通りのやりかたで、あせらず、好きなようにやらせてもらう。
 発見、情報、継続、交流を主旨とし、本誌は年1回のペースで、『清末小説から』は季刊で、発行を続けるであろう。これは、あくまでも、私のひとりごとである。 (樽本)