清 末 民 初 に お け る 定 期 刊 行 物 の 時 空
(附:「清末民初の定期刊行物一覧」)


樽 本 照 雄


は じ め に

 清末民初に発行された定期刊行物の、時間的、空間的変遷をさぐるのが、本稿の目的である。

 今回の調査に使用した資料、およびそれにもとづいて作成した「清末民初の定期刊行物一覧」について説明する。

 典拠資料
 主として、以下のふたつから材料を得ている。
 資料1――『辛亥革命時期期刊介紹』全5冊 中国社会科学院近代史研究所文化史研究室丁守和主編 北京・人民出版社1982.7-1987.11
 「説明」によると、辛亥革命前後、1900年から1918年までに出版された定期刊行物は、700種から800種あるという。そのなかより比較的重要で代表的な刊行物200種あまりを選択し、詳細に紹介したものが該書である。 第5冊が出版され、完結した。 数えると、本シリーズでは、重複して紹介してあるのを除き、248種の刊行物が解説されている。
 資料2――『中国近代期刊篇目彙録』全6冊 上海図書館編 上海人民出版社1980.7-1984.8
 1857-1918年の約60年間に発行された雑誌の細目を集成する。 採録対象は、哲学、社会科学方面の重要雑誌である。 「編例」によると、495種約1100余期の定期刊行物を掲げているという。余談であるが、『清末民初小説目録』(中国文芸研究会1988.3.1)を編集したおり、大いに利用させてもらった。
 以上の基礎資料に、つぎのものをおぎなう。
 阮恒輝「我国近代文学期刊編目」『文献』第2輯1979.12
 胡継武「晩清文芸報刊拾零」『文献』第3輯1980.10
 胡継武「晩清時期的文芸報刊」『文献』第15輯1983.3
 資料1、2と重複するところはあるが、文芸関係の重要新聞を追加することができる。

 これらの資料を総合すると、1857-1920年の64年間に出版された定期刊行物(新聞、雑誌)は、621種(異名同誌は、1種と数える)となった。 遺漏があるのは免れない。しかし、おおよその傾向を知るための材料とすることはできるだろう。
 この621種を基礎資料として作成したのが、附録の一覧表である。

 「清末民初の定期刊行物一覧」
 凡例風に説明する。
 1.定期刊行物の創刊年順に配列してある。創刊年が同一のものは、発行地別にまとめた。
 2.「発行地」は、創刊号が発行された都市(地域)を記入する。まぎらわしい例もある。たとえば、『訳林』である。発行地が杭州、印刷は上海の商務印書館が請け負った。このような場合は、杭州に発行地を指定する。
 3.「90-20」の数字は、1890-1920年を示す。
 4.★印は、発行されていることを意味する。ただし、年刊、季刊、隔月刊、月刊、隔週刊、週刊、日刊また不定期刊にかかわらず、該当年に発行されたものは、すべて★印ひとつで表示した。
 5.「備考」のT−Xは、上述『辛亥革命時期期刊介紹』の巻数を、数字はページ数をそれぞれ示している。「文献」とは、雑誌『文献』である。数字は号数を指す。
 
 「清末民初の定期刊行物一覧」から、なにが見えてくるか。
 まず、時間の変遷から述べよう。

定期刊行物の時間――ウルル山を確認

 1890年から1920年までに創刊された定期刊行物をグラフで示す(図1)。
 1890年代、1900年代、1910年代の3期に分けてみると、創刊の最初の高まりは、1897年に現われている。第2の頂が1907年、第3は1913年と、各年代にそれぞれ山がある。定期刊行物創刊ブームといってよい。
 それぞれの社会的背景を考えると、第1次創刊ブームは、日清戦争後の戊戌維新時期にあたる。第2次創刊ブームは、日露戦争後であるし、第3次創刊ブームは、辛亥革命後に出現したことになる。
 同じ図の上方に示したのが、発行状況をあらわすグラフである。
 発行状況とは、該当年次に発行されている刊行物の合計数をいう。「清末民初の定期刊行物一覧」の★印を、1年毎に縦に集計したものだ。創刊号のみを数えるのに比較して、刊行物の発行状況を、より実情に近い形であらわしていると言うことができる。
 発行状況のほうも、ほぼ、創刊数の動向と重なっていることがわかるだろう。
 以前、私は、定期刊行物の発行状況を、その形状からの印象でオーストラリアの「ウルル山(エアーズロックともいう)」と表現したことがある。 当時、205種類の刊行物を集計して、その結論を得た。今回、約3倍の材料を手にして、再度、もりあがる刊行物を確認する(清末民初の小説、および出版社の動態については、樽本照雄「清末民初小説のふたこぶラクダ」<『野草』第42号1988.8.1>を見られたい)。
 では、定期刊行物のウルル山は、どこに存在しているのだろうか。この問いかけは、奇妙に思われるかもしれない。清末民初の呼称からして中国にきまっている、というのが常識だろう。しかし、私はあえて問いたい。清末民初における刊行物の発信地は、はたして、中国にのみ限定されるものであろうか。


定期刊行物の空間――雑誌トライアングル

 「清末民初の定期刊行物一覧」を一見すれば、発行地を上海とするものが圧倒的に多い、という事実に気づく。近代印刷業の中心が上海であったことを考えれば、当然のことであろう。
 しかし、よく見れば、発行地が中国以外になっている刊行物があることもわかるのだ。
 アメリカ、シンガポール、ジャワ、フィリピン、フランス、ペナン、マカオ、さらに日本だ。
 発行地は、中国以外の地域を含めて全体で58箇所をかぞえる。そのうち5件以上の刊行物が創刊された都市(地域)を、多い順に書き出してみよう。

 都市(地域)別創刊数(1857-1920年。ただし、5件以上に限る)

上海 251 成都 16 福州 7
日本 84 杭州 14 紹興 5
北京 74 長沙 14 昆明 5
広州 29 武昌 10 香港 5
天津 19 南京 9 その他79

 上位3箇所(全体の5%である)、すなわち、上海、日本、北京だけで、新聞、雑誌の約66%を創刊している計算になる(図2)。
 対象を上海、日本、北京にしぼり、変遷をたどることにする。
 創刊数について見ると、1890年代は、上海が圧倒的に多く、山は、1897年だ。1900年代は、上海が恒常的に多数をしめながら、日本での創刊が目を引く。1907年が頂となる。1910年代も、上海が創刊数の上でも他の2箇所を大きく引き離しているなかで、北京での創刊が増加する。高みは、1913年である(図3)。
 都市別発行状況の図4を見ると、さらにはっきりと出版界全体の動向を読み取ることができる。
 基本的には、都市別創刊数の変化をなぞるような動きを示している。1980年代の山が1898年に1年ズレているくらいで、1907年、1913年の頂は、同じだ。
 上海での定期刊行物が、図で見る通り、他の地域を圧倒している。清末民初における出版界の中心は、上海であることがここからも明らかであろう。
 見逃してならないのは、1900年代における日本の存在である。この間、日本で創刊された、あるいは継続発行された定期刊行物は、数のうえで北京のものをうわまわっている。梁啓超の『清議報』、『新民叢報』、さらに中国最初の文芸専門誌『新小説』は、いずれも日本で創刊発行されている事実がある。清末民初の出版界に言及する場合、日本を無視しては、状況説明はできない。
 1910年代は、日本での創刊が減少し、北京で急増する。北京が日本に取ってかわった時代だ。
 清末民初における定期刊行物の動向は、次のようにまとめることができるだろう。上海を中心に創刊、発行が継続されるのが基調だ。辛亥革命以前は、それに日本での発行が加わり、辛亥革命以後は、日本から北京に交替する、ということになる。
 上海―日本―北京という三角形を形成している点に注目してほしい。私は、これを「清末民初:雑誌トライアングル」と呼ぶことにする。


お わ り に

 もう一度、最初の全刊行物の発行状況に話をもどそう。
 1890年から1920年まで発行された定期刊行物の全体図(ウルル山だ)に、さきほどの都市(地域)別発行状況のグラフを重ねる(図5)。
 1890年代の山は、上海そのものが創出した。1910年代は、上海プラス日本が中心となる。1920年代は、上海プラス北京が出版界を担っているのがわかるだろう。言葉をかえれば、出版の基盤に上海が存在しており、その時代における新思潮の発信地から情報が流入するという構造になっているのだ。
 清末民初の定期刊行物は、時間から見ればウルル山、地理からいえばトライアングルである、というのが今回の調査結果である。

(たるもと てるお)