蒋 維 喬 と 日 本 人
――蒋維喬日記から


沢 本 香 子


1.秋蘋金井雄

 ○日本語教師
 曾孟樸は、日本人・金井雄を常熟・竢実学堂の総教習にむかえた。1902年のことだ。
 同年、常熟の金井は、義理の兄・小川平吉にあてた手紙のなかで、日本語教授の様子を次のように書き留めている。

 常熟の諸生は東文已に成り目下は日本書を訳し日々来りて訂正を乞ふのみ。大に無聊を感じ居候処常州より予を招くものあり。即ち之に応じ不日出発いたし可申候。今回も矢張り無報酬に御座候(元来三十元の月給にて予の助教を聘せんとせるも助教久山なる者にては学力足らず、故に予自から往くに決す。然れ共三十元計の少額を受取るは実に内心に快からず。故に之を辞す。来使云、然則以書籍代之。小生の支那に来る専ら奇書を獲んが為なり。其喜びや知るべき也)。然れ共常熟とて閉校するに非ず。助教を留めて代理せしむる筈に御座候。(明治35年11月10日。『小川平吉関係文書2』みすず書房1973.3.30。377頁。 参照: 樽本照雄「研究結石」『清末小説から』第5号1987.4.1)

 常熟での日本語教授が、順調に行なわれていることをうかがわせる資料だ。
 ここで、金井雄は、常州に招かれたことを書いている。ところが、金井を常州に招いたのは、誰であったのか、今まで不明であった。このたび、発表された新資料により、その人物が蒋維喬であることが判明した。
 蒋維喬について簡単にふれておく。
 蒋維喬(1873.1.30-1958.3.16)、江蘇常州(武進)の人。 字は、竹荘。江南全県南菁高級学堂卒。少年時代南菁書院で経史詞章地理学を研究した。二十一歳のとき、江南製造局訳の西洋技術書に接触し、科挙をすて新学にこころざす。日清戦争後、救国の根本は教育にあると認識し、同好の士と故郷に新式小学を創設する。日本留学。のち中国教育会に参加、蔡元培などに招かれ愛国学社で教え、ほどなく愛国女校の専任となる。1903年陰暦五月より商務印書館の教科書を編集しはじめ、編訳所に入所。教科書編集のかたわら、愛国女校、商務印書館経営の小学師範講習所、尚公小学などで教育の実践をする。辛亥革命後、蔡元培によばれ南京政府教育部秘書長、南京教育部参事となり、学制、学校規定および関連教育法令の起草に協力した。江西教育廰長、江蘇教育廰長、東南大学校長、江蘇捲煙税處處長などを歴任、曁南大学、光華大学、上海国学専修館教授に任じ中国哲学を講じた。中華人民共和国成立前、香港に転居、1951年帰国。武進文献社副社長、江蘇省人民政府委員。著書多数。(橋川時雄『中国文化界人物総鑑』<北京・中華法令編印館1940.10.25/1982.3.20復刻。707-708頁>および「蒋維喬日記摘録」<『商務印書館館史資料』45。1990.4.20>按語、その他による)
 清末小説に関連していえば、蒋維喬は、元和奚若訳・武進蒋維喬潤辞『福爾摩斯再生後探案』1-5合本(小説林社 発行年不明)、 ジュール・ヴェルヌ著・奚若訳述・蒋維喬潤辞『秘密海島』下巻(上海・小説林1905)という翻訳にかかわっていることが知られている。

 ○「蒋維喬日記摘録」
 さて、金井雄と蒋維喬だ。
 蒋維喬は、1896年から逝去のときまで、約60年間、日記を書きつづけたらしい。その一部、商務印書館に関するところが汪家熔によって抄録発表された。「蒋維喬日記摘録」である。
 壬寅(1902)年大晦日に書かれた部分に、金井秋蘋の名前が出ているのだ。

 虞山に赴き日本人・金井秋蘋に常州で修学社を創設し、同志に日本語文法を伝習するよう依頼する。それにより常州の団体を結合し、村民同盟を国民同盟となす基礎とする。ここにいたり私の学識ははじめて帰着をみた。変革の主旨を固めたのである。

 金井雄の手紙が、蒋維喬の日記によって裏付けられたことになる。
 曾虚白著「曾孟樸先生年譜」に、金井雄を称して「革命亡命者」とあるのは、確かに不可解だ(参照:樽本照雄『清末小説研究会通信』第7号1981.1.1。のち『清末小説きまぐれ通信』清末小説研究会1986.8.1所収)。
 外務省に保存されている「外国旅券下付表」の旅行目的には、「(日本語)教師トシテ」と明記してある。教師が、どういうわけで「革命亡命者」に変身したのか、不思議である。
 「蒋維喬日記摘録」の上記部分を見てから、金井が「革命亡命者」とされた理由がわかったような気がする。つまり、金井雄は、変革の意志をもった蒋維喬に招かれる人物だった。そこから、金井雄=「革命亡命者」という連想が生じたのではなかったか。


2.雨山長尾槙太郎、小谷重

 ○教科書編集
 「蒋維喬日記摘録」に見える別の日本人は、長尾槙太郎と小谷重である。
 癸卯年(1903)五月から、蒋維喬は、商務印書館の小学校教科書を編集しはじめた。彼は、商務印書館編訳所に転居し、年末までほとんど毎日、教科書編集に従事している。
 具体的に長尾槙太郎と小谷重の名前が記録されているのは、日記、癸卯年十二月初二(1904.1.18)の項である。該当部分のみを引用する。

                              ママ
午後、日本人小谷重、長尾槙太郎来る。張菊(生)翁、高君夢丹(旦)と体裁を相談する。5時、会議終わる。(後略)

 小学教科書についての編集会議なのだ。それも大詰の段階で、すでに編集した原稿を編集しなおすという張菊生の提案にしたがった会議となっている。ここにいたるまでの基礎作業に日本人の協力があった。
 金港堂、商務印書館合併前後の日本人関係者の動きを見ておこう。
 金港堂の原亮三郎が、小谷重と加藤駒二を伴い上海にむかったのが、同光緒二十九年八月二十一日(10.11)である。商務印書館との合併計画を推し進めるためだ。
 原亮三郎一行が上海に到着して約1ヵ月後の十月初一(11.19)、金港堂と商務印書館の合併が成立した。
 長尾槙太郎は、原一行とは別に、十月十三日(12.1)、上海にむかった。
 以上の状況は、蒋維喬が教科書編集作業を進める過程で、日本人が編集に参加する背景が形成されたことをものがたっている。
 事実、蒋維喬日記には、長尾、小谷の名前こそあげられていないが、「日本人の起草する小学読本の材料」と題する文献が収録されているのだ。

 ○教育課程試案
 蒋維喬日記十一月二十五日(1904.1.12)の項に、小学読本の目録を編集しおわる、との記述がある。上述の「日本人の起草する小学読本の材料」が、それにつづく。商務印書館が教科書編集の指針としたものだと考える。読本編集の指針とはいえ、内容を見れば、小学校の教科と編制にほかならない。かりに教育課程試案と名付ける。貴重な資料だから原文のまま引用する。文中に見える蒙学堂は、日本の尋常小学校に、小学堂は、高等小学校にそれぞれ相当していることを念頭において見てほしい。

  附録日本人所擬蒙小学読本材料(〔〕は、汪家熔の注)
  読本以教日用普通文字為主,限〔?〕其文以為国文模範。如蒙学第一年用短句短文,字劃由簡而繁。選語由浅入深。排次関係須極留意。稍進則択題目材料,分属能文之人操觚最妙。
  一、読本中挿用絵図務求精美。否則減文章品格,殺児童興味,至便教授無効果。
  一、読本材料由各種事項,選用務須多渉方面,不偏一隅。比如蒙学堂教科有地理、歴史。読本缺此種材料,不可設得当。但記述之方法,読本主雅煉有趣味,故不妨稍渉詳細。
  一、材料排次以各種事項彼此交互錯綜,不偏不倚。否則生徒恐起厭倦之念。
  一、読本収載材料雖不得一一指定,権就日本通行尋常小学読本分類彙挙其普通汎用者。此外鑑支那情形選用材料。
  分類材料列左:
  理科 重要水産物(魚類、海草)象獅、駱駝、鯨等。珍稀動物,有益鳥類,有用植物,虫類。根幹葉花之構造及効用。四時之美花色。金銀銅鉄鉛等重要金属。煤炭、煤油、温泉、火山地震。空気、風、水、冰、露、霜、雲、雨、蒸気。寒暑表。雷、電気、磁石、時鐘、塩、醤、油、砂糖等日用品。
  農業 何謂農業。蚕、桑、茶、棉。生絲、綿。米、麦、豆。野菜、藍。耕作、肥料。害虫。農具。山林之恵。林木、造林法。果樹及果物。鶏鴨等家禽,牛馬豚羊等家畜。蜜蜂。
  商業 何謂商業。売買、信用、資本、市場。取貨単、送貨単。押匯。物価。銀行、銭荘及諸公司。貿易、輸出入。度量衡。貨幣、紙幣。
  工業 何謂工業。分業之益。漆器、陶器、織物等重要之品。
  修身 協同、公共事業、公徳、待外国人之道。戒迷信。勤勉、独立、勇気、愛国。先哲之嘉言善行。伊索寓言之類。
  地理 世界之大勢。本国之位置、本国著名之都会勝地。物産、気候、交通、航海。旅行之楽。日、韓、俄、英、美、法、徳之大概,与本国之関係。郵便、電信、火車、輪船。移住、殖民。
  歴史 著名人物事跡。
  家事衛生 衣服、裁縫。食物、調理。住居、家具。清潔、運動、掃除、洗濯。人体之構造。看病。纒足之害。
  全員受領及他証書。簡易尺牘。家事経済、貯金。職業無貴賤。遊戯。行業。歳時行事。
  法政雑目 政治組織之大略(中央政府与地方庁)。法令、租税、教育、兵役、陸海軍、軍艦、国旗。
  小学准此而程度加高。且可参用古人文章。小学堂読書科教授時間毎周十時:読本課六時,作文黙写課四時。
  一年四十周。読本課毎周六時,即一年二百四十時。以二時教授一課,即一年百二十課。毎冊題目六十課,共配置如左:
  理科 十五課
  歴史 十五課
  地理 九課
  修身 七課
  実業 七課
  家事、政治、衛生、雑目 七課
  毎課字数大約初冊三百,漸加至末冊約六百字。
  教授法中加簡易文法。
  理科材料須与時節相応。
  修身、理科、地理、歴史古人文章可採入。
  地理科包含遊記。理科包含地文。
  家事包含尺牘文。〔尺牘〕関於商業者則入商業。
  全部文字宜加句読。
  雑目包含歳時、行楽等事。

 蒙学四年毎周功課表

科 目 第一年  第二年  第三年  第四年

修 身 二時  二時  二時  二時
読 書 十時  十時  十時  十時
習 字 六時  六時  五時  五時
算 術 三時  四時  四時  四時
地 理 ○  ○  二時  二時
歴 史 ○  ○  二時  二時
体 操 三時  三時  三時  三時
図 画

  第一年〔毎周〕二十四〔学〕時,第二年二十五時,第三年二十八時,第四年二十八時。図画科随意加入。

 小学四年毎周功課表

科 目 第一年  第二年  第三年  第四年

修 身 二時  二時  二時  二時
読 書 十時  十時  十時  十時
習 字 四時  四時  四時  四時
算 術 四時  四時  四時  四時
地 理 二時  二時  二時  二時
歴 史 二時  二時  二時  二時
理 科 二時  二時  二時  二時
図 画 一時  一時  一時  一時
体 操 三時  三時  三時  三時

  各学科〔年?〕毎周三十時。図画加一時則算学減一時可也。

 蒙小学周年時間表

科 目  蒙 学   小 学

修 身 三百二十時  三百二十時
読 書 一千六百時  一千六百時
習 字 八百八十時  六百四十時
算 術 四百五十時*  六百四十時  *(汪家熔注:六百時)
歴 史 一百六十時  三百二十時
地 理 一百六十時  三百二十時
理 科   ○  三百二十時
図 画  一百六十時
体 操 四百八十時  四百八十時


 これほど詳細な教育課程試案が、蒋維喬の日記に見られるという事実は、注目に値する。日本人つまり金港堂側の長尾槙太郎(元東京高等師範学校教授兼図書審査官)、小谷重(元文部省図書審査官)の協力が、商務印書館の教科書編集にいかに大きな貢献したかを如実に示していると考えるからだ。

 ○教科
 日本人の手になる教育課程試案は、本文にあるとおり、日本で通行している尋常小学読本の分類をもとにしている。 ただ、 よく見てみると、「商業」の類に「銭荘」、「修身」の類に「戒迷信」、「家事衛生」の類に「纒足之害」というように中国の実情をふまえた部分もある。
 日本の尋常小学読本は、もとをただせば文部省の法令にもとづいて編集される。長尾、小谷が主としてよったのは、明治33年8月21日に定められた「小学校令施行規則」(文部省令第14号)であろう。彼らが上海に到着する3年前の制定である。職務上、熟知していた事柄だ。
 教育課程試案の冒頭部分は、「小学校令施行規則」の第三条、

読本ノ文章ハ平易ニシテ国語ノ模範ト為リ且児童ノ心情ヲ快活純正ナラシムルモノナルヲ要シ其ノ材料ハ修身、歴史、地理、理科其ノ他生活ニ必須ナル事項ニ取リ趣味ニ富ムモノタルヘシ(中略)
国語ヲ授クル際ニハ常ニ其ノ意義ヲ明瞭ニシ且既修ノ文字ヲ以テ通常ノ人名、地名等ニ応用セシメ単語、短句、短文ヲ書取ラシメ若ハ改作セシメテ仮名及語句ノ用法ニ習熟セシメンコトヲ務ムヘシ

という箇所を下敷にしていることがわかるだろう。
 児童が飽きることのないように、絵図の美しさを求め、材料の配列に配慮し、内容がかたよらないように、という提案は自らの経験によるものだとは容易に想像がつく。
 長尾、小谷は、教育課程試案を作成するにあたって、「小学校令施行規則」にもとづいてはいるが、まったくそのままではない。中国の状況にあった材料を選定するように述べているところからもわかる。編制にもその傾向がうかがわれる。

 ○編制
 日本において、従来の規程では、尋常小学校の修業年限は、3年または4年であった。これを、明治33年の「小学校令施行規則」では、4年に一定した。従来、読書、作文、習字とわかれていたものを国語にまとめた。また、毎週の教授時数を、尋常小学校では30時から28時へ、高等小学校は、36時から30時に削減した、などの改定がある。その他の変革は、今の論旨には直接関係ないので、ふれない。
 別に掲げたのは、尋常小学校と高等小学校の編制である(教育史編纂会『明治

●日本・尋常小学校の科目編制

以降教育制度発達史』第4巻 教育資料調査会1938.11.15/1964.11.10重版)。
 教育課程試案と日本のものを比較する。
 まずは、中国・蒙学−日本・尋常小学から。
 修身は、日本中国ともに同科目、同時間に設定してある。
 日本の国語を中国では読書と習字に分割する。4年間通算した毎週の時間数も国語52時間にくらべ、読書、習字合計62時間と、中国のほうが日本よりも約20%多い。
 算術の時間は、日本が23時間に対して、中国は15時間。日本が約50%多い。

●日本・高等小学校の科目編制

 同様に体操も、日本のほうが約30%うわまわっている。
 日本の科目にあって中国にないものは、唱歌、裁縫、手工。その反対に中国に
あって日本にない科目は、地理、歴史、となる。
 総時間数(各週の時間を4年間通算したもの)からいうと 中国の105時間に比して日本は99時間だ。同じ4年間に中国の方が約6%の時間を多く学習させることになる。また、科目からみれば、中国では読み書きに重点をおき、さらに、地理、歴史などはばのひろい知識を教授するところにその特色がある。
 つぎに、中国・小学−日本・高等小学を比較する。

 1902      蒙学堂   4年    尋常小学堂  3年    
                                
 教育課程試案  蒙学堂   4年   小学堂    4年   
                                
 1904      初等小学堂 5年   高等小学堂  4年  

                                 
●図・修学年の比較と変化

 中国での科目設定は、蒙学と同一である。ただ、時間配分が異なるのみ。
 日本では、日本歴史と地理に3時間、農業、商業、英語が置かれるところに変化がある。ただし、全体の傾向は、蒙学−尋常小学と同じといえる。中国では読み書きを重視し、地理、歴史に時間を割く。
 全体からいえば、商務印書館において日本人が示した教育課程試案は、読み書きの基本知識を重視し、学校の初歩段階から地理、歴史を設けてはばひろい知識を教授する方針で統一されているといえるだろう。いわば、知識注入型の教育課程試案である。
 長尾、小谷らの試案は、中国の教育課程の変遷においては、いかなる位置を占めるのであろうか。

 ○中国の教育課程
 光緒二十八年七月十二日(1902.8.15) の「欽定蒙学堂章程」「欽定小学堂章程」によると、修学年は、それぞれ4年と3年に定められている。科目は、蒙学堂が、修身、字課(天地人物の諸類の名詞を絵図によって示す)、習字、読経、史学、輿地、算学、体操の8科目、尋常小学堂は、字課にかえて作文があり、その他は蒙学堂と同じで、合計8科目がもうけられる(中国の教育資料に関しては、多賀秋五郎『近代中国教育史資料 清末編』<日本学術振興会1973.3.30> による)。
 蒋維喬日記に見られる 教育課程試案の 翌日――光緒二十九年十一月二十六日(1904.1.13)に公布された「初等小学堂章程」「高等小学堂章程」を 見てみよう。修学年は、初等小学堂が5年、高等小学堂が4年と、以前のものとくらべてそれぞれ1年延長される(参照:図・修学年の比較と変化)。初等小学堂の科目は、修身、読経講経、中国文字、算術、歴史、地理、格致(動物植物鉱物)、体操が基本で、随意科目として図画、手工がある。高等小学堂も、基本的に初等小学堂と同じ科目だ。
 科目名の変更に注目したい。
 字課・習字・作文が、中国文字(中国での教育科目にわざわざ「中国」とことわるのは、なにかおかしい)に改定され、史学が歴史へ、輿地が地理へ、算学が算術へと改まっている。
 長尾、小谷らの試案は、修学年をおのおの4年とし、算術、地理、歴史の名称を使用する。
 試案と小学堂章程の公布が1日違いというところから、試案が小学堂章程に、直接、なんらかの影響を及ぼしたというのは、ありえない。ただ、長尾、小谷らの試案は、中国の教育制度改革を先取りして立案されていたとはえいるだろう。中国の近代教育体制の模範が日本に求められた当時の状況を見れば、それは、必然であったのだ。

(さわもと きょうこ)