晩 清 小 説 史 研 究 の 問 題 点



中 島 利 郎


1.晩清小説史の「分期」の問題

 晩清小説史の「分期」を考える上で、問題になる点はいくつかある。
 まず第一には、中国の近代文学史上における「分期」の問題である。つまり、「近代文学」という概念に包容される時期が、中国においてはいつに始まり、いつに終るかという文学史上の区分についてである。
 従来の中国文学史では、(政治的な背景のもとに)1840年の鴉片戦争より1919年の五四運動までを「近代」とし、次いで1949年中華人民共和国成立までを「現代」、それ以降現在までを「当代」とする「三分法」が定着し、現在に至るまで自明の理のように通行して来た。しかし、1982年10月に河南省開封市で開催された中国近代文学全国学術討論会においては、そのような既成の「三分法」への反省からか、「近代文学」の「分期」について以下のような二つの新たな見解が出たといわれる*1。
(1)近代文学史の上限を鴉片戦争よりも一歩遡って自珍や李汝珍の活躍した
道光年間(1821年道光元年)とし、下限を1929年の梁啓超の没年までとする。但し、1919年の五四運動より1929年までは「近代」と「現代」の交叉期とする。
(2)従来、「近代」「現代」と分化されていた文学史の区分を、鴉片戦争より中華人民共和国成立までの百十年間を合わせて、「中国近百年文学史」あるいは「近代文学史」と統称する。その理由は、この百十年間、中国は一貫して半封建半植民地化されていたこと、また、五四文学革命期に出た新文学建設のスローガンは、既にそれ以前の80年間に基本的に生れていたこと等で、故に、五四運動を界に新旧両時代に文学史を分断するのは不合理である*2。
 更にまた、この学術討論会では、近代文学期内の「分期」について、以下のよ
うな六種の意見が出たという。
(1)鴉片戦争与太平天国前後的文学;戊戌変法与辛亥革命前後的文学
(2)資産階級啓蒙時期的文学(1840-1894);資産階級改良主義時期的文学(1894
  -1905);資産階級革命民主主義時期的文学(1905-1919)
(3)鴉片戦争到太平天国革命時期的文学(1840-1873); 資産階級改良主義時期  的文学(1873-1905);資産階級民主主義革命時期的文学(1905-1919)
(4)太平天国革命時期的文学;義和団運動時期的文学;辛亥革命時期的文学
(5)資産階級啓蒙時期的文学(1840-1894);資産階級改良主義時期的文学(1894  -1905);辛亥革命以前的文学(1905-1911);辛亥革命以後的文学(1911-1919)
(6)鴉片戦争和太平天国革命時期的文学(1821-1861); 改良派変法和同盟会革  命闘争時期的文学(1862-1908);辛亥革命時期的文学(1909-1919);五四運動  時期的文学(1919-1929)
 以上を見ると既成の区分も含め確かに多様な見解が出たといえようが、しかし、近代文学史の「分期」にせよ、近代文学期内の「分期」せよ、結局は歴史的および思想史的な区分をもって近代文学史の「分期」に当てたというだけのもので、やはり従来の「三分法」文学史の観点と基本的にはそれほど隔たりがなく、結局中国における近代文学史とは、歴史や思想史の追随するものとの印象を受けるのである。
 たとえば、近代文学史の起点を概ね鴉片戦争に置くが、いったいこの時期にどのような作品があったのか、近代文学と呼ぶに相応しい作品があったのか。いま、鴉片戦争期の文学作品を集大成した阿英編『鴉片戦争文学集』(1957.2古籍出版社、のち中華書局「中国近代反侵略文学集一」)を見てみると、この千頁に及ぶ作品資料集中のどこに近代文学と呼ぶのにふさわしい作品があるのか、はなはだ疑問が残る。確かに英国に対する反抗や阿片の害毒を描いた作品はあるが、詩歌、戯曲、散文のいずれの形式、内容、精神をみても、それがまさしく近代文学であるといいきれる作品は皆無といってよい。小説に至っては、阿英自身この資料集の冒頭で「わたしたちは比較的早期に鴉片戦争を反映した小説を、現在に至るまでまだ発見できないでいる」と述べているように、その当時に発表された作品はなく、そこに収録されている小説類も、鴉片戦争を題材にしているものの、すべて光緒二十一年(1895)以降に発表された作品ばかりなのである。従って、文学史的近代の起点を鴉片戦争期に求める必要はないといってよいだろう。つまり、人民共和国成立後に確立した思想史的区分や歴史的区分に文学史の区分を合致させることは、かえって中国における近代文学の本質を見誤ることにもなる。この事は、太平天国運動についても同様である。
 さて、この二三年来、中国の近代以降の文学をまったく新たな観点から見直そうという動きが現れた。北京大学に所属する陳平原、黄子平、銭理群等の若手の研究者たちが「二十世紀中国文学」あるいは「二十世紀中国小説」(以後「二十世紀中国文学(小説)」と表記)という概念を公にしたのである。いまその主張を、陳平原著『二十世紀中国小説史(1987-1916)第一巻』(1989.12北京大学出版社)に付された厳家炎の「前言」に見てみよう。

 中国現代小説は斬新な小説スタイルをもって、「五四」時期に生れた。だが、この変化の根源は戊戌の政変前後に遡ることができる。「小説界革命」のスローガンのもとに生れた「新小説」は、内容、形式ともに西欧小説の影響を受け始めて、多くの新しい要素を生んだ。小説全体については量的変化の中に部分的な質的変化が生れつつあった。「五四」文学革命以降、小説は進歩して審美意識、道徳情操、価値観念などの深層的な面において大きな変化をとげ、現代化に向けての飛躍を実現した。1949年以後の小説は、このような発展変化の中における新たな条件の下での延長である。故に、鴉片戦争以来の中国文学を「近代」「現代」「当代」の三段階に切り離してしまうような史的構造には、明らかに根本的な欠陥がある。第一に、分割の仕方が細かすぎて、視野が狭く偏向していて、研究自体の発展に制限を加えていること。第二に、政治的な事件を文学史区分の境界にすることは、文学自身の実態とは必ずしも一致しないこと(たとえば小説の発展において、鴉片戦争前後における変化は決して顕著なものではなく、ほんとうに小説に重大な影響をもたらしたのは、前世紀末に起こった維新思想であって、このことは現在に至るまで誰も近代小説史の分期の依拠すべき点だとはみていない)などである。

 以上のように、彼らの主張は、いままでの「近代」「現代」「当代」などという歴史学や思想史に追随した文学史の「分期」ではなく、文学独自の発展や変化に重心を置いている。そしてまた、この考えは「二十世紀中国文学(小説)」という名が示す通り、中国の文学が西欧の文化と激突することで受けた実質的な影響を考慮し、世界文学の中で近代以降の中国文学の発展を総体的に捉えなおそうという試みである。そして、その起点が1897年に置かれたのである。
 1897年(光緒二十三年)といえば、政治史的には戊戌の政変の前年であり、文学史的には『国聞報』に厳復(幾道)、夏曽祐(別士)の「本館附印説部縁起」が発表された年である。この「縁起」は「晩清小説」期のもっとも早期の論文とされている。つまり、「二十世紀中国文学(小説)」の起点と、「晩清小説」の起点と一致するのである。「近代小説」(「二十世紀中国文学(小説)」という主張からは「近代」という言葉は妥当ではないが)は、「晩清小説」から始まるということになる。
 以上のように現在中国においては、近代文学の「分期」については様々な意見が出、また「近代文学」などという枠組みに拘泥しない考えも現れてきたことは、「晩清小説」の「分期」を考える上でも参考になる。
 第二は、仮に「晩清小説史」の「分期」を、上の「二十世紀中国文学(小説)」の1897年を起点(これは梁啓超が『新小説』を創刊した1902年としてもさしつかえない)とすれば、当然その終りは1911年の清朝滅亡時となる、そしてその期間に発表された小説ならばすべてが「晩清小説」と呼称されるのだが、はたしてこのような区分でよいのかどうか、ということである。「晩清」と言う呼称で呼ばれる限りは、清朝が無くなればその呼称も消えてしまうのは当然かもしれないが、中華民国が成立したからとて、それらの小説の流れが一朝にして消えてしまったわけではなく、それは当然、民国期にも引継がれているはずである。勿論、晩清期に活躍した作家たちで民国期にも執筆活動しているものは多い。しかし、小説史等の記述では、「晩清小説」は清朝滅亡とともに終焉し、次いで1912年、突如として鴛鴦蝴蝶派と呼ばれる一派の小説が台頭してくるのである。阿英の『晩清小説史』は、「晩清小説」の様々な特質を述べ、それらの小説類を当時の社会現象に照して分類したが、それはそれとして、また別な視点から民国期を含むこの期の小説類について考えて見る必要があるのではないか。たとえば、「晩清小説」という呼称における「晩清」とはすこぶる限定な語であって、この二字のためにかなりの心理的な圧迫感を私などはもってしまう。つまり、「晩清小説」というのは、結局は1911年で終ってしまい、それ以降の小説とは繋がりがないような感じさえしてしまうのである。確かに「晩清小説」と鴛鴦蝴蝶派を代表とする民国初期の小説との関係はそれほど明らかになってはいないので今後の研究に待つことになるのではあるが、それでも、譴責小説と黒幕小説、写情小説と鴛鴦蝴蝶派小説の関係はすでに指摘されていることだし、また具体的には、「二十年目睹之怪現状」と張恨水「春明外史」及びその他の作品、「恨海」と林語堂「北京好日」などは明らかに影響関係にある。勿論、影響関係があるからという理由のみで、「晩清」「民国初期」の小説を同じ流れの中で捉えることはあまり意味のないことであろうが、この両時期の関係を究明することで、たとえば「晩清民初期小説」との新しい小説区分が見えてくる可能性がないとはいえまい。近代文学史を考える中でこの期の小説区分についてはもっと多様な意見が出てもよいとおもうのである。


2.阿英の研究に対する反省

 中国における晩清小説研究の最大の功労者は、言うまでもなく阿英であろう。中国はもとよりわれわれ海外の研究者もその恩恵を蒙ること多大である。しかし、いま彼の晩清小説研究における業績を振り返ると、さまざまな問題点が眼につく。それは彼自身の資質および中国の政治的変化より生じた問題であり、今日的な視点に立てば、すでに訂正あるいは改変されてしかるべき点が多々ある。たとえば阿英の主著である『晩清小説史』について考えてみると、この小説史には、まず第一に作品の引用に夥しい誤りがあること。『晩清小説史』中には、その性格上かなりの数の作品が引用されているが、そのほとんどの引用文が原文からの忠実な引用ではなく、引用の誤りや省略、そして阿英自身の意図的な書き換えや改竄などが随所にあるので、必ず原文と照合しなければならない。
 次に、『晩清小説史』の改訂に関してであるが、阿英の『晩清小説史』は1937年5月に上海・商務印書館より初版が出て以来、人民共和国成立後の1955年8月に北京・作家出版社より改訂版が出た。改訂版なので、字句や事実誤認の訂正や新出資料などによる改訂は行われているが、一番問題となるのは、解放以後の政治的な配慮などでの改訂である。たとえば、「胡適批判」を背景に、胡適に言及した箇所は作家版では胡適の名前自体が削除されたり、批判の度が商務版に比較してかなり厳しさを増しているし、また、民国政府に漢奸とされた周作人は人民共和国成立後は復権されたものの、彼に関してはその関連部分はすべて作家版では削除されてしまった。さらに「老残遊記」などかなりの作品についての阿英自身の興味深い解説でも「社会主義リアリズム」の枠外にはみだすような解釈をしている部分はかなり削除されているのである。これらの点についてはすでに述べたことがあるので(「阿英『晩清小説史』の改訂」1989.12.1『清末小説』12)、詳しくはそちらを参照願いたいが、総じていうならば、このような解放以後の価値観による改訂は、『晩清小説史』の価値を減じているといってまちがいない。したがって『晩清小説史』は1937年初版の商務印版で読むべきである。1980年には阿英の女婿呉泰昌による改訂版が人民文学出版社から出たが、これは原文引用などの誤りの訂正のみに終っている。以後に出版するならば、商務印版を錯誤訂正に止めて出版すべきである。ついでにいうならば、近々中国において『鴉片戦争文学集』を始めとする阿英編の「中国近代反侵略文学集」が再版されるというが、その出版目録などによればこれらは以前に出版されたものそのままの再版であるようだ。もしそのままの再版ならばこれは資料としては信用できないといえる。なぜならば既に指摘されているように、この資料集に収められた作品類の中には、阿英による大幅な削除や書き換えがあって原載そのままではないからである。これも勿論上記のような解放以後の政治的な要請によるものである。資料集として再版するならば原文のままに戻してするべきである。
 さて、阿英が商務印版『晩清小説史』(全14章)を出版してから半世紀以上経つが、現在に至るまでそれを凌駕するような「晩清小説史」は現れていない。また、阿英のこの小説史はいわゆる編年体式の小説史ではなく、晩清期に出現したさまざまな小説類をその内容によって各章ごとに分類している。これがこの小説史の個性となってはいるのであるが、各章がまったく独立していて(この主因はこの小説史の成立に起因する)この期の小説の流れを通覧するには甚だ不便であるし、また、全章が阿英の一貫した小説史観で有機的に通底しているとは言い難い。これがために『晩清小説史』を小説史とは認め難いという研究者もいる。前章の「分期」の問題とも関連するが、この期の小説を編年式に叙述する小説史がもう現れてもよいのではないだろうか。


3.研究者の意識について

 さて、次に問題にしたいのは、中国人研究者の意識の低さについてである。もちろん中国人の研究レベルが低いという意味ではない。道義的な意識が低いということである。これは晩清小説研究者に限ったことではないかもしれないが、他人の論文からの無断盗用なども含めていろいろ問題のあるところだ。いま卑近な例をふたつあげる。
 たとえば、わたしに関して次のようなことがあった。
 わたしはここ十年ほど晩清の四作家の一人である呉熕lの作品を読んだり、その経歴を調べたりしてきた。呉熕lは晩清期を代表する作家でありながら、全作品を鳥瞰できるような本格的な著作目録はなかった。そこで中国出版の単行本や所蔵目録および文献目録などを見たり、日本の機関に所蔵されている晩清小説関係資料を探索したりして、彼の「著作目録」を作っては数度にわたって補正してきた。その過程で、中国の文献を目録類をあれこれ見ているうちに、今まで知られていない呉熕lの著作らしき作品をいくつかの雑誌の中に見出した。しかし、いずれも日本では所蔵されない雑誌類に所載されており、中国に行った折にでも調べようと考えた。その後中国に行く機会ができたので、さっそくいくつかの図書館や機関を調べたが、所蔵していない、図書カードにはあるが現在行方不明、外国人には見せられないなどの理由で、結局は閲覧できずコピーもとれなかった。所蔵しないあるいは現在行方不明はしかたないにしても、外国人には見せられないというのは合点がゆかなかったが、ならば中国人研究者ならば見せるのかということで、帰国後、知人である著名な晩清小説研究家魏紹昌氏を介してせめてコピーでもとってもらえないかと打診した。魏氏からは、いま自分は仕事が忙しいのである研究者に依頼したのでそのうちに連絡があるだろう、とのお手紙をいただいたので、首を長くして楽しみに待っていた。それから数ケ月のある日、樽本照雄氏から氏の発行する雑誌『清末小説』第10号(1987.12.1)が送られて来たが、その中に王俊年「呉熕l的十七首佚詩和一篇佚文」という題の一文があって、次のように始まっていた。

  去年六月、魏紹昌先生恵贈《瘉・呉熕l特集》一冊、内附一函、謂“該刊 編者中島利郎告我三篇呉熕l佚文出処、也抄上、我們分頭努力一找。
 南海呉沃堯《東魯霊光跋》  《広益叢報》232号 1910.5.18
 繭叟《我望有感》外三篇   《政藝通報》第六年丁未第13号 1907.8.23
 《二十年目睹之怪現状》?  《重慶商会公報》135期 1906.8.14”
  今年一月、我修訂《呉熕l年譜》、便着手尋找呉熕l的這些佚詩、文。結果、不僅如願、還取得了意外的収穫。

 上文にあるように、これはわたしが魏氏に依頼した資料なのである。王氏は以下この作品類について紹介し、文末にはこれらの作品を転載している。この作品の転載がわたしへのコピーがわりなのか、わたしがヒントを与え、王氏がつてをたどって発見したのだから文句をいう筋はないのだが、やはりこの一文を見て釈然としなかった。王氏としてはつてをたどってせっかく入手した新出の資料をわざわざ日本人の手元に送るよりは、「意外的収穫」は中国人研究者である己れが発表するのが妥当である、いずれにしろ呉熕lの未知の作品がこれで公になるのだから、とでも思ったのであろうか。
 もう一例あげよう。
 樽本照雄氏が呉熕lの作品のひとつで、彼が翻案(衍義)したといわれる「電術奇談(一名催眠術)」(原載『新小説』第8〜2年6号、24回)の原作をかなりの苦労をしてつきとめ「呉熕l『電術奇談』の方法」(『清末小説』第8号1985.12.1)と題して発表した。「電術奇談」の原作は、1897年1月1日から3月25日まで『大阪毎日新聞』に連載された菊地幽芳作の「新聞売子」という作品。「電術奇談」が菊地幽芳の原作であることはつとに知られていたが、いままでその原作について論及した者は日本にも中国にもいなかった。おそらく中国では原作の探求は不可能であろう、などと思っていたが、最近、花城出版社から出版された呉熕lの小説集『恨海』(1988.8)を見て、驚いた。この小説集には表題作の「恨海」の外に「電術奇談」を収めるのだが、その巻頭に掲げられた王立言の「前言」に、次のようにあったからである。

  《電術奇談》的原作是英国小説雑誌社以三百英懸賞募集選抜出来的無名作家的作品、経日本小説家菊地幽芳翻訳、発表於《大阪毎日新聞》、自明治三十年(光緒二十三年、1897)一月一日至三月二十五日連載完畢、明治三十三年(1900)由大阪駸駸堂分前后両編発行単行本。在日本這種作品称“新聞売子”、即恋愛幻想偵探小説、以事実錯綜、趣向変幻巧妙吸引読者。〜菊地幽芳訳作時、将作品中地名、人名、除英国、印度倫敦、巴黎外、全部改名為日本習見用語、并插入日本明治時代風習。

 中国にあって王立言はよく調べたものだと、自らの非力に鑑みて関心し、さっそく樽本氏の論と比較対照してみて、また驚いた。

 〜「電術奇談」には原作がある。菊地幽芳「新聞売子(しんぶんうり)」という。『大阪毎日新聞』に連載された新聞小説だ。明治30年(1897)1月1日〜より〜第1回「摩耶子」が始まる。同年3月25日、第75回をもって完結した。
 「はしがき」によると、「新聞売子」にも原作がある。イギリスの小説雑誌社が三百ポンドの懸賞で募集選抜したもので、無名作家の作品という。菊地幽芳が翻訳(翻案)したのは、「妙は只事実錯綜趣向変幻巧に読者の好奇心を動かすに在り」〜という点に着目したからである。
 英国、印度、倫敦、巴里等を除いて、その他の地名、人名はすべて日本風に改められた。それに合わせて明治の風俗を写した挿絵が、毎回。紙面を飾る。
 〜構成要素を重要な順にならべると、「新聞売子」は、恋愛幻想探偵小説である。
 「新聞売子」は『大阪毎日新聞』連載完結後、単行本化された。前後編2冊本、大阪駸々堂発行。

 上文は先に引用した王立言の「前言」に対応する箇所を樽本論文から引用したものである。一見してわかるように王立言の「前言」は無断盗用であり、剽窃といってよい。王立言はどこにも樽本論文からの引用とは注記せず、この「前言」を読む者には、「電術奇談」の原作を探求したのはまるで王立言自身であると思わせるような書きぶりである。
 なぜこのようなことが起こるのか。中国のことに関して述べられることはすべて、たとえ外国人が新しい発見をしようが、新しい見解を述べようが、自分に都合よく利用しさえすればそれでよいのだと考えているのだろうか。それならば尊大な中華思想だ。あるいは情報やノウハウはタダで手に入れ大いに自分の利益のために利用すべきものだと思っているのだろうか。それならばはなはだ反近代的な考えである。
 中国の知識人は「民主」と「自由」の先兵であり、現在も苦しい状況の中で奮闘していることには敬意をはらうが、ここにあげた二氏のように実際は「民主」や「自由」の基本的ルールを知らない研究者もまた多いのではないかと思われる。もちろん中国の研究者がすべてこのようだとはさらさら思わないが、まず自らの研究方法に対する意識を近代化しなければ、自身が近代文学を研究する意義も見失われるのではないか。



1)柯夫・效維「全国首次近代文学学術討論会綜述」(1983.11 広東人民出版社『中国近代文学研究』第一輯収)該文によれば、この討論会は1982年10月14日から20日までにわたって、中国社会科学院文学研究所、河南師範大学、華南師範学院、蘇州大学の共同発起で開催され、出席者は全国より70名、40篇の論文が寄せられたという。
2)これらの見解を述べた研究者の名はあげられてはいないが、おそらく前者は河南大学の任訪秋、後者は中国社会科学院の馬良春の意見とおもわれる。(馬良春「略談鴉片戦争依頼文学分期的幾個問題」1987.8『中国現代文学研究叢刊』1987-3参照)

(なかじま としを)