檢 證:商 務 印 書 館・金 港 堂 の 合 辧(二)



中 村 忠 行


(4)

 上來些か觸れ來った樣に,商務印書館は,光緒二十八年(1902)七月,祝融氏に見舞はれ,北京路慶順里口<美華書館>西首秋字第四十一號の館屋を灰燼に歸してしまった。逆説的な言辭を弄する樣であるが,この災禍は同印書館の機構を一新させ,近代化させた上で見遁せぬところであるが,前にも引く<商務印書館大事紀要>はそれには觸れず,ただ<自建印刷所於北福建路,設編譯所於廠屋對面;設發行所於河南路>と記すのみ。金港堂との合辧についても,1914年(民國三年)の條に,<收回日股(一九〇三年日本金港堂來滬籌設印書公司,本館曾暫時利用日商的資本和技術,到本年收回全部日股)>と,技術・經濟面での提攜は認めるが,精神文化面での寄與に關しては目を掩うて,他を顧みるばかり,その姿勢たる極めて狭量、且つ近視眼的と評せざるを得ない。

 閑話休題。新設された三つの施設――編輯・印刷・發行のうち,最も人々の注目を浴びたのは,北福建路に新築された印刷所であった。

 就中印刷所の如きは煉瓦三階造りにて五百坪に餘り,我國の印刷所には見難き程の建築也。館員は職工を合すれば五百人に達し,何れも整然たる分業の下に業務に從事し,其の勤勉なること實に驚くに堪へたり。曩に金港堂よりも編輯員店員其の他印刷製本彫刻等の技術に巧なるものを選拔して二十餘名を派遣したるが,何れも支那人に打雜りて各々專門とする所を擔當し,彼を指導誘掖して其の短處を助長するに勉め居れり。而して其の結果次第に改良の實顯はれ,銅版寫眞版石版電氣版の如きも新に着手することゝなれり。尚先方よりは業務見習の爲近々支那人職工若干名を當方に送り越す都合なり。

 上にも引く《教育界》所載<清國に於ける金港堂の事業>の一節である。この文は正式調印後三月ほどして書かれたもので,日本國内向けの宣傳記事だから,多少自畫自讚的な要素が認められるが,宏大な工塲と最新を誇る機械・設備とが,時人を驚かすに十分であったことは疑ひない。<之が爲(商務印書館は)一時多大の負債を生じ,收支償はずして,將に解散の悲運に遭遇せんとす>(内山 清・山田修作・林 大三郎共著《大上海》,上海・其社,1915)といふ噂さの飛んだのも,怪しむに足りない。上記宣傳記事でも,<元來商務印書館は少額の資本を以て業を起し,苦心經營して次第に改良擴張したる會社なるが>と,暗にそれを匂はすことを忘れてゐない。
 館の施設としては,他に<製本所>があって,これ亦別個の獨立した建物だった。當時は洋裝本が漸く芽生えつつあった時代であり,さうした技術者が指導に當ってゐたことは,右の引用文にも見えるところであるが,今は略して簡に從ふ。

 筆を原に戻す。
 館屋の燒亡に最も狼狽したのは,筆頭株主であった印錫章であったらう。光緒二十七年(1901)夏,彼は乞はれる侭に投資し,その筆頭株主となる。未だ貧乏書生の域を出なかった張元濟も,交際上出資せざるを得ないが,その金は夫人が腕輪や首飾りを賣って捻出したもので,時人は以て美談となした。既にして,築地活版製造所の上海支店だった<修文館>*1を買收し(光緒二十六年,1900),長江筋で第一の設備を誇る印書館に成長した商務印書館*2は,ここに新たな投資を得て,その資産は創業當時の七倍――凡そ五萬元と算定され(朱蔚伯氏:前掲文,P.143。 汪家熔氏:前掲書,P.82),大きく羽撃くものと誰しもが信じて疑はなかった。
 しかし,それも束の間,功に逸る夏瑞芳が,怪しげな譯稿を法外な値で買ひ取ったことから,半年も經たぬ裡に一萬元もの損失を招いたと聞かされ(後述),呆れる暇もなく今次の<舞馬の災>である。偶々,印は<興泰紗廠>の買收,それに續く<上海紡織有限公司>の設立などで,<三井物産>の上海支店長山本条太郎に接觸する機會が多かったから,愚癡をこぼし窮状を訴へたことがあるに違ひない*3。
 山本の妻室操子は,原亮三郎の三女である。時に,原は選ばれて<日本銀行>の監事に任じてゐた。金港堂の經營の他に,<第九十五銀行>頭取・<東京割引銀行>取締役・衆議院議員といった經歴が買はれたものであらう。謂はば名譽職の如きものであったが,その職は総裁・理事に次いで重要なものであるから,他の銀行・會社の役職を兼任することを許さなかった。從って,金港堂の經營も,長男亮一郎に委ねたが,依然法王的存在として腕を振ってゐたことは,多言を要しない*4。
 山本の飛札を得た原は,即座に大陸進出を決意したに違ひない。横濱で創業し,金港(横濱)を店名に冠した彼にとっては,貿易業者の動かす巨萬の富は,憧憬の的であったらう。山本を女婿に迎へてから,貿易に對する關心は一層高められもしたに違ひない。又,彼は金港堂(書籍出版業)經營の立塲から,<築地活版製造所>との關係も深く,從って,上海の<修文館>のことも聞知してゐたであらう。殊に明治二十一年(1888)には<東京機械製造會社>の取締役に,同二十四年(1891)には<冨士製紙會社>の取締役を兼任してもゐるから,活字字母・印刷機などが清國向けに輸出されてゐること,上海では歐米資本に依る製紙會社<華昌>が營業を開始し始めた(1900)ことなど,かなり專門的な情報をも握んでゐたと想像される。
 既にして,小學校用教科書の國定化,中學校及び女學校用教科書の檢定制度の確立を企圖する文部省の規制は,國權の伸長と共に,嚴しさを加へつつあった。<博文館>の如き,明治二十五年(1892)四月には,最も旨味のあった小學校用教科書の出版から手を引いてゐるし,金港堂も同三十四年(1901)十月には小學校用教科書の出版を中止,翌十一月《教育界》を創刊する。これを皮切りに,翌三十五年には《少年界》(二月)・《文芸界》(三月)・《少女界》(四月)等々を矢繼早に創刊,<金港堂の九大雜誌>と宣傳する。それと並んで,上田 敏著《詩聖ダンテ》・永井荷風著《地獄の花》といった文芸物の出版にも手を伸し,店舗も日本橋の本町一丁目六番地から本町三丁目十六番地,――すなはち本町通りを挾んで<博文館>に對峙する位置に移し,世人の眼を瞠若たらしめた。

 かうした方針の轉換は,直接的には,三十四年一月十二日<文部省令>第二號を以て公布された嚴罰規定に因るもので,それを回選する爲に,原は<帝國書籍株式會社>なるダミイ會社を創立したりするのであるが,それも及ばず,三十五年十二月遂に<教科書疑獄事件>の摘發を受けることとなるのは,既に稻岡 勝氏や樽本照雄氏の指摘せられるが如くである。
 しかし,機を見るに敏な原亮三郎は,右の疑獄事件の發端となった<教科用圖書檢定違反>に問はれた明治三十二年(1899)五月の頃から,轉進すべき道を模索し始めてゐた。實藤惠秀教授によって紹介された《日華學堂日誌》*5明治三十三年(1900)六月二十日の條に,金港堂の理事某が高楠順次郎の經營する同學堂を訪れ,<日華學堂學生一同ヲ招待シテ,清國學校ニ用ユル普通學校教科飜譯ニ付キ學生ノ意見ヲ聞カンコトヲ求ム。此事ニ付テ豫メ総督ヨリノ前言アリシニ依リ,學生二三ノモノニ其旨ヲ傳フ>とある。文中の<総督>とは,清國學生総督夏楷復のこと。その口添へもあったといふのであるから,手段よく根廻しも出來てゐたと見なければなるまい。翌二十一日には,正式に案内状も届くが,留學生達には,堂督寶閣善教にも明せぬ祕密があった。山東・直隷二省に於ける團匪の騷擾もさることながら,暑中休暇の日も迫って望郷の念に驅られる學生の心は落着かぬ。北洋大學から派遣されて來た黎科などは五月一日に逸早く歸國してしまったが,その仲間(北洋派)の友人達には,唐才常に共鳴して擧兵に參加する決意でゐる者があるのを,お互ひが知りつつも心に祕めてゐる。祕密は,酒席では殊に洩れ易い。一同相談の結果,<金港堂ノ案内ハ至極感謝ニ不堪モ,目下清國義和團騷動以來,各列國共ニ兵ヲ派遣シ,且ツ大沽砲撃アリテ,清國ノ存亡ヲ決スルノ際,頗ル心配シ居レバ,暫時此招待ヲ見合セラレンコトヲ請フ>(廿二日)こととなって,この折は沙汰止みとなってゐるが,金港堂がそれで計畫を放棄したとは到底考へられぬ*6。


(5)

 論は少しく岐路に入る。
 原亮三郎が大陸進出の途を模索し始めたのは,時代の趨勢を逸早く感じ取ってゐたからである。明治三十一年(1898)十月發行の雜誌《太陽》の記者は,偶々歸朝し滯京してゐた上海領事小田切萬壽之助の談話筆記を取り,<清國貿易の前途>と題して,同誌第四巻第二十一號に掲げた。その末尾は,次の樣な談話で結ばれてゐる。

……近來は彼國人が歐米の文明を慕ひ,隨って之を學ぶには東隣同文國なる日本の經歴に徴し,其の最近三十年間,歐米の文物を模倣したる成敗に鑑み,成功を採りて失敗を避けんとするに鋭意なるや,頻りに日本の圖書を買ひ,政治,法律,經濟等の各科を首とし,工芸,科學,歴史,地理等に至るまで,頻りに日本の書に因て研究せんとする氣運と爲れり。故に此際日本の圖書を漢譯して彼國に輸出せば隨分販路多かるべし。或は清國には版權の保護なき故,飜刻の懸念あるべきも,豫め地方官に交渉して飜刻を禁ぜんには,之を防止すること難からず。但だし漢文は彼方が本家だけに,純粹なる日本人の筆に成れる漢文にては,瑕疵多く,或は一應清人の添刪を必要とするなるべし。然れども余は實際日本文を漢譯することなく,假名交りなる日本文の侭にて輸出するも,隨分販路ありと信ず。現に余の如きも,日本文の圖書買入を委托せらるゝこと多し。而して此れは彼國にて漢譯し,多數の間に分ちて讀むものなれども,往く々々は譯せずして原文の侭に讀むこと,今日日本人が歐文を讀むが如くなるべしと信ず。此際日本圖書を輸出するは,國家の爲にも必要の事なるべきのみならず,一己人として利益のある事なるべし。
(<日本圖書發賣の好時期>。圏點,原文のまゝ)

 この談話筆記は,當代の人々から興味深く迎へられた。折柄の戊戌政變・亡命政客の來日で,清國の將來に人々の關心が注がれてゐた。亡命政客の一人梁啓超が,前年秋冬の間,同志を糾合して上海に<大同譯書局>を起し(1897),<以東文爲主,而輔以西文,以政學爲先,而次以藝學>(<大同譯書局敘例>;《時務報》第四十二册)と唱へてゐたこと,この年(光緒二十四年)三月に著され,六月上諭によって各省に頒與された老政治家張之洞の《勸學篇》でも,極力子弟の日本遊學を薦め(<遊學>),日本書飜譯の急務なることを力説してゐる(<廣譯>)ことなども,次第に知られて來た。<善隣譯書館>を初めとする譯書事業の一時の勃興は,それを物語るものに他ならない*7。
 勿論,原亮三郎も之を讀み,大いに食指を動かしたことであらう。殊に,彼が三女操子を山本条太郎に嫁がせたのは,ほんの三・四個月前のことである。山本は而立を躋えたばかり,三井物産の參與で,大阪支店の棉花糸首部長を兼ね,上海生活の經驗も豐かで,將來を囑望されてゐる。出版文化の問題ばかりでなく,日本の幣制改革が清國貿易に及ぼす影響から,棉布・生糸など紡績關係の諸問題,輕機械工業の將來,清國貿易商養成の急務等々,日清戰爭後の兩國間の經濟問題を談論風發する小田切の姿は,政商原亮三郎の眼にも強く燒付けられたに違ひない。
 越えて明治三十三年(1900)六月,<博文館>から内藤湖南の《燕山楚水》が上梓された。湖南は,この前年八月末から十一月末にかけて,宿願であった禹域漫遊を果すが,その<遊清紀程>を,當時在社してゐた《萬朝報》九月二十二日からこの年四月四日までの紙上に,斷續的に掲げた。それを中心に,若干の文章を補って纏めたのが本書である。この旅行中,湖南は好んで嚴復・王修植・文廷式・羅振玉・張元濟など在野の俊髦と筆談して,時務を論じ金石を品して旅情を慰めるが,天津で來訪を受けた陳錦涛・蒋國亮との對談の一節に,次の樣な條りがある。上に引く小田切の談話と同趣のものであるが,中國人から具體的に要望を聞くことが出來る資料であるから,繁を厭はずに抄出しよう。

蒋 貴國書籍,飜して中文と作すは,此れ大に有益の事,既に以て支那の文明を開くべく,而して貴國又其の利を得ん。近日の萬國史記,支那通史の如き,中國人此書を買ふ者甚だ多し。惜しむらくは此類の書,譯出する者甚だ少なき耳,故に弟甚だ貴國人が多く東文書を譯せんことを願ふ。貴國維新時の史,及び學堂の善本の如き,猶ほ益ありと爲す。君以て然りと爲すや否や。
予 現に設けて善隣譯書館あり。吾妻某氏,岡本監輔翁等と,方さに飜譯に從事す。聞く貴國李星使も亦頗る此事を贊すと。但だ敝邦人刻苦飜譯する
                               カス
所,滬上書肆,輒ち飜刻售出せば,則ち邦人精力,徒らに射利の徒の攘むる所と爲らん,又貴國官司が嚴査を要す。貴邦石印書籍,價極めて廉,敝邦の敵する所に非ざる也。
萬國史記,即ち岡本翁の著,支那通史は那珂通世氏の著,二君僕皆之を識る。岡本嘗て貴國に遊び,闕里先聖の址を訪ふ。那珂は僕が郷先輩なり。
蒋 敝國印書一定の律なし。滬上廣學會の書の如き,皆飜印を禁ず。但だ中
                         モ
國の官に請て,一告示を給せば,不可なる者なし。以後如し飜印あるも,亦査出し易し。嚴辨すべき也。前時廣學書を飜印する者あれば,仍ほ告發辨過一時せられたり*8。

 中國問題の論客として,内藤湖南の名は人々の記憶するところであった。ましてや,博文館を祕かにライバル視し,その出版物に絶えず注意を拂ってゐた原亮三郎のこと,これを讀んで<檢討の價値あり>と考へたことは,想像に難くない。金港堂の理事某が日華學堂を訪れ,留學生の招宴を申入れたのは,《燕山楚水》の出版直後,――僅か旬日後のことなのである。

 勿論,原の視野の中には,湖南も言及する<善隣譯書館>や<勸學會>の華々しい活動ぶりが入ってゐた。
 <善隣譯書館>は,上記小田切萬壽之助の談話に啓發された松本正純や吾妻兵治等が首唱し,重野安繹(成齋)・岡本監輔(韋庵)などの贊同を得て發足した團體で,校閲者として王治本(脂)の名を掲げるものがあるから,その活動は明治三十二年(1899)二月以後に始まる*9であらう。この譯書館からは,
         ブルンチュリ
國家學  伯崙知理原著 吾妻兵治譯 二册 明治三十二年十二月刊  (1899)
戰法學  石井忠利著 王治本校訂  一册  同上
日本警察新法 小幡儼太郎(樂山)譯編  一册  同上
大日本維新史 重野安繹著   二册  同上
などが上梓された。これらは,何れも當初から漢文で著されたか,漢文で譯されたものらしい。其處に,同譯書館の目的とする所を窺ふべきであるが,時期尚早であったか,收支償はず,版權を<國光社>に讓って販賣を委ねたが,永續きはしなかった。
 因みに,《戰法學》の著者石井忠利は,軍事教官か顧問かで張之洞に招かれ,武昌に在った人ではなからうか。善隣譯書館本に先立って,武昌の<質學會>から<軍學叢書初集>として上梓(光緒二十三年,1897)されてゐるし,<北洋官報局>の編刊する<學報彙編>第十七册としても收められてゐる。
 又,善隣譯書館では,これらの本の出版と同時に,版權の保護を清國政府に求めた(《圖書月報》第三巻第五號,明治三十八年二月刊)が,十分な成果は得られなかったか,三十四年(1901)十一月にも,<東京書籍出版營業者組合>は,わが内務省及び外務省に對して,<清國ニ對スル出版權保護ノ儀ニ付請願>を試みてゐる(《東京書籍組合五十年史》,p.931;稻岡氏:前掲紀要論文<金港堂小史>,p.109)。勿論,運動の中心に,金港堂(當時の社長原亮一郎)の名があったことは贅するまでもない。
 岸田吟香を中心に,阪上半七(育英社)・阪本嘉治馬(冨山房)等が,<勸學會>を興したのも己亥季春のこと,善隣譯書會の發足と時期を同じくする。その本據を<樂善堂>(京橋區銀座二丁目)に置かず,日本橋区十軒店の阪上半七の店舗としたのは, 樂善堂でも藥種の他に書籍を扱ってゐた爲か。 明治三十二年(1899)十一月,<編輯兼發行者・岸田吟香>の名で張之洞の《勸學編》を出版してゐるが,これには句讀點・返り點が施され,定價も<金參拾五錢>とあるから,國内向けに出されたのである。上海の英租界河南路(天津路北)に支店を設け,杉江房造を長としたのは,團匪事件(1900)が治まってからのことなるべく,本格的に活動を始めたのは,三十五年(1902)夏頃からのことで,沖禎介編譯《日本學制纂要》二册・重野安繹著《萬國史綱目》一册・古城貞吉著《支那文學史》一册・勸學會編《輿地問答》一册などが出版される。が,金港堂・商務印書館の提攜をみるや,逸早く席を之に讓り,杉江は虹口文路155號に<日本堂>を開き,居留邦人を顧客とする書籍文具商に轉じた。
 伊澤修二を顧問とする<泰東同文局>が發足し,小石川區小日向第六天町の伊澤邸に事務局を設けたのは明治三十五年春のことで(《大阪朝日新聞》三月十日附),幾許もなく京橋區水谷町七番地に進出すると,八月には伊澤修二校閲《東語初階》一册・同《東語眞傳》一册を,次いで橋本 武譯《日本學制大綱》四册を年内にと,出版し始めた。伊澤は,<浙江求是學院>から派遣されて<日華學堂>に學んでゐた呉振麟を女婿に迎へた程,清国子弟の教育には熱心であったし,文部官僚としての永い經驗からも教育界には顔が廣く,從ってその出版も,大矢 透著《東文易解》二册・同《日本文典課本》一册・伊澤修二編《東亞普通讀本》四册・金國璞,呉泰涛共編《支那交際往來公牘》・《同訓譯》各一册など,編著者の名を見ただけでも良書と判斷出來るものが多かった。上海の英租界河南路棋盤街四百九十三號に設けられた分局は,阿多廣介の經理するところで,民初の頃までは存在した。
 下田歌子が,<實踐女學校>の父兄で越後の素封家であった山田準一の援助を得て,上海四馬路惠福里五十三號に<作新社>を作ったのも,明治三十五年春のことである。その開設には,翼堰E宮地利雄(貫道)・逸見勇彦の三人が當り,印刷所も設けられたが,書籍は概ね東京で印刷され搬入されるものばかりであったから,當初は行商めいた販賣法も採らざるを得なかったらしい。三人の中,逸見は西南の役に憤死した西郷麾下の四天王の一人逸見十郎太の遺兒で,早くから嫉世無頼の傾向があったのを憐んで,上原勇作(後,元帥)が下田に教育を委ねたのである。そんな人物だから,逸早く離脱して北上し,日露戰爭の時には特別任務班に加はり,數十の馬賊を率ゐて敵の後方撹亂に當った。も亦,早くから革命運動に參加してゐて工作に忙しく,結局宮地獨りが孤壘を守って,雜誌《大陸》の發行を試みたり,《上海週報》の印刷を引き受けたりしてはゐるが,書籍出版業としては振はずに終った*10。
 この頃になると,居留邦人の間からも出版を試みる變り種が出て來る。綿貫與三郎は,四馬路(杏花樓の前)に<日本博愛醫院>を開き,義弟宮崎徳太郎と診療に當ってゐた醫師であるが,傍ら<新智社>を經營して,新智社編輯局編《東語完璧》(光緒二十九年四月刊)・和田垣謙三著《法制教科書》・同《理財教科書》・《政學綱要》などを作新社で印刷發行した。彼は又,<中日醫學校>を經營(明治四十一年)して,中國人に醫學教育を施す。《男女衛生新論》(恐らくは自著)は,その折の産物であらう*11。 以上の他,地圖と地球儀の輸出で市場を席捲した松邑三松堂の活躍も人の目を惹いたが,今は略して簡に從ふ。

 明治三十五年,則ち光緒二十八年(1902)は,<欽定學堂章程>が發布され,近代教育が胎動し始めた時である。時を當て込んで書肆が,雨後の筍の如く上海に簇生した。

始メテ日本ヨリ來リタル旅客,一タビ四馬路附近ヲ徘徊シテ,至ル所比々トシテ譯書販賣ノ書肆アリ,譯書局ノ金看板アルヲ見テ,清人ガ如何ニ新學ヲ歡迎スルカヲ知ルナルベシ。之レ團匪ノ平定後ヨリ俄カニ勃興シタル新現象ニシテ,其譯書ハ時ニ泰西ノ原書ニ依ルモノアレドモ,多クハ日本ヨリ譯出セルモノニシテ,日本ニテ繙譯出版シテ輸入スルモノ,當地ニテ日本人ノ繙譯スルモノ,日本ヨリ歸リタル清人自ラ繙譯スルモノ等,新著新版日ニ月ニ増加スルコトハ,新聞紙上ノ廣告ニテモ知ラルベク,其書目ヲ通覽スルニ,何レモ際物的片々タル小册子ニシテ,未ダ系統ヲ逐ヒ秩序ヲ正シテ新智識ヲ輸入スベキ大著浩巻ナク,甚シキニ至テハ,假名拔キニシテ只角字ヲ轉置シタルノミナルモノモアリテ,讀者ハ無論意味ヲ解セザルベク,譯者自身モ亦無意味ニ文字を並ベタルナラント疑ハルゝ程ニテ,是等ハ多ク洋行(歸)リ(日本ヨリ)ノ『ハイカラ』先生ノ手ニ成リタルモノナラン。而シテ斯ノ
   ママ
如キ杜選ノ原稿モ,日本ノ著作界ニ比スレバ迥カニ高價ニ買取ラレ,美裝シテ廣告ヲ出セバ,講讀者雲ノ如クニ集リ來ル程ノ大景氣ナリ……。(<上海ノ譯書界>;《上海新報》第一號,明治三十六年十二月廿六日)。

 とは,當時の空氣を傳へる記事であるが,かうした状況は,山本夫妻から絶えず原の許に報ぜられてゐたに違ひない。既にして,原は周到な計畫を立ててゐた。山本からの飛札を得て原が即座に出馬を決斷したのもその故である。勿論,原の意圖は合辧して新しい出版書肆を營むことで,投資や合資ではなく,ましてや<來滬籌設印書公司>といった消極的なものでは,さらさらなかった。


(6)

 少しく異った立塲から,上述したところに檢討を加へる。
 圖版6は,冒頭に引いた《日本政治地理》(光緒二十八年十一月首版)の奧附(圖版2參照)の裏(袋綴)に見える廣告である。活字と花型罫とを驅使して,一見牌樓を想はせる樣な圖柄を示し,上段の中央,屋根に當る位置に,花型罫で圍んで<商務印書館>,やや小さい活字で<新譯華英各種書籍>と二段に組み,欄外にさりげなく<上海>の二字を附してゐる。屋根の左右には,月桂樹をあしらった花型罫で耳樓を象り,右には<發行所、開設在上海・棋盤街中市>,左には <印刷所、錢業會館西・文昌閣隔壁>と記す。<上海商務印書館>が <金港堂>の匿名であり,錢業會館西に在った印刷所が金港堂の上海支店であったことは既述の如くであるが,この廣告は,それを裏付ける資料の一つででもあるので,それには敢て觸れないで,論を進める。
 牌樓の門柱を想はせて,これも花型罫で圍んで,右に<專售印書機器・銅模活字・銅板・鉛板>,左に<各色洋紙,兼印中西書報・各種零件>とある。商務印書館が,印刷ばかりでなく,この種の用品の輸入販賣をも行ってゐたことは,故實藤教授が《昌言報》の廣告によって指摘されたところ*12,余り注目を惹かないことだが,事實である。
 牌樓の軒端には,額縁を置き<謹啓者,本館爲開發民智,輸入文明起見,爰聘通才,編譯華英讀本及字典云々>と,開店披露の口上を掲げ,門を濳る通路を埋めて,既刊の書目五十點(約八十册)を記し,之を誇示する。
 《日本政治地理》が上梓された光緒二十八年十一月は,回祿で全てを失ってから三個月後のこと,この時點では,未だ北福建路の印刷所も完工してはゐまい。<微々トシテ振ハナカツタ>筈の商務印書館が,突如としてこれだけ多くの新刊書を出版する書肆として登塲するのであるから,誰しも驚かされるし,その不自然さには容易に氣附く。しかも,その活動は少しも衰へない。上掲《普魯士地方

圖版6

自治行政説》や《繍像小説》第一期(共に光緒二十九年五月刊)の巻末にも新刊書の廣告が見られるが,彼此比照すると,光緒二十八年十一月から翌二十九年四月頃までの半年間に出版された書物の實態を,大掴みながら窺ふことが出來る。その數,凡そ三十點。他に近刊を豫告される書名十四點,その大部分が日本書からの飜譯であることも,明らかとなる。提攜の正式調印が行はれるのは,更に半年後のことであるが,その間に豫告された十四點も,殆んど出版されてゐる。
 これは驚くべきことである。この時分,商務印書館編譯所はどの樣な状況に在ったか。暫く,蒋維喬氏の語るところに,耳を傾けよう。

 ……在北福建路唐家椛d屋三楹,設立編譯所。張即介紹譯書院中之同事四五人,爲之修改譯稿。然苦不易從事,張於是介紹蔡元培爲編譯所長,以謀改進。依蔡之計畫,決議改變方針,從事編輯教科書。此商務印書館編輯教科書之發端也。
 蔡元培任愛國學社經理,不常駐所中。且商務編譯所規模甚小,雖有編輯教科書之議,亦不主聘專任人員,乃用包辧方法。由蔡元培先定國文,歴史,地理三種教科書之編纂體例,聘愛國學社之國文史地教員任之,蒋維喬任國文,呉丹初任歴史,地理,當時之代價,毎兩課酬報一元。編者既乏教授上之經驗,即有經驗,亦不得從容研究,惟知按課受酬,事實如此,殊覺可笑。及蘇報案起,蔡離滬赴青島,遂由張元濟自任所長云々*13。(圏點筆者)

 蔡元培は<愛國學社>の經理に任じてゐたが,傍ら<南洋公學>の教育にも參與してゐた。現に,<成城學校入學事件>での日本側の處置に悲憤遺る方なく,自殺を圖って日本政府から國外退去を命ぜられた同僚呉敬恆(稚暉)を連れ戻す爲に,高鳳謙(夢旦)と共に來日してもゐる。光緒二十八年(明治三十五年,1902)八・九月のことである*14。 蔡は一週間程で歸國し,やがて商務印書館の編譯所に關係するが,高は<浙江大學堂>の留日學生監督として,爾後凡そ一年滯在,日本の教育制度を視察して歸國する。そして彼も商務印書館に招かれる(1903年12月入社)ことになるが,それは蔡が青島に去り,金港堂との提攜も正式調印を見てから後のことである*15。從って,蒋氏の記すところは,光緒二十八年(1902)夏から翌二十九年六月頃までの商務印書館編譯所の實態といふことになる。
 蔡元培は,編譯所の所長と言っても,常時出勤してゐた訣ではない。教科書の編輯といっても,編輯者に教育の經驗がある訣ではなく,その經驗はあっても謂はば請負契約で,<惟知按課受酬>といふのであるから,新しい教育に繋ける抱負や情熱がある訣ではない。本願とする教科書の編輯であってすら,かくの如き有樣である。その片手間に,廣告に示される樣な新學書の出版――書物の選擇から,飜譯・編輯・校訂・印刷と續く一連の作業が出來るものかどうか,解答は自らにして明らかである。

 結論から先に言はう。
 件の廣告の文案及圖案の作成者は,日本人である。職工も中國人ではない。牌樓などに異國情緒を感ずる眼が,それを物語る。更に門柱に使用されてゐる花型罫を見よ。何と<亀甲繋文>ではないか。確かに,古代の中國では,<麟鳳亀龍謂之四靈>(《禮記》・<禮運篇>)とて,亀も瑞兆とされた。その名殘りは<玄武文>に見られるし,漢代には<亀甲繋文>の流行も見られた。<亀玉>・<亀齡>・<亀鑑>の<亀>は,何れも美稱である。それが土俗に<忘八>と忌まれる樣になったのは,何時よりのことか,今は追究する必要はない。<烏亀>・<亀孫>といった罵聲は,卑猥な語氣さへ帶びる。瑞兆としての傳統を守り續けて來た我が國の風俗と,中國のそれとの間には,かくも距りが生じてゐることは,遍く人の知るところであらう。換言すれば,かうした罫は,清末の出版物には見られないのである。
 轉じて,廣告する新學書に注目しよう。
 《華英初階》・《華英進階》(共に光緒二十四年初版といふ)・《文學初階》(光緒二十八年初版?)などは,年來のベスト・セラーズであったといふから,その名が見えて當然だし,學童用の教科書《普通珠算課本》(誦芬室主人著)・《普通新歴史》(普通學書室編)も,<誦芬室>は董康(綬經)の室名,<普通學書室>は杜亞泉の經營するところだから,一應の納得は行く。だが,廣告の冒頭に《商務書館華英音韻字典集成》・《商務書館華英字典》などとあるのは,何と解釋したらよいか。 書名は, 《普魯士地方自治行政説》巻末の廣告は勿論,《繍像小説》創刊號巻末の新書廣告でも,《教育界》三巻七號(明治三十七年四月,1904)にみられる金港堂の廣告(商務印書館の日本総代理店の挨拶廣告)などでも,凡てさうなってゐるから,誤植ではない。これは,何と解すべきか。
 贅するまでもなく,<書館>は講釋の寄席を設けてある茶館,轉じて俗語では<私塾>,隱語では<遊廓>の意となる。先聖の國の君子が,この樣な文字を書名に冠する筈がない。明らかに,中國を知らぬ日本人の仕業であり,書物も東京で印刷されたものに違ひない。蓋し,廣告には《華英字典》に注して,<洋紙洋裝一元>・<洋連史紙五角>とある。<龍章>の工塲は既に稼働してゐるから,洋紙の供給には事闕かぬとしても,洋裝(精裝,平裝)の技術は,未だ發達してはゐまい*16。勿論,書店名を刊本に冠する慣習もない。忖度すれば,從來印刷所として知られて來た商務印書館が,今,新しく書店として轉生するのであるから,大いに名を賣って置く必要があると打算したのが,この愚行を演ずる結果となったのであらう。この<盲人瞎馬的新名詞>が書店・圖書館などの意味に用ゐられるには,尚十年の歳月が必要であった。
 因みに,汪家熔氏が,その著《大變動時代的建設者――張元濟傳》の中で本書に觸れ,

 張元濟在一九〇一年夏投資商務印書館後,就顧問業務。如爲正排印的《商務印書館華英音韻字典集成》請嚴復・辜鴻銘兩位英語高手作序。這部詞典是當時規模最大的英漢雙解詞典。他在籌備南洋公學譯書院時就準備先飜譯一部英語詞典,向嚴復討教該如何辧法。嚴復是不主張英漢詞典的。他只許他的學生用原版詞典。還説飜譯詞典“此事甚難,事煩而益寡”。但從廣大初學習和一般水平的人講,英漢詞典是必需的。在一九〇〇年商務印書館即請上海企英譯書院飜譯英國布羅存徳尓編的英語詳解詞典而成《商務印書館華英音韻字典集成》。 (五,<開闢草莱的人>p.61)

と説いてゐるのは,未だ原本を披見し得ぬ筆者にとって,得難い知見である。蓋し,原本を見ずして云々するのは,甚だ不倫の謗を免れないが,汪氏が原著者を<布羅存徳尓> とするのは <羅布存徳>(Rev.W.Lobscheid)の誤り, 最後に<尓>の一字を添へるのは,<羅布存徳原著>とあった<原>の字(草體)を見誤ったものに相違ない。原本は,ロープシャィドの《英華字典》(English and Chinese Dictionary, with the Punti and Mandarin Pronunciation, Hongkong,1866-'69)で,<集成>とあるから,<英華>・<華英>を合册したものか。もとより,譯語は漢語で記されてゐるのだから,飜譯の必要はない。せいぜい<補訂>とか<校訂>とあるべきものだらう。<原著>の文字も,日本での翻刻本では必要だが,香港・美華書院版ではあるべき筈はない。嚴復・辜鴻銘と當代一流の西歐通が,如何に張元濟の依囑があったとしても,簡單に之に應ずるであらうか。ましてや嚴復は辭典の編輯には<莫大な資金と時間が必要である>ことを説いて,安直な張元濟の考へを否定してゐる。 謝洪賚は, <企英譯書院>(一名<企英學館>)を經營してはゐても,一介の牧師である。《華英初階》・《華英進階》程度の著者たるに止まるであらう。更に又,張元濟が<商務印書館>に正式に入社するのは,光緒二十九年(1903)一月のことである。過ぐる一兩年來,顧問として夏瑞芳の相談に與かることはあっても,その出版物に,嚴・辜兩位の序文を誂へる程の面倒を見たかどうか。

 飜って,日本は開國が遲れたから,幕末から明治にかけての英學の發達は,直接間接に中國に負ふところが多く,英語辭書も亦その例に洩れなかった。上記ロープシャィドの辭典にしても,明治十六年から翌年(1883-'84)にかけて,井上哲次郎訂増《英華字典》(七分册,東京・藤本次右衛門藏版)が上梓されてゐるし,それに先立つ中村敬宇校正,津田 仙・柳澤信大・大井謙吉同譯《英華和譯字典》(東京・山田 輹出版,明治十二年;1879)は,ロープシャィドの字典の<英華>の部に和譯を加へたものであった。憾むらくは,この本には誤植が多く,二年の後には,六十七頁もの正誤表を別册として出さざるを得ない程であった。その爲か,明治二十七年(1894)には,F.Warrington Eastlake 訂正と銘打った覆刻が,東京京橋の<特許罫紙商會>から出版されもした。少しく細部に立入って,譯語について見ても,ロープシャィドの字典の影響は大きく,柴田昌吉・子安 峻共編《附音插圖 英和字彙》(東京・日就社,明治六年;1873)はじめ,小山篤敘纂譯《學校用英和字典》(自家版,明治十八年,1885)などにも,その痕跡が認められるといふ。それ程,流行し珍重されてゐたのである*17。
 金港堂からは,山東直砥増補《和漢英對譯字典》(明治十八年,1885)・村松守義著《英和雙解 陰語彙集》(明治二十年,1887),著者の死によって未刊に終ったらしいが,上記柴田昌吉・子安 峻著《英和字彙》(何度目かの改訂版)の上梓を手繋けてゐるし,明治三十五年(光緒二十八年,1902)當時の社長原亮一郎はオクスフォード大學に留學ダレッチ・カレッヂを果たしてもゐるから,ロープシャィドの辭書の存在を知らぬ筈はない。嚴復・辜鴻銘の兩位は知日派と言ってもよい碩學*18だから,却って序文を貰ひ易くもあったらう。 外交的な儀禮でもあるし,<唇齒輔車>の聲が,一段と強く叫ばれた時代ででもあるからだ。
 《華英字典》二種は,同一の本であらうが,價格の相違は,單に用紙や製本に因るだけのものか氣になる。當時,日本で流行した華英辭書の主要なものとしては,柳澤信大校正訓點本の基となった衛三畏鑑定・斯維爾士維廉士著《華英字彙》(底本《英華韻府歴階》< An English and Chinese Vocablary in the Court Dialect. by Samuel Wells Williams>の英華字彙部を抄出),永峰秀樹訓譯《華英字典》(底本:拒エ照(Kwong Ki Chiu)編《華英字典》English and Chinese Dictionary, 點石齋本。Medhurst系),矢田掘鴻插譯《英華學藝辭書》(底本《英華萃林韻府》 Vocabulary and Handbook of the Chinese Language, by Justus Doolittle 2vols. Fuchou. 1881)などがある。その何れかであらう。博雅の教示を俟つ。(待續)


【註】
1)張靜廬輯註《中國近代出版史料》二編に收める王漢章の<刊印総述>・<製版>の項に,<(一)銅版:光緒初年,日本岸吟香(國華)設樂善堂書店於上海棋盤街,於發賣藥品外,兼營印售書籍之業務,印行巾箱本之困學紀聞,日知録等書云々>とあるに注して,<後有日本人岸吟香等來滬設立修文館,樂善堂,淞隱書屋等。云々>とある。岸田が上海に樂善堂を開いたのは明治十三年(1880)四月,修文館の開館は同十七年(1884)八月,淞隱書屋については審らかにしない。樂善堂は暫く措き,修文館のことは,遠山景直(長江客漁)の《上海》(明治四十年二月刊)に,<明治十七年八月開館,活版製造及諸印刷にして,明治二十三年(筆者註。1880年)六月より上海新報と題する日本文新聞紙を發兌せり,館主を松野平三郎とす。(中略)惜哉上海新報も收支償はず,又松野氏の物故するに遇ひ,互ひに前後して閉店す。>(同書,p.224)と見える。岸田吟香の編輯發行する張之洞の《勸學篇》(明治三十二年十二月,<勸學會>刊)は,築地活版の印刷する所だから,その關係は深い。松野氏は,もと築地出版に勤めてゐた人か。
2)例えば,扉に<光緒二十七年四月  上海商務印書館代印>とある岡本監輔編《西學探原》は,長定河瀬儀太郎序の末に,<明治三十四年五月初一日識於湖北商務報館之樓上/大日本帝國  布衣 河瀬長定撰>とある。張之洞の創設した<漢口商務局>は,武昌に印刷局を有し,件の商務報も同所から出版されたが,重要な出版物となると上海に送られた。《馬氏文通》の初版が,商務印書館で代印されてゐるのも,同館が既に上海第一の印刷所であったことに因るものであらう。
3)樽本照雄氏:前掲諸論文參照。
4)稻岡 勝氏:前掲<金港堂小史>の他,<金港堂「社史」の方法について>(<出版研究>12號(1982年2月)・<「原亮三郎」傳の神話と正像――文獻批判のためのノート>(<出版研究>18號(1989年3月)參照。
5)實藤惠秀氏<日華學堂の教育>(《中國留學生史談》所收)。同書,p.97。
6)拙稿<《繍像小説》と金港堂主原亮三郎>(《神田喜一郎博士追悼・中國學論集》,二玄社,1986年12月)
7)<清國向の書籍出版概況及東亞公司設立状況>(《圖書月報》第三巻第五號。明治三十八年<1905>二月刊)參照。
8)《内藤湖南全集》第二巻,pp.60-61。
9)永井禾原の《來青閣集》巻三,<答王脂治本即依原韻>に注して<己亥早春,余將回國,脂來訪申江客寓。君曾在東京同人社學堂授徒。當時余家相鄰,日夕過從。然歸郷之後,不相見者久矣。今不期而逢,喜不可言。對牀話舊。君將再遊日本,即約同舟>とある。明治二十七年暮春,日光に遊んだ王治本は,日清開戰の日の近いことを悟って歸國し,三十二年一月上旬まで故郷に在った訣である。右の詩に續けて《來青閣集》には,<己亥早春回國,邀張觀察斯潤E挙尹國華・金教授國樸・張教授廷彦・王茂才治本・王司馬仁乾・水野議員遵・楢原書記官陳政・船津飜譯官辰・杉山編輯令・岸田吟香・永阪石B・森槐南諸先輩及三橋弟,飮偕樂園云々>と題する七律一首を録するが,この雅集は二月初一日に催されたものである。王治本の再來は,三十二年一月の中・下旬であったらう。
 因みに,王治本は小石川金富町の禾原邸からの眺望を愛し,その書齋を<襟川樓>と命名し扁額を贈った程,親交があった。
10)對支功勞者傳記編纂會編《續對支回顧録》・<逸見勇彦>の項。實藤惠秀著《中國人日本留學史》,その他。
11)坂田敏雄<上海邦人醫界明治年史>(上海歴史地理研究會編《上海研究》第1輯。PP.89-90,昭和十七(1942)年2月刊)
12)實藤惠秀氏。前掲<初期の商務印書館>。
13)蒋維喬氏<編輯小學教科書之回憶>(張靜廬輯註《中國出版史料補編》所收)
14)實藤惠秀氏<成城學校入學事件>(《中國人日本留學史》所收)。
15)朱蔚伯氏,前掲論文,P.145。
16)實藤惠秀氏《中國人日本留學史》第六章<中國出版界への貢獻>參照。因みに,<美華書館>の<書館>は,在華美國長老會の主管する<Presbyterian Mission Press>の華名だから、<印書館>の意,同所では,限られた量の洋装本の製本は行はれたが,彼此同一には扱へまい。
17)豐田 實氏《日本英學史の研究》,PP.90-103,永嶋大典史<英和辭書>(其編輯部編《日本の英學百年・明治篇所收)參照。
18)例へば,明治三十年十二月から翌年正月(1897-98)にかけて, 長江を遡航し,武昌に張之洞を訪つて時務を論じた西村天囚は,途中辜鴻銘を訪れて,かう記してゐる。
(十二月)二十九日,與辜湯生相見於小波羅館。湯生字鴻銘,福州人,爲総督譯官。十二三時,遊歐州居者二十餘年,畢業徳國大學,而歸國。精通英籍,善操數國語。
(三十一年一月)七日,放晴。三過江至鄂,訪喬茂萓。午後,赴辜鴻銘之約。鴻銘於英徳之書無不渉獵,而不染西人氣習,崇尚名教,刻苦修文。讀其所作近業,翩翩可誦。歸途謁救建曾文正公祠。(下略)
(<江漢遡堅^(戊戌)>
 嚴復が湖南と,時務を痛論してゐることは,《燕山楚水》に就いて見られよ。一見,百年の知友の如くではないか。

(なかむら ただゆき)