編 集 ノ ー ト


★本誌は、第3号(1979年)より外国からの論文を掲載し始めた。数えてみれば、もう10年前のことになる。「プロレタリア文化大革命」中は、中国人研究者との交流など思いもよらなかった。半信半疑の原稿依頼に応じてもらったことを喜んだものだ。当時の日本では、中国からのオリジナル原稿を掲載した雑誌などほとんどなかった★最近は、依頼原稿のほかに、小誌にも中国からの投稿が増えている。発行部数三百にも満たない、おまけに原稿料ナシの超小規模雑誌に外国から論文が寄せられるのは、編集者としてこの上もない名誉だと考えている。だが、思わぬ問題が発生しているのも事実だ。論文の二重投稿である★本年の始め、中国のある研究者から論文の投稿があった。『清末小説』は第12号を出版したばかりで、次の発行まで1年近く待ってもらわなくてはならない、中国で発表されるなら、そちらでどうぞ、と連絡した。それに対して、時間がかかってもよいから本誌に掲載してほしい、との返事だった。そこまでおっしゃるのなら、とワープロに入力し(比較的長い論文で漢字もいくつか作成した)、ゲラを郵送し、著者校正をすませ、版下を作成していた。数ヵ月後、その研究者から手紙がきて、投稿した原稿を取り下げたいという。中国で学会があり、本誌に投稿した論文が「選読」された(特に選ばれたというのは、それだけ優秀な論文なのだ)。そこまでは、どこにでもある話だろう。ところが、学会での発表原稿は、学会終了後に出版する論文集に収録することになった。その人は、日本の雑誌(つまり本誌である)に掲載する予定になっているので、学会論文集への収録を辞退したい旨を表明。ところが、指導者は、日本での二重発表をさまたげない、と答え研究者の原稿辞退を拒否したということだ★ゆえに、本誌にはその人の論文は掲載されていない。事情を説明する手紙を出すところに、その人の誠実さを感じる。本誌あるいは『清末小説から』に発表された文章が、中国で別の刊行物に掲載されているのを見かけることがあったから、なおさらだ★中国語原文とその日本語翻訳は、別物として考えてもいいだろう。日本語翻訳が先に発表され、もとの中国語論文が中国の刊行物に掲載されることは、たまにある。また、研究雑誌に発表された論文を、自らの論文集に収録される場合もある。速報的に本格論文の精髄部分を先に発表することもあるだろう。これらの例は、当然のことながら二重投稿とは言わない。言うまでもなく、同一内容、同一言語の論文を同時に複数の刊行物に投稿することが二重投稿なのだ。中国の研究雑誌にも「二重投稿おことわり」の文面を見るようになったから、中国国内でも重複は困るという認識はあるようだ。だからこそ先の研究者は、私に手紙をくれて、自分の論文を取り下げたのだ★問題なのは、おなじ論文を中国と外国にまたがって投稿する場合だろう。外国での二重発表は、よろしい、という考え方があるのは、上にのべたとおりだ。それも、指導的立場にある人が、そう考えているらしい。私は、オリジナル論文はひとつ、研究に国境はない(言葉の壁はあるけど)、と考えているから、中国と外国を分ける思考法があることを意外に感じる★そういう時、興味深い文章が目にはいった。題名を「原稿不足」という(署名は燕。「窓」『朝日新聞』大阪版夕刊1990.10.17)。中国の文学雑誌が合併号を出したり、ページ数を減らしているのは原稿不足が原因なのだそうだ。ただし、読んでみれば、ここでいう原稿不足とは、保守派編集部のメガネにかなう原稿がないというだけのこと★雑誌の経営がむつかしいとは、聞いている。停刊に追い込まれたり、発行回数が減らされたり等々、経済上の問題だとばかり思っていたが、内容の問題もあったとは。文芸雑誌と学術雑誌とは、事情が違うようでいて、高水準の文章はいずれの場合も多くはないということか。それにしても人材豊富な国のはずだがねぇ★そうしてみると、上に述べた二重投稿許諾の学会は、原稿に不自由していたのだろうか。日本国内だけに限定した雑誌ならば、二重投稿に関する共通の認識が期待できる。悩む度合いは少ない。お国が違えば、考えかたも異なるのだな。などなど、心を悩ませる今日このごろだが、考えてみれば交流に摩擦はつきものなのだ。本誌を媒介にして、いわば、交流の輪が外国にまでひろがっているということを逆に証明していると言っていいのかもしれない。広いようで狭いのが研究の世界なのだ。