清末小説 第14号 1991.12.1


南  亭  亭  長  の  正  体
――『繍像小説』編者論争から始まる――


樽 本 照 雄


 1985年、私が天津に滞在していた頃の出来事である。『繍像小説』の編者をめぐって中国の研究者と討論をすることになった。その場が全国紙『光明日報』であったためか、衆目を集めたらしい。多数の研究者が意見を発表し、史料を発掘した。その結果、文学史におけるある定説をくつがえさざるをえない情況に至っている。すでに、私は、注意を喚起しているのだが、問題が大きすぎるのか、一部の例外を除いて、中国での反応を聞かない。
 本論の前半で論争の経過を要約説明し、後半において再度、自説を展開することにする。


1 『繍像小説』編者論争の経過

A 定説
 小説専門雑誌『繍像小説』は、光緒二十九年(1903)、上海・商務印書館より発行された。
 光緒二十八年(1902)、梁啓超が日本横浜で創刊した『新小説』が、近代的小説専門誌の鏑矢であるならば、『繍像小説』は、小説専門雑誌としては、中国大陸で発行された最初のものといえるだろう。
 『繍像小説』には、李伯元「文明小史」、「活地獄」、劉鉄雲「老残遊記」、呉熕l「瞎騙奇聞」、欧陽鉅源「負曝閑談」、連夢青「鄰女語」、周桂笙「世界進化史」などの小説が掲載された。創作ばかりではない。翻訳では、「夢遊二十一世紀」(ディオスコリデス「紀元二千六十五年――一名未来の瞥見」)、「小仙源」(ヴィース「スイスのロビンソン」)、「華生包探案」(コナン・ドイル「シャーロック・ホームズの思い出」)、「売国奴」(ズーダーマン「猫橋」)、「三疑案」(バロネス・オルツィ「ミス・エリオット事件」)、「灯台卒」(シェンケーヴィッチ「灯台守」)、「山家奇遇」(マーク・トウェイン「カリフォクニア人の物語」)、「斥候美談」(ドイル「勇将ジェラールの冒険」)などの有名作品が掲載されているのにも注目すべきだろう。
 問題は、『繍像小説』の編者とその刊行時期なのだ。
 半月刊、編者は李伯元、全72期を3年間に出版し、光緒三十二年(1906)、李伯元の死をもって終刊する。これが『繍像小説』に関する定説である。

B 論争の発端
 1982年、汪家熔が、『繍像小説』の編者は李伯元ではないといいはじめた(文献3、4。文献とは、文末に附した「『繍像小説』編者問題文献目録」をいう。以下同じ)。いわゆる『繍像小説』編者論争の、これが発端となる。
 有名な『繍像小説』の編者にも疑問の余地があるのか、と驚かれるかもしれない。しかし、基本的な部分が確定していない、つまり、研究が遅れているのが、この分野の現状なのである。
 そもそも、雑誌の編者が誰であるのかを特定するには、以下のような史料が必要だ。

1.雑誌の奥付などに編者の名前が明記されている。
2.編者自身が言明している。
3.同時代の友人が証言している。
4.編者だと証明するその他の史料が存在している。

 『繍像小説』の奥付には、「総発行所:上海棋盤街中市商務印書館」とあるだけで編者の名前はない。李伯元自身の手によって『繍像小説』の編者であったと書いた文章は、発見されていない。呉熕l、周桂笙ら、李伯元の身近にいた友人もその事に言及していない。などなど、4のその他の史料を除いて、いずれも李伯元が『繍像小説』の編者であることを証明する史料は、今のところ見つかっていないのだ。
 汪家熔は、1982年当時、商務印書館に勤務していた。彼は、館内史料を利用できる立場にありながら、『繍像小説』の編者が誰であるかを証明する史料を見つけだすことができなかったらしい。だからこそ、李伯元編者説を否定し、そのかわりに夏曾佑を持ちだしてきたのだ(文献7)。ただし、夏曾佑編者説にも状況証拠だけで、なんら確証はない。

C 盗用問題
 「老残遊記」と「文明小史」のふたつの作品は、いずれも『繍像小説』に掲載されている。これらの作品には奇妙な事実が存在していることを無視することはできない。
 『繍像小説』に連載中の劉鉄雲作「老残遊記」は、第11回の原稿が『繍像小説』編者によりボツにされた。劉鉄雲は、その措置に怒って連載を中止する。ところが、ボツにした「老残遊記」第11回原稿から、北の義和団、南の革命党を罵る「北拳南革」部分を、李伯元は、自分の「文明小史」第59回にそのまま盗用した。これが有名な「李伯元と劉鉄雲の盗用問題」である(文献1a-d、2)。私は、この盗用という事実を重視する。「老残遊記」の原稿から文章を盗用できるのは、『繍像小説』の編者をおいては誰もいないではないか(文献10)。
 この盗用問題について、汪家熔は、まったく反対の意見を提出する。すなわち、李伯元が劉鉄雲の原稿を盗んだのではなく、劉鉄雲の方が、李伯元の文章を盗用した、というのだ。その根拠は、こうである。劉鉄雲は「老残遊記」第11回の原稿を光緒三十一年十月に書き、手稿にない78文字を加筆した。ところが、劉鉄雲が加筆したその三ヵ月前に発表されている「『文明小史』第59回にも一字の変更もなくさがしあてるこかとができる!(在《文明小史》第五十九回裏也是一字不易地能找到!)」のだそうだ(文献13)。汪家熔のいうことが事実でないことは、ふたつの作品の該当箇所を対照すればすぐわかる。私がそれを指摘すると(文献26、28)、あれは書き間違いだったと答えた(文献36)。それならそれでいい。書き間違いは、誰にでもある。
 光緒三十一年十月の劉鉄雲日記に見える原稿11回は、ボツにされた原稿を劉鉄雲が復元したものである*1。「老残遊記」第11回の元原稿(ボツにされたもの)は、『繍像小説』の編者の手元にある可能性を、汪家熔は無視した。あるいはそういう可能性があることを考えたくなかったらしい。
 汪家熔の立論は、「文明小史」第59回を掲載した『繍像小説』第55期が光緒三十一年七月に発行されたというところにのみ依拠している。ところが、彼のよって立つ『繍像小説』の発行年月も、あくまでも推測でしかなかった。

D 発行遅延問題
 論争の最中に、『繍像小説』は、従来考えられていたよりもずっと遅く発行されていたという新説が、張純により提出された(文献22、40)。『繍像小説』に掲載された作品に描かれた事実をもとに、『繍像小説』の終刊は、光緒三十二年三月どころか、光緒三十三年七月以降だと推論する。『繍像小説』の内部から発行時期を探求するものだ。
 私は、『東方雑誌』『大公報』の広告を資料に使い、『繍像小説』の終刊は光緒三十二年末とした(文献31)。外部からの探求である。
 『繍像小説』の発行が遅れていた事実は、盗用問題に関係している。つまり、「老残遊記」第11回の原稿を劉鉄雲が復元したのは、「文明小史」第59回の発表よりも遅いことになる。劉鉄雲は、「文明小史」から盗用することはできない。汪家熔の主張はくずれるのだ。
 汪家熔は私の質問に答えて、彼も『繍像小説』の刊行が遅れていることを認めた(文献52)。「文明小史」と「老残遊記」の盗用問題についても、自らの説が誤りであることを認めたことになる。

E その他の史料
 編者だと証明するその他の史料としては、陶報癖「前清的小説雑誌」(『揚子江小説報』創刊号 宣統元年<1909>)がある(文献21、25)。
 また、光緒三十一年(1905)当時における上海の刊行物を調査した書類が方山によって発見された。李伯元が確かに『繍像小説』の編者であったことを証明する史料である(文献32)。有力な証拠であるというべきだろう。

F 論争終了
 1987年、商務印書館創立90周年を記念して『商務印書館大事記』が発行された(文献50)。該書の1903年の項目には、「創刊《繍像小説》半月刊、主編李伯元」と書いてある。解放以前部分は、汪家熔の執筆であるということだから、ここに至って汪家熔は自説を撤回したといえる。
 汪家熔の最初の論文が書かれた1982年から数えてまる5年間の論争は、ようやく決着をみた。(1990年、汪家熔は、方山の提出した史料に対して疑問を呈する文章を発表している<文献55>。また、問題をむしかえそうという意図らしい。)

 以上、5年間の論争をごくかいつまんで紹介した。『光明日報』紙上で論争が始まったが、途中で、「文学遺産」欄の編者より論争中止の宣言がなされたとか、日本で論争が継続されたとか、上海の雑誌で特集が組まれたとか、などなどのより詳しい経緯は、それぞれの関連論文を見てもらいたい(文献17、20、29、30、33、37、45、54)。

G 複数の問題
 この論争が、いりくんで複雑な様相を呈しているのは、複数の問題が同時に存在しているからだ。

1.『繍像小説』の編者は誰か――編者問題
2.李伯元と劉鉄雲は、どちらがどちらを盗用したのか――盗用問題
3.『繍像小説』は、発行が大幅に遅れていた――発行遅延問題
4.商務印書館は、金港堂との合弁を隠したがっていた――合弁問題

以上の4項目に、次の1項目が加わると、ことはますます複雑化する。

5.李伯元は、光緒三十二年三月十四日に死去した

 1の編者問題は、2の盗用問題と密接にかかわっている。盗用問題は、3の発行遅延問題から影響を受ける。李伯元の死去に、発行遅延問題と盗用問題が関連する。『繍像小説』は、金港堂の原亮三郎の創刊になるものだ、という中村忠行説(文献30、48)がある。ゆえに、4の合弁問題は、同時代人の発言に影を落としている。
 いくつかの問題がスッキリ解決できない理由の最大のものは、発行日が明記してある創刊から第12期を除いて、第13期以降の『繍像小説』が発行された期日を特定することができないことなのだ。
 『繍像小説』の発行日を正確に指摘することはできない。しかし、発行が遅れていたのは、事実である。この発行遅延問題から、従来の文学史を書き換えなくてはならないことが発生する。


2 南亭亭長の正体

H 『繍像小説』関係年表
 別に掲げたものは、『繍像小説』の創刊から、第72期発行終了までを中心にし、関連する事項を加えて作成した年表である。事実と推定は、区別してある。
 光緒二十九年五月初一日に『繍像小説』が創刊されたのは、『同文滬報』の記事から確認できる*2。創刊号より南亭亭長の「文明小史」が連載される。『繍像小説』第9期より劉鉄雲の「老残遊記」も連載が始まる。
 『繍像小説』第13期より発行年月が記載されなくなるのは、商務印書館が金港堂と正式に合弁した事実に関係するのだろう。

I 商務印書館と金港堂の合弁
 商務印書館は、光緒二十九年より民国3年までの約10年間、日本の金港堂との合弁会社であった。しかし、商務印書館側は、合弁の事実を隠しておきたかったようだ。商務印書館の広告には、「日本東京金港堂代理店」とうたってはいるが、金港堂との合弁会社になったという事実には触れていない。商務印書館の職員であった朱蔚伯の言葉によると、「商務(印書館)は、この事(注:金港堂との合弁)を宣伝するつもりはなかったため、世間で詳細を知るものは多くなかった(商務対這事情不宣揚,外面知道底細的也不多)」*3という。事実、辛亥革命後、商務印書館から跳び出した陸費逵らが創設した中華書局は、商務印書館に日本資本が入っていることを、商務印書館攻撃に利用することになるのだ。ましてや『繍像小説』そのものが金港堂の原亮三郎の創刊したものに加えて、のち、李伯元死去後も南亭亭長名義で「文明小史」「活地獄」を連載する。内情を知る友人が、そのあくどいやり方に腹を立てるのは当然であろう。
 呉熕lが、李伯元の死後七ヵ月を経て書いた「李伯元小伝」*4には、『(世界)繁華報』の名はあっても、『繍像小説』の名前はない。「文明小史」「活地獄」という作品名は挙げるが、その掲載誌である『繍像小説』には触れないのだ。そればかりか、「町の商人のなかには、他人の書いた小説を君の名前で出版するものさえいる(坊賈甚有以他人所撰之小説,仮君名以出版者)」とまで書いている。李伯元の死後も彼の名前を利用している『繍像小説』と金港堂、ひいては商務印書館への抗議であると読むべきものだ(文献31)。

J 「老残遊記」の原稿
 『繍像小説』第16期に掲載されるはずであった「老残遊記」第11回は、ボツになり、原稿第12回が第11回として発表された。劉鉄雲は、その仕打ちに怒り、執筆を中止する。ボツ原稿は、『繍像小説』編者の手元に残った。
 翌年、『天津日日新聞』の方葯雨にすすめられ、「老残遊記」を再度『天津日日新聞』に掲載することにする。そのため、ボツにされた第11回原稿を復元しなければならない。復元作業は、光緒三十一年十月初三日に行なわれた。その際、以前、商務印書館に渡した原稿のもとになった下書き手稿(この手稿6葉は、現在、南京博物院に所蔵されているという)を参照している。強調したいのだが、現存する手稿は、商務印書館に渡した原稿そのものではない(文献46、47)。中国でもこれを理解しない研究者がいる。張純は、現存する「老残遊記」第11回手稿を『繍像小説』に渡した原稿だと考えている。まず、手稿を修改以前と修改以後のふたつに分離する。それを「文明小史」の該当部分と対照させた。修改以後の字句が、そのまま「文明小史」に現れているので、「李伯元」の方が劉鉄雲を盗用したのだという(文献43a、43b)。それをそのまま真にうける人も出てくる(文献54)。しかし、下書き手稿には、問題の78文字がない。『繍像小説』に渡した原稿ではありえないのは、明らかだ。おまけに張純が対照した箇所の文章には、誤植が多い。うっかりした誤植かとも思うが正確さを欠く。「日本の友人樽本照雄氏の意見に完全に賛成するものである」(文献43b では、この部分を削除する)とせっかく私の応援をしてくれているのだが、これではあまり効果がない。残念だ。
 「文明小史」第49回は、「老残遊記」から「恃強拒捕的肘子(力づくでお縄にてむかうとかけて、固いばかりのブタのあし)、臣心如水的湯(けらいの心は汚れなし、そのこころは、薄いだけのスープ)」という表現を盗用した(文献2)。

K 李伯元の死後
 光緒三十二年三月十四日、李伯元は、死去する。にもかかわらず『繍像小説』は、発行されつづけている事実に注目されたい。
 李伯元死去もなお南亭亭長名義で「文明小史」が、『繍像小説』に連載されている事をどう考えるのか。重要な問題である。死者が原稿を書いていたことになるではないか。「文明小史」ばかりではない、「活地獄」も同じく南亭亭長の名前で発表が継続されている。
 『繍像小説』第55期にいたり「文明小史」第59回では、ボツにした「老残遊記」第11回の原稿から文章を盗用した。ボツ原稿を持っているのは、『繍像小説』編者である。この時点で、李伯元はなくなっているのだから、盗用した人物が南亭亭長と名乗っていても、李伯元であるわけがない。では、誰か。私の考えるところ、欧陽鉅源をおいて、別人を想定することは不可能である(文献31、41、54)。
 包天笑の証言を見てみよう。

 後に鉅源は私(注:包天笑)に次のように話した。彼(注:李伯元)の『游戯報』は、まったく鉅源にゆだねられ、自分ではまったく執筆しようとはしなかった。つまり、小説もまた鉅源が代作していて、伯元は一日中応対交際をするばかりで花柳界の管理役をつとめていただけだ。(中略)後に商務印書館は『繍像小説』を発行するが、毎月原稿料を出し、彼(注:李伯元)にやらせたのだ。欧陽鉅源のいうところによると、伯元の多くの小説はすべて彼が代作したもので、伯元の名前を用いたにすぎない。ただし、「官場現形記」も彼(注:欧陽鉅源)の筆になるものかどうか、彼にたずねたことはなかった。(伯元は官界の事を熟知していたから、彼自身が書いたものにちがいないと私は思う。<カッコ部分は原文のまま>)「文明小史」などは、私は原稿を見たことがあるが、たしかに鉅源の筆が加えられていた。*5

 包天笑が書いている「『文明小史』などは、私は原稿を見たことがあるが、たしかに鉅源の筆が加えられていた」(若「文明小史」等、則我曽見過原稿、確有鉅源的筆在内)というのは、重要な指摘だ。

L 南亭亭長とは
 私は、以前、上海世界繁華報館校刊の増注本『官場現形記』を検討したことがある。その結果、「官場現形記」は、李伯元と欧陽鉅源の「共同作品」であるという結論を得た*6。「官場現形記」に使われた筆名は、「南亭」である。
 また、上に見てきたように、李伯元の死後も南亭亭長の名前を冠した「文明小史」「活地獄」が発表されている動かしがたい事実がある。「官場現形記」の南亭の例から見ても、南亭亭長は、李伯元と欧陽鉅源の共同筆名であると結論せざるをえない。
 過去において、「官場現形記」「文明小史」「活地獄」を李伯元の作品として論じた論文は、すべてその根拠を失う。
 将来、南亭亭長が、李伯元と欧陽鉅源の共同筆名であることを考慮しない論文が書かれるとすれば、これもまた意味のない文章となるであろう。


【すこし長い追記】
 本稿の発表過程について説明しておく。
 本稿のもとになった原稿は、日本語で書いた。その日本語論文の論旨にそって中国語で執筆したのが、「《繍像小説》編者討論」と題する論文だ。1991年8月20-22日、台北で開催された「二十世紀中国文学――台湾、香港、日本三地学者学術交流」という国際学会において報告するためである。
 8月20日、学会で報告し、評論員・王三慶(中国文化大学中文系教授)よりコメントをもらう(後述)。
 中国語論文は、「中国第一本専登小説期刊『繍像小説』編者疑案」と新聞社編集により改題され8月20日付『中央日報』に掲載された。
 帰国後、もともとの日本語論文に一部加筆をほどこしたものが本稿である。論旨に変更はない。
 さて、私の報告に対する王三慶氏の評論である。もとの中国語原稿についてのコメントではあるが、論旨に変更を加えていないので、ここで氏の評語を紹介しつつ、回答したい。
 氏は、私の考えに基本的に同意されながら、いくつかの問題点を指摘された。
 1.商務印書館と金港堂が合弁して、『繍像小説』の発行日が記述されなくなったのは、中国と日本の両地で発売しやすくするためではないか、明治維新以後の暦が中国とは違ったものとなってもいるから。
 回答:当時の刊行物には、明治と光緒を併記するものもある。『繍像小説』の場合も発行日を併記すればすむものを、なぜ記載しなくなったのだろう。疑問は残る。
 2.『繍像小説』の発行が遅れていたとはいえ、光緒二十九年末から三十年末までの十四ヵ月にたった12期しか出版されなかったとは考えられない。
 回答:資料にもとづくと、そうとしかいいようがない。
 3.『繍像小説』の主編が李伯元であって、その李伯元が死去した後、欧陽鉅源が主編となったとはうなづけない。
 回答:欧陽鉅源以外の誰がいるだろうか。もしいるのなら具体的に指摘してほしい。
 4.李伯元の死後に遺稿があった可能性はまったくないのか。
 回答:その可能性はない、というのが従来からの私の考えである。
 5.「文明小史」が「老残遊記」より盗用した問題は、欧陽鉅源の手になるものか、うなづけない。
 回答:うなづけないかもしれないが、そうなのだ。
 6.樽本が作成した『繍像小説』関係年表によると、『繍像小説』第54期が李伯元死去にあたる。第54期が李伯元死去の前に発行されていると証明できれば、樽本の推論は自滅する。さらに、方山が発掘した資料(光緒三十一年二月初十に第20号)が信頼できるならば、樽本の年表は修正が必要だ。
 回答:王三慶氏のいう第54期というのは、第55期の誤りかもしれない。『繍像小説』第55期が李伯元死去の前であったら、私の『繍像小説』李伯元説はもっと強固になる。王三慶氏はご存知ないかもしれないが、李伯元死去の前に第55期が発行されていたというのがもともと前提だったのだ。資料によってその前提を変更したわけで、どちらにしても私の立論はなりたつ。 また、 方山の資料がいう『繍像小説』第20号は、私の推測する時期とそれほどかけはなれたものではなく、充分に誤差の範囲内であると考える。
 最後に王三慶氏はいう。包天笑「晩清四小説家」は、20余年後の追憶で過信してはならぬ。
 私が答える。過信するもしないも、包天笑の証言を否定する資料、証言は、これまで発見されていないのではないか。
 以上が私の回答である。
 『繍像小説』の発行情況を具体的に証明する資料がそろわないのが実情だ。目にできるだけの資料をならべて、私は結論を出した。当然、資料収集の努力はつづける。新しい資料の発見があり、私の立論が否定されることになろうとも、それはかまわない。私は、事実を知りたいのだ。


【注】
1)樽本照雄「天津日日新聞版『老残遊記』二集について」『野草』第18号1976.4.30。樽本『清末小説閑談』法律文化社1983.9.20所収。
2)樽本照雄「『同文滬報』の『繍像小説』評」『清末小説研究会通信』第30号1983.7.1。樽本『清末小説きまぐれ通信』清末小説研究会1986.8.1所収。
3)朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」『文化史料(叢刊)』第2輯 1981.11。146頁。樽本照雄「商務印書館が触れられたがらない事」『中国文芸研究会会報』第113号1991.3.30。14-19頁。
4)『月月小説』第1年第3号光緒三十二年十一月望日
5)包天笑「清晩四小説家」『小説月報』第19期1942.4.1。34-35頁。魏紹昌編『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12。28頁。
6)樽本照雄「『官場現形記』の真偽問題」『清末小説研究』第6号1982.12.1。前出『清末小説閑談』所収。のち中国語に翻訳された。謝碧霞訳「〔官場現形記〕的真偽問題」林明徳編『晩清小説研究』台北・聯経出版事業公司1988.3。185-203頁。


(たるもと てるお)



『繍像小説』編者問題文献目録




1a.李伯元与劉鉄雲的一段文字案 魏 紹昌 『光明日報』1961.3.5
1b.    ――        ――   魏紹昌編『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12。180-185頁
1c.    ――        ――  『中国近代文学論文集』(1949-1979)小説巻
 中国社会科学出版社1983.4。301-302頁
1d.    ――        ――   晩清小説大系『文明小史』台湾・広雅出版有限公司1984.3。
 491-495頁
2.「文明小史」をめぐって 太田辰夫 『神戸外大論叢』第12巻第3号 1961.8.30。105-107頁
3.関於《繍像小説》(1903-1906)汪 家熔 『商務印書館館史資料』之十七 商務印書館総編室印1982.5.20。
 2-8頁
4.商務印書館出版的半月刊――《繍像小説》
汪 家熔 『新聞研究資料』12輯 1982.6。222-228頁
5.「老残遊記」と「文明小史」の盗用関係
樽本照雄 『清末小説研究会通信』21号 1982.10.1
6.A NOTE ON CHAPTER 59 OF THE WEN-MING HSIAO-SHIH (A BRIEF HISTORY OF ENLIGHTENMENT)
DOUGLAS LANCASHIRE “AUSTRINA”1982。131-139頁
7.《繍像小説》及其編輯人 汪 家熔 『出版史料』2輯 1983.12。108-112頁
8.『鄰女語』・『老残遊記』・『ガリヴァー旅行記』――『老残遊記』の改竄問題をめぐって
中村忠行 『野草』33号 1984.2.10。19-38頁
9a.晩清雑誌《繍像小説》的編者問題
魏 紹昌 『文学報』1984.8.2
9b.    ―― ――   『東方夜談』福州・海峡文芸出版社1987.2。76-80頁
10.誰是《繍像小説》的編輯人 樽本照雄 「文学遺産」653期『光明日報』1984.9.4
11.《繍像小説》主編為李伯元 鄭 逸梅 「文学遺産」653期『光明日報』1984.9.4
12.《繍像小説》編者問題我見 魏 紹昌 「文学遺産」658期『光明日報』1984.10.23
13.劉鶚和李伯元誰抄襲誰? 汪 家熔 「文学遺産」660期『光明日報』1984.11.6
14.李伯元と商務印書館――『繍像小説』をめぐって
利波雄一 (早大)『中国文学研究』10期 1984.12
15.学術争鳴和科学態度 木  訥 「文学遺産」671期『光明日報』1985.1.22
16.李伯元編《繍像小説》的最早史料
許 国良 「文学遺産」671期『光明日報』1985.1.22
17.『繍像小説』の編者は誰か――論争の情況――
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』50号 1985.2.15。25-27頁
18.『繍像小説』の編者問題に関する若干の補充
魏 紹昌著 樽本照雄訳 『中国文芸研究会会報』50号 1985.2.15。27-28頁
19.論争中断 樽本照雄 『清末小説研究会通信』34号 1985.3.1
20.関於《繍像小説》編輯人問題的討論
孫  津 (江蘇省社会科学院)『社科信息』1985.3.15 未見
21.『繍像小説』の編者をさがす 樽本照雄 『清末小説研究会通信』35号 1985.4.1
22.関於清末《繍像小説》半月刊的終刊時間
張  純 『晩清小説研究通信』1 1985.4.17
23.汪家熔の立論成立せず 樽本照雄 『清末小説研究会通信』36号 1985.5.1
24.中国の情報ミニコミ紙『晩清小説研究通信』
樽本照雄 『清末小説研究会通信』番外1 1985.5.15
25.『繍像小説』李伯元編者説の根
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』52号 1985.5.15。7-10頁
26.関於“李伯元与劉鉄雲的一段文字案”
樽本照雄 『大阪経大論集』165号 1985.5.15。49-52頁
27.「李伯元と商務印書館」補記 利波雄一 『中国文芸研究会会報』53号 1985.6.30
28.劉鉄雲が李伯元を盗用したのか――汪家熔説を批判する
樽本照雄 『大阪経大論集』166号 1985.7.15。121-127頁
29.関於《繍像小説》編輯人是否李伯元問題的討論
張  純 『晩清小説研究通信』2 1985.7.17
30.清末文学研究時評 中村忠行 『中国文芸研究会会報』54号 1985.7.30。1-7頁
31.『繍像小説』の刊行時期 樽本照雄 『中国文芸研究会会報』55号 1985.9.30。5-10頁
32.李伯元確曾編輯《繍像小説》 方  山 「文学遺産」692期『光明日報』1985.10.22
33.ワクドキ清末小説 沢本香子 『清末小説』8号 1985.12.1。1-8頁
34.汪家熔氏からの手紙 樽本照雄 『清末小説研究会通信』43号 1985.12.1
35.「老残遊記」と「文明小史」の盗用関係を論じる
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』57号 1986.1.30。1-4頁
36.李伯元と劉鉄雲はどちらがどちらを盗用したのか
汪 家熔 『中国文芸研究会会報』57号 1986.1.30。5-9頁
表題は日本語だが、内容は中国語
37.関於《繍像小説》終刊時間的討論
石  子 『明清小説研究通訊』1986年2期 1986.4.15。5頁
38.『外交報』と『繍像小説』の共通点
樽本照雄 『清末小説研究会通信』48号 1986.5.1
39.気になる『繍像小説』の奥付 樽本照雄 『中国文芸研究会会報』59号 1986.5.31。1-3頁
40.関於《繍像小説》半月刊的終刊時間
張  純 『徐州師範学院学報』1986年2期 1986.6.15。109-110頁
41.李伯元と劉鉄雲の盗用関係2 樽本照雄 『瘉彙報』11号 1986.6.25。4-5頁
42.張元済、李伯元与《繍像小説》
[新西蘭]葉宋曼瑛 『出版史料』5輯 1986.6。143-147頁
43a.談談劉鶚与李伯元的一段文字案――兼与魏紹昌、汪家熔両先生商
張  純 『出版史料』5輯 1986.6。148-150頁
43b.    ―― ――   『明清小説研究』4輯 1986.12。433-439頁
44a.再談《繍像小説》的編者問題 魏 紹昌 『出版史料』5輯 1986.6。151-152頁
44b.    ―― ――   『東方夜談』福州・海峡文芸出版社1987.2。81-87頁
45.関於《繍像小説》終刊時間的討論
石  子 (江蘇省社会科学院)『社科信息』6期 1986.7?。39-41頁
46.「老残遊記」の下書き手稿について
樽本照雄 『清末小説』9号 1986.12.1。7-12頁
47.資料:「老残遊記」の下書き手稿
清末小説研究会編 『清末小説』9号 1986.12.1。13-29頁
48.『繍像小説』と金港堂主・原亮三郎
中村忠行 『神田喜一郎博士追悼中国学論集』二玄社1986.12.15。534-556頁
49.劉鉄雲と李伯元をつなぐもの 樽本照雄 『大阪経済大学教養部紀要』4号 1986.12.31。111-122頁
50.『商務印書館大事記』1903年の項
(汪家熔)『商務印書館大事記』 北京・商務印書館1987.1
無署名だが、該当項目は、汪家熔の執筆
51.『繍像小説』発行遅延説をめぐって 前言
樽本照雄 『清末小説から』5号 1987.4.1。1-2頁
52.《繍像小説》的時間座標 汪 家熔 『清末小説から』5号 1987.4.1。2-4頁
53.《繍像小説》終刊時間問題我見
時  萌 『清末小説から』5号 1987.4.1。4-5頁
54.関於李伯元是否《繍像小説》編輯人問題的討論/関於李伯元与劉鶚的一段文字案
袁健、鄭栄編著『晩清小説研究概説』天津教育出版社1989.7。164-167頁
55.《繍像小説》編者等問題仍須探索
汪 家熔 『出版史料』1990年4期 1990.12?。117-121頁