清末小説 第14号 1991.12.1


言語に垣根はあっても、研究には国境はない
――中国近代文学研究国際学術研討会参加雑記――


樽 本 照 雄


 日本で『清末小説』、『清末小説から』の2雑誌を編集発行している私のところに、中国からときどきプリント刷りの論文が送られてくる。学会に提出したものだ、と説明があったりする。タイプ印刷だからまったくの原稿でもなさそうだし、かといってどこかの雑誌に発表されたものでもない。あるときなど、学会で「宣読」されたなどと付記されるものもあった。また、しばらくして該プリントが、中国の大学学報などに掲載されるのを見たこともある。このたび中国近代文学研究国際学術研討会に参加して、ようやくその仕組が判明した。

 上海は、4年ぶりの訪問となる。1987年、淮安での劉鶚生誕130周年紀念学会に参加するため通過した時以来だ。
 空港附近に複数の巨大ホテル、ビルが建築されている、また、建築中であるのが目につく。市内にはいると、女性の服装がカラフルになっている。目下の流行は、黒レザーのミニスカートに黒のストッキングであるらしい。街を歩けば、レストランでは数組の結婚披露宴で人がひしめいているのにでくわす。和平飯店の入口では、新郎新婦が親族を出迎える場面を、ライトのもとでビデオ撮影をしている一組もあった。宝飾店にも人がむらがり、人民公園そばのケンタッキー・フライド・チキンの店内は、土地の人々で満員である。浦江飯店の上海証券取り引き所には、朝、長蛇の列ができる。果物屋には、バナナ、ミカン、リンゴがあふれ(東ドイツ、東欧革命を思い出されよ)、食料も豊富に見受けられる。大都会上海だけの特殊な情況かもしれない。上海にかぎっていえば経済的には順調に発展しているように、素人の私の目にはうつる。ただし、子供の物乞いがいるのが悲しい。
 表記研討会第二号通知の指示によると、論文摘要は1991年8月25日までに上海・復旦大学の組織工作委員会までに送ること、論文は90部を開会1ヵ月前に郵送、あるいは3部を先に郵送し、残りは持参せよ、とある。しかし、8月の台湾での「二十世紀中国文学――台湾、香港、日本三地学者学術交流」の準備に時間を取られ、上の指示の通りにはできなかった。一応、「晩清小説資料在日本」と題する中国語原稿を書き上げたのは、出発直前の10月下旬のことだ。90部のコピーを作成し、同数の『清末小説から』第23号と同梱して上海に持参した。『清末小説から』は、参加者に配付してもらい交流と宣伝につとめようというわけなのだ。
 飛行機便を知らせたファクシミリが届いたらしく、復旦大学の王継権氏が外事室の人と空港にまで出迎えてくださる。今回は、学会に参加するほかに、上海にはもうひとつ用事をつくってあった。上海図書館で清末の新聞を見たい、と事前に要望を提出していたのだ。学会開催の前に見ることができるだろう、という連絡をもらって開会2日前の上海便が役に立つはずだった。ただし、ついてみると、上海図書館の担当者が不在で、開会までには連絡がつかずじまい。一抹の不安を感じる。
 10月24日が参加登録の日となっている。復旦大学の東苑賓館(専家楼)で会議費100米ドル、資料費50米ドルの合計150米ドル分を支払う。通知では、日本円でも可、とあるから日本円で支払うつもりだった。ところが、米ドルである、といわれ結果として外貨兌換券(周知の通り、中国では人民元との2種類を正式通貨として発行している)で790元である(1元=26円で換算すると、20,540円)。宿泊費(ツインを一人で使用)は、食費込みで5日間175米ドル分(支払の時、またも米ドルだ日本円だとモメ、外貨兌換券で992元を請求された)。
 さて、学会参加者の顔ぶれを見れば、87年淮安での劉鉄雲学会で会ったひとが多くいる。また、『清末小説』、『清末小説から』に原稿をもらった研究者の顔も見える。
 キャサリン・葉氏(アメリカ、ハーバード大学)には、京都で会ったことがある。蒋英豪氏(香港、香港中文大学)は、つい2ヵ月前の台湾学会で一緒だった。呉宏一氏(台湾、中央研究院)は、91年春、拙宅を訪問された。
 呉淳邦氏(韓国、蔚山大学)は、台湾大学を卒業し、中国小説研究会の会員で『中国小説研究会報』にも論文が見える(該雑誌の目録<1−6号、7号>は、『清末小説から』第23、24号に掲載してある)。ハンス・クフナー氏(ドイツ、ミュンヘン大学)は、劉鉄雲と太谷学派について調査を続行中とのこと。方梓勲氏(カナダ、香港中文大学)は、小説分科会において娯楽としての小説を主張し、中国人研究者は、ややとまどったように見受けられた。また、インドからの留学生の参加もあり、日本からは、私のほかに、麦生登美江氏(大分大学)、神戸輝夫氏(同上)、若杉邦子氏(九州大学大学院生)ほかが加わった。
 2回にわたり配付された参加者名簿(参考までに縮小コピーしたものを巻末に掲げておく)によると、77-79名の名前を数えることができる。『論文摘要集』には、95本の摘要が収録され、実際に提出された論文は、約50本、レジュメは2、3枚であった(書籍とともに郵送したので現時点で正確な数字がわからない)。
 学会開幕以前に主席団が結成された。名前はいかめしいが、日本でいえば議長団というところか。学会議事の運営を担当する。司会もこのなかのメンバーが担当するらしい。私も日本からの代表ということで主席団の一員に加えられた。中国側の配慮なのだろう。むこうにとっては好意であろうが、私にとっては、少々迷惑。
 おもむろに議事進行、日程の予定が議論、決定される。秘書長から発表予定者の素案が提出され、といっても口頭であり印刷物はない。午前中に5名、昼休みをとって午後に5名、まるまる2日と半日で合計23名の発表とそれに対する質疑応答、討論という形式をとることになった(実際には、25日午後、停電のため予定が少し変更される)。
 参加者のなかには、すでに論文で提出しているのであらためて口頭発表する必要はない、と主張する研究者もいて、その調整に秘書長があたるということらしい。
 前述したように提出論文約50本のうち全体討論にかけられるのが23本(分科会も1回、午後にもうけられ、ここでも数本の論文が口頭発表される)ということだから、たしかに競争はきびしい。口頭発表のなかった提出論文は、学会報告集が出版されるのならそれに収録ということになるのだろう。ただし、今回の学会で報告集を出すとは聞かなかった。どうやらこの種の論文が、ときどき私の雑誌に投稿されてきていたのだと理解した。
 全体会議では、発表者2、3名の報告が終わると、まとめて質疑応答となる。参加者の発言も積極的で、若い研究者の発言もあり、なかなかの活況を呈していたといえる。もっとも、中国の学会では、質問の形をとりながら、発表とはまったく違った自分の意見をのべるだけに終わることが多い、というある中国人研究者もいた。いずこも同じ?
 今回の学会には分科会形式も取り入れられた。
 日本では、発表者を事前に決定し、日程もあらかじめ定めたものを印刷し配付しておく。先に参加した台湾の学会ではも同様であった。上海では、様子を見て発表者と日程を決定する。柔軟性があるといえる。しかし、分科会(詩詞、小説、文学理論、散文など)は、開催の直前に、発表者の名前が食堂入口の黒板に張り出されるだけだったので、発表者のなかには自分の名前を見ていない人も出てくる。小説分科会では、予定の9名のうち5名までが欠席となるありさまだ。それでも議論は盛り上がった。小説分野では、翌日も継続して分科会形式でやりたいと劉徳隆氏から要望が出された。しかし、主席団では、議論のすえ、他の分科会は、すでに終了しており(つまり前述のような欠席者もいて)、翌日の全体会議も小説関係の発表となるので、そちらで討論を継続するように決定される。たしかに小人数のほうが話しやすい。陳平原氏やキャサリン・葉氏が、大会場での報告形式ではなく、小人数の座談会形式の学術討論会を以前から主張しているのには充分な理由がある。だが、全体の会議運営を考えると、主席団の決定のようにならざるをえなかったであろう。会議運営について事前に充分な準備がなく、その場で分科会形式を取り入れたために生じた混乱である。主席団会議に出席したこれが私の感想だ。一人が論文を読み上げると、それで終わり、質疑応答も討論もない以前の学会にくらべて、今回はよっぽどマシ、という中国人研究者がいたこともつけくわえておく。
 台湾の学会では、9時に報告が始まり、6時半に終了し疲労をおぼえた。上海では開始が8時半と早いものの、昼食と休憩が2時間あり、さらに会場と宿舎が同じ建物で、肉体的には、やや、余裕のあるスケジュールだった。ただし、私の場合、報告と司会が同一日の午前と午後に連続する日があり、緊張をしたのは確かである。
 一晩は昆曲の観賞、一晩は主催者の招宴(揚州料理)と、配慮ある日程だと感じた。
 海外研究者のため廬山旅行が実行されたが、私は参加せず、その時間を利用して上海図書館で新聞の調査ができることになった。貴重な新聞ゆえ徐家匯より出さないのだが、学会参加者ということもあり特別なはからいである、とのお言葉であった。多謝。
 文学革命以前の文学(数年来、中国ではこれを近代文学と呼びならわしている)研究は、中国においてはそれほど重視されてきたとは言えない。たしかに、中国近代文学会の成立と年次大会の開催など全国規模の国内活動は継続されてはいる。しかし、最近になり、「中国近代小説大系」(南昌・江西人民出版社)、「中国近代文学大系」(上海書店)の大型シリーズの発行、研究雑誌『中国近代文学研究』創刊号(南昌・百花洲出版社1991.10)の出版などを見ると、どうやら上海・復旦大学を中心として研究が推し進められる模様である。その象徴が今回の中国近代文学研究国際学術研討会の開催だといっていい。それも、目が国内ばかりではなく、最初から国外にもむいているのが特徴だ。本学会の開催に間に合うよう準備が進められていた王継権、周榕芳編選『台湾・香港・海外学者論中国近代小説』(南昌・百花洲出版社1991.10)もそのことを証明している。
 台湾の学会と同じころ上海で行なわれたという別の学術会議において、日本人研究者が準備していた論題が、中国側から拒否されたと聞く。現代中国文学の「微妙な問題をあつかった議題」については発表できないということらしい。ところが、おなじ上海で開催された中国近代文学研究国際学術研討会では、そういうことはなかったように思う。台湾での学会も議題に制限はなかった。中国大陸は広い。個々の問題で、情況はくいちがうかもしれない。しかし、今回の学会に参加した私の印象では、近代文学研究の方面においては、自由化の方向で動いている感じを強くうけた。
 言語に垣根はあっても、研究には国境はない、というのが私の持論である。中国大陸の学会に台湾の研究者を含めた海外の研究者が参加する時代である。大勢は、私の持論の方向で動いているのではなかろうか。
 中国大陸の学会になら参加するが、台湾で開催される学会には参加しない、などという「主義」をもつ人には言っても理解できないかもしれないが、そういう時代はとっくに終結していることを強調しておきたい。

【付録】略

【関連文献】
樽本照雄「アジアが動く国際学会」『中国文芸研究会会報』第119号1991.9.30
「沈黙させられている知識人たち――丸山昇氏にきく」『日中友好新聞』1991.9.25
(たるもと てるお)