清末小説 第15号 1992.12.1


「 老 残 遊 記 」 の 成 立


樽 本 照 雄


1.本稿の目的

 劉鉄雲が「老残遊記」を書いたのは、連夢青を経済的に援助するためであった、という定説が否定されている。そればかりか連夢青の作品とされる「鄰女語」は、劉鉄雲本人が作者でなければならない、とも主張されているのだ。
 今回の問題提起は、作品の著者問題をも含んで重要である。提出された問題を検討しつつ、「老残遊記」の成立についてあらためて探究してみたい。


2.洪(鴻)都百錬生が劉鉄雲と知れるまで

 「老残遊記」は、友人を経済的に援助するために書かれた、というのは、劉大紳がのべていることだ。劉大紳の証言が行なわれる背景を説明しておく。

 1903年、洪都百錬生名義で「老残遊記」初集は発表された。掲載誌は、上海・商務印書館発行の『繍像小説』である。1907年、「老残遊記」二集が『天津日日新聞』に連載されたときは、鴻都百錬生名が使用されている。
 太谷学派関係者には、「老残遊記」の著者が劉鉄雲であることはわかっていたらしい*1。しかし、この事実が社会一般に知られるようになるには、すこし時間がかかっている。
 林゚は、『賊史』(1908)の序文で、「今日健在であるのは、[曾]孟樸、老残の二君のみ。……」*2と書く(引用文中の[]は樽本注。以下同じ)。「老残」と書きあらわしているところから判断するに、1908年の時点では、「老残遊記」の著者が劉鉄雲であることは、林゚も知らなかったらしい。
 上海・百新公司出版の上下編40章増批加注『老残遊記』という本がある*3。前半20章は、劉鉄雲の文章のまま、後半20章が贋作であることで有名だ。
 表紙に「劉氏原本」と大書する。同じく表紙に説明して、「清光緒丁酉の年に全書の半分が天津日日新報に披露された」とある。上編の奥付には、「中華民国五年八月照劉氏原本印行出版/中華民国十一年四月第十八次重印出版/中華民国十二年四月第十九次重印出版」と記され、下方に小さく「著述於清光緒丙申年山東旅次」、大きく「原著者洪都百練生」と印刷される。
 表紙に見える「光緒丁酉」は、1897年である。掲載されたとする『天津日日新聞』は、1901年に創刊されているのだから、1897年がウソであることがすぐわかる。「光緒丙申」つまり1896年に書いたことにしたかったものか、新聞掲載年もそれにあわせてでっちあげたとしか考えられない。
 そもそも百新公司本の発行には、劉大紳(劉鉄雲の息子)の方から苦情をよせた経緯がある。「老残遊記続編」発行の予告を見た劉大紳が、書店に問いあわせる。書店は、本当に二集が存在していたことを知らず、劉大紳は、続編というのがまったくの贋作であることを知らなかった。書店の懇願に劉大紳が折れるかたちで、洪都百錬生、二編、二集の文字を使わないこと、原稿を見せることを条件に出版を許可する*4。しかし、表紙、奥付までは目がとどかなかったためか、著作年についての上述のような誤りがひろがることになった。
 劉大紳の苦情を受けた時点で、書店側は、洪都百錬生が劉鉄雲であることを知ったはずだ。奥付の記事を信用するならば、1916年頃のこととなる。表紙に見える「劉氏原本」という字句がそれを証明する。ただし、「劉氏」でとどまっているのは、劉大紳の意向か、それともそれすら出すことを嫌ってはいたが、表紙なので見落したのか、いずれかわからない。どのみち、1916年でも、洪都百錬生が劉鉄雲であることは一部の関係者だけにしか知られていなかった。
 以上の経過を見てみると、銭玄同が『新青年』第3巻第1号(1917.3.1)に投書した文章のなかで、劉鉄雲の「老残遊記」、と触れたのが公になったもののなかでは早い部類に属する*5。だが、劉鉄雲の名前が出されたにすぎない。くわしい経歴などは不明のままという情況は続く。
 銭玄同の言及からさらに6年が経過する。劉鉄雲の経歴をはじめて紹介したのは、胡適「五十年来中国之文学」*6(1923)だ。羅振玉「五十日夢痕録」を資料に使ったのが目をひく。羅振玉の日記体の文章には、劉鉄雲の経歴がのべられてはいる。しかし、劉鉄雲が「老残遊記」を著わしたとはひとことも書かれてはいない。劉鉄雲と「老残遊記」を結びつける知識が必要とされる。その知識は、劉鉄雲の子孫である劉大鈞が、胡適に与えたものだろう。劉大鈞は、「以前、適之にも(劉鉄雲)氏のために小伝を書くようにいわれたことがある」*7と後に述べている。胡適と劉大鈞には接触があったことがわかる。当然、劉大鈞は、劉鉄雲に関して自分の知ることを胡適に話しているはずだ。「老残遊記」の作者として劉鉄雲を紹介した文章を書いたのは、結局のところ胡適の功績であるといえる。
 その後、顧頡剛「老残遊記之作者(読書雑記)」*8(1924)、魯迅「第28篇清末之譴責小説」『中国小説史略』*9(1924)が発表された。
 以上を見てみると、洪(鴻)都百錬生が劉鉄雲であると知られるのは、ようやく1920年代になってからである。上海・亜東図書館本に掲げられた胡適「老残遊記序」*10(1925)が、知識の普及に一役買っているのは言うまでもない。
 亜東図書館本が発行される一方で、百新公司本は、それをうわまわって大量に発行されたらしい。これが原因か、「老残遊記」は予言の書であると受け取る人が出てくることになった。そればかりか、著者は将来大乱のあることを知り、中国18省にそれぞれ妻をめとり子をなし、 不動産を購入して乱後にそなえた*11、などの憶測が流布する。
 1930年代、林語堂の助力で、劉大鈞「老残遊記作者劉鉄雲先生的軼事」*12(1933)、「劉鉄雲先生軼事」*13(1934)が発表される。注目されるのは、「老残遊記二集」が再発見され、『人間世』第6-14期(1934.6.20-10.20)に連載されたことだ。連載分4回に2回分を追加し、単行本化された*14。 この単行本に劉大鈞跋、劉鉄孫跋が掲げられるが、いずれも劉鉄雲に関する断片的な記述にすぎない。
 世にひろまった噂、風評、憶測に対し、劉鉄雲の息子として真相を明らかにしようと書かれたのが劉大紳「老残遊記について」*15(1939)である。
 劉大紳の該文は、

一、作者の姓名を公表する前後
二、「老残遊記」著作のいきさつ
三、「老残遊記」のモデル
四、「老残遊記」のなかの疑問
五、「老残遊記」の模作
六、「遊記」作者の災難始末
七、「遊記」作者の事業および家族

という7章によって構成される。
 劉鉄雲の生い立ち、学業、事業などの経歴を述べ、その著作「老残遊記」と周辺について劉大紳の知るところを書き記す。たとえば、劉鉄雲と太谷学派の思想にまつわる事実の指摘などは、関係者だからこそできることである。劉大紳「老残遊記について」が、以後、研究の基礎文献となったことは、誰しもが認めるだろう。
 ただし、記憶にもとづいているため事実と異なる箇所もないわけではない。たとえば、「虎」問題、あるいは「姑」問題である。前者は、「老残遊記」第8回に登場する「虎」は、原稿では「狐」だったが、商務印書館によって書き換えられたとする。しかし、『繍像小説』初出と天津日日新聞社本の初版を検討して、その事実がないことが明かとなっている*16。後者は、「姑」の「」は、旧蔵の琴の名前であると劉大紳は証言する。しかし、考証の結果、「姑」のモデルは、太谷学派の関係者のなかに存在していたことが判明している*17。いずれも、劉大紳のおかした数少ない勘違いであった。当事者の証言が、全面的に正しいとは限らないことの証明でもある。それゆえ、記述の一つひとつと事実の突きあわせが必要となるのだ。
 こまかな間違いはある。しかし、くりかえすようだが、劉大紳が「老残遊記について」において明らかにした豊富、かつ詳細な事実の記述は、以前の関係記事を大きくうわまわっている。該文が、劉鉄雲の経歴、および「老残遊記」の成立に関する基本的な構造を提出していること自体を否定することはできない。


3.「老残遊記」が書かれるいきさつ

 劉大紳は、「老残遊記」成立の事情を次のように証言する。

 ちょうど義和団事件後の数年にならない頃、京官に沈愚渓、連夢青の両氏がいて、ともに『天津日日新聞』の方葯雨氏の友人であった。某日、沈は用事で天津に赴き、方氏に朝廷のことをもらすと、方氏はこれを新聞紙上に掲載する。これが西太后の知るところとなり、大いに怒ったのだ。機密をもらした者をきびしく追及し、沈を逮捕するや刑部へ送り、棒打ちの刑で殺してしまった。そのうえ仲間を捕縛し、連が連座してしまう。連は友人の家に三日間隠れ、大使館の助けをようやく得て、単身あわただしく逃走し上海に到着した。当時、我が家はちょうど上海北成都路の安慶里に居住していた。連はすでに上海に着いていたが、その母親はまだ原籍にいたままだ。連は日夜心配だったし、親友もまたそれほど安全ではないと考え、[上海へ]迎えるよう勧めた。しかし、連は思いがけない災難にあい一文無しで、まことに上海で生活する力がない。また、世間と調子をあわせることのできない性格で、他人の金銭援助を受けようとはしない。当時、商務印書館が小説雑誌を発行しており、『繍像小説』といった。連は、人の紹介をへてこれに千字につき五元の報酬で原稿を売った。連は、こうして文筆生活を始め、「鄰女語」という小説を書いたのだ。おおよそ義和団のことを描いたものである。ほどなく連の母親は上海にやってきて、愛文義路の眉寿里に廉価で借家住まいをするが、亡父[劉鉄雲]が仲介をしたものだ。屋敷は馬眉叔[建忠]氏の所有で、馬と亡父は親友だったのである。連が売文で得る収入は、まだその親孝行を維持するには不足した。亡父は、人と妥協をしない彼の性格を知っており、また原稿を売っていることも承知していたので、小説をひとつ書いて贈ったため、連は亡父の意に感じて、受けざるをえなかった。商務印書館に原稿を売るにあたり、原文の一字たりとも添削してはならないと約束した。この小説が、30年近く一般の人が神秘予言と考えている「老残遊記」なのである。

 劉大紳の以上の証言にあらたな事実を付け加える人は、いない。研究者は、劉大紳の書いたままを引用することによって「老残遊記」が書かれたいきさつとしていたのだ。
 劉大紳の記述を私なりにまとめると次のようになる。
 朝廷の機密(露清密約)を漏洩したという沈緕膜盾ノ連夢青が連座した(沈繧ヘ、克ロ、虞希、禹希、愚渓と表わされる。本稿では、引用を除いて沈繧ナ統一する)。上海に逃亡した連夢青は、生活のため『繍像小説』に「鄰女語」を連載する。劉鉄雲は、連夢青を経済的に援助するため「老残遊記」を書いて贈った。
 沈縺i愚渓)、連夢青という人物は、方葯雨の友人というだけで具体的なかかわりあいにまで筆は及んでいない。しかし、沈繧ニ連夢青の名前は、それまでの劉鉄雲関係文献に見られないものであった。沈緕膜盾フ連座が原因で「老残遊記」が成立する、という話も、一応、筋の通ったものに思われる。


4.蔡鉄鷹の問題提起

 劉大紳の証言に疑問を提出したのは、蔡鉄鷹である。論文を「<いきさつ>の真偽:《老残遊記》成立“経済援助説”質疑――あわせて《鄰女語》の作者は劉鶚であるべきことを論ずる」*18という。
 蔡鉄鷹の立論は、連夢青を中心に組み立てられる。連夢青は、沈緕膜盾ノ連座したというが、どの程度の関わりあいだったのか、劉大紳のいうように重大なものとは考えられない。これが、蔡鉄鷹の主張だ。
 蔡鉄鷹がよる資料は、英斂之日記*19である。英斂之日記に記録された沈繧ニ連夢青の交際情況から判断して、沈繧ニ連夢青には密接な結びつきはなかった、ゆえに沈緕膜盾ノ連夢青が連座したとは考えられない、という結論になる。連夢青の沈緕膜盾ニのかかわりを否定するところから出発し、連夢青が上海で生活する力がなかったという劉大紳の説明に疑問を投げかける。
 さらに問題は派生していく。「鄰女語」の連載は、『繍像小説』第6期(光緒二十九年六月十五日)からはじまる。しかし、英斂之日記の記述をたどれば、連夢青が上海に到着するのは六月十九日以前ではありえない。だから「鄰女語」の作者は、連夢青ではない。「鄰女語」が連夢青の著作でないとなると、その作者は劉鉄雲本人の可能性が高い。「鄰女語」発表時の筆名は、憂患余生である。おなじ憂患余生名義で発表された「商界第一偉人」も劉鉄雲の作品だ。
 以上をまとめた蔡鉄鷹の結論はこうなる。
 1903年、北京から上海に移住した劉鉄雲は、ひまであったので人生の来し方を小説につづりはじめた。最初は「商界第一偉人」の翻訳原稿に手をいれることから着手し、のち自分の庚子北京難民救済活動の経験を原型とした「鄰女語」を書く。反響がいいところから、「鄰女語」の不足をおぎなうつもりで「老残遊記」を書いた。劉大紳が証言する「経済的援助」という「いきさつ」は、誤記である。
 蔡鉄鷹の論文を読んで、私は、いくつかの感想を持つ。
 蔡鉄鷹自身が述べるごとく、論文は鉄の証を提出しているわけではない。すぐ思いつく疑問のひとつとして、たとえば、「商界第一偉人」「鄰女語」ともに劉鉄雲の作品であるならば、なぜそれを連夢青の著作だとしなければならないのか、というものがある。世に流布する誤解をとくために劉大紳の文章は書かれた。劉大紳の文章に部分的な勘違いはあるにしても、虚偽の説明をわざわざする必要があるだろうか。疑問である。劉大紳の証言に登場する人物――沈縺A連夢青、方葯雨などが、すべて実在する人々である点に注意が払われていいだろう。「老残遊記」が書かれたいきさつについて、仮に劉大紳に述べたくないことがあったとしよう。そうならば、なにも実在の人物を登場させるまでもなく、「ある人」のために劉鉄雲は「老残遊記」書いた、というだけで充分ではないか。「誤記」というにはあまりに詳しい「いきさつ」だと私には思える。
 蔡鉄鷹がいう「根拠のない説ではない」とは、沈緕膜曙縺A連夢青の上海行と『繍像小説』の発行月日が合わない、という点のみである。時間の不整合については、後に詳しく述べることにして、まず、英斂之日記から見ていくことにする。


5.英斂之と連夢青

 英斂之(1867-1926)  原名は英華、字が斂之、号に安蹇斎主、万松野人がある。満洲正紅旗人。北京に生まれた。二十二歳でカトリック教に入信、若くして病を得る。康有為、梁啓超の変法思想から影響をうけ、国事を評論した。1902年、天津で『大公報』を創刊、社長と編集を兼任する。変法維新を提唱し、頑固守旧派に反対;立憲君主を主張し、封建専制に反対;民族独立を要求し、外国の侵略に反対したという。辛亥革命後は、北京香山静宜園に隠居し、主として女学校の創設、輔仁社などの慈善教育事業に精力をそそぎ、カトリック教の革新活動に従事する。のちに輔仁大学を創設した。著作に「也是集」(正、続編)、「万松野人言善録」、「安蹇斎叢残稿」などがある*20。
 英斂之は、十五、六歳ころから日記をつけはじめた。膨大な日記は、方豪が人に書き写させたものが、台湾より影印出版*21され、 現在、読むことができるようになっている。
 1901年、英斂之は、カトリック教関係者で資本家の柴天寵らの要請を受け『大公報』創刊の準備にとりかかった。上海におもむき印刷機器の購入のため美華書館、商務印書館、申報館などを訪問する一方、主筆、通訳の招聘などにも精力的に活動している。英斂之が、商務印書館の夏瑞芳を知ったのも、この時の買い付けが契機となったようだ。汪康年に主筆の推薦を依頼し、蒋智由を紹介されるが不首尾に終わることもあった。天津、上海間を往復し、結局、主筆として方守六を迎える契約をすることができる*22。
 連夢青が英斂之日記に登場するのも、この『大公報』創刊準備に関係してのことだ。関係する部分のみを翻訳して引用する。

二月二十日 夕食後、方守六からの手紙を受け取る。浙江の連文徴(字は孟 青)は、学があり、招いて北上する価値あり、月給40洋元という。すぐ さま返信しこれを承諾する。

 英斂之日記には、以上のように書かれている。資料によって異なるのだが、ここでまとめておくと連の名は、文徴または文澂、字は孟青、孟清、夢清、夢惺、慕秦ということになる(本稿では、引用文を除き連夢青で統一する)。
 当時、英斂之は、上海に出張してきている。ゆえに「北上する」とは、天津に向うという意味である。主筆・方守六からの連絡であることを考えると、連夢青は、『大公報』の編集、あるいは記者候補であったのだろう。
 翌日、早速、面会におもむく。

二月二十一日 方守六とともに眉寿里に行き連孟青と面談する。

 その夜、英斂之は、江南邨で方守六、連夢青ら客6人とあっている。食事を兼ねて顔合わせというところか。

二月二十二日 連夢青との契約は承諾不可の箇所はないように思う。
二月二十六日 連夢清に給料三ヵ月分120元、旅費30元を支給する。
二月二十七日 方守六のところに行く。[連]孟清と契約する。

 三月、英斂之らは、船に乗り天津経由で北京にもどった。
 1902年当時、劉鉄雲は、基本的に北京にいる。1900年、義和団事件で上海に避難していたが、同年九月に北上し北京で難民救済活動に取り組み、そのまま居住するかたちとなった。沈繧ニは、難民救済活動をともにしている。天津には関係の深い天津日日新聞社に友人・方葯雨がいる。北京・天津間は、そのころ汽車で約3時間半から5時間だ。簡単に往来ができる。
 三月十二日、方守六が上海へ手紙を出し連孟清に上京を催促した(英斂之日記)。連夢青が天津に到着したのは、その一ヵ月後のことであった。


6.天津、北京における連夢青の足跡

 連夢青は、上海から天津に到着したあと、約三ヵ月弱を天津ですごした。その後、1902年いっぱいは北京で活動している。

 6−1 天津
 英斂之日記から関係部分のみを引用する。

四月十二日 夕食後、[方]守六と川辺へ散歩に出かける。帰ると連孟青が、 上海より到着している。部屋の中で話すが暑さがはなはだしい。一陣の 暴雨あり、たちまち止む。[方]守六、[連]孟青と三時近くまで話し、 ようやく寝る。
四月十三日 [方]守六、[連]孟青と車で閲書楼へ行く。……[天津]日 日新聞社に行くが[方]葯雨は外出していた。

 天津日日新聞社の方葯雨は、英斂之とは同業者である。英斂之日記には、よくその名前が出てくる。

四月十四日 午前、沈愚渓克ロが来る。長時間腰をすえ、帰る。……光緒大事記を編纂するため連孟青と条例を相談する。

 沈愚渓、すなわち沈繧ノほかならない。「沈愚渓克ロ」と記述しているところからわかるように、この日が、英斂之と沈繧フ初対面であったもようだ。親しい間柄であれば、守六、孟青などと記される。なにを長時間話したのか、その内容についての記入はないし、沈繧フ印象も書かれてはいない。この日以来、沈繧ヘ英斂之をたびたび訪れるようになる。

四月十五日 [方]守六、[連]孟青と厳又陵の所に行く。……沈愚渓来る。
四月十六日 [連]孟青に15元を渡す。
四月十七日 [方]守六と[連]孟青を駅に送る。

 連夢青は、英斂之の妻を迎えに北京に行ったのだ。

四月二十日 沈愚渓来て話す。四時半、[方]守六、劉貴と妻を迎えに駅へ 行く。[沈]愚渓もまた来る。五時近く、妻が妹と[連]孟青と到着。 車7台に乗り社へ着く。李おばさんが[沈]愚渓に会いに来る。

 英斂之が家族を迎えるなんでもない情景のように見える。英斂之も、何も書いてはいない。しかし、沈繧ニ連夢青が顔をあわせている確かな証拠が、ここにある。
 あとはこまごまとしたことだが、英斂之日記に見える連夢青と沈繧フ関連部分を抜きだしておく。

四月二十一日 日が傾いてから、方[守六]、連[孟清]と散歩へ出る。
四月二十五日 [連]孟青と食事。
四月二十六日 灯下にて連[孟青]と心を傾けて長時間話す。
四月二十八日 夜、[沈]愚渓と話す。
四月二十九日 午後、方雅雨[注:方葯雨]と沈愚渓がともにやってくる。 沈のところの者が来て、隣から火がでたとさけぶ。沈らは駆けつける。 [方]雅雨がすぐにもどってきていうには、ずっと遠くのほうだったと。 長時間話す。
五月初三日 午前、夏瑞芬[注:夏瑞芳の書き誤りだろう]らが来る。
五月初四日 沈愚渓がくる。
五月初五日 夕食後、[方]守六、[連]孟清と散歩。
五月初六日 [方]守六、[連]孟清が出かける。

 五月十二日が『大公報』の創刊日である。

五月十七日 柴氏の約束で徳義楼で食事。[方]守六、[連]孟青、楚珍ら もともに行く。
五月二十二日 連孟青へ30元。
五月二十九日 夕方、[方]守六、[慕]元輔、[連]孟清らと徳義楼で食 事。
六月十四日 晩、連孟清、薛錦琴およびその父・三庸が徳義楼で食事。家内 と陪席する。日本人の中川、沈愚渓、[慕]元甫らともに来る。

 連夢青と沈繧ェ一緒にいる場面は、英斂之日記においては、四月二十日とこの六月十四日の2ヵ所である。
 六月二十七日、連夢青は、北京へむかった。

 6−2 北京
 北京における連夢青の足跡は、 「劉鉄雲壬寅日記」*23によってうかがうことができる。沈繧フ名前が見える部分とあわせて紹介する。(頁数は、『劉鶚及老残遊記資料』のもの)

七月二十三日 山下来る、つづいて連夢惺も到着。(187頁)

 現存する劉鉄雲日記に、連夢青(連夢惺)が登場する最初である。ただし、これが連夢青と劉鉄雲の最初の出会いかどうかはわからない。もし初めてであれば、もうすこし書きようが違ってくるはずだ。以前の劉鉄雲日記が行方不明であるから断言ができない。
 前述したとおり、北京と天津は近い。七月二十四日、天津におもむいた劉鉄雲は、翌二十五日、沈繧轤ニの会話を楽しんだ。

七月二十六日 [天津→北京]連夢惺に途中で出会う。(187頁)
七月二十七日 午前、連夢惺来る。(188頁)
七月二十九日 連夢惺とふたりの李君が来る。広間の「続通鑑補」を見て、 厳衍の著か否かをたずねる。(188頁)
八月初三日 沈虞希、天津より来る。磚一個と五銖範一個を持っていってし まう。(189頁)

 沈繧燉ォ鉄雲も、ともに金石学に興味をもっていた。劉鉄雲日記には、いたるところに金石学に関する記述を見ることができる。磚、五銖銭の鋳型もその一部である。

八月十四日 夜、連夢醒来る。(191頁)
八月十七日 午後、連夢惺……来る。(192頁)
八月二十三日 午後、沈虞希来る。(193頁)
八月二十四日 午後、連夢惺と沈虞希が連れ立ってくる。(194頁)

 連夢青と沈繧ェ行動をともにしているのは、英斂之日記では2ヵ所見られた。劉鉄雲日記では、この1ヵ所があるところに注意してほしい。

九月初十日 午後、客を招く。蒋性甫がまず到着し、次が王伯弓、次が連夢 惺、次が王聘三であった。(196頁)
九月十三日 沈虞希、天津より来る。……夜、[沈]虞希来て話す。(197頁)
九月二十日 午後、連夢惺来る。(198頁)
九月二十七日 連夢惺来る。文章を作る相談である(200頁)
九月二十八日 午後、沈虞希来る。(200頁)
十月十三日 午後、連夢惺来る。(202頁)
十月十五日 連夢惺の招きに応じる。(203頁)
十月十九日 連夢惺来る。(203頁)
十月二十日 連夢惺、写しをとりに来る。(203頁)
十月二十一日 [沈]虞希、天津より来る。(204頁)
十月二十二日 連夢惺来て昼食を食べる。(204頁)
十月二十四日 [連]夢惺来る。(204頁)
十一月初一日 [連]夢惺……前後して来る。(206頁)
十一月初六日 [沈]虞希、天津より来る。(207頁)

 劉鉄雲の壬寅日記は、原稿がなくなっておりこの初六日の分でとぎれているという。劉鉄雲は、天津にむかう直前であった。劉鉄雲日記をおぎなうかたちで、英斂之日記に劉鉄雲が登場する。

十一月初八日 [天津]午前、劉鉄雲が来てすこしばかり話をする。
十一月初九日 [天津]午後、劉鉄雲が方雅雨をともない来る。 ……駅で [劉]鉄雲、小眉らに会う。

 以上、こまかく見てきた。劉鉄雲、英斂之の日記は、備忘録風に人名などが記録されるのみで、会談の内容、人物の印象などほとんど書かれていない。書かれていない以上、推測になる。沈繧ニ連夢青の関係がどれほどのものであったのかを証明する資料は、今のところない。
 沈繧ニ連夢青が一緒にいる事実を、英斂之日記に2ヵ所、劉鉄雲日記では1ヵ所、合計3ヵ所の記述に目にすることができる。この3件を少ないと見るか、多いと見るか、意見の分れるところだろう。考えてみれば、英斂之日記にしろ劉鉄雲日記にしろ、あくまでも英斂之、劉鉄雲が中心になったものである。個人の日記なのだから当然だ。そうすると、ふたりの日記にでてこないところで、沈繧ニ連夢青の交流は行なわれた可能性があることを否定できない。私には、日記に見る3件の事実は、沈繧ニ連夢青のつきあいを証明する証拠以外には考えられない。よくもまあ記録されていたものだと、奇跡的にさえ思える。
 連夢青が『大公報』の記者だとすると、北京で劉鉄雲のところに出入りするのは取材活動だと考えていいだろう。
 翌光緒二十九癸卯(1903)、中国、日本をゆるがす新聞報道がなされた。ロシアが清国政府に押しつけた7項目の要求が暴露されたのである。


7.露清密約の暴露

 1900年、ロシアは、義和団事件を口実に満洲を占領した。1901年、「辛丑条約」が調印されたあとも、ロシアはなんとか条件をつけて満洲撤兵を引きのばそうとする。1902年、日英同盟が結ばれたこともあり、4月8日(三月初一日)、ロシアと清国の間に、ロシアが18ヵ月以内の満洲撤兵を約束する協定が調印された。これが日露戦争の原因ともなる満洲撤兵問題である。第2期満洲撤兵の期限は、1903年4月8日(三月十一日)であるが、実行されなかった。そればかりか、4月18日(三月二十一日)ロシアから清国政府あてに、撤兵するためのあらたな条件7項目が提示されたのである。
 この露清密約は、いちはやく日本の新聞で暴露された。

『大阪朝日新聞』1903.4.24(三月二十七日)欄外記事
北京電報(23日発)
●露清密約案 露国は七箇条の密約案(一説には八箇条とも云ふ)を提起せり。其大要は東三省の官制改革を許さざる事、営口以外にも(此間脱字あらん)開設を許さざる事、露清両国人の外には東三省の鉱山開掘を許さざる事、露国は自国の兵を以て東清鉄道を保護する事、東三省の税関は露国の監督に帰し他国の干与を許さざる事、露国は奉天に商務衙門を設け自国兵を派して之を保護する事、東三省の練兵は露国の将校をして辨理せしむる事等なり。
慶親王は右の条項中露兵の鉄道保護と税関管理の二項を譲歩せん内意ありと伝聞せり。

 ロシアの満洲に対する欲望が露骨に示された条件であろう。
 翌日、『大阪朝日新聞』には、同文の記事があらためて掲載されている。朝日に遅れること3日後の四月初一日、天津『大公報』「時事要聞」欄に関連する記事が報道がされた。

天津『大公報』四月初一日「時事要聞」
聞くところによると、近頃ロシア人が満洲撤兵条約と称するものを外務部に提出している。……一、中国政府はロシア人のみに満洲一帯に商業都市を開設することを許すべきで、他国がそこで通商し領事などの官を設立することを許さない。一、満洲のすべての鉄道鉱山等の事について、中国政府はロシア人と合弁すべきであり、他国人と行なってはならない。一、満洲での練兵のこともまたロシア人を招いて訓練すべきであり、他国人が参与することを許さない。一、満洲のすべてのもとから定められた官僚制度については、もとのまま永遠に改めることができないと、中国政府は知るべきである。一、満洲の土地は、 永遠に他国に譲ることはできない。 一、満洲一帯での地丁[地租と人頭税]および各項税金収入は、華俄銀行に預け入れなければならない。一、満洲一帯の電信柱について、ロシア人が一線を布設しもっぱらロシア人が管理することを、中国政府は許すべきである。一、牛荘の土地の一切の事は、ロシア人がもっぱら管理すべきであり、各国領事は口を出すべきものではない。

 天津『大公報』での報道によると、ロシア人が要求した条件は8項目である。『大阪朝日新聞』で「一説には八箇条とも云ふ」と書いていたのと合せて考えると、発信源はひとつなのかもしれない。朝日の電報と『大公報』の記事と、細部で内容が異なるが、大筋では同じかと考える。政府からの正式発表などあるはずもなく、同時進行の情況を考えればやむをえないことだろう。
 『大阪朝日新聞』4月29日(四月初三日)には、「正文とも認むべきもの」7項目が詳しく掲載されている。
 新聞報道されたのは天津ばかりではない。上海『申報』四月初四日付けには、「俄人要約」と題して、「日本某日報は、西暦4月24日すなわち華暦三月二十七日の中国京師電報を掲載し、いわく……」と転載するかたちで露清密約を報じる。これも8項目である。四月初七日付け同報にも「条約岐聞」という関連記事があることだけをいっておく。
 『大公報』よりも『大阪朝日新聞』のほうが、時間的に報道が先行した。情報

■光緒二十九年閏五月二十二日『申報』

源がひとつとして仮定しよう。なぜ、中国よりも日本での報道が速かったか。考えられるのは、わざと日本を優先し、中国でのニュースを二番手にしたことだ。中国での報道が最初となると、情報源の詮索を受けるのは必至である。二番手であれば、転載だと言い逃れることもできよう。言論統制の厳しい時代における新聞社の当然の智恵であるだろう。
 以上の露清密約暴露に関しては、当然のことながら情報源については伝えられることがない。情報源は、沈繧ナある、というのが通説になっている。
 次は、沈緕膜盾ノなる。その前に、ちょっと横道にそれるようだが、連夢青の経済特科合格について触れておこう。


8.連夢青の経済特科合格

 経済特科とは、清末、中外の時務に通暁した時流に役立つ人材を発掘する目的で特別に設けられた試験である。西太后の命令で挙行された。
 光緒二十八年、連夢青は曽広漢の推薦を受ける(『大公報』十一月初四日)。翌二十九年閏五月十六日、保和殿で試験が行なわれ、一等48名、二等79名、備列58名を選出する。合格者の名簿は、閏五月二十二日付け『申報』に「電伝経済特科等第単」と題して掲げられた。 同日付けの 天津『大公報』にも「経済特科考取等第員名単」が掲載される。前者には、「梁士詒翰林院編修広東人」を筆頭にし、そのなかに「連文澂浙江銭塘監生」という名前が見えるのである。
 時間的、地理的に見ても、この連文澂は、連夢青に違いない。『大公報』の記者として情報収集をやりながら経済特科の試験を受けていたことになる。
 馮自由『革命逸史』第3集の「興中会時期之革命同志」に沈繧ニともに掲載されている連夢青である。

連夢青 江蘇 報界 繁華報 癸卯[1903]
繁華報は、上海の小報である。癸卯、革命言論が最も盛んだった時、該 報記者の連夢青も排満を鼓吹しすこぶる力があった*24。……

 革命の志士が清朝政府の試験に応募し合格しているとは、一見、不可解に思えるかもしれない。しかし、連夢青が母親思いであったらしいことを考慮すれば、なんら不思議な行動ではなかろう。親孝行のため、心すすまない試験を受けることなど、当時、いくらでもあったはずだ。
 新聞界に身をおきながら経済特科に合格したことが、連夢青を追い詰める原因のひとつとなる。もうひとつの原因は、沈緕膜盾ナある。


9.沈緕膜

 馮自由『革命逸史』が出たついでに、該文に見える沈繧フ項目をかかげておく。

沈縺@長沙 学者 自立軍 己亥[1899]
字は禹湘、湖南省の名士。庚子[1900]六月、唐才常が上海で維新の志 士を招き張園で国会を開いた。沈は幹事に推挙され、たちまち自立軍右 軍統領に任ぜられる。新堤で反乱を起こし、この年八月、漢口での事が 失敗したことを聞き、急いで兵を挙げこれに応じたが、支援を得られず 壊滅した。単身北京へ逃れ、新聞社を創設する。丁未(一九〇七)六月、 露清密約を暴露したため西太后の杖の下に刑死する*25。

 「新聞社を創設」したとか、「丁未(一九〇七)六月」に刑死したというのは、馮自由の誤りである。「新聞社を創設」というのは誤りにしても、沈繧ェ、新聞界に関係をもっていたという認識が当時あったことをうかがわせる。また、露清密約を暴露した、というのも常識になっていた例をここにも見ることができる。
 最近の辞典では、沈繧ノついてつぎのように記述している。

 沈縺i1872-1903) 原名は克ロ、字は愚渓。湖南善化(今の長沙)の人。幼いころより奔放にして始末におえず、世俗におもねるのをいさぎよしとしなかった。やや長ずるにおよび人と十二人社を組織し、ひとり舒閏祥とのみうまがあう。1898年(光緒二十四年)湖南での維新運動が盛り上がると、譚嗣同、唐才常と参加計画し、「湖南は一度破壊せねば成功したとはいえない」と考えた。戊戌政変後、日本に渡り時機を待つ。1900年春、上海へもどり、唐才常らとともに正気会を組織、自立会と改名し幹事となり通信に責を負い大きく力をつくす。のち自立軍を組織し、右軍統領となり新堤に駐留した。漢口挙兵が失敗したことを知り、上海、天津をへて北京に潜入、反清活動をすすめる。1903年清朝廷がロシアと調印した密約を探りあて、これを新聞に公にするや留日学生および国内人民の反対を引き起こした。7月、捕らえられ、棒打ちの刑で獄に死す*26。

 文中にいう「1903年清朝廷がロシアと調印した密約を探りあて」とは、露清密約を指している。
 自立軍の漢口挙兵失敗後、関係者の逮捕命令が清朝政府から出されているようだ。沈繧焉A当然、指名手配されていると考えていいだろう。
 加えて、1903年、上海で蘇報事件が発生した。中国教育会と愛国学社の機関報となっていた『蘇報』では、光緒二十九年(1903)五月初一日、章士を主筆に招き、章炳麟、蔡元培らを執筆者とした。章士は、紙上で鄒容著『革命軍』を推薦する文章を書き革命を鼓吹する。閏五月初六日、租界の蘇報館と愛国学社が包囲され章太炎らが逮捕された。鄒容も自ら入獄する。『蘇報』は封鎖される。世にいう蘇報事件である。
 日本では、当時の情況を報道して次のように書いている。

『大阪朝日新聞』1903.7.22(五月二十八日)
●清国近事 革命党の捕縛は近来の一問題なり。此は前紙にも記載せし如く蘇報館の陳範及び同志五六人の拘禁せられし者なるが蔡公使の密奏魏総督の電奏等もありて事は北京大学堂学生及び日本遊学生おも連座せしめん模様なきに非ず(電報参看)憂ふ可き也。

『大阪朝日新聞』1903.7.23(五月二十九日)
●清国近事 革命軍事件で拘禁せられし上海の過激党六人は陳中岐、龍積之、程吉甫、銭允生、鄒容、章炳麟なり▲蘇報館主の陳範は早く已に外国に旅行して縛に就かず陳中岐は其子にて身代に捕へられしものと見ゆ。龍積之は富有票匪の嫌疑あれど此事には関係なきに似たり。程吉甫は蘇報館の会計、銭允生は其知人なる由。鄒容は即ち革命軍の著者にして章炳麟は革命軍の叙文を作りし者二人共に其事を自白せり▲清国官吏は是非犯人を受取りたしと掛合ひ北京公使団にまで持出せしこと北京電の如くなるが上海の各外字新聞は斉しく皆居留地内の犯人は当然居留地内にて裁判すべきを痛論するに観れば一時は中々に大問題と為りたりし者の如し▲蘇報の主筆は呉稚暉と云ふ人なるが未だ捕縛せられず其他記者も物色され居るに似たり

 記事の中の「富有票」とは一種の会員証で、自立会のことをいう。沈繧邇ゥ立会関係者が、捕縛の対象とされていたことがここでもわかるのだ。「其他記者も物色され居るに似たり」という部分が注目される。清朝政府から目の敵にされていたのが新聞界であった。
 沈繧ェ逮捕されたのは閏五月二十五日(7.19)のことである。英斂之日記の記述を見てみよう。

閏五月二十五日 [天津]九時近く家内と教会に行きミサののち、ともに車 で日本領事館へ至り、高尾とその夫人に会う。……伊集院領事に会い、 長く話す。……高尾が言うには、昨日、北京政府は沈愚渓を逮捕し役所 にひきたてていった。

 昨日というのは、原文「昨」である。英斂之によると、沈繿゚捕は、閏五月二十四日ということになるが、このままにしておく。

閏五月二十七日 北京からの夏瑞芳が来ていうには、北京で6名の逮捕者が あったが誰か不明と。
閏五月二十八日 自転車で方葯雨のところに行くが不在。……その小豹夫人 に沈のことを話す。……四時、小豹夫人が来て、領事館に行き北京の様 子をさぐるという。
閏五月二十九日 昼、[方]葯雨がきてニュース1件を渡す。午後、自転車 で山根のところに行き、沈のことを筆談する。……牧巻次郎来て話す。
六月初一日 夏瑞芳らがくる。
六月初二日 [方]葯雨がくる。夏瑞芳がくる。
六月初四日 八時すぎ、連孟清がくる。方葯雨がくる。
六月初五日 日がかたむき、日本領事伊集院君および高尾がくる。

 盛んに情報を収集、交換している様子がうかがわれる。
 六月初八日、沈繧ェ処刑された。翌日の英斂之日記には、

六月初九日 夕方、日本領事館へおもむき高尾亨君に面会し、沈繧フ処刑が 確かかどうかをを聞く。告げていわく、たぶん確かに死亡したであろう と!

とある。沈繽刑の翌日には、その情報を英斂之はつかんでいた。六月初十日、天津『大公報』は、「以前、北京に拘禁されていた沈繧ヘ、初八日すでに処刑されていた」と報道する。 同日、『大阪朝日新聞』(8.2)欄外記事に、北京電報として「会徒嫌疑者の斬首」「陳仁は昨日菜市巷にて斬首せられたり」と見える(翌日、同文の記事があらためて掲載される)。中国、日本の同時報道である。
 さらに同日の英斂之日記には、「六月初十日 連夢清が来て新聞全部を借りて行く」と書いてある。その後、連夢青は、七月十四日まで英斂之の日記には登場しない。
 ひきつづき天津『大公報』は、沈繧フ死を報道する。貴重な資料であるので長くなるが翻訳引用する。

天津『大公報』六月十二日(8.4)「訳件」
 北清新報によると、先月19日[注:閏五月二十五日]明け方、北京三条胡同に住む沈緕=i日本大阪朝日新聞北京特派員の探訪員)は、慶寛指揮のもとの工巡局警察官三四十名に、屋敷を取り囲まれた。[彼らは]ただちに屋敷内に突入すると沈および同居の倪某など四名を捕縛し刑部の獄中に護送した。事の原因を調査すると、倪某(沈の友人)が賭博で負けた銀三百両を沈に借りようとしたが、沈が応じなかったため、倪はこれを恨み、親戚の呉式につげ、呉はそれを慶寛および李世鐸らに伝えたという。倪は証人のために留め置かれ釈放されなかった。言うところによると、沈は、前年の湖南事件富有票匪の大頭目である湖南人・沈克ロだという。反逆罪により張総督より捕縛を厳命されている。南方の各督撫および各国領事に照会すると、国事犯のため共同して厳しく捕らえようとしていたばかりか銀一万両の懸賞がかかっているという。同人は、捕縛後、日本の新聞に関係の主旨を陳述したため、李世鐸が、わが公使館に来て捕縛についての考えを表明したのである。さて、沈はもともと江蘇太湖洞庭の人である。湖南事件の時、沈は天津にいて報道に従事しており、湖南の沈とは同姓ではあるが、その実別人であるという。しかし、刑部はとうとう解放せず、牢獄に群盗と一緒にしておいた。毎日拷問されたのである。沈は邦人に親しいものが多く、みな救助に努めたため、刑部は万寿節を待って調査をすることにした。この事件は、慶寛氏が自己の功名を求めてこの行為に出たにすぎない。某親王はそのわがまま勝手を大いに怒っている。某タイムズの論ずるごとくであれば、その蛮行はロシアがタイムズ通信員を追放したものに勝る。つまりは、清国の要職者は、報館を蛇蝎のごとくにみなしているわけで、その実、まさに噴飯ものだ。児戯であるといわざるをえない。今日のこの挙動は、さらになにをかいわんやである。
また北京電報で伝えられたところによると、捕縛された湖南事件の反逆大頭目・沈緕≠ヘ、万寿節を待たずに7月31日[六月初八日]、死刑に処せられたという。清朝廷の真相はおしはかることができないが、ここに至っては驚きにたえない。……
また、中国維新党・沈繻Nの死についての詳細な情況が判明した。沈君は、棒打ちにより死亡。死に際に康[有為]党であることを隠さず認めたという。

 『北清時報』は、天津の日本語新聞。沈繧「日本大阪朝日新聞北京特派員の探訪員」とする最初の記事であろう。当時、『大阪朝日新聞』の通信員であったのは西村博だ。西村は、『天津日日新聞』の代表者でもあった*27。 『天津日日新聞』の主筆が、方葯雨である。沈繧ヘ、西村博、方葯雨、英斂之、連夢青など、天津・北京の新聞界における人的つながりの中にいたということができよう。
 また、大阪朝日新聞と特定しているところを見ると、根拠があるらしい。露清密約の暴露が、天津『大公報』よりも『大阪朝日新聞』の方が早い事実を指摘しておいたが、大阪朝日特派員の探訪員を沈繧ェつとめていたのなら、それも当然のことであった。
 章士は、沈繧売ったのが慶寛と呉式であると言明している*28。慶寛は、かつて御史に弾劾されたことがあり、復官のために康有為を捕縛しようとしたが果たさなかった。沈繧ェ北京に潜入したのを機会到来とばかりに、沈繧ェ金石学を好むのに乗じてこれを厚遇する。沈繧フほうも、慶寛を利用し李蓮英を探り、西太后の命を制しようとたくらんだのだ。呉式は、湖南生まれで、沈繧ニは友人であった。以前、呉式が文字を書き間違うのを沈繧ェ人の面前で嘲り、以来、それを恨み通して、この結果となったという。沈繧ニいう人は、「才能は大きいけれども粗く、性格は真っ直ぐだがせっかちで、口は立つが辛辣であった」。沈繧フ北京潜入は極秘ではあったが、すでに官憲の網は張られていたのである。
 上の報道によると、沈繧ヘ、最初、人違いだと主張したようだ。沈繧フ原名が克ロであることは、すでに触れている。この「ロ」という字と「誠」という字がよく似ていて、ふたつを混同する文献もある。ところが、沈繧ニは別人の沈克誠が『革命逸史』第3集(55頁)に見えるのだ。

沈克誠 広西 学生 自立軍 庚子
康有為の弟子である龍沢厚と庚子富有票の活動に参加し、事が失敗する と全国に指名手配された。

 龍沢厚は、蘇報事件で逮捕された龍積之のことである。天津『大公報』の記事に見える、「湖南の沈とは同姓ではあるが、その実別人である」という箇所は、一字違いでまぎらわしいこの沈克誠をいっているのであろう。
 同じく六月十二日、日本でも沈繧フ処刑が報道された。

『大阪朝日新聞』1903.8.4(六月十二日)
●清国近事 昨紙北京電に見えし会党の沈縺i陳仁は誤訳)は江蘇太湖洞庭山の人。戊戌康有為の事に牽渉して刑部の獄に投ぜられし者の由。彼は二三大員の回護する者ありけれど免されざるより遂に死を決して梁啓超と交あり富有票に通じて事を起さんとせりなど自白せしより死刑に処せられしとぞ。厳しき詮議なり。……

 簡潔な記事ではあるが、要点ははずしていない。
 新聞報道では、沈繧フ逮捕処刑は自立軍を理由としており、露清密約漏洩には触れていない。沈繧フ親戚である沈其震は、沈繧ェ逮捕された時、日頃親しい日本人が本国政府を通じて救済をすることを申し入れたが、沈繧ヘ、「外国人の関与するする問題ではない」といって断わった、と書いている*29。 親族間に伝えられたものだろう。沈繧ニ日本人との交際の一端を示した逸話だ。
 沈繧ミとりを逮捕しただけですむわけがない。仲間の摘発があるのが通常である。「[沈繿゚捕後]呉[式]は、天津の某某の二人が[沈]繧ニ同党であると指摘したが、天津駐在各国領事は、証拠がないため、理由なく人を陥れることになるというので、みな署名しようとはしなかった。それでついに逮捕はされなかった」*30と高良佐は書いている。 年代的に下った文章であり、また典拠もあげていないのが残念だが、当時の模様を伝えていると思われる。
 清朝政府に目をつけられていたのは新聞界に身をおく人物であった。天津という地名がでてくるとなると、該当するのは連夢青くらいしかいないのではないか。各国領事の非協力で逮捕をまぬかれた、というくだりは、劉大紳の説明する「連は友人の家に三日間隠れ、大使館の助けをようやく得て、単身あわただしく逃走し上海に到着した」という部分と符合する。
 連夢青が上海に逃走する大きな原因が沈緕膜盾ナあったのは間違いない。しかし、それだけではなかった。もうひとつ原因があったことを指摘しておきたい。


10.連夢青が上海へ逃走したもうひとつの理由

 連夢青は、経済特科に合格したことをのべた。これが問題になる。
 沈繽刑を報じた『大阪朝日新聞』に、次のような記事が載っている。

『大阪朝日新聞』1903.8.4(六月十二日)
▲経済特科中第一甲に梁士詒なる人あり。太后は軍機大臣に向つて此人は広東人に非ず梁啓超が一族の者に非ずやとの御諮問ありしとの事にて其れより同考試中の人は会党又は報館に関係の有無を取調べ授官するの方針となりたるなりとぞ。

 梁士詒は、たしかに梁啓超と同姓であり、また同じ広東出身だが、梁啓超とは直接の関係はない。沈緕膜盾フ直前には、蘇報事件が発生していることを考慮すれば、政府要人が神経質になるのも無理はないだろう。そこで合格者のなかに会党(反政府の秘密結社)および新聞社に関係するものがいないかどうかを調査することになった。日本でも報道されるくらいだから、中国国内ではさらに切迫して情報が流れたに違いない。会党の大頭目である沈繧フ友人であり、同時に『大公報』の記者であったのが連夢青だ。ふたつながらの条件を満たしている連夢青が、官憲から追及されなかったと考える方がおかしい。
 沈繽刑の二日後、英斂之日記に「六月初十日 連夢清が来て新聞全部を借りて行く」と書いてあるのはすでに見た。連夢青は、新聞報道を点検して事件の動きを探ろうとしたのではないか。
 六月初十日、天津で新聞全部を借りて行った連夢青は、七月十四日、上海に出現する。英斂之日記:「七月十四日 五時、連孟清の寓居による。楼にのぞんで、すこぶる優雅である。長時間して辞去する」がそれだ。英斂之が上海に到着したのは六月十九日のことだから、それから数えても約一ヵ月近くが経過している。連夢青がいつ上海に着いたのか、記載がなく、不明である。


11.劉大紳証言を点検する

 以上、連夢青が上海に逃走するまでをたどってきた。
 劉大紳証言の要点となる部分を、事実に照して点検する。
 京官に沈縺A連夢青がいて、ともに『天津日日新聞』の方葯雨の友人であった。→ほぼ正しい。沈縺A連夢青ともに方葯雨の友人である。さらに、沈繧ニ連夢青も友人であるし、また、英斂之とも関係がある。沈縺A連夢青ともに劉鉄雲の親しい朋友でもあることはいうまでもない。ただし、「京官[原文:京曹]」というのは、劉大紳の誤記であろう。この部分が誤記だからといって、劉大紳の証言全体に疑問をいだくようなことがあってはならない。付言しておく。
 沈繧ェ方葯雨に露清密約をもらし、方はこれを報道した。→正しい。沈繧ヘ、大阪朝日新聞北京特派員の探訪員であった。『大阪朝日新聞』に記事が掲載されている。天津『大公報』、『申報』にも報道記事がある。ただ、『天津日日新聞』は所蔵がなく、確認はできない。
 沈繧ヘ、逮捕のうえ処刑された。→正しい。沈緕膜盾ナある。
 連夢青は、沈緕膜盾ノ連座した。→正しい。沈緕膜盾ノ加えて、連夢青の経済特科合格も上海逃走の原因だ。
 劉大紳証言は、枝葉の部分で誤りはあるにしても、根幹は実に正確である。
 では、連夢青の「鄰女語」執筆に問題を移そう。蔡鉄鷹論文の眼目のひとつは、憂患余生という筆名で書かれた「鄰女語」の『繍像小説』掲載時期が、連夢青の上海到着以前であったというものだ。
 連夢青が上海に到着するのは六月十九日以前ではありえない。しかるに、「鄰女語」を掲載した『繍像小説』第6期の発行は、六月十五日である。おなじく憂患余生述「商界第一偉人」も該誌同期より連載がはじまる。ゆえに「鄰女語」、「商界第一偉人」ともに連夢青の作品ではない、という結論になる。
 蔡鉄鷹論文は、この日時の食い違いを唯一の根拠としている。いってみれば、「鄰女語」が連夢青の作品ではないことを前提にしたため、劉大紳証言を否定せざるを得なくなったわけだ。


12.『繍像小説』の刊行時期――結論

 12−1 問題の所在
 結局、問題を解決する鍵は、『繍像小説』の刊行時期に存在していることがわかる。
 連夢青が上海にもどった時期に、はたして『繍像小説』第6期は発行されたのかどうかである。
『繍像小説』半月刊は、光緒二十九年五月初一日に創刊された。順調に月2回の発行が守られたとすると、全72期の発行は、光緒三十二年三月には終了したことになる。多くの文章がこの通説にしたがってきた。
 しかし、該誌は第13期より発行年月を明記しなくなっている事実がある。光緒三十二年三月発行完了とするのは、俗説にすぎなかったのだ。
 張純は、掲載された作品の内容から、『繍像小説』の刊行が通説よりも遅延していたのではないかと主張した*31。 私は、『同文滬報』、「消閑録」、『東方雑誌』、天津『大公報』の記事、広告を資料に使い、発行遅延説に賛成した。通説よりも約十ヵ月遅い光緒三十二年の年末に終刊したというのが、私の到達した結論である*32。
 再度、資料にもとづき『繍像小説』の刊行時期について考えてみる。

 12−2 資料は、天津『大公報』
使用するのは、天津『大公報』だ。日時を確定する作業だから、日刊紙であることが、基礎資料としての信頼性を保証している。
 ついでにいえば、商務印書館お膝元の雑誌『東方雑誌』も資料に利用できる。ただし、毎月二十五日発行の月刊誌であることが、やや、難点といえる。確実に発行日が守られたかどうかを、また、別の資料で検討する必要が生じないとも限図■1らないからだ。さらに、主要問題となる『繍像小説』第6期は、『東方雑誌』創刊(光緒三十年正月二十五日)以前の発行であるから、『東方雑誌』に『繍像小説』創刊当時の模様を探ろうにも関連記事が出てこない。ここでは資料からはずすことにする。
 天津『大公報』の場合、上海から天津までの輸送日時を考慮しなければならないということがあるにしても、上海・天津間は船でせいぜい4日前後である。誤差の範囲内であろう。天津『大公報』に的をしぼって観察をすることは、『繍像小説』関連の記事が比較的多く掲載されている点で、十分利用する価値があるものと考えられる。

 12−3 天津『大公報』

  図■2    図■3    図■4    図■5    図■6 

 天津『大公報』に『繍像小説』の名前が掲載されるのは、光緒二十九年五月廿七日のことだ。題字のかたわらに一行、「繍像小説第1号新着 毎月二冊 本館が代理販売」(図・1)と見える。大公報がうつ雑誌広告というになろうか。一行広告というのが基本型である。
 五月廿七日といえば、『繍像小説』創刊の五月初一日より遅れること二十六日だ。しかし、これをもって『繍像小説』の創刊が遅れていたということはできない。なぜなら、上海の『同文滬報』五月初七日に『繍像小説』創刊号の紹介記事が掲載されているからだ*33。 創刊は、ほぼ、日付通りの五月初一日であったと考えられる。
 「上海商務印書館繍像小説第1、2、3期すでに出版。目次は以下の通り。文明小史南亭著第3回。活地獄南亭著第3回。……大公報館が代理販売」(図・2) 図■7という出版広告は、六月初三日よりとびとびに十二日まで掲載される。
 六月廿三日からは一行広告にもどり、「繍像小説第1、2、3、4期新着 本館が代理販売」(図・3)と見える。前回より約一ヵ月遅れだ。
 さらに、約一ヵ月の間を置いた七月廿六日、「繍像小説第5期新着 本館が代理販売」(図・4)とある。これより雑誌1期ごとの広告となる。
 第6期広告から数えてこれも約一ヵ月後(八月廿七日)の一行広告は、「繍像小説第6期新着 本館が代理販売」(図・5)というもので文面に変化はない。
 ついでに『繍像小説』第7期の広告(図・6)は、九月初六日となっている。
別に掲げたのは、『繍像小説』が半月刊を守った場合の発行年月と、実際に『大公報』に報道された『繍像小説』第24期までの一行広告および「天津商務印書分館」広告の掲載日を一覧にしたものだ(図・7「『繍像小説』の広告一覧」)。
 本来あるべき『繍像小説』の刊行月日から、それぞれの遅れ具合を見てみよう。4期までは約一ヵ月、5-8期は約二ヵ月、 9,10期は約三ヵ月、11-14期で約四ヵ月、 15期からは、なんと約五ヵ月から八ヵ月までの遅延を記録している。光緒三十二年六月十六日に掲載された 「天津商務印書分館」 広告には、「繍像小説は、……現在まで57期を出版している」と明記され、数えてみれば予定より約一年近く遅れていることになる。

 12−4 『繍像小説』第6期
 問題の『繍像小説』第6期は、目次の記述通りとすると「光緒二十九年六月十五日」の発行である。『大公報』の一行広告は、同年八月廿七日だ。約二ヵ月半のズレがあることに注目されたい。誤差を考えても、実際の発行は、発行日付より約二ヵ月遅れている可能性がある。発行の遅延が、『繍像小説』第14期以降に発行日月を記載しなくなった理由のひとつだろう。
 約二ヵ月遅れの発行ならば、八月中旬となる。英斂之日記という確かな証拠によれば、連夢青は、七月十四日に上海にいる。大幅にゆずって七月十四日を基準としたとしても、八月中旬まで一ヵ月もあるではないか。連夢青が「鄰女語」、「商界第一偉人」を書く時間は、充分にあった。
 「鄰女語」「商界第一偉人」は、連夢青の作品にほかならず、憂患余生は連夢青の筆名である。劉鉄雲は、連夢青を経済的に援助するために「老残遊記」を書いた、とする劉大紳の証言に疑問をさしはさむ余地はない。これが、私の結論である。

【付記】本稿執筆にあたり、阿部聡氏制作の「劉鉄雲日記人名索引」(未発表)を参照させていただきました。また、『大公報』影印本は京大人文研の、『申報』影印本は同志社大学の所蔵です。記してお礼を申し上げます。

【注】
1)樽本照雄「劉鉄雲と『龍川先生詩鈔』」『清末小説研究会通信』第39号1985.8.1。樽本照雄『清末小説きまぐれ通信』清末小説研究会1986.8.1所収。
2)序に「大清皇帝光緒三十四年四月清和節lァ林゚序於春覚斎」とある。『賊史』は、魏易と共訳。上海・商務印書館1908.7.1/1915.10.19再版。説部叢書第2集第15編。原作は、ディケンズ著「オリバー・ツイスト」。
3)樽本照雄「贋作の本棚」『清末小説から』第4号1987.1.1。樽本照雄『清末小説論集』大阪経済大学研究叢書第20冊 法律文化社1992.2.20所収。
4)1923年の19次重印本を見る限り、劉大紳の提出した条件は、基本的には守られているといえる。しかし、1937年5月の29版本には、「洪都劉鉄雲、別号百錬生」と印刷されており、その約束は、反故となったものらしい。魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4。99頁。劉徳隆「《老残遊記》版本概説」『清末小説』第15号 1992.12.1。なお、29版本について言及している『老残遊記資料』および劉徳隆論文では、洪(鴻)都、百錬(練)生と字句に違いがある。29版本を私は見ていないので、違いがあるとだけ書いておく。
5)樽本照雄「胡適は『老残遊記』をどう読んだか」 『大阪経大論集』第120号1977.11.15。樽本照雄『清末小説閑談』大阪経済大学研究叢書XI 法律文化社1983.9.20所収。 中国語に翻訳された。陳広宏訳「胡適如何認識《老残遊記》」『中国近代文学研究』(1)南昌・百花洲文芸出版社1991.10。
6)執筆日付1922.3.3。『最近之五十年』上海・申報館1923.2初版未見。私がよったのは、該書第2編「近五十年来之中国」を『晩清五十年来之中国』と改題影印した香港・龍門書店(1968.9)本である。
7)劉大鈞「老残遊記作者劉鉄雲先生的軼事」『論語』第25期1933.9.16。24頁。
8)顧頡剛「老残遊記之作者(読書雑記)」『小説月報』第15巻第3号1924.3.10
9)魯迅『中国小説史略』(下)新潮社1924.6初版未見/訂正本1931.7
10)『老残遊記』上海・亜東図書館1925.12初版未見/1934.10十版
11)劉大紳「関於老残遊記」。今、『老残遊記資料』による。56頁。
12)『論語』第25期1933.9.16
13)『人間世』第4期1934.5.20
14)『老残遊記二集』上海良友図書印刷公司1935.3.1
15)劉大紳「関於老残遊記」『文苑』第1輯1939.4.15。署名は「紳」。 『宇宙風乙刊』第20-24期1940.1-5に再掲。 また、魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4(采華書林影印あり)、劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』成都・四川人版社1985.7などに収録される。ただし、初出、『宇宙風乙刊』、『老残遊記資料』に見える劉大紳の原注は、『劉鶚及老残遊記資料』に収録されていない。
16)樽本照雄「『老残遊記』の『虎』問題」『清末小説から』第27号1992.10.1
17)樽本照雄「『老残遊記』のモデル問題――姑の場合」『野草』第33号1984.2.10。各者各論をまとめて紹介したので参照してほしい。樽本照雄『清末小説論集』所収。
18)蔡鉄鷹「《源委》的真与偽:《老残遊記》成書“資助説”質疑――兼論《鄰女語》作者当為劉鶚」『淮陰師専学報』哲社版 1991年第3期(総第49期)
19)張純「連夢青与天津《大公報》」『清末小説から』第18号1990.7.1を参照のこと。
20)英斂之の略伝は、主としてつぎの文献によった。
方豪「英斂之先生年譜及其思想」近代中国史料叢刊続編第三集(23)『英斂 之先生日記遺稿』台湾・文海出版社 刊年不記
方豪神父「英華」『中国天主教史人物伝』香港公教真理学会1973.12。 305- 310頁。
何炳然「大公報」『辛亥革命時期期刊介紹』第5集 人民出版社1987.11。1- 41頁。
何炳然「清末幾家有影響的民間報刊之創刊与特色」『新聞研究資料』総第46 輯 1989.6
何炳然「英斂之」『中国大百科全書・新聞出版』北京・中国大百科全書出版 社1990.12。453頁。
21)近代中国史料叢刊続編第三集(23)『英斂之先生日記遺稿』台湾・文海出版社 刊年不記
22)英斂之が『大公報』を創刊するまでのいきさつについては、方豪「英斂之先生創辧大公報的経過」上下『伝記文学』第3巻第2、3期 1963.8.1、9.1が詳しい。また、何炳然「《大公報》的創辧人英斂之」『新聞研究資料』総第37、38輯 1987.3、6、さらに、王芸生、曹谷冰「英斂之時代的旧大公報」『文史資料選輯』第9輯1960.11/1981.1第三次印刷(日本影印)もある。
23)劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』成都・四川人民出版社1985.7。143-209頁。
24)馮自由『革命逸史』第3集 上海・商務印書館1945.9重慶初版/1945.12上海初版。93頁。
25)馮自由『革命逸史』第3集 上海・商務印書館1945.9重慶初版/1945.12上海初版。46頁。
26)章開Q主編『辛亥革命辞典』武漢出版社1991.8。223頁。
【沈繩ヨ係参考文献】
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黄中黄「沈縺v 中国近代史資料叢刊『辛亥革命』1 上海人民出版社1957。 284-307頁。/杜元載主編『革命人物志』第12集 台湾・中央文物供応社 1973.12。121-148頁。
「論沈緕S死事」 中国近代史資料叢刊『辛亥革命』1 上海人民出版社19 57。308-311頁。/杜元載主編『革命人物志』第12集 台湾・中央文物供 応社1973.12。149-153頁。
小野川秀美『清末政治思想研究』みすず書房1969.1.10
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沈其震「先叔祖沈緕沫ェ」『朔方』1984年9、10月号(総135、136号)1984. 9.5、10.5(京大人文研所蔵)
杜邁之、劉泱泱、李竜如輯『自立会史料集』長沙・岳麓書社1983.1
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李盛平『中国近現代人名大辞典』北京・中国国際広播出版社1989.4。331頁。
鉄屑編、虱穹叙「中国大運動家沈縺v未見
27)樽本照雄「劉鉄雲とその友人たち」『野草』第17号1975.6.1。樽本照雄『清末小説閑談』所収。『北清新報』については、中下正治「中国における日本人経営の雑誌・新聞史 その1――明治期創刊のもの」『アジア経済資料月報』1977年7月号(1977.7.20。5頁)を参照。
28)黄中黄(章士)「沈縺v支那第一蕩虜社発行。22-23頁。
29)沈其震「先叔祖沈緕沫ェ」『朔方』1984年10月号(総136号)1984.10.5。66頁。
30)高良佐「記清末両大文字獄」『建国月刊』第10巻第2期 1934.2
31)張純『晩清小説研究通信』1985.4.17。 「関於《繍像小説》半月刊的終刊時間」『徐州師範学院学報』1986年第2期1986.6.15
32)樽本照雄「『繍像小説』の刊行時期」『中国文芸研究会会報』第55号1985.9.30。樽本照雄『清末小説論集』所収。
33)樽本照雄「『同文滬報』の『繍像小説』評」『清末小説研究会通信』第30号1983.7.1。樽本照雄『清末小説きまぐれ通信』所収。

(たるもと てるお)