清末小説 第15号 1992.12.1


鍵 と し て の 高 翰 卿 「 本 館 創 業 史 」


沢 本 郁 馬


 高翰卿「本館創業史」を読む。こういう文章があるらしいとはおぼろげながら知っていた。しかし、全文を見る機会はなかったのだ。
 該文は、商務印書館創業時の当事者が証言する貴重な資料であるとわかった。だが、なぜ、今ごろこの文章が出てくるのだろうか、というのが読後の正直な感想である。


1.最近の記念出版

 「文革」後、商務印書館が自らの記録をまとめて出版したものは、私の知る限り以下のものがある(商務印書館総編室編印『商務印書館館史資料』という雑誌があるが、これは内部発行の刊行物であるのでここには含めない)。

85周年?『商務印書館図書目録(1897-1949)』北京・商務印書館1981
90周年 『商務印書館九十年』北京・商務印書館1987.1
  『商務印書館大事記』  同上
95周年 『商務印書館九十五年』北京・商務印書館1992.1

 『商務印書館図書目録(1897-1949)』には、 創業85周年記念などと書かれているわけではない。ただ、発行年が85周年に近いのでそれにちなんだものかと想像する。
 『商務印書館九十年』には、77本の文章と付録1本を収録して、639頁もある。

左:張元済          右:高翰卿
■荘兪、賀聖m編『最近三十五年之中国教育』上海・商務印書館1931.9

『商務印書館大事記』は、見開き2頁に1年を割り当て、左に出来事の記録、右に関連資料をかかげる。
 『商務印書館九十五年』は、82本の文章と付録4本を集めたこれも大著だ(775頁)。高翰卿「本館創業史」は、この『商務印書館九十五年』巻頭を飾る。今回が初公開といっていい。初期商務印書館について創業者のひとりが証言した珍しい資料である。


2.高翰卿について

 「本館創業史」の内容を検討する前に、著者である高翰卿について簡単に触れておく。
 高鳳池 (1864-1950)、字は翰卿、江蘇上海県の人。アメリカ北長老会が上海で創立した清心堂学校に学ぶ。その頃の同級生が、夏瑞芳および鮑咸恩、咸昌兄弟である。高翰卿は、美華書館に勤務し、夏瑞芳、鮑兄弟が商務印書館を設立する際、半株250元を出資した。鮑咸昌の出資1株500元のうち半分は、高翰卿が貸したという。商務印書館の業務がほぼ安定したのち、高翰卿は、美華書館をやめる。「1909年、理事局(原文:董事局)会議に出席」という記録がある。高翰卿が商務印書館に入ったのは、少なくとも1909年以前ということになる。1914年1月10日、夏瑞芳が暗殺されたあと、印錫璋が総経理に任じられ、その印が病没するやその後を継ぐ(1915年12月-1920年5月)。マニング・イプ氏によれば、高翰卿は、有名無実の総経理であり、彼自身は、保守的で慎重すぎる典型的な旧式商人であったという。


3.高翰卿「本館創業史」の内容

 該文には、「発行所学生訓練班での講演」という副題がついている。講演をもとにして原稿に起こしたものと思われる(冰厳筆記とある)。また、部分的に張蟾芬の説明が加えられているのも注目される。
 本文では、商務印書館創業のいきさつ、最初の資本額、創業当時の様子、北京路への移転、発展の端緒、編訳所の設立、印刷工場と発行所の建設、外資の利用、事業の隆盛、復興時代、個人の感想、創業者の長所についてそれぞれ述べられる。初期商務印書館を知るためには、またとない内容だ。いうまでもないことだが、初期商務印書館とは、1897年創業から1903年の日本・金港堂との合弁を経て、1914年その合弁を解消するまでの実質16年間、あしかけ17年をいう。
 私がこれから見ようとしているのは、初期商務印書館の、特に日本との関係についてである。主題に移るまでの必要な手続きとして、高翰卿の文章が信頼できる資料なのかどうか一例をあげて検証しておく。創業時に出資した人物とその金額の明細である。

3−1 最初の資本額
 高翰卿は、創業当時の株の所有情況について、二度証言している。下に示した左側の1934年講演の人名と数字が「本館創業史」に見られるもの。

1934年講演   1917年発言
沈伯芬 両股計洋1000元  1000 沈伯曽
鮑咸恩 一股計洋 500元   500
夏瑞芳 一股計洋 500元   500
鮑咸昌 一股計洋 500元   500
徐桂生 一股計洋 500元   ×
高翰卿 半股計洋 250元   250
張蟾芬 半股計洋 250元   500 張桂華←西洋人某より譲渡される
郁厚坤 半股計洋 250元   500

 合計3,750元となる。
 出資者と出資金について汪家熔氏が疑問を提出している。1980年、汪家熔氏らが張元済日記を整理している過程で、創業時の投資者について高翰卿が発言したことを張元済が記録しているのを発見した。『張元済日記』上冊(北京・商務印書館1981.9)1917年4月19日の項目(212頁)に、高翰卿の言葉を見ることができる。それを表にしたのが上の右側1917年発言である。 金額は同じく3,750元だが人物に出入りがある。1917年における高翰卿の発言のほうが正しい、『張元済日記』を信じるほかない、と汪家熔氏はいう。
 ことは、それほど簡単ではない。創業時に出資したひとりである張蟾芬の証言がある。「私(注:張蟾芬)は、半株二百五十元を担当しただけだ。数のうえでは少ないものだったが、工面するのには困難を感じたものだ」。高翰卿の1917年発言では、張蟾芬(桂華)の金額が500となっていて、 本人の証言とくいちがってしまう。さらに、張蟾芬自身が高翰卿「本館創業史」に注をつけているのだから、金額に間違いようがない。以上の理由から、いくら1917年の方が以前の発言だからといって、必ずしも正確であるとは限らないと考える。記憶違いが後に訂正されることもあるだろう。汪家熔氏の疑義に、私は賛成することはできない。
 というわけで、「本館創業史」は、資料としての信頼度は高い、というのが私の考えである。

3−2 商務印書館と日本の関係
 高翰卿がのべる商務印書館と日本人の関係部分を抜きだす。

 (前略)ちょうど日本人の開設した印書館、名前を修文書館というものが、営業がうまくゆかず維持するのが困難となり、設備、器具のすべてを売り出しけりをつけることに決めた。そこで印錫璋氏の紹介で商務が購入することになったが、価格は格安であった。大小の印刷機、活字の母型、活字バイト、材料などなど揃わないものはない。それにより大いに拡充するや、みちがえるばかりの規模の印刷所となり、自家用のほかは随時小売りをして少なからず利益を上げた。商務の基礎はここより固まりはじめたのである。これが商務と日本人の最初の関係だ。

 文中に見える修文書館とは、築地活版所が中国に設置したものだ。築地活版所出張所修文書館というらしい。矢作勝美氏は、「修文書館は印刷設備をそなえ、中国の印刷物の受注をはかるとともに、築地活版所で製造した活字その他の資材を販売した」と説明しており、高翰卿の上記引用文は、これと当てはまることに気がつくだろう。もうひとつの注目点は、紹介の労をとったのが印錫璋であるという箇所だ。印錫璋は、後に張元済と同時に商務印書館に投資をする人物である。そればかりか、金港堂との合弁にも関係する重要な人物だ。
 さて、いよいよ商務印書館と金港堂の合弁となる。高翰卿の証言を引用する。

 日本人との関係を再度のべることにしよう。清光緒二十九年(注:1903)、まさに会社の規模がほぼ整った時、日本・金港堂が中国にやってきて印刷所を開設するということを聞いた――金港堂は、日本の巨大印刷会社であり、資本もすこぶる豊富ということだった。当時、金港堂は、上海・三井洋行支配人の山本君に調査、計画を依頼しており、山本の夫人は金港堂主の娘で、ゆえに金港堂の株主でもあり、金港堂に対しては力を持っていたし、なおかつ極めて信頼もされていたのだ。山本は夏瑞芳、印錫璋両氏と親しく、相談ののち山本は本館と合弁する考えを持った。当時、本館は中国の印刷技術は非常に遅れていることにかんがみ、本館は規模がほぼ整ったとはいえ、印刷工具能力のすべては、ただ凸版があるだけでその差ははなはだしく、日本人を相手に競争することはとてもできるものではなかった。軽重をはかれば、ただ、合作の方法をしばらく利用するしかなく、ゆっくりと自身の発展を求めれば、独立もできよう。ついに山本の紹介により議決し、日本側が10万を出資する、本館側はもともとある設備器具、資産のほかに現金を集め、あわせて10万とした。これが商務と日本人の第2期の関係である。日本の技師を招聘し印刷業務を援助してもらった。ただし、締結した条件は、決して事々に平等であるというものではなく、我が方には二つの主要な条件があった。一は、支配人および理事はすべて中国人であり、日本人は一人を監察人に推挙するだけだ。二は、招聘した日本人は、随時、辞めさせることができる、というものである。(張蟾芬氏が補充していわく、当時、理事に当選したのは、当然ながらすべて中国人であり、ただ監察人二人のうちひとりが日本人であった。合弁後、最初に推挙された監察人は、日本人が田辺輝浪であり、我が国は張蟾芬である。)

 商務印書館と金港堂の合弁を、当事者が冷静にありのままにのべているように思われる。
 商務印書館と金港堂の合弁をとりもったのが、山本(条太郎)であり、商務印書館側では夏瑞芳と印錫璋の名前が出ているのが注目される。山本と金港堂主には姻戚関係があるというところまで言及されているのも重要だ。
 初期商務印書館について記述する文章を検討する時、私は、以下の諸点に言及があるかどうかを検査項目としている。称して「初期商務のリトマス試験紙」という。すなわち、

a.金港堂 1.合弁の事実に言及しているか
2.金港堂の名前を出しているか
b.教科書事件 3.この事実を明らかにしているか
c.原亮三郎 4.名前を出しているか
5.金港堂主としているか
d.山本条太郎 6.名前を出しているか
7.合弁の仲介者としているか
8.原と姻戚関係にあることをいっているか
e.長尾槙太郎(雨山) 9.名前を出しているか
f.加藤駒二 10.名前を出しているか
g.小谷重 11.名前を出しているか
h.印錫璋 12.名前を出しているか
13.修文書館買収の仲介者としているか
14.山本と親しく合弁の仲介者としているか
i.修文書館 15.名前を出しているか

以上、固有名詞8項目、細目15個である。
 高翰卿の証言をこの検査項目で検討してみよう。
 aの金港堂は、当然ながらある(2点)。bの教科書事件は、ない(0点)。cの原亮三郎は、名前はでておらず、「金港堂主」と出ていることで1点。dの山本条太郎は、姓の山本だけではあるが一応及第とし、合弁の紹介者、原との姻戚関係にも触れており3点。e,f,gの各人には言及がない(各0点)。hの印錫璋については、12-14の3点を獲得する。iの修文書館は、正しく名前が記されているのでマル。8の姻戚関係に関して、ほかの資料で指摘したものをあまり見ない。これをも明らかにしているのは、前述のとおり珍しい。ということで15点満点の合計10点である。 言及率は、66.66となり、これは高得点といっていい。さすがは当事者の証言だけのことはある。また、このことは同時に、当事者であってもすべてを話しているわけではない、という当然のことをも明らかにしている。
 これほど重要な高翰卿「本館創業史」である。ところが該文は、最初にのべたように、1992年が初公開なのだ。どういうことなのか。


4.高翰卿「本館創業史」の発表をめぐって

 高翰卿「本館創業史」は、汪家熔氏によると1934年3月30日に話されたという。今(1992年)から約60年前である。この講演の抄録は、『同舟』『同行月刊』に掲載されただけで広く一般に知られることはなかった。両誌とも上海・商務印書館の刊行物であるらしい。前者は、1932-35年の発行、後者も1933-37年の出版となっている。高翰卿の文章が、両誌に分載されたのかどうか詳しいことは不明である。どのみち日本での所蔵を聞かない。
 該文の存在が明らかにされたのは、講演から約50年後の1981年のことだった。朱蔚伯は、「商務印書館の発起人のひとり高翰卿が彼の講演『創業史』で話したことによると」と書いているところからそれがわかる。
 鄭逸梅の『書報話旧』(上海・学林出版社1983.8)にも高翰卿の講演の一部が利用されていると汪家熔氏は指摘する。 該当するのは、「夏瑞芳、鮑咸恩創辧“商務”略記」(3-6頁)である。ながらく商務印書館につとめていた知人から、鄭逸梅は商務印書館創業に関する資料を見せてもらったようだ。高翰卿「本館創業史」に拠ったとは書いていないが、内容は、たしかにこれである。ただし、鄭逸梅は、商務印書館と金港堂の合弁については興味がなかったらしく、ひとことも触れていない。
 資料を博捜したマニング・イプ氏の1985年の著作に高翰卿「本館創業史」は見えない。1984年前後には、利用できる情況にはなかったのだろう。
 汪家熔氏が、高翰卿の「本館創業史」を利用して書いた文章を発表したのは1984年のことだ。「二つの主要な条件があった。一は、支配人および理事はすべて中国人であり、日本人は一人を監察人に推挙するだけだ。二は、招聘した日本人は、随時、辞めさせることができる、というものである」という部分を引用し、「高鳳池の1934年の講話による」と書いている。
 汪家熔氏は、この頃、高翰卿「本館創業史」の全文もしくはその一部を知ったのではないかと想像する。(あるいは、はやくから知ってはいたが、引用できる周囲の情況の変化があった、とも考えられないことはないが、その可能性は低いだろう。)
 汪家熔『大変動時代的建設者』(成都・四川人民出版社1985.4<後記は1984.6.30>)の「引用書目」には、 「高鳳池等:《本館創業史》《同舟》2巻10期」(291頁)をかかげる。発行年は不記。『同行月刊』は、あげられていない。
 1987年発行の『商務印書館大事記』には、「高鳳池《本館創業史》」より引用される。「当時、本館は中国の印刷技術は非常に遅れていることにかんがみ」から「二は、招聘した日本人は、随時、辞めさせることができる、というものである」までだ。ただし、どういうわけか原文には字句の異同が多い。金港堂の名前でてくる部分の後から引用がはじまる。つまり、引用文には、金港堂の名前は出てこない。さらに、原文にはある「ついに山本の紹介により議決し」、「これが商務と日本人の第2期の関係である」、「ただし、締結した条件は、決して事々に平等であるというものではなく」という部分が、引用文では削除されている。
 汪家熔氏は、1984年頃、高翰卿「本館創業史」全文を再発見したということができるかもしれない。今回の全文公開まで8年間が経過したとはいえ、重要な資料の発表により初期商務印書館の不明部分がかなりはっきりした、となれば意味があるだろう。
 つぎに、高翰卿「本館創業史」を初期商務印書館研究の流れのなかに置いてみよう。いかなる位置を占めるのか。


5.研究における位置

 初期商務印書館に関する先行文献には、実藤恵秀、中村忠行両氏ほかのものがある。日本の金港堂側から探究する稲岡勝氏からの教示があった。それらの業績に導かれて樽本照雄「金港堂・商務印書館・繍像小説」(『清末小説研究』第3号1979.12.1)、沢本郁馬「商務印書館と夏瑞芳」(『清末小説研究』第4号1980.12.1)、樽本照雄「商務印書館と山本条太郎」(『大阪経大論集』第147号1982.5.15)などが発表された。
 金港堂と商務印書館の合弁についてしぼりこむと、その構図は以下のようになるだろう。

『清末小説研究会通信』第24号1983.1.1/金港堂・商務印書館合併の構図
金港堂と商務印書館の合併について、以下のような構図が浮かんでくる。1900年ころ、金港堂は中国での教科書製作販売の意図を持ち準備を行なっていた。金港堂店主・原亮三郎の三女をめとった三井物産の山本条太郎が、1901年上海支店長として上海に赴任し紡績事業にかかわる。1897年、上海に創業した商務印書館は、1901年紡績工場主・印錫璋を株主に迎えた。印は業績不振に陥っていた商務印書館の経営たて直しを懇意の山本に依頼する。山本は岳父である金港堂の原に出資を頼む。もともと中国進出を計画していた金港堂は、渡りに船とばかりにそれに乗る。折あしく1902年12月教科書疑獄事件が発生し、それが一段落した1903年10月、原は小谷重、加藤駒二を伴い(長尾雨山も同行か)上海、北京の旅に出た。準備をすすめていた商務印書館との合併案に最終決定を下すためのものであることは明らかだ。同年、両書店の合併が成る。

 以上は、いくつかの事実を探究して得られた結論であった。ある特定の考えがあらかじめ存在しており、それにそって資料を選択し作り上げた、という種類のものではない。その逆である。点在する資料をできる限り拾いあげ、たぶんこうであったであろう、と納得のいくように並べ替えて事実を再構成してある。
 1983年時点で、修文書館買収を紹介したのが印錫璋だったとは知らなかった。ゆえに言及していない。その事実を私が知ったのは、1984年である。『文化史料(叢刊)』第2輯(1981.11)に掲載されている朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」を読んでからだ。
 上の「構図」に前出「初期商務のリトマス試験紙」を試してみよう。15点満点中13点、言及率は86.66である。
 高翰卿「本館創業史」が公開されたことにより、1983年以前に日本で行なわれてきた作業が、ほぼ正しいことが証明された。汪家熔氏が、「本館創業史」を再発見する1984年より前のことであることを強調しておきたい。
 商務印書館と金港堂の合弁に関しては、基本的な構造がすでに明らかにされており、それの追認の役割を果たすのが、高翰卿の「本館創業史」である。


6.高翰卿「本館創業史」の意味

 もう少しはやく読むことができたなら、いらぬ苦労をしなくてもすんだのに、という鍵となる文献、資料がある。高翰卿「本館創業史」が、初期商務印書館の成立過程を、特に日本・金港堂との合弁のいきさつを解明する鍵資料であることを誰も否定できない。重要な鍵のひとつであることは、明らかだ。 1979-82年当時、高翰卿の文章が公開されていたならば、私はその恩恵に浴していただろう。
 しかし、本年(1992)より数えて10年前、錠は、まがりなりにもあけてしまっている。いまさら、ほれ、鍵だ!と示されても、出てくるのが遅すぎる、としかいいようがないのだ。



【注】
1)高翰卿の略歴については、以下の資料によった。
章錫s「漫談商務印書館」『文史資料選輯』43輯 1964.3/1980.12第二次印 刷(日本影印)
羅品潔遺作「回憶商務印書館」『商務印書館館史資料』之三 商務印書館総 編室編印1980.11.25
汪家熔整理「解放以前商務印書館歴届負責人(董事長、総経理、総編輯)」 『商務印書館館史資料』之十九 北京・商務印書館総編室編印1982.11. 5。20-21頁。
高竜興「我的曽祖父――高鳳池」『商務印書館館史資料』之二十九 北京・ 商務印書館総編室編印1984.12.20。18-21頁。
『商務印書館大事記』北京・商務印書館1987.1
MANYING IP “THE LIFE AND TIMES OF ZHANG YUANJI”北京・商務印書館19 85.4。160-163頁。
本書は、のち中国語に翻訳された。葉宋曼瑛著、張人鳳、鄒振環訳『従 翰林到出版家――張元済的生平与事業』香港・商務印書館有限公司1992. 1。143-145頁。
郁為瑾「商務印書館与基督教会的関係」『商務印書館館史資料』之四十 北 京・商務印書館総編室編印1988.3.3。14-18頁。
李元信「高翰卿」『環球中国名人伝略』(上海・環球出版社1944)があるが、 未見。
2)汪家熔「商務印書館創業諸君」『江蘇出版史志』総第7期1991.10。ほとんど同文を、長洲(汪家熔の筆名)「商務印書館的早期股東」と題して『商務印書館九十五年』(642-655頁)に収録する。本稿では、どちらかを特定しない。両者だと考えてほしい。
 なお、汪家熔氏が、張元済日記によって商務印書館創業者の人数と出資額を「訂正」するのは以前のことになる。汪家熔氏が、「R」という筆名を持っているとすると、R署名「商務創辧的第一批資金」(『商務印書館館史資料』之十三 北京・商務印書館総編室編印1981.9.20。19頁)が、ふるい。もうひとつ、林爾蔚、汪家熔「漫談商務印書館」(同前 之二十五 1984.2.10。2頁)もある。
3)張蟾芬「余与商務初創時之因縁」『東方雑誌』第32巻第1号1935.1.1。(生)161頁。/『出版史料』1989年第3、4期(総第17、18期)1989.11。 183、162頁。抄録/『商務印書館九十五年』北京・商務印書館1992.1。14-16頁。
4)矢作勝美『明朝活字』平凡社1976.12.20。77頁。
5)注2に同じ。
6)全国図書聯合目録編輯組編輯『全国中文期刊聯合目録(1833-1949)』増訂本 書目文献出版社1981.8。523頁。
7)朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」『文化史料(叢刊)』第2輯 1981.11。139頁(文末に1964.3.8とある)。
8)注1のMANYING IPの項を参照のこと。
9)林爾蔚、汪家熔「漫談商務印書館」『商務印書館館史資料』之二十五 北京・商務印書館総編室編印1984.2.10。4頁。
10)樽本照雄『清末小説きまぐれ通信』清末小説研究会1986.8.1所収。


(さわもと いくま)