清末小説 第16号 1993.12.1


初 期 商 務 印 書 館 の 謎



沢 本 郁 馬


 商務印書館は、1897年、上海に創業した。1903年、日本・金港堂との合弁をへて、1914年、約10年にわたる合弁を解消する。その創業から金港堂との合弁解消までの時期、すなわち実質16年間を、特に初期商務印書館という。
 本稿の目的はふたつある。初期商務印書館をめぐっていまだに解明されないいくつかの謎がある。このことを指摘したい。もうひとつは、初期商務印書館所在地の変遷を地図のうえに探ることだ。
 論述の順序として、商務印書館所在地の転変を地図上に跡づけながら、その歴史的変遷をのべることにする。
 まず、基本資料である地図と証言から始めよう。


T 資料

T-1 上海地図
 適当な上海地図を選択できれば、かなり正確に初期商務印書館の移動を追うことができるだろう。ただ、「適当な上海地図」と、いうのは簡単だが、やってみるとそれほど容易なものではない。
 地図は、発行時期および縮尺が問題となる。
 古書店の目録によく見かけるのは、『最新上海地図』(大阪朝日新聞1932.3.5。1万2千分の1)だ。漢字、英語を併用し、比較的詳細なものだといえる。上海の地図は、おおまかに言って「路(街路)」「里(居住場所)」「弄またはー(横町)」*1によって表示される。この地図には横町名も記載はあるが、全部が表示されているわけではないのがおしい。
 上と同じ様式のものに、杉江房造著作兼発行『大上海新地図』(上海・日本堂書店1937.8.20印刷/1938.1.10訂正三版。2万分の1)がある。縮尺が大きくなった分、横町名まで手が回っていない。
 日本堂書店版の地図から英語表記を除いたものが、中国書店が1983年に墨一色で複製した『詳細旧上海市街図』(2万分の1)のようだ。街路名の記載はあるが、横町名は省略されている。
 樽本照雄「初期商務印書館をもとめて」(『清末小説から』第9号1988.4.1。樽本『清末小説論集』法律文化社1992.2.20所収)では、『重修上海県城廂租界地理全図』(上海・申昌書局1893。天理図書館所蔵)が使用された。簡略なものながらかなり多くの横町名まで明示されているのが便利だ。ただし、1893年発行であり、閘北はまだ空白部分のほうが多い。地図が発行されたのが、商務印書館創業以前である。初期商務印書館を探るのには、やや無理があった。
 見落しもあると思う。いずれにせよ、以上にかかげた地図では十全というわけにはいかない。
 本稿では、『上海市街図』(参謀本部陸地測量部1916.2製版。1万分の1)を使用する。この上海市街図は、横町名をほとんど網羅し、私が見たもののうちでは、いちばん詳細である。これにはのちに部分修正がほどこされたらしい。「大正五年製版昭和七年部分修正」と書かれているものが、地図資料編纂会編『近代中国都市地図集成』(柏書房株式会社1986.5.25)に収録されている。

T-2 参考文献
 詳細な上海地図があれば、それで初期商務印書館の変遷を追跡できるかというと、そうではない。関係者の証言と研究論文が、要点のふたつ目だ。地図と証言をつきあわせて、ようやく追求が可能となる。
 以前は、ほとんど朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」(『文化史料(叢刊)』第2輯 1981.11)だけにたよってきた。それまでのものにくらべると、朱蔚伯論文は、格段に詳細だったからだ。
 その後、注目すべき文献がいくつも発表された。たとえば、

葉宋曼瑛著、張人鳳訳「早期中日合作中未被掲開的一幕――一九〇三年至一 九一四年商務印書館与金港堂的合作」『出版史料』1987年第3期(総第 9期)1987.10。原文は、MANYING IP“A HIDDEN CHAPTER IN EARLY SINO- JAPANESE CO-OPERATION : THE COMMERCIAL PRESS-KINKODO PARTNERSHIP, 1903-14”, “THE JOURNAL OF INTERNATIONAL STUDIES”NO.16 SOPHIA UNIVERSITY 1986.1
中村忠行「検証:商務印書館・金港堂の合弁」一,二 『清末小説』第12号 1989.12.1、第13号1990.12.1
汪家熔「商務印書館創業諸君」『江蘇出版史志』第7期1991.10。改題転載。 長洲(汪家熔の筆名)「商務印書館的早期股東」『商務印書館九十五年』 北京・商務印書館1992.1
張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』北京・商務印書館 1991.12
高翰卿「本館創業史」『商務印書館九十五年』北京・商務印書館1992.1
葉宋曼瑛著、張人鳳、鄒振環訳『従翰林到出版家――張元済的生平与事業』 香港・商務印書館有限公司1992.1。原書は、MANYING IP“THE LIFE AND TIMES OF ZHANG YUANJI”北京・商務印書館1985.4
汪家熔選注「蒋維喬日記選」『出版史料』1992年第2期(総第28期)1992.6

などである。(参考までにあげただけで論文を網羅したものではない。遺漏があればお許し願いたい)
 高翰卿といえば、商務印書館創業時の出資者のひとりだ。その文章は、基本資料だといっていい*2。
 主として以上の文献を総合し、別に掲げる「初期商務印書館所在地の変遷一覧」を作った。「一覧」の番号と、地図A(縮小)、地図B(拡大)にほどこした番号は対応している。番号順に説明していく。


U 創業

@江西路北京路首徳昌里末街三号
 創業の地である。民家を借り、印刷機械を設置して、従業員は、十数名にすぎなかったという。
  商務印書館は、そもそも夏瑞芳、鮑咸恩のふたりが中心となり、信仰および血縁と友人を頼って合計3,750元の資金を集めて創業したものだ。夏瑞芳、鮑咸恩ともに英文新聞の植字工であった。出資をするといっても容易なことではなかったであろう。おまけに、徳昌里の貸し部屋に設置した印刷機械を購入しただけで資金は、底をついた。出資者のひとり沈伯芬にさらに2千元をなんとか融通してもらった*3。
 「末街三号」というのは朱蔚伯だが、高翰卿は「末弄三号」とする。
 同じく高翰卿は、場所を説明して中国墾業銀行の南、という。中国墾業銀行は、1929年に創業し、江西中路、北京東路の角にあった*4。地図は1916年のものだから、当然ながら中国墾業銀行の記載はない。
 樽本照雄「初期商務印書館をもとめて」で推定した場所ではなく、その南になる。
 部屋の間取りとなると、各人の証言が微妙に違っているのが不思議だ。列挙する。

高翰卿「三幢両廂房連庇屋」
朱蔚伯「三幢両廂後連披屋的民房」
章錫s「両間屋」*5
王雲五「三楼三底房屋一幢」*6

 陳従周、章明主編『上海近代建築史稿』(上海・三聯書店上海分店1988.12初版未見/1990.6第二次印刷)によると、上海の里弄建築は、老式石庫門、広式、新式石庫門、新式里弄などの類型に分類される。老式石庫門は、一般ににぎやかな市街区に建てられ、階下は商店、2階には多く職工が住む。広式は、2階建てで広東の建物に似ているためこの呼称があるという。
 当時の復元図を見ると、二階建てで、出入口の上に商務印書館と看板が掲げてあるのがわかる(図1)。老式石庫門様式だと思われる。『上海近代建築史稿』(164頁)から、それらしい図を引用しておく(図2)。商務印書館の復元図とは、屋根の形など外見が異なるが、おおよその間取りが想像できるだろう。
 朱蔚伯は、高翰卿の文章によっている。間取り図に照らし合せると、1階の応接間、次間側房(廂房)と後廂房、2階の寝室2間で合計3間2側房になる。1階階段のところにある台所、中2階の寝室2間部分が、高翰卿のいう「連庇屋」、朱蔚伯の「連披屋」であろうか。つづきの間、と訳しておく。ついでに、「幢」

(図3)

は、辞書的には建物の棟を数える場合の量詞である。しかし、高翰卿、朱蔚伯はともに「幢」を部屋を数えるものとして使用しているらしい。
 章錫sが書いている2部屋は、勘違いだろう。王雲五のいう上が3間階下が3間は、細かいところで数が異なる。
 家賃は毎月50余元だった*7。
 徳昌里から慶順里に移転した理由は、手狭になったからだと思っていた。しかし、鄭逸梅によると、創業の翌年、建物が倒れてしまい、最初の移転を行なうことになったという。たしかに高翰卿も、手狭になったことと崩れたことを移転の理由にあげている*8。

V 最初の移転

A北京路慶順里口美華書館西首
 移転の時期は、高翰卿によると光緒二十四年「夏」、朱蔚伯は同年「六月」という。
 地図では、北京路慶順里*9に浙江銀行の表示がある。ここに商務印書館があった。路地を隔てて東側に美華書館がある。『重修上海県城廂租界地理全図』に美華書館の記入があるのでこれも参照してほしい(図3)。


V-1 美華書館

 美華書館といえば、商務印書館にとっては切りはなせない存在だ。
 英語表記 American Presbyterian Mission Press からもわかるように、アメリカのキリスト教長老会が中国に設立した出版、印刷組織である。1844年、マカオにおいて花華聖教書房として創業した。1845年寧波に移転し美華書館と改名、1858年に上海大南門外に移り、のち発行所を北京路に置く*10。
 商務印書館創業にあたって、8名の人物が資金を出した*11。
 商務印書館入館の時期別に分類し直すと以下のようになる。

創業時入館 鮑咸恩(1株500元)、夏瑞芳(1株500元)、
郁厚坤(半株250元)
1898年入館 鮑咸昌(1株500元)
1908年以前 高翰卿(半株250元)
1909年入館 張蟾芬(半株250元)
株   主 沈伯芬(2株1,000元)、徐桂生(1株500元) 合計3,750元

 はじめに言っておかなくてはならないのは、株などと称しているが、これは株式ではない。出資額を便宜的に数えているだけで、当初は1株500元に設定したということだ。
 鮑咸恩、咸昌は、兄弟である。鮑咸昌と同時に入館した咸亨とあわせて鮑三兄弟という。彼らの父・鮑哲才(字華浦)は、基督教長老会清心堂(American Presbyterian Mission)の牧師だった。ゆえに兄弟とも基督教長老会に属しており、清心学堂に学んだ。長男の鮑咸恩は、英文匯報館、英商字林西報館を経て英文捷報館で植字工を勤めている。次男の鮑咸昌は、美華書館に勤務し、郁厚坤の姉と

(図4)

結婚する。夏瑞芳も基督教長老会に属し、同じく清心学堂に学び、英文捷報館では鮑咸恩と同僚である。さらに、夏瑞芳は鮑哲才牧師の次女・aと結婚してこれまた親族になっている(夏瑞芳、鮑咸恩、鮑咸昌、印有模の肖像をかかげる。図4)。
 高翰卿も清心学堂を卒業し、美華書館に勤務しているから鮑咸昌と同僚だ。
 張蟾芬も清心学堂に学び、郵伝部駐滬電報高等学堂で電報教習をしていた。沈伯芬と同僚である。鮑哲才牧師の長女と結婚する。
 以上、商務印書館創業にかかわった人々のほとんどがキリスト教の信者であり、鮑兄弟と姻戚関係にあった。
 ただ例外が沈伯芬である。沈伯芬は、カトリック(天主)教徒で、電報局において張蟾芬と同僚だ。夏瑞芳、鮑咸恩とは面識がなかったにもかかわらず2株の出資をしたのは、張蟾芬との関係だったのだろう。徐桂生については、詳細は明らかでない。
 教会関係の印刷物を請け負い印刷をすることから商務印書館の仕事ははじまった*12。創業者たちの経歴を考えれば、それももっともだと理解できるのだ。
 もともと関係の深かった美華書館の、それもすぐ西隣に移転してきたのだから、うわさも出てくる。
 朱蔚伯が述べているのは、こういう話だ。高翰卿が美華書館にいてまだ商務印書館に入館していないころのこと。美華書館で印刷を引き受けるにさいして、外国人の基準で価格を高くいい、お客がその値段の高さを嫌うと、隣で開店した印刷所でやってみたらどうかと勧め、商務印書館を応援した、というのだ。いかにもありそうなことではなかろうか。
 汪家熔『大変動時代的建設者』(成都・四川人民出版社1985.4。49頁)に当時の復元図が掲載されている(図5)。分類に従うならば、広式住宅(図6)ということになる。12部屋を借りたということだ。部屋数は、創業時の石庫門住宅にくらべて増えた。北京路に面して、たしかに表道路に出たという感じがする。ただし、建物自体からいえば庭もなく狭く、さほど高級なものとも思えない。夏、鮑両家の家族は、みなこの慶順里に住み、製本などの仕事をした。
 復元図は、信頼できる資料による、とだけあってそれ以上の説明はない。汪家熔が見た『商務書館華英字典』の表紙に、階上6間階下6間の商務印書館の姿が空押ししてあった*13。どうやらこれをもとにして復元図を描いたらしい。


V-2 『商務書館華英字典』
 『商務印書館大事記』(北京・商務印書館1987.1)の1899年の項目に、「出版《商務印書館華英字典》(據剣x灼所編《華英字典》修訂)」と記載されている。
 手元にある『商務書館華英字典』(光緒二十有八年<1902>歳次壬寅仲春<二月> 上海商務印書館 三次重印本。奥付なし)は、活版線装本だ。誤解があるようだが、書名は『商務書館華英字典』であって、『商務印書館華英字典』ではない。書影を見てほしい(図7)。商務印書館が発行した各種雑誌の広告にも『商務書館華英字典』とあるとおりだ*14。
 扉裏に当時商務印書館が発行していた書籍の広告がある(図                  (図7)
8)。英語の学習書に中国語を
併記するという工夫が読者に喜ばれ、商務印書館の経済的基礎を築いたのはよく知られた事実だ。読本、文法、地理、辞書、書簡文、会話、その他と英語表示と同時に中国語の書名が明らかにされている。
 広告欄の下に“THE COMMERCIAL PRESS BOOK DEPOT, U41, PEKING ROAD, SHANGHAI”とあるのが目を引く。従来、商務印書館の英文表記は、 “(THE) COMMERCIAL PRESS”だと考えられていた。しかし、初期の英文表記は上述のとおりである。“THE COMMERCIAL(商務) PRESS(印) BOOK(書) DEPOT(館)”となって、漢字をそのまま英文に翻訳したのが正式のものだとわかる。

V-3 修文書館の機器の買収

(図8)

 北京路時代の商務印書館にとって重要な事柄は、修文書館所有の機器の購入、張元済の入館、および火災の発生であろう。
 商務印書館は、もともと印刷技術に留意していた会社だ。
 『昌言報』第3冊(光緒二十四年七月二十六日1898.9.11)より商務印書館が印刷を担当し、印刷の鮮明さが注目されたのは有名な事実である*15。
 修文書館は、日本の築地活版所が、1883年、上海に設立した、印刷所兼印刷用品販売所だ*16。上海での営業がうまくいかず、印錫璋の紹介で商務印書館が、修文書館所有の全部の機器設備を1万元で購入した*17。手に入れた機器は自家用に使う以外に残ったものも販売したという。この時から紙型を作るようになった。
 当時の上海において、商務印書館は「規模は小さいが設備が新しい」*18という評判をとっていた。修文書館の機器購入が一層の効果をあげたということだろう。

V-4 経営不振説の謎
 中国は、日清戦争に破れ、改革自強の社会風潮が盛り上がった。教育が肝心と多数の学校が設立される。商務印書館は、英語の教科書、辞書を発行し、それらがよく売れた。売れ筋の出版物はあったが、商務印書館自身の経営は必ずしも順調ではなかった。
 前述したとおり、創業時からして出資金は印刷機器購入に使い果たし、出資者のひとり沈伯芬に2千元を融通してもらうほどだった。経済的には逼迫していたのだ。美華書館の西隣に移転してから、植字印刷部門は、鮑咸恩、咸昌兄弟が担当し、総支配人には夏瑞芳がなった。総支配人とはいっても、実態は校正、集金、仕入、注文取りなどをこなすナンデモ屋である。毎晩8、9時まで働いて、月給は24元にすぎず、とても家庭の支払いに足らない。印刷請け負いをさがすついでに、保険会社の注文取りをして家計費にあてたという*19。印刷材料の支払いに困った時は、美華書館にまだ勤務していた高翰卿に保証してもらったこともある*20。
 創業から第一次増資を行なった1901年夏まで、純益の配分はなかった、と関係者は証言する。利益はすべて営業資金にしていた。夏瑞芳が本業のかたわら保険の勧誘をしなければならなかったほど、給料は安かった。この一点を見るだけで、いかに商務印書館の経営が苦しかったかが想像できるのではないか。
 そういう経済状態で、修文書館の機器購入に1万元かかっている。高翰卿と汪家熔は、具体的に数字を示さず安価で購入したと書く。修文書館は、上海で営業するために10万元近くを投資したという*21。修文書館にしてみれば10分の1で売りだすのは「安価」だ。しかし、商務印書館にとってこの1万元のどこが安価であろうか。夏瑞芳に副業を強いるほどの給料しか払うことができず、利益は営業資金に流用するなどの自転車操業状態であったことを考えるべきだ。いったいどこに1万元を支出する余裕があったのか。余裕がなければ、どこから出た金なのか。印錫璋が、一部分の資金をひねり出して修文書館を買収し、商務が使うように渡した、という人がいる*22。まさか印錫璋が寄付をしたわけではあるまい。商務印書館にとっては負債となったと考えるのが普通だ。
 結局のところ、修文書館の機器を購入する資金について、今まで誰からも納得のいく説明を聞かされたことがない。というよりも、説明そのものが存在しないのだ。不思議なことである。
 一方で、夏瑞芳は、教科書の翻訳にかかわって、ほとんど詐欺まがいの行為にひっかかっている。
 以下は、商務印書館の社員・蒋維喬の証言である。要約する。
 各書店が日本語書籍を翻訳出版することが流行し、またそれが読者に歓迎されたのを見た夏瑞芳は、人を通じて翻訳原稿を購入させた。翻訳原稿数十種を入手して、夏瑞芳は、ただちに出版してみたがまったく売れず、原稿料1万元を失ってしまった*23。
 朱蔚伯も同様のことを記述する。夏瑞芳は、翻訳原稿を出版したが売れない。原稿を張元済に審査閲覧してもらうと、質が悪く、使い物にならないととがわかった。夏瑞芳は、そこではじめてだまされて大量の原稿料をドブに捨ててしまったことに気がついた。出版は素人ではむつかしい、才能と学問のある人にまかせるべきだ、と夏瑞芳は、編訳所の必要性を認識した、というのだ*24。
 翻訳原稿による出版がうまくいっていたのなら、増資の必要も、編訳所設立の考えも出てはこなかっただろう。
 創業の一、二年は、利益もあがったが、損失が利益を上回るようになり、資金繰りが苦しくなった。そのため外から資金を導入しようとした。これは、商務印書館の総支配人をやったことのある王雲五の証言だ*25。
 王雲五によると、徳昌里から慶順里への移転は、部屋数は12部屋ともとからの「4倍」になり、設備の拡充も行なったという*26。
 いかにも順調な営業であったような印象をあたえる。ことに部屋数の「4倍」化が強調されると、その感を強くする。しかしながら、高翰卿と朱蔚伯の証言によれば、建物が崩れたのが移転の主因であった。そうであるならば、最初の移転は自発的というよりも迫られて行なわれたことになる。
 先に慶順里の建物について、「さほど高級なものとも思えない」と書いた。営業が順調で12部屋の場所に移転した割りには、建物全体がみすぼらしい。ふたつの復元図を見比べての感想だった。どうやら、12部屋という数字に惑わされたらしい。営業が好調で広い場所に移ったのではないのだ。事実は、もといた建物が崩れたので、しかたなく、移転をせざるをえなかった。以前と同じ家賃で、部屋数の多い場所は、部屋の広さを犠牲にし、中庭もない、一段等級の低い広式住宅しかなかったのではないか。
 いくつかの事実は、すべて商務印書館の営業不振説をうらづける。
 ところが、以上の商務印書館経営不振説をまっこうから否定するのが汪家熔である。汪家熔は、経営不振説は根拠のない伝説だ、といろいろ理由をあげている*27。そのなかでゆるがぬ根拠として、商務印書館が投資した最初の資金が、4年間で7倍に値上がりしていることをいう。7倍もの値打ちをもったからには、経営不振などということはありえないと主張するわけだ。
 私は、汪家熔説に反対したいと考える。高翰卿の証言と汪家熔があげた数字(張元済、印錫璋の出資金は2万3,750元。ただし、分担の比率は不明)を使って説明しよう。

V-5 第一次増資の謎
 重要な部分だから、まず、創業者のひとり高翰卿の証言を訳出する。

 本館が創立して最初の数年は、発起人に配当金はなかった。利益はすべて営業資金にし、張菊生(元済)氏と印錫璋氏が投資加入した時、あらためて株価の値上げを行なったのである(原文:重為估値昇股)。そのころ張菊生氏は、南洋公学で訳書院院長をつとめていた。書籍印刷のためいつも夏、鮑君らとかけあっていたため、彼らは仕事がきわめてまじめであるのがわかった。しかも、夏氏は、ちょうど本館を拡充し、編訳所の設立を準備しており、張氏に編訳の仕事を主宰してもらうよう招聘すること考えていた。双方の意見は合致し、相談ののち張氏らは投資し参加することを希望する。同時に印錫璋氏にも参加する考えがあり、もとの発起人により張、印諸氏が四馬路の昼錦里の聚豊園に招待され、合資の方法を相談した。さらに有限公司にすることにし、もと発起人の株をはじめの値の7倍にすることを決定した。全部で資本5万元となる。これは清光緒二十七年(1901)のことである*28。

 朱蔚伯論文も、配当金がなかったこと、株の価格を7倍に値上げしたこと、資本5万元になったことなどほとんど高翰卿とおなじ表現を使って説明している。
 創業時の資金が3,750元だから、その7倍は2万6,250元だ。張元済、印錫璋ふたりの投資で5万元となったのだから、張、印の出し分は、5万元引く2万6,250元で2万3,750元となる。
 汪家熔が提出した数字は以上の算術に基づいている。
 汪家熔は、もとの資金よりも7倍に値上がったのだから、経営不振説は成立しないと反論した。どうやらこの7倍という数字が、客観的に定められたように汪家熔は考えているらしい。しかしながら、その事実はない。
 高翰卿の証言を読めば、7倍というのは商務印書館のもと発起人と張元済、印錫璋が相談して決定した数字だということが理解できよう。株式市場があって客観的に7倍の評価を得た、という種類のものではない。7倍の評価を自分たちで勝手に行なったということだ。そうするとなぜ7倍か、という疑問がでてくる。自分たちで自由に決定できる数字にもかかわらず、なぜ10倍ではなくて7倍なのか。
 鍵は、汪家熔も提出する2万3,750元という数字である。
 思いだしてほしい。最初の出資金が合計3,750元だった。修文書館の機器購入に1万元。翻訳原稿代金の欠損が1万元。合計2万3,750元。これは、張元済と印錫璋が出資した金額と同じではないか。
 5万元との差額は、2万6,250元。これを最初の出資額3,750元で割れば、まさに7という数字が出てくる。これが7倍になった秘密なのである。
 元金の7倍という客観的な数字があって、5万元との差額2万3,750元が決まったのではない。その逆で、2万3,750元という数字を提出するために、元金の7倍という数字を決めたのだ。
 つまり、第一次の増資といっても、商務印書館創業以来の欠損を、張元済と印錫璋のふたりに穴埋めしてもらったただけのものにすぎない。もとからの出資者は、一文の金も出す必要がないばかりか、本来は失われてしまったかもしれないもとの出資金を取り戻し、修文書館への支払いができ、教科書翻訳費も回収したことになる。まさに一石二鳥どころか一石三鳥の妙案だといえよう。数字を操作するだけで欠損を埋めてしまった夏瑞芳の経営手腕の確かさを、高く評価しなければならない。
 印錫璋は、修文書館の機器を商務印書館が購入したさいの仲介者である。もともとは紡績工場の経営者で、三井物産上海支店で綿糸布の輸出入を業務としていた山本条太郎とは親しい間柄であった。山本条太郎は、金港堂主人・原亮三郎の娘婿でもある。のちに金港堂と商務印書館が合弁会社になる布石はこの時に敷かれた*29。


W 編訳所の設立

W-1 張元済が正式に入館するまで
 張元済(1867-1959)浙江海塩の人。進士。北京で友人と通芸学堂を設立し英語と算術を学ぶ。総理各国事務衙門に勤務するが戊戌政変で免職となった。1898年冬、上海にある南洋公学(現在の上海交通大学)の訳書院に勤めていたころ*30、南洋公学の印刷を請け負って出入りしていた商務印書館の夏瑞芳と知りあう。
 1901年、張元済は、友人たちと雑誌『外交報』を創刊すべく準備をすすめていた。資金の分担は、以下のようだ。

張元済 2株1,000元、 蔡元培 半株300元、 杜亜泉 半株200元
温宗尭 1株500元、  商務印書館 1株500元
その他     合計9株4,400元*31

 『外交報』は、1902年1月4日に創刊号を発行し、1911年1月15日第300期をもって停刊した。毎号売れ残りがでたことと、代金の回収ができないものもあり、つぶれてしまったのが事実らしい。
 商務印書館は、最初、印刷を引き受け、のち総取次販売元となっている。商務印書館が出資したのも、総取次販売元になったもの、張元済と夏瑞芳の関係からであろう。もっとも、張元済は、1902年に正式入館しているから、『外交報』が張元済の個人出版物といいいながら、その発行所を商務印書館の発行所に置くな

(図9)

ど、厳密な区別はむつかしい。
 張元済がちょうど『外交報』創刊の準備をしていたころ、商務印書館に出資する話がもちあがっていた。
 張元済は、『外交報』を創刊するために1,000元を出資している。さらに商務印書館にも資金(金額は不明)を提供するとなれば、毎月350元の給料をもらっていたさしもの張元済も、夫人の金の装飾品を現金にかえなければならなかった*32。
 1902年、張元済は、南洋公学を辞して商務印書館に入館した*33。給料はおなじく350元である。創業者の夏瑞芳が24元の給料というのにくらべれば、いかに高額かが理解できよう(張元済と高翰卿の肖像をかかげる。図9)。
 張元済は、長康里において編訳所の設立準備を始めた。

W-2 編訳所
B長康里で編訳所の設立準備
 長康里は、北京路北、貴州路西にある。美華書館西よりかなり遠い。朱蔚伯は、編訳所設立の準備*34といい、高翰卿は、「まず長康里に編訳所を設立した」*35と書く。
 長康里という場所に触れているのは、高翰卿と朱蔚伯の文章くらいのもので、編訳所というと、だいたい唐家ーからはじめるものが大部分だ。大部な『張元済年譜』42頁でも、長康里には言及せず、唐家ーに編訳所を設立したとする。
 長康里では編訳所の設立準備をしていたという朱蔚伯説を私が支持するのは、張元済の入館時期と商務印書館資料に記録された以下のものをつきあわせた結果である。

 3.編訳所長、編審部長
1902年底-1903年5月        蔡元培
1903年6月-1918年9月 編訳所所長 張元済
(以下略)*36

 蔡元培は、張元済と同年生まれ、同郷、同年の進士で南洋公学で同僚であった。ふたりは、前述『外交報』の仲間でもある。この関係から、張元済は、蔡元培を編訳所所長に推薦したのだ*37。
 上の記録によれば、1902年末から蔡元培が編訳所長に任じられている。ということは、編訳所の正式成立は、1902年末と考えた方がいいだろう。張元済が1902年はじめに入館したとすれば、その年末までの編訳所は、準備段階だったとするのが一番理解しやすい。
 編訳所という考えは、どこからきたのだろうか。
 包天笑は、創業当時の夏瑞芳をつぎのように描写している。他人が商務印書館に印刷を依頼してきた印刷物について、どういう種類の内容で、どの方面の読者に売れるか、など夏瑞芳は包天笑に常にたずねたという。また、夏瑞芳が質問していわく、「この頃多くの人が編訳所をやっているが、この編訳所はどのようにやるべきなのかね」と。「業務を拡張し、自分で出版するつもりなら、編訳部をやらなきゃだめです。学問のある有名人に主宰してもらって、あなた自身は営業に専心すべきです」と私(包天笑)がいうと、夏君は、首をふり嘆息していう。「残念ながら私たちの資本はあまりに少なすぎます。ゆっくりやるとしましょう」*38
 のちに張元済を編訳所に迎えることになろうとは思いもしない頃の話である。
 夏瑞芳が、編訳所に興味を抱いていることの証拠としておもしろい。単なる興味から実現する方向に転じたのは、不良翻訳原稿を大量につかまされた苦い経験による。営業不振などなかった、という汪家熔説に従うとすれば、編訳所など出てくる余地はなくなるのだ。
 金港堂編輯所は、1886年(明治19)に設立された。夏瑞芳は、商務印書館を創設した年(1897)に日本へ印刷視察の旅行をしている*39。夏瑞芳の編訳所にたいする関心は、このときの日本視察旅行に関係するのではないか、と思われるのだが、裏付ける資料が今のところない。
 張元済と印錫璋の投資があり、編訳所設立準備に張元済を迎えて営業不振から脱却し順調にすべりだしたかに見えた商務印書館に、火災が襲いかかった。

W-3 火災
 光緒二十八年七月十九日(1902.8.22)深夜12時、商務印書館より出火し3、4部屋と隣接の徳泰客棧が焼けた*40。ただし、出火の原因、正確な被害状況、責任者の存在など、今にいたるまでその詳細は明らかにされていない。火災保険がかけられていたのは確かだが、その賠償がどれくらいであったのかも不明だ。
 いくつかの証言を見てみよう。
 章錫sの証言:1902年、北京路の工場が火災で焼け、巨額の保険賠償を得た。そこでふたたび増資を決定し、北福建路に工場を建設、河南路に発行所を新設した。また、編訳所を増設するため、工場のむかいの唐家弄に三部屋を借りた*41。
 羅品潔の証言:一度火災にあったが、火災保険に加入していたため損失は大きくはなかった*42。
 朱蔚伯の証言:1902年七月、北京路の家屋は失火で焼けた。そこで印刷所を北福建路海寧路に建設し、鮑咸恩を所長とした。別に編訳所を唐家街に、発行所を河南路棋盤街に設立、内部の職務にかなり明確な分担を行ない、経済的基礎はさらに発展し強化された*43。
 高翰卿の証言:光緒二十八年七月、火災にあい、すべての機器工具が焼けてしまった。新しく注文していた機器はすでにとどいていたが、幸いなことに事前に火災保険をかけていたので賠償金を受け取った。ただちに福建路海寧路に土地を購入し印刷工場を建設する*44。
 章錫s証言は、俗にいう「焼け太り」だ。印刷所、発行所、編訳所の同時新設ができたのは、「巨額の保険賠償を得た」からに違いない、と思い込んだのではないか。発想が逆なのだ。だいいち、「増資を決定」したと書くが、この時期に増資をした事実はない。
 羅品潔証言は、「損失は大きくはなかった」とする。商務印書館から出火した、全焼ではなかったという事実と、火災保険という性格を考えると、うまくいってせいぜいがこれくらいの補償であろう。
 朱蔚伯証言は、焼けたという事実のみを述べるだけで、印刷所、発行所、編訳所の新設との因果関係をいわない。
 高翰卿証言が、かなり正確に当時の状況を伝えていると思う。火災保険をかけていたといっても新しい機器だけだったという。それには賠償金が支払われた。あとは、なんの補償もない。やはり当事者の発言だけあって理解しやすい。ただし、それにつづけて土地の購入と印刷工場の建設をいう箇所は、いかにも両者が関係あるように読めて、信用することができない。
 火災と印刷所、発行所、編訳所の新設について、関係づけている証言は、基本的に信頼できない。かといって、三所同時新設を証言するものも、その資金がどこから出てきたのか一言も述べていないのが気になる。おおいにあやしい。あとで問題にする。
 さて、火災後、約一ヵ月たらずで通常業務に復帰したようだ。
 印刷を引き受けていた『外交報』の発行状況から判断できる。該誌壬寅第18号(第20期)の発行は、光緒二十八年七月十五日(1902.8.18)である。第19号(第21期)は、本来ならば、七月二十五日(8.28)が発行予定日となる。実際は、光緒二十八年八月十五日補印(1902.9.16)となっていて約一ヵ月の発行遅延であることがわかる。
 今まで誰も問題にしなかった問題の印刷所について見ていこう。


X 印刷所の設立

 火災後、商務印書館は、北福建路海寧路に土地を購入し、印刷工場を建設した。火災に言及する文献は、ほとんどこのように記述する。火事をおこした事実に触れない文献は論外だ。
C銭業会館西文昌閣隔壁

(図10)

 『外交報』壬寅第24号(第26期 光緒二十八年九月十五日<1902.10.16>)に商務印書館の広告がある。発行所として「開設在上海棋/盤街直街中市」、印刷所として「上海銭業会館/西文昌閣隔壁」とあり、印刷所のほうにはさらに「紅磚洋房」とうたっている。
 『上海指南』には、「北河南路と文監師路の角に銭荘会館がある」*45と書かれている。前出『重修上海県城廂租界地理全図』には、河南北路に「銭業公所」が見える。南市に銭業公所をもうけ、北市にも銭業会館を置き、北の方を総公所とよんだ、という説明もある*46。
 その銭業会館の西の文昌閣隣は、地図のCあたりだろう。
 商務印書館自身が掲載した当時の印刷所の全貌を見てほしい(図10)。赤レンガ(らしい)3階建ての堂々たる建築物である。鉄のかたまりのような印刷機器および印刷用紙を設置するには、これくらい頑丈そうな建物でなければもつまい。
 日本人もこれを見て驚いている。

 商務印書館所属の建物は四箇所に分る。一を印刷所とし、二を発売所とし、三を編訳所とし、四を製本所とす。就中印刷所の如きは煉瓦三階造りにて五百坪に余り、我国の印刷所には見難き程の建築なり。館員は職工を合すれば五百人に達し、何れも整然たる分業の下に業務に従事し、其の勤勉なること実に驚くに堪へたり。*47

X-1 印刷所の謎
 これだけ大規模な印刷所を建築するのには、どれくらいの時間と費用がかかるだろうか。一ヵ月や二ヵ月でないことは、誰にでも理解できるだろう。土地の選択、買収、建物の設計、施工、資金の調達などなど、どれをとっても短時間にできるものではない。
 ところが、『外交報』の商務印書館広告によれば、火災から少なくとも二ヵ月以内には、新しい印刷所に移転している。手際がよすぎる。かりに「巨額の保険賠償を得た」としても、わずか二ヵ月でこの大建築物が完成するわけがない。ましてや、火元であったうえに、保険金の賠償といっても微々たるものだった。資金はどこから出たのか、疑問はつきない。
 火災にあってすぐさま手当ができるのは、できあいの建物を賃借りして印刷所に転用することだ。しかし、この建築物は商務印書館専用で新築である。
 もしも、火災の賠償金をあてにして着工したというのなら、これは犯罪にほかならない。いくら夏瑞芳が辣腕であろうとも、まさか犯罪をおかしてまでやるとは思えない。
 資金のめどがついてから着工したはずで、少なくとも1年くらい以前のことだろう。
 ひとつの可能性は、時期的に見て1901年に行なわれた第一次増資である。ただし、この増資は、説明したとおり赤字を埋めるためのものであり、新たな事業を起こすためのものではなかった。
 残る可能性は、金港堂の原亮三郎である。
 原亮三郎は、かねてから中国において教育書を出版する考えを抱いていた。1901年9月、娘婿の山本条太郎が三井物産上海支店長として上海に着任した。原亮三郎のほうから、山本条太郎に上海における出版状況についての調査を頼んでいたかもしれない。商務印書館に投資している懇意の間柄の印錫璋が、商務印書館の経営建て直しを山本に依頼する。それではと山本が岳父である金港堂主人・原亮三郎に紹介すると、渡りに船と原亮三郎が投資を承知する。事実は、このあたりではあるまいか。
 商務印書館と金港堂が、正式に合弁調印をするのは、光緒二十九年十月初一日(1903.11.19)である。山本条太郎が上海に着任したのが1901年だから、合弁まで約2年間の時間がある。この間に、将来の合弁を前提に原亮三郎が商務印書館に対して資金を含んだ援助を前倒しで行なっていたとしても不思議ではない。印刷所新築着工には、原亮三郎の暗黙の了承と保証があったものと考えるのが自然であろう。
 つまり、印刷所、編訳所、発行所の3ヵ所分離は、既定の方針であり、火災はまったく予期せぬできごとであった。
 くりかえすが、中国側の文献資料では、印刷所新築についてその資金の出所など、いっさい口をつぐんだまま何の言及もない。きわめて不自然である。この謎を解くのは、金港堂の原亮三郎から資金が援助されたと考えることだけである。


Y 編訳所の移転(1回目)

D唐家ー
 唐家ーは、唐家弄と表記するものもある。
 張元済は、長康里において編訳所設立の準備を行なっていたが、「福建路唐家弄に編訳所を設立し、蔡元培を編訳所長に招き、教科書を編纂主宰した」*48。
 印刷所の近くに編訳所を設立したことになる。


Z 発行所の設立

E冠生園北隣171、173番地(1935年当時の番地)
 商務印書館の発行所で有名なのは、棋盤街中市にあるものだ。一般の資料には、この棋盤街の発行所しか登場しない。高翰卿の証言によると、発行所は、棋盤街に設立されるまえに別の場所にあった。それが1935年当時の番地で冠生園北隣171、173番地という。
 冠生園というのは、食品加工業者の洗冠生が1915年に設立した企業だ。1930年に南京東路に本店を移転している。高翰卿は、河南路というのだが、今、南京東路のあたり(地図番号E)だとしておく。
 ここが最初の発行所ということになるのだが、短期間の利用にとどまったと思われる。火災の発生が七月十九日(8.22)で、『外交報』壬寅第24号(第26期 光緒二十八年九月十五日<1902.10.16>)に載った発行所の広告から推測するに、ほぼ二ヵ月である。
 次に移転したのが棋盤街となる。

F河南路棋盤街直街中市
 棋盤街とは、あらためて説明する必要もないが、河南中路の四馬路(福州路)から五馬路(広東路)までの通りを指す。地図にも「商務印書館発行所」と書かれているのでわかりやすいだろう。民国前後に建物を建てかえることになる。


[ 編訳所の移転(2回目)

G蓬路
 1903年1月、唐家ーから蓬路へ編訳所が移転した、と朱蔚伯は書く。蓬路のどこらあたりかは、説明がない。印刷所に近寄ったのかと、おおよその場所(地図G)を示しておく。
 『張元済年譜』45-46頁には、次のようにある。「6月15日(五月二十日) 蔡元培は、中国教育会と愛国学社の内部のもめごとが原因で会を辞去し、上海を離れ青島へドイツ語の学習に行き、ドイツ留学を準備する(唐振常《蔡元培伝》)。先生(張元済)は、ついに商務印書館編訳所所長となる」。1918年9月まで、張元済は編訳所所長を勤めることになるのだ。

[-1 金港堂との合弁
 光緒二十九年十月初一日(1903.11.19)に正式調印された商務印書館と金港堂の合弁について、誤解が広く存在している。
 金港堂主人・原亮三郎が印刷会社を設立しようと巨額の資金を携えて上海にやってきた時、とても競争にならないと考えた商務印書館の夏瑞芳は、外資を利用するため金港堂と合弁することにしたというのだ*49。
 誤解というのは、原亮三郎が上海で印刷関係の仕事を始めようとしていたところに、夏瑞芳がその話にのった、という点なのだ。原亮三郎が、いかにも、いきあたりばったりに上海にやってきたような印象をあたえている。
 原亮三郎らの上海到着時期を無視した、あるいは事実を把握していないところからくる推測、誤解にすぎない。
 原亮三郎が、小谷重と加藤駒二のふたりとともに神戸出帆の伊予丸に乗船し上海にむかったのは、1903年10月11日のことだった。10月15日上海に到着する。商務印書館と金港堂が合弁の正式調印をしたのが同年11月19日である。わずか一ヵ月の時間しかない。表向き視察を目的として上海を訪問していた原亮三郎一行が、この一ヵ月間に調査から初めて、会議、合弁決定、契約に調印までやってのけたと考えよという方が無理だ。思いつきのように、外国企業との合弁ができると考えるのは、現実的ではない。常識的にみて、相当以前から準備工作が行なわれていたはずなのである。
 金港堂は、中国において教育書を発行する意向を持っていたことはすでに述べた。
 「(明治33年1900)6月20日 金港堂理事来テ日華学堂学生一同ヲ招待シテ、清国学校ニ用ユル普通学科翻訳ニ付キ学生ノ意見ヲ聞カンコトヲ求ム」*50
 これは「日華学堂日誌」の一条である。日華学堂というのは、中国人留学生のための学校で、1898年、高楠順次郎によって東京に設立されている。金港堂が、中国の教科書にまで業務を拡張しようと準備をしていたこと、しかも、それが1900年という早い時期であることがこの日誌からわかるだろう*51。
 もうひとつ、以下のような資料がある。金港堂の海外投資について記述したものだ。

 (前略)是より先き、同社(注:金港堂)は清国に於て使用すべき教科書出版に着目し、明治三十二年一篇の主意書を作りて、之を彼国に同情を有する諸士に頒布し、先づ其事業の端緒として清国用小学読本を編纂したることありしが、会々同社の業務多忙に赴きしが為に、未だ力を此に致すこと能はざりき、次いで三十六年に及び清国用出版物に着手すべきの議を定め、亮三郎氏は二社員を伴ひて上海に赴き、種々調査する所ありき、時に上海商務印書館とて印刷兼出版を営める清人の会社あり、我と合同に意あり、数回交渉の末従来の団体を解き、更に彼我対等の権利を以て遂に合同して、新たに商務印書館を設立するに至れり、爾来同館は資本金を増加して大に業務を拡張し、又日本より各方面の専門家を招聘して編輯、印刷及び営業等の改善を図り、好成績を挙げつゝありと云ふ。(後略)*52

 「金港堂書籍株式会社」という表題のもとに、店舗の写真をかかげ、その空間に役員の名前が「社長 原亮三郎/取締役 原亮一郎/取締役 加藤駒治/取締役 小谷 重/取締役 柳原喜兵衛」のように示されている。
 この資料から、1898年にはすでに計画があったことがわかり、1900年より2年もさかのぼることになる。商務印書館が創業して1年たつかどうかの時期だ。そのころは商務印書館自身ですら教科書の発行など考えていなかった。
 1901年9月から上海に滞在している山本条太郎と東京の原亮三郎のあいだには連絡が密にとられていたはずだ。夏瑞芳、印錫璋と山本条太郎の交渉が進められ、合弁の条件などある程度の合意が得られていたであろう*53。前に述べたように商務印書館の印刷所新築についても、原亮三郎に工事着手の了解があったのではないかと私は想像する。
 下準備が整ったところで、社長・原亮三郎と取締役の加藤駒二、小谷重の三人が合弁調印のために上海に渡る。旅行の目的は、表面上は、いかにも思いついたように中国における出版界の事情、教育界の現況を調査するものとされた。ゆえに前出引用文にも、そのように書かれている。
 最後の詰めの段階に社長以下重要人物が乗り出す、というのが日本の仕事のやりかたである。すでに商務印書館との合弁の方針は固まっていたと見るべきだろう。ゆえに最終的な条件のすりあわせと調印だけが残っているだけだから、わずか一ヵ月であろうとも両者にとっては十分だったのだ。
 金港堂側は10万元を出資する。商務印書館側は、現有の資産に現金を追加して10万元にする。日本側は「彼我対等の権利を以て遂に合同し」というのだが、事実は、すべてが平等ということでもなかったらしい。高翰卿は、「締結した条件は、決してすべてが平等というものでもなかった。わが方にはふたつの主要な条件があった。ひとつは支配人と理事は中国人であること、ただ日本人ひとりを監査役に選ぶこと。ふたつは雇った日本人は随時退職させることができること」と証言している。張蟾芬が補足するところによると、当時、理事に当選したのは、当然、すべて中国人だった。ただ監査役のふたりのうちひとりは日本人。合弁後、最初に選ばれた監査役は、日本人が田辺輝浪、中国側は張蟾芬本人だった*54。
 平等な合弁であれば、支配人が中国人の場合は、副支配人は日本人、あるいはその逆となってもいい。ただし、従来からの私の主張なのだが、この合弁は、原亮三郎個人の投資だったのだから、厳密な意味で対等平等のものとは、少し違うのではないか。

[-2 5万元の捻出
 合弁にあたって、金港堂側が10万元を出資する。原亮三郎が出せばいいことだからこれにはなんの問題もない。商務印書館側は、1901年の第一次増資で5万元の資産があることになっている。その差額5万元を商務印書館は、どのように調達したのか。
 この時の増資に応じたのは、ほとんど商務印書館の著訳者と職員であった。
 厳復、謝洪賚、艾墨樵、沈知方、沈季方、高鳳崗、張廷桂、李恒春、鮑咸亨の名前があがっている*55。
 こういった増資は、普通、合弁開始までに集金が完了しているものなのだが、どうしたわけか遅れて翌1904年11月になってようやく納められた*56。まるまる1年がかかったことになる。5万元という金額が相当重荷になっていることがわかるだろう。しかし、ままならぬ資本調達も金港堂との合弁以降、様子が違ってくる。営業が順調に発展するにつれて、投資に応募する人間が増え、資金調達が容易になったのだ。
 営業の発展には、出版書籍の内容が時宜を得ているほかに、印刷品質の向上が不可欠な条件のひとつだ。商務印書館と合弁することになった金港堂は、長尾雨山、小谷重、加藤駒二ら教科書編纂の熟練者を送り込み、編集の要領を伝えた。それと同時に印刷技術改善のため、同じく印刷工をも上海に派遣した。のちの商務印書館が、中国に冠たる出版社としての地位をきづいたその基礎は、金港堂との合弁10年間にうちたてられたという私の主張をここでもくりかえしたい。

[-3 合弁と教科書事件の謎
 くりかえしになるが、金港堂と商務印書館の関係は、1901年あるいは1902年はじめにはすでに始まっていたと考えられる。商務印書館と金港堂の合弁は、原亮三郎にしてみれば既定の方針通りだっただろう。誤算があったとすれば、中国では商務印書館の出火と、日本での、突然、降ってわいたように発生した教科書事件である。事件そのものは、1902年12月の第一回捜索にはじまり、1903年の5月か6月には一段落する。その間、金港堂関係者は、身動きがとれなかった。もし、教科書事件が発生しなかったとしたら、両者の合弁はもう少し早目に実現していたかもしれないと想像するのだ。
 原亮三郎一行が上海に到着したのを見て、商務印書館が「外資利用」のため合弁を承知した、というのは誤解であると「金港堂との合弁」で述べた。これと同種類の誤解、推測だと考えるのだが、金港堂は、教科書事件が契機になって中国に進出したという説がある。
 例をあげよう。「1902年、“教科書疑獄事件”が発生し、名誉と営業の両面で極めて大きな影響をうけたため、転じて上海で印書館を設立しようとした」*57という記述がある。また、マニング・イプは、原亮三郎が、教科書事件で連座した長尾雨山、小谷重、加藤駒二に対して責任を感じ、彼らの才能を発揮させるために上海で会社を開設しようと考えた。その過程で商務印書館との合弁になった、と推測する*58。
 金港堂の上海進出は、教科書事件発生以前の計画だから、上の説は成立しない。


\ 編訳所の移転(3回目)

H美租界新衙門東首祥麟里間壁成字一三六四号
 編訳所が、蓬路から表記の場所に移転したのは、光緒三十年八月二十九日(1904.10.8)のことだ。正確な日にちがわかるのは、蒋維喬日記に「八月二十九日 本日、商務の編訳所が新衙門東、旧愛国女校新家屋内に移転する」*59と書いてあるからだ。
 美租界新衙門東首祥麟里間壁成字一三六四号という番地は、『東方雑誌』第9期(光緒三十年九月二十五日<1904.11.2>)に挟み込まれた広告「商務印書館徴文広告」に見える。同一ビラは、『繍像小説』第22、23期にも掲げられる*60。
 文監師路を西に行って北浙江路にぶつかるところに会審公廨がある。地図では会審公堂という名前のところだ。ここは俗に新衙門とも呼ぶ*61。
 会審公堂の東に地図をたどると、洋麟里という表示がある。『上海指南』あるいは最近の石頌九主編『上海市路名大全』増補本(上海人民出版社1989.12初版未見/1990.12第二次印刷)を見ても、洋麟里という居住区名はない。祥麟里の誤植だろう。ここで約3年足らずをすごしたあと、閘北へ印刷所と編訳所を統合した建築物を新築して移転することになる。


] 印刷所と編訳所の統合

(図11)

I閘北宝山路
 閘北宝山路へ新築建造物を建てるため、光緒三十年夏、宝山路に10畝の土地を購入した*62。
 光緒三十年(1904)夏といえば、新衙門東祥麟里に編訳所を移したのとほぼ同時間である。すでに3年後をみすえて行動を起こしていることになる。
 新しい工場に興味をおぼえたのか、光緒三十三年二月二十九日(1907.4.11)夕方5時に、蒋維喬は、張元済、高夢旦らと連れ立って見学におもむいている*63。
 同じく蒋維喬日記に、「五月初二日 編訳所は、明日、上海駅北の新工場内に移転するため、午後はすべてをかたずけるため仕事をやめた」*64とあるところから、閘北宝山路の編訳所をふくむ新工場は、五月初三日(1907.6.13)には機能していたことが理解できる。
 光緒三十三年(1907)、新家屋が完成したときには、敷地は30余畝にふえ、のちに70余畝にまで拡張している*65。
 宝山路の商務印書館(図11)は80余畝あり、一大会社という名前に恥じない規模であるのが理解できよう。


]T 発行所の一時移転

J四馬路晝錦里口
 発行所は、棋盤街に移ってから一貫して同じ場所にある。ただし、改築を1回行なった(図12)。工事が終わるまで、臨時に四馬路晝錦里口に仮住まいをする。その期間は、『東方雑誌』の奥付に記載された発行所の住所を追跡すると、宣統二年九月から民国元年6月までの約1年間であったらしい*66。
 張蟾芬は、その場所を四馬路聚豊園菜館旧址、杏花楼の向かい、とのべる*67。地図をみると山西路東、九江路南、漢口路北に「書錦里」がある。書錦里という居住名はない。晝錦里の誤植だと思う。しかし、張蟾芬のいう場所とはちがう。
 遠山景直、大谷藤治郎編『蘇浙小観』(江漢書屋1903.6.9)の地図には、四馬路に面して「南書錦里」がある。これも南晝錦里の誤植だろう。地図でいえば、四馬路北、山西路西の無記名の場所(地図J)が、仮発行所に該当しそうだ。
 夏瑞芳が、ゴム株の投機に手を出し、手痛い損失をこうむったのがこの時期である。
(図12)

]T-1 ゴム恐慌
 1907年から1911年まで、中国で発生した金融恐慌の一覧*68を見るとわずか5年間に20件もの事件が発生している。ゴム恐慌は、そのなかのひとつで、一名陳逸卿事件という。宣統二年六月より上海で発生、漢口、天津、営口および長江沿岸の各地に波及した。世界的にゴムの価格が高騰していたのに目をつけたイギリス商人が、上海でゴム株式会社を設立、ゴムが有望であることを宣伝し、これに投機者がむらがったのだ。茂和洋行(一説に新旗昌洋行)の買弁兼正元銭荘主人の陳逸卿が、兆康銭荘と謙余銭荘の後押しを受け、集めた資金をすべてゴム株の購入にあて、そのことごとくを失った。正元、兆康、謙余の三銭荘は倒産(宣統二年六月十四日<1910.7.20>*69)、その他いくつかの銭荘も苦境に陥った一大金融恐慌である。
 「夏瑞芳は、商務印書館の資金を利用し投機に参加し、百万元あまりを失ってしまった」*70という記事もある。「百万元あまり」というのは誇張としても、感覚的にはそれに等しい金額だったのであろう。
 宣統二年二月初七日(1910.3.17)より、張元済は、欧米の教育と印刷状況を視察に世界旅行に出発した。この旅行中に商務印書館からの連絡で夏瑞芳のゴム投機失敗を知ったようだ*71。
 張元済は、外国にあって商務印書館の同僚に方策を指示したのは当然のこととして、日本の原亮三郎、山本条太郎にも手紙で善後策を相談、報告していた。マニング・イプが公表した張元済の手紙3通が、そのかんの事情を説明している*72。

 第1信:十月初六日(1910.11.7)張元済(ロンドン)→原亮三郎あて
 イプの説明によると、第1信の内容は大要次のようだ。至急電報を打ったが返事がない。夏瑞芳は、精神的にまいっていて仕事に専念できない。商務印書館の競争相手が「商務は欠損をだしている」というデマをまき散らしている。商務が恐慌にまきこまれないようにすること、夏瑞芳を仕事に専念できるようにすること、このふたつを相談したい。陰暦十一月に上海へ行くという山本条太郎氏に早く出発してほしい。
 上海にきてもらって相談したい、とあるのだが、張元済自身はロンドンにいる。張元済を除いた上海商務印書館の幹部、当然、長尾雨山らをふくむ、と協議してほしいという意味だろう。
 汪家熔は、ゴム恐慌と夏瑞芳の関係を説明して、以下のようにいう。
 沈季方は、商務印書館で契約書、書簡などを保管する仕事をしていた。彼は夏瑞芳の腹心の者で、ふたりして宝興不動産会社を共同経営していたが、ゴム恐慌のとばっちりをうけて破産してしまう。商務印書館も辞めた沈季方は、商務印書館が宝興の不動産を購入してくれなかったから破産したのだと恨み、銭荘がつぎつぎと倒産するなかで、商務印書館の株所有者に株をひきあげるよう扇動したという。これが後に「夏瑞芳のゴム投機失敗」と伝えられた、というものだ*73。
 張元済の手紙と汪家熔の記述をつきあわせてみると、「商務は欠損をだしている」というデマをまき散らしたのは、商務印書館を辞めた沈季方ということになる。
 ロンドン滞在中の張元済をしてこの手紙を書かせるほど、夏瑞芳の精神的衝撃の程度が深かったのだろうと理解できる。

 第2信:十二月初四日(1911.1.4)張元済(東京)→原亮三郎、山本条太郎あ て(図13)
 ……三井社員の高橋君が上海に来て、おふたりの考えを伝えました。昨年、夏瑞芳が会社から10万元を借りて、会社の株を抵当にするのは商法に違反しているためすみやかに斡旋案を準備すべし、とのこと。……将来、再び失敗することのないようにすることが必要です。……同僚と相談し、夏君が安心して会社で働くためには負債を完済する望みを持たせることですが、ただ、その額が大きすぎ、急には良策がありません。今、その借款の利息を年5厘に減じ、株で得られるはずの利息を先に支払うつもりです。5年以内は元金を返済しません。……夏君が抵当にした10万元は、三井洋行に移転し(即ち本館が10万元を三井に預け、三井が夏君に貸しつけます)商法に抵触しないようにします。……宣統元年より給料を100元増額し(注:それまでは200元)、交際費2,000元を手当とします。

 手紙の末尾は旧暦表示であるが、日本は新暦の正月なので手紙の中でも年賀を行なう。
 商務印書館から三井洋行に10万元を預金し、それを三井から夏瑞芳に貸しつけるというのは、考えてみれば商務印書館が借金を肩代わりするということだろう。一方で夏瑞芳の月給を値上げし、交際費として手当を支給する、それも一年さかのぼって、というのだから、商務印書館にとっていかに夏瑞芳が重要な人物であるかが想像できる。これが、張元済たちが考えた、商務印書館と夏瑞芳の両方を救済する方法だった。
 イプが言うところによると、夏瑞芳のような地位にいる人は、会社の金を、いかなる討論をも経ずして自分で勝手に「借用」できる資金源とみなしていたという*74。
 外見は立派な会社だが、その会計は、俗にいう「ドンブリ勘定」だ、といっているのと変わらない。

 第3信:十二月二十四日(1911.1.24)張元済(上海)→山本条太郎あて(図 14)
 ……商務印書館の経済状況は、最近、ややゆとりができたようです。会社の仕事の規則、組織はまだうまくなく、支配人の権限もまだはっきりしていません。……愚見ながら規則を改め、理事と支配人の権限を区別し、資金の出入を管理する規則を定める必要があり、そうしてようやく会社の発達を図ることができると考えます。

 第3信は、第2信より20日しか経過していない。「ややゆとりができた」というのは、落ち着いたという意味だろう。張元済は、組織の点検と再構築を考えていると山本条太郎に伝えている。


]U 増加する資本金

 王雲五『商務印書館与新教育年譜』(台湾・商務印書館1973.3)の記録を見ると、1897年4,000元、1901年5万元、1903年20万元、1904年50万元、1905年100万元、1913年150万元、1914年200万元と資本が急増しているのがわかる。
 朱蔚伯論文も同じく、1904年50万元、1905年100万元、1913年150万元とする。
 王雲五のものでは増資の内訳がないので、別の資料によって補う。ところが、別の資料を見ると王雲五、朱蔚伯の述べるものとは一部が食い違ってくるのだ。
 今、主として以下の文献による(発表順)。

文献1:林爾蔚、汪家熔「漫談商務印書館」『商務印書館館史資料』之二十 五 北京・商務印書館総編室編印1984.2.10。
文献2:汪家熔「商務印書館創業諸君」『江蘇出版史志』第7期1991.10。
文献3:長洲(汪家熔)「商務印書館的早期股東」『商務印書館九十五年』 北京・商務印書館1992.1。上の「商務印書館創業諸君」を改題転載した もの。

 どういうわけかそれぞれの記述にユレがあって、これが確実だというふうにいえない。どちらが正しいのか、私は判断する材料を持っていないので書いてあるままを紹介しておく。
 創業時の3,750元、1901年、張元済、印錫璋の投資による5万元、金港堂との合弁で20万元、とここまでは各文献ともに相違はない。
 王雲五は1904年に50万元になったというのだが、汪家熔論文には、該当するものがない。そのかわり次のようになっている。
 1905年旧暦二月に10万元を日中双方で折半した。

投資者
文献1:不記
文献2:原亮一郎、山口俊太郎、利見合名会社、篠崎都香佐、益田太郎、益 田夕夕、藤瀬政次郎、鈴木島吉、神崎正助、丹羽義次、伊地知虎彦。
文献3:原亮一郎、山口俊太郎、利見合名会社、篠崎都香佐、益田太郎、益 田玉、田辺輝雄、藤瀬政次郎、鈴木島吉、神崎正助、丹羽義次、伊地知 虎彦。

 文献2に見えない田辺輝雄が文献3に出現する。文献2の益田夕夕が、文献3で益田玉に改められる。もともとは、たぶん益田タマと記述されていたのだろう。
 1905年旧暦二月下旬(数ヵ月後ともいう)にもふたたび10万元を増資する。

投資者
文献1:高夢旦、蒋維喬、楊瑜統、胡君復、杜亜泉、寿進文、兪志賢、顧庚 吾、長尾槙太郎
文献2:長尾、田辺輝雄、小平元、木本勝太郎、原田民治
文献3:長尾、小平元、木本勝太郎、原田民治

 具体的な名前が挙っているので、根拠があると思われる。ただし、中国側の投資者を掲げたり省いたり、日本側にも名前の出入りがある。資料の整理がうまくいっていないのか、その理由は不明。
 合計すれば、この時点で資本金は40万元だ。
 この時、株主は最高の配当が4割、法定積立金が5.4分、最終的には5割の利益をえることができたという(文献3)。超優良株といえるだろう。つまり、商務印書館に関しては、金港堂との合弁以後、投資の意味が変化したのだ。以前は、投資といっても必要経費の補填に利用されていて、出資者をさがすのがむつかしかった。それが、営業の順調化とともに、利潤の高分配が期待されるようになり、出資者に不自由をしなくなった。
 1907年、24万元の増資を決めた。鄭孝胥、王俶田、林琴南、羅振玉、王国維、劉子楷、金銭、伍光建が株主になる(文献1)。
 1907年で合計64万元の資本額となる。王雲五、朱蔚伯のいう1905年の100万元とは、かけはなれる。なぜだか知らない。そうして汪家熔論文は、一気に合弁解消につきすすみ、商務印書館側が日本側に支払った金額を明らかにする。

]U-1 日本資本回収の謎
 日本資本回収にあたり、商務印書館が支払った金額については、朱蔚伯論文が詳しい。
 1913年末で資本総額150万元、そのうち日本株の55万3,916.5元を返還することに決定した。支払いは、1914年1月6日と6月30日の2回分割払い。商務印書館負担の利息が4,370元。為替差額1万4,477.5元。経費2,769.58元。合計2万1,617.08元。さらに支払い遅延利息が1万2,464元。あれこれをすべて合計すると、約58万8,200元になったという。
 端数までこまかく述べられているから、朱蔚伯は、商務印書館の館内資料を元にしていることがわかる。
 汪家熔論文では、次のようになっている。
 文献1:当時の総資産は150万元。日本資本は、その25.2%で、資本金の21%を上積みする、金額にして8万元近く。合計45万元である。
 与えられた数字をもとに計算する。150万元の25.2%は、37万8,000元となる。これに8万元を加算すると、合計45万8,000元だ。
 文献2:日本側の持ち株は37万8,100元で、総額の25.2%を占めていた。その他に利益の16.5%、総計8万元を積み上げることに決定した。
 同じく計算してみよう。37万8,100元が総額の25.2%であるならば、資本総額は、約150万元となって王雲五、朱蔚伯の証言と同じになる。こちらでは、利益の16.5%とあって文献1の21%ととは食い違うのだが、どういうわけか金額にすると同じになる積み上げ金8万元を加える。結局、商務印書館が金港堂に支払ったのは、45万8,100元となった。
 文献3:日本の持ち株は25.2%。出資金総額は、37万8,100元。33%の値上がりがあり、それを金額になおすと12万4,000元余りである。
 計算する。こちらには、上積み金の8万元はない。33%の値上がりは、計算すると12万4,773元だ。37万8,100元に12万4,773元を加算すると、50万2,873元となる。
 文献1で45万元、文献2では45万8,100元、文献3の50万2,873元という金額があらわれる。同一人物の文章で、これほど金額が変化するのも不思議だ。汪家熔は、論文のなかで自らが提出した数字について妥当であったかどうかに触れないから、最近提出した50万2,873元が正しいと考えているのだろう。
 朱蔚伯のいう約58万8,200元とくらべると、汪家熔の数字は、約8万5,000元から13万8,000元の差がある。朱蔚伯、汪家熔ともに資料にもとづいているはずなのだが、なぜ一致しないのだろうか。朱蔚伯の利用できた資料が、汪家熔の時代には紛失してしまったという可能性は高い。それにしてもいろいろな数字がでてくるものだ。
 最近、公表された資料がひとつある。

 文献4:「民国三年一月三十一日非常股東大会董事会報告」『清末小説から』第30号1993.7.1

 1914年1月6日、商務印書館は、金港堂との合弁を解消した。その月の31日に株主特別総会を開催し、日本株の回収などについて理事会より報告があった。その報告の内容が明らかにされたのだ。
 それによると以下のようである(関連部分のみについて紹介する)。
 1913年、日本人の所有株は3,781株で全体の四分の一であった。日本の株主は商務印書館に干渉することはまったくなく、問題が生じると協力して対処しないことはなかった。ところが、同業者との競争が激しくなり、商務印書館に日本資本が入っていることを理由に、印刷の受注からはずされたり、あからさまに攻撃されたり、教科書の審査から排除されたりした。精神上の苦痛たえがたく、理事会で決議して日本資本を回収することにした。夏瑞芳が日本におもむき協議し、1913年11月には福間甲松氏が上海に来て交渉を開始した。日本の株主がいうには、民国2年の営業は約280万元にのぼり、元年よりも約100万元が増加している。1株につき配当利益は、3割前後、元利合計130元でなければならない。また、編集原稿料の80、90万元は、わずか2万元にしか(商務印書館側が)評価しておらず、工場の建物、機器の原価68万元も35万元にしか評価していない。日本の株主が株を手放せば、これらの利益はすべて中国人の所有となる。増額を要求する、と。十数回の協議をへて、1株について16.5元を加える。一切の雑費は、合計約8万元あまりとする。民国3年1月6日に調印し、先に半額を支払い、残りは6ヵ月以内に返済する。
 日本側の持ち株が3,781株というのが基本だ。汪家熔は、「日本側の持ち株は37万8,100元」(文献1、2)と書いているが、別に誤りではない。1株=100元とすれば、そうなる。ただし、日本側の要求は、最初が1株=130元であったが、協議のすえ16.5元を上乗せし最終的に1株=146.5元に決着したことになる。これが3,781株だから、総計55万3,916.5元となって朱蔚伯証言と端数までが一致するのだ。雑費に約8万元、これを加えると約63万3,916.5元となり、これまた朱蔚伯、汪家熔と違った数字になってしまう。
 約58万8,200元、45万元、45万8,100元、50万2,873元、約63万3,916.5元という5種類の数字が出たが、いずれにしても巨額な出費に違いない。しかし、日本資本をしりぞけ「完全華商」をうたうためには、商務印書館にとってはどうしても支払わねばならない代価であったのだ。



【注】
1)郭書吉「上海的里弄」、上海建築施工志編委会・編写辧公室編著『東方“巴黎”――近代上海建築史話』上海文化出版社1991.4。「上海の里弄は、イギリス人不動産業者が、同時期イギリスで行われていた労働者住宅建設からヒントを得て、上海の地に持ち込んだのではないか、と推測される」という記述もある。村松伸『上海・都市と建築 一八四二−一九四九年』PARCO出版局1991.4.30。93頁の注75。
2)沢本郁馬「鍵としての高翰卿『本館創業史』」『清末小説』第15号1992.12.1
3)鄭逸梅「夏瑞芳、鮑咸昌創辧“商務”略記」『書報話旧』上海・学林出版社1983.3。4頁。
4)馬学新、曹均偉、薛理勇、胡小静主編『上海文化源流辞典』上海社会科学院出版社1992.7。145頁。
5)章錫s「漫談商務印書館」『文史資料選輯』第43輯1964.3/1980.12第2次印刷(日本影印)。63,64頁。
6)王雲五『商務印書館与新教育年譜』台湾・商務印書館1973.3。2頁。
7)鄭逸梅「夏瑞芳、鮑咸昌創辧“商務”略記」4頁。
8)高翰卿「本館創業史」『商務印書館九十五年』北京・商務印書館1992.1。4頁。
9)荘兪は、「北京路順慶里」と誤る。『商務印書館九十五年』に再録された際も誤りは訂正されていない(722頁)。荘兪「三十五年来之商務印書館」荘兪、賀聖恤メ『最近三十五年之中国教育』上海・商務印書館1931.9所収。『商務印書館九十五年』(721-763頁)再録。ただし写真類は省略してある。
10)何歩雲「美華書館」『中国大百科全書』新聞出版(北京・中国大百科全書出版社1990.12。213頁)による。別に、アメリカの教会から命をうけて伝道師・宋耀如が1892年に設立した、という説もある(曹裕才「美華書館和商務印書館的淵源」『商務印書館館史資料』之三十一 北京・商務印書館総編室編印1985.6.1。28-32頁)。首肯しがたい。関連するものとして林茂「商務印書館創立の経過――併せて宋査理と商務の関係について」(『東方』第63号1986.6.5)を参照のこと。林茂論文では、華美印書館と誤る。
11)出資者7名説が汪家熔によって唱えられているが、私は、賛成しない。沢本郁馬「鍵としての高翰卿『本館創業史』」
12)樽本照雄「初期商務印書館の印刷物」上下 『清末小説から』第23号1991.10.1、第24号1992.1.1
13)汪家熔「記《華英初階》注訳者謝洪賚先生(1875-1916)」『商務印書館館史資料』之三十七 商務印書館総編室編印1987.4.10。/汪家熔「記《華英初階》注訳者謝洪賚先生」『出版史料』1988年第3・4期(総第13・14期)1988.9。80頁。
14)商務印書館発行の英語辞書について書いたものに、汪家熔「商務印書館英語辞書出版簡史」『商務印書館九十五年』北京・商務印書館1992.1がある。
15)実藤恵秀「初期の商務印書館」『日本文化の支那への影響』所収。蛍雪書院1940.7.5。245頁。
 中国では、汪家熔が実藤の文章を中国語訳して引用する(『大変動時代的建設者』成都四川人民出版社1985.4。45頁)。
 樽本照雄「『昌言報』と商務印書館」表題は「清末小説・研究結石」『中国文芸研究会会報』第60号 1986.7.31
16)矢作勝美『明朝活字』平凡社1976.12.20。77、86頁。修文書館については、文献にいろいろな表記がある。修文印書館、修文印刷局、修文印書局、修文印刷所などだが、本稿では矢作の書く「築地活版所出張所修文書館」による。
 中村忠行「検証:商務印書館・金港堂の合弁」(二)『清末小説』第13号 1990.12.1の註1によると、修文館の開館は、1884年8月という。
17)鄭逸梅「夏瑞芳、鮑咸昌創辧“商務”略記」5頁。
18)包天笑『釧影楼回憶録』香港・大華出版社1971.6。221頁。
19)朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」『文化史料(叢刊)』第2輯 1981.11。142頁。
20)鄭逸梅「夏瑞芳、鮑咸昌創辧“商務”略記」4頁。
21)鄭逸梅「夏瑞芳、鮑咸昌創辧“商務”略記」5頁。
22)唐 絅「印有模与商務印書館」『商務印書館九十五年』北京・商務印書館1992.1。595頁。
23)蒋維喬「編輯小学教科書之回憶――一八九七年−一九〇五年」『出版周刊』第156号 1935初出未見。 張静廬輯註『中国出版史料補編』北京・中華書局1957.5。140頁。
24)朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」145頁。
25)王雲五『商務印書館与新教育年譜』2頁。
26)王雲五『商務印書館与新教育年譜』2頁。
27)汪家熔『大変動時代的建設者』成都・四川人民出版社1985.4。47-59頁。
28)高翰卿「本館創業史」6頁。
29)樽本照雄「商務印書館と山本条太郎」『大阪経大論集』第147号1982.5.15。樽本『清末小説論集』法律文化社1992.2.20所収。
30)汪家熔「張元済」『中国大百科全書』新聞出版(北京・中国大百科全書出版社1990.12。466-467頁)による。
31)汪家熔『大変動時代的建設者』39-42頁。『外交報』に関しては、すべて汪家熔論文による。
32)朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」143頁。
33)張元済の入館時期について、1901、1902、1903年と諸説あるが、今は、『張元済年譜』の1902年説に従う。
34)朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」143頁。
35)高翰卿「本館創業史」6頁。
36)汪家熔整理「解放以前商務印書館歴届負責人(董事長、総経理、総編輯)」『商務印書館館史資料』之十九 北京・商務印書館総編室編印1982.11.5。
20-21頁。
 ちなみに同資料から、理事会、総支配人の関係部分のみを掲げておく。
1.董事会主席
1903-1909年初、有董事四名、不設固定会議主席
1909年3月-1912年5月 主席 張元済
1912年6月-1913年5月 主席 鄭孝胥
(以下略)
2.総経理、経理
1897-1913年      経 理 夏瑞芳
1914年1月       総経理 同上
1914年1月-1915年11月 総経理 印有模
(以下略)
37)高平叔「蔡元培与張元済」『商務印書館九十五年』北京・商務印書館1992.1
38)包天笑『釧影楼回憶録』236-237頁。
39)朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」143頁。
40)樽本照雄「商務印書館の火災」『清末小説から』第21号 1991.4.1
41)章錫s「漫談商務印書館」66頁。
42)羅品潔遺作「回憶商務印書館」『商務印書館館史資料』之三 1980.11.25。18頁。
43)朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」145頁。
44)高翰卿「本館創業史」7頁。
45)『上海指南』上海・商務印書館宣統元年(1909)五月初版七月再版。巻二の三オ
46)馬学新、曹均偉、薛理勇、胡小静主編『上海文化源流辞典』552頁。
47)無署名「清国に於ける金港堂の事業」『教育界』第3巻第7号1904.4.3。123頁。稲岡勝氏より複写をいただいた。
48)張樹年主編『張元済年譜』42頁。
49)論文の一部分をあげる。
章錫s「漫談商務印書館」『文史資料選輯』第43輯1964.3/1980.12第2次印 刷(日本影印)。68頁。
胡愈之「回憶商務印書館」『文史資料選輯』第61輯1979.4/1981.12第2次 印刷(日本影印)。207頁。
朱蔚伯。「商務印書館是怎様創辧起来的」『文化史料(叢刊)』第2輯 19 81.11。146頁。
蒋維喬「夏君瑞芳事略」『夏粋方先生哀挽録』初出未見。『商務印書館九十 年――我和商務印書館』北京・商務印書館1987.1。4頁。
陳叔通「回憶商務印書館」『商務印書館九十年――我和商務印書館』北京・ 商務印書館1987.1。134頁。
50)さねとうけいしゅう『中国留学生史談』所収。第一書房1981.5.13。97頁。
51)『清末小説研究会通信』第24号1983.1.1。のち、樽本『清末小説きまぐれ通信』清末小説研究会1986.8.1所収。
52)大隈重信発起『開国五十年史付録』同発行所・刊1908.10.18。292-293頁。稲岡勝氏より複写をもらいました。
53)中村忠行「『繍像小説』と金港堂主・原亮三郎」『神田喜一郎博士追悼中国学論集』二玄社1989.12.15に、「勿論、正式調印に至るまでには、かなりの時日を必要としたであらうが、筆者は、前年(注:1902年)秋には大筋で話は合意し、恐らくは仮調印の形で、事業は進められてゐたと思ふ」とある。544頁。
54)高翰卿「本館創業史」8頁。実際は、契約通りでもなかったという。確かに日本人が支配人になることはなったが、理事は、最初、日中から2名ずつ(印錫璋、夏瑞芳、原亮三郎、加藤駒二)、3年後は、中3日2(夏瑞芳、張元済、印錫璋、原亮一郎、山本条太郎)、さらに中2日1(夏瑞芳、印錫璋、原亮一郎)の割合に変化し、1909年より、日本人は理事になっていないという。林爾蔚、汪家熔「漫談商務印書館」『商務印書館館史資料』之二十五 北京・商務印書館総編室編印1984.2.10。17頁。()内の名前は、汪家熔論文による。なお、張蟾芬が述べる監査役の田辺輝浪は、田辺輝雄と同一人物か。
55)林爾蔚、汪家熔「漫談商務印書館」4頁。
56)林爾蔚、汪家熔「漫談商務印書館」4頁。
57)林爾蔚、汪家熔「漫談商務印書館」3頁。
58)葉宋曼瑛著、張人鳳訳「早期中日合作中未被掲開的一幕――一九〇三年至一九一四年商務印書館与金港堂的合作」『出版史料』1987年第3期(総第9期)1987.10。75-76頁。原文は、MANYING IP“A HIDDEN CHAPTER IN EARLY SINO-JAPANESE CO-OPERATION: THE COMMERCIAL PRESS-KINKODO PARTNERSHIP,1903-14”,“THE JOURNAL OF INTERNATIONAL STUDIES”NO.16 SOPHIA UNIVERSITY1986.1
59)汪家熔選注「蒋維喬日記選」『出版史料』1992年第2期(総第28期)1992.6。48頁。『張元済年譜』52頁にも蒋維喬「鷦居日記」からの同じ引用がある。
60)樽本照雄「『繍像小説』の刊行時期ふたたび」『野草』第52号 1993.8.1
61)『上海指南』巻二の三オ
62)高翰卿「本館創業史」10頁。
63)汪家熔選注「蒋維喬日記」51頁。
64)汪家熔選注「蒋維喬日記」51頁。
65)朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」147頁。
66)高翰卿「本館創業史」7頁で、張蟾芬が「宣統三年(1911)春」と書いているが、記憶違いだろう。
67)高翰卿「本館創業史」7頁。
68)滄江「国民破産之搨宦v『国風報』第2年第14号宣統三年五月念一日(1911.6.17)
【参考文献】
中国人民銀行上海市分行編『上海銭荘史料』上海人民出版社1906.3初版未見 /1978.7第三次印刷
熊尚厚「夏瑞芳」李新、孫思白主編『民国人物伝』第1巻北京・中華書局19 78.8
沢本郁馬「商務印書館と夏瑞芳」樽本照雄『清末小説閑談』法律文化社1983. 9.20所収。375-376頁。本論文は、中国語に翻訳された。筱松訳「商務 印書館与夏瑞芳」『商務印書館館史資料』之二十二 北京・商務印書館 総編室編印1983.7.20
郭太風「橡皮股票風潮」信之、瀟明主編『旧上海社会百態』上海人民出版社 1991.2
葉宋曼瑛著、張人鳳、鄒振環訳『従翰林到出版家――張元済的生平与事業』 香港・商務印書館有限公司1992.1。香港大学・黎活仁氏よりいただきま した。原書は、MANYING IP “THE LIFE AND TIMES OF ZHANG YUANJI” 北京・商務印書館1985.4
69)湯志鈞主編『近代上海大事記』上海辞書出版社1989.5。685頁。
70)章錫s「漫談商務印書館」70頁。
71)張樹年主編『張元済年譜』87頁。
72)葉宋曼瑛著、張人鳳訳「早期中日合作中未被掲開的一幕――一九〇三年至一九一四年商務印書館与金港堂的合作」79-80頁。第1信は未見。第2、3信の複写をイプ氏よりいただきました。
73)長洲(汪家熔の筆名)「商務印書館的早期股東」『商務印書館九十五年』北京・商務印書館1992.1。652頁。
74)葉宋曼瑛著、張人鳳訳「早期中日合作中未被掲開的一幕――一九〇三年至一九一四年商務印書館与金港堂的合作」79頁。


(さわもと いくま)