清末小説 第16号 1993.12.1


檢證:商務印書館・金港堂の合辧(三)


中 村 忠 行


(7)

 《商務書館華英音韻字典集成》・《商務書館華英字典》に次いで注目されるのは,《和文漢譯讀本》八巻である。蓋し,これ亦<商務書館印行>とするからである。管見に入つた<實藤文庫>本(234)は,巻一から巻四までを合綴一册としたもので,奧付は失はれてゐるが――或いは,當初から省かれてゐたかと疑はれもするが――,幸ひ巻頭の扉が存してゐて,或程度その不備を補つて呉れる。すなはち,扉は印面を縱に三分割し,中央には楷書で《和文漢譯讀本》と肉太に書名を記し,右欄には明朝活字體で<光緒二十七年九月譯 譯者 澄江沙頌z、梁溪張肇熊>,左欄にも同じ活字體で,<明治三十三年十二月著 著者日本坪内雄藏/飜印必究  商務書館印行>と記し,原著者・譯者・刊年など一わたりのことが,明示されてゐるからである(圖版7)。
 底本となつた坪内逍遥の《國語讀本》は,逍遥が<冨山房>の依囑を受けて,三年がかりで完成したもので,當初は《讀本(尋常小學用)》として出版(明治三十二年,1899)されたが,翌三十三年八月<小學校令>並に同<施行規則>の改正を見たので,それに準據して若干の手直しを施し,書名も《國語讀本》と改め,尋常小學校用は同年九月,高等小學校用は十月に出版された。何れも木板刷,和裝八册で,各學年二册づつが充てられてゐる。《和文漢譯讀本》は,その尋常小學校用讀本の訂正再版本(明治三十三年十二月十九日發行)に,若干の注を施したものを石版刷としたまでのもの,例せば,
<かき の たね と にぎりめし>
の右に,<柿>・<之>・<果實之核>・<與>・<飯團>と注するが如くであ

(圖版7)

る。語法的な説明は勿論,日本語の發音・表記法・假名などの説明も解説もない。贅するまでもなく,坪内讀本は,日本の學童を對象として編纂されたものであり,教師も日本人であることを前提としてゐる。從つて,それらは全く必要としないが,《和文漢譯讀本》となると,事情は全く異る。學堂で使用される日本語の教科書といふよりは,時代の要望に應じた速成日本語學習書といつた色彩が強くなるからである。當然のことながら,それなりの補輯が加へられなければならないのであるが,さうした配慮が全く拂はれてゐないから,極めて缺陷の多いものとなる。にも拘らず,これが賣行きは,決して惡くはなかつたらしい。蓋し,時流に乘つたこともさることながら,又,從來の中國の教科書には,絶えて插繪がな

(圖版8)

かつたのに對し,坪内讀本では殆んど毎頁異つた插繪があつたことも,大いに關係してゐるといふ指摘もある。とまれ,金港堂の投資後も,長尾槇太郎の改訂譯本が光緒三十年十月に首版を發行,同三十二年八月には五版を重ねてゐることは,注目してよい(圖版8。實藤文庫本,242)。この本は,底本の八册を六册に壓縮してゐるが,巻中間々語法的な問題の説明を加へ,巻末には全文の漢文譯が添へられてゐて,かなり速成日語學習書に近くはなつてゐるが十分ではなく,長尾先生としても不本意なお仕事であつたらう。
 ところで,沙頌z・張肇熊合譯の《和文漢譯讀本》には<光緒二十七年九月譯>とあるから,その出版は,遲くとも同年内にあるであらう。假りに年末としても,商務印書館が回祿に遭ふより,半年も以前のことである。この時點で,金港堂が商務印書館に關係してゐたとは到底考へられぬ。蓋し,金港堂は我國の教科書出版會社の最大手と自負する者,冨山房と同じく明治三十三年(1900)九月に《尋常國語讀本》和裝八册を,同十月には《高等國語讀本》和裝八册を上梓し,同年十二月にはそれぞれの訂正再版を發行してゐる。流石は,多年この業界に君臨して來た金港堂の編輯するところだけあつて,兒童の心理や生活に則した教材の選擇と配備,平易な文章表現には定評があつた。編輯者の心の配りも周到で,例へば,尋常讀本の巻一と二には甲乙二種のものが用意され,乙種では巻一は片假名のみ,巻二に入つて平假名が導入されるといつた試みがなされてゐたり,《尋常國語讀本要解》全一册・《尋常國語讀本教授書》全四册といつた教師用の手引書までも準備されてゐたりもする。他社の教科書を漢譯する必要は,さらにない。

 觀點を換へ,冨山房の側から考察を試みよう。
 社主坂本嘉治馬にとつても,坪内讀本は想ひ出の多い出版物だつた。その自傳に,一章を設けて詳述する所以である。
 抑々,坂本が國語國文學者ならぬ坪内逍遥に白羽の矢を立てたことは見當を失したものではなかつた。逍遥は既に文壇の大家に屬してゐたから,大いに宣傳の效果もあつたであらうが,又,飜譯家乃至は英文學者として,國語國字問題や國語教育に就いても,一家の見識を有してゐたと見られるからである。殊に,明治十八年(1885,時に逍遥廿七歳)知人田口高朗の依頼を拒み難く,師範學校編纂の《小學讀本》第一(文部省刊)を英譯し,《英文小學讀本》巻一として,香雲堂書店から上梓する*1といふ珍らかで貴重な體驗を有つてゐた。又,明治廿八年以後は,東京專門學校への出講の傍ら,早稻田中學の教頭として<中等教育に從事してゐた經驗上,教科書から換へてかゝる必要を認めてゐた>し,<いつそ,小學校を私立して其校長にならうかとさへ*2>思ひ惱んでゐた時代であるから,時も坂本に味方した譯である。
 當時,冨山房は創業後未だ幾何もない頃で,經濟的基盤も十分定まつてゐなかつた。が,命ぜられる侭に,當時出版されてゐた他社の教科書を蒐め,檢討に供したばかりでなく,逍遥の推薦する杉谷代水・種村宗八・桑田春風の他に,小學校教育に經驗豐かな小池民治を千葉師範學校から招き,更に洋行から歸朝して間もない文科大學教授上田萬年・芳賀矢一兩博士にも指導と助言を仰ぐ手筈を整へ,社員石原和三郎を選んで專任の事務に當らせ,牛込矢來町に特別の編輯所を設けるなどの熱意を示した。暫らく,坂本の回想するところを聞かう。

 その後三年間の坪内博士の熱心さは非常なもので,ほとんど毎日牛込の編集所へお見えになられた。……(中略)……何しろ,先生も丁度四十前後のお年で,油の乘り切つた時代だから,評判の本になつたことは當然である。かうして本は立派に出來上がつたが,この讀本は從來のものとは違つた根本的に新しい進歩したものであつたから,その内容の説明には非常に苦心した。當時自分は全巻の文章は大抵暗記してをつて,全國の主なる所へ自分が出かけて説明に努めたのである。とにかくこの讀本は日清戰爭後の溌剌たる進歩的國民を教育する最善の武器であつたと確信する*3。

 大變な意氣込みである。これが,他社から無斷で譯出される可能性は,全くあり得ない。蛇足ながら,坂本の自傳に見える次の樣な一節も,若干の參考にはならう。

 この頃は日清戰爭のあとを受けて,支那の留學生が二萬人から,日本へ來てゐた時代であるが,日本の書物が,支那の留學生にさかんに賣れたので,社でも支那人の賣子を店の小賣部へ入れたこともあつた。また自版の地理・歴史・理化學等の書物を漢譯して,支那へ輸出を試みたが,一度に千,二千といふ大量部數の注文が來た。さすがに支那は大國であることが思はれたが,支那には版權制度が布かれてゐないから,勝手に飜刻されるので,僅か二年くらゐで賣行きが止まつた。(栗田書店版p.40)

 冨山房が,自版の書物を華譯して出版したのは,日露戰爭前後からのことで,これを日清戰爭直後のことであるかの如くに語るのは,岸田吟香を擁して發起した<勸學會>のそれが混入してゐる爲であらうか。
 それにしても,ここにあれだけ肝入れも,資金も投じた坪内讀本の華譯のことが語られてゐないのは,何故か。端的に言つて,坂本は《和文漢譯讀本》の存在を知らなかつたに違ひない。而して,逸早くその存在を知つたのは,原亮三郎であつたと推測される。彼は,合辧によつて必然的に生ずべき版權の紛爭を怖れ,圓滿な讓渡を交渉する祕策を練つたに違ひない。折柄,教科書の檢定制度に對處する方案として,<帝國書籍株式會社>の設立が目論まれてゐた。煩瑣ながら,三度坂本の追憶に耳を傾けるとしよう。

 小學校の讀本も豫期したほどは採用されなかつたが,その半分くらゐは採用された,社の金融關係も大體見通しがつきかかつて來た頃,明治三十五年(1902――筆者註)の春,小學校教科書發行の主なる同業者間に,今日のいはゆる統制である,合同經營の話が起つて,間もなく合同會社の設立となつた。この時,冨山房も合同加入の勸誘を受けた。しかし,冨山房としては,あれだけ苦心して大規模の編輯組織で三年掛け,しかも坪内博士の魂を打ち込まれた畫期的の新讀本が,當初の豫期の半分しか採用を得なかつたのであるから,まう一度次期に決戰もしたい氣が躍動してゐたのではあるが,かうした進歩的書物の實質は,まだ世間にわからないことを深く感じたので,このさい斷然小學校教科書の經營を廢止する決意をなし,新會社に對し,發行權讓の交渉をした。合同會社では形式はとにかく,目的は統制にあるのであり,また坪内讀本の眞價を認めてゐたのであるから,急速に話がまとまつて取引が出來た。*4(栗田書店版p.43)

 文中に言ふ<合同會社>とは,<帝國書籍株式會社>――金港堂を中心とする原一族の企業トラスト――のことである。その創立は,明治三十四年(1901)十一月のことであるから,坂本が,「明治三十五年の春」のこととして語るのは,坪内讀本の發行權讓渡を念頭に置いての發言であらう。新會社の發足と同時に,金港堂は小學校教科書の出版を中止し,その發行を新會社に讓り,《教育界》・《文藝界》以下,所謂<金港堂の九大雜誌>創刊などの企畫を次々と打ち出す。偶然のことながら,《教育界》が創刊された日(十一月三日,天長節),ライバル<博文館>の創業者大橋佐平が道山に歸し,佐平の長女時子の夫で,博文館の支配人として營業面に敏腕を振つた小説家の大橋乙羽も,半年ほど前の六月一日に鬼籍に入つてゐたこと,又,佐平の嗣を繼いで社長となつた大橋新太郎が,服喪が明けた明治三十六年(1903)春に,まづ手掛けたのが<日本書籍株式會社>の創立で,社名からして,<帝國書籍株式會社>を意識しての業務整理であつたことは,その侭金港堂の攻勢の凄まじさを傍證するものと言つてよい。冨山房に對するカルテル參加の勸誘も,かうした攻勢の一環として行はれたもので,未だ經濟的基盤の弱かつた冨山房としては,獨立を保つのが精一杯であつたのであるから,坪内讀本の華譯が既に行はれてゐるとは,思ひも及ばなかつたことであらう。


(8)

 《和文漢譯讀本》で,今一つ問題となるのは,譯者に關してである。沙頌zについては,その爲人を知らないから暫らく措く。張肇熊は,清國留學生會館編《日本留學中國學生題名録》(房兆楹輯《清國民初洋學生題名録》初輯)に,

姓 名    年齡 籍貫   着京年月日  費別  學校及科目
張肇熊・謂生 十九 江蘇金匱 廿八年二月 (自費) 清華學校

と見えるその人であらう。號は{庵(譯著による)。年齡は,着京時のそれとすると,光緒二十七年(明治三十四年,1901)は十八歳。坪内讀本の譯者としては聊か若過ぎるし,留學以前の譯業といふことにもなる。もつとも,彼は明治三十五年(光緒二十八年,1902)八月,
鈴木力造著  教育新論(28頁)
中野禮四郎著 教育新史(48頁)
を,東京で出版(自費?)してゐるし,翌年一月には
吉村寅太郎著 日本教育論
を譯出,ついで又,
大森千藏著 初等博物教科書
を編譯してゐる(《江蘇》廣告)から,留學以前,多少日本語を解してゐたに違ひない。

 樽本照雄氏の指摘によると,當時,曾孟樸に招かれ,常熟の<竢實學堂>の総教習として,日本語の教授にも當つてゐた金井秋蘋が義兄小川平吉(射山)に裁した書簡(明治三十五年,1902)の一節に,

常熟の諸生は東文已に成り,目下は日本書を譯し,日々來りて訂正を乞ふのみ。大いに無聊を感じ居候處,常州より予を招くものあり,則ち之に應じ,不日出發いたし可申候。

と見えるといふ*5。日本語の學習熱は,梁溪(無錫)でも盛んであつたらうし,學習と平行して,新學書の譯出も行はれたものらしい。しかも,張肇熊には,實兄と覺しき人に張肇桐があつた。張肇桐は,上にも引いた《日本留學中國學生題名録》に,

張肇桐・葉侯 二十三 江蘇金匱 (光緒二十七年四月) 自費 早稻田大學

と見え,馮自由の<興中會時期之革命同志>(《革命逸史》第三集)に,

張肇桐 江蘇無錫 留學生 東京青年會 壬寅
字葉侯 號軼歐,早稻田大學政治科學生。壬寅與同學秦毓|・周宏業及馮自由等發起青年會。癸卯爲《江蘇雜誌》記者。著有小説《自由結婚》行世,亦鼓吹民族主義之作。*6

と記されてゐる。その籍貫を,前者は<江蘇金匱>とし,後者は<江蘇無錫>とするが,<金匱>は,雍正二年(1723)無錫の一部を割いて縣としたもの,無錫の北十五里ほどの小さな村落だから,<無錫>とするも誤りではない。早稻田での同學秦毓|も無錫の人。その爲人は,馮自由の<秦毓|事略>・<青年會與拒俄義勇隊>などに詳しい。周宏業は湖南時務學堂の學生時代から梁啓超に就き,その跡を追つて日本に來り,早稻田大學に在籍する傍ら,《清議報》の編輯に攜つてゐた。同誌に譯載された矢野龍溪の《經國美談》の譯者としても吾々の耳に親しい。
 張肇桐も亦小説好きの點では,周宏業に劣らなかつた。猶太遺民萬古恨著・震旦女士自由花譯に假託された政治小説《自由結婚》(二十回,未完?光緒廿九年,1903其社刊)は,實は張肇桐の創作するところといふ馮氏の發言は貴重である。作者は強烈な民族主義の立塲から,滿清政府の腐敗を糾彈し,當路者の無能を罵り,保皇立憲論者の迂愚を嘲り,又,東三省の劫掠を圖るロシアの帝國主義にも強く抗議する。その主張は,<青年會>の主張をその侭に反映するもので,周宏業などもそれに影響され,やがて保皇立憲の立塲を捨てるに至る。蓋し,癸卯の拒俄留日學生隊にその名を連ねる(乙區,第四分隊)所以である。
 張肇熊も亦この兄には大いに啓發されたらしい。右の學生隊丙區第三・第四分隊に,それぞれの名を見出す。恐らくは,前記二譯書――《教育新論》・《教育新史》の底本なども,肇桐の送るところではなかつたか。蓋し,彼には,
徳・伊耶陸著 權利競爭論 光緒二十九年一月 文明書局刊
渡邊萬藏著  未來世界論 光緒三十年 文明書局刊 (秦毓|と共譯)
福澤諭吉著  男女交際論
の他に,
越智 直・安東辰次郎共著 實用教育學 文明書局刊
もあつて,教育學にも關心があつた人と覺しく,その書物の選擇に適はしくも感ぜられるからである。


(9)

 閑話休題。ここに想起されるのは,上にも引いた蒋維喬氏の語る左の一節である。

商務印書館編教科書之動機,乃在民元前癸卯。先是各書局盛行飜譯東方書籍。國人因智識之飢荒,多喜購閲,故極暢銷。商務印書館総經理夏瑞芳,見而心動,亦欲印行此類之書。而謀某某二人,託買譯稿。二人招集略諳東文之學生,令充飜譯。譯成稿數十種,售與商務印書館。夏瑞芳立即付印,不料印出後,銷路絶鮮,而稿費已損失一萬元。爾時張元濟辧南洋公學譯書院,恆託商務印書館。瑞芳以張係端人君子,詢以購進之稿,不能暢銷之故。張即云:<蓋將稿件交我檢閲。>閲後,知其内容實欠佳,旋設編譯所,請人修改後,再出版,在北福建路唐家街租屋三楹,設立編譯所。張即介紹譯書院中之同事四五人,爲之修改譯稿。然苦不易從事,張於是介紹蔡元培爲編譯所長,以謀改進云々。*7

 文中の<某某二人>は,王慕陶と戚元丞(}翼~)であるといふ。この年(光緒二十八年,1902)三月,上海で<中國教育會>が結成され,蔡元培が會長に,轟典・蒋智由と並んで,二人は幹事に選出されてゐると,林煕氏は指摘する*8。やや舌足らずではあるが,傾聽に値しよう。蓋し,<戚>と<}>とは韻母を同じくし,聲母も對應する。<元丞>は,}翼~の字で,彼は上海時代屡々<戚元丞>と名乘り,文章も書いてゐたといふ。既述《日本政治地理》の巻末に廣告された新學書の中,《那特逕政治學》(ラートゲン原著,山崎哲藏・李家隆介共譯《政治學》)は,}翼~・王慕陶の合譯であり,《萬國憲法比較》(辰巳小三郎著《萬國現行憲法比較》)は,}翼~の譯である。
 }翼~は,馮自由の<興中會時期之革命同志>(《革命逸史》第三集)に,

}翼~ 湖北 留學生 自立軍 己亥
字元丞。戊戌以官費留日,爲公使館學生。與孫総理往還最密。庚子秋,參加自立軍之役。事敗避匿友人家得免。留東學界出版之《譯書彙編》及《國民報》皆其主持之。辛丑,復在上海發刊《新大陸》月刊,亦鼓吹革命排斥保皇之作。*9

と記されてゐる樣に,光緒廿二年(明治二十九年,1896)舊三月,我が國に送られて來た最初の官派留學生十三名中の一人で,明治三十二年(1899),嘉納治五郎の<亦樂書院>を卒業,東京專門學校に學んだ。この頃から,彼は亡命政客梁啓超や孫文の許に出入し,思想的に啓發されること尠からぬものがあつたが,同時に同志を獲得する目的もあつてか,自ら留學生間に領袖の地位を占める樣に努めた。日華學堂の日記明治三十一年(1899)十月十七日の條には,朱忠光・唐寶鍔などと,}翼~が訪れ,新來の留學生と歡談して歸つたことが見える*10が,やがてお互の親睦を圖り,激勵しあふのを目的として<勵志會>を結成する(光緒廿六年,1900)。謂はば,<譯書彙編社>の母胎である。
 この年七月,唐才常が漢口で擧兵を企て,}翼~も之に參加する。不幸,計畫は事前に洩れ,彼は這々の態で日本に逃げ歸る。そして數ヶ月の後に《譯書彙編》の出版となるが,それには秋頃?出版になつた}翼~・唐寶鍔の合著《東語正規》の成功が,直接なり間接なりに,影響してゐよう。
 それはともかく,その《譯書彙編》第二巻第一〜第三期(明治三十五年四月〜六月・光緒廿八年二月〜五月,1902)に掲載された
歐州財政史 小林巳三郎著 (胡宗瀛譯)
第八期(明治三十四年十月十三日・光緒廿七年九月二日,1901)の
各國國民公私權考 井上 毅著 (章宗祥譯)
の名が,前掲《日本政治地理》巻末附載の新學書目に見え,又《譯書彙編》第七期(明治三十四年八月二十日・光緒廿七年六月八日,1901)に附載する<已譯待刊書目録>中の
近世陸軍 新橋榮次著 陶森甲編譯
萬國國力比較 英・默爾化原著 專門學校譯
の名も,同じ書目中に見える。これは,商務印書館と譯書彙編社とが密接な關係にあつたことを物語る。而して,譯書彙編社の首領たる者は,}翼~であつた。
 ここに注目すべきは,《各國國民公私權考》の譯者に就いてである。譯者が,後に駐日公使にもなつた章宗祥であることは,判然してゐるが,《譯書彙編》では明示されず,商務版では<出洋學生編譯所譯>とされる。唐才常の亂後,過激な民族主義を唱へる一部の留學生は新に<青年會>を組織し,<勵志會>は,自ら過激・穏健の二派に分れた。}翼~は前者に,章宗祥は後者に屬したが,右の匿名の事實は,さうした事情を反映するものであらうか*11。
 これより前,東京に逃げ歸つた}翼~は,自立軍の殘黨である秦力山・沈翊雲らに王寵惠を混へて《國民報》を創刊(明治三十四年五月十日,1901),盛んに仇滿革命を鼓吹した。が,經濟的に行詰つたか,四號で停刊*12,やがて}翼~も下田歌子の委囑を受けて,上海に<作新社>を設立することとなつたのを利用して國民報社も上海に移し,併せて<出洋學生編譯所>の看板を掲げた。それは,<新馬路餘慶里三街十九號>と沙汰されてゐる*13。夏瑞芳が訪れたのは,それから幾許もない頃であつたらう。
 }翼~には,又,《國民報》の改題誌としての《大陸》創刊の意圖があり,祕かに同志を呼び寄せるなどもしてゐたから,然るべき資金を必要としてゐたであらう。譯稿は<譯書彙編社>の同人から買付けるとしても,それだけでは不足するから,<略々東文を諳んずる學生を招集して>,急ぎ譯稿らしきものを作らせ,法外な値段で賣り付ける位なことはやつた可能性はある。日本語の學習書として,畫期的なものとされる《東語正規》の版權などは,新智社の綿貫與三郎に讓り,《和文漢譯讀本》の樣な粗惡品原稿を,勿體をつけて夏瑞芳に廻すなど,小手先の離れ業をした跡が窺はれもするからである。蓋し,《和文漢譯讀本》の譯者の一人張肇熊の兄張肇桐は}翼~に一足遲れて早稻田大學に學び,<青年會>を通じて,刎頚の交りを結んでゐた。夏瑞芳→}翼~→張肇桐→張肇熊の綫は,立派に繋がるのである。
 張元濟が,譯稿を檢閲して,譯稿に欠陷が多いのを知つたといふのも事實であらう。彼が日本語をどの程度理解し得たかは審らかでないが,當時南洋公學には,細田謙藏(後,學習院教授)・稻村新六(大尉。後,少將)・栗林孝太郎などが勤めてゐたし,譯書院の仕事には,山根虎之助(立庵)・古城貞吉(坦堂。後,東洋大學教授)なども關係してゐた*14。中國人側にも,孟森や盧永銘・董瑞椿・樊炳清・王鴻年など,日本語に通じた人々がゐた。原書なくして誤譯を拾ひあげることは困難であらうが,譯文の良否を判斷する方法は,幾らも考へられよう。とすれば,蒋維喬氏の傳へるところは,恐らく眞相に近いものがあらう。
 さればとて,汪家熔氏の紹介する某氏の説くが如く*15,<王慕陶と戚元丞(}翼~)は,大それた惡黨よ>(王慕陶和戚元丞兩個大壞蛋)と,極付けてしまふのは,聊か酷に過ぎよう。蓋し,上掲《歐州財政史》には,胡宗瀛譯(商務版)の他に,羅普譯(廣智書局版)や金邦平譯(譯書彙編社版)がある。胡宗瀛は,}翼~などと共に來日した最初の官派留學生十三名中の一人で,時に京師大學堂の東文教習であつた。その譯するところが,僞物であつたとは,到底考へ難い。《埃及近世史》(柴 四郎著)にも,章起渭譯(商務版)の他に麥鼎華譯(廣智版)があるし,《明治政黨小史》(東京日日新聞)も出洋學生編譯所譯(商務版)の他に陳超譯(廣智版)がある。何れも,當代の中國人にとつて有益な書物と目されたものであることは贅するまでもない。又《埃及近世史》の譯者章起渭は,既述《明治法制史》(清浦奎吾著)の校訂者に擧げられてもゐるのであるから,それなりの能力のあつた人と見たい。(圖版3、參照)
 換言すれば,これら新學書が賣れなかつたのは,一二の例外を除いては,飜譯が粗惡であつたからではない。譯書の選擇を誤つたからでもない。大衆には,その良否を識別するだけの素養すらないのが,洋の東西を問はず普通なのではあるまいか。とすれば,理由は自づと別な點にあるのであらう。當時の上海の譯書界の盛況を傳へた上海新報の記者は,上掲の引用文に續けてかう記してゐる。

……一タビ蘇報事件ノ起リテ革命派ノ頭上ニ一大打撃ノ下リシヨリ,由來道理ニ疎クシテ聯關的感情ノ強キ清人ハ,日本ト新學,新學ト革命ト云フガ如キ聯感ヲ以テ,偏ニ自家ノ利害ヲ打算シ,自家ノ安危ヲ思量シ,新學ハ革命派ノ標榜スル所ナリ,近寄ルベカラズ。譯書ヲ讀マバ革命派ノ餘黨ト疑ハレント,危懼ヲ懷クニ至リ,讀者ノ數頓ニ減ジテ,半年前迄ノ大景氣ニ引換ヘ,昨今ハ何レノ書肆モ不景氣ヲ嘆息シ居ルト云フ。*16……

 <蘇報事件>の發生後,新學書の賣行きが一時跡絶えたといふのは事實であらう。事情は異るが,我國でも,昭和の初め,治安維持法が次第に強化され,三・一五事件,四・一六事件,瀧川事件と打續いた頃には,類似の現象が幾らも見られたものである。一時的な現象であり,一般的にはすぐ忘れ去られる問題であるだけに,件の記事は有難い。
 然らば,<王慕陶と戚元丞(}翼~)は,大の惡黨よ>は,何處から出て來るのか。<一杯喰はされた>と信ずる夏瑞芳が,自己防衛の爲に終生口にしたとしても,彼の死後80年近くにもなる,事件後の商務印書館の出版物を見ても,その詭りはすぐ明らかとなる筈だ。とすれば,寛厚の長者であつた張元濟が,夏瑞芳を庇ふ爲に,敢てその言を認め,爲に一般に唱へられる樣になつたものか。この時代の}翼~の行動を追跡して見ると,梁啓超の許を訪れてゐるかと思ふと,孫文の所へも日夜出入して居り,その言論も激しい。さうかと思ふと,西太后が光緒帝を廢せんとするや(光緒三十四年,1908),新聞記者を集めて,<皇帝の爲に,大いに爲すところあらん>と,演説したりもする。政治的定見もなく,情緒不安定と評して差支へない。さうした點が,<戊戌政變の孑遺>を以て任ずる張元濟とは,相容れなかつたものと見たい。
 因みに,王慕陶については,その傳を知らぬが,上記<國民報社>に起臥してゐるから,留日學生上りか,その經驗のある男であつたらう。上記するものの他に,《最近萬國政鑑》(雜誌《太陽》編輯部編)を,趙天擇と共譯してゐる。
 今一つ。光緒二十七・八年(1901〜1902)當時,商務印書館は<商務書館>と自稱したことがあるのに,近刊の《商務印書館九十五年》でも言及してゐないのは,如何なものであらうか。


【註】
1)豐田 實<明治初期の小學讀本と英語――故坪内博士の《英文小學讀本》を中心として>(同《日本英文學史の研究》所收)
2)坪内逍遥《逍遥選集》第六巻<緒言>。
3)坂本嘉治馬《坂本嘉治馬自傳》<苦難奮闘の時代>1<坪内博士の國語讀本>pp.29〜31。(栗田書店版により,假名遣を舊に復した)
4)註2の<緒言>には,<《尋常,高等小學讀本》(前者――筆者注三十三年版の《國語讀本》を指す――を大いに訂正したるもの)の名を掲げ,<帝國書籍株式會社,不刊行 中止>と注してゐる。長尾雨山譯《和文漢譯讀本》の底本となつたのは,これか。因みに長尾譯本については,實藤惠秀著《中國人日本留學史》pp.338〜339に要を得た紹介がある。
5)樽本照雄氏<研究結石>(《清末小説から》第5號)。澤本香子氏<蒋維喬と日本人>(《清末小説》第13號)。
6)馮自由<興中會時期之革命同志>(《革命逸史》第三集68頁)。
7)蒋維喬<編輯小學校教科書之回憶>(《中國出版史料》補編138頁)。
8)林 煕<從《張元濟日記》談商務印書館>(一)(《出版史料》第5輯。1986年6月)
9)馮自由<興中會時期之革命同志>(《革命逸史》第三集45頁)。
10)さねとう・けいしゅう《中國留學生史談》58頁。
11)馮自由<勵志會與譯書彙編>(《革命逸史》初集146〜頁)。
12)馮自由<壬寅東京青年會>(《革命逸史》初集151頁)。
13)馮自由<東京國民報>・<東京國民報補述>(《革命逸史》初集143頁144頁);<記上海志士與革命運動>(同二集74頁)。
14)當時,南洋公學から出版されたものに,細田謙藏や稻村新六の編譯したものの他に,米・瑣米爾士原著,經濟雜誌社日譯,古城貞吉華譯《萬國通商史》や陸軍戸山學校編?山根虎之介華譯《歩兵射撃教範》などがある。
15)汪家熔氏《大變動時代的建設者》71頁。
16)<上海ノ譯書界>(《上海新報》第1號。明治三十六年十二月二十六日)


(なかむら ただゆき)