清末小説 第16号 1993.12.1


欧 陽 鉅 源 の 落 魄 伝 説


樽 本 照 雄


 欧陽鉅源は、李伯元によりそう影のように、ほとんど李伯元とは分離不可能な存在であった。
 鄭逸梅が、「2863 《官場現形記》を書いた李伯元は、寓居の表門に春聯を張り出したが、毎年自分で作って欧陽巨源が代書した」*1などど書いていれば、なるほど両者の関係を象徴している話だな、と考える。
 なによりも、「官場現形記」は、李伯元と欧陽鉅源の共同作品だし*2、あの有名な南亭亭長は、李伯元と欧陽鉅源の共同筆名でもある*3ことを知れば、李伯元と欧陽鉅源の関係が密接であったことがおのずと理解できるだろう。
 それほど重要な人物であるにもかかわらず、影であったためかその生涯の詳細は明らかにされていない。
 とぼしい資料を書かれた時期順にたどりながら、欧陽鉅源がどう扱われてきたのか、特に彼の死亡前後に注目して見ていく。(欧陽鉅源について、複数の表記がある。本文では欧陽鉅源と表記する。引用は、原文のまま。)


T 劉鉄雲の同時代人

 狭い範囲であるが私の知る限り、欧陽鉅源の名前が文献に引用された例*4で最も早いのは、劉鉄雲の乙巳日記だ。2ヵ所に見える。

劉鉄雲乙巳日記(1905年)
 三月初十日(4.14) 曇り。朝、費山己懐君が来るのに備える。前日の約束である。叔耘が陪席するはず。午後十二時、欧陽巨元が彼らと共に来る。……

 五月二十二日(6.24) ……晩、喬序東と絲香仙館で宴会の約束。欧陽巨元が、胡宝玉の家に古帖数冊があるという。すぐさま赴き見る。……*5

 上の2ヵ所とも金石学に関わる。胡宝玉は、上海の有名妓女である。李伯元とともに花柳界にくわしい欧陽鉅源が、劉鉄雲に胡宝玉を紹介したことがわかるだろう*6。
 劉鉄雲が欧陽鉅源と面識があったことをうかがわせる貴重な記録だ。ただし、劉鉄雲の日記には、欧陽鉅源の名前が見えるだけで、その経歴などについての記述はない。


U 李伯元の協力者

U-A 周桂笙説(1914年)
 劉鉄雲乙巳日記につづいて、といっても日記から9年後ではあるが、現在のところ記録として古い部類に属すると考えられるのが、周桂笙の「書繁華獄」という文章だ。欧陽鉅源の経歴らしきものに少し触れている。

 丙午(1906年)三月、徴君(李伯元)が逝去すると惜秋生欧陽巨源がこれ(『世界繁華報』)を継いだ。ほどなく惜秋もまた死亡し、山陰の任菫叔がふたたびこれを継いだ。*7  ()内は、樽本注。

 李伯元のことを「徴君」というのは、1903年の経済特科に推薦されたことにちなむ。「惜秋生欧陽巨源」とあるところから、欧陽鉅源の号、筆名が惜秋生であることがわかる。惜秋ともよばれていた。
 その死亡の時期は、李伯元逝去(光緒三十二年三月十四日 1906.4.7)以降というのは確かだろう。
 欧陽鉅源が死亡したとき、『世界繁華報』は、まだ継続発行されていた。周桂笙の該文に『世界繁華報』の停刊*8が「庚戌三月十三」と書かれている。欧陽鉅源の死亡時期をもう少し絞り込むとすれば、李伯元逝去の1906年4月7日から、『世界繁華報』が停刊した1910年4月22日の間ということになる。
 周桂笙『新蝠M記』が出版されてから5年後、欧陽鉅源の死亡年を明記する文章が発表された。死亡したのは、1907年だというのだ。

U-B 霧裏看花客説(1919年)
 二十年前小新聞が流行した。常州の李伯元が『游戯報』を創始し、そこで文章に協力した人物が茂苑惜秋生である。惜秋生、姓は欧陽、名は淦、字は巨元。……中略……(欧陽巨元は光緒三十三年冬暮、上海の小さな宿屋に客死した。)惜秋生は、黛玉と密会する仲であり、黛玉と関係があったばかりか、黛玉の金を引きだし、ついには黛玉の名前を汚そうとした。文筆が巧みでも(道徳的な)品行が悪く(原文:文人無行)、死亡しても哀れむものはいなかった。*9

 李伯元の協力者として欧陽鉅源を紹介した最初の文章ではなかろうか。光緒三十三年は1907年、冬暮がもし暮冬であるならば旧暦十二月ということになる。黛玉とは、当時上海で有名であった妓女・林黛玉のこと。
 欧陽の名、字、筆名をあげ、その死亡時期を明らかにした点でこの文章には価値がある。
 魏紹昌によると霧裏看花客は、『申報』主筆の銭p伯だという。林黛玉をめぐっての欧陽鉅源を描写して、銭p伯の筆は、はなはだ冷淡である。「死亡しても哀れむものはいなかった」と述べる箇所には、嫌悪感さえただよっている。その理由は簡単だ。欧陽鉅源が『游戯報』に関係をもっていたからだ。大新聞『申報』主筆の銭p伯にしてみれば、花柳界の話題を主として掲載する小新聞の関係者を軽視したくなるのも、当時とすれば自然な感情であろう。
 李伯元を評した当時の知識人の言葉に「文筆が巧みでも(道徳的な)品行が悪い(原文:文人無行)」とあった*10。欧陽鉅源についてもまったく同じ表現が使われているところに、銭p伯の感じかたが表出しているといえるだろう。別の言い方をすれば、花柳界に関係した人物は、過去においても軽視されたということだ。
 欧陽鉅源は、1907年冬、上海に客死したこと、林黛玉*11と関係があった、という事実以外の記述は、時代の制約があったことも明らかであるから銭p伯の感情表出としてかなり割り引いて読まなければならない。
 茂苑惜秋生、すなわち欧陽鉅源に言及した文献のなかで、この銭p伯のものは、珍しい証言である。基本文献といってもいいだろう。しかし、どういうわけかこの文章は、後の魯迅、胡適の目には触れなかった。魏紹昌が1962年に発掘するまで約40年余も眠ったままになる。


V 失われた欧陽鉅源

 基本文献のひとつを視野に入れることのできなかった魯迅は、茂苑惜秋生について誤解をしてしまった。
 『官場現形記』の版本の一種に「光緒癸卯中秋後五日茂苑惜秋生」と署名した序文を掲げるものがある。どういうわけか、魯迅は、この茂苑惜秋生を李伯元自身であると考えた。混乱のはじまりだ。

V-A 魯迅説(1924年)
 「官場現形記」ですでにできているのは六十回で、前半部である。第三編が刊行された時(一九〇三)、自序があり*12、(後略)

 あきらかに「自序」と書いている。ここから、茂苑惜秋生を李伯元の筆名だと魯迅が誤解していたとわかる。
 魯迅は、参考書に周桂笙『新蝠M記』をあげているのに、なぜ誤ったのか。前述したように、李伯元が逝去したのち、「惜秋生欧陽巨源がこれ(『世界繁華報』)を継いだ」と周桂笙は書いているのだ。惜秋生が李伯元であるはずがない。

V-B 胡適説(1927年)
 魯迅の混乱に巻き込まれたのが胡適である。
 李伯元の経歴を独自に調査していた胡適も、この「官場現形記序」につけられた茂苑惜秋生を李伯元自身だと考えた。

 この本には、光緒癸卯(一九〇三)茂苑惜秋生の序があり、官僚制度を徹底して論じているが、この序はおそらく李宝嘉自身が書いたものであろう。*13

 ところが、別の場所で胡適は欧陽という姓を出している。

 彼(注:李伯元)が逝去した時、『(世界)繁華報』紙上ではまだ彼の長編小説を掲載していた。上海の妓女の生活を書いたものだが、書名を覚えていない。彼の死後、この小説は欧陽という友人が継続執筆することになったという。その後どうなったか知らない。*14

 引用文を読む限り、胡適は、李伯元と欧陽鉅源の協力関係については知っていたようだ。しかし、茂苑惜秋生が欧陽鉅源の筆名であることには考えがおよばなかった。
 胡適は、呉熕lと面識があったらしい*15。呉熕lと長時間話しこむ仲であれば、胡適が、同時代の小説家である李伯元あるいは欧陽鉅源について知識をもっていてもいいような気がするが、事実はそうではなかった。
 胡適は、欧陽の名前まで出していながらそれを茂苑惜秋生に結びつけることができなかった。魯迅に依拠して欧陽鉅源を見失ったところを見ると、胡適は、当時、魯迅の記述に全幅の信頼をよせていたといえようか。
 ついでながら言っておくと、胡適が言及している李伯元の長編小説とは「海天鴻雪記」のことだ。ただし、該作品の作者は李伯元ではない*16。


W 混乱の収拾

 魯迅、胡適の誤りを訂正したのは、阿英である。1935年のことだった。
 阿英は、周桂笙『新蝠M記』(ただし、魯迅『小説旧聞鈔』収録のもの)と胡適「官場現形記序」(ただし『胡適文存』所収のもの)を読みなおし、惜秋生と欧陽鉅源が同一人物であることに気がついた。さらに『繍像小説』を点検し、茂苑惜秋生が「活地獄」を続作している事実を発見する*17。
 しかし、阿英の考証は、見失われていた欧陽鉅源の存在を復活させただけで、あらたな知見を加えるというものではなかった。例えてみれば、出発点より後退していたのをようやく出発点直前に引き戻したということができるだろう。霧裏看花客(銭p伯)の『真正老林黛玉』があることにも気がついていないのだからしかたがない。
 このあとしばらく欧陽鉅源に関する研究は停滞する。


X 新証言の提出

 阿英の考証から約7年後、欧陽鉅源その人を知る人物から新証言が出された。包天笑その人である。

包天笑説(1942年)
 私が李伯元を知ったのは、欧陽鉅源の紹介による。欧陽と私は、蘇州で科挙の秀才選抜試験(原文:小考)を受けた時に知りあった。この人物は、はやくから聡明で、十六歳の時には文章辞賦ともに上品華麗であった。しかも筆はきわめて速く、私たちが試験を受けた時、彼はひとりで四五本の答案を書くことができた。のちに、突然上海にやってくると、李伯元の小新聞社を頼って、毎日、花柳の巷に入り浸り、一人のすばらしい若者が女性の群れのなかでむざむざと台無しになったのである。(花柳病を患って死亡した。)死亡したとき、まだ二十五歳に満たなかった。*18

 包天笑が描く欧陽鉅源の一生は、文才豊かな青年が、上海に出て李伯元と知りあい、花柳の巷に入り浸ったあげく性病が原因で死亡してしまった、というものだ。
 死因が花柳病では、現代中国の研究者に与える印象がきわめて悪い、と想像するのはむつかしくない。先に引用した霧裏看花客(銭p伯)の述べる、「文筆が巧みでも(道徳的な)品行が悪く、死亡しても哀れむものはいなかった」がこれに加わると、欧陽鉅源に対する評価は決定的に低くなる。おまけに、「上海の小さな宿屋に客死した」となれば、落魄のうえの死亡が確定されたも同じことだ。
 こうして魏紹昌が、欧陽鉅源落魄を宣言する。


Y 欧陽鉅源落魄説の確定

 1962年、魏紹昌論文は、周桂笙、包天笑、李錫奇、霧裏看花客(銭p伯)の四文章をもとに書かれた。欧陽鉅源の生涯を描写して、資料を明記し、簡にして要をえている。
 欧陽鉅源死亡については、四文章のうちの霧裏看花客(銭p伯)および包天笑の二論文によって記述される。
 欧陽鉅源の死亡は、魏紹昌の手になると以下のようになる。

Y-A 魏紹昌説(1962年)
 欧陽巨元が李伯元を助けて仕事をしたのは、約8年間であった。ふたりはずっと一緒にのらくらとして過ごす、また妓楼を探訪する遊び仲間であって、私生活は極度に腐敗したものだった。……中略……李伯元の逝去から一年半も経たない1907年暮冬のある日、欧陽巨元は、「毎日、花柳の巷に入り浸」った自業自得で、ついに毒が身体にまわって死亡したのである!なぜか知らぬが、その時、彼はすでに上海の小さな宿屋に零落していた。死亡の時の年齢はまだ二十五歳に満たなかった。*19

 魏紹昌によると、欧陽鉅源は、私生活が極度に乱れて、最後は性病で死んでしまった、ろくでもない人物であったことになる。少なくとも読者がそう受け取るように書いてある。
 落魄説の確定は、欧陽鉅源の死亡から数えて55年後のことであった。霧裏看花客(銭p伯)の文章、包天笑の文章が発表されてからそれぞれ43年後、20年後になる。
 魏紹昌の文章が発表されるやただちに欧陽鉅源を知る包天笑までもが、魏紹昌の意見に賛成した。

Y-B 包天笑説(1962年)
 魏紹昌が欧陽鉅源についてまとめた文章「茂苑惜秋生其人其事」は、最初『光明日報』(1962.7.14)に発表された。同文は、約2週間後、香港『大公報』(「大公園」欄1962.7.25、26)に2回にわけて転載される。これを読んだ包天笑が、記事の訂正と補足をおこなった文章を該紙に掲載する。
 魏紹昌は欧陽巨元(源)と書いているが、欧陽鉅元であること。また、欧陽鉅源は蘇州の人間ではないこと、の二点を包天笑は訂正する。そうして最後に次のように書いているのだ。「19世紀末において、わが田舎のお年寄りは子弟が上海に行くのを望まなかった。黒色の染物用大ガメのようなもので、ついには汚染されてしまうというのだ。これは時代遅れの考えであることを免れない。しかし欧陽鉅元のような早くから聡明で才能豊かな若者は、あの汚濁した租借地へ行かなければ、あのように堕落することもなかったのだ。当然ながら自己を律するのに厳しくなく、交際が不注意であったのも自業自得なのである」*20。
 包天笑も、魏紹昌のいう欧陽鉅源落魄説を認めた。こうして、欧陽鉅源落魄説は、現在にいたるまで否定されていない。
 しかし、私は、欧陽鉅源についての包天笑、魏紹昌らの記述、評価を読んでいて、それらがいちじるしく偏向しているように思う。花柳界に関係しただけでその人物の評価は地に落ちる、いや落ちて当然と中国の研究者は考えるのが常識かと想像してしまう。それは正しいことなのか。根本資料をもう一度検討する必要があるだろう。


Z 資料の検討

 いくつかの項目に分けて資料を検討する。

Z-A 名前
 欧陽鉅源という名前について、1962年になってから包天笑は、欧陽鉅元が正しい表記だという。しかし、包天笑自身、1942年には欧陽鉅源と書いていて一貫しているわけではない。上に引用してきた文章にどう表記されているかを一覧表にした。劉鉄雲、周桂笙など欧陽を知る人も巨元、巨源とあらわしているのだから、包天笑だけが正しいというわけにもいくまい。欧陽は、巨元、巨源、鉅源、鉅元のいずれとも称していた、としておく。

Z-B 死因と年齢
 欧陽鉅源が性病をわずらって二十五歳に満たない若さで死亡した、と述べたのも包天笑(1942年)である。1962年、魏紹昌は、包天笑の述べるままに欧陽鉅源の死因を花柳病とした。これに対して疑問を提出した研究者は、現在まで、いな
欧陽鉅源の名前、字、号、筆名などについての諸説一覧

劉鉄雲乙巳日記 欧陽巨元
周桂笙 惜秋生欧陽巨源
霧裏看花客(銭p伯) 茂苑惜秋生。惜秋生、姓は欧陽、名は淦、字は巨元。
包天笑 欧陽鉅源 欧陽鉅元 園 茂苑惜秋生


い。
 包天笑自身の記述にゆれが生じている事実に誰も気がついていないかのようだ。別のところで、包天笑は以下のように書いている。

 もうひとり、欧陽鉅元がいて、私と同年の合格者だった。この人物は早くから聡明で、十五歳で秀才に合格した。彼は、蘇州の人ではなく、戸籍をいつわっているのを蘇州の人間に責められたことがある。その才能を哀れんだ人がいて、仲裁をしてくれた。のち上海に出て小説家となった。筆名は、茂苑惜秋生。李伯元の招きで『(世界)繁華報』に入った。「官場現形記」後半部は、すべて欧陽鉅元の手になるという人がいる。聞くところによるとたちの悪い不治の難病にかかり、不幸にも若死にした。三十歳になっていなかったという(原文:聞罹悪疾、不幸早夭、年未及三十歳也)。*21

 包天笑は、ここでは欧陽鉅源の死因を「たちの悪い不治の難病」としており、花柳病とは書いていない。
 花柳病は、確かに当時は「たちの悪い不治の難病」のひとつであったかもしれない。しかし、「たちの悪い不治の難病」すなわち「花柳病」以外の病気ではありえない、という意味ではない。おまけに、欧陽鉅源の死因は伝聞によっていたこともわかるし、死亡時の年齢が二十五歳から三十歳に延びているのにはあきれる。包天笑は、群を抜いてすぐれた記憶力をもっていた。その彼にして欧陽鉅源の死因と死亡時の年齢がくいちがっている。何を根拠にしているのだろうか。だいたい、「花柳病」というのと、「たちの悪い不治の難病」というのでは読者に与える印象が異なってくる。この点について包天笑の証言の信頼性がゆらぐのである。
 包天笑の証言が、貴重なものであることに変わりはない。しかし、欧陽鉅源の死因と年齢については、包天笑の記述が一致しないのだからそのまま信じるわけにはいかない。
 なぜ私が欧陽鉅源の死因に疑問を抱くかというと、包天笑の証言自体に矛盾があることのほかに、霧裏看花客(銭p伯)によるさきの文章があるからだ。
 大新聞の霧裏看花客(銭p伯)が、小新聞の欧陽鉅源を冷たく描いていることを思いだしてほしい。もし、花柳病で死亡していたという情報が霧裏看花客(銭p伯)に入っていたのなら、それこそここを先途と書きたてないはずがない。花柳界に入り浸って自業自得だ、とのべて死者に鞭打っていてもおかしくない。しかし、事実は、「欧陽巨元は光緒三十三年冬暮、上海の小さな宿屋に客死した」と書かれているだけなのだ。
 死亡年を明確にしていながら、その死因に触れていないのは、花柳病でなかったのではないかと思わせるに十分である。
 欧陽鉅源の花柳病については、包天笑の証言しかない。その証言は、伝聞にもとづいたあやふやなものだ。あきらかに性病で死亡したのだ、という証拠が出てこない限り、欧陽鉅源の死因が花柳病であったとすることはできない。

Z-C 日常生活――花柳界との関係
 欧陽鉅源について書かれたいくつかの文章のなかで、特に上海での生活に言及している箇所に焦点をあててみよう。資料を読む場合、注意しなければならないことがひとつだけある。欧陽鉅源に関する事実と著者が行なった評論部分を区別しなければならない。当然のことだ。ここでは、包天笑と魏紹昌の記述を問題にする。後世の研究に与えた影響が大きいからである。
 包天笑は、以下のように書いていた。

Z-C-1 包天笑(1942年)
 のちに、突然上海にやってくると、李伯元の小新聞社を頼って、毎日、花柳の巷に入り浸り、一人のすばらしい若者が女性の群れのなかでむざむざと台無しになったのである。(花柳病を患って死亡した。)

 上海に出てきた欧陽鉅源が、李伯元の小新聞社にあって、連日、花柳の巷に入り浸っていた、という箇所は事実であろう。しかし、それが原因で人生を台無しにしてしまった、と書いた部分は、包天笑の感想である。花柳病についても信頼できないことは、すでにのべた。問題は、花柳の巷に入り浸っていたことをどう考えるかだ。
 資料をふまえた魏紹昌論文を見る。

Z-C-2 魏紹昌(1962年)
 欧陽巨元が李伯元を助けて仕事をしたのは、約8年間であった。ふたりはずっと一緒にのらくらとして過ごす、また妓楼を探訪する遊び仲間であって、私生活は極度に腐敗したものだった。……中略……李伯元の逝去から一年半も経たない1907年暮冬(典拠:霧裏看花客)のある日、欧陽巨元は、「毎日、花柳の巷に入り浸」(典拠:包天笑)った自業自得で、ついに毒が身体にまわって死亡したのである!なぜか知らぬが、その時、彼はすでに上海の小さな宿屋(典拠:霧裏看花客)に零落していた。死亡の時の年齢はまだ二十五歳に満たなかった(典拠:包天笑)。」 (下線は樽本がほどこした)

 読みづらいのにいちいち下線をほどこし典拠を示したのは、魏紹昌の文章が資料をふまえて書かれていることを指摘したかったからだ。
 魏紹昌は、資料を根拠にして上の文章を書いた。しかし、資料の一部分を微妙に書き換えている箇所がある。
 霧裏看花客は、欧陽鉅源の死亡に触れて、「上海の小さな宿屋に客死した(原文:客死於滬上小客棧)」と書いた。これは事実だとわかる。ところが、魏紹昌は、該当部分を、「その時、彼はすでに上海の小さな宿屋に零落していた(原文:其時他已淪落在上海小客棧中)」と書き換えるのである。「客死於……」を「淪落在……」とすることによって、元の資料の客死した事実が消えてしまい、欧陽鉅源は落魄していた、という魏紹昌の個人的印象にすりかえられるのだ。
 「私生活は極度に腐敗したものだった(原文:私生活都是十分糜爛的)」という書き方も魏紹昌の一方的なきめつけである。その証拠はない。魏紹昌は、李伯元と欧陽鉅源のふたりを、花柳の巷を彷徨する遊び仲間と書いた。その結果が「私生活は極度に腐敗したもの」になる。魏紹昌ら中国の研究者にとっては、論理的必然かもしれない。しかし、よく考えれば、両者は本来無関係だ。
 包天笑も魏紹昌も、花柳の巷に彷徨する李伯元と欧陽鉅源をとらえて「台無しになった」だの、「私生活は極度に腐敗したものだった」などと評する。ふたりとも、欧陽鉅源の落魄の原因が花柳界にあるといいたいらしい。
 しかし、包天笑、魏紹昌ともに重要なことを忘れてしまっている。李伯元も欧陽鉅源も小新聞の発行者、記者なのだ。毎日のように花柳界を探訪をするのは、遊びのためではない、といってもさしつかえはない。自らの新聞の取材をしていた可能性の方が高いことに、なぜ気がつかないのだろうか。魏紹昌についていえば、現代中国の研究者の常識というフィルターを通して資料を読んでしまった、あるいはそう読まざるをえなかった、というより理解のしようがない。包天笑、魏紹昌が宣言した欧陽鉅源落魄説は、おおいに疑わしいのである。今まで提出された資料を読むかぎり、欧陽鉅源落魄説は成立しがたい、というのが私の結論である。


[ 欧陽鉅源を弁護する

 ふたつの点について、私は欧陽鉅源を弁護したい。花柳の巷に入り浸っていた、ということとその死因である。
 今まで誰も指摘していないので何度でもくりかえすが、欧陽鉅源が花柳の巷に入り浸っていたのは、それが必要であったからだ。『游戯報』を李伯元から引き継いだ欧陽鉅源にとって花柳界は取材源そのものであったことを忘れてはならない。
 「私生活は極度に腐敗したものだった」人物に、作品の執筆、それに加えて新聞、雑誌の編集が恒常的に可能であったろうか。
 そもそも、当時の花柳界の存在を、現在の中国の道徳観で裁いてはならないことなど研究の常識ではないか。
 もうひとつの欧陽鉅源の死因については、従来いわれてきた性病ではないと私は考える。ただ、直接それを証明する資料を持たないので仮説としておく。
 たとえ性病が原因で若死にしたとしても、それをもって欧陽鉅源が堕落した人間であったとする意見には反対する。
 性病は、喘息、肺病とおなじレベルの病気の一種だと考えるべきで、性病に特別の道徳的意味を付加することは無意味なのだ。
 欧陽鉅源の落魄説は、中国の研究者の単なる思い込みにすぎず、資料的にはなんの裏付けもない。ゆえに私はこれを伝説という。



【注】
1)鄭逸梅『芸林散葉』北京・中華書局1982.12
2)樽本照雄「『官場現形記』の真偽問題」『清末小説研究』第6号1982.12.1。のち樽本『清末小説閑談』法律文化社1983.9.20所収。
3)樽本照雄「南亭亭長の正体」『清末小説』第14号1991.12.1
4)湯志鈞主編『近代上海大事記』(上海辞書出版社1989.5。560頁)に「1902年4月22日(三月十五日)△《飛報》創刊。日報。刊有李寶嘉、呉沃尭、欧陽巨源、孫玉声等人詩詞、対聯」とある。他人による引用文ではないが、参考までにあげておく。
5)劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』成都・四川人民出版社1985.7。225、240-241頁。
6)樽本照雄「劉鉄雲と李伯元をつなぐもの」『大阪経済大学教養部紀要』第4号1986.12.31。樽本『清末小説論集』法律文化社1992.2.20所収。
7)周桂笙「書繁華獄」『新蝠M記』上海・古今図書局1914.8。巻三22頁。魏紹昌編『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12。以下『資料』とする。周桂笙の文章として『資料』12頁に収録されたものでは「惜秋生欧陽鉅源」となっているが正確ではない。初出は、本文に示したとおり「惜秋生欧陽巨源」である。
8)『世界繁華報』の停刊時期について、『資料』5頁注7に「出至宣統二年庚戌二月三日、即一九一〇年三月十三日停刊」とある。周桂笙の証言をとるならば、「庚戌二月三日」とするのは間違い。
 阿英「晩清小報録」に収録する『世界繁華報』の項目では、「庚戌(一九一〇)三月十三日」とある(阿英『晩清文芸報刊述略』上海・古典文学出版社1958.3。55頁)。魏紹昌は、これを西暦1910年3月13日と勘違いしたらしい。「庚戌三月十三」は、西暦になおせば1910年4月22日となる。
 祝均宙執筆「世界繁華報」(馬良春、李福田総主編『中国文学大辞典』第3巻 天津人民出版社1991.10。1348頁)は、停刊月日を「宣統二年三月十三日(1910年4月22日)」とする。
9)霧裏看花客(銭p伯)『真正老林黛玉』民国図書館1919.10初出未見。引用は、魏紹昌「茂苑惜秋生其人其事」『光明日報』1962.7.14による。該文では「巨元」に統一し、『資料』は全書をつうじて「鉅元(源)」に統一している。『資料』519頁。
10)釧影(包天笑)「補述茂苑惜秋生事」香港『大公報』1962.8.1。『資料』496頁。
11)林黛玉と関連する文章は、以下を参照のこと。
【参考文献】
林顰(林黛玉)「被難始末記」阿英編『庚子事変文学集』北京・中華書局19  59.5。1065-1085頁。
樽本照雄「游戯主人選定『庚子蘂宮花選』――花榜と花選」『清末小説研究』  第5号1981.12.1。樽本『清末小説閑談』所収。
樽本照雄「李伯元と『天香閣写蘭図題詠』」「研究結石」の1項目として   『清末小説から』第5号1987.4.1
12)魯迅「第二十八篇 清末之譴責小説」『中国小説史略』訂正本 上海・北新書局1931.7。356頁。上巻北京・新潮社1923.12/下巻同社1924.6というが新潮社初版はいずれも未見。
13)胡適「官場現形記序」『官場現形記』上海・亜東図書館1927.11初版未見。
1932.7三版。3頁。
14)胡適「官場現形記序」2頁。
15)松田郁子「1910年上海――胡適と呉熕l――」『火鍋子』第7号1993.4.10。
【参考資料】
中国社会科学院近代史研究所中華民国史研究室編『胡適的日記』上下 北京 ・中華書局1985.1。奥付に「限国内発行」とある。1冊にまとめた香港 影印本(中華書局香港分局1985.9)も発行されている。
陳左高「胡適《蔵暉室日記》及其它」『社会科学戦線』1993年第3期(総第 63期)1993.5.25。271-274頁。
16)「海天鴻雪記」李伯元著作説にたいする疑義が提出されている。
祝均宙「李伯元重要佚文新発現――証実《海天鴻雪記》非李之作」『中華文  学史料』1 1990.6
魏紹昌「《海天鴻雪記》的作者問題」『河南大学学報』1991年2期(総119期)  1991.3.31
祝均宙「《海天鴻雪記》作者並非李伯元」『文学報』529期 1991.5.16
17)阿英「惜秋生非李伯元化名考」 以下の6種類がある。
1.『太白』半月刊第2巻第8期1935.7.5
2.『小説閑談』上海良友図書印刷公司1936.6.10。雑誌『太白』初出と基  本的に同文。
3.『小説閑談』上海・古典文学出版社1958.5。胡適批判との関連だろう、  初版本と照らし合せると胡適部分に書き換えがある。
4.魏紹昌編『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12。「録自阿英著《小  説閑談》,一九三六年六月上海良友図書公司出版」と注するが、間違い。  本文は、上海・古典文学出版社本からのもの。ゆえに初版本と字句が異  なる。
5.『小説閑談四種』上海古籍出版社1985.8。上海・古典文学出版社本の影  印。
6.『小説閑談』上海古籍出版社1985.10。上海・古典文学出版社本の影印。
18)釧影(包天笑)「清晩四小説家」『小説月報』第2巻第7期(総19期)1942.4.1。『資料』27-28頁。『資料』所収の該文には削除部分があるので注意。
19)魏紹昌「茂苑惜秋生其人其事」。以下の5種類がある。
1.『光明日報』1962.7.14
2A.(上) 香港『大公報』「大公園」欄1962.7.25。初出と同文。
2B.(下) 香港『大公報』「大公園」欄1962.7.26。初出と同文。
3.魏紹昌編『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12。1ヵ所削除(「私  生活都是十分糜爛的。」)がある。初出の巨元をすべて鉅元に変更して  いる。
4.『中国近代文学論文集』(1949-1976)小説巻 中国社会科学出版社1983. 4。1ヵ所を除いて初出の巨元をすべて鉅元に変更している。
5.魏紹昌『牡丹伝奇』福建人民出版社1984.8。初出と同文。
20)釧影(包天笑)「補述茂苑惜秋生事」香港『大公報』「大公園」欄1962.8.1。のち魏紹昌編『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12所収。498頁。
21)包天笑『釧影楼回憶録』香港・大華出版社1971.6。142頁。

【欧陽鉅源関係文献】
1.魏紹昌編『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12。「第十輯 欧陽鉅源」486-530頁。以下の文章を収録する。
阿英「惜秋生非李伯元化名考」/魏紹昌「茂苑惜秋生其人其事」/釧影(包天笑)「補述茂苑惜秋生事」/阿英《負曝閑談》/《負曝閑談》回目/徐一士《負曝閑談評考》序/惜秋生作品選刊

注でふれた以外のもの
2.麦生登美江「李伯元と欧陽鉅源」『中国文芸研究会会報』第33号 1982.4.1
3.麦生登美江「欧陽鉅源とその作品」『清末小説研究』第6号 1982.12.1
4.王運煕、顧易生主編『中国文学批評史』下冊 上海古籍出版社1985.7。646-649頁において李伯元と欧陽鉅源を一緒にして言及する。
5.王先霈、周偉民『明清小説理論批評史』広州・花城出版社1988.10。663-666頁において欧陽鉅源の小説理論に言及。
6.李盛平主編『中国近現代人名大辞典』北京・中国国際広播出版社1989.4の441頁に欧陽鉅源の項目がある。
7.馬良春、李福田総主編『中国文学大辞典』天津人民出版社1991.10の第5巻3669頁に欧陽鉅源の項目(裴效維執筆)がある。

(たるもと てるお)