周 樹 人 が い っ ぱ い



樽 本 照 雄


T.周樹人がいっぱい

 魯迅の本名が周樹人であることはいうまでもない。では、文芸作品に周樹人と署名があれば、それはまぎれもなく魯迅のことであろうか。必要な手続きをぬきにして、即断することに危惧をおぼえる。私は、周樹人とあれば魯迅を指しているとは必ずしもない、といいたいのだ。1982年、私は次のような短文を書いた。研究の状況を理解してもらうためにも、以下に再録する。

★1899年、魯迅は本名・周樹人で『遊戯報』の徴詩に応募し、一等第7位に入選した、ということに最近はなっている(魯迅博物館・魯迅研究室編『魯迅年譜』第1巻北京人民文学出版社1981.9。67頁)。徴詩の題は「花好月円」。同紙に掲載されたのは周樹人という名前のものであるらしく作品そのものは明らかにされていない★1899年12月18日付(陰暦十一月十七日)『遊戯報』に周樹人の名を最初に見い出したのは路工である。彼は「魯迅と民間文学」(『新建設』1959年12月号1959.12.7。51頁)において、疑うこともなく周樹人を魯迅であると断定したうえで、魯迅の後期における雑文の風格は、『遊戯報』に代表される清末の諷刺文学からの影響が少なくないという意味のことを述べた。魏紹昌は路工の論文を引用しつつ、魯迅と『遊戯報』の関係を承認し、この時の詩が「惜花四律」かあるいは別の作品か、今後、研究するに値すると記している(『李伯元研究資料』1980.12。5頁)。方漢奇は『中国近代報刊史』(山西人民出版社1981.6。上226頁)で路工の名前こそ出してはいないが、周樹人=魯迅とし、魯迅の詩の応募を追認した。上述の『魯迅年譜』第1巻でそれがゆるがぬ事実であるかのように記述されるに至っている★しかし『遊戯報』に周樹人が詩を投じたのは事実であるにしても、それが直ちに魯迅だという保証はあるのであろうか。『遊戯報』のような小新聞に詩を応募する際に本名を使用するだろうか、大いに疑問だ。何よりも、当時、周樹人と名のる人物がもうひとりいる(張麟年「周樹人伝」『遊戯世界』第8期)。周樹人は何も魯迅ひとりだけとは限らない。*1

 このハガキ通信そのものは、のちに書く「二人の周樹人」*2の速報という役割を果していたのだった。
 張麟年「周樹人伝」は、寅半生(鍾駿文)が主宰する『遊戯世界』第8期(光緒三十二年<1906>十一月、推定)に掲載された。張麟年*3が友人について書いた評伝集「四海鬚眉伝」シリーズのなかの一篇である。
 これによると、周樹人、字は墨生、通州(今の江蘇省南通市)の人。当年とって四十五歳。身長は七尺の巨躯、ふとったうえに顔色は暗黒色、会う人で驚きあやしまぬ者はいなかった。腹部に体毛がぼうぼうと満ちており、一面は真っ黒であった。読書を好まず、飲酒を好む。ひとたび飲めば一石なお酔わず、酔えば地面に眠りこみ、雷のごとき大イビキをかく。などなどという記述は、どれをとっても魯迅にはあてはまらない。
 張麟年の文章「周樹人伝」は、魯迅と同姓同名の人物が、それも同時代に存在していたことを証明している。
 以上のことを知ってしまうと、路工が『遊戯報』に周樹人の名前を発見し、これをただちに魯迅と断定したことに対して疑問がわくのは当然だろう。路工は、『遊戯報』の周樹人が魯迅であるという証拠をなにも提出していない。根拠もなく『遊戯報』に見える周樹人は魯迅だと決めつけているにすぎないのだ。上記引用文にあげた魏紹昌、方漢奇および魯迅博物館・魯迅研究室も同様だ。いずれも先行文献をうのみにしているだけである。
 私が疑問を提出する根拠は次のとおりだ。
 A 魯迅が周樹人名を使用するのは、講義録、公文書、学術書、翻訳書の発行人といういわば公的な場合に限られる。詩、小説、翻訳という文芸作品には周樹人を使った例はない。
 B 周樹人名の使用例を見れば、『遊戯報』のような小新聞に、魯迅が周樹人という本名を使うとは考えられない。
 以上の理由で、『遊戯報』の周樹人は魯迅ではなく、通州の周樹人(墨生)だと私は結論した。
 以後、周樹人について新資料が出てこないか注目していた。私の「二人の周樹人」は、ほとんど注目を引くこともなく(いつものことだが)、10年以上が経過した。気のつけかたが不足しているのか、新しい材料も見当らない。
 この間に私の目を引いた事柄といえば、いくつかの筆名録が出版されたことだ。
 藤田正典『現代中国人物別称総覧』(汲古書院1986.3)に収録された周樹人は、魯迅の名として収録されるのみ。
 曽健戎、劉耀華編『中国現代文壇筆名録』(重慶出版社1986.8)、および苗士心編『中国現代作家筆名索引』(山東大学出版社1986.10)、さらに丁国成、于叢楊、于勝『中国作家筆名探源』(長春・時代文芸出版社1986.10)も同様。
 楊廷福、楊同甫編『清人室名別称字号索引』2冊(上海古籍出版社1988.11)には、十一人の樹人が登録されている。しかし、周樹人は一人もいない。
 徐廼翔、欽鴻『中国現代文学作者筆名録』(長沙・湖南文芸出版社1988.12)は、樹人に呉玉章、陳克、魯迅の三人をあてる。周樹人は、当然、魯迅だけだ。
 朱宝}主編『二十世紀中国作家筆名録(増訂版)』(台北・漢学研究中心1989.6)では、樹人は周樹人と呉永珊(1878-1966)のふたりをあげる。つまり、周樹人のみということになる。
 徐為民『中国近現代人物別名詞典』(瀋陽出版社出版1993.10)は、後発の強みもあって樹人に、陳樹人、魯迅、饒毓泰、税鐘麟、呉玉章、徐宗干の六名を集める。だが、周樹人は、これも魯迅だけであることには変わりはない。
 中国近現代人物の名号を集めた巨著、陳玉堂の『中国近現代人物名号大辞典』(杭州・浙江古籍出版社1993.5)にも周樹人となると、魯迅ひとりしか収録されていない。筆名大王として有名な陳玉堂であっても、すべてを収録するわけにもいくまい。該書には掲載の基準があるだろうし、周樹人(墨生)が未収でも不備と決めつけるつもりはない。
 新しい展開はないのだろうかと思っていたところ、1994年、中国でも周樹人はひとりだけではないという事実に気づいた人が現われた。
 小吉長子は、その文章「晩清両個周樹人」(『晩清小説快訊』第4期 1994.5.5)において、これまでとは別の周樹人がいる事実を提出している。
 天津『大公報』第134号掲載の「江西郷試題 名録」に江西貴渓の人・周樹人が見えるというのだ。さっそく『大公報』光緒二十八年九月二十七日(1902.10.28)を調査すると確かに周樹人の名前がある。小吉長子はさらに続けて、かつて某省候補知府をしたことのある山西人の周樹人が、『順天時報』に詩作を発表していたとも述べている。小吉長子は、路工の文章を引いて、魯迅が『遊戯報』に詩を投稿したしたことについては、慎重にしなければならない、という結論を得た。この部分についていうならば、私の主張と同じだ。
 まとめると以下のような周樹人がいる。
  1 『遊戯報』に詩を投稿した周樹人
  2 魯迅という筆名をもつ周樹人
  3 通州のひと 周樹人(墨生)
  4 貴渓のひと 周樹人
  5 山西のひと 周樹人
 一覧して五人の周樹人がいることがわかる。
 5の山西人・周樹人は、年代が不明なので省くとしても、少なくとも2の魯迅、3の通州人・周樹人(墨生)、4の貴渓人・周樹人の三人は確かに同時代に存在したということができる。
 この三人の周樹人と『遊戯報』の周樹人との関係が問題になる。『遊戯報』の周樹人は魯迅ではないだろう、と私がいうのは上述したABふたつの理由による。
 では、通州の周樹人か貴渓の周樹人か、それともこの両人とは関係のない別の周樹人か。いくつかの可能性を否定することはできない。
 私は、『遊戯世界』に紹介された通州の周樹人(墨生)が、『遊戯報』の周樹人であると思っていた。寅半生の友人であるから、文芸に通じた人物だと考えられるからだ。これが約10年前の私の結論だった。そのころは、魯迅とは別の周樹人は通州の人物しか知らなかった。『遊戯報』の周樹人が魯迅でなければ、残るは通州の周樹人(墨生)しかいないではないか。
 しかし、いま、貴渓と山西にそれぞれ一人ずつ周樹人が発見された。比較するならば、通州の周樹人(墨生)の方が、郷試合格者である貴渓の周樹人よりも、『遊戯報』の周樹人である可能性が高いとは思う。ただし、これはあくまでも予測にすぎず、決定的な資料はまだないとせざるをえない。『遊戯報』そのものを確認していない私には、断定する材料が不足しているというよりしかたがないのだ。
 周樹人がこういっぱい存在していたからには、『遊戯報』の周樹人が誰かを確定することは困難になってくる。しかし、少なくとも次のことはいうことができる。
 おおまかにいって五人の周樹人がいた。絞り込んで、同時代に少なくとも三人から四人の周樹人がいたことは確かだ。ゆえに、『遊戯報』の周樹人を魯迅に直結させることは、できない。この問題については、再考の余地がある。中国での資料発掘に期待したい。


U.戎馬書生はさらにいっぱい

 『遊戯報』の周樹人と関連して出てくるのが戎馬書生という号である。戎馬書生も魯迅の別号だ。
 1900年代に戎馬書生名義で発表された作品がある。
A 警世呉歌 『繍像小説』第2期 癸卯五月十五日(1903.6.10)
B 醒世道情 『繍像小説』第11期 癸卯九月初一日(1903.10.20)
C 消閑草堂聯 『遊戯世界』第11期 丁未二月(1907推定)
D 「南浦歌驪集」所収の七言絶句四首 『月月小説』第2年第9期 戊申 九月(1908)
 これらの作品のうちABのふたつは、時期的に見ても内容から見ても魯迅の作品の可能性がある、と考えていた*4。
 以前は、戎馬書生という号をもつ人物は、魯迅のほかに朱振声くらいしか見当らなかった。1913年生まれの朱振声であれば、1903年に作品を発表することはできない。AB二作品は、一応、魯迅のものではないかとしたものの決定的な証拠がなく、そのままになっていた。
 その後、資料収集は続けていたのだ。朱振声以外にも戎馬書生がいることを二例みつけた。そうこうするうち、小吉長子「晩清両個周樹人」が掲載された『晩清小説快訊』第4期(1994.5.5)に、奇しくも郭長海が「戎馬書生是誰?」を書く。
 それでは、現在までのところ、戎馬書生は何人いると判明しているのか、集約してみる。戎馬書生を号にもつ人たちを諸文献から抽出すると以下のようになる(典拠に示したのは、前述各種筆名録の編著者名と該当ページである)。

 1.魯 迅(1881-1936) 典拠:陳玉堂892頁。徐廼翔、欽鴻647頁。徐為民212頁。
 魯迅が戎馬書生という号を持ったのは、南京での学生時代であった。1902年3月、日本へ留学の旅にでているのは周知のとおりだ。1903年当時は、二十二歳。1903年の『繍像小説』に掲載された作品は魯迅の作である、と私が考えていたことはすでに書いた。
 2.郭沫若(1892-1978) 典拠:陳玉堂774頁。藤田正典45頁(于立群<1892.11.16-1978.6.12>との共同筆名、という注がついている)。朱宝}403頁。徐廼翔、欽鴻569頁。徐為民93頁。
 陳玉堂によると、郭沫若は自著『戦事宣伝工作』(1938)に戎馬書生と押印しているという。推測すれば、郭沫若の戎馬書生は1930年代の号であるらしい。1903年当時の年齢十一歳からして『繍像小説』とは関係がなさそうだ。
 3.陳作新(約1885?-1911) 典拠:陳玉堂506頁。
 陳作新は、湖南瀏陽の人。1899年、唐才常について湖南で秘密結社の連絡を行ない、1902年、湖南弁木学堂に入学、1905年に同盟会に加入している。疑問符つきの1885年から数えれば、1903年は十八歳だ。革命実践家であることと、上海から離れた湖南が活動の中心地らしいことのふたつ理由で、『繍像小説』との関係は薄いと考える。
 4.朱振声(1913- ) 典拠:朱宝}172頁。藤田正典『』123頁。徐廼翔、欽鴻140頁。
 朱振声の生年からみて、1903年の『繍像小説』とは無関係であることはいうまでもない。
 5.奇麗川( - ) 李伯元『南亭四話』荘諧聯話14ウ。台湾・広文書局有限公司1971.4影印。336頁。/上海書店1985.10 。大東書局1925年版をもとに影印。306 頁。
 奇麗川が戎馬書生であることを指摘するのは前出郭長海「戎馬書生是誰?」である。沙宝祥が、「《繍像小説》所刊民間時調述略」(『文史哲』1992年第6期<総第213期>1992.11.24)において、『繍像小説』に見える戎馬書生は誰のことかわからないと書いた。これに対して、郭長海が奇麗川を探しだしたのだ。
 郭長海の意見はこうである。魯迅は1902年以後、日本に留学していたから戎馬書生という名前は捨ててしまって使わない、ゆえに『繍像小説』掲載の文章は周樹人のものとは限らない。もうひとりの戎馬書生は、奇麗川だ。李伯元の『南亭四話』に「戎馬書生」の項目があり、『繍像小説』の主編だった李伯元が戎馬書生の人となりを記録しているからには、自ら会ったことがあるように思われる。ゆえに、『繍像小説』の戎馬書生は、奇麗川に違いない。さらに、奇麗川のことについては、「中丞」という以外にはわからない、とも郭長海は述べる。
 戎馬書生は奇麗川だ、と断言するところはいかにも郭長海らしい資料に拠った発言だといえよう。
 李伯元『南亭四話』の「戎馬書生」には、次のように見える。

 奇麗川中丞は将軍となり、西域に遠征した当時、湿熱多雨のなかを駆け回り、のちに「戎馬書生」という小印を刻んでそれを記録した。聯にいわく:
  馬に乗り賊を殺し、馬をおりて戦勝報告書を書く。
  左手に蟹足を持ち美食をなし、右手に酒杯を持つ。
 その豪快にして優雅なことが想像される。

 この引用文だけでは奇麗川がいつの時代の人物かわからない。わからないにもかかわらず、奇麗川が李伯元と面識があると断言するのは、いつもは慎重な郭長海らしくもない性急さである。
 ひとつの手掛かりは「中丞」だ。中丞は巡撫の別称でもある。巡撫であるとわかれば、調べるのはそれほどむつかしくはない。「巡撫年表」の乾隆57年(1792)から乾隆60年(1795)まで江蘇省巡撫であった奇豊額がいる。この奇豊額の字が麗川なのだ。満洲族。乾隆34年(1769)の進士。嘉慶11年(1806)に死去している*5。
 李伯元『南亭四話』は、あちこちから材料を拾い上げたものというその書物の性質からいっても、奇麗川と李伯元をわざわざ結びつけて考える必要はないだろう。1806年に死去した奇麗川が、『繍像小説』の戎馬書生であるはずがない。
 戎馬書生は、まだまだ存在する。私が見つけたのは、次の二人だ。
 6.陶嘯秋( - ) 典拠:北京図書館編『民国時期総書目(1911-1949)』文学理論・世界文学・中国文学 北京・書目文献出版社1992.11。784頁。
 現在、『清末民初小説目録』を改訂増補する作業を継続している。日本では、清末民初に発行された原書に当ることができないことのほうが多い。次善の方法は、各種書目から該当するものを採取するしかない。この大部な『民国時期総書目(1911-1949)』シリーズも材源のひとつだ。該書を見ていたら「海上十大奇案 陶嘯秋著 上海・交通図書館 1920年10月初版 130頁 32開」というものが記録されている。「民党涙獄」、「双鴛奇縁」、「人月同円記」、「雌雄影」、「鴛鴦同命録」、「痩腰侠」、「曇花劫」、「弱女復讐記」、「秘密之王」、「銀釵案」という十篇の小説が集められていて、そのなかの「曇花刧」には、署名が戎馬書生となっているという。
 1903年から1920年では、少し時間が開いているような気がする。「曇花刧」、陶嘯秋ともに『清末民初小説目録』には収録されていない(目録はすべての作品を網羅している、というつもりはない。とりこぼしている可能性もある)。『海上十大奇案』という書籍は、雑誌などに発表した小説十篇を集めて単行本にしたものかも知れず、そうなると「曇花刧」の初出は、1918、19年あたりではないか。やはり1903年の戎馬書生とは離れているように思う。
 以上、新しい資料を含めて検討してきた。魯迅以外は、いずれも可能性が薄いと私は考える。
 7.k楚材( - ) 典拠:『同文滬報』付録「消閑録」光緒三十二年十二月初七日(1907.1.20 )
 『繍像小説』の戎馬書生が魯迅ではないか、という推測を提出したあと、もしかしたら私の間違いではないかと思わせる資料が出現した。ここにあげる『同文滬報』付録「消閑録」である。
 上に表示した年月日のものに、「戎馬書生k楚材」と記した詩が記載されている。1907年という時間は1903年にごく近い。さらに、『同文滬報』は、『繍像小説』と同じ上海で発行されている。情況からいえば、『繍像小説』の戎馬書生がk楚材であっても不思議ではない。1903年には日本にいた魯迅が、戎馬書生という号を使って作品を書き郵送した、あるいは魯迅の作品を『繍像小説』に仲介した人物がいたと考えるよりも、たぶん上海にいたであろうk楚材が『繍像小説』に直接投稿したとするほうが自然だろう。
 k楚材その人については、なにも判明していない。今後の課題としておく。

 周樹人は五人、戎馬書生は七人、『繍像小説』の戎馬書生を加えれば八人の多きを数える。『遊戯報』の周樹人、『繍像小説』の戎馬書生ともに、結局のところ誰なのかという問題については、決定的な資料がまだ発見されていないといわざるをえない。以前とはやや後退した結論となってしまった。
 新資料が出てきて研究がすすめば、問題点が浮かび上がり、収斂して確実な結論が導きだされる、というのが今まで私が経験してきた研究の型である。しかし、題材によってはその逆で、資料が発見されるのに比例して問題が複雑化し拡散することもあるのだ。



【注】
1)『清末小説ハガキ通信』第19号(1982.8.1)。のち樽本照雄『清末小説きまぐれ通信』(清末小説研究会1986.8.1)に収める。
2)樽本照雄「二人の周樹人」『伊地智善継・辻本春彦両教授退官記念中国語学・文学論集』東方書店1983.12.10
3)張麟年について陳玉堂『中国近現代人物名号大辞典』(杭州・浙江古籍出版社1993.5。481頁)には、次のようにある。「5143【張麟年】江蘇南通人。字峰石(署見1915《双星》雑誌)、別号七七生、室名一虱室(有《一虱室詩話》、載前刊)。
4)注1に同じ。
5)以上は、銭実甫編『清代職官年表』(北京・中華書局1980.7)に拠る。1641-1644頁。3178頁。

(たるもと てるお)