夏  瑞  芳  暗  殺
――初期商務印書館における夏瑞芳の役割  


樽 本 照 雄


0.夏瑞芳、凶弾に倒れる
 1914年1月10日(土)夕方6時半、御者の胡有慶は、馬車の扉を開けて主人の商務印書館社長・夏瑞芳が乗りこむのを待っていた。夏瑞芳は、(河南路)棋盤街にある商務印書館発行所からでてきて、いつもの習慣通りに左右を眺めてから馬車に乗ろうとした。その時、パンと音がしたが、胡は人力車のタイヤが破裂したのだろうと思った。つづけてもう1発がひびいて、夏瑞芳を見ると、両手で胸をきつく抱いて「アイヨー」と叫びながら中に入ろうとする。夏瑞芳の右後に拳銃を持った男の姿が目にうつった。夏瑞芳は、逃れようと商務印書館に引き返して玄関のところまでたどりつくところで、出血多量のためそのまま倒れ込んだ。犯人が南に向かって逃げるのを見て、胡が大声で叫びながら追いかけると、犯人はくるりと振り返って胡にむけて銃を撃った。胡の右耳をかすめ血が流れる。痛みを感じないまま追う。犯人は、泗祷H角まで逃げると人力車にとびのって、もう1発を撃つ。弾丸は夏瑞芳と同姓の夏光仁(18歳学生)の腹部に当ってこれを死亡させた。犯人は銃を投げ捨て、車夫に急げと命令したところに胡が追いつき犯人の手をつかまえる。胡と一緒に犯人を追跡していた租界警察の中国人巡査が、犯人を逮捕した。胡が地面から銃を拾った時、駆けつけた西洋人巡査が、胡を犯人の仲間と勘違いして銃を取り上げる。誤って暴発し、流れ弾が近くを歩いていた賀阿毛の左足を傷つけた。
 夏瑞芳はただちに仁済医院に送られる。傷が重く、気を失っている。夏瑞芳の身体には、弾丸は1発だけ命中しており、左肩の後から入って胸部をななめに出ている。7時に夏瑞芳は絶命し、虹口斐倫路の検死所へ送られた。享年四十三*1。
 張元済は、商務印書館発行所で夏瑞芳と仕事を終えたあと、階下におりて帰宅の準備をしていた。忘れ物に気づき2階にもどったとたんに銃声を聞いた。傷ついた夏瑞芳を仁済医院に送ったのは、張元済である*2。
 商務印書館の理事をつとめる鄭孝胥は、1月10日、宝山路にある高夢旦の新居を訪れ、食事をしようとしていた。その時、知らせるものがあり、「夏瑞芳が発行所で(馬)車に乗ろうとして狙撃され、2発が当った。すでに仁済医院に入院している」という。高夢旦と李抜可が先に行き、鄭孝胥がそれにつづいて病院に到着したが、夏はすでに死亡しており、犯人一人が捕縛されたことを聞かされた。夏瑞芳は死亡したが、商務印書館は普段通りに落ち着くように、張元済は避難した方がいい、と皆で相談する。鄭孝胥と張元済はつれだって病院を出た*3。
 皆が張元済に避難を勧めたのは、夏瑞芳事件の約4ヵ月半まえ、脅迫状が届いていたからだ。1913年8月28日、鄭孝胥が、商務印書館に行くと、夏瑞芳が投書を示して、「党人が虞洽卿、張菊生(元済)および夏たちを憎み、危害を加えようとしている。出入りに気をつけるように。虞洽卿の家では、今朝、爆弾を投げるものがいたが、当らなかった」といったことがあった*4。
 翌11日夜、日曜日にもかかわらず商務印書館理事会緊急会議が開かれた。張元済、鄭孝胥らが出席し、なくなった夏瑞芳のかわりに印錫璋が社長に、高鳳池が支配人に推挙される。
 1月12日、夏瑞芳は納棺され、14日に葬儀がとりおこなわれた。当日、商務印書館は全社を休業とし、宝山路一帯は葬儀の車馬で埋まる。音楽および一切のプラカードなどは用いず、葬列の礼拝、見送りも事前に断わられている。なぜなら、夏瑞芳は、キリスト教徒だったからだ。夏瑞芳の棺は、4頭の黒馬が引く馬車に納められ、花で作った十字架がかかげられている。参列者は2千余名、そのなかに外国人も少なくはなく、馬車は約百輌を数える。午前9時、宝山路4号の自宅を出発し、上海市内をまわって延緒山荘に仮安置された。
 御者の胡は、凶悪犯人を追いかけて捕まえた勇気を讃えられ、工部局から250元が与えられることに決まった。商務印書館は、最初、5千元を報奨金として出そうとしたが、かえって不都合があるかもしれないということで毎月60元を終身贈ることにする。
 王慶瑞(32歳、山東人)が犯人の名前である。夏瑞芳に個人的うらみがあったわけではない。依頼殺人であるらしい。
 夏瑞芳暗殺には、背景があった。1月10日、鄭孝胥は、夏瑞芳の暗殺からただちにあの脅迫状を思いだしたに違いない。その日の日記に、「これはすなわち閘北で軍火を差し止めようとしたことにたいする党員(原文:党人)の復讐である」*5と書いている。「党員」とは、陳其美を指すらしい。
 陳其美(1878-1916)は、日本に留学したことがあり、革命運動に従事しながら上海青幇の大頭目でもあった。1911年、武昌蜂起後の11月に上海で武装蜂起し滬軍都督となる。1912年には派閥争いから陶成章を暗殺してもいる。1913年7月、国民党員は反袁世凱の「第2次革命」を発動し、陳其美は上海袁世凱討伐軍総司令に推された。7月18日、陳其美は上海独立を宣言し南市(中華銀行跡)に上海袁世凱討伐軍司令部を置いた*6。結局、袁世凱討伐は失敗する。そして夏瑞芳暗殺の原因となったのが、この司令部に関連したものなのだ。陳其美は、閘北に司令部を置きたかった。しかし、閘北宝山路には、商務印書館の印刷所と編訳所および関連会社がある。夏瑞芳にしてみればきがきではなかったであろう。夏瑞芳、呉子敬らは閘北が戦火にみまわれるのを恐れ、ひそかにイギリス、アメリカ租界の工部局と共謀し閘北の入口に兵を置いて陳其美軍を阻止した。さらに、商務印書館に軍費および商務印書館が閘北で保管している武器を貸せと陳其美から申し出があったが、これも夏瑞芳によって拒否された。これが陳其美のうらみをかったらしい*7。
 陳其美が、商務印書館に軍費を貸せという部分は、いかにもありそうなことで理解できる。だが、商務印書館がなぜ武器を保管していたのだろうか。説明がないので事情がわからない。腑におちない箇所である。
 夏瑞芳の葬儀にあたって商務印書館は全社休業としている。商務印書館の夏瑞芳に対する手厚い待遇を見ることができよう。さらに、犯人を捕らえた御者の胡に毎月60元の終身贈与を決めたことがある。額が多すぎるととりやめになった5千元だが、そのかわりに呈示された毎月60元の手当は、1年にして720元である。これをもとにして考えれば約7年で約5千元となる。終身だから5千元の報奨金よりもはるかに多い金額になるのだ。これも間接的な夏瑞芳厚遇と考えられる。
 当時の商務印書館にとって夏瑞芳という人物は、特別な存在であった。商務印書館の創業から事業の節目ごとに、特に経営上の重大な決断を行なったのが夏瑞芳である。創業、増資、合弁、投機、合弁解消という五つの転換点に見せた夏瑞芳の決断力を検討していく。

1.商務印書館創業を決断する
1-1 8人の出資者
 1897年2月11日、商務印書館は、8名からの出資金を集めて上海に創業される。それぞれの出資額と当時の所属、人的関係などを一覧しておく。

沈伯芬 2株1,000元 天主教教徒、郵伝部駐滬電報高等学堂勤務。張蟾芬の 紹介で出資。
鮑咸恩 1株 500元 基督教長老会清心学堂で学ぶ。英文捷報館の植字工。
夏瑞芳 1株 500元 基督教長老会清心学堂で学ぶ。英文捷報館勤務。鮑哲 才牧師の次女・aと結婚。出資金は、夫人が女性の同 級生から借りたもの。
鮑咸昌 1株 500元 基督教長老会清心学堂で学ぶ。美華書館勤務。郁厚坤 の姉と結婚。出資額の半分は、高翰卿が貸与。
徐桂生 1株 500元
高翰卿 半株 250元 基督教長老会清心学堂で学ぶ。美華書館勤務。
張蟾芬 半株 250元 基督教長老会清心学堂で学ぶ。郵伝部駐滬電報高等学 堂の電報教習。鮑哲才牧師の長女と結婚。
郁厚坤 半株 250元

 商務印書館創業時の出資金は、合計3,750元である。人的関係を図にするとより一層わかりやすくなるだろう*8。
 商務印書館の創業者たちの関係は、汪家熔によると、もとをたどれば彼らの父親からはじまっている。
 寧波にアメリカ北長老会の宣教師が経営する崇新書院があった。そこの第1回卒業生が、鮑哲才、鮑哲華兄弟と郁忠恩、謝元芳である。彼らの息子、娘どうしで姻戚関係を結び、商務印書館の創業主要メンバーとなるのだ。
 一見すれば商務印書館創業にかかわりその中心となった人々が、キリスト教の信者であり、鮑兄弟と姻戚関係にあったことがわかるだろう。
 汪家熔論文にもとづき一覧表を作成すると、おかしなところが2ヵ所あることに気がついた。鮑咸昌は、郁忠恩の長女と謝元芳の娘を娶っていることになっている。もうひとつは、謝元芳の娘が郁厚坤と鮑咸昌のふたりに嫁いでいるのだ。汪家熔文章には、詳しい説明がないので直接問い合せてみた(1995.7.16)。7月25日付お手紙で、郁忠恩の長女が鮑咸昌へ、謝元芳の娘が郁厚坤に嫁いだ関係図をいただく。別に掲げたのがその関係図である。


 ●印:キリスト教徒で最初の出資者(重複して出現しているので注意されたい)
 以下は汪家熔氏のご教示による。
 △印:終身商務印書館勤務
 □印:商務印書館に勤務したことがある
 ():商務印書館での通称

 商務印書館は、同族会社もしくは家内工場として出発したことを、私は強調したい。同族会社に限らず、創立したばかりの組織は、誰か中心になる人物がいて、はじめて動きだし、時代の波に乗ったものだけが生き残る。
 出資者8人のうち、そもそも誰が商務印書館を始めようと言いだしたのか。探っていってたどりついたのが、夏瑞芳である。

1-2 夏瑞芳という人
 創業者の一人である高翰卿は、夏瑞芳、鮑二兄弟と同級生だった。同じ信仰を持っていたので日曜日の礼拝ではいつも顔を会わせ、午後は城隍廟の湖心亭でお茶をのんだり、時には食事に行ったりしていた。英文捷報館での仕事がつらいと話し合い、なんとかこれから逃れようとして考えついたのが、商店の宣伝ビラ、教会関係の出版物を印刷することだ。高翰卿の証言によれば、最初の考えは夏瑞芳、鮑二兄弟から出されたらしい*9。
 一方で、「商務(印書館)の主要な創業者は夏瑞芳である。夏は、野心をもった企業家であった」*10と陳叔通は述べている。「仕事がつらい」とグチだけだったら誰でも言う。行動に移す人がいて、事業は始まる。野心があるから創業当初の激務にも耐えることができるのではないか。
 章錫sは、「1897年2月11日、正式に創業し、夏瑞芳が主宰するよう皆で決めた。鮑咸恩、咸昌兄弟は助けあって仕事をし、鮑咸亨と高鳳池(翰卿)は美華(書館)に残った」*11と書いている。夏瑞芳は二十六歳だった。鮑咸亨と高翰卿が美華書館に残ったのは、商務印書館がうまくいかなかった場合の一種の保険、危険分散であっただろう。
 最初の印刷所をもうけた江西路北京路首徳昌里では、鮑咸恩、夏瑞芳、郁厚坤の3人が仕事の区別なく働いた。1年半後、北京路美華書館西隣に移転すると、植字と印刷は鮑咸恩、咸昌が主宰し、社長(原文:総経理)をつとめたのは夏瑞芳である、と高翰卿はいうのだ*12。
 鄭逸梅は、商務印書館で数十年を勤めた華吟水が持っていた多くの珍しい史料を整理したことがあった。それによると、商務印書館は夏瑞芳と鮑咸恩のふたりが発起したことになっている。夏瑞芳は聡明で思い切りがよく、鮑咸恩は慎重で勤勉、ふたりの性格は異なるが、仲がよかったらしい*13。
 上の文献から得られた情報をもとに判断すれば、夏瑞芳と鮑二兄弟を比べてみると、性格からいっても夏瑞芳が積極的に動いているに違いない、と私は考える。印刷業という仕事柄、植字と印刷の工場部門と印刷物の注文を取ってくる営業部門にわかれるのは必然であろう。印刷技術の裏付けがあり、その上に営業に人を得てはじめて発展の基礎が築かれる。商務印書館の場合、その人が夏瑞芳である。
 最初の資金3,750元は、印刷機器、活字を購入したらほとんどなくなった。株主の沈伯芬に回転資金として2千元を用立ててもらっている*14。印刷機器を置いた部屋は、賃貸料が毎月50余元だった。夏瑞芳は、社長とはいっても校正、集金、仕入などなんでもこなす。毎日夜8、9時まで働いて給料は24元である。毎月の部屋代の半分にもならない。当然、家庭の収入には不足するので、印刷の注文をとるついでに保険の勧誘を副業にして家計の補助とした。夏瑞芳と鮑咸恩の家族はみな工場に住み込んで、折りや製本をした、といわれる情況を見れば、同族会社よりも家族企業とよぶ方が適切だろう。収入があれば営業資金にまわし、当然ながら出資金に応じた利益の配当などあるはずがない。
 印刷の下請だけでは発展の可能性は少ないと夏瑞芳は考えたらしい。出版に手を出す。英語教科書が好評でその後の出版の基礎を築いた、というのが通説だ。

1-3 英語教科書
 『商務印書館大事記』の記載によると、英語教科書『華英初階』『華英進階』の出版は1898年である*15。商務印書館の広告では、『華英進階』(ENGLISH AND CHINESE READER)が5集まで、文法書が2種類、そのほか辞書などが掲載されている。シリーズ化しているところを見るとよく売れたのだろう。内容ばかりでなく印刷用紙についても夏瑞芳は工夫をこらした。「有光紙」と称する表面はツルツルで裏はザラザラのものを使って、普通用紙の3分の2の費用ですませた。のちに他の出版社も「有光紙」を使うようになったが、どこで買えばいいのかわからず、すべて夏瑞芳に委託して購入した*16。「儲けも少なくなかった」と高翰卿は書いている。儲かったとはいえ、このまま出版業を続けていけるほどの金銭的余裕が生まれたとは、考えられない。なぜなら1901年に張元済と印錫璋が商務印書館に資本参加するまで株(出資金という意味)の配当はなかった、と高翰卿自身が述べているからだ*17。
 教科書出版の成功は、のちの失敗の原因ともなる。

1-4 張元済の保証
 1898年戊戌の政変で上海に逃れていた張元済は、李鴻章の盛宣懐にあてた推薦を得て、1899年4月、南洋公学訳書院院長に就任した。訳書院で編集したいくつかの教科書を商務印書館が印刷したことがきっかけで、夏瑞芳は張元済と親しくなる。ある時、夏瑞芳が運転資金に不足していると、張元済が保証人になって銭荘から1千元を融通してもらってもいる*18。
 商務印書館が支払いに困った時は、当時、美華書館の支配人にまでなっていた高翰卿に保証してもらうこともあった*19。
 『商務書館華英字典』の発行が1899年だから、辞書の編集費などにいくら資金があっても足らない状態だったとは容易に想像がつく。

2.修文書館買収と増資を決断する
2-1 翻訳原稿の失敗
 夏瑞芳は、英語教科書で成功したので自信を得たらしく、別の分野での出版に意欲を出す。当時、日本語の書籍を翻訳して出版することが流行しており、また読者にも歓迎されていた。夏瑞芳は、心が動かされやってみようとする。ある2人に翻訳原稿を買ってくるよう頼む。その2人は、日本語のわからぬ学生に数十種を翻訳させ商務印書館に売った。夏瑞芳は、ただちに印刷し売りだしたがさっぱり捌けない。原稿料1万元を失った*20。夏瑞芳は、教科書の販売不振を張元済に相談すると、内容がでたらめだとわかる。編訳所の必要性を感じる、という話の筋道である。章錫sも、「損失が1万元近くになる」*21といい、朱蔚伯は金額こそ出さないが、同様の説明を行なっている*22。
 頭脳明晰な夏瑞芳にして、大きなつまづきであろう。鮑咸恩、咸昌兄弟あるいは高翰卿ら首脳陣は、夏瑞芳に注意をうながさなかったのか。注意をしたかもしれないが、英語教科書でうまくいったことのある夏瑞芳には通用しなかったとも考えられる。「決断の人」らしく、夏瑞芳は、突っ走ったのだろうと思う。資本金3,750元のところに翻訳原稿の欠損1万元は金額からいっても大きい。
 日常の支払いに困り高翰卿に保証してもらう、張元済に保証人になってもらって銭荘から金を借りる、株主に利益配当ができない、いずれも経済的に苦しい状況にあることの証明である。高翰卿は商務印書館創業者のひとりであるから夏瑞芳を支持するのは当たり前かもしれない。しかし、張元済が借金の保証人になったことから、逆に言えば夏瑞芳自身に人間としての魅力があったことを想像させるに十分だ。

2-2 修文書館買収
 広告印刷の関係で、綿織物工場を経営していた印錫璋も夏瑞芳と知りあう。夏瑞芳の「腕利き」であるところに印錫璋は目をつけ、商務印書館で資金難のときには支援をしている。日本の築地活版所が上海に設立した印刷所兼印刷用品販売所が、修文書館である。1900年、修文書館が営業不振で売に出された。印錫璋は、ただちに買い取り商務印書館に引き渡したという*23。
 修文書館のもっていた印刷関係の機器材料は、商務印書館の印刷技術向上に大いに役立ったのは本当のことだろう。
 多くの文献が商務印書館の修文書館買収をいう。しかし、問題は、修文書館買収の資金である。買収額を示した文章は、ほとんどない。1万元と買値を出しているのは、私の知る限り鄭逸梅だけだ*24。印錫璋が自ら買収したあと、夏瑞芳に無料提供したとは考えられない。印錫璋に仲立ちしてもらい、1万元も印錫璋から借金をした、と考えるのがいちばん自然でわかりやす。
 くりかえすが、創業時の資金は印刷関係の機器を購入するのに使ってしまった。英語教科書は売れたが、日々の支払いでこれも蓄えることができない。回転資金を借りるのに知人を頼っている。おまけに役立たずの翻訳原稿を掴まされて1万元の損失をこうむる。さらに加えて修文書館買収に1万元の借金をした。出資者に利益の配当ができるわけがない。
 この経済的苦境を夏瑞芳は、資本金を増額することで乗り切ろうとした。

2-3 第1次増資
 1901年に行なった第1次増資は、商務印書館にとって重要な意味を持っている。
 ひとつは資金の確保であり、もうひとつは人材の獲得である。資金とは、印錫璋を意味し、人材は張元済を指す。そしてこのふたりともに夏瑞芳の人的関係で商務印書館に参加してくる。
 第1次増資について基本的な数字がある。創業者の株価を7倍にしたこと、および5万元の資本としたことだ。
 もとの株価を7倍にしたのは当事者が集まって相談して決めた。相場があって客観的に株価が定められたものでは、けっしてない。夏瑞芳たちが勝手にそう評価したにすぎないのだ。7倍というのが重要である。もともとが3,750元だから、その7倍は2万6,250元だ。5万元に増資するのだから、印錫璋と張元済が分担するのは、5万元引く2万6,250元で2万3,750元となる。どこかで見た数字ではなかろうか。最初の出資額が3,750元に、翻訳原稿の損失額1万元および修文書館の買収費用が1万元、合計すれば印錫璋と張元済の出資額である2万3,750元となるのだ。なんど説明しても、あきれるばかりの鮮やかさである。印錫璋と張元済がどういう割合でお金を出したのか、資料がないので不明だ。しかし、印錫璋は紡織工場を経営しており、張元済よりは多くの出資をしたにちがいない。とはいえ、修文書館の買収費用1万元を用立てたとすれば、実際の出費はこの1万元を減じたものとなったはずだ。どのみち、言葉をかえれば、創業からの出費を、印と張のふたりに肩代わりしてもらったということだ。
 確かに夏瑞芳は、頭脳明晰である。株価の評価額が総額の半分以上で、しかも累積損害に一番近い(この場合はまさにその額)金額になるのは7倍である。さらに、評価すべきは、夏瑞芳たちが謙虚である点だ。それまでの損失以上の金額を印錫璋と張元済から引きだそうとは考えなかった。印錫璋と張元済に好かれた理由でもあるだろう*25。
 翻訳原稿でこりた夏瑞芳は、編訳所を設立し、張元済に編訳を主宰してもらう構想を持つにいたった。張元済は、承諾した。張元済も投資することにしたが、その額は大きくはなかったらしい。しかし、多額ではないにしても現金をかき集めるために夫人の金の装飾品を手放したという。
 張元済は、1902年、商務印書館に正式入社した。朱蔚伯と章錫sは、張元済がそれまでいた南洋公学訳書院を辞任したのは、約1年後の1903年である、と書いている*26。もしそうならば、張元済は、1年くらいのことだが商務印書館と南洋公学のふたつに勤務していたことになる。
 張元済の入社後、彼の人的関係により優秀な人材が商務印書館に入ってくることになった。高夢旦、蒋維喬、荘兪、杜亜泉たちで、彼らが教科書編集の中心になるのだ。張元済を商務印書館に招いた夏瑞芳のもくろみは、十分に達せられたといえるだろう。
 第1次増資は、いわば赤字の補填を兼ねていた。日常の回転資金はできたかもしれない。しかし、編訳所を準備して新規に事業を拡大しようとしていたやさき、火災が商務印書館を襲った。

2-4 火災と日本・金港堂の影
 1902年8月22日に発生した商務印書館の失火は、重要な問題であるにもかかわらず、中国側から出てくる文献では、無視をするか、述べる言葉が少ない。火災と印刷所新築の問題である。極めて重要であるから、重ねて説明することにしたい。
 中国の文献は、商務印書館が火災に会ったことに、あまり触れたくないらしい。いや、触れることはふれる。しかし、その被害の状況を過小に書きたがっていたり、その反対に巨額の保険金が転がり込んだと言ったり、意見がマチマチなのだ。
 火災発生ののち印刷所、編訳所、発行所のみっつを建設した、と各文献にほぼ共通して記述されている。保険をかけていた、というのは夏瑞芳の副業から考えて本当のことだろう。しかし、巨額の賠償金を受け取るほどのものだったかどうかは疑問である*27。
 高翰卿は、「光緒二十八年七月、火災にあい、すべての機器工具が焼けてしまった。新しく注文していた機器はすでにとどいていたが、幸いなことに事前に火災保険をかけていたので賠償金を受け取った。ただちに福建路海寧路に土地を購入し印刷工場を建設する」*28と証言している。新しい印刷機器には火災保険をかけていた、くらいが妥当なところだろう。せいぜいが新しい印刷機器をもう一度入手できる程度のものだ。はたして、その賠償金で土地を購入し印刷工場を建設できるものだろうか。おまけに、その印刷工場は、赤レンガ3階建ての堂々たる建築物なのだ。さらに奇妙なのは、火災から二ヵ月以内に新しい印刷所に移転していることである。二ヵ月という短期間に、土地の選択、購入、設計施行、建築ができるものだろうか。建築資金も多額にのぼるはずだ。この疑問に答えてくれる文献は、現在までのところ、ない。
 常識的に考えて、商務印書館の大規模建築は、火災の前から計画されていたとすべきだろう。その時期は、火災発生から少なくとも1年以上前だと思う。浮かび上がってくるのが山本条太郎の存在だ。山本条太郎は、1901年9月に三井物産上海支店長として上海に着任した。山本は、1888年より三井物産上海支店で働いた経験をもっている。紡織工場の買収に関して印錫璋とは昵懇の間柄であったし、夏瑞芳とも親しかった。
 1899年頃、金港堂の原亮三郎は、中国での教科書製作販売の意図をもって準備をしていた。原亮三郎の娘婿が、山本条太郎である。原亮三郎が山本条太郎に上海での市場調査を依頼する。山本が昵懇の印錫璋に話を持ちかける。あるいは、夏瑞芳の意向を受けて印錫璋の方から山本に商務印書館の経済的建て直しを依頼する。経営のテコ入れをたのんだのは夏瑞芳本人だったかもしれない。山本が原亮三郎にそれを取り次ぐ。原亮三郎は、個人で商務印書館に投資することに決める。合弁を条件にして、夏瑞芳は、印刷所新築に着手する。ゆえに火災発生は、まったくの予期せぬできごとであり、印刷所は規定の方針で建設が進められていたと考える。火災と印刷所建設は無関係なのだ。
 以上が1901年から1902年の火災にいたるまでの商務印書館・夏瑞芳と金港堂・原亮三郎の動きだと私は考える。今のところこの仮説を証明する資料は出ていない。しかし、印刷所建設の資金がどこから出たのかを合理的に説明しようとすれば、この仮説にたどりつく。
 高翰卿を含めて、当時の事情を知っているはずの人物まで、火災の賠償金で印刷所などの建設を行なった、と書くのにはなにか理由があるのかもしれない。ひとつ考えられるのは、夏瑞芳の独断専行である。夏瑞芳の人的関係ですべてが動いていることに注目したい。夏瑞芳は、大いなる決断力でもって金港堂の代理人たる山本条太郎と交渉したのではないか。独断で話を進めて、同僚に説明らしきものはしなかったとも考えられる。だからこそ証言の内容が一致していないのだと思う。

3.金港堂との合弁を決断する
3-1 合弁の推進者
 商務印書館が存続するかどうか、運命の岐路といっても過言ではない日本・金港堂との合弁は、夏瑞芳が取りし切って実現した。1901年に合弁を決意し、正式契約は1903年である。張元済が、夏瑞芳の合弁決定を支持したという記述*29からも、あくまでも夏瑞芳が主体的に主導権を握って動かしていたと考える方が自然である。金港堂との合弁は、商務印書館が組織的に模索し決定したものではない。中心はあくまでも夏瑞芳ひとりだ。山本条太郎および印錫璋と関係のある人物としては夏瑞芳以外には考えられないからだ。夏瑞芳も、創業時から経営は自分が担っていると考えていたのではないか。商務印書館は、最初、家族企業、同族会社であった。1901年の第1次増資の際、印錫璋と張元済が資本参加したが、理事が選出されたわけでもなく、実態は家族企業のままだ。
 1903年に金港堂と合弁し、商務印書館有限公司となったが、表向きの呼称は今まで通り「商務印書館」である。日中双方から理事を出していた。最初は、印錫璋、夏瑞芳、原亮三郎、加藤駒二である。1907年は中国側3人、日本側2人となる。夏瑞芳、張元済、印錫璋、原亮一郎、山本条太郎だ。1908年には中国側2人、日本側1人。夏瑞芳、印錫璋、原亮一郎に変化している*30。ただし、1908年部分には異論がある。『張元済年譜』77頁には、蒋維喬「退庵日記」から引用し、理事のメンバーはもとのまま(「次議重挙董事,衆議仍旧」)と書いてある。倪靖武論文*31を参照しながら、『鄭孝胥日記』『張元済年譜』でおぎない、「商務印書館理事一覧」を作成する。この一覧表は、すでに別の文章にも掲げているが、重要であるからくりかえす。
 合弁時は、金港堂と商務印書館は平等に10万元を出資したことになっている。金港堂は原亮三郎の個人的な投資だから、原が出費した。商務印書館は、それまでの資本金が5万元だから、残る5万元は翻訳家の厳復および主として高級職員が投資して株主となった*32。
 ここで小さな疑問を出しておきたい。同額の資金を出しあって合弁する場合、現地の資産も勘定にいれるのが通常の商取引ではないか。土地、建物など不動産の評価額がいくらいくらだから、それと現金を合わせて5万元とするのが普通だ
商務印書館理事一覧
年月日    中国側理事        日本側理事      典拠
1903.12  夏瑞芳(兼社長)、印錫璋 原亮三郎、加藤駒二  汪家熔論文
1905.3.31 夏瑞芳(兼社長)、印錫璋 原亮三郎、加藤駒二  張元済年譜55頁
1906.3.10 夏瑞芳(兼社長)、印錫璋 原亮三郎、加藤駒二  張元済年譜58頁
1907.5.10 夏瑞芳(兼社長)、印錫璋 原亮一郎、山本条太郎 張元済年譜67頁
      張元済
1908.5.5  夏瑞芳(兼社長)、印錫璋 原亮一郎、山本条太郎 倪靖武論文34頁
      張元済                     鄭孝胥日記で5月5日に訂正する
1909.4.15 夏瑞芳(兼社長)、印錫璋            鄭孝胥日記1186頁
張元済(4.27より主席)、            張元済日記80頁
      鄭孝胥、高鳳池、高夢旦、
      鮑咸恩
1912.6.8  夏瑞芳(兼社長)、印錫璋            張元済日記105頁
張元済、鄭孝胥(主席)、
      王之仁、奚伯綬、鮑咸昌
1913.4.19 夏瑞芳(兼社長)、印錫璋            張元済日記112頁
張元済、鄭孝胥、鮑咸昌、
      葉景葵、伍廷芳(主席)

ろう。高翰卿は、たしかに「ついに山本の紹介により議決し、日本側が10万を出資する、本館側はもともとある設備器具、資産のほかに現金を集め、あわせて10万とした」*33とは述べている。しかし、この講演そのものが、日本との合弁をややもすれば否定的に述べる傾向をもつものだ。時期的に見てしかたのないことではある。しかし、設備機器、資産がいくらで評価され、現金がいくら集められたのかの詳細が明らかにされないかぎり、にわかには信用しがたい。もともと商務印書館が購入した不動産であったなら、頭脳明敏な夏瑞芳がぬかるわけはなかろう。私が、1903年の正式合弁前に、金港堂から上海で印刷所を建設する資金が出ていたのではないか、と推測するもうひとつの根拠がこれなのだ。それが商務印書館側から一言の要求あるいは説明がないのは、不動産は金港堂の金で購入、建設されたのではないかと想像する。これについては、合弁解消を述べる時にもう一度触れたい。
 1905年に2回増資する。
 1909年4月15日の株主会で理事を7名にすることになり選ばれたのが、張元済、鄭孝胥、高翰卿、印錫璋、高夢旦、鮑咸恩、夏瑞芳である*34。この時点で、日本側の理事はいなくなってしまった。日中合弁会社であるにもかかわらず、経営陣から日本人を排除したのである。どうやらここらあたりから、商務印書館は、日本との合弁を否定しはじめる。同時に資本を75万元から80万元に増やす決定がなされている。株主会の後、理事会が開催され張元済が主席となった。これより形式的には理事会の、それも日本人を排除しての合議制に移行したと考えられる。日本側からの抵抗あるいは抗議などはなかったのだろうか。
 組織系統からすれば、最高議決機関が株主会であり、その下に理事会がある。理事会の責任者は主席または議長だ。ところが、商務印書館には、もうひとつ社長(総経理)あるいは支配人(経理)がいる。1897年の創業より1914年まで、社長はほかならぬ夏瑞芳なのだ。

3-2 社長と理事会
 理事会のなかった1903年までは、商務印書館全体を運営してるのが社長の夏瑞芳であった。商務印書館の創業、修文書館の買収、増資の実施、金港堂との合弁のすべてを夏瑞芳ひとりが決定して、ほかの誰からも異議は出てこなかったらしい。金港堂との合弁後も理事の数と成員は部分的に変わっても、夏瑞芳と印錫璋の二人に変更はない。夏と印のふたりを比べると、創業者の夏瑞芳に決定権があることは明らかだ。1909年の理事会開催まで、理事会の主席は置いていなかったという*35。だから、理事と社長を兼ねていた夏瑞芳に全権力が集中していたと考えていいだろう。ところが、1909年より理事会には張元済主席がいることになった。理事会主席と社長との関係を規定した文書があるなどと今まで聞いたことがない。ましてや両者の関係を論じた文章を見たこともない。社長の夏瑞芳に経営上の全権力が集中していることを理事たちは暗黙の了解としていたのではないかと推測できる。
 形の上で、理事会の合議制を制定していながら、実質は創業以来ひきずってきた夏瑞芳ワンマン体制であった。これは株式会社となった後も、大株主、社長、取締役などは原一族に独占されていて、実際には同族会社であった金港堂と酷似している*36。金港堂の中心は、社長の座を息子の亮一郎に譲っているはずの原亮三郎であった。夏瑞芳は、原亮三郎の立場とよく似ている。
 理事会が成立したのちも、夏瑞芳はその存在を重視しなかった。商務印書館が組織として整理され近代化する方向に歩みはじめているにもかかわらず、夏瑞芳ひとりは、昔のままの個人経営的感覚から脱却することができなかった。その矛盾が1910年のゴム投機失敗という形で表面に現われたのである。

4.ゴム投機を決断する
 特定の株を、絶対に得をするからと購買をあおる。投資者が殺到し、天井値段が出たところであおった本人は売り逃げ、だまされたと気づいた時は株価は暴落し、株券はゴミ同然となって銭荘が倒産する、個人が破産する。1907-1911年の5年間に中国で発生した金融恐慌は、20件にのぼる。1910年、夏瑞芳が関係したゴム恐慌(一名、陳逸卿事件)は、そのなかのひとつだ。
 7月22日、商務印書館で開かれた特別会議で、夏瑞芳が14万元をゴム投機で失ったことが報告された*37。当時の商務印書館の総資本は80万元だから、損失の14万元は17.5%を占めるほどの大金だ。1910年の株利益約10.7万元をうわまわる損害であることを知れば、いかに莫大な数であるか理解できよう。
 夏瑞芳の受けた精神的衝撃が大きく、仕事が手につかない様子が、張元済から原亮三郎、山本条太郎にあてた手紙になまなましく書かれている。なんとか夏瑞芳を救済しようと張元済らが考えだした方法は、簡単にいえば三井洋行(三井物産上海支店)を巻き込んで商務印書館が借金を肩代わりすることだった*38。
 張元済から山本条太郎にあてた書簡(十二月二十四日<1912.2.11>)に、「……会社の仕事の規則、組織はまだうまくなく、支配人の権限もまだはっきりしていません。……愚見ながら規則を改め、理事と支配人の権限を区別し、資金の出入を管理する規則を定める必要があり、そうしてようやく会社の発達を図ることができると考えます」*39と書かれている。「理事と支配人の権限を区別し」という部分から、それまでは両者の区別がなかったことがわかる。もうひとつ夏瑞芳の投機失敗を、夏瑞芳個人の責任としている点に注目してほしい。合議のうえでゴム投機を理事会の承認事項にしていれば(そんなことにはならなかっただろうが)、たとえ投機が失敗しても会社の損金として計上し、会計上は処理をすることが可能だろう。その場合、夏瑞芳は傷つかない。そうできなかったのだから、当時の商務印書館理事会が合議制ではなかったことがわかるのだ。張元済は、ある理事会で夏瑞芳のゴム投機に言及しながら、「商務印書館が、この十年来いまの地位に到達したのは、数々の原因があるとはいえ、夏(瑞芳)君の冒険の性質のおかげを受けているところが、本当に少なくない」*40と述べている。夏瑞芳の独断、決断は、張元済も認めていたのがわかる。
 一方、金港堂側からいえば、1909年4月以降理事会の成員から日本人は排除されており、ゴム投機について相談は、当然、ない。それにもかかわらず投機に失敗して大損害が出た、なんとか援助をお願いするという手紙を受け取ることになった。商務印書館にとって都合のいいときだけ相談するのか、と日本側が反発をしても不思議ではなかろう。ところが、山本条太郎から張元済へあてた手紙を見ると、夏瑞芳が商務印書館に損害をあたえたことを遺憾としながらも、資金融資のため日本国内の銀行に打診をしてもいる*41。その努力は実現はしなかったが、ずいぶんと親切なのだ。山本条太郎をも動かす夏瑞芳の人柄のよさを知ることができる。
 商務印書館では、夏瑞芳の救助策をいろいろ考えたが、資金を夏瑞芳に貸与し、分割で返却してもらうことにしたようだ。給与などを増額するとかの援助も同時にこうじている。結局のところ、夏瑞芳は、ゴム投機をひとりで決断した責任を取らされたのである。

5.合弁解消を決断する
 辛亥革命後、商務印書館に日本資本が入っていることを理由に攻撃されることが多くなった。教科書の審査からはずされるなど実際の妨害もあったらしい。精神的に耐えられず、日本人所有の株を買い戻すことにした。
 注意を喚起しておきたいのだが、商務印書館が金港堂との合弁を打ち切ることにした原因は、経済的なものではないのだ。合弁による利益はあがっていた。株式配当は、年平均して2割以上あった。ゆえに、合弁解消を決意した理由は、経済的なものであるはずがない。そうならば、日中合弁企業として社会的に後ろ指をさされる精神的な苦痛が、合弁解消の理由だと考えざるをえないではないか。
 もうひとつ理由をあげるとすれば、専門知識の蓄積である。合弁の10年間で、書籍の編集印刷出版発行に関する専門知識を金港堂から充分に吸収してしまった。金港堂なしでも、独力でやっていけると夏瑞芳は判断したのではなかろうか。金港堂に呑み込まれるのではないかという合弁前の恐怖は、夏瑞芳をはじめとする商務印書館首脳にとって心の傷となっていた。しかし、10年を経て心の傷を抑圧する一方で、言葉は悪いが、金港堂の利用価値はなくなったとの結論に夏瑞芳が到達したとしても不思議ではない。
 『鄭孝胥日記』によると、日本株回収の論議がはじめて起こったのは1913年1月4日のことだ。そののち日本株回収案件は、秘密事項あつかいにして理事会が独断で決議した。9月10日に夏瑞芳が金港堂と協議するために東京に行くことになった、と鄭孝胥日記にはある。合弁を決断した当人が、合弁解消のために乗り出したわけだ。ところが、日本側にあっさり拒否されて、9月27日には夏瑞芳は上海にもどってきている。11月、こんどは金港堂側から福間甲松が派遣されて交渉を始めた。最初は株回収を拒否した金港堂だったが、値段がおりあえば応じることにしたのだろう。なにがなんでも日本株を回収したいのが商務印書館・夏瑞芳の本音である。想像するのだが、足元を見た金港堂は交渉は有利に展開するだろうと考えたのではなかろうか。しかし、実際には、それほど簡単なことではなかった。

5-1 株と資産の評価
 1914年1月2日には1株=143元くらいで交渉していたのが、1月6日に1株=146.5元で最終的に決着した。株価については、福間甲松のねばり勝ちであろう。
 商務印書館特別株主大会での理事会報告では、「編集原稿料の80、90万元は、わずか2万元にしか(商務印書館側が)評価しておらず、工場の建物、機器の原価68万元も35万元にしか評価していない。ブランドの信用もその価値はとりわけ巨大である。日本の株主が株を手放せば、これらの利益はすべて中国人の所有となる。増額を要求する」*42と述べる文書がある。注目されるのは、「工場の建物、機器の原価68万元」の部分だ。合弁後に建設した建物、購入した機器もあるだろうが、このなかに合弁前に建設された印刷所も入っているのではないか。合弁の時、商務印書館側は建物など不動産についての評価をしていないことと合わせて考えると、1903年正式合弁以前に金港堂から商務印書館に資金が流れていた疑いを濃くする。
 私が不思議に思うのは、編集原稿料、工場の建物、機器についての扱いについてである。合弁期間中の有形無形の資産は、日中両者の相談でどうなったのだろうか。福間は株価増額の根拠にあげているようだが、株とは別に資産のある部分は当然金港堂のものだと要求してもよかったと思うのだ。
 もう一つの疑問は、雑費8万元に関してだ。「一切の雑費は、合計して株の利息で相殺し、約8万元余になる」と理事会報告にある。理事会の報告を見ると、雑費8万元はその金額のまま上乗せしたわけではなく、株価の増額で吸収したように読める。しかし、この理事会報告には、結局のところ金港堂に合計いくらを支払ったのか、金額が明記されていない。雑費8万元を支払ったのかどうかは、ぼかしてある。ゆえに証言者、研究者がバラバラの数字を提出しているのが現状だ。

5-2 日本株回収総額の謎
 商務印書館が金港堂に対して、最終的にどれだけの金額を支払ったのか、中国に資料は残っていないのだろうか。なぜこのような感想を抱くかというと、複数の数字が提出されたままで、いずれが正しいのか確定されていないからだ。
 例を挙げれば、以下のようになる。
 A.朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」150-151頁
 総額58万8,200元(明細:株55万3,916.5元、利息4,370元、為替差額1万4,475.5元、経費2,769.5元、支払い遅延利息1万2,464元)
 明細部分を合計すると58万7,995.5元となる。ほぼ総額通りの数字だ。
 B.汪家熔の一連の論文
 汪家熔は、いくつかの論文で商務印書館が日本株を買収した金額を提出するが、それらの数字が全て異なっている。煩雑なので数字だけをあげると、45万元、45万8,100元、50万2,873元などとなる*43。
 合弁解消時に日本側が所有していたのは、3,781株である。この数字は動かない。1株=146.5元で決着をみたのだから、3,781株×146.5元=55万3,916.5元という金額も確実なものだ。朱蔚伯の述べるものと同額である。8万元の上乗せを認めるなら63万3,916.5元になる。商務印書館特別株主大会であいまいな表現である8万元を加えないのなら、Aに示した朱蔚伯の明細がほかの資料に見えないくらい詳しく、総額58万8,200元が事実のように私は思う。汪家熔が、なぜ朱蔚伯論文に言及しないのか知らない。
 鄭孝胥の1月7日の日記に、「……商務印書館理事会に行く。日本株を回収することは昨日調印をして、27万余両を支払う」*44と書かれている。商務印書館の日本側に支払う金額が大きく、2回払いであった。1月6日の調印時に半額を、残りは6ヵ月以内に支払う約束だ。「27万余両」は、朱蔚伯の示した額の半分に近い。朱蔚伯説の正しさを証明するもののひとつだといえよう。
 日本株回収総額とは直接の関係はないが、別の角度から商務印書館、日本側の双方両得の数字が提出されているから紹介しておく。
 10年間の合弁で、日本側は21万6,000元の投資で総額60万1,899元の株式利息を得た、と汪家熔は算出している*45。
 10年間に得られた株式利息は、日本株回収とは無関係である。また、日本株回収時に出てきた(支払われたかどうかわからない)8万元を汪家熔は株式利息に加えているところは、株式利息と日本株回収が直接の関係がない以上、意味不明である。
 汪家熔の示した表にもとづいて計算してみよう。
 1913年時点の日本側資本は、37万8,100元で、10年間の株式利息総額は累計して52万1,899元である(上乗せの8万元は含まない)。商務印書館の株式利息は、与えられた数字をもとに計算すると94万8,865元となった。商務印書館の10年間にわたる獲得利息は、日本の約1.82倍にのぼるのだ。そればかりか商務印書館が習得した編集印刷出版の専門知識は、金額に換算できないくらい貴重なものだと汪家熔自身がのべている。汪家熔は、「双方が得をした合作」といっているのは、たしかに事実である。しかし、比率を考えれば、商務印書館は金港堂よりもはるかに大きな利益を得たのである*46。

5-3 夏瑞芳の商務印書館
 日本株回収にあたって商務印書館の全財産は、資産価値を評価し直し、それを株価に反映させる方法をとった、と張蟾芬は証言している*47。交渉の過程において株価を徐々につりあげた点で、福間甲松の努力は評価すべきだ。しかし、編集原稿料と工場の建物、機器の評価と請求をしなかったのは、福間の大失敗である。夏瑞芳は、株価の細かなところで譲歩したように見せかけ、不動産などの部分で大きな利益を確保したといえるだろう。理事会報告に「この日本株を回収するということは、すべて夏社長が苦心さんたんしたことによりようやく目的を達成した」と特に書き込まれていることに注意する必要がある。商務印書館に有利な合弁解消が夏瑞芳によって実現されたことを意味すると考えられる。
 夏瑞芳は、金港堂との合弁を決断し、また自らによって合弁解消をも決断した。その交渉も夏瑞芳が主導して行なったことがわかる。
 中国出版界におけるその後の商務印書館の発展を見るにつけ、その基礎を築いたのが金港堂との10年にわたる合弁であったことは否定できない。経営の視点からいえば、1897年の創業から、1903年の金港堂との合弁を経て、1914年に合弁を解消するまで、いわゆる初期商務印書館は、「夏瑞芳の」という修飾語をつけるべき存在であった。
 初期商務印書館は、夏瑞芳ぬきには語ることができない。金港堂との合弁解消直後に夏瑞芳が暗殺されたのは、名実共に夏瑞芳の商務印書館が終わったことを意味している。




【注】
1)『申報』1914.1.11-2.3に掲載された記事、「棋盤街又出暗殺案」から、番号八、九のないものをはさんで「棋盤街暗殺十誌」までをもとにして記述した。事件の概要については、以下についても『申報』の記事に拠っている。ただし、目撃者の証言が錯綜しており、私の判断で取捨選択した。
2)張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』北京・商務印書館1991.12。116頁。ただし、該書は、事件発生後、張元済が鄭孝胥と後門から急いで帰宅した、と書いているが間違いだろう。
3)中国歴史博物館編、労祖徳整理『鄭孝胥日記』全5冊 北京・中華書局1993.10。1497頁。
4)中国歴史博物館編、労祖徳整理『鄭孝胥日記』1481頁
5)中国歴史博物館編、労祖徳整理『鄭孝胥日記』1497頁
6)黄徳昭「陳其美」李新、孫思白主編『民国人物伝』第1巻 北京・中華書局 1978.8。105-110頁。
湯志鈞主編『近代上海大事記』上海辞書出版社1989.5。759頁。
「陳其美」中国国民党中央委員会党史史料編纂委員会編『革命人物誌』第4 集 台湾・中央文物供応社1970.6。196-197頁。
7)章錫s「漫談商務印書館」『文史資料選輯』第43輯 1964.3/1980.12第二次印刷(日本影印)。73頁。
8)郁為瑾「商務印書館与基督教会的関係」『商務印書館館史資料』之四十 北 京・商務印書館総編室編印1988.3.3。14-18頁。
汪家熔「商務印書館創業諸君」『江蘇出版史志』総第7期1991.10。ほとん ど同文を、長洲(汪家熔の筆名)「商務印書館的早期股東」と題して 『商務印書館九十五年』(642-655頁)に収録する。
劉漢忠輯注「張元済挽張蟾芬誄文――《張元済詩文》失収詩文補輯之一」 『出版史料』1991年第4期(総第26期)1991.12。42頁。
高翰卿(冰厳筆記)「本館創業史――在発行所学生訓練班的演講」(1934.3. 30演講)『商務印書館九十五年――我和商務印書館』北京・商務印書館 1992.1。1-13頁。
汪家熔「謝洪賚和商務創辧人的関係」『編輯学刊』1994年第4期(総第36期) 1994.8.25。91頁。商務印書館創業者の姻戚関係を明らかにした重要な 文章である。
9)高翰卿(冰厳筆記)「本館創業史――在発行所学生訓練班的演講」2-4頁
樽本照雄「初期商務印書館の印刷物――漢訳『新島襄伝』について」上下  『清末小説から』第23、24号 1991.10.1、1992.1.1
10)陳叔通「回憶商務印書館」『出版史料』1987年第1期(総第7期)1987.3。4頁。
11)章錫s「漫談商務印書館」63頁
12)高翰卿(冰厳筆記)「本館創業史――在発行所学生訓練班的演講」4頁
13)鄭逸梅「夏瑞芳、鮑咸恩創辧“商務”略記」『書報話旧』上海・学林出版社1983.3。3頁。
14)張蟾芬「余与商務初創時之因縁」『東方雑誌』第32巻第1号1935.1.1。同文は、『出版史料』1989年第3・4期<総第17・18期>(1989.11。183、162頁)、『商務印書館九十五年――我和商務印書館』(14-16頁)に再録される。また、鄭逸梅「夏瑞芳、鮑咸恩創辧“商務”略記」4頁参照。
15)『商務印書館大事記』北京・商務印書館1987.1
16)高翰卿(冰厳筆記)「本館創業史――在発行所学生訓練班的演講」5頁
17)高翰卿(冰厳筆記)「本館創業史――在発行所学生訓練班的演講」6頁
18)陳叔通「回憶商務印書館」5頁
19)鄭逸梅「夏瑞芳、鮑咸恩創辧“商務”略記」4頁
20)蒋維喬「編輯小学教科書之回憶――一八九七年−一九〇五年」『出版周刊』第156号 1935初出未見。 張静廬輯註『中国出版史料補編』北京・中華書局1957.5。140頁。
21)章錫s「漫談商務印書館」66頁
22)朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」『文化史料(叢刊)』第2輯 1981.11。145頁。
23)唐絅「印有模与商務印書館」『商務印書館九十五年――我和商務印書館』595頁
24)鄭逸梅「夏瑞芳、鮑咸恩創辧“商務”略記」5頁
25)詳細は、沢本郁馬「初期商務印書館の謎」(『清末小説』第16号 1993.12.1。16-18頁)を参照のこと。
26)張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』(42頁)は、南洋公学訳書院の辞任を商務印書館入社と同時にしていて複数の証言と異なる。
27)樽本照雄「商務印書館の火災」『清末小説から』第21号 1991.4.1
28)高翰卿(冰厳筆記)「本館創業史――在発行所学生訓練班的演講」7頁
29)張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』47頁
30)長洲(汪家熔の筆名)「商務印書館的早期股東」651頁
31)倪靖武「商務印書館在近代中日出版交流中的貢献」『出版与印刷』1994年第2期。34頁。稲岡勝氏より複写をいただいた。
32)林爾蔚、汪家熔「漫談商務印書館」『商務印書館館史資料』之二十五 北京・商務印書館総編室編印1984.2.10。4頁。
33)高翰卿(冰厳筆記)「本館創業史――在発行所学生訓練班的演講」8頁
34)中国歴史博物館編、労祖徳整理『鄭孝胥日記』1186頁
35)汪家熔整理「解放以前商務印書館歴届負責人」『商務印書館館史資料』之十九 北京・商務印書館総編室編印1982.11.5。20頁。
36)稲岡勝「明治検定期の教科書出版と金港堂の経営」東京都立中央図書館『研 究紀要』第24号1994.3.31
樽本照雄「金港堂から商務印書館への投資」『中国文芸研究会会報』第160 号 1995.2.28
37)中国歴史博物館編、労祖徳整理『鄭孝胥日記』1265頁
38)沢本郁馬「初期商務印書館の謎」および、張人鳳「読《初期商務印書館の謎》後的補充与商」(『清末小説』第17号1994.12.1)に詳しい。
39)沢本郁馬「初期商務印書館の謎」40頁。張人鳳「読《初期商務印書館の謎》後的補充与商」66頁
40)張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』102頁
41)張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』102頁
42)「商務印書館特別株主大会理事会報告」『清末小説から』第30号 1993.7.1。14頁。
43)沢本郁馬「初期商務印書館の謎」43-44頁
44)中国歴史博物館編、労祖徳整理『鄭孝胥日記』1497頁
45)汪家熔「主権在我的合資――一九〇三年〜一九一三年商務印書館的中日合資」『出版史料』1993年第2期(総第32期)1993.7。もうひとつ、汪家熔「商務印書館日人投資時的日本股東」『編輯学刊』1994年第5期(総第37期)1994.10.25がある。こちらには「表2 投資収益表」が掲げられているが、日本側だけの数字が記されているだけで商務印書館全体の資本が書かれていない。比較するために前者の表を利用する。
46)樽本照雄「変化しつつある商務印書館研究の現在――または、商務印書館の被害者意識」『大阪経大論集』第46巻第3号1995.9.15
47)高翰卿(冰厳筆記)「本館創業史――在発行所学生訓練班的演講」9頁

(たるもと てるお)