●清末小説 第19号 1996.12.1


劉鉄雲「老残遊記」と黄河(1)


樽 本 照 雄


0.はじめに
 黄河そのものを見ることを目的のひとつとして済南を訪れたことがある。1984年のことだった。劉鉄雲(鶚)著「老残遊記」ゆかりの地を自分の目で確かめておきたいと思ったからだ*1。
 「老残遊記」初集20回において主人公老残は、済南の大明湖に舟を浮かべ、名泉をめぐった。この部分は、老残によるの済南観光案内である。人々の評判になっていた酷吏毓賢(玉賢)の行状を調査するため斉河、平陰、寿張、董家口をへて曹州へ黄河沿岸をさかのぼる。さらに老残は、斉東と斉河を中心に活動し、殺人事件を解決することとなる。そのほか、著者劉鉄雲が自らの太谷学派思想を披露する桃花山は、実在の黄崖山だと想像できるし、またそれ以外に該当するものがない。ついでにいえば「老残遊記」二集9回のうち6回は、泰山を舞台としているのだ。
 劉鉄雲「老残遊記」は、その舞台が基本的には山東省に設定されているということができる。もう少し絞り込めば、山東黄河とその周辺である。
 私の場合、時間も限られていたし交通事情にもよるから、済南市内と黄河および泰山を訪問する旅行となった。

 済南府の西門をでて、北に十八里行くと町がある。名を各隹口と言う。黄河が大清河と合流していないころ、城内の七十二の泉水はすべてこの地を通って河に注いでおり、もともとは極めて繁盛していた場所だった。黄河と合流してから、貨物船の往来は依然としてありはするが、一、二割にすぎず、程遠いものになってしまった。(「老残遊記」第4回)*2

 劉鉄雲の記述から約80年後、同じ場所に私はいた。昔の各隹口は、今、同音の洛口と表示される。バスを降りるとこちらに向かって歩いてくる人々がいる。コンクリートで固めたかなり高い堤防に到着する。登ると、渡し場になっていることがわかった。水面は、たしかなことは言えないが、両岸の地と同じかそれよりも低いくらいにしか見えない。これが有名な天井川なのか。堅固でそそり立つ堤防が必要なのは、それなりの理由があるのだろう。こちらと向こう岸にそれぞれ中型で双胴のフェリーが係留されており、見れば、船首を上流に向け、横滑りという感じで2隻が同時に岸を離れる。一方のフェリーは、流れの真ん中まで流される形で移動すると同時に白煙をあげるほどにエンジンを全開し、流れに逆らってこちらに着岸する。褐色の泥水がかなりの速度で流れているのは、見た目でもわかる。エンジンからのせわしない音と白煙とが、流れが急であることを私に理解させてくれる。
 学生のころ、「黄狗」は「あか犬」であると習った。それでは、この黄河も同種類の色ということか。泥水といってもいい色、豊富な水量、流れの急さ、高く頑丈な堤防。これらは、すべて黄河治水が困難であった過去を思わせると同時に、現在、ようやく制御を可能としたことをも示していると考えられた。
 あれから12年が経過し、かわった報道を目にすることになる。黄河が干上がっているというのだ。
 「黄河、干上がる」*3と題された新聞記事によると、最近、黄河の水が干上がる「断流」現象が目立ってきたという。1972年、利津地点で記録して以来、1992年は83日間、1993、94年も50日間を超え、1995年は118日にものぼった。河口から河南省開封市までの約600キロメートルが干上がったらしい。
 1984年11月、洛口で私が見た黄河は、茶褐色の水が急流となって走っていた。水の量も多いと感じた。「断流」は、1984年以前に発生した現象だったのか。済南の地下水が工場のくみ上げにより年々減少しているとの新聞報道を目にしたことはある。そのため以前は吹上げていた名物泉が、枯れそうになっていると聞いた。しかし、当時、私が天津にいたころ、黄河の「断流」についての報道は、なかったように記憶する。
 ところが、今、目にしている新聞に掲げられた写真では、黄河の水が、流れていないのだ。洛口から南に50キロメートルは離れていない済陽県である。石積みの堤防に子供が数人いる。なかのひとりは上体をかがめて顔をカメラに向ける。赤いネッカチーフを首に結んでいるところから少年先鋒隊に参加している小学生だろう。川底には数十人の人影を見ることができる。確かに水がない。干上がっている。1996年6月14日現在で、すでに百日の「断流」を記録しているというから、この「断流」現象は、もっと長引くと考えていい。驚くべきことだ、と再びいう。
 山東半島は、はるか昔においては島であった。陸地続きとなったのは、黄河が運んだ砂泥による、という文章を読んだことがある。広大な海を埋めつくすほどの量の土砂を運んだ黄河が干上がるのか。黄河は、従来、いかに氾濫から防御するか、洪水をどのように制御するかが根本問題であった。その水がなくなるという現象は、過去における対策のなかにはなかった。「断流」現象の原因は、

1.黄河は1986年から歴史的な渇水期に入り、流域の年間平均雨量が減少した。
2.流域の年間平均水使用量が増加した。

と考えられるという。将来は、内陸河川に変わると予想されてもいる。
 「歴史的な渇水期」というが、過去において「歴史的な渇水期」などあったのだろうか。
 黄河には二つの側面がある。ひとつは氾濫、洪水という負の面だ。もうひとつは、その裏側の水利という正の側面である。いわば硬貨の表裏を構成している事実を、「断流」現象は、表に出したことになる。
 過去において「断流」現象が起きることがあった。しかし、その原因は、現在と異なる。それは黄河がある地点で決壊し、それよりも下流で水がなくなる、という場合だけだ。上流で洪水になれば、下流には水が流れないという単純な現象である。ただし、現在の「断流」は、洪水をともなわない現象なのだ。黄河を制御するために心血をそそいできた人々には、想像もつかないこの「断流」現象であろう。洪水よりも渇水を心配しなくてはならなくなった。従来の対策を180度転換する必要がでてくる。これは、まったく新しい事態の出現であると言わなくてはならない。黄河についての常識をくつがえす現象である、と強調しておきたい。
 劉鉄雲「老残遊記」は、黄河とその治水についての議論が盛り込まれていることでもひろく知られる。劉鉄雲の経歴をたどれば、黄河が出てくる必然性があると容易に気がつくだろう。劉鉄雲は、黄河治水に従事したことがある。自らの経験を土台として「老残遊記」に黄河部分を書き込んだと考えられるのだ。
 劉鉄雲がその生涯にたずさわった事業、活動は、多数にのぼる。おもなものでも山西鉱山の開発、鉄道敷設の建議、甲骨文字の先駆的研究、義和団事件の際の難民救済活動、今に残る小説執筆などなど、その行動範囲は広い。これら多くの活動が「老残遊記」には言及されていないことと比較すれば、彼の黄河治水についての自説開陳とその黄河描写は、劉鉄雲という人物の作家という側面を考える場合に貴重な手掛かりを私たちに呈示してくれている。「老残遊記」に見られる黄河関係部分については、のちに見ていくが、ここでその概略をまとめておく。
 第1回において語られる黄瑞和の病気は、黄河を象徴していることは広く知られているだろう。第3回では、黄河治水方策に言及し賈譲批判をくりひろげる。やや、専門的な議論だ。第12回の黄河結氷の風景描写は、白話に表現力があることを証明したものとして高く評価されている。第13-14回に描写された黄河氾濫の情況は、その詳細さが読者を圧倒する。
 初集わずか20回の紙幅のうち黄河関係の文章が少なからぬ部分を占めていることがわかるだろう。劉鉄雲にとって、黄河体験はかなりの重要性をおびていたということができる。
 本稿は、劉鉄雲が自ら体験した黄河治水の経験を基礎におきながら、その作品「老残遊記」に描写された黄河との関係を探ることを目的としている。
 劉鉄雲が黄河治水に関わったことがどのように広く知られるようになったのか、まずこれから探っていくことにしよう。

1.劉鉄雲の黄河治水――羅振玉「五十日夢痕録」をめぐって
 劉鉄雲が黄河治水について豊富な知識をもっているという事実が、一般に知られるようになったのには、いくつかの段階を経ている。基本資料があって、それが引用されることにより、広く社会に認識されるという経過をたどる。
 劉鉄雲の黄河治水に関する初期の基本資料とは、羅振玉「五十日夢痕録」*4だ。
 羅振玉(1866-1940)は、淮安に生まれた。劉鉄雲よりも九歳年下である。淮安には、当時、書店がなくまた購う金もない。そこで複数の家から書籍を借りることにしていた。そのなかに劉渭清観察(夢熊)の名前があげられている。劉渭清とは、劉鉄雲の兄である*5。
 羅振玉と劉鉄雲は、のちに黄河治水についての意見が一致したことにより親交を結ぶことになる。そればかりか、劉鉄雲の息子大紳と羅振玉の長女を結婚させているから、鉄雲と羅振玉は親戚になるのだ。ちなみに羅振玉は、三女を王国維の長男にめあわせており、劉鉄雲、羅振玉、王国維は姻戚関係で結ばれていた。
 劉鉄雲をよく知る羅振玉だから、その著作「五十日夢痕録」に収録されたいわゆる劉鉄雲伝(特に章をたてているというわけではない)は、同時代人が書いたものとして貴重な文献だということができよう。
 この羅振玉「五十日夢痕録」をひろめた人物が、胡適であり魯迅であった。

1-1 胡適
 現在、「老残遊記」の著者は劉鉄雲である、と当たり前のように書いたり言ったりしている。しかし、1903年、上海の『繍像小説』に連載が始まったとき、洪都百錬生という筆名が使用されており、誰のことなのか長らく不明のままだった。
 洪(鴻)都百錬生が劉鉄雲のことだと文字で最初に明らかにしたのは、銭玄同であろう。1917年のことだ。この時点で、作品初出からすでに14年が経過している。ただし、銭玄同は、「劉鉄雲の「老残遊記」」とだけしか書いておらず、劉鉄雲の経歴そのものについては言及がない*6。
 したがって、劉鉄雲の経歴を紹介した文章は、「老残遊記」研究文献の発表順からいえば、胡適のものがはやい。
 重ねていうが、「老残遊記」の著者は、当時の習慣として筆名でしか知られていなかった。洪(鴻)都百錬生だ。一方において、羅振玉は、「五十日夢痕録」のなかで劉鉄雲の経歴を紹介している。だが、「老残遊記」については言及がない。洪(鴻)都百錬生が劉鉄雲の筆名であることを知らなければ、「老残遊記」と「五十日夢痕録」は、別々に存在している文献であるにすぎない。このふたつを結びつけたのが胡適なのだ*7。
 『胡適的日記』*8によると、胡適が羅振玉の「五十日夢痕録」を入手したのは、1921年8月24日のことだった。上海の露店の本屋で購入したいくつかの書物のなかに『雪堂叢刻』一部が見える*9。これである。
 羅振玉の「五十日夢痕録」に劉鉄雲伝が書かれているのを胡適が見つけたのは、さらに時間がかかり、1921年9月12日、北京においてだった。

 ……羅振玉の『雪堂叢刻』をひもとき、「五十日夢痕録」に気がついてざっと読む。二十三頁以下に劉鉄雲の事実を記録した一篇がある。劉鉄雲のことを探し求めていて、長く得るところがなかったが、本日これを見つけて望外の喜びである。以下に要約する。*10

 日記には、長々と羅振玉の文章の要約が引用される。ただ、あくまでも要約であり、原文そのままではない。読後、胡適は、「彼の『老残遊記』は、私は当時一種の自伝ではないかと疑っていた。今この伝を読むと、思ったとおりだった」と書いている。洪(鴻)都百錬生としかわかっていなかった「老残遊記」の作者が、ようやく姿を現わした瞬間である。
 羅振玉が書き残した劉鉄雲伝は、胡適「五十年来中国之文学」に生かされることになる。1922年3月3日の日記に「五十年的中国文学」152枚、4万字あまりを書き終わる*11、とあり、これがそうだ。胡適日記のなかでは、それぞれに異なる名称で出てくるのは、そのとき論文題名が未定であったためだろう。さらに、3月7日には「五十年之中国文学」という題名で出現し、清書のうえ一部を書き換えたともある*12。
 胡適の中国文学史は、同年10月29日には、早くも日本語に翻訳する話が持ち上がる。橋川時雄が、「五十年来的中国文学」を日本語に翻訳したいと胡適に申し込み、胡適は、原稿を橋川に渡しているのだ*13。
 私が、胡適「五十年来中国之文学」について述べているのには理由がある。この文章が後々、劉鉄雲の黄河治水についての基本資料となる羅振玉「五十日夢痕録」を紹介するきっかけとなったものだからだ。中国では、いったん共通認識となったものについては、研究者の多くは、それを受け継ぐことが多い。つまり、同じ記述をくりかえし、ついには固定観念としてしまうのである。
 胡適論文の黄河関係部分のみを引用翻訳してみる。

 呉沃尭、李伯元と同時代のものに、また劉鶚がいる。字は鉄雲、丹徒の人。小説上手でもある。劉鶚は数学に精通し、治水の方法を研究して、かつて光緒戊子(1888)に鄭州の河川工事に従事したことがある。さらに山東巡撫張曜の役所にあり「治河七策」を書いた。のち山東巡撫福潤が彼の「すぐれた才能」を推薦し、知府に用いられた。……(以上の劉鶚についての事跡は、すべて羅振玉の「五十日夢痕録」に拠っている。外部では彼を知る人はまったく少ないと考えるため、その大概をここに抜粋したのである)*14

 羅振玉「五十日夢痕録」のなかに書かれた劉鉄雲が、ほかならぬ「老残遊記」の著者洪(鴻)都百錬生であることを公にした初期の文章である。上文につづけて、胡適の考証が展開される。

 劉鶚著「老残遊記」は、李伯元「文明小史」と同時に『繍像小説』に発表された。該書の主人公老残は、姓は鉄、名を英といい、彼自身を仮託したものだ。書中に描かれた風景経歴も自伝の性質を帯びている。書中の荘撫台は張曜であり、玉賢は毓賢だ。治水を論じる部分も羅振玉が書いた伝記と符合する。……彼は娼妓問題を書いたが、それは生計の問題であり、道徳の問題ではなかったということができる。こういう見識も敬服に値するのだ。彼は、史観察(上海の施善昌)の治水の結果を描いて、まことに具体的な描写法を用い、古書を誤信することの大いなる誤りを人に知らしめた(第13回から第14回まで)。/ただし、老残遊記の最大の長所は、描写の技術にある。……第12回に老残が斉河県で黄河の氷を打ち砕く部分は、その描写がさらに出色である。最もよいのは、氷を打ち砕くのを見たその日の夜、老残は堤防のうえを散歩し、……(樽本注:風景描写が引用されるが、ここでは省略する)……白話の文学だからこそこのように絶妙な「すっきりした描写(白描)」の美文を生みだすことができるのである。*15

 「老残遊記」は著者の自伝ではないか、という考えを胡適は長らく持っていた。日記のなかで、羅振玉の文章によってそれが裏付けられた、という意味のことも書かれている。主人公の老残が劉鉄雲自身だとすれば、ほかに登場する人物も実在しただろう、とそれぞれが指摘されてもいる。つまり、荘撫台は張曜を指し、玉賢は毓賢のことで、史観察は上海の施善昌をいう。胡適が、劉鉄雲の風景描写を高く評価するのは、胡適自身の提唱する白話文学の例として最適であったからだ*16。
 筆名でしか知られていない作家について、その実名と経歴を明らかにした胡適の文章は、「老残遊記」研究に新たな発見をつけくわえており、価値の高いものだということができる。典拠資料まで明記した劉鉄雲に関する紹介は、同時代の研究者に歓迎されたと考えて間違いないだろう。
 胡適の研究に注目した研究者のひとりに魯迅がいる。

1-2 魯迅
 魯迅は、『中国小説史略』において、劉鉄雲に言及して次のように書いている。これも黄河部分のみを引用する。

 ……光緒十四年黄河が鄭州で決壊すると、(劉)鶚は同知として呉大澂のもとに参加し、黄河治水に功績があり評判が大いに高まり、しだいに知府に用いられるまでになった。……(約一八五〇−一九一〇、詳しくは羅振玉「五十日夢痕録」に見える)*17

 典拠資料に示してある通り、あきらかに胡適が発掘した羅振玉の文章によっていることがわかるだろう。生没年がはっきりしていないのは、研究がそこまで深化していないことを表わしている。
 胡適は、「五十年来中国之文学」において劉鉄雲のだいたいの経歴を紹介した。彼が、羅振玉「五十日夢痕録」を充分に引用するのは、「老残遊記序」においてである。

1-3 ふたたび胡適
 上海・亜東図書館版『老残遊記』の巻頭を飾っているのが、胡適「老残遊記序」*18だ。「(一)作者劉鶚の小伝」「(二)老残遊記のなかの思想」「(三)老残遊記の文学技術」「(四)尾声」で構成され、末尾に1925年11月7日の日付が書かれている。
 洪都百錬生とは、劉鉄雲であることがまず明らかにされる。すぐさま、羅振玉の「五十日夢痕録」から劉鉄雲部分のほとんどが「劉鉄雲伝」と題され5頁にわたり引用されているのが目をひく。胡適は、新出資料として該文を大いに価値あるものと判断した結果であるのは明らかだ。

2.羅振玉の劉鉄雲伝――黄河治水部分
 羅振玉「五十日夢痕録」の劉鉄雲部分は、のちのちまでも繰り返し引用され語り継がれることになる。ここで、黄河関係部分を訳出し簡単な説明をしておきたい。

2-1 家学としての黄河治水

 ……君は名を鶚といい、生まれながらにしてすばしこくすぐれていた。年は二十になるまえに、すでにその父君子恕(成忠)観察の学を伝えることができ、天文算数学に精通し、とりわけ治水に長じていた。……

 劉鉄雲は、咸豊七年九月初一日(1857.10.18*19)、父成忠の第2子として江蘇六合に生まれた。劉成忠は、咸豊二(1852)年の進士だ。鉄雲は、父親が河南汝寧府、開封府などに任官するのにしたがっている。劉成忠は、黄河治水と捻軍対策に功績があり、特に前者に関しては『河防芻議』という著書を持つ。劉鉄雲二十歳のとき、河南より淮安にもどり、南京での郷試を受験したが失敗、揚州で太谷学派の李竜川について学んだ。その後、黄河治水などについて研究をはじめている*20。
 黄河治水は、劉家の家学であった、といわれることがある。家に代々伝わる学問という意味だろう。たしかに劉鉄雲の父は、河南で黄河治水に経験があり、著作もある。鉄雲は父親のかたわらで治水を体験したであろうし、太谷学派の思想に触れた後、家学に没頭したとあるから、当然、『河防芻議』も読んだことだろうとは容易に想像がつく。劉闡キは、『河防芻議』の内容を「築堤束水、束水攻沙」および「堤不如q、q不如r」という言葉でまとめているが、これはのちに検討する。

2-2 黄河、鄭州に決壊する

 光緒戊子(1888)、黄河が鄭州で決壊した。君は、心高ぶらせて自分を試してみたいと同知として呉恒軒中丞のもとに志願した。中丞は、ともに語りこれを抜き出たものと考え、その説をよく採用したのだった。君は、短い上着にひとりで人夫にまじって仕事をこなし、同僚の恐れ憚りできないことをすべて引き受けた。これにより名声がおおいにあがった。黄河の決壊は、すでに塞がれたため中丞がその功績を表彰しようとすれば、その兄渭清(夢熊)観察に譲り、故郷に帰って読書することを請うた。中丞は、ますます不思議に思った。

 劉鉄雲が、黄河治水に参加した最初である。
 それ以前の劉鉄雲の行動を見れば、光緒二(1876)年、鉄雲二十歳の時、南京での郷試に落第している。その後、太谷学派の思想に触れ教えを受けるまでになった。太谷学派体験で考えが変わったらしく、光緒十二(1886)年、ふたたび南京におもむき受験するが、試験が終了しないまえに放棄した。そうすると劉鉄雲の資格は秀才どまりということになる。同知とは、知府の補助官をいい、劉鉄雲は、名目だけの官位を金で買ったものだろう。呉恒軒中丞は、巡撫呉大澂(1835-1902)を指す。
 羅振玉の筆になるこの部分は、まことに有名だ。劉鉄雲の黄河治水活動に触れる文献は、どれもハンで押したように同様のことをいう。そのこころは、机上で計画をこねくりまわすだけの知識人とは異なり、労働者に混じって肉体労働をしただけでなく、功績を兄に譲って名誉欲にも恬淡としている劉鉄雲である、というわけだ。
 基本文献のひとつである劉大紳「関於老残遊記」においては、次のように書かれている。

 ……光緒十四(1888)年、河南におもむき呉清卿中丞に謁見して黄河治水工事に参加した。当時、河南の黄河は鄭州で決壊したまま長い間復旧せず、すでに数人の監督を交替させていた。亡父(注:劉鉄雲)は、到着すると短い上着をきて徒歩で人夫の間にまじり、自ら指揮して励まし、十二月ようやく氾濫がおさまった。呉はおおいに喜び、議案書をつらね報奨を請い、亡父の名前を先頭においた。亡父は、それを辞退し亡き伯父(注:劉鉄雲の兄渭清)の手柄にしたのだった。……*21

 劉大紳の文章は、もとをたどれば羅振玉の記述によったのであろう。のちに発表された研究論文は、羅振玉および劉大紳の述べたワクからはみだすことはない。
 たとえば、蒋逸雪「劉鉄雲年譜」*22、および劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』*23も、さらに、『光緒朝東華録』などを充分に利用している劉徳隆、朱禧、劉徳平著「劉鶚与治理黄河」*24についていっても、同様なのである。
 いくつかの疑問がでてくる。鄭州における黄河決壊の年が一致していない。黄河決壊の状況はどんなものだったのか。従来、問題にされていないが、これは劉鉄雲の行動を考える場合、ひとつの鍵となる。人夫にまじって現場で作業をしたと讃えられるが、劉鉄雲はなぜそのような行動をとったのか。単に我を顧みず、治水に熱中したくらいにしかとらえられていない。納得のいく解答が与えられていないのだ。功績を兄にゆずったというが、本当にそうなのか。
 まず、鄭州での黄河決壊についてどのような状況であったのか、見てみよう。

3.鄭州での決壊がもつ意味
 羅振玉と劉大紳の文章では、一致しない部分があるのを、今、問題にしている。鄭州で決壊した年についてだ。羅振玉の文章には「光緒戊子(1888)、黄河が鄭州で決壊した」とあり、一方、劉大紳は、「光緒十四(1888)年、河南におもむき」としている。劉大紳の書き方からすると、鄭州での黄河決壊は前年の1887年とも理解できるのだ。
 蒋逸雪「劉鉄雲年譜」は、鄭州決壊を1887年としている*25。
 劉闡キは、『鉄雲先生年譜長編』において「清史稿河渠志」にもとづき次のように説明する。すなわち、光緒十三(1887)年八月、鄭州で決壊した。黄河は、賈魯河より淮河を経て洪沢湖に注ぎ込んだ。河川が氾濫した一帯に農民蜂起が発生するのを恐れた清朝政府は、紹誠、陳宝箴、潘駿文らを派遣し河督成孚、河南巡撫倪文蔚を援助させる。さらに礼部尚書李鴻藻、刑部侍郎薛允升を実地調査に送りこんだり、成孚にかえて李鶴年を河督にするなど、おおわらわだった。翌十四(1888)年六月になっても堤防は復旧しない。清朝政府は大いに怒り、成孚と李鶴年を流罪に、李鴻藻と倪文蔚は降格させ、別に広東巡撫呉大澂を河道総督にした。呉大澂は、金石の考古学者で水利について何も知らず、劉鉄雲が大いに提案し、その年の冬、ようやく修復がなった。清朝は喜び、呉大澂も得意で、「龕」という字を刻んだ円形の印を作って記念した*26。
 鄭州における黄河決壊は、『光緒朝東華録』によると光緒十三年八月十四日(1887.9.30)である*27。
 当時の黄河治水に関係する人々の役職上の変化を追っておきたい。
 河東河道総督とは、河南、山東の黄河を管理する最高責任者をいう。担当範囲というものがあり、黄河が南流していた時代は、黄河上流より山東曹県までが河東河道総督、下流は江南河道総督の管轄であった。1855年の銅瓦廂での決壊後、黄河が東流するにしたがい、下流の直隷大名府より河口までは山東巡撫が管轄するようになっている*28。


山東、河南巡撫、河東河道総督一覧
光緒 十二 十三    十四   十五  十六 十七
1886 1887    1888   1889  1890 1891
巡撫山東 張曜 〃    〃   〃  〃 〃死/福潤
  河南 辺宝泉 倪文蔚    〃   〃  〃死/裕寛 〃
東河 成孚 〃革/李鶴年 〃革/呉大澂 〃  〃/許振示韋 〃

注:銭実甫編『清代職官年表』全4冊 北京・中華書局1980.7。第2巻「総督年表」1489-1492頁。「巡撫年表」1727-1731頁。このふたつから必要な項目を抽出して作成した。

 河東河道総督の成孚が、光緒十三(1887)年に免職(革職)されたのに続き、翌年(1888)にも李鶴年が同じく免職されている。同年七月十日その後を襲うのが呉大澂である。劉鉄雲は、呉大澂のもとに駆け付けたというのだから、その時期は、光緒十四(1888)年七月以降ということになる。
 堤防を復旧することのできない責任者を解任するなど、清朝政府は、黄河治水についてほったらかしであったわけではないことがわかる。同時に、1887年、1888年と二年連続して人事移動をしなければならなかったほど治水工事が難航していたことも示唆しているのだ。
 さて、劉鉄雲が黄河治水に参加したという行動については、ほとんどの文献が言及する。上に引いた劉闡キの文章は、一般のものより一歩踏みこんで説明しているのは見たとおりだ。また、劉徳隆、朱禧、劉徳平も「劉鶚与治理黄河」*29という専論で、具体的に解説しようとしている。しかし、劉鉄雲が駆けつけたこの鄭州決壊が持つ意味については、いずれの文章もなにも言ってはいない。
 黄河は、毎年のようにどこかで堤防が切れ、氾濫をくりかえしていた。1887年の鄭州決壊もそのひとつにすぎない、という考えに縛られているのではなかろうか。事実は単純ではない。この鄭州決壊は、ある特別な意味をもっていた。ありふれた洪水のひとつであるはずがないのだ。
 劉鉄雲自身が、「老残遊記」のなかで手掛かりを示している。前に引用した、「黄河が大清河と合流していないころ」「黄河と合流してから」(「老残遊記」第4回)という部分だ。
 現在流れている黄河が、昔からのかわらぬ黄河だと思うと間違う。

3-1 黄河の第6次大移動
 黄土高原を流れてくる黄河は、泥砂を多量に含んでいる。黄河下流は、その堆積により川底が上がり、これが洪水の最大原因となる。鄭州を扇の要と見立てると、扇を開いた形に黄河は自由に流れを変えてきた。北に流れて渤海に注ぎ込み、南に走って淮河に流れ込む。簡単にいえば、これが、黄河河道変遷の型だ。
 紀元前、黄河はもともと北に流れていた。北流のまま、1048年までに3回流れ場所(河道)を変えている。1128年、大きく南に方向転換し淮河に流れ、1234年にさらに南下する。これで5回の移動である。
 咸豊五(1855)年六月十九日、蘭陽県銅瓦廂で大決壊し、黄河は南から東北に流れを変えた。これを東流という。大清河を呑み込み、利津より渤海に注ぐことになったのだ。河道変遷を数えれば、これが6回目の方向転換となる。先に、劉鉄雲がその「老残遊記」の中でふれていた「黄河と合流してから」というのは、まさにこのことを指している。黄河治水の専門家である劉鉄雲が、黄河河道の変遷を正しく認識しているのは、当たり前といえばそうなのだ。
 黄河の氾濫は、黄河流域に発生するからそう称する。咸豊五(1855)年の東流以後、毎年のように氾濫が発生したが、その場所は、昔の大清河沿岸であることは言うまでもない。
 数えてみれば、1841年から1938年までの98年間に、大規模なものだけでも64回の洪水があった*30。そのうちの2回が、大きく流れの方向を変えた。すなわち東流するのをやめ、南流して淮河に注いだ洪水である。ひとつは、1938年、国民政府軍が日本軍に打撃をあたえるため人為的に黄河の堤防を爆破して洪水を引き起こしたもの。残るひとつこそ、劉鉄雲が参加した鄭州決壊である。
 光緒十三(1887)年、鄭州で決壊した黄河は、賈魯河より淮河に流入した。それまでの洪水と異なるのは、黄河の流れが移動したこととその規模が大きく、復旧工事に時間がかかったことである。決壊したのが八月、工事に成功したのが翌年(1888)十二月十九日*31だから、十六ヵ月を費やしたことになる。その総工費は、銀1,200万両であった*32。鄭州決壊が7回目の黄河大移動にならなかったのは、東流の方針を変更せず、復旧工事を完成したからである。しかし、南流させるにまかせる、という意見も当然のようにあった。

3-2 東流と南流の議論
 黄河の大移動にともなう議論の発生は、なにもこの鄭州決壊の場合だけではなかった。当然、第6回目の銅瓦廂決壊による東流の時も、そのままにするか、南流にもどすかの議論があった。この時は、太平天国の乱など国内の政情不安もあり治水に専念する余裕がなく、東流を認めたため、結果として黄河の方向転換となったのである*33。
 1855年以来35年間、いちおう東流を堅持するかたちで時間は経過している。しかし、その間も、昔の南流にもどすべきだという主張がくりかえしてなされ、議論となっていた*34。
 概略を示せば、以下のようになる。

……此ノ如ク黄河北徒セリト雖モ尚ホ時ニ難岸ノ決潰セシコトアリ。就中其最モ甚シカリハ光緒十三年ニ於ケル河南省鄭州上南廰属ノ堤防決潰是レナリ。彼ノ有名ナル鄭工捐例ハ即チ此工事ニ要スル経費ニ充テンカ為メニ起セシ捐例ナリ。当時鄭州缺口ヲ機トシ黄河南徒ヲ議スル者アリシモ、戸部尚書翁伺龠禾、工部尚書潘祖蔭、両江総督曽国|等皆決口ヲ堵塞シ旧流ニ従フヲ可トシ南流ヲ否トセリ。蓋シ河性北行ニ利アリ。南流ハ河性ニ逆フノミナラス一旦災害ヲ及ホセハ其禍北決ノ比ニ非サレハナリ。*35

 昔の南流もどせ、とくりかえし主張するのは、山東巡撫張曜である。鄭州での決壊により南流が自然に実現したから声も強くなる。光緒十三年十月十一日の上奏文において張曜は、「山東の河は泥がますますつまり、黄河の流れを受け入れることはまことに難しくなっております。勢いに乗じ南河の旧道にもどすことをお願いしたいと思います」*36と述べた。
 張曜にしてみれば、黄河を引き受けて洪水に悩まされるのはまっぴらだということだろう。山東巡撫の立場からすれば、当然のような気もする。災害の原因は、遠ざけるのにこしたことはなかろう。鄭州で決壊して南流するのであればそのままにせよ、という張曜の主張は、李鴻藻、李鶴年らによっても支持された。しかし、旧道復活の主張は、巨額の費用がかかることと工事の煩雑を理由として、同年十一月二十五日の上諭によって否定されるのである*37。以後、論争は終息した。

3-3 李鴻藻の修復作業
 李鴻藻が、鄭州を視察するよう命じられたのは、決壊から一ヵ月以上も経過した光緒十三(1887)年九月二十四日のことだった。時に、六十八歳である。ただちに赴任し、十月二十二日、家族あての手紙に鄭州の決壊現場についてつぎのように書いている。

 ……ここはめちゃくちゃでいう言葉もない。物資の購入運搬もきわめて難しく、河が決壊してすでに二ヵ月余というのに、現今、着手もできていない。この光景を見ると、修理復旧する日もなければ、起工する日も決してないように思う。やれやれ。李和翁(鶴年)は、本日到着する。誰が来ようとやりようがない。……*38

 同じく十一月八日付の手紙である。

 ……ここの仕事だけがめちゃくちゃで言葉もない。運搬した物資は、なお一割にすぎない。今年中に起工できるわけがなく、どうしたらよいのか、本当に焦ってしまう。……*39

 黄河は決壊したまま、手つかずという状況なのである。さらに李鴻藻は、引き続き鄭州での修復工事監督を命じられている。年があけ光緒十四年、李鴻藻は六十九歳となったが、あいかわらず工事の進捗はおもうにまかせない。それでも三月二十日付の手紙には、ここの五百五十余丈は、三月以来、すでに二百五十余丈が完成し、四月末か五月初めには修復できるかもしれない、というまでになっていた。ところが、その予想を裏切って、工事はなかなか終了しない。ここで堤防修復の新兵器ともいうべきものが登場する。
 西洋の機器を導入することにしたのは、作業の効率化を目的にしたものだった。鉄道による土砂運搬車百輌、夜間作業のための電燈、資材運搬の速度をあげるための小型汽船2隻である*40。
 新しい機器を投入したにもかかわらず、工事はいっこうにはかどらない。黄河の増水期をふたたびむかえるなどして、決壊から約一年になろうとする七月十日に、残りわずかに三十余丈にかかわらず、いつ完成するか把握できない、と報告するよりしかたがなかった。
 怒ったのは、同日、報告を受けた朝廷である。前述のように、河東河道総督であった成孚とその後を継いだ李鶴年を流罪に、李鴻藻と倪文蔚を降格し、李鶴年にかえて広東巡撫呉大澂を河道総督に任命した*41。
 李鴻藻の嘆きには大きなものがあった。「半年あまり、知力体力ともに使い果たし、そのあげくがこのありさまだ。悲しみの極みというべきだ」*42と家書にしたためることになる。

3-4 呉大澂の登場
 河東河道総督に新しく任命された呉大澂は、八月五日、開封に到着した。翌日、事務引き継ぎをする。
 呉大澂は、みずから決壊箇所を実地に視察したうえに、関係者からたびたび意見を聴取し、関係書類を閲覧するなどした。
 その結果、修復工事がここまで遅延している原因を、決壊箇所が長すぎて本流がそこに注ぎ込み、締切り工事に手間がかかっていること、それは、前年の起工が余りにも遅すぎて資材を入手することができなかったためだ、と指摘する。
 呉大澂が観測したところ、「東r」は、四十六占二百十五丈、「西r」は、六十一占三百五丈、決壊部分は約三十五、六丈である。
 「r」というのは、河川工事における独特のもので、時には水量調整に、護岸に、また決壊部の締切りに、とあらゆる場合に使用されている。簡単に言えば、魚のヒレのように堤防本体から河中にせりだす形に構築する堤である。
 鄭州決壊の場合、東西の「r」に区別しているから、左右からそれぞれ延長していって、決壊部分を塞ごうというのだ。つまり、「r」は、一度に全部を作り上げるものではなく、一段づつ固めながら伸ばしていく。この一段を「占」という。
 視察で得られた事実の上にたてられた呉大澂の修復方針は、つぎのようなものだった。すなわち、「西r」が弱いためこれに沿って水の勢いを殺す目的でもうひとつの「r」(挑水rという)を築く。さらに、本流の勢力を分けるために水路を別につくる(引河という*43)。「挑水r」で「西r」を保護しながら、「引河」に本流を導き、その間に決壊部分を繋げるというのだ。工事期間の見積は、二ヵ月である。決壊の状況と修復方針について、だいたい以上のことが、八月十三日付呉大澂の上奏文から理解できる*44。
 上奏文から判断する限り、李鴻藻が採用した修復方針と呉大澂のそれとの違いは、「挑水r」および「引河」の有無となる。
 呉大澂の報告書には、李鴻藻が導入した西洋の機器がどうなっているのかの言及がない。土砂運搬車百輌、電燈、小型汽船2隻は、引き続き使用されていたと考えられる。
 八月から予定の二ヵ月が経過しても修復工事は難航したままだった。十一月二十九日の上奏文には、見慣れない言葉が出現している。いわく、レンガ、砕石で周囲を保護する「磚r」「石r」は、激流にあうとゆるんでしまう。西洋各国にはセメント(原文:塞門徳土)というものがあり、砂と混ぜあわせると粘り、水が染み透らず、これは中国で使用している三合土(注:三和土ともいう。石灰1、烏樟葉1、黄土1の割合で混合したもの)よりも堅牢だと聞く。本年八月、北洋大臣李鴻章と電報で相談し旅順にあるセメント三千桶を振り向けてもらい、さらに上海、香港から六百桶を追加購入した。現在、陸続と運ばれてきておりまず試験してみる*45、とある。
 セメント(cement)は、周知のとおり空気中および水中で硬化する水硬性セメントのことで、別にポルトランドセメントとも称せられる。1824年、イギリス人が特許を得ており、日本では1872(明治5)年に始めて製造された。光緒十四(1888)年、鄭州の工事に使用される可能性は充分にあった。呉大澂によるセメント使用は、土砂運搬車、電燈、汽船につづく西洋機器の利用であるといってよい。
 季節は冬である。決壊箇所のまわりには凍結した。水勢は、必ずしも強くはなくなり、十二月十日、天候の緩んだのを機会に別の水路(引河)を開くと河の本流は、東に流れた。十四日、締切りのための東西の堤(r)をさらに伸ばし、十六日、東西rの間に太い縄を張り渡したのち玉を沈めて河の神を祭る。十七、十八日の両日、主となる「正r」と上流の「上辺r」は、同時に合体(合竜という)した*46。こうして長期にわたった締切り工事は、完了したのである。清朝政府は、ただちに呉大澂を表彰し、さきに処罰を加えていた元修復作業関係者についても地位回復をするなどの措置をこうじた。
 呉大澂は、修復成功後、「鄭龕」なる号を自ら使用したという。「鄭工合龍」を意匠とした印を作成してもいる*47。自らの号とし、印を刻むくらいに得意な仕事であった。やりとげるのに大きな苦労があったことも同時に理解できる。その苦労が大きければおおきいほど、達成感は高まる。「鄭工合龍」という印は、そういう呉大澂の状況と感情をよく表現しているように思う。

3-5 鄭州での決壊がもつ意味
 この鄭州での修復工事には、黄河治水のいわば戦略と戦術についての注目すべき問題点が存在することが理解できる。
 ひとつは、大きく言えば黄河の河道をいかにすべきか、という戦略があることを示している。銅瓦廂で河道を大移動させた事実からも、特に下流における決壊に際しては、常に東流、南流の議論が発生することを知らなくてはならない。劉鉄雲との関係からいえば、彼は、鄭州での決壊修復工事には、その東流と南流の議論が決着したあとで参加している点に注目したい。鄭州治水には、考慮すべき戦略が存在していたにもかかわらず、劉鉄雲自らには、直接、その戦略に関わる機会はなかった。これは、のちの彼自身の治水論『治河七説』に関係が生じてくる。
 もうひとつは、治水の戦術、すなわち修復方針と方法についてである。
 修復方針といえば、李鴻藻は、ただやみくもに決壊箇所を修復しようとした。後に登場した呉大澂が採用した修復方針で李鴻藻と異なるのは、「挑水r」と「引河」であった。再度説明すれば、「挑水r」を築いて弱い方の「西r」を保護しながら、本流を別の水路(引河)に導き、水の勢いが弱まったのに乗じて決壊箇所を締切るというものだ。李鴻藻が考えつかなかったこの「挑水r」と「引河」の方法を、呉大澂は、どこから着想したのであろうか。これこそが、劉鉄雲が大いに関係する部分なのだ。
 さらに、治水方法で目新しいのは、西洋の機器の登場である。土砂運搬車、電燈、汽船は、新兵器ということができる。また、セメントの使用は、従来の工法にはない新手法に違いない。
 まず、「挑水r」と「引河」の発想源から述べよう。それには劉鉄雲の父成忠の治水論にさかのぼる必要がでてくる。なぜならば、劉鉄雲が鄭州の工事に参加したとき、彼の黄河治水に関する知識は、多くは父成忠から伝えられたものだと考えられるからだ。劉鉄雲の著作である『治河七説』は後に書かれるもので、この時の鄭州工事に役立ったとすれば、父成忠の『河防芻議』をおいては存在しない。劉鉄雲自身、父に従って黄河治水の実際を体験しているはずだ。しかし、その体験は、この時、文字になっていない。拠るとすれば、やはり劉成忠『河防芻議』であろう。





【注】
1)「「老残遊記」紀行――済南篇」『野草』第38号 1986.9.10
2)劉鉄雲『老残遊記』北京・人民文学出版社1957.10を使用している。33頁。
3)『朝日新聞』1996.6.18大阪版夕刊。写真「干上がった黄河は子供たちの格好の遊び場になっている=山東省済陽県で、堀江(義人)写す」。堀田善衞「「黄河、海に届かず」」(『ちくま』1996年8月号<第305号>1996.8.1)が朝日の記事に言及する。ただし、新聞記事の内容は同文であるらしいが、東京版と大阪版では題名が異なる。また、写真が違っているらしい(東京版。写真「干上がった黄河を横断する農家の人と家畜=山東省の済南黄河大橋で堀江写す」)。
4)羅振玉「五十日夢痕録」厳一萍選輯「原刻景印叢書集成続編」台湾・芸文印書館 刊年不記。これは「国学叢刊」巻15(1915)の該当部分を影印したもの。
5)莫栄宗「羅雪堂先生年譜」上 『大陸雑誌』第26巻第5期 1963.3.15。143頁。
6)樽本照雄「胡適は『老残遊記』をどう読んだか」『大阪経大論集』第120号 1977.11.15。のち樽本『清末小説閑談』法律文化社1983.9.20所収。本文は、中国語に翻訳された。陳広宏訳「胡適如何認識《老残遊記》」『中国近代文学研究』創刊号 復旦大学中文系中国近代文学研究室編 南昌・百花洲文芸出版社1991.10
7)樽本照雄「「老残遊記」の成立」『清末小説』第15号 1992.12.1
8)中国社会科学院近代史研究所中華民国史研究室『胡適的日記』香港・中華書局香港分局1985.9
9)『胡適的日記』195頁。
10)『胡適的日記』212-214頁
11)『胡適的日記』275頁
12)『胡適的日記』280頁
13)『胡適的日記』507頁。原稿を手渡してから出版まで、わずか3ヵ月しか要していない。橋川時雄訳『輓近の支那文学』(東華社1923.2.1。胡適の1923年3月7日付序文がついている)として実現した。もっとも、2月1日発行という記述にもかかわらず、それよりも遅い日付の胡適序文がついているので、その記された発行日は疑わしい。また別に、訳者不明の一部抜粋翻訳もある。「支那近代小説史」『月刊支那研究』第1巻第3号1925.2.1初出未見。今、竜渓書舎1979.9.30影印本による。
14)胡適「五十年来中国之文学」『最近五十年』上海・申報社1923.2初版未見。拠ったのは『晩清五十年来之中国』と改題影印した香港・龍門書店(<1922年上海初版とする>1968.9再版)本である。18(総62)頁。
15)胡適「五十年来中国之文学」18(総62)頁
16)樽本「胡適は『老残遊記』をどう読んだか」参照。人民文学社版『老残遊記』では、張撫台としているが、張だけが実名では、ほかの人物とのバランスが悪い。初出通り荘撫台とするのがいい。
17)魯迅『中国小説史略』北京・新潮社 上巻1923.12下巻1924.6ともに未見/北平・北新書局1930.5七版/上海・北新書局1931.7訂正本。引用部分は、1930.5七版も1931.7訂正本も字句は同じ。
18)『老残遊記』上海・亜東図書館1925.12初出未見/1934.10第十版
19)蒋逸雪「劉鉄雲年譜」(魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4所収。134頁)および劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』(済南・斉魯書社1982.8。2頁)ともに、陽暦9月29日と誤っている。なぜ間違ったままなのかその理由を知らない。
20)劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』9-10頁
21)劉大紳「関於老残遊記」『文苑』第1輯1939.4.15。のち『宇宙風乙刊』第
20-24期1940.1.15-5.1に再掲。また、魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4(采華書林影印あり)、劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』成都・四川人民出版社1985.7などに収録される。本稿では、魏紹昌編『老残遊記資料』所収のものを使用する。86頁。
22)蒋逸雪「劉鉄雲年譜」魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4。日本・采華書林の影印本がある。147頁。
23)劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』済南・斉魯書社1982.8。23-24頁。
24)劉徳隆、朱禧、劉徳平著「劉鶚与治理黄河」『劉鶚小伝』天津人民出版社1987.8。4-7頁。
25)蒋逸雪「劉鉄雲年譜」146頁
26)劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』23-24頁
27)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』全5冊、北京・中華書局1958.12/1984.9第 2次印刷。総2322頁。なお、同書総2334頁には、八月十三日とある。劉徳隆、朱禧、劉徳平『劉鶚小伝』(天津人民出版社1987.8。4頁)は、八月十三日とする。
28)『清国行政法』汲古書院1972.6。235-236頁。
29)劉徳隆、朱禧、劉徳平『劉鶚小伝』3-15頁
30)「1841-1938年黄河洪水決溢表」黄河防洪志編纂委員会、黄河志総編輯室編『黄河防洪志』鄭州・河南人民出版社1991.11。39-48頁。
31)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2551頁
32)鄭肇経著、田辺泰訳『支那水利史』大東出版社1941.2.5。84頁。
33)「康煕六十年(一七二一年)及ビソノ翌年ニ黄河ハ河南ノ武陟ニ決シ、東流シテ大清河ヲ奪ツタ。朝廷ハ直チニ東流ヲ閉塞セシメタガ、河南ノ氾濫ハ年々止マズ、河道転換ノ河勢ハ漸ク顕著トナツタ。遂ニ咸豊五年(一八五五年)ニ銅瓦廂ニ決シ、済南利津ヲ経テ海ニ入ツタ。斯クテ黄河ハ第六次ノ大移動ヲナシ、再ビ東流スルニ至ツタ。コノ東流河道ヲ如何ニスルカ。当然朝野ノ大問題トナツタガ、当時清末ノ政治情勢ハ長髪族ノ内乱ノ継続的勃発ト西欧勢力ノ侵入トニヨツテ、内憂外患ニヨツテ治河ノ事ニ力モ暇モナイ状態デアツタ。当時有力ナ政治家デアツタ曽国藩、李鴻章等ノ見解ヲ見ルニ、大体ニ於テ東流ヲ認ムルノ他ナシトスルニ在ツタ。曽ハ東流ト南道トノ両河道ヲ比較シテ、(一)工事費、(二)工事ノ難易、(三)河道閉塞ニ要スル人夫勇兵ト社会不安等ノ三点カラ東流河道ヲ一時認ムベキコトヲ力説シテヰル。李モ同治十年、両河道ノ調査比較論カラ東阿、魯山カラ利津ニ至ル河道ノ有利ナルヲ指摘シ、南流復帰ニ反対シテヰル。/要スルニ、清朝末年ニ至ツテハ一般ノ与論トシテ東流ヲ認ムルト云フノガ圧倒的デアツタ。ソノ根本原因ハ清朝三百年、強弩ノ余、国勢頓ニ振ハズ、治河ニ積極的意図ヲ喪失シタコトニアルノデアルガ、西欧文明ノ侵入ニヨツテ一般ノ経済条件ガ変化シテ来タコトモ考慮サレネバナラヌ。西洋海運ノ輸入ヤ海港ノ発達ヤ鉄道ノ開設等ノ事実ハ支那ノ基本経済地帯ノ構成ニ多大ノ影響ヲ与ヘ、運河航運ノ価値ニ大キイ変化ヲ与ヘタノデアル。カクテ支那固有政治時代ノ黄河問題ハ終ヲ告ゲタノデアル」東亜研究所編纂『第二調査(黄河)委員会綜合報告書』1944.6.25(非売品)。93頁。
34)水利部黄河水利委員会《黄河水利史述要》編写組『黄河水利史述要』北京・水利電力出版社1984.1。351-355頁。
35)『清国行政法』第3巻。「第一編内務行政(第二) 第七章土木 第五節治水 第一款河防 第一項河防法ヲ適用スル河川」汲古書院1972.6。192-194頁。なお、翁同龠禾と潘祖蔭の上奏文は、朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2334-2336頁に収録されている。
36)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2358頁
37)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2384頁
38)李宗}、劉鳳翰著『清李文正公鴻藻年譜』上下冊 台湾商務印書館1981.10。442頁。
39)李宗}、劉鳳翰著『清李文正公鴻藻年譜』443頁
40)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2435頁。李宗}、劉鳳翰著『清李文正公鴻藻年譜』464頁
41)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2476頁
42)李宗}、劉鳳翰著『清李文正公鴻藻年譜』508頁
43)黄河治水関係用語については、福田秀夫、横田周平著『黄河治水に関する資料』(コロナ社1941.9.5)に拠った。
44)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2489-2493頁
45)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2541頁。劉徳隆、朱禧、劉徳平は、その『劉鶚小伝』7頁でセメントについての呉大澂の上奏文を「十一月五日」と誤っている。李宗}、劉鳳翰著『清李文正公鴻藻年譜』が514頁で「十一月五日」に誤っているのにならったものだろう。
46)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2554-2555頁
47)劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』24頁。劉徳隆、朱禧、劉徳平『劉鶚小伝』7頁。郭長海「劉鉄雲事跡拾零」『明清小説研究』1994年第4期(総第34期)1994.12.1。94-95頁。
(たるもと てるお)