●清末小説 第19号 1996.12.1




商務印書館と中華書局の教科書戦争



沢 本 郁 馬


 商務印書館と中華書局が、ことあるごとに衝突したのは、中華書局成立の事情に起因する。

1.陸費逵と商務印書館
 中華書局を創立した陸費逵(1886-1941)は、もともと商務印書館に勤めていた人物だった。
 熊尚厚「陸費逵先生」その他から、経歴の骨子を抽出すると以下のようになる。
 陸費逵は、若いころ『時務報』を閲覧し新思想の影響をうけた。英語、日本語を学び、武昌で新学界書店を創設し革命関係書籍を売るなどしている。そればかりか革命団体・日知会に参加し、革命活動を行なった。1905年、漢口『楚報』の主筆になるが張之洞によって封鎖されると上海に逃れる。昌明公司上海支店(書店)社長と編集を兼ね、上海書業商会の準備活動に参加したあと、1906年、文明書局職員、文明小学校校長および書業商会補習所教務長をも兼任した*1。
 熊尚厚の記述からわかるのは、陸費逵が革新思想をもっていたこと、小規模ながら書店などの責任者を経験していることなどだ。のちの彼の経歴をあわせて見れば、陸費逵が不羈独立の精神に富んだ人物だと推測することができるだろう。
 そのころ、書業商会に出席していた商務印書館の高夢旦は、陸費逵としょっちゅう顔をあわせていた。高夢旦は、陸費が印刷発行業務を把握できるばかりか編集についても相当の経験を持っていることを知り、その才能が得がたいことを理解する。張元済と相談のうえ、陸費逵を高給で商務印書館に招いた。1908年、陸費逵二十三歳の時である。高夢旦は、のちに姪を彼に嫁がせてもいる*2。
 ついでにいうと、高夢旦が商務印書館に入社して編訳所国文部部長となったは、1903年12月であった*3。いきなり部長だ。1909年4月15日、高夢旦は理事のひとりに選出され、中華民国成立の1912年6月まで理事を勤めている。
 商務印書館が、キリスト教の信仰と血縁で結びついた人々によって創業、運営されていた印刷会社であったことは、すでに知られているところだ。商務印書館の中心人物である夏瑞芳は、鮑哲才の次女、すなわち鮑兄弟の妹と結婚している。鮑咸恩の弟・咸昌は、父・鮑哲才の友人である郁忠恩の長女と結婚した。郁忠恩の息子・厚坤は、商務印書館の最初の出資者だ。1909年3月2日、高夢旦が親戚の娘・高君隠*4と陸費逵を結婚させたのもその例にならったものだろう。姻戚関係をもつことによって陸費逵を商務印書館につなぎとめることができると高夢旦は考えた、と想像したくなる。また、高夢旦は、そうしたくなるほどの才能を陸費逵のなかに見出していたともいえよう。
 陸費逵が商務印書館に入社する数年前の1903年、商務印書館は、日本・金港堂との合弁会社になっていた。商務印書館の編集者たちは、上海にやってきた長尾雨山、小谷重らをまじえて、早速、教科書編集会議を持ち、出版したのが『最新国文教科書』である。編集に参加した蒋維喬の言葉によると、発行されて数ヵ月にもならず十余万冊が売れたという*5。
 既述のように1908年秋、陸費逵は、国文部編集者として商務印書館に入社し、翌1909年春には出版部部長兼『教育雑誌』主編および師範講義部主任となった。時間的に見れば、高夢旦が商務印書館理事に選任されたあとを受けて、陸費逵が出版部部長を引き継いだかっこうだ。
 陸費逵が、文明書局、商務印書館で編集した教科書を書名だけでも目録*6から拾いだしておく。陸費逵がたずさわった具体的な仕事を見ることができるのではないかと思うからだ。発行年順に配列すると以下のようになる(原本はいずれも未見。頁数は目録のもの)。

陸費逵纂輯『本国地理』上海・昌明公司1906.8(345頁)
陸費逵編『新編初等小学修身教授書』第1、2巻 上海・文明書局1907.6-
1908.3(327頁)
陸費逵編纂『倫理学大意講義』上海・商務印書館1908.2(342頁)
陸費逵編纂『算術新教科書』上下冊 上海・文明書局1908.4/1908.11再版 (347頁)
陸費逵編『最新商業教科書』第1冊 上海・商務印書館1908.10(341頁)

 地理、倫理学、算術、商業とその範囲が広い。陸費逵が教科書編集の才能にめぐまれていたと想像することができる。陸費逵が商務印書館に移って後に、文明書局から『算術新教科書』が出版されているが、印刷が遅れたのかもしれない。ある一面でのんびりした時代だったのだろう。
 陸費逵は、革新思想をいだき、独立心旺盛な人物であったらしいことは前述した。編集の才能があり、自立心が強いとなれば、日本の金港堂と合弁会社である商務印書館の組織に順応できないのではないか、と高夢旦は考えた可能性もある。だからこそ高夢旦は、自分の親戚と結婚させたのだ。しかし、常識で考えて、異民族である清朝の支配に反対する人物が、日本と合弁している商務印書館におとなしく勤務できるはずもなかろう、と私は思うのだ。
 1911年、武昌蜂起が勝利した。革命はきっと成功する、教科書も大改革をしなければならなくなるし、これこそ別に出版社を創設するいい機会だと陸費逵は考えた。戴克敦、陳協恭らと資金を集めながら、陸費逵たちは、急いで新しい教科書を編集し、新書店創設の準備を進める。1912年1月1日、中華民国成立と同時に上海に中華書局を設立した*7。
 以上が、陸費逵が商務印書館から独立して中華書局を創立するまでの簡単ないきさつである。中国で発表された資料、論文は、ほとんど同じような説明をしているといってもいい。

2.中華書局創立まで
 前出熊尚厚は、「当時、商務印書館は教科書についてまだ改革を行なっていなかった」*8とあっさり書いている。読みとばしてしまいそうな記述である。しかし、これが事実ならば、商務印書館は無能集団である、と言っているのと変わらない。商務印書館を経済的に成立させているのは、教科書の発行と販売である。政治体制が変われば、教科書もそれに応じて変化していくものなのではないか。商務印書館首脳は、政治情勢の変化に対して手をこまねいていたのか。具体的な対策は立てなかったのか、という疑問がわくのは当然だろう。
2-1 陸費逵の秘密行動1
 まず、商務印書館側からの証言を見てみよう。
2-1-1 証言1――章錫s
 章錫s「漫談商務印書館」から引用する。

 ……辛亥革命の時、彼(注:陸費逵)は、二十六歳にもなっていなかった。しかし、将来の見通しに富んでおり、革命が必ず成功する、清王朝は必ず崩壊すると考えた。彼は、商務(印書館)が資金繰りがよくなく、業務がしばし振るわない時期につけこみ、国文部編集の戴克敦と発行所の沈知方たちと密かに計画し、資金25,000元を集め、別に出版社を設立するために、商務に解雇されたり、留っている編集者と招聘する約束をして秘密のうちに小中学教科書を編集した*9。

 陸費逵が革命運動に参加していた経歴を知っていれば、彼の革命に対する希望的確信も理解できるだろう。商務印書館の資金繰りがよくないというのは、首脳の一人である夏瑞芳がゴム投機の失敗で損失を出したとか、革命のあおりで各地分館からの送金が順調でなかったとかのことをいっている。「秘密のうちに小中学教科書を編集した(原文:秘密編輯中小学教科書)」という箇所からも、陸費逵の秘密行動を許した商務印書館の無策ぶりが見えてきそうだが、実は、事実はそれほど単純ではない。ここでは、辛亥革命後、陸費逵らが、周囲に隠れて別の教科書を編集していた事実に注目しておきたい。
 章錫sが商務印書館に入ったのは、1912年だった*10。章錫sの商務印書館入社は、時間的に見れば陸費逵が独立した後になる。章錫sは、陸費逵と直接の関わりを持っていたかどうかわからない。しかし、内部の話を聞いた可能性も否定できない。章錫sの吐く「秘密」という言葉には、不正義であるという意味合いを感じる。

 この年の春、新学期がはじまったが、商務が印刷していた教科書はすでに効力を失っており、新しく編集に着手しようにも経験のある編集者や文字を書き図を描くことのできる職員はすべて中華(書局)に引き抜かれてしまっていた。引き抜かれなかった人のなかにも、密かに中華と気脈を通じ、彼らに内部情報を供給するものもいた。しかし、商務は知ってはいても叱責できず、給料を増やしなんとか穏便にすませるしかなかった。この年の春、中華は商務の全ての教科書営業を奪っただけでなく、よその書店の教科書も販売できず、これより商務最大の敵となったのだ*11。

 商務印書館の社員で中華書局に内部情報を提供する人物がいたという。これに対して商務印書館が強い態度に出ることができなかったのはなぜなのか。解雇すればいいようなものの、それでは人手がますます減ってしまうと考えたのか。この部分の詳細は不明である。少なくとも商務印書館の組織内部が脆弱になっていることの証明だろう。
2-1-2 証言2――鄭貞文
 似たような記述になるが、鄭貞文の回顧も見ておく。

 1911年、彼(注:陸費逵)は、張元済に従って北京に行き中央教育会に参加して上海にもどってくると、国文部の編集者戴克敦および発行所の沈知方らと秘密のうちに資金を集め別に出版会社を設立する計画をたてた。武昌蜂起の後、商務印書館の一部の同僚と小学校教科書を編集する。1912年元旦、中華書局が成立すると、彼は社長となり、同時に『中華小学教科書』を出版し、五色の国旗を印刷した。内容は新しい政治形態に符合しており、商務の黄竜旗の教科書を打倒したのだった。あわせて「教科書革命」と「完全華商自弁」というふたつのスローガンを用いて、一躍、商務の強敵となり異常に激しい競争を展開したのだ*12。

 ここでも「秘密」という言葉が使われている。いい意味であろうはずがない。鄭貞文が商務印書館に入社したのは1918年であった*13。当時、商務印書館にいて、陸費逵が独立をしたことに対して歯ぎしりをした人物に内幕を聞いたのだろう。「教科書革命」と「完全華商自弁」のふたつのスローガンがあったという。「教科書革命」については、あとで触れる。
2-1-3 証言3――朱蔚伯
 おなじく商務印書館の社員であった朱蔚伯の回想によると、当時の情況は次のようだった。

 中華民国と同年同日の誕生日である中華書局は、出発早々、共和制の「中華教科書」一セットを出版し、完全華商の旗を打ち立てて大広告をしたが、その目的は商務の秘密を暴くところにあった。商務は対応する暇もなく、業務上の競争においてはまったく不利な立場に陥ったのだ*14。

 「完全華商」というのは、そのあとの「商務の秘密」と関連している。こちらの「秘密」とは、つまり、商務印書館には、当時、日本の資本が入っていた、商務は、日本・金港堂と合弁会社であったということなのだ。商務印書館と金港堂の合弁については、積極的に宣伝されることはなかった。それどころか商務印書館は、合弁の事実を公開するつもりはなかったらしい。合弁したからといって商務印書館の名称はもとのままだし、表面上、どこにもそれらしい証拠を見つけることはできなかった。だからこそ「商務の秘密」になったのだ。それにしても商務印書館には「秘密」が多い。

 もともと、中華の数人の創業者、陸費逵(伯鴻)、戴克敦(懋哉)、沈頤(朶山)、沈知方たちはみな商務の人間で、戴、沈は国文部編集者、陸費逵はかつて『教育雑誌』主編を勤めており、後、出版部主任となった。沈知方は商務発行所の重要メンバーのひとりである。彼らは内幕を充分に知っており、商務当局の辛亥革命のなりゆきについての見通しが不足していること、編集出版方面では機を逸せず充分な準備をすることができないと見抜いていた。陸費逵(伯鴻)は、数人のベテラン編集者および気心をしった教育界の人物と内外でひそかに協力し、彼の家で教科書一セットを編集しおわった。文明書局とその印刷所の責任者を仲間に引き入れ、編集出版印刷発行など各方面の人物を含んだかなり完成した主要メンバーを組織した。民国が成立すると、中華書局の準備工作も同時に完成し、共和体制に適合した教科書一セットがすぐさま市場に出た。(商務印書館の)『最新教科書』の黄竜旗に、暗然と色を失わせたのだった*15。

 朱蔚伯までが、商務印書館が「辛亥革命のなりゆきについての見通しが不足している」などと書く。
 章錫s、鄭貞文および朱蔚伯たちは、全員が現在から過去を見て文章を書いている。辛亥革命が成就し清朝が崩壊した事実を知っているから、陸費逵たちが秘密のうちに新しい教科書を編集していたことをあたかも先見の明があったかのように錯覚しているのではないか。いささか非難の語調をにじませているとはいえ、だ。
 商務印書館の首脳であった夏瑞芳と張元済のふたりについて見てみると、確かに無策といわれてもしかたのない情況にあった。
2-1-4 夏瑞芳の場合
 商務印書館の社長・夏瑞芳こそは、事業の節目ふしめに出版と経営のかじ取りをしてきた責任者である。そもそも商務印書館設立を中心になって実行したのが夏瑞芳だった。印刷請け負いから教科書出版に方向転換し、出資者をさがしだし、日本・金港堂との合弁を決意してきた。商務印書館の経営規模を大きくしていった原動力である。辛亥革命という出来事に身をおいて、当然、力を発揮すべく誰からも期待されていたはずだ。ところが、この重大事態に夏瑞芳は、まったくの無力だったのである*16。
 1910年3月、張元済は、世界旅行へ出発した。上海から船に乗って香港、シンガポールを経て地中海からロンドンに到着したのが5月だ。7月、夏瑞芳が、ゴム投機に失敗し、10万余元を失ったことが商務印書館理事会で明らかにされた。夏瑞芳は、巨額の損失を出したことで精神的にまいってしまい、仕事どころではなかった。中華書局の動きに対してなんら対策をこうじることができなかったのだ。
2-1-5 張元済の場合
 夏瑞芳が精神的にへたりこんでいるところに、張元済は世界旅行の途中である。商務印書館へは連絡をとっていたが、手紙ではいかにも不自由だろう。アメリカへまわり、日本を経由して上海にもどったのは、1911年1月だった*17。
 同年6月、学部が中央教育会を設置し、張謇が会長、張元済と傅増湘が副会長となる。学部とは、全国の教育事務を統轄するために清末に新設された中央行政機構のひとつだ。会議開催のため7月から張元済は北京にいた。10月10日には上海にもどってきてはいるが、武昌蜂起について張元済が何か発言したとは『張元済日記』には書かれていない。1912年、民国となっても同じく『張元済年譜』には中華書局に関係する張元済の意見は記録されていない。
 夏瑞芳は、ゴム投機失敗で意気消沈している。張元済は、北京で会議に忙しい。辛亥革命以前に教科書に関して商務印書館首脳が何か準備をしていたとは書かれていないのが事実だ。
 上の証言でわかるように、辛亥革命以後、中華書局創立のため陸費逵が教科書を秘密のうちに編集していたという事実は、各証言者が共通して指摘している。便宜的に陸費逵の秘密行動といっておく。
 まとめると、1911年辛亥革命が成功すると確信した陸費逵は、商務印書館に秘密で教科書を別に編集した(秘密行動)。1912年中華民国成立と同時に中華書局を創設し、準備していた教科書を大々的に売りだした、という経過である。
 秘密に教科書編集をした陸費逵の秘密行動については、当時を回想する誰でもがそれが事実であったことを指摘する。だが、資料を読んでいくと、陸費逵は、それ以前にもうひとつの秘密行動をとっていたらしいことがわかってきた。秘密行動βとする。
2-2 陸費逵の秘密行動β
 商務印書館の中心人物、責任者・夏瑞芳、首脳のひとり張元済らは、以上の記述によると、新しい情況に対してまったく手を打たなかったかのようである。くりかえすが、はたして、そのようなことがありうるだろうか。
 当時の商務印書館首脳が結果として無策であったということはできても、内部でなんらかの動きがまったくなかったかというと、それはありえないのではないかと思うのだ。商務印書館の経営基盤は、教科書発行にある。教科書発行について、なんらかの改革案があったと考えるのが普通の見方であろう。
2-2-1 証言4――蒋維喬
 蒋維喬の証言を聞いてみよう。蒋維喬は、高夢旦よりも数ヵ月早く商務印書館に入社している。教科書編集の熟練者でもあり、商務印書館に長年勤務しているから内部事情をより詳しく知っているはずだ。

 この時、革命の勢いが日増しに強くなり、商務(印書館)の同僚のなかで将来の見通しを持った人たちは、革命後に適用する教科書一セットを準備すべきだと菊生(張元済)に勧めた*18。

 実際には、商務印書館の将来を憂えた人たちもいたことがここからわかる。それもひとりではない。複数存在したように書かれている。ただし、具体的な名前はあげられていない。今、かりに教科書改革グループとしておく。
 当時、張元済に進言することのできる人たちというと、数が限られる。
 そのころの理事会の成員は、夏瑞芳(兼社長)、印錫璋、張元済、鄭孝胥、高鳳池、高夢旦、鮑咸恩の7名だ。消去法でいけば張元済本人と夏瑞芳が、まず、はずれる。鄭孝胥は、のちの「清朝の遺老」だからこれも除外する。高鳳池も保守派の人物で、鮑咸恩は印刷専門だ。残るのは高夢旦だけとなる。政治情勢の変化を見ながら、将来どうなるか予想はできなかったにしても、誰ひとりとして何も考えていなかったというわけではない。
 ところが、高夢旦、あるいは高夢旦とのつながりが強い陸費逵自身、すなわち教科書改革グループ(だと推測する)のせっかくの進言も張元済には受け入れられなかった。

 張元済は、もともと頭脳明敏で実行力に富んでおり、すべての措置が適切でなかったことがない。しかし、聖人にも千慮の一失で、彼は、本来、勤王党(原文:保皇党)の臭みをおびており、話が革命におよぶと、いつも首を横にふった。ついには、革命は成功するはずがない、教科書を改める必要はない、と断定するのだった。しかし、伯鴻(陸費逵)は、適用するそろいの教科書をひそかに準備し、秘密のうちに書局を組織した*19。

 蒋維喬は、「教科書を改める必要はない」に続けて、「しかし、伯鴻(陸費逵)は、適用するそろいの教科書をひそかに準備し、秘密のうちに書局を組織し」、民国元年、中華書局の成立を突然宣告した、と書いている。教科書改革に反対したのは、張元済だったという証言を除いては、多くの証言者と同じとらえ方をしているとばかり思った。つまり、辛亥革命の勃発→教科書改革の進言→張元済の拒否→陸費逵の秘密行動→中華書局の成立、という順番である。複数の証言と上の引用文を照合すれば、この順序で事態が推移したと思うではないか。中華書局の創業をのべる文章のほとんどすべてが、以上のように把握している。これについて異論を提出している文献を私は見たことがない。しかし、資料をつきあわせてみると、どうやらこれは蒋維喬の記憶違いであるようだ。
2-2-2 秘密行動の謎
 陸費逵に関して蒋維喬の証言に奇妙な部分があることに気がついた。これこそが陸費逵の教科書改革グループの存在と、今まで考えられてきたものとは別の秘密行動があったことを証明する証言なのである。以下にのべる。
 陸費逵(蒋維喬の文章では、「陸氏」と誤っている。陸費という複姓が正しい)が高夢旦のひきで商務印書館では特別待遇だったと述べたあと、つぎのように書いている。

……実は陸は野心に燃えており、社外で共謀して小学教科書フルセットを密かに編集した。その実、国文、算術、歴史、地理、理科など最初の一冊だけができていたにすぎなかったが、すぐさま広告をうって宣伝したのだった。商務側では、夏瑞芳、張元済がこれを見て大いに驚き、高夢旦に責任をもって交渉させた。その結果、原稿を高値で購入し、(陸費)伯鴻に対しては給料を増額したのだ。伯鴻のこの行動は、まったくユスリ主義であり、大金を欲して資本とし、さらに意図するところがあったのである。高夢旦たちは困惑するし、だまされてしまったのだが、夏瑞芳、張元済たちはその内幕を知らなかった*20。

 蒋維喬が陸費逵に対してよい印象を持っていないことが、この記述からも充分に理解できる。商務印書館を足げにして出ていった陸費逵を回想しているのだから無理もない。
 陸費逵が、商務印書館の社外で別の教科書を編集した、というのは、今まで多くの証言がある。武昌蜂起から中華民国成立までの時期に、陸費逵が教科書を秘密のうちに編集したという事実(秘密行動)である。上の証言も、てっきりこの秘密行動についてのべたものだとばかり、私は、考えていた。私を含んだすべての研究者はそう思っていたのだ。
 しかし、蒋維喬の文章をよく読めば奇妙である。いくら考えても納得できないのは、原稿を商務印書館が購入したという部分だ。そればかりか、陸費逵の給料を増額したとはどういうことなのか。
 中華民国になって陸費逵は、中華書局の社長に就任した。中華民国成立後、中華書局の教科書は発売された。蒋維喬のいう教科書は、民国成立後、陸費逵が商務印書館を離脱した後のものであるはずだ。にもかかわらず、商務印書館の給料を増額されたというのでは、つじつまが合わない。陸費逵にしても、新しい出版社を創立するために編集した教科書原稿を商務印書館に売ってしまっては、話にならないではないか。
 ここでいう教科書編集とは、中華民国成立直前の新教科書秘密編集(秘密行動)とは、別のものと考えなければならない。そうなると、前述の教科書改革の進言とどうかかわりがあるのだろうか。
 蒋維喬の証言を、その記述の順番で整理すると次のようになる。

1.陸費逵は、小学教科書を密かに編集し(秘密行動――3と同じ)広告し た。商務印書館は、原稿を買い取った。
2.教科書改革グループが張元済に革命以後の教科書を準備するよう進言し た。しかし、張元済は、それを拒否した。
3.辛亥革命後、陸費逵は、密かに教科書を準備し(秘密行動――1と同じ)、 中華書局を創立した。

 1について、陸費逵が広告で新しい教科書を宣伝したというが、商務印書館の名前を使ったのか、それとも別の出版社名にしたのか、いかなる内容の新教科書だったのか、そのあたりの事情が蒋維喬の文章では、わからない。詳細は不明にしても、従来は、1の教科書編集と3の教科書準備は、同じものだと考えられてきた。すなわち、くどいようだがくりかえすと、辛亥革命後、商務印書館に秘密で新しい教科書を編集し、中華民国成立後、ただちに中華書局を創業した、というただひとつの説明、解釈である。まさか、陸費逵が2度にわたって秘密行動をとっていたとは、誰しも想像しないだろう。
 しかし、辛亥革命以前に、陸費逵はもうひとつの秘密行動を実行していたのだ。上記蒋維喬証言の1から3までを矛盾なく説明しようとすれば、陸費逵が2度にわたって秘密行動をとっていたと考えざるをえない。また、その証拠もある。
 1910年2月23日の蒋維喬日記に記録されている。すなわち、「正月十四日 朝9時、夏粋翁(瑞芳)の求めで赴き、陸費伯鴻が外で教科書を密かに編集したこと、会社はそれを購入するつもりだということについて議論をする。私は、賛成もせず、また反対もしなかった」*21というのがそれだ。
 1910年といえば、陸費逵が商務印書館に入社して2年にもならないころだ。辛亥革命にはまだすこし時間がある。蒋維喬は、このころ連日のように既存の教科書に手を入れているだけで、新しい教科書編集など影も見えない。ただ、蒋維喬日記には、陸費逵が密かに編集したとは書かれているが、それを広告したとまではいっていない。同じ蒋維喬の文章ではあるが、回想文より時間から見て蒋維喬日記の方が正しいのだろうか。
 1910年2月23日前後の『申報』に掲載された商務印書館の教科書広告を調査したことはした。商務印書館の広告は、確かにある。ただし、書目だけでは、陸費逵が秘密に編集したものかどうかわからない。ましてや、別の書店名で出しているのかどうかも不明となると、お手上げである。問題として残しておく。
2-2-3 もうひとつの秘密行動――つぶされた教科書改革
 辛亥革命後、陸費逵が密かに教科書を準備したという3の部分は、事実であり、動かない。問題は、1の新教科書編集と広告である。蒋維喬日記から判明した事実は、これが1910年の出来事であり、今まで考えられてきた1912年民国成立直前のものではありえないということだ。
 陸費逵が最初に行なった新教科書編集を秘密行動βとしてみよう。これは、事前に発覚しつぶされてしまった。高夢旦が交渉を命じられたのは、彼が陸費逵の後見人のような立場にあったからだと想像する。その後、教科書改革グループの張元済への進言が行われるが、これにも失敗する。教科書改革を進言してそれが拒否されれば、普通は、それっきりになるはずのものだろう。おまけに2度までも泥にまみれているのだ。ところが、常識を破って、陸費逵は、企画を放棄したように見せかけて、実際は編集に着手しており、完成させた、と考えれば、話の筋がよりはっきりと通るのだ。辛亥革命後、陸費逵は、密かに教科書を準備し(秘密行動)、中華書局を創立した、に続くのは上に同じだ。くりかえす。

1.密かに新教科書を編集した(秘密行動β)。商務印書館は、原稿を買い 取った。
2.教科書改革グループの張元済への進言とその失敗。
3.辛亥革命後、陸費逵は、密かに教科書を準備し(秘密行動)、中華書局 を創立。

 陸費逵のこの秘密行動βは、なにを意味しているのか。
 陸費逵こそは、商務印書館の出版部部長である。激しく変化する政治情況を前にして、教科書は、従来通りのものでいいのか、新しいものを編集する必要はないのか、それとも古い教科書を用意しつつ、一方で、事態の流れいく方向を見ながら、新しい教科書も準備する必要があるのではないか、などなど想像できるかぎりの対策を考えたのではないか。それを期待して高夢旦は、陸費逵を見込んで高い給料で引き抜き、部長の地位を提供し、姻戚関係さえも結んだのではないのか。
 商務印書館の従来の教科書に陸費逵は不満を感じた。陸費逵は、高夢旦の期待に応えた。1910年、陸費逵は、1秘密行動βを取った。新教科書の編集が露見し、商務印書館は、その原稿を購入する。あきらめずに教科書改革を商務印書館首脳に進言したのだろう。これが2部分である。ところが、張元済の拒否にあう。1911年、武昌蜂起の成功を見た陸費逵は、革命の成功を確信し、ふたたび新教科書を準備した(3秘密行動)。
 陸費逵の秘密行動βは、今にして思えば、早晩、陸費逵が商務印書館を飛びだす前兆であったということもできよう。
 それにしても、陸費逵(秘密行動β)にたいする商務首脳の弱腰はなぜなのであろう。陸費逵を叱責するどころか、原稿を購入し、さらには給料の増額を認めるとはどういうことなのか。
 商務印書館首脳に「秘密」で別の教科書を編集していたとなると、はっきりいえば、陸費逵は、商務印書館に対して背任行為をしていたことになる。それも、一度ならず二度までもだ。ところが、商務印書館首脳は、このことについて表立って陸費逵を非難していない。陸費逵の後ろ盾、高夢旦の威光なのか、よくわからない。なぜなのか。今、私が思いつくのは、陸費逵らが教科書改革を進言していたのに、張元済らはそれに反対した、しかるに、辛亥革命が成功し、陸費逵らのいう通りになってしまい、面目を失い、陸費逵を非難するどころの騒ぎではなくなった、ということぐらいのことだ。
 詳しい事情が知りたいと思う。
2-2-4 証言5――朱聯保
 蒋維喬証言によって、革命の時代に適合する教科書を作成するよう進言した人物は、陸費逵(および私見では、高夢旦を含めたい)であったことは、間違いないだろう。もうひとつ、朱聯保の回憶があることに気がついた。
 朱聯保は、世界書局に40年近く勤めた経験をもっている。世界書局とは、初期商務印書館の職員であり、のち中華書局に転職した沈知方が、1921年に創設した書店である。朱聯保が沈知方から聞いたところによると、沈知方と陸費逵は、教科書改編を主張したが、商務は賛成せず、そこで陸費逵、戴克敦、陳協らと中華書局を準備した、という*22。
 高夢旦のかわりに沈知方が出てきているが、教科書改革グループと考えればいいだろう。
2-2-5 証言6――鄭逸梅
 鄭逸梅の文章は、典拠を示さないため、書物に拠った部分と伝聞の部分あるいは自らの見聞との区別がつかない場合が多い。引用するには少しためらうが、商務印書館については、彼は、内部資料を整理したことがあるというので紹介しておく。

 1911年、清朝をくつがえす革命の潮流は、沸き返り阻止することができなかった。この時、商務当局は来学期の教科書を発行するについて大いに躊躇したのである。もしも、今までどおり「竜旗は日にはためき、皇帝万万歳」という教材文を印刷して、革命が成功すれば、大量の封建的陳腐な教科書が紙くずになることを彼らはひどく恐れた。莫大な損失でないわけがない。しかし、もし革命教科書を編集印刷したとしても公開することはできない。万一、革命が成功しなければ、清王朝の怒りを買うことになり、いいわけできない、とも思った。再三考えたがいい方法がない。商務当局は、「知恵者」と呼ばれていた陸費伯鴻に思い至り、彼をよんで方法を相談したが、彼は、「清朝には二百年あまりにわたる発展の基礎があります。総督巡撫地方長官は、全員が優秀ですから、革命党を捕縛することにかけてははなはだ厳しいのです。また、政府は相当な兵力を擁していますから、外敵に抵抗することはできなくても内乱を処理するぐらいのことは余裕があります。ですから革命は、決して短期間に成功するものではありません。来学期の教科書は、やはり今までどおりで結構ですし、変える必要はありません」ときっぱり言った。商務当局は、彼のこの言葉通りに今までのものを印刷発行することに決定したのである*23。

 鄭逸梅の文章は、辛亥革命以前に発生している教科書改革の進言と拒否、ならびに陸費逵の秘密行動β――教科書の秘密編集については言及していないことを確認しておきたい。カッコ内に見える陸費逵の言葉など、まるで見てきたように書いてある。
 鄭逸梅がのべるこの部分だけを見ると(私が見た限りほとんどすべての文献が同じことを言っているのだが)、陸費逵はなんとひどい人間かと思う人がでてくる可能性がある。革命思想をもっているはずの陸費逵だが、清朝擁護をしているではないか。革命など成功するはずがない、と口ではいいながら、密かに革命教科書を編集していたのは、陸費逵なのだ、などなど。
 しかし、陸費逵たちの教科書改革グループは、すでに張元済ら商務印書館首脳に教科書改革を進言している。それは拒否されたのだ。その時点で、陸費逵は、商務印書館首脳にたいして不信の念を持ったのではないか。将来の独立を決心したと想像もできる。いちど(実質的には2度)拒否されているにもかかわらず、いまさら相談をもちかけられても、真面目に対応する気になるはずがなかろう。陸費逵は、それまでの経緯を逆手にとって、教科書改革など必要ではない、と大声をあげたと読むのべきなのだ。
 もう少し引用する。

 ……革命の成功は、目前にあった。彼(陸費逵)は、なにごともないように商務をあしらう一方で、数人の比較的親密な同僚――戴克敦、陳協恭、沈頤、沈方知たちを秘密に招き、宝山路宝興西里の彼の家に毎晩集合し、新しい教科書編纂を相談した。しかし、編集を終わってもおおやけに印刷することはできない。なぜなら商務当局に知られたくなかったし、また清朝の役人の目をごまかさなくてはなからなかったからだ。普通の印刷所は、このようないわゆる「大逆不道」の革命本を印刷する勇気などなかった。やむをえず鴨緑江道にある日本人が経営する作新印刷所に委託して印刷したが、だいたいが二号活字で挿絵は木刻である*24。

 作新印刷所というのは、作新社のことだろう。作新印刷所が、中華書局の教科書を印刷したという。さすがに上海である。いくつもの抜け道があったらしい。陸費逵が商務印書館を辞職するとき、商務は月給400元で引き止めようとしたとも書かれている。当時の商務印書館社員の月給は、平均して約60元であるから、陸費逵に提示された400元がいかに高給かが理解できる。商務印書館は、最後まで陸費逵を優遇しようとしたらしい。
 陸費逵らによる教科書改革を拒否した後も、商務印書館のモタツキには変化がない。
 蒋維喬日記を見ると、商務印書館の辛亥革命についての鈍感ぶりを蒋維喬の目を通して読み取ることができる。

 八月二十三日(1911.10.14) 午前中、編訳所の会議。武昌革命軍により商業は大きな影響を受ける。各部の原稿で組み版印刷の急がないものは、すべてゆっくりすることを提案する。ただ英文国文の二部は、いつも通りとする*25。

 その後は、時事ものだと推測できる辛亥革命紀、革命党小伝などの編集校正を始めている。辞典の編集にも着手しているが、教科書については、なんと1912年元旦にようやく、「辞典を編集する。また、各種教科書を修改しなければならない。ゆえに辞典の編集は中止し、教科書修改に従事する」*26という記述が見える。ノンビリしたものだ。緊張感などまったく感じることができない。あくまでも過去を振り返っての私の感想である。渦中にある当事者にしてみれば、案外とそんなものかもしれない。

3.中華書局創立後
 民国元年、中華書局は成立を宣言すると同時に各種教科書を売りだし、商務印書館は顔色を失った。陸費逵は、商務を離脱し中華書局社長におさまる。
3-1 高夢旦の場合
 商務印書館に留った高夢旦は、針のむしろである。

 最も苦しい思いをしたのは高夢旦であった。商務の元発起人には許してもらうことができず、かげでスパイと罵る人さえいたのだ。ただ張元済だけが昔とおなじように信頼していた。私は高夢旦と親しかったので、からかって「虻蜂取らずで、もともこもなくしたな」といったことがある*27。

 高夢旦こそ陸費逵を引き抜いてきた張本人だ。出版部部長も陸費逵に譲っている。姻戚関係もある。商務印書館首脳のなかでは、その将来を考えている人物のひとりだといっていい。実力をともなった高夢旦−陸費逵ライン、すなわち前出の教科書改革グループである。ふたりは親密であったから、陸費逵との関係で高夢旦が後ろ指をさされることになったのは、いたしかたない。蒋維喬の言葉に対する高夢旦の弁明はないのだ。
 前述の商務印書館理事会7名の任期は、1909年4月15日から1912年6月7日までであった。翌日からの理事に変更がある。夏瑞芳(兼社長)、印錫璋、張元済、鄭孝胥(主席)までは留任だ。高鳳池、高夢旦、鮑咸恩の3名が、王之仁、奚伯綬、鮑咸昌に変更されている。鮑咸恩は、1910年6月21日に死去しているから、鮑咸昌に替わったのには理由があり、納得もできる。高鳳池は、このとき理事ではなくなったが、のちに復活する。つまり、1914年1月10日、夏瑞芳が暗殺され、夏瑞芳のかわりに印錫璋が社長に、高鳳池が支配人に推挙されているのだ。それにひきかえ高夢旦だけがこの時期、浮上してこないのは、この陸費逵事件が原因であろうか。
3-2 『教育雑誌』のチグハグさ
 商務印書館の時勢に対するノンビリさ加減は、すでに紹介した。積極的にノンビリしているのか、それとも結果的にそうなったのか、どちらをも兼ねているのかもしれない。 清末に、陸費逵が責任者で発行した『教育雑誌』の場合を見てみよう。
 商務印書館の『教育雑誌』は、1909年2月15日(宣統元年正月二十五日)に創刊号を発行した。創刊号より第3年第9期(1911.10.31、宣統三年九月初十日)まで、編輯者・陸費逵と奥付には表示されている。辛亥革命の混乱で雑誌の発行が遅れた。つづく第3年第10期は、表紙に「中華民国元年元月初十日発行」と印刷してはいるが、その奥付は、「民国元年五月初十日再版」*28となっている。宣統がつづくという仮定のもとに発行を準備していたはずだ。該号の初版を見ることができないのでなんとも言いようがないが、民国に変更されたため慌てて活字を組み直し、巻頭論文の内容も取り替えて印刷するのに約5ヵ月かかったということか。編輯兼発行者は、陸費逵から教育雑誌社に変更されている。
 中華書局は、陽暦1912年1月1日に創立されたから、社長の陸費逵は当然、商務印書館を退職している。しかるに、5月10日再版発行の商務印書館『教育雑誌』には、陸費逵の論文が2本も掲載されたままなのである。
 陸費逵論文のひとつの論題は、「謹んで民国教育総長へ告げる(敬告民国教育総長)」という。題名からも、文中に「臨時政府が成立し」とあるところからも明らかなように、1912年1月以降の原稿だ。こちらで教育の原則を述べ、もう一篇の「民国普通学制について(民国普通学制議)」において具体的な学制を提案する。同じく民国成立後に書かれていることはいうまでもない。この時、陸費逵はすでに商務印書館の社員ではない。社員でないどころか、後ろ足でドロを跳ねとばすように商務印書館を辞職したのではなかったのか。そういう人物の論文が2本も巻頭を飾っているのは、なぜなのか。別の論文に差し替える時間は、充分とはいかないかもしれないが、ないわけではなかったろうにと思うのだ。チグハグと言おうか、ノンビリしているといおうか、けじめをつけたい私としては、なんとも言いようのない気がする。もっとも、当時の商務印書館には、臨機応変に事態に対処できる人間がいなかったといわれれば、それはそれで納得はするのだが。
3-3 陸費逵の商務印書館辞職
 民国1月1日には、陸費逵は、商務印書館を辞職しているとさきに書いた。民国1月1日に中華書局を創立したのならば、その時には、すでに商務印書館を辞職しているはずだ、と考えるのが普通だろう。その普通にならって関連文章には、みなそう書いてある。
 王震「陸費逵年譜」の1911年の項目に、「11月6日、彼(陸費逵)は、戴克敦(懋哉)、陳寅(協恭)、沈知方(芝芳)ママ、沈頤(朶山)の5人と新しい書局を組織することを相談する。/つづいて彼(陸費逵)は、商務を辞職するが、商務は月給400元で引き止めようとした。彼は毅然として無視し、外に出て創業したのだ」*29とある。1月1日以前に辞職したように書かれている。私もそう思ってきた。だから、1912年1月には商務印書館の社員ではない陸費逵が、なぜ1月10日に発行されたことになっている『教育雑誌』第3期第10期に論文を2本も掲載しているのか、不思議に感じた。
 しかし、考えてみれば、陸費逵が何年の何月何日に商務印書館を辞職したのか、明確に示す資料を見たことがない。見たかもしれないが、おぼえていない。
 あらためて調べてみると、はっきりしたことがわからない。
 1912年1月1日に中華書局が創立されたとき、陸費逵が社長となった。ここまではよろしい。ただし、これはもしかすると書類上の記載にすぎないものかもしれない。なぜなら、中華書局の表立った具体的な活動は、もう少しあとに始まっているからだ。
 銭炳寰「談談中華書局的創辧人」によると、中華書局の第1回株主会議は、1912年2月20日に開催されている*30。
 この株主会議で決められたことは、創立者が営業主体となる、重大な案件は創立者会議(株式有限公司の理事会のようなもの)で決定する、などの事柄だった。
 2月20日までは、新しい教科書の編集などで多忙をきわめたのだろう。新教科書の出版めどがついたところで会議をもったものだと予測する。
 3月24日に第1回創立者会議を開催し、出席者は、沈継方(季芳)、陸費逵(伯鴻)、陳寅(協恭)、戴克敦(懋哉)、沈頤(朶山)だった。株式を2万5千元とすることを討論する。第2回創立者会議は、ずっと遅れて10月1日だという。
 以上の動きを見てみると、陸費逵が商務印書館を辞職したのは、遅くともこの2月20日以前だと思う。1912年元旦に辞職しなくても、中華民国誕生に合せた教科書を秘密に編集しながら、商務印書館から給料をもらったほうがよかろう。
 2月以前のいつなのか、と絞り込むと1月25日までだと考える。『中華教育界』の創刊が1912年1月25日だからだ。驚いたことに、陸費逵は、この『中華教育界』創刊号に2本の文章を掲載している。掲載していることに驚いたのではない。その2本の文章というのが、前出『教育雑誌』3年第10期(1912.1.10/5.10再版)とまったく同じ題名で「謹んで民国教育総長へ告げる(敬告民国教育総長)」と「民国普通学制について(民国普通学制議)」なのである。ただし、『中華教育界』創刊号は、残念ながら読むことができない。日本での所蔵を知らないのだ。
 ふたつの雑誌をくらべると、日付のうえでは『教育雑誌』のほうが1月10日で、『中華教育界』の同月25日よりも早いように見える。しかし、商務印書館の『教育雑誌』は、ずっとおくれて5月に出てくる再版本が、いわば正式な発行である。実際には『中華教育界』の方が読者の手には早く届いているはずだ。
 新しく出現した『中華教育界』に陸費逵が2本の論文を掲載していることにより、彼が中華書局を創立したことが一般に知られることになる。
 陸費逵が『教育雑誌』に論文を掲載したのは、その時はまだ商務印書館に勤務していたからだ、とすると、陸費逵の商務印書館辞職は、1912年1月10日から25日の間ではないかと想像する。
3-4 中華書局側の記録
 陳寅が「中華書局一年之回顧」を『中華教育界』民国2年1月号に掲載している*31。中華書局の設立を記録した正式な文書だということができるだろう。
 これによると、陸費逵が同志たちと中華書局を組織することを協議したのは、上海光復後の九月十六日(1911.11.6)だという。ただし、中華民国以前に「中華書局」という名称を決めて使ったということではないだろう。とにかく名前の定まらない新しい出版社を組織し、とりあえず新しい教科書の編集を始めたはずだ。
 民国元年元旦(1912.1.1)、臨時政府が成立すると同時に中華書局を創立、社長は陸費伯鴻(逵)、編集長に汪海秋(濤。のち戴懋哉<克敦>に交替)、陳寅が事務長という陣容である。
 手回しよく『中華教育界』を創刊する。1月25日付の発行であるが、感覚からいうと中華民国が成立して即座に出てきた印象になるのではなかろうか。
 該誌第1年第1号の「中華書局宣言書」*32において、「立国の根本は教育にある。教育の根本は実に教科書にある。教育を革命しなければ、国の基礎はついには固めることができない。教科書を革命しなければ、教育の目的はついに達することができないのである」とのべる。これが「教科書革命」である。そのスローガンは、次のようになっている。

一、中華共和国国民を養成する
二、人道主義、政治主義、軍国民主義を採用する
三、実際教育を重視する
四、国粋と欧化を融和する

 中華書局が新聞に広告した教科書は、当然ながら、以上のスローガンに沿ったものとなる。

4.『申報』紙上の教科書戦争
 『申報』紙上でくりひろげられた商務印書館と中華書局の教科書戦争は、いきなり両者の激突から始まったわけではない。つばぜりあいともいうべき段階がある。まず、中華書局から口火を切った。
4-1 前哨戦
4-1-1 中華書局の場合
 『申報』紙上によく掲載されていた商務印書館の広告は、中華民国成立後、パタリと掲載されなくなった。そのかわりに、突然といっていいように出現したのが中華書局の教科書広告なのである。
 1912年2月26日付『申報』に掲載された中華書局の広告は、ふたつにわけられている。「教科書革命」と大きく表示し、「革命」という文字が人目を引く。ふたつともに「中華初等/高等小学教科書」発売をいうのだが、その説明文が少し異なっているだけで基本的には同じものだ。似たような内容の広告がならべて掲載されているのも何か奇妙だ。奇妙だと思うように構成したというつもりだろうか。
 片方の広告は「教科書革命」の大文字の下に、「清の皇帝は退位し、民国は統一された。政治革命は成功したのである。今日最も急ぐのは教育革命である」と書かれている。部分ぶぶんを大活字で強調し、教育部の訓令を遵守し、独立自尊、自由平等の精神で人道、実業、政治、軍国民の主義を採用し、完全共和国民を養成するのを目的とすると述べる。
 もう一方の説明の冒頭は、こうだ。
 「立国の根本は教育にある。教育の根本は教科書にある。教育を革命しなければ国の基礎はついには固めることができない。教科書を革命しなければ、教育の目的はついに達することができないのである。往時、異民族が国政に当り、政治体制は専制で束縛抑圧に全力を傾注していた。教科図書はきびしく支配され、自由真理共和大義がそこから注入されるはずがなかった……」先に示した「中華書局宣言書」と同文なのである。
 掲げられた四つの項目は、(一)中華共和国国民を養成する、(二)人道主義、政治主義、軍国民主義を採用する、(三)実際教育を重視する、(四)国粋欧化を融和する、という。
 異民族が支配していた清朝時代において、大いに教科書を販売していたのが商務印書館であった。この中華書局の広告は、商務印書館と名指しこそしてはいないが、明らかに商務印書館を批判したものだということができる。
 中華書局の教科書には、「中華」と頭に冠するのを特徴とする。「中華初等小学修身教科書」のごとくである。
 会戦のまえぶれである。それほど露骨な広告でもない。また、「完全華商自辧」という言葉は見えない*33。
 1912年3月3日付『申報』広告で、中華書局は、「共和宗旨教科書」が陽暦3月中には出そろうと宣言した。
 3月18日付『申報』広告でも同じく、教育部訓令を遵守し共和宗旨教科書を編集した、という具合である。
 一方、商務印書館は、どうだったか。
4-1-2 商務印書館の場合
 商務印書館は、中華民国成立後、急には対応することができなかった。教科書改革の中心人物であった陸費逵が提出した改革案を、商務首脳は否定して来たのだ。ヘソを曲げた陸費逵は、会議では教科書を改める必要を認めなかったから、新しい情況に対してなんの準備もしていない。
 おまけに、その陸費逵は、商務印書館をとびだして中華書局を創立し、競争相手として出現した。
 商務印書館が、情況の急変についていけないのも当然である。急いで新しい教科書を編集するにしても、時間がかかる。2月26日に中華書局が「教科書革命」をとなえて大々的に新聞広告をうったが、それに対してようやく『申報』に広告を出したのが、遅れにおくれて4月12日のことだった。
 当時の新聞は、第1面全体が広告頁になっている。1912年4月12日付『申報』第1面に「民国紀元/商務印書館発行所落成/大紀念 新編共和国教科書五折収価」という広告が掲載されている。5割引きで売るという。大きな文字でそれだけを強調する。説明文は、中の広告にある。
 「……教科書に従事してすでに十年を越える……共和国教科書を編集するのに実際上の革新に注意をはらった……」などと説明し、従来の経験と実質的な革新を強調する。編集の要点として、自由平等、国粋、参政の普及、五族平等、博愛、尚武などなどの重視をうたっているのもたしかである。しかし、中華書局がくりひろげた広告の量と質に比較して、商務印書館は、守勢にまわっているのは、誰の目にも明らかだ。
 商務印書館は、中華書局の「中華教科書」に対抗して「共和国教科書」と呼ぶのが特徴である。
 商務印書館が大声で打ちだした対抗策が、なんと「半額」販売でしかなかった。中華書局に対する有効な手段を、当時、商務印書館首脳が持っていなかったことが理解できるだろう。
 事実、6月3日付『張元済日記』には、印錫璋、夏瑞芳らと編訳所で新編教科書を半額で販売することを決定したことが書かれている*34。
 商務印書館が半額販売を宣伝すれば、中華書局もそれに追随するのは当然だ。『中華教育界』民国2年2月号(1913.2.15)の広告には、「新制中華小学教科書半額販売」を宣伝している。
4-1-3 「共和国教科書」
 本来ならば、ここで商務印書館と中華書局の発行した教科書を並べて比較対照してみたい。だが、残念ながら、現在、当時の教科書を見ることができないでいる。
 以前、日本の書店で入手した商務印書館発行の教科書が数冊、たまたま手元にあるので、そのうちの一冊を紹介しておきたい。初版ではないから、そのころの姿をどの程度伝えているのかわからない。ないよりマシという参考程度であるのをご理解いただきたい。
 書名は、『共和国教科書 新修身』である。表紙には書名のほかに、「教育部審定 国民学校 春季始業 第一冊 学生用」「商務印書館発行」と表示される。奥付には、「中華民国元/十六年六/四月初/七七四版」「編纂者 武進沈頤/杭県戴克敦」「校訂者 長楽高鳳謙」「発行者 商務印書館」とある。石印。
 七七四版というのは、誤植ではない。15年間にそれだけ増刷されたということだろう。その印刷数の多さは、一般書籍とは桁が違う。教科書戦争に発展する原因のひとつでもある。
 「一、本書は、共和国民の道徳を養成することを目的とする。独立自尊愛国群愛(他人を愛する)の諸義を重視する。……」にはじまる「新修身編輯大意」が2頁ある。 家庭と学校における児童のあるべき姿、つまり編輯大意のことばを引けば、「共和国民がそなえるべき道徳」を教えるのが目的だ。
 目次が続いて本文「第一課入学」「第二課敬師」が第18課までわずか26頁という小冊子にすぎない。8冊で構成されているらしい。
 第1課は、彩色がほどこされている。父親らしき複数の人物が、日本で現在でも見かける制服姿の小学生を引き連れて学校の建物に入っていく情景が描かれる。入り口には、国民学校と書かれた旗と五色の旗が掲げられている。
 この教科書の特徴は、本文に一切説明の文章が使われていないことだ。教員用に教授法が対になって編集されていることがうたわれる。たしかに、説明文のない教科書には、教師用の解説書がなければ教えにくい。
 この『共和国教科書 新修身』は、以前に発行していたものを民国になって、わずかな手直しをしただけの教科書だと想像する。清末に発行されていた商務印書館の修身教科書を見ていないので詳しくは言えないのだが、そう考える理由のひとつは、奥付の編纂者だ。沈頤、戴克敦ともに中華書局の創業者である。『共和国教科書 新修身』初版が発行された1912年6月には、すでに商務印書館には勤務していない。
 勤務していないにかかわらず編纂者として名前が出ているということは、清末に出版していた元本があったと考えられる。
 たとえば、沈頤、戴克敦編纂、高鳳謙校訂『簡明修身教科書教授法』(上海・商務印書館1907.11-1909.6)という教員用の教科書がある*35。
 教授法は、児童用の教科書と対になっているものだから、『簡明修身教科書』があるはずなのだ。事実、1910年2月23日付『申報第二張』に掲載された広告「商務印書館/己酉出版/初等小学用書」のなかに、戴克敦、沈頤、陸費逵編『簡明修身教科書』が見える。これを元本にして、『共和国教科書 新修身』と改めたものだろう。本文にもともと説明文がないのだから、全面的に書き換える必要はない。
 商務印書館は、過去の遺産をうまく利用しているということができよう。ただし、ちょっとした手直しとはいっても、その発行は6月なのだから、中華書局の教科書よりもはるかに遅れをとっていることには変わりがない。
4-2 背景としての学制改革
 中華民国成立後、教育制度が改められた。教科書は、国の教育方針にそって編集されることになる。商務印書館側が説明する当時の情況は、つぎのようなものだった。「辛亥革命で南京臨時政府が成立し、教育部が設立され、「普通教育暫行弁法」が発布された。5月、北京教育部が成立、すべての教科書で共和の主旨に合わないものは改正するよう通達があり、同年7月、教育部は臨時教育会議を召集し学制を改訂し、教科書の審査制を規定した。本館は、部章に照らして共和国教科書を編集した」*36。
 商務印書館が売りだした教科書には、「共和国教科書」の名称が頭につく。「共和国教科書新修身」、「共和国教科書新国文」といったぐあいだ。「新」が挿入されてはいるが、その中身は清朝時代の教科書を手直ししたものであったことはすでに述べた。
 変更された学制で、商務印書館と中華書局の教科書戦争に関連する部分について見ておく。ふたつある。
 ひとつは、教科書については、教育部による審査が必要になったことだ*37。もうひとつは、それまでの2学期制が改められて3学期制に変更されたこと*38。

 商務印書館の教科書は、もともと2学期用に編纂されていた。清朝時代がそうだったのだからしかたがない。しかし、新しく3学期制に変わると、前時代をひきずったままの教科書なのだから急にはそれに対応できない。その弱点を突いたのが中華書局なのだ。
 陸費逵は、商務印書館にいて教科書販売に辣腕をふるっていた人物である。商務印書館の内部事情には詳しい。そういう人物が、敵にまわって商務印書館を攻撃するのだから、商務にしてみれば往生するのも無理はない。
4-3 教科書戦争
 商務印書館と中華書局の教科書戦争は、表面に姿をあらわしている部分とそうでない部分とがある。教科書をいかにして販売しているのか、どのように採用を働きかけているのか、現場の情況についてはそれを伝える資料が出てこない。これが隠れた実態なのだ。文献だけではこの隠蔽された実態を探ることが困難だ。
 実態を背景にして表面に浮き上がる部分があり、それが『申報』の第1面を舞台にくりひろげられた教科書の宣伝合戦である。本論であつかっているのは、この表面に出てきている部分であることをお断わりしておく。
 宣伝合戦といっても、両書店が相手を無視して独自に広告を発表するという単なる宣伝ではない。論争のかたちをとっているのが特異である。
 商務印書館が教科書の宣伝をすると、中華書局がそれに噛みつく。さらに商務印書館が反論する、というやりとりが数回つづいた。水面下でくりひろげられている苛烈な教科書販売戦争を想像させるのに充分な論争なのだ。
 典型的な例を、1913年8月11日の『申報』に見ることができる。
4-3-1 第1回――両社の衝突
 『申報』第1面上段に商務印書館の、下段に中華書局の広告がある。
 商務印書館の広告からはじめる。
 大見出しは、「新編三学期/共和国教科書/秋季始業用本」という。初等小学に「新修身」「新国文」など4種類、それぞれに教授法と組みになっていて合計8種類の教科書名と冊数、定価が明示される。高等小学のほうは7種類(新算術が重複しているが、価格が異なっているので2種類とする)だが、同じく教科書と教授法に分かれているから合計14種類になる。初等小学の「新算術」「新算術教授法」の2種類を除いて、あとはすべて「教育部審定」の表示がついている。
 問題となるのは、商務印書館による説明文だ。
 「本館の編集する秋季始業共和国教科書は、新しい規定である3学期を遵守しておりますが、やはり毎年2冊に分けて編纂しています。第1学期は1冊で、第23学期は合わせて1冊です。購買者は、2冊の費用を出すだけで3冊分を得ることができます」とのべる。さらに、安い、きれい、審査済み、教授法教科書の充実と4大特色をあげる。
 2冊分の費用で3冊分が購入できる、というのには笑ってしまう。清朝時代の2冊をむりやり3学期用に流用していることがあからさまなのである。商務印書館が苦し紛れに打ちだした方法なのであろうが、中華書局は、その弱点を攻撃した。
 中華書局は、商務印書館の広告と同一紙面において、「新規定を遵守し学校運営を行なっている諸君へ」と題する長文の説明文をかかげる。「□」を用いて伏せ字にしてあるのは、原文のままである。
 「□□□書館は、3学期の書を論じて毎学年の2冊の費用のほうが安く、3冊の費用が高い……などと言っている。新規定を遵守して編集した本は、かの会社は毎学年2冊で、弊社は毎学年3冊だ。(教育部は毎学期1冊のほうが利用者には便利だと裁決している)かの会社は冊数のみを論じているが、しかし、新規定の編成に照らせば3冊が適当なのだ。かの会社の秋季始業□□国教科書は、旧本を分割合成して成ったもので、相変わらず2冊にわけているが分量にふぞろいがあり新規定に合致していないのだ」という。つづけて、中華書局は、時間数、教材文の数、頁数など細かい数字を挙げて説明しているが、煩雑になるのでここでは省略する。
 最初の□は、商務印書館を、次の□は、教科国教科書を指しているのは、誰でも瞬時に理解するだろう。中華書局は、商務印書館が新規定を守っていない、規定違反であることを強調する。
4-3-2 商務印書館の反論
 翌1913年8月14日には、商務印書館からの反論「声明(原文:商務印書館登報声明)」と、その隣り合わせの場所に昨日と同一の中華書局の広告が出現している。
 商務印書館は、まず、中華書局が、最近、秋季始業共和国教科書について大いに罵る広告を出しているが、無用の紛争をするつもりはない、と前置する。中華書局が「□」を使用しているところに商務印書館が自ら名乗り出るのだから、商務印書館はよほど腹にすえかねたのだ。もっとも、中華書局は、誰にもわかるように「□」を使ってはいるのだが。
 学期制と教科書の冊数の不一致という弱点を指摘された商務印書館は、「秋季共和(国教科)書は、教育部の完全なる審査を経ている」ことを強調して中華書局への反論とする。さらには、両書店の教科書を頁当り価格がいくらになるのかわざわざ計算して比較までしている。商務印書館は、頁当り1厘62、中華書局のは2厘33というわけなのだ。
 商務印書館が反撃に転じている箇所があり、これが新しい展開といえばそうなのだ。いわく、「本館の印刷所は従業員1,500余人を有し、カラー印刷、3色印刷、石印、活版など各種大小機器の百数十台で出版書籍は自社印刷である。しかるに、かの会社は印刷機わずかに十余台しか所有せず、その書籍は多くがほかの会社に委託して印刷してもらっている」などなど。商務印書館がいいたいのは、自分の印刷所で印刷しているのだから、きれいで品質がよろしい、ということらしい。中華書局が怒らないはずがない。
4-3-3 中華書局の反論
 1913年8月15日、中華書局の反論である。「中華書局は、商務印書館の声明に答える」というのが題名だ。
 商務印書館は「大ホラを吹いている」と、中華書局は、箇条書きにする。1.秋季共和国教科書の課数には出入りがあり、教育部の規則に合致しない、2.秋季共和国教科書は、旧本を分割してできた本で、用を足さないのは確実だ、3.底面は、多くは単頁だ(意味不明)、4.字形が小さすぎると教育部は却下している。
 商務印書館が旧本を元にしているという指摘は、事実だ。活字が小さすぎるというのは、内部事情に詳しくなければ言いだせない。
 委託印刷について中華書局は、反撃する。商務印書館は、すべて自社印刷とするが、文新、天宝、錦章、中華図書館公記などの印刷所は、共和国教科書を印刷しているではないか。商務印書館は、もっぱら手を抜き材料をごまかしている。職員、印刷機の数の多さを自慢するが、それほどの数があるわけではない。などなど。反論は、ますます細かい部分に及んでいる。今回の反論で新しいのは、「本社の教科書は、国恥と租借割譲地についての国民教育を重視する。あの館には憚るところがあるようだが賠償について庚子の4万5千万両だけを言い、甲午の2万3千万両を言わない、というようなことはしない」という箇所だ。義和団事件の4億5千万両には言及するが、日清戦争の2億3千万両を無視するという。商務印書館には日本資本が入っているから、日清戦争について述べるのをはばかっているのだ、と中華書局はあてこすっている。中華書局も、商務印書館は日中合弁会社だ、と直接いえばいいようなものの、もってまわった言い方をしたものだ。あまりに遠回しで一般の人々に理解されたかどうか不明である。ただし、言われた商務印書館自身は、敏感に反応する。
4-3-4 商務印書館の反論2回目
 翌8月16日、すかさず商務印書館の2回目の声明が掲げられた。「共和国教科書/全数審定」と題する教科書の書目に続いて、声明文が並列される。そのおおよそは、つぎのようだ。
 共和本が庚子賠償だけを言い、甲午賠償をいわないのは本社編集同人が国恥を忘れているようで弁解しないわけにはいかない。前の最新国文では土地割譲と賠償について詳細に述べているし、共和本は分量がすくないが触れている。詳しくは教授法のなかで甲午の賠償を説明している。本館の共和本は、外交の失敗をつづけて3課にわたって叙述しているが、あの会社は、租借割譲地の1課があるだけだ、と。
 教科書の冊数から印刷へ、その内容へと論題が徐々に細かい内容にまでおよぶこととなった。
4-3-5 中華書局の反論2回目
 8月17、19、21日の3日間に中華書局の再度の反論(3日とも同内容)が掲載されてこの教科書論争は終了する。
 短い再反論である。焦点は、日清戦争(甲午1894)と義和団事件(庚子1900)の賠償金に関してのものとなっている。「甲午庚子の賠償について該館は、たしかに4万5千万両といっているにすぎず、2万3千万両とは言わない。また、4万5千万両の5千という2文字が落ちており、憚るところがもしないのならば、なぜ詳細と簡略のふたつにわけるのであろうか」
 中華書局は、あくまでも商務印書館が日本と関連を持っているがために日清戦争の賠償金について触れないのだと言いたいらしい。
 以前商務印書館に勤務していた陸費逵たちが、その内部事情を熟知している古巣を攻撃するのだ。中華書局が圧倒的優位に立っていることは誰の目にも明らかだろう。
 以上の非難合戦を目にした鄭孝胥は、8月15日付日記に「商務印書館と中華書局が、教科書売り込みのために新聞紙上で互いに中傷しあう。……」*39と記述している。当時、鄭孝胥は、商務印書館の理事を勤めていた。一方の当事者であるにもかかわらず、日記の記述は他人事のようだ。鄭孝胥だけが知らされていなかったのか。理事会全体が関知しないところで教科書戦争が行なわれたはずはないと思うのだ。
4-4 商務印書館が日本資本回収を決断する
 1913年8月以降、商務印書館は、新聞紙上で中華書局の挑発に答えなくなった。その理由は、想像するに、商務印書館の日本資本回収の動きと関係がある。
 鄭孝胥日記によると、商務印書館首脳が金港堂との合弁解消を議論しはじめたのは、1913年1月4日のことである。同年9月、夏瑞芳と長尾雨山が、日本株回収のために日本に赴いたが、金港堂に拒否されたらしい。その後、金港堂側は、金額が折りあえば回収に応じると態度を変えたらしく、1913年11月に福間甲松を上海に派遣し商務印書館との交渉に応じた。日本人が保有する株を何元に評価するかの会議が、幾度もねばり強く開かれたらしい。最終的に1株=146.5元で両社ともに同意し、1914年1月6日、調印を終わる*40。
 以上の経過が背景としてあったため商務印書館の中華書局への反論は停止したのであろう。

5.商務印書館の精神的苦しみ
 1914年に日本資本を回収して、商務印書館は、約10年間の合弁関係に終止符をうった。日本株回収のあと、1914年1月31日に開催された商務印書館特別株主大会理事会において、日本資本を回収をすることになったいくつかの原因が報告されている。「商務印書館特別株主大会理事会報告」という。
 この報告書は、商務印書館みずからが公表し認めているという点で貴重な資料だということができる。内部資料であったらしい。特別株主大会が開催されたことは、当時の新聞などで私は確認したことがある。しかし、報告書そのものの存在は知られていなかった。
 汪家熔氏から中文ワープロで印刷した報告書をいただいたのが1993年のことだった。同年7月1日付『清末小説から』第30号にワープロ原稿を影印したのがこの世に出た最初である。約80年間ものあいだ公開されていなかった資料ということになる。汪家熔は、みずからの論文のなかで該報告を公表した。
 私は、過去においても、これに言及したことがあるのだが、あまりにも珍しい資料なのでくりかえしここでも関係部分を引用したい。便宜上改行し、まるカッコつきの数字をつけて説明する。

……同業者との競争が激しくなると、本社の外国資本が常に口実とされ、中傷排除がはなはだしくなり、そのため本社は妨害をおおいに受けたのである。
@すなわち前の清朝学部が中学の書籍を編集し、印刷請け負いの発注に本社のみが参加させられなかったが、日本資本が入っているのが理由だという。
近年来、競争はますます激しくなっている。
Aたとえば、江西では広告を掲載して勝手ほうだいに攻撃しているし、
B湖南では多数の学界が、中国資本自営の某公司の図書を紹介し、
C湖北の審査会は本社に日本資本が入っているというので本を差し押さえて審査させなかった。
このようなことは少なくないし、そのおおよそを挙げたにすぎない。攻撃を受けるたびに、責任者は手をまわして無数の対応をしなければならず、精神上の苦痛はたとえようもなかった。ゆえに理事会で決議し日本資本を回収することにした*41。

 「本社の外国資本」というのは、金港堂関係者を中心とした日本資本という意味だ。日本人以外からの外国投資はなかった。
 商務印書館は、1903年末から日本資本との合弁会社であったが、その事実を公表しようとはしなかった。しかし、どこからか秘密が漏れていたらしい。報告のなかの@から、清朝時代から知るひとはしっていたことがわかる。
 A以下は、辛亥革命以降のことだろうと想像する。
 Aの江西とは、遠隔地である。都会ではもっと攻撃が激しかったと想像ができる。
 B教科書の選定採用は、省図書審査会が行なった。「中国資本自営の某公司」とは、中華書局のことだろう。紹介されなければ選定される可能性がなくなる。
 CもBと同じく審査選定の対象にされなかった、いわば門前払いをくわされたということだ。
 商務印書館と金港堂の約10年にわたる合弁は、うまく運営されていたということができる。合弁の両社ともに大きな利益をあげた事実がある*42。経済的には非常に成功していた。しかし、精神上は商務印書館にとって大きな負担であったことが、上の理事会報告で理解できよう*43。
 『申報』紙上でくりひろげられた教科書戦争は、過去においてつづいた商務印書館排除の動きの最後を飾るものであった。




【注】
1)熊尚厚「陸費逵」の初出は、『民国人物伝』第3巻(北京・中華書局1981.8。230-236頁)である。のち、「陸費逵先生」と改題され、中華書局編輯部『回憶中華書局』上編(北京・中華書局1987.2)に収録された。1-5頁。
2)この部分は、鄭逸梅「中華書局是怎様創始的」(『書報話旧』上海・学林出版社1983.8。37頁)による。もともとは蒋維喬「創辧初期之商務印書館与中華書局」(初出は、「民元前後見聞録」『人文』復刊第1巻第1期というが未見。張静廬輯註『中国現代出版史料』丁編<下冊>北京・中華書局1959.11、香港影印本。397頁)に同様の記述がある。鄭逸梅は、蒋維喬の文章に拠っている。
3)張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』北京・商務印書館1991.12。48頁。および、朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」『文化史料(叢刊)』第2輯 1981.11。145頁。
4)王震「陸費逵年譜」上 『出版史料』1991年第4期(総第26期)1991.12。82頁。
5)蒋維喬「創辧初期之商務印書館与中華書局」396頁
6)北京図書館、人民教育出版社図書館合編『民国時期総書目(1911-1949)』中小学教材 北京・書目文献出版社1995.2
7)熊尚厚「陸費逵先生」2頁
8)熊尚厚「陸費逵先生」2頁
9)章錫s「漫談商務印書館」『文史資料選輯』第43輯 1964.3/1980.12第二次印刷(日本影印)。71頁。この部分は、そくりそのまま朱聯保編撰『近現代上海出版業印象記』(上海・学林出版社1993.2。87頁)に無断引用されている。
10)陳玉堂編著『中国近現代人物名号大辞典』杭州・浙江古籍出版社1993.5。844頁。
11)章錫s「漫談商務印書館」71頁
12)鄭貞文「我所知道的商務印書館編訳所」『文史資料選輯』第53輯 1964.3/1981.6第二次印刷(日本影印)。143頁。
13)陳玉堂編著『中国近現代人物名号大辞典』616頁
14)朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」『文化史料(叢刊)』第2輯1981.11。149-150頁。
15)朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」150頁
16)樽本照雄「夏瑞芳暗殺――初期商務印書館における夏瑞芳の役割」『清末小説』第18号 1995.12.1
17)張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』北京・商務印書館1991.12。92頁。
18)蒋維喬「創辧初期之商務印書館与中華書局」398頁
19)蒋維喬「創辧初期之商務印書館与中華書局」398頁
20)蒋維喬「創辧初期之商務印書館与中華書局」398頁
21)汪家熔選注「蒋維喬日記選」『出版史料』1992年第2期(総第28期)1992.6。59頁。張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』84頁の該日には、関係する何ものも書かれてはいない。
22)朱聯保「関於世界書局的回憶」『出版史料』1987年第2期(総第8期)1987.5。52頁。
23)鄭逸梅「中華書局是怎様創始的」37-38頁
24)鄭逸梅「中華書局是怎様創始的」38頁
25)汪家熔選注「蒋維喬日記選」61頁
26)汪家熔選注「蒋維喬日記選」44頁
27)蒋維喬「創辧初期之商務印書館与中華書局」399頁
28)台湾影印本による。
29)王震「陸費逵年譜」上。83頁。沈知方の名前に「ママ」としたのは、創業に加わったのは沈継方(季芳)であり、沈知方が中華書局の副局長に任じたのは、1913年2月だ、とする銭炳寰「談談中華書局的創辧人」『出版史料』1992年第4期(<総第30期>1992.12。128頁)の文章によっているからだ。
30)銭炳寰「談談中華書局的創辧人」『出版史料』1992年第4期(総第30期)1992.12。128頁。以下、中華書局の会議開催の日時は、同文によっている。
31)陳寅「中華書局一年之回顧」『中華教育界』民国2年1月号 1913.1.15
32)『中華教育界』第1年第1号 1912.1.25
33)朱聯保編撰『近現代上海出版業印象記』(上海・学林出版社1993.2。87頁)に次のような箇所がある。「……日清戦争(原文:甲午中日戦争)後、中国の愛国主義者たちは、日本軍国主義に対して深い恨みをいだいた。商務(印書館)には、当時、日本資本がはいっていたから、中華(書局)は商務を攻撃するために、教育界と広範な人民の民族主義感情の高まりを利用し、全国の新聞に「中国人は中国人の教科書を使うべきだ」という大々的な広告を何度も掲載した。これも陸費逵、沈知方たちの策略であったのだ」。「完全華商自辧」と同じく、「中国人は中国人の教科書を使うべきだ」という新聞広告も、まだ、目にすることができていない。課題としておく。
34)『張元済日記』上 北京・商務印書館1981.9。2頁。
35)北京図書館、人民教育出版社図書館合編『民国時期総書目(1911-1949)』中小学教材。328頁。
36)「商務印書館歴年出版小学教科書概況」1935.12。『商務印書館図書目録(1897-1949)』北京・商務印書館1981。付録。
37)1912.9.13「審定教科用図書規程」張静廬輯註『中国近代出版史料二編』上海・群聯出版社1954.5。411頁。/ヘ圭、唐良炎編『中国近代教育史資料匯編 学制演変』(上海教育出版社1991.3。655頁)所収の1912.9.28「教育部公布小学校令」第16条では、省図書審査会が選定するとなっている。
38)陳寅「中華書局一年之回顧」
39)中国歴史博物館編、労祖徳整理『鄭孝胥日記』第3冊 北京・中華書局1993.10。1479-1480頁。
40)樽本照雄「鄭孝胥日記に見る長尾雨山と商務印書館」(5完)『清末小説から』第39号 1995.10.1
41)「商務印書館特別株主大会理事会報告」『清末小説から』第30号 1993.7.1。14-15頁。/汪家熔「主権在我的合資――一九〇三年〜一九一三年商務印書館的中日合資」『出版史料』1993年第2期(総第32期) 1993.7にも引用されている。
42)樽本照雄「変化しつつある商務印書館研究の現在――または、商務印書館の被害者意識」『大阪経大論集』第46巻第3号(通巻第227号)1995.9.15
43)樽本照雄「初期商務印書館の精神分析――金港堂との合弁をめぐって」『中国文芸研究会会報』第163号 1995.5.31

(さわもと いくま)



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