●清末小説 第19号 1996.12.1

 編 集 ノ ー ト          

★本誌は、年1回発行で第19号にもかかわらずなぜ創刊20周年かといえば、私が中国に留学したことがありその年だけ刊行がなかったからだ。年数と雑誌の数が一致しないが、20年はたしかに経過した。本号は、だからといって特別な企画をしたわけではない。ただ、ひと区切りとして『清末小説(研究)』『清末小説から』の総目録を掲載しておく。従来と変わらぬ編集としたのも、発行を今後とも続けていくつもりだからだ★創刊の動機は、中島利郎、森川(旧姓麦生)登美江各氏たちと自分たちの論文発表の場を持つことと資料の発掘整理を行ないたいということだった。3人で発行計画を立てたのが1976年だ。中国大陸では「文化大革命」が続いていた。中国旅行は、一般に認められておらず、ましてや学術交流など想像することすらできない状況だった。将来もこの状態が続くのだろう、という予想しかできないから、清末小説関係資料の整理といってもせいぜいが各作家の資料目録あたりしか案が出てこない。私が、劉鉄雲の『老残遊記』二集原本が京都大学人文科学研究所に所蔵されているのを発見したのは、1975年の秋だった。これはまったく偶然のことで、新資料の発掘などが日本でできると考えるほうがおかしなことだ。中国での研究再開は、夢のまた夢。日本での研究者は多くない。どこを見回しても、清末小説専門の研究雑誌を発行するための積極的な状況は存在していなかったといってもいいだろう。創刊する私たちにも一大決心というほどのものはなかった。4号は、最低発行する、その後はまた考える、くらいの軽い気持ちだったのが本当のところだった。小人数が出す雑誌は、その多くが印刷費用の分担で発行停止となる。それを避けるため、私個人が印刷費を出すことにする。編集も私の責任となった★本誌の性格が異なってきたのは5号あたりからだと思う。今から考えるとそうなので、当時は、性格が違ってきたと感じたわけではない。その前兆は、第3号の魏紹昌論文にあった。1977年12月、私ははじめて中国大陸を旅行した。北京と上海で大学の研究者とも会合がもたれたが、その時の印象では、「文革」の痛手が大きすぎ、とても清末小説研究の再開など口にできる雰囲気ではなかったのだ。『清末小説研究』は、すでに創刊していた。だが、これを持参して贈呈するなどという発想そのものが私にはなかったのが正直なところである。外国人との交際があるというだけで、中国の研究者には批判の原因になる。そういう事実をさんざん聞かされていたのだ。当時の常識が私にしみついていた。「文革」終結後であったにもかかわらず、だ。意識の転換などそうすぐにできるものではない。ようやく1978年になって、ものは試しと魏紹昌氏に手紙を書いてみると、返事があった。状況は、変わった、と実感した。厚かましいとは思ったが、本誌への原稿を依頼した。中国人研究者の原稿が日本の雑誌に掲載されるなど、当時、類を見なかったはずだ。それ以来、多くの中国人研究者から原稿をいただいている(蛇足ながらつけくわえれば、原稿料は出していない)。その頂点は、中国語だけの第7号(1983)であろう。『野草』の「清末小説特集」を編集していて、中国語原稿はすべて日本語に翻訳して掲載する予定だった。原文をそのままにしておくのはもったいないと考え、『清末小説研究』中文版として出版した。ページは少ないものだったが、これが私の中国留学前の仕事となる★天津では、図書館に通うのが日課となった。図書カードを引いて、閲覧請求を出す。カードにはあって実物がないことがある。そうすると実物はあってもカードがない場合も存在するのだろうが、こちらはどうしようもない。また、複写を依頼すると昨日までできていたものが、突然、新しい規則で複写できないことになった、と言われたこともある。今はどうなのか知らない。図書館へはバスを利用したが、歩くことのほうが多かった。道すがら気がついてみると、『清末小説研究』の将来を考えている。日本の研究者を中心とした執筆陣はそのままとしても、それまでの活版印刷は、我が家の家庭経済を圧迫しており続けることはできない。突破口は、留学前に日本で見かけた個人用ワープロ専用機にあった。すべての原稿を私がワープロ専用機に入力し、印刷製本だけを印刷所に依頼するというやり方に変更するのだ。つまり、印刷所がやっていた一番お金がかかる部分をこちらで代行してしまおうというのである。ワープロ専用機に初期投資すれば、あとはそれほどの経費はかからないと計算したのである。経済的にはうまく行きそうだが、論文となるとどうか。集まるかが問題だ。しかし、こちらもなんとかなりそうな予感がした。第3号から中国人研究者の原稿が掲載されている。それ以後も投稿がある。原稿料なしにもかかわらず、航空郵便料金を負担してまでも本誌に投稿してくださる人がいるのであれば、なんとかなるのではないか、とあまり深く考えないようにした。こうしていつのまにか、依頼原稿は原則的になくなってしまったのである。つまり、すべての原稿が投稿によるのだ。原稿は、依頼すれば出てくるというものではない。出てこない時は、出てこないのだ。ジタバタするのは、やめた、ということである。第一、出てこない原稿を待つのは、精神衛生上よくない★中国大陸での清末小説研究の変化を象徴するものは、『中国近代文学研究』の発行であろう。それまでも、大学紀要、『光明日報』の「文学遺産」欄(現在はなくなっている)などには清末関係の文章が発表されはじめていた。だが、専門雑誌となるとその発行維持がむつかしいのか、実現はしていなかった。天津で『中国近代文学研究』創刊号を見つけたので余計印象に残っているのかもしれない。論考と資料を掲載した該誌を見て、研究の本格的再開と継続が宣言されたものと私は受け止めたのだ。中国大陸で専門誌が創刊されたからには、日本で『清末小説』雑誌を出す意味があるのか、考えなおしたかといえば、それは障害にならなかった。今から思えば、不思議かもしれないが、中国は中国、私はわたし、と考えていたのかもしれない。よし、こっちもガンバロウくらいのことだったのか。あまり昔のことで覚えていない。清末小説専門誌が創刊されたからには、当然、資料が発掘されるはずだし、新しい研究者も輩出するだろうと、該誌に対しては大きな期待を抱いた。しかし、これは期待外れに終わった。第3号を出して以後、あとが続かなかったのだ。そのほか、数種類の専門雑誌が出ているが、いずれも長続きしていない。学術雑誌は、採算が取れないのが原則である。1980年代の「改革開放」政策が、学術面においては負の現象を発生させているのだろう。残念なことだ★うれしい状況変化も当然ながら、ある。専門雑誌は、継続発行がされないとはいえ、これで研究が衰退しているというわけではまったくない。いちいち書名と固有名詞はあげないが、清末小説を含んだ専著が多く出版されている。「文革」後、大学を卒業した新しい世代の研究者が次々と誕生している。その質量ともに以前を上回っているのは確実にいえる。日本と較べものにならないのだ。本誌、あるいは中国語で書かれた論文に見える研究者は、ほんの一握りであるかもしれない。しかし、私の目につかぬ場所に、多くの研究者がいるのは事実であり、その層は日本では想像がつかないくらい厚い。大陸での学会に参加してみて、研究者の多さにびっくりするのが本当の所だ。自国の文学研究である、と言われればそうかもしれない。日本で清末小説研究をする方が、特別だという見方も成り立つ。日本での研究者の数を言う方が間違っているのだろう★この20年間の変化といえば、中国旅行が自由になったことだ。大学図書館などの閲覧も以前よりは便利になった。ただし、本格的に調査しようと思えば、時間がかかることを覚悟しなければならず、今の私にはその余裕がない。旅行の自由にともなって、大陸での国際学会に参加する機会があったのも変化のひとつだ。学会の運営のしかたも、日本の学会と異なる部分があり、参加した限りでは興味を感じる部分もあった。日本の学会でも、それぞれによって発表形式が違う。発表後、それに対して短い評論を加える評論員を置くもの、司会者が兼ねるもの、いろいろだ。私が最初に国際学会に参加したのが、1991年の台湾におけるものだった。中国語での発表と、質疑応答であるから緊張していた。発表後の評論は、必要以上に激しいものがあり、しかも、発表内容を充分理解したうえのものでないように思った。日本にも何がなんでも否定する、という人がいる。論評者の性格によるのかもしれないが、自分の存在を際立たせるためにだけ発言をする部類だ。その舌鋒の鋭さを欧米流の見本としてありがたがる傾向がなきにしもあらずだ。しかし、舌鋒の鋭さは、内容のある発言に伴うものであれば説得力を持つ。ただの大声は、討論の後味を悪くするだけだろう。数日、長時間にわたる学会で、発表内容とは関係なく持論を滔々としゃべる人、非難するためにだけ参加した人、発表内容を吟味して適切な評論をする人、いろいろな類型が出そろったかたちだった。それを経験していたから、のちに大陸、香港、韓国と一通りの国際学会に参加してみて、やはり結論は、その評論員の性格であるというところに落ち着いたのだった★これまで20年間19号を発行してきた。『清末小説から(通訊)』も11年目に入っている。両誌ともに、もうしばらく発行を続ける。「もうしばらく」と言いながら、長くなる予感もする。両誌を支えてくださった人々に心からの感謝をし(本当です。お名前はいちいちあげません。お気を使われるのを恐れるからです)、将来も変わらぬご愛顧をお願いする次第である。