●清末小説 第20号 1997.12.1


梁 啓 超 の 「 群 治 」 に つ い て
――「論小説与群治之関係」を読む


樽 本 照 雄


1.問題の所在
 梁啓超の「論小説与群治之関係」は、『新小説』(光緒二十八年十月十五日<1902.11.14>)の巻頭に掲載された。『新小説』は、彼が亡命先の横浜で創刊した中国最初の小説専門雑誌である。
 中国においてそれまで低く見られていた小説の存在に光をあて、人におよぼす小説の力を最大級に強調したのが、梁啓超のこの論文であった。
 「小説界革命」を唱えた急進的論文として中国において高く評価されているのは、ここでことさらに述べるまでもない。周知のことだ。
 清末期の小説理論である「論小説与群治之関係」を読む場合、梁啓超の使用する用語のいくつかについては、吟味が必要である。現在ではすでに使用されていない語彙が含まれている。その中身を見定めることが、論文のより深い理解につながると考えるからだ。
 梁啓超の論文題名を日本語に翻訳すれば、「小説と群治の関係を論じる」となる。問題は、「群治」である。日本では、「小説と政治との関係」*1と、普通、訳される。中国語「群治」は、日本語の政治と理解されていることが多い(以下、中国語単語は、「」でくくる。カッコ付きでない単語は、原則として日本語とする)。事実、増田渉訳でも、「群治」は、すべて政治に置きかえられている。
 ところが、論文本文には、中国語の「政治」も同時に使用されているという事実がある。増田訳は、そのまま政治だ。
 「群治」を政治に置きなおしても論文論旨が通るようにも見える。見えるどころか、そうするのが正しいという判断から翻訳は政治となっている。増田訳に限らず、梁啓超の該当論文に言及して、「群治」を政治と解釈している研究論文も多い。問題の根は深いといわざるをえない。
 梁啓超の該論において、「政治」という単語がもともと使用されていないならば、「群治」すなわち政治である、とすることが可能かもしれない。だが、「政治」のままで使用されている例が2ヵ所あり、これは「群治」の2ヵ所と同数となる。
 「政治」を、主権者が国を治めること、まつりごと、と一般的意味に理解した場合、中国語の「群治」は、梁啓超によっていかなる意味付けがなされているのだろうか。このような問題提起をするところからも理解されるとおり、梁啓超は、該論文において「群治」の定義を行なっていないのである。
 同一論文において、梁啓超は、「群治」と「政治」を使用するが、この両者には使い分けがあるのか。「群治」は、「政治」と同じ意味、同じ用法となるのだろうか。これが問題なのだ。
 日本では、「群治」を「政治」とする研究論文が多く存在していることは事実である。日本において、梁啓超の「群治」がどのように読まれてきたのかは、別に論じた*2。ここでは、とりあえず増田渉訳で代表させておく。増田渉先生、すいません。
 今、梁啓超の「群治」を明確にしておくことは、梁啓超論文を理解するうえで、不可欠の作業であると思うのだ。
 「群治」は、現在では使用されなくなった中国語のひとつである*3。失われてしまった「群治」を探して、まず、梁啓超の該当論文そのものを点検することから始めよう。

2.「群治」――梁啓超論文の問題点
 梁啓超の該当論文は、本文約2,700字だ。「群治」は、本文の2ヵ所に使用されており、表題を入れると合計3ヵ所に存在する。
 論文は、もともと四つの段落に分けられている。段落3において、小説に四つの力がそなわっていることを述べる。その段落4では、人々にとって小説が不可欠であると説く。このあとに続くのが、次の文句だ(日本語は、樽本訳。数字は、初出雑誌の頁を示す)。

引用1:知此義則吾中国群治腐敗之総根原。可以識矣。(この意味を知れば、わが中国「群治」の腐敗の総根源を認識することができる)6頁

 梁啓超の見るところ、中国「群治」腐敗の総根源は、小説にある、となる。
 「群治」を政治と翻訳して、中国の政治腐敗の総根源、と解しても文脈が通ずるように見える。一般的に言って中国の政治状況が腐敗している、と読むのである。論旨は、これでも明らかなように感じる。
 引用文だけを見れば、理屈として通じるように見える。その理由を考えれば、「群治」と政治といずれもが「治」という共通の漢字をもっているのも一因かもしれない。
 では、梁啓超は、なぜ「政治」ではなく「群治」という単語を使用したのか。「中国政治」と書いてもいいではないか。単なる修辞上の問題なのだろうか。
 ふたつめの例は、同じく段落4、論文の結論部分に見える。

引用2:故今日欲改良群治。必自小説界革命始。欲新民必自新小説始。(ゆえに、今日、「群治」を改良したいならば、必ず小説界革命から始めなければならない。民を新しくしたいならば必ず小説を新しくすることから始めなければならない)8頁

 おかしなことだと私は感じるのだが、結論部分に、「小説界革命」が、忽然と出現する。「小説」ではなく「小説界」なのだ。おまけに、小説を新しくするという意味の「新小説」ではない。あくまでも「小説界革命」である。それまで該文章のどこにも「小説界革命」という語句は使用されていない。だから、その現われかたの唐突さに驚く。
 論文冒頭からかさねて述べられるのは、小説を新しくしなければならないという主張だ。新しくするという動詞「新」は、「革命」と同意義だとすれば納得しないわけでもない。しかし、同義ならば、べつに「革命」を使用しなくても「新」のままでいいではないか、という理屈も同時に成り立つ。「群治」が出てくる関係上、この「小説界革命」という語句についても言及すれば、以上のような疑問がわく。
 前に触れた通り、梁啓超のこの論文は、「小説界革命」を唱えたとして著名なものだ。論文の最後部分に1ヵ所だけ「小説界革命」という語句が使われているから、研究者は、その通りを書く。だが、使用例が1件のみというのは奇異な感を抱く。
 そもそも「小説界革命」は、何を目指しているのか。小説を新しくする、ということは論文の最初からくりかえされる。しかし、「小説界」を突然提出していて、その内容が明らかにされていないのだ。「小説界」とはなにか。語彙が異なるのだから「小説」とは、その指し示す内容は明らかに違う。違うものを、なぜ言いだすのか。疑問は、それだけではない。
 「群治」は2度目としても、「新(新しくする)」ではなく「改良」するという動詞をともなう。動詞「改良」もここ1ヵ所だけに使用されており、該論文のほかの箇所に使用例を見ない。くどいようだが、私がなぜ奇妙に感じるかというと、ここで事新しくわざわざ「改良群治」としなくても、「新政治」を示せばいいではないか、と思うからだ。「欲新政治」とくれば、それを受けて「必自新小説始」でまとまりがつく。
 梁啓超論文のはじまりから、小説を新しくしなければならない、一点張りであることを見てほしい。
 研究者のだれでもが、引用する、あるいは引用したくなる書きだしの部分を、念のため示しておこう。

引用3:欲新一国之民。不可不先新一国之小説。故欲新道徳。必新小説。欲新宗教。必新小説。欲新政治。必新小説。欲新風俗。必新小説。欲新学芸。必新小説。乃至欲新人心欲新人格。必新小説。何以故。小説有不可思議之力支配人道故。(一国の民を新しくしたいなら、まずその国の小説を新しくしないわけにはいかない。ゆえに道徳を新しくしたいなら、小説を新しくしなければならない。宗教を新しくしたいなら、小説を新しくしなければならない。政治を新しくしたいなら、小説を新しくしなければならない。風俗を新しくしたいなら、小説を新しくしなければならない。学芸を新しくしたいなら、小説を新しくしなければならない。ひいては人心、人格を新しくしたいなら、小説を新しくしなければならない。なぜか。小説には不可思議な力があり、人間界を支配するからである)1頁

 書かれた文章として読めば、まことにしつこい。「欲新……、必新小説」の反復である。しかし、演説としてならば、小説を新しくしなければならないという気持ちが強く伝わってくる調子の文だ。
 この文体こそ梁啓超独特のものだというのが、定説である。
 単語が並んでいる。「民」「道徳」「宗教」「政治」「風俗」「学芸」「人心」「人格」は、いずれも日本語と共通の意味をもつものと考える。
 中心は、「民」である。まず「民」を提出し、そのあとで「民」を形成する後天的な要素を「道徳」「宗教」「政治」「風俗」「学芸」とする。結びは、「人心」「人格」を新しくしたいなら、となる。つまり「民」にもどって、民を新しくしたいなら、と「新民」に収斂し、それが強調される。
 ここで重要なことは、「政治」が、「道徳」「宗教」「風俗」「学芸」などと同列に置かれるもの、と梁啓超は考えていたことが文章の流れからうかがえる点だ。
 さて、もう一度、梁啓超論文の全体構成を考えよう。
 冒頭の「欲新一国之民。不可不先新一国之小説(一国の民を新しくしたいなら、まずその国の小説を新しくしないわけにはいかない)」は、論文最後の締めくくりの「欲新民必自新小説始(民を新しくしたいならば、必ず小説を新しくすることから始めなければならない)」と呼応している、あるいはくりかえされていることがわかる。首尾ととのい、これで完結する。
 完結するはずなのだが、その直前に「故今日欲改良群治。必自小説界革命始(ゆえに、今日、「群治」を改良したいならば、必ず小説界革命から始めなければならない)」が、挿入されていることにより論理に破綻をきたしているように見える。「改良群治」「小説界革命」の謎としておこう。
 重ねていうが、冒頭に「政治」を提示したのであれば、なぜ結末にも「政治」を出さないのか。わざわざ「群治」などと言わなくとも「政治」で充分ではないか。
 たとえば、書き改めて「欲新政治」とし、「必自新小説始」と受け止めれば、たたみこむことができるのだ。こうすることによって「新民」「新小説」が梁啓超論文の主題であることがより強調される。首尾一貫した論旨によって貫かれていると判断されよう。
 ところが、「改良」であり「小説界革命」であり、はたまた「群治」である。この部分は、まことに唐突な、奇妙な部分だと私の目には映る。最後尾に不思議な語句を挿入したとしか思えない。
 梁啓超論文の語句使用に関して私が奇妙だと感じる理由は、ふたつある。
 「政治」を使用してもいい箇所に、なぜ、「群治」を使うのか。これがひとつ。
 ふたつめ。「新」を押しのけて「改良」「小説界革命」が、なぜ、突然、出現するのか。

3.「群治」と「政治」の謎
 「政治」を使用してもいい箇所に、なぜ、「群治」を使うのか、という疑問には、前提がある。「群治」が「政治」と同じ内容であるならば、という前提なのだ。
 「群治」が「政治」とは違う意味に使われていれば、ふたつを置き換えることはできない。そこで「群治」の意味をさぐることが必要になる。
 ところが、梁啓超のこの論文には、前述したように「群治」の定義がなされていないのである。「群治」という単語が、放りだされたままなのだ。梁啓超が使用した当時においては、説明不要であったのかもしれないと思わないでもない。ただ、「群治」の中身が不明であることには変わりがない。
 「群治」との関係で「政治」についても、使用されている2例を見ておきたい。
 ふたつのうち片方は、すでに引用3で出ている。その部分のみを念のため掲げておこう(引用3の一部分だから、3bとする。以下同じ)。

引用3b:欲新政治。必新小説。(政治を新しくしたいなら、小説を新しくしなければならない)1頁

 民をとりまく一般的政治状況という理解でいいだろう。あくまでも民を新しくするというのが中心課題となっている。そのために政治を新しくしたいのならば、という論の進め方だ。
 もうひとつの「政治」は、段落3で小説のもつ四つの力を述べたあとにくる。

引用4:此四力者。可以盧牟一世。亭毒群倫。教主之所以能立教門。政治家所以能組織政党。莫不頼是。文家能得其一。則為文豪。能兼其四。則為文聖。(この四つの力は、世界を規則立て組み立てることができ、多くの仲間をつくることができる。教祖が教派を立てることができる理由であり、政治家が政党を組織することができる理由であって、これに頼らないことはない。文学者が、その力のひとつを得たならば文豪となり、その四つを兼ねることができれば文聖となる)5-6頁

 文中の「政治家」という使い方は、日本語の政治家とかわらない。
 以上、ふたつの「政治」は、現在使用している意味と同じであることを確認しておく。
 「群治」を「群」と「治」に分解し、「群」の使用例を梁啓超論文に探すことも可能だ。のちほど、その作業を行なうことになるだろう。簡単に言っておくと、梁啓超論文のなかの「群」も、大衆、仲間、集団、あるいは、多い、の意味で使われている。「群」の原義である、人あるいは物が集まっていることからきている。
 「群」から社会という意味が派生する。ここではそれだけにとどめる。
 梁啓超の該当論文のなかに「群治」を定義するものがないとなれば、探索の範囲を広げる必要がある。

4.梁啓超論文における「群治」の用例
 「論小説与群治之関係」の前後に発表された梁啓超の論文から、「群治」の使用例を、私の気のついた範囲内から取りだしてみよう。
4-1 「群治」1
 資料1:論政府与人民之権限 『新民叢報』第3号 光緒二十八年二月一日(1902.3.10)
 文中で政府を定義して「政府者。代民以任群治者也(政府とは、民に代わって「群治」の任にあたるものである)」(26頁)とある。ここの「群治」は、大衆を統治するという意味だろう。「民に代わって大衆統治の任にあたるもの」と訳すことができる。
 ところが、「新民説」になると、様相が変わる。「群治」の意味に変化が生じている。
4-2 「群治」2
 資料2:「新民説」第十一節 論進歩(一名論中国群治不進之原因) 『新民叢報』第10、11号 光緒二十八年五月十五日(1902.6.20)、六月初一日(1902.7.5)*4。
 「新民説」は、『新民叢報』創刊号から第20号まで、その1が連載された。その後も引き続いて書かれた長篇論文である。『新民叢報』だから「新民説」なのか、その逆なのか、おそらくその両方なのだろう。
 新民、優勝劣敗、公徳、国家、進取冒険の精神、権利思想、自由、自治、進歩、自尊、合群などについて説明する。人々を啓蒙する目的で書かれた。
 その根幹は、「新民」にある。「新民」とは、いうまでもなく、国民を新しくする、という意味に使われている。
 本論で問題にしている「群治」は、上に示した「論進歩」の副題「一名論中国群治不進之原因」に見える。この副題は、雑誌初出に掲げられた。中国の「群治」が進まない原因を論じて、「進歩を論じる」である。副題だけを見れば、中国の政治と解釈してもかまわないように思うかもしれない。
 梁啓超には、「中国専制政治進化史」(『新民叢報』第8、9、17、49号 1902.5.22、6.6、10.2、1904.6.28)という文章がある。こういう表題がすでにあることを思えば、政治の進化をいうのに、なにもわざわざ「群治」という単語を使うこともないではないかと思うのだ。ともあれ、使用例から内容を確定するほうが、重要だ。「新民説」にもどって見てみよう。
 該論文冒頭において、ある逸話が語られる。おおよその内容は、次のようなものだ。
 羅針盤は、2千年前の中国から西洋にもたらされた。西洋では数世紀を経ずして改良され、本家の中国でもさぞかし、と思った西洋人が中国の市場で最新式のものを求めた。ところが、でてきたものは、歴史読本に記載された12世紀にアラビア人が伝えた羅針盤とかわらなかった、云々。
 梁啓超が言いたかったことは、

引用5:此雖諷刺之寓言。実則描写中国群治濡滞之状。(これは諷刺の寓話である。しかし、実は中国「群治」の停滞のありさまを描写している)1頁

となる。
 この引用文の場合、中国政治の停滞のありさま、と解するのは無理である。改良されない羅針盤は、政治とは基本的に無関係といわなければならない。技術の停滞がもたらしたものであるからだ。
 それでは、前に出てきた大衆統治ではどうか。「大衆統治の停滞」では、逸話の意味をなさない。これも政治とおなじく適当ではないことがわかる。
 ここでは、あきらかに、技術を含んだ社会、あるいは社会状況の停滞と考えるべきである。「群治」とは、社会、すなわち共同生活体、ひとびとの集まり、英語ではsocietyを意味する言葉なのだ。
 西洋に比較して中国が進化しない理由を、梁啓超は、中国人の「保守性質」があまりにも強いことに求める。
 競争が進化の母である。西洋諸国は、競争によって進化してきた。ところが、

引用6:中国惟春秋戦国数百年間。分立之運最久。而群治之進。実以彼時為極点。(中国では、春秋戦国の数百年間だけ、分立のめぐりあわせが最も長く、「群治」の進みも実はこの時が極点だった)3頁

という。秦の統一後、退化の状態を示すようになった、と続く。政治が問題にされているわけではないことがわかるだろう。春秋戦国時代は、それぞれに独立して競争をしていたからこそ、中国社会が進んだ、という意味なのである。
 梁啓超みずからが言葉の意味を、大衆統治から、社会へと変化させている。
 「群治」を社会と翻訳して、そのほかの例をあげておく。
 「群治之進。非一人所能為也(社会の進みは、ひとりでできるものではない)」(5頁)、「群治必蒸蒸日上(社会は、日増しに発展する)」(5頁)、「故夫中国群治不進。由人民不顧公益使然也(中国社会が進まないのは、人民が公益を顧みないことがそうさせているのだ)」(6頁)、「而群治進一級焉也(社会は一段階進む)」(6頁)、「而群治又進一級焉也(社会はまた一段階進む)」(7頁)
 以上の使用例を見る限り、「群治」を政治あるいは大衆統治とするのは無理であることが理解できるであろう。ほかでもなく社会あるいは社会状況を指している。
 社会の進化は、国民を新しくすることから始まる。これを根底にすえて立論されたのが、梁啓超の論文なのだ。
 「論小説与群治之関係」においてくりかえされる「新民」が、まさにこの「新民説」の延長線上にあることはいうまでもない。
 「群治」が指ししめしているのが政治ではなく社会となれば、梁啓超の論文題名は、「小説と社会の関係を論じる」とするのが正しい。
 発表の順番に沿って、もうすこし梁啓超の論文を見ていく。
 「新民説」は、次の「新民議」に引き継がれる。
4-3 「群治」3
 資料3:「新民議」一 叙論 『新民叢報』第21号 光緒二十八年十一月初一日(1902.11.30)
 文中で提示される学問にかんする名詞が目を引くので、ここから述べよう。
 梁啓超が羅列するのは、「宗教」「哲学」「政治学」「法律学」「群学」「生計学」である。前4者は、日本語と共通する。「群学」は、社会学、「生計学」は、経済学と当時の日本語では、いう(現在でもそうだ)。中国で当時、使用していた「群学」「生計学」は、ともにすたれてしまい、今では中国においても「社会学」「経済学」というようになっているのは周知のことだ。「群学」であって、社会学という名詞を使用していないことに気をとめておいてほしい。
 「叙論」のなかでも「群治」が使用されている。
 「……按之於群治種種之現象(社会のさまざまな現象によると)」(2頁)、「今日中国群治之現象(今日中国社会の現象)」(3頁)などなど、「群治」を社会と理解してよい。
 また、ここには、興味深い語句が使われているのに気づいた。

引用7:余為新民説。欲以探求我国民腐敗堕落之根原。……(私が新民説を書いたのは、わが国民の腐敗堕落の根源を探求し、……)2頁

 どこかで似たような表現を見かけたはずだ。ほかでもない、本論文の引用文1、すなわち「論小説与群治之関係」のなかの語句にそっくりなのだ。
 くりかえし示す。

引用1:知此義則吾中国群治腐敗之総根原。可以識矣。(この意味を知れば、わが中国「群治」の腐敗の総根源を認識することができる)

 「吾中国群治」が、「我国民」に置き替わったにすぎない。「群治」と「国民」である。両者は、まったく同じではないのは明らかだが、まるきりかけ離れたものでもない。類似のことを指していると考えていいだろう。
 以上の例からしても、「吾中国群治」は、今まで翻訳されてきた「わが中国政治」ではなく、「わが中国社会」と理解するのが正しい、ということができる。
 同じく「新民議」だが、別名に「群治改良論」と題されているから、次に紹介しておく。
4-4 「群治」4
 資料4:「新民議」二(一名群治改良論)禁早婚議 『新民叢報』第23号 光緒二十八年十二月初一日(1902.12.30)
 「社会学」の公理では、生物は進化の度合いにおうじて、成熟するまでに歳月が多くかかる、と梁啓超は説明する。結婚がもっとも早いのがインド人、もっとも遅いのがヨーロッパ人。中国と日本人がその中間となるらしい。

引用8:言群者必託始於家族。言家族者必託始於婚姻。婚姻実群治之第一位也。(集団というものは、必ずや家族に始まる。家族というものは、必ずや婚姻に始まる。婚姻は、まことに社会の最重要事なのである)1頁

 論文冒頭において、婚姻の重要性を説明する。「群」には、社会という意味もある。集団と私が訳したのは、うしろの「群治」と区別するためだ。区別の必要がないというならば、両者ともに社会としてもいい。社会(「群」)から家族に、家族から婚姻にさかのぼる。そして婚姻から社会(「群治」)へと、双方向に運動する立論の筋道なのだ。「群治」を政治と解したのでは、社会(「群」)から政治と、立論が連動しなくなる。理屈が通らないことがわかるだろう。ゆえに、副題の「群治改良論」は、社会改良論となる。
 「新民議」叙論には、「論小説与群治之関係」と似通った表現があることを指摘した。驚いたことに、早婚禁止説にも同様の表現が見られる。

引用9:故吾以為今日中国欲改良群治。其必自戒早婚始。(ゆえに、私が考えるに、今日、中国が社会を改良したいならば、必ず早婚禁止から始めなければならない)10頁

 これは、引用2で示した「故今日欲改良群治。必自小説界革命始」と同じである。
 2ヵ所までも同類の表現があるというのは、梁啓超という同じ人物の文章であるから不思議ではないといえようか。梁啓超の頭脳には、同じ考えが根底にあり、別の問題を論じた時に、似通った表現となって流出したと考えることが可能だ。
 接近して発表された文章に、ほとんど同じ語句が使われている例がある、という事実と照しあわせて考えてみる。すると、それぞれの論文が連鎖するかたちで発表されたのではないかと想像される。
 梁啓超の頭の中にある考えが、ひとつの流れに沿って、表面的には独立した文章として発表される。独立論文とはいえ、大きな構想の一部分を構成するから、表現にも似通ったものが紛れ込んだのではないか。
 私が最初に提出したふたつの疑問のうちのひとつ、「改良」「小説界革命」が、突然、なぜ出現するのか、の解答の一部分だ。別の箇所で考えていたものが、ふと論文の中に滑り込んだのではないかと思わせるに充分だ。
 「群治」の使用例で次のようなものもある。
4-5 「群治」5
 資料5:「論仏教与群治之関係」『新民叢報』第23号 光緒二十八年十二月初一日(1902.12.30)
 表題を見れば「論小説与群治之関係」とほぼ同じである。「小説」が「仏教」に替わったにすぎない。

引用10:吾祖国前途有一大問題。曰「中国群治當以無信仰而獲進乎。抑當以有信仰而獲進乎」是也。(わが祖国の前途には、一大問題がある。いわく「中国社会は、信仰なくして進むべきか、あるいは信仰をもって進むべきか」ということだ)45頁

 この場合も「群治」を政治、大衆統治と翻訳しては、論旨が通らず理解ができない。
 「群治」が、社会あるいは社会状況を意味することを立証する資料を、もうひとつ指摘しておきたい。

4-6 「群治」6
 資料6:「中国唯一之文学報新小説」『新民叢報』第14号 光緒二十八年七月十五日(1902.8.18)*5
 『新民叢報』誌上に掲載された『新小説』の創刊予告広告である。両誌とも梁啓超が主編としてかかわっていることはいうまでもない。
 広告には、これから創刊する『新小説』の内容を紹介しており、具体的な作品名までが掲げられている。当時、編集が、相当、進んでいることがこれから理解できる。
 そのなかに、論説を紹介する部分があるのだ。論説の主旨をのべているのだから、論文の基本は、すでに書き上げられていると考えてもいいだろう。この論説とは、「論小説与群治之関係」であることは容易に想像がつく。
 いわく、「本誌論説は、小説の範囲にもっぱら属し、その要旨は、中国小説(原文:説部)のために新境地を拓きたいということだ。たとえば文学における小説の価値、社会における小説の勢力、東西各国小説学の進化の歴史と小説家の功徳、中国小説界革命の必要およびその方法などを論じる。主題は多く、予定することができない」という。「社会における小説の勢力」の中国語原文は、「社会上小説之勢力」である。これこそ「論小説与群治之関係」を言っているのにほかならない。「群治」を「社会」に置き換えることができよう。

5.「社会」の用例
 「論小説与群治之関係」の「群治」は、社会と理解するのがよい。「群治」の使用例を見て、私は、このように判断する。
 ところが、該文には、中国語原文に「社会」が使用されている事実がある。これをどう考えるか。つぎなる問題だ。
 「論小説与群治之関係」に見られる「社会」の使用例は、四つある。

引用11:即有不好読小説者。而此等小説既已漸漬社会成為風気。(たとえ小説を読むのを好まない者がいたとしても、これらの小説はすでに社会にしみこんでいて空気となっている)7頁

 この場合の「社会」は、日本語の社会とかわらない。つぎの引用12も同じだ。

引用12:児女情多。風雲気少。甚者為傷風敗俗之行。毒遍社会。曰惟小説之故。(男女の愛情ばかりで、豪壮な気風が少ない。はなはだしきは風俗を害する行ないをして社会に毒をまきちらしている。これは小説のためであるという)8頁

 下の引用13は、どうだろう。

引用13:所謂「大碗酒大塊肉。分秤称金銀論套穿衣服」等思想。充塞於下等社会之脳中。遂成為哥老大刀等会。(いわゆる「大いに飲み、大いに肉を食い、掠奪した大量の金銀や衣服をめいめいで分けあう」という思想が、下等社会人の頭のなかにつまっていて、ついには哥老会、大刀会などの集団になるのだ)8頁*6

 「下等社会之脳中」を「下等社会の頭のなか」としたのでは、少し理解しにくい。「人」をおぎない「下等社会人の頭のなか」とする理由だ。最後にもうひとつ。

引用14:其性質其位置。又如空気然。如菽粟然。為一社会中不可得避不可得屏之物。於是華士坊賈。遂至握一国之主権而操縦之矣。(その性質、その位置は、空気のようであり、食物のようである。社会においては避けられない、排除できないものなのだ。そこで見せかけの読書人と町の商人が、ついに一国の主権を握って操縦するのである)8頁

 「その性質」の「その」は、小説を指す。
 以上のいずれもが、現在、使われている社会と同意義であることが理解できる。
 梁啓超「論小説与群治之関係」におけるの使用例を見る限り、「群治」と「社会」に区別はない。ましてや、「群を秩序づけられたより高次の集合体である社会にするため」*7などという、「群」と「社会」の関係が存在しているわけでもないし、梁啓超自身がそう定義していることもない。
 では、「群治」と「社会」の内容が同じならば、梁啓超は、なぜ、併用するのか。

6.「群」の用例
 「群治」と「社会」が同時に存在しているほかに、もうひとつ「人群」あるいは「群」もあることをいっておきたい。
 「群治」ではなく、「群」が使用されているものを引用する。必然的に「人群」も含まれる。こちらも参考までに見ておこう。ただし、すでに出てきているものがある。たとえば、

引用5b:亭毒群倫。(多くの仲間をつくる)5頁

であるが、この「群」は、多い、を意味する。

引用15:既已嗜之矣。且遍嗜之矣。則小説之在一群也。既已如空気如菽粟。欲避不得避。欲屏不得屏。(すでに好まれており、しかもあまねく好まれているのだから、小説の社会における存在は、すでに空気のようであり、食物のようである。避けようにも避けられない、排除しように排除できない)6頁

 文中の「一群」は、社会としか理解しようがない。「群」が人の群れであるから、群れ全体は、別の言葉でいえば、社会である。
 次の例も同様だ。

引用16:而此群中人之老病死苦。終不可得救。(この社会において人の老い、病、死ぬこと、苦しみは、ついに救うことはできない)6頁

 人が集まって社会となる。ゆえに、「群」の前に「人」をつけた「人群」という単語もある。

引用17:嗚呼小説之陥溺人群。乃至如是。乃至如是。(ああ、小説が社会を堕落させるのは、これほどまでなのだ。これほどまでなのだ)8頁

 「人群」は、これをわざわざ人間社会と翻訳する必要はない。たとえば、いわゆる動物社会、植物社会と対比させていれば別だが、梁啓超の論文は、人間についてのみの考察であるからだ。
 ついでにのべれば、梁啓超は、「群」については早くから論文を書いている。
 たとえば、「説群自序」(『時務報』第26冊 光緒二十三年四月十一日<1897.5.12>)だ。
 「梁啓超が天下を治める道を南海(康有為)先生問うと、先生がいうには、まとめることを中心原理とし、変化することを応用とする(以群為体。以変為用)と」こう書きはじめられる。国民をバラバラにせず、まとめることがいかに大事かが強調されるのだ。たとえば、「まとめる方法(原文:群術)でもって集団を治めれば、まとめることに成功する。孤立させる方法(原文:独術)でもって集団を治めれば、まとめることに失敗する」とのべる。「まとめる方法(群術)」はなにかといえば、その集団(原文:群)を合わせて分離させず、集めて散らばらせないことだ。一方、「孤立させる方法(独術)」とは、ひとびとが自分だけのことを考え、世界があることを知らないようにさせるやりかたをいう*8。
 ただし、梁啓超が、当時、「社会」という単語があることを認識していなかったというわけではない。
 康有為が収集していた日本の書籍をまとめてその書目を発表した。1897年のことだ。これに社会学関係の書籍が集められ、康有為の注がほどこされている。すこし長いが引用してみる。

 大地のうえは、ひとつの大きな集まりにすぎない。集まって大集団を国という。集まって小集団を公司、社会ママという。社会の学は、大小の集団を統合しその整合の条理を発揮させることで、ゆえに大集団も小集団もなく、その集まりを合せれば強く、その集まりを合せるのがへたであれば弱い。西洋の自強も、その国がそうできたわけではなく、その社会がそうさせたのである*9。

 「ママ」と注記した「社会」は、「公司」との関係でいえば「会社」のことだ。
 引用文で集団と訳した中国語原文は、「群」である。康有為による「群」と「社会」の使い分けといっても、その規模の違いにすぎない。
 『日本書目志』に掲げられた日本の書名、すなわち『社会進化論』『社会平権論』『社会改良及耶蘇教之関係』などからの影響であろうが、康有為の文章には、すでに日本語の「社会」が使用されていることが理解できよう。
 「読日本書目志書後」(『時務報』第45冊 光緒二十三年十月二十一日<1897.11.15>)を書いた梁啓超が、そのことを知らないわけがない。
 梁啓超が使用する「群」は、その初期において、むれ、あつまり、あつめる、という単語本来の意味で使われていた。だが、のちに、梁啓超は、「群」に社会という意味を含ませるようになっているのは、上にみた通りである。

7.「社会」「人群」「群治」の混用
 前出「新民説」第十一節論進歩の続編に、次のような箇所がある。

引用18:此猶僅就政治一端言之耳。実則人群中一切事事物物。大而宗教学術思想人心風俗。小而文芸技術名物。何一不経過破壊之階級以上於進歩之途也。(これはわずかに政治の一端について言ったにすぎない。実は、社会のすべての事柄、大は宗教、学術、思想、人心、風俗から、小は芸術、技術、事物まで、破壊という段階を経ずして進歩の道に登るものがひとつでもあろうか)*10

 ここには、「政治」が「人群」と明らかに区別して使用されていることを読み取ることができる。人間をとりまく有形無形のすべての事物が、「人群」すなわち社会なのだ。
 以上のように見てくると、ひとつのグループとして「人群」「社会」「群治」という単語が、混在して使用されていることが理解できよう。「政治」とは明らかに区別されていることも強調しておきたい。
 梁啓超が使用した「人群」の例を、ほかに2例だけ示しておく。

引用19:(法人)喀謨徳Conte(法人生于一七九八年卒于一八五七年)之倡人群主義及群学。(フランス人コント<フランス人。1798-1857>が提唱した社会主義および社会学)*11

引用20:社会(即人群)。(社会<すなわち人群のこと>)*12

 私が興味をひかれるのは、後者すなわち「社会」という原文に「人群」と注をほどこしている箇所である。なぜならば、梁啓超にとって、「社会」は、外国語であったことが、この注から推測することができるからだ。ここでいう外国語とは、日本語にほかならない。
 つまり、梁啓超は、日本語の「社会」を使用するにあたって、中国人読者のために、「社会」とは「人群」である、と説明する必要を感じたというわけだ。
 重要な箇所だからくりかえす。梁啓超の論文には、彼にとって外国語である日本語の「社会」と、中国語の「群」「人群」「群治」が、同じ意味で使用されたうえで混在しているのだ。
7-1 日本語の「社会」
 先に触れた、梁啓超の早婚禁止説には、著者附識がついている。そのなかに、「今日之日本。始盛倡風俗改良社会改良。……(今日の日本は、はじめ盛んに風俗改良、社会改良と唱えていたが、……)」という表現が見られ、日本がらみで「社会」という単語が使用されていることが判明する。
 「社会」は、日本語であったという、これもひとつの傍証である。
 「社会」が日本語であることをいうための方法のひとつは、当時の辞書を見ることだ。
 社会を意味する英語societyを、中国と日本ではどう記述しているか。

『商務書館華英字典』上海・商務印書館 光緒壬寅(1902)三次重印
引用21:society 会、結社、簽題之会

『(ウェブスター氏新刊大辞書)和訳字彙』日本・三省堂1888.9.19/1903.8.10四十六版
引用22:society 社会、会社、連衆、公衆、交際、合同、社友

 梁啓超論文が発表されたほぼ同じころの辞書だから、使用例は、それ以前のものとなる。中国の辞書には、「社会」という例がなく、日本のには存在する、というのは有力な証拠のひとつだろう。
 もっとも、日本にもともと社会があったわけではないことはいっておかなくてはならない。英語societyを日本語に翻訳する必要が生じた。最初の、交際、人間交際、会、社から世間との対比で社会が使われるようになったのが、1870年代であるらしい*13。
 中国より時間的に少し早く、日本で翻訳語として登場したのが「社会」であったというわけだ。
 西洋の事物を日本語経由で中国に移植しようとした中国の先駆者たちの苦労がここにある。
 西洋のひとつの単語を、中国語に表現するため、いくつもの試行を余儀なくされた。中国古来の単語を当てはめる。参照した文献の日本翻訳語があれば、それを借用する。日本語の翻訳が漢字であるため、借用が比較的簡単だという理由もあっただろう。最初、用語の統一がなされることなく、複数の翻訳語が混在する結果となったのだ。
7-2 用語、翻訳語の混乱
 同一原語にたいして幾種類もの訳語が併存するのは、過渡期の現象である。
 西洋の事物をも紹介する『新民叢報』であるから、訳語の混乱は避けようがなかった。
 アダム・スミス著、厳復訳『原富』を紹介する文章のなかに、「アダム・スミスは、政術理財学(英文Political Economy。中国には、いまだこの名詞がない。日本人は経済学と翻訳している。じつは安定していない。厳氏は、計学と訳したがっているが、大雑把である。原文の政治と計算のふたつの意味にそって、しばらくこうしておきたい。大雅の教えを請う)の鼻祖である」*14という記述がある。英文Political Economy(現在では、economicsという)について、日本語では経済学だが、中国語では、政術理財学、計学をあげる。このほかに政治節用学、平準学という中国語訳も提出されており、たまりかねた読者から、『新民叢報』編集部あてに、訳語の混乱について質問書が届けられた。それへの編集部の回答がある。
 平準という二文字は、安定していないと自分(注:梁啓超だろう)でも思う。計学はStatistics(注:統計学)とまぎらわしい。一文字では、日本でいう経済問題、経済世界、経済革命などが、計問題、計世界、計革命となって不細工である。これらの質問を厳復氏にしたが、まだ返事がない。経済の二文字は、日本のものを借用しても、どうも安定しないように思う。こう説明したうえで、次の文句が続く。「日本で訳した諸学の名詞は、多くはそのまま用いることができる。ただ経済学と社会学のふたつは、さらに新しい名詞が必要だと考える。諸賢のご教示をさらに望みたい」*15
 厳復の名前が出てくるところをみると、回答をした「本社」というのは、梁啓超自身なのだろう。
 梁啓超は、日本語の「社会」について大いにこだわった。
 『新民叢報』の第11号(1902.7.5)の「問答」欄にも、「社会とは、日本人が英語のSocietyを翻訳したものである。中国では、あるいは群と訳す。ここでいう社会とは、すなわち人群の意味である。(社会という)この字は、近頃、日本書を翻訳したものに多く用いられ、すでに少なくない。本誌は、群を用いたり、あるいは社会を使用したり、筆まかせで統一することができず混乱させてしまったこと、記者の責任である。社会の二文字は、将来、中国で普及することは疑いがない。読者がなお立会(注:集団をつくる)の意味だと誤解するのを恐れ、ここに答える」(88頁。引用文の社会、群、人群、立会ともに原文のままである)と書かれている。文中の「記者」および回答した署名「本社」も、梁啓超のことだと思う。
 「群」「人群」ではなく、「社会」という日本語の訳語が普及するだろうといいながら、梁啓超がこの直後に発表した「論小説与群治之関係」にまさに用語の混乱が出現しているのだ。おまけに「群治」という単語を交えているので、よけいややこしい。「筆まかせ」とはよくいったものだ。
 社会についての用語が統一されていないように見えるのは、梁啓超の健筆とも関係があるかもしれない。大量の文章を短期間に書くことができる能力が、梁啓超にはあった。雑誌の連載を数本掛け持ちしているところからもわかる。
 「筆まかせ」で書かれた文章が、次からつぎへと活字にされ印刷されている。用語を統一して書き直すという作業を経ていないように見受けられる。これが、用語混乱の原因のひとつであろう。
 「社会」という翻訳語をめぐる議論は、これより約2年後に最終決着をみることになった。
 『新民叢報』第50号(1904.7.13)誌上で、学術用語を日本の文献などを根拠にして定義することが行なわれた。その「新釈名」という文章のはじめに「社会」が取り上げられている。定義を終わってその末尾に、「中国ではこの字(注:英語のSociety)について定訳がなかった。群と訳したり、人群と訳したりしていたが、全体の意味を包括していない。今、日本語訳にしたがう」(115頁)とある。
 以上のいきさつを見れば、梁啓超の論文に「社会」「群」「人群」「群治」が混在しているのも無理はなかったと理解できるだろう。つけたせば、「社会」とこれらの中国語は、梁啓超にあっては同じ意味に使用されていたことは、いうまでもない。
 梁啓超論文で使用される「群治」が社会の意味に使用されていることを見てきた。
 もういちど「論小説与群治之関係」にもどり、論文全体がどのように構想されているのかを確認する。あらかじめ言っておきたい。私は、ここでは、論文全体の構成がどうなっているのかという観点から見ていく。

8.「論小説与群治之関係」の構成
 表題は、重要な手掛かりをあたえてくれるものだ。まず論文の日本語訳をかさねて示しておく。すなわち「小説と社会の関係を論じる」となる。
 先に梁啓超論文が四つの段落に分けられていると書いた。これは、梁啓超自身がそのように段落分けをしているので、今、それに従う。
8-1 段落1――主題の提示
 論文冒頭のあの有名な文句である。引用3ですでに示したが、重要だから、この部分だけもういちど原文と訳を引用しながら述べたい(引用3-1から引用3-4とする)。

引用3-1:欲新一国之民。不可不先新一国之小説。(一国の民を新しくしたいなら、まずその国の小説を新しくしないわけにはいかない)

 論文の主題は、ここに述べられている。最終目的が「新民」であり、そのための手段が「新小説」なのだ。
 ここには、民が出てくるだけだ。社会が隠れている。形のうえで表われてはいないが、民が集まって社会を構成しているのは自明のこととしてある。梁啓超が、それを前提に論を組み立てていることを見逃してはならない。この前提が理解できないと梁啓超の論文を誤読することになるであろう。

引用3-2:故欲新道徳。必新小説。欲新宗教。必新小説。欲新政治。必新小説。欲新風俗。必新小説。欲新学芸。必新小説。(ゆえに道徳を新しくしたいなら、小説を新しくしなければならない。宗教を新しくしたいなら、小説を新しくしなければならない。政治を新しくしたいなら、小説を新しくしなければならない。風俗を新しくしたいなら、小説を新しくしなければならない。学芸を新しくしたいなら、小説を新しくしなければならない)

 並べられた単語、すなわち道徳、宗教、政治、風俗、学芸は、いずれも民をとりまく環境ということができる。環境といっても、外部のものだけではなく、人間の内部にしみこんでいる、あるいは人間そのものを構成しているひとつの要素といってもいいものだ。道徳、宗教など、かかげられたいくつかの要素のなかで、政治は、そのひとつにすぎないことを知るべきだ。
 梁啓超論文では、明確に位置づけられているにもかかわらず、政治を突出させて、「小説と政治の関係を論じる」のが論文の主題と考えるならば、これは、誤読しているといわざるをえない。段落1は、政治というひとつの要素だけを取りだしたものではないからだ。

引用3-3:乃至欲新人心欲新人格。必新小説。(ひいては人心、人格を新しくしたいなら、小説を新しくしなければならない)

 人心、人格は、民と言っているのと同じだ。

引用3-4:何以故。小説有不可思議之力支配人道故。(なぜか。小説には不可思議な力があり、人間界を支配するからである)

 ここで、とりあえず、小説のもつ不可思議な力をいっておいて、以下でくわしく論述するきっかけ、あるいは論旨のつなぎとしている。
 人間すなわち民を新しくする。その結果が、民が集まってできている社会を新しくすることにつながる。その目的を達成するために小説が有効な力を発揮するだろう。だから、小説を新しくする必要がある。これが、段落1の構造であり、また、梁啓超論文の主題でもある。
8-2 段落2――小説の作用
 小説が、人に対してどのように作用しているかの現象面を説明するのが、段落2である。
 小説が、なぜ好まれるのか。その原因をふたつあげる。
 ひとつ。人は直接経験することのほかに、間接に「身外の身、世界外の世界」(2頁)を経験したがる。小説は、人をほかの世界(原文:他境界)に導くからだ。
 もうひとつ。哀楽怨怒恋駭憂慚など、なぜそう感じるかがわからない(駭は驚き、慚は恥じをいう)。ある人がそれをあますところなく、徹底的に明らかにしてくれるならば納得するからだ。
 小説の人におよぼす作用のあらわれを説明するところまでは、いい。それに加えて、梁啓超は、前者から「理想派小説」が、後者からは「写実派小説」が出てくるという。
 これまたあまりにも突然に提出される「理想派小説」と「写実派小説」である。その内容説明は、一切なされていない。人をほかの世界に導くのが、「理想派小説」で、人の感情の動きを認識させるのが、「写実派小説」か、と想像できるだけだ。
 小説を分類して、種類は多いがこの二派に止まる、というのだからもうすこし何か説明があってもいいように思うのだ。それもない。「理想派小説」「写実派小説」という言葉自体にしても、私には興味深く感じられる。興味深いというのは、突然の使用のされかたといい、説明ぬきであるといい、当時の日本の文芸界から言葉を拝借しているのではないかと想像するに充分であるからだ。
8-3 段落3――四つの力
 人を支配する四つの力について説明した梁啓超のこの部分は、あまりにも有名である。
 人間界(原文:人道)を支配する四種の力とは、熏、浸、刺、提という。
 簡単に説明すれば、熏は、空間による影響、浸は、時間による影響、刺は、急激な刺激、提は、主人公との同化をそれぞれいう。
 注意を要するのは、梁啓超がかかげた四つの力は、小説に限定されていないという点である。教祖が教派を立てる、政治家が政党を組織するときに四つの力が必要とされる。ただ、この四つの力が宿りやすいのが小説だ、という論理なのだ。
 教祖が教派を立てる、という部分に宗教を、政治家が政党を組織する、という箇所に政治を例に出しているのに注目いただきたい。段落1において、道徳、宗教、政治、風俗、学芸を列挙したのと同じ扱いだ。宗教、政治を除いた、道徳、風俗、学芸に対しても四つの力が有効であることは、当然、想像がつく。
8-4 段落4――小説と社会の関係
 小説というかたちは、人に入りやすい。つまり、人に影響をあたえやすい。これを梁啓超は、述べてきた。さらに、小説が社会において空気、穀物のような存在になっている点を強調する(引用11、14、15参照)。
 段落4においては、社会にたいする小説の影響力の強さが、実例をあげながらくりかえし述べられる。古典小説は、おおむね負の方向でその影響力を発揮してきたと評価されるのである。そうして結論となる。
 結論部分を、ふたたび引用しておきたい。「群治」は、いうまでもなく社会である。

引用2:故今日欲改良群治。必自小説界革命始。欲新民必自新小説始。(ゆえに、今日、社会を改良したいならば、必ず小説界革命から始めなければならない。民を新しくしたいならば必ず小説を新しくすることから始めなければならない)8頁

 段落1冒頭の「欲新一国之民。不可不先新一国之小説」は、段落4の末尾「欲新民必自新小説始」と完全に一致していて見事である。
 その直前の、「改良」「革命」の突然の出現には、今でも違和感がある。
 ただし、民と小説が対応させてある構造が理解できれば、「改良群治」「小説界革命」の謎はとける。
 すなわち、民の集まったものが「群治」すなわち社会を構成し、それに対応するかたちで、小説が集まったものとして小説界が設定されていることがわかる。「群治」を政治、大衆統治と解釈したのでは、上の対応関係は成立しなくなってしまうのは説明するまでもないだろう。
 梁啓超自身は、「小説界」の定義をしていない。ただし、小説の集まったものとすれば、理解可能だ。
 くりかえす。民とその全体である群治は、小説とその全体である小説界と対応関係にある。
 「改良群治」「小説界革命」の挿入が論理に破綻をきたしているように見えたのは、「群治」を政治と解釈したからだ。
 梁啓超の「論小説与群治之関係」が誤読されてきたのには、彼自身の文章に原因がある。
 第一に、「群治」の示す内容を大衆統治から社会へ、梁啓超自身が、変更した。
 第二に、梁啓超は、群、人群、群治、社会という同一内容をもつ単語を混在させた。混在させたままで単語の書き換え、訂正、調整を行なわなかった。
 「筆まかせ」で終わらせてしまったからだというべきか。

【注】
1)増田渉訳。『清末・五四前夜集』中国現代文学選集第1巻 平凡社1963.8.15
2)樽本照雄「梁啓超「群治」の読まれ方」『大阪経大論集』第48巻第3号(通巻第239号)1997.9.15
3)1997年5月4日現在、「群治」が復活しているのを知った。高新「《喬石評傳》節選」の1章が「“群治”:从人治向法制轉軌的中間站」と題されている。独裁者統治の「人治」から法治体制の「法制」にいたる中間点として「群治」を置くという主旨らしい。ここでいう「群治」は、集団が指導、統治する体制という意味である。大勢が、とか、多くの、というのが「群」本来の使用法だから、それに合致する言葉だ。ただし、“群治”と引用記号が使用してあるところから、現代中国語では特別な使用例であることがわかる。該文は、http://www.hako.is.uec.ac.jp/shen/China/digest/index.htmlから見ることができる。
4)第11号掲載のものは、「第十一節之続 続論進歩」と題されている。
5)陳平原、夏暁虹編『二十世紀中国小説理論資料』(1897年-1916年)北京大学出版社1989.3。41-47頁所収。なお、葉凱蔕「関於晩清時代小説類別及《新小説》雑誌広告二則」『清末小説』第12号(1989.12.1)には、該当広告の影印が掲載されており貴重だ。
6)「分秤称金銀論套穿衣服(掠奪した大量の金銀や衣服をめいめいで分けあう)」の部分は、増田渉訳を拝借した。
7)中野美代子「小説界革命と梁啓超――思想史的考察――」清末小説研究その5『北海道大学外国語・外国文学研究』第9号 1962.3.17。70頁。
8)小野川秀美『清末政治思想研究』(みすず書房1969.1.10)には、「君権(独術)と民権(群術)」(258頁)とある。
9)康有為『日本書目志』上海大同訳書局1897(東洋文庫所蔵本は、刊年不記)。引用文は、康有為著、姜義華編校『康有為全集』第3集(上海古籍出版社1992.12。760-761頁)によった。
10)「新民説」第十一節之続 続論進歩『新民叢報』第11号 光緒二十八年六月初一日(1902.7.5)3頁
11)中国之新民「論学術之勢力左右世界」『新民叢報』第1号 1902.2.8。76頁。
12)中国之新民「新民説三」第五節論公徳『新民叢報』第3号 1902.3.10。2頁。
13)柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書189 岩波書店1982.4.20。惣郷正明・飛田良文編『明治ことばの辞典』(東京堂出版1986.12.15)には、community、societyを社会と記述した例が1881年にある。実際の使用例が辞書に登録されるのに、数年の時間差がでてくるのだろう。なお、communityについて、『商務書館華英字典』は、衆人、大衆、通用者とし、一方、『(ウェブスター氏新刊大辞書)和訳字彙』は、供用、大衆、会社、社会をあてる。
14)「紹介新著」『新民叢報』第1号 1902.2.8。113頁。芝田稔「日中同文訳語交流の史的研究」1(『関西大学東西学術研究所紀要』第2号 1969.3.30)、「日中同文語彙交流の史的研究」2、3(同誌第5、7号 1972.3.30、1974.3.30)を参照した。
15)「問答」『新民叢報』第8号 1902.5.22。98-99頁。


【付記】
 本論文は、大阪経済大学1996、1997年度特別研究費による研究成果の一部分である。