●清末小説 第20号 1997.12.1


梁 啓 超 の 文 学 作 品
――劇本『班定遠平西域』を中心に――


森川(麦生)登美江


はじめに

 梁啓超*1は清末の“小説界革命”“詩界革命”“文界革命”に主導的役割を果たしたが*2、2,000万字にも上る膨大な著述の中で、文学理論とみなせるものは極めて少なく、次のようなものが散見される程度である。
『変法通議』「論幼学第五・説部書」(1896)
「蒙学報演義報合叙」(1897)
「譯印政治小説序」*3(1898)『清議報』
「飲冰室自由書・伝播文明三利器」中の一節(1899)
「論小説與群治之関係」(1902)
「新中国未来記・緒言」(1902)『新小説』第1号
紹介新刊『新小説』第一号(1902)『新民叢報』第20号
「班定遠平西域・例言」(1902)『新小説』第2年第7号
「小説叢話」中の数則(1903〜)『新小説』
「告小説家」(1915)
『桃花扇』注
 また、彼の文学作品には以下のものがある。
 【小説】
『新中国未来記』5回。未完。『新小説』第1号〜3号、7号。1902年11月 〜
  後、『飲冰室叢著小説零簡』(未見)に所収。
 【伝奇】
『劫灰夢伝奇』“楔子”一齣のみ『新民叢報』第1号に掲載。
『新羅馬伝奇』八齣(含楔子)『新民叢報』第10、11〜13、15、20、56号に 掲載。未完(当初は40回)
『侠情記伝奇』第一齣「緯憂」もともと『新羅馬伝奇』の一齣、後、単独で 『新小説』第1号に掲載。
 【劇本】
通俗精神教育新劇本「班定遠平西域」『新小説』第2年第7〜9号に掲載。 1905年、新小説社印行(未見)。
 【伝記】
匈加利愛国者「m蘇士伝」『新民叢報』第4、6、7号(完)
「張博望班定遠合伝」『新民叢報』第8、23号(完)
「意大利建国三傑伝」26節・結論『新民叢報』第9、10、14〜17、19、21号 (完)
近世第一女傑「羅蘭夫人伝」『新民叢報』第17、18号(完)
新英国巨人「克林威爾伝」『新民叢報』第25、26、54、56号(未完)
明季第一重要人物「袁崇煥伝」『新民叢報』第46・47・48合併号、49、50号 (完)
「中国殖民八大偉人伝」『新民叢報』第63号(完)
祖国大航海家「鄭和伝」『新民叢報』第69号(完)
 【翻訳】
「十五小豪傑」(ジュール・ヴェルヌ『二年間の休暇』)少年中国之少年重 訳。9回まで『新民叢報』第2〜4、6、8、10〜13号。10回から後は 披髪生[羅晋]続訳。03年、新民社より出版。
哲理小説「世界末日記」(フラマリオン「地球末日記」により編訳)『新小 説』第1号。
語怪小説「俄皇宮中之人鬼」(アレン・アップワード『冬宮の怪談』梁啓超 の前書きにフランス前駐露公使某君著とある)『新小説』第2号(本篇 と「世界末日記」は1905年、新小説社刊行『説部月腋』第1輯所収(未 見)。
Byronの“Giaoir”と“Don Juan”(『新中国未来記』第4回に引用。中国 におけるバイロンの最初の訳詩だと思われる)
政治小説「佳人奇遇」(柴四郎[東海散士]著『佳人之奇遇』の訳であるが、 梁啓超一人の訳かどうかやや疑問あり)『清議報』第一冊〜第三十五冊
 【詩詞】
古今体詩360余首
詞60余首
 【詩話】
「飲冰室詩話」『新民叢報』第4〜95号

 この中でもとりわけ「論小説與群治之関係」と政治小説『新中国未来記』が清末社会に大きな影響を与えたことは周知の事実である。
 清末時代にはまだ伝奇・劇本・弾詞などと小説の概念が分化しておらず、伝奇なども小説の中に含まれていたので、“小説界革命”には当然、演劇革命も包含されていた。しかし、従来、清末の演劇革命については検討されることが少なかった。とりわけ梁啓超が“小説界革命”の中でも小説と並んで演劇の革新に努力したことは比較的看過されてきた。本稿で取り上げる「班定遠平西域」が梁啓超の作と主張されたのでさえ、1950年代になってからであった。1902年、『新小説』に“曼殊室主人”という名で発表したため、長い間、蘇曼殊の作だと思われていたのである。趙景深はそれに疑問を抱いていたが、曼殊室主人が梁啓超のペンネームであることに気付いて「梁啓超写過広東戯」を《光明日報》に発表したのは1957年だった。さらに張海珊が1906年から1907年にかけて『新民叢報』に登載された30則の「飲冰室詩話」を集めて1982年に『古代文学理論研究』第7輯に掲載した。その中に、

 横浜大同学校の生徒が音楽会を開くのに、俗劇を一本上演して余興にしたいと欲し、私に頼んだ。私はそのため「班定遠平西域」六幕を書いた。

とあり、「班定遠平西域」が梁啓超の作であることが確定的になった。どうした訳か「飲冰室詩話」が一冊に纏められたとき、1905年末掲載分までしか採録されず、その後の連載分が欠落していたため、上述の記載があることに誰も気付かなかったのだ。『新民叢報』の復刻版が入手出来るようになって初めて現行の「飲冰室詩話」に脱落があることに気づいたのではないかと思われる。原典に当たることの大切さと同時に、清末資料の早急な整備が望まれる*4。



 上述のように、1902年、梁啓超は『新民叢報』創刊号の“小説欄”に義和団事件を題材にした「劫灰夢伝奇」を発表し、近代“演劇改良”の幕を切って落とした。封建礼教を賛美するようなストーリーの多かった従来の伝奇に比べ、時事問題である義和団事件を取り上げた「劫灰夢伝奇」は、まずその題材の新しさが目を引く。ストーリーは次のようなものである。
 浙江江山県の人、杜撰は早く翰苑に登ったが、甲午以後、時局に心を驚かし、大夢初めて醒めて出仕の意を絶ち、読書を楽しんでいた。義和団事件の際、両宮が倉皇として出走し、多くの官吏たちが狼狽して逃げ惑うさま、外国兵の野蛮暴掠、民間の狼藉困苦のさまを見て心を痛めた。その有様を追憶する。
この中の歌を二首あげておこう。

 「皀羅袍」依然是歌舞太平如昨、到今児便記不起昨日的雨横風斜。
      游魚在釜戯菱花、處堂燕雀安頽厦。
      黄金暮夜、侯門路貝余。青燈帖括、廉船鬢華。
      望天児更打落幾箇糊塗卦。
       這算是那一種守舊的咯。別有那叫做通洋務的 。
   相も変わらず昨日のごとく歌舞太平を楽しみ、
   今日になったら昨日の暴風雨を思い出しもしない。
   遊び回る魚は釜の中で菱の花にたわむれ、
   建物に巣を作る燕や雀は崩れかけた楼に安んじている。
   すばらしい夜ではあるが、富貴に達するには道のりが遠い。
   青い灯の下で科挙の試験勉強に精を出し、びんの毛には白髪がチラホラ。
   空を望んでさらに数個のめちゃくちゃな卦を立てる。
    これは旧態依然たる者のことである。他に洋務に通じていると言われる 者もいる。
 「前 調」更有那婢膝奴顔流亜、趁風潮便找定他的飯碗根芽。
      官房翻訳大名家、洋行通事龍門価。
      領約マ拉、口啣雪茄。見鬼唱諾、対人磨牙。
      笑罵来則索性由他罵。
   更に(外国人に対して)卑屈な態度を取るやつらが、
   風潮に乗じて自分の飯の種を探す。
   官庁の通訳は大名士で、西洋商社の通訳には龍門の価値がある。
   首には襟カラーをつけ、口にはシガーをくわえる。
   鬼(外国人)に遇えば唯々諾々、
   人(中国人)に対しては牙を研ぐ。
   嘲笑罵倒も結局は彼の思うままなのだ。

 甲午中日戦争や義和団事件を経てもまだ酔生夢死、出世を夢見て科挙の受験勉強に精を出している者たち、および、中国人には傲慢なくせに、外国人に対しては卑屈な態度を取る“洋才”たちを痛烈に皮肉っているのだが、ここで注目されるのはこうした歌の中にまで“マ拉(カラー)”、“雪茄(シガー)”などの新語を大胆に取り入れていることである。楚青は『新民叢報』第十号「詩界潮音集」に“劫灰夢伝奇題詞”を寄せ「我が公の慧舌は金蓮を吐く」と評しているが、後述する劇本「班定遠平西域」の新しさにも通じる試みがここにも見受けられる。



 さらに続いて「新羅馬伝奇」を『新民叢報』に登載した。梁啓超は「新羅馬伝奇」に先立ち、「意大利建国三傑伝」を『新民叢報』第9号から訳述している。“三傑”とは、19世紀のイタリアで活躍した三人の偉人――新羅馬共和国の臨時大統領に選ばれた瑪志尼(Ginseppe Mazzini)・少年意大利党(Young Italy)を創設し、三度国民軍を率いて奮戦した将軍加里波的(Giuseppe Garibaldi)・撤的尼亜の宰相となった加富爾(Camillo Benso di Cavour)――を指す。梁啓超はこの三人を取り上げた理由を次のように説明し、彼らを“イタリアの父母、生命”と高く評価する。

 その建国前の状況が我中国の今日と同様のものを求めれば、イタリアに如くはない。その愛国者の志すところ、事とするところが今日の中国国民にとって模範とすべきものを求めればイタリアの三傑に如くはない。
(「意大利建国三傑伝」発端 『新民叢報』第9号)

これはイタリアに題材を取ってはいるものの、実は中国の救国を強く意識し、国民精神の喚起を意図したものであることがわかる。梁啓超はこの三人の出生以前のイタリアの形勢から、三人の幼年時代、青年時代、彼らの活躍ぶり、そしてその死までを丁寧に追っていく。「新羅馬伝奇」は次の10号から連載を開始しているので、おそらく「意大利建国三傑伝」を執筆しながら「新羅馬伝奇」の構想を練ったのだろう。<中国で初めて伝奇の題材を外国に取った>という点で「新羅馬伝奇」は伝奇界に新境地を切り開いたものと評価できる。
 形式的にも、「新羅馬伝奇」の第一出“楔子”で最初に登場するのは副末で<伝奇の第一出では原則として正生、もしくは正旦が登場する>という慣例を破るなど新しい試みをしている。その副末はイタリアの詩人ダンテの霊魂として舞台に現れ、飲冰室主人が「新羅馬伝奇」を編み、現在、上海愛国戯園で開演されているので、親友であるイギリスのシェークスピア、フランスのヴォルテールを誘って見に行こうとする。この副末の登場の仕方も意表を突いたものと言えよう。
 当初は40出の計画だったようだが、前述のように次第に連載が間遠になり、楔子を含んで八出でついに中断してしまったのは惜しまれる。「三傑伝」の方は完結しているので、やはり梁啓超は伝奇のような文学創作は苦手だったのだろうか。だが少数とはいえ、新奇な題材、新しい手法を採り入れた梁啓超のこれらの伝奇は近代伝奇雑劇革新の先声をなすものと位置付けられよう。



 梁啓超の唯一の劇本「班定遠平西域」は、上述のように1902年頃、梁啓超ら保皇派の拠点であった“横浜大同学校”音楽会で、余興に俗劇を一つ上演したいということで、梁啓超が頼まれて執筆したものである。「新羅馬伝奇」と同様、これと相前後して梁啓超は伝記「張博望班定遠合伝」を『新民叢報』第八号に“中国之新民”の筆名で執筆し、その冒頭で、

 欧米や日本の人はよく支那の歴史は不名誉な歴史であるという。異民族と衝突するとすぐ敗北するからだ。ああ、恥ずかしいことだ。しかし、張博望*5、班定遠*6の逸事を読めば我が歴史も誇るに足る。

と述べて、張騫と班超の西域出兵と、その嚇々たる戦果を盛んに賛美している。彼らの西域出兵は、漢民族が拠点としていたオアシス都市の防衛であったと同時に、異民族抑圧の側面も持っていたと思われるが、それは梁啓超によれば、

 文明国が野蛮国の土地を統治することは、進化上、享けるべき権利であり、文明国が野蛮国の人民を啓発することは、倫理上、尽くすべき責任である。
(『新民叢報』第8号)

と進化論によって合理化される。さらに、

 爾来、欧米の民族が各々帝国主義を競うのは、彼は国内の力が充実して外に膨脹するのであり、生存競争の法則がそうさせるのでやむを得ないものがあるのだ。
(『新民叢報』第23号)

と、ここにも進化論の悪しき影響が認められる。また、

 中国が数千年来襲用してきた名詞にはいわゆる“属国”があるだけで“植民地”はない。そもそも土地を開いて人民を移住させようとすれば費用はかかるが、しかし、その後には何倍もの利益が得られて補填出来るのだ。(同前)

とも言っている。ここには植民地とされて収奪される側の痛みに対する視点は完全に欠落している。彼がこの「張博望班定遠合伝」を執筆した1902年当時は、義和団事件の直後で列強の中国植民地化政策がますます強化されていたにもかかわらず、いや、だからこそ従属する側から支配する側へ、搾取される側から収奪する側へ移りたいという願望はさらに強烈になっていたと考えられる。「班定遠平西域」というこの劇本は、正にそうした心理状態の中で執筆されたものである。班定遠は第一幕“言志”の中で、

  国家の成立にとって最も重要なものは尚武の精神である。
(『新小説』第2年第7号)

と明言している。梁啓超は“例言”で、

 この劇の意図は尚武の精神を提唱することにあり、とくに重んじたのは対外的名誉であった。だから班定遠を主人公に選んだのだ。(同前)

と説明している。題名の上に“通俗精神教育新劇本”とつけられている所以である。彼の意図は全6幕からなる次のタイトルからも推察出来る。
   第一幕 言志  第二幕 出師(『新小説』第2年第7号)
   第三幕 平虜  第四幕 上書(同前第8号)
   第五幕 軍談  第六幕 凱旋(同前第9号)
要するに班超が西域平定の志を立てて出征し、凱旋するまでの三十数年間の物語なのである。これはレーゼドラマとしての戯曲ではなく、上演を目的として執筆されたため、随所に観客の興味を引き付けるための工夫が凝らされている。以下それについて考察したい。



 まず、出兵の順序であるが、それについて“例言”で、

 定遠の西域出兵は本来はn善(楼蘭王国を指す……筆者註)が発端で、それから次々に諸国を平定していくのだが、……n善の役が最も劇場での興趣にマッチしている。……だからやむを得ず順序を逆にしたのだ。

と述べているように、華々しい戦果をあげて注目されたn善の役をフィナーレに持ってきて、班定遠をn善から凱旋させ、勝利のムードを盛り上げている。演出上要求された改変であった。
 とりわけ新味が感じられるのは、第三幕“平虜”における匈奴の勅使や随員の雑句とセリフである。勅使は、

 我個種名叫做Turkey我個国名叫做Hungary天上玉皇係我Family地下国王都係我Baby
 (わしの種族名はターキーと言い、国名はハンガリーである。上帝はわしのファミリーで、地上の国王はみなわしのベイビーだ。)

と、中国語と英単語を混用して自己紹介する。一方、随員の方は、

 オレ係匈奴口既副欽差。作以手指欽差状.除了アノ就到我エライ。作頓足昂頭状.哈哈好笑シナ也閙是講出ヘタイ。叫老班箇口既ヤッツ来ウルサイ。渠都唔聞得オレ口既声名口甘タッカイ。真係オーバカ咯オマヘ。髞恫ト話髦カンガイ。誰知我カンガイ重比驛nヤイ。……

と中国語と日本語がチャンポンになっている。このセリフは日本語があまり正確ではないため意味の取りにくい部分もあるが、それだけに観客の笑いを誘ったことだろう。梁啓超の1900年頃における日本語能力の程度を示すものなのか、面白くするためにわざとこんな下手くそな日本語を使っているのか、今のところ判然としない。勅使が副勅使に「君はペチャクチャと何をしゃべっているんだ」と尋ねると、副勅使は、

 未士打烏。我講的係Japanese Lanqママuage口利口希。髫I知道咯。近日日本話都唔知幾時興。唔口會講幾句唔算濶O。好彩我做横浜領事個陣。就学口會了。
 (ミスター烏、私がしゃべっているのはジャパニーズランゲージです。あなたはご存じないでしょうが、いつから流行ったのかは知りませんが、近頃は日本語が少ししゃべれないと格好よい人のうちに入らないのです。幸い、私は横浜領事だったときに日本語を覚えたのです。)

と答える。さらにこの劇が横浜で上演されるため、副勅使は以前横浜領事だったことにしている。その上、彼には「ワタシハ匈奴国随員モモターロウ呀」と、日本では周知のおとぎ話の主人公の名前を名乗らせ、観客に親近感を持たせている。 この後、二人は酒を汲みかわし、興に乗って勅使は西洋の歌を歌い、副勅使は日本の歌を歌うが、どちらも曲名は指定されていない。出演者の好みに任されたのだろう。副勅使の歌を聞いて、勅使が「日本の歌は美しいとは思えない」と言うと、副勅使は「そうでしょうね、あなたは新華のすばらしい歌をもっぱら聞いておられますからね」と応じる。この新華というのは広東における当時のスターの名前であり、これも横浜に多かった広東人華僑へのウケをねらったものと言えよう。
 さらにその後、二人が「酔っ払った、寝よう」と退場する際に、勅使は帽子を取って「Good night gentlemen」、副勅使はおじぎをし、「ミナサン。我亦去ヤスミ咯。」と挨拶する。梁啓超のユーモアのセンスがかいま見える場面である。
 この二人の歌のほか、劇中に歌が4曲挿入されている。まず第二幕の“出軍歌”は『新小説』第1号の「雑歌謡」欄に“嶺東故将軍”作として掲載されているものである。第5幕では軍士甲が“龍舟歌”を歌い、その後、軍楽隊が“従軍楽”を演奏する。梁啓超は後年「班定遠平西域」について語った際、

 その中に“従軍楽”12章を入れている。これは俗調“十杯酒”(又の名“梳妝台”)のメロデイを使った。遊戯に属するとは言え、自分では非常に気に入っている。(『新民叢報』第78号「飲冰室詩話」)

と述懐しており、メロディは当時の流行歌を借用したことがわかる。そしてフィナーレでは“旋軍歌”が合唱される。第2幕の“出軍歌”とこの“旋軍歌”は同じメロディで、歌詞はどちらも梁啓超が新派詩の詩人として最も評価していた黄遵憲の作である。
 梁啓超は音楽に対しても相当強い関心を持っていたらしく、小説『新中国未来記』でも陳孟というバイオリンを奏でる青年に、

 以前、軍事を学んだとき外国の軍歌を聞いて、音楽は民族精神と大いに関係があると考え、音楽を研究しようと思ったのです。(第4回)

と語らせている。また梁啓超は、

 今の詩はみな歌うことが出来ず、詩の用途を失っている。そのため近世、教育に志のあるものは音楽学を提唱している。しかし、音楽はすべての人が学ぶことの出来るものではなく、かつ雅楽と俗楽はどちらか一方だけを捨ててはならない。 (『新民叢報』第78号「飲冰室詩話」)

と主張している。「飲冰室詩話」に掲載されている梁啓超作“愛国歌”4章も横浜大同学校の生徒の歌唱用に作詞されている*7。梁啓超は音楽を啓蒙という観点から重視していたのである。

               五

 この劇本で作者が最も力を入れて執筆したのはやはりフィナーレだったと言えよう。最後の第6幕は“凱旋”という標題が示すように、70歳になった班超が詔を得て、やっと三十余年に及んだ西域での戦いに終止符を打って都へ帰還する場面である。ここで突然、大同学校の教師と生徒がそれぞれ国旗を手にして舞台に登場する。時代は漢代から一気にちょうど千八百年後の現代へと転換した訳で、当時においては斬新な演出だったと思われる。教師は学生に、

 今日は班定遠凱旋の劇が上演される。私は諸君を引率して劇の登場人物となって歓迎式典を行うが、君達はこれを遊戯とみなしてはならない。注意して国史を読み、祖国の昔の愛国の軍人を常に心に留めておいて模範としなさい。そうすれば尚武の真精神が自ずと育つだろう。

と訓示する。そこへ班超と軍士らが登場し、学生たちは国旗を振りながら「軍人万歳!中国万歳!」と叫び“旋軍歌”を合唱して幕となる。誠に華やかで勇壮な幕切れである。このフィナーレの演出には「中国滅亡の危機を救うためには何としても国民の尚武の精神を喚起し、国家を強くしなければならぬ」という梁啓超の願望がまざまざと表現されている。それは「新民説」十九「第17節論尚武」(『新民叢報』第28号)でもわざわざ1節使って尚武を論じていることからも察せられるように、梁啓超にとって差し迫った課題であった。そのことは当時の中国の置かれた国際環境から理解出来るとしても、梁啓超の思想の中にはやや危険な側面が存在しているように思われる。彼は「張博望班定遠合伝」において、

 黄族の威信を域外に震ったのは漢が最高であるが、博望がそれを始め、定遠がそれを成就した。二人の偉人は実に我が民族帝国主義の絶好の模範的人物である。 (「張博望班定遠合伝」第十節“結論”『新民叢報』第23号)

と称賛しているのだ。ここで注意したいのは“民族帝国主義”ということばであり、梁啓超が「誉れある黄帝の子孫である漢族を守り、発展させるためには異民族抑圧もやむを得ない」と考えていたことである。彼はさらに続けて、

 定遠の功業の成功は専ら夷狄を以って夷狄を攻めたことにあるが、これは誠に野蛮国を治める不二の法門である。(同前)

と、イギリスのインド侵略を例に引きつつ、班超の夷狄攻略法に高い評価を与える。梁啓超にとっては、野蛮な夷狄は高等民族である漢族が支配教化すべき対象であって、対等な関係を結ぶ相手とはみなされないのだ。『新中国未来記』の主人公を“黄克強”と命名しているのも「我々黄帝の子孫が他の種族に打ち勝って強大になりたい」という願望を込めていると考えられる。この後『新中国未来記』に倣って清末小説には続々と黄姓が登場する。しかしながら“戊戌の政変”以後も梁啓超が敬慕してやまない光緒帝は満州族という異民族だから「黄種を守り発展させる」という願望とは矛盾するが、梁啓超はそのことは全く気に留めていないようだ。日本亡命直後には孫文らと親しく交わり、一時は革命派に急接近した梁啓超が、康有為に厳しく叱責され「師弟の縁を切る」とまで言われて保皇派に引き戻され、革命派が提起した「土地国有論」などを巡って激しく論戦するようになっていく思想的根源はここにもあったのではないだろうか。中国に近代的資本主義を育成しようと図った梁啓超の「民族帝国主義論」は帝国主義に民族というベールをかぶせることによって侵略という本質をあいまいにし、「自民族のため」という大義名分をつけ加えることによって他民族への抑圧を美化し、免罪するという効果が生じているように思う。



 梁啓超は、

 この劇のセリフ、儀式などはすべて俗劇に倣っている。実は俗劇には厭うべきところもたくさんあり、本来は速やかに改良すべきであるが、今それを踏襲したのは実演させようとすれば旧社会の慣習通りにせざるを得ず、そうでなければ指導が非常に難しかったからだ。(「班定遠平西域」例言)

と述べている。そうした限界は持ちながらも、しかしこの劇本は梁啓超自身が「俗劇に一新天地を開いた」(「飲冰室詩話」『新民叢報』第78号)と自負しているように、各種の新しい試みを取り入れている。
 まず、形式的には前述のように六幕と幕を分けるよう明示していることだ。中国演劇における幕を分ける演出法はこれから始まったのであり、近代演劇に一歩近づいたと言える。
 第二に、第一幕の最初は「武生黒鬚扮班超上」(武生、黒鬚で班超に扮して登場)のように武生という役柄が指定されているが、あとはほとんど「班のセリフ」「恵のセリフ」「欽差、雑句を唱う」「侍従のセリフ」のように、セリフを発する主体が明示されている。これも生とか旦とかの型にはまった役柄から登場人物を解放する画期的な試みであったと言えよう。
 第三に、宮調や曲牌の形式を廃して俗調を取り入れるなど曲律を解放したこと。
 第四に、登場人物のセリフが従来の駢体韵白を廃して現代語が多用され、かつ前述のように英語や日本語まで取り入れられていること。このようなセリフの重視も後の話劇上演に対する先導的役割を果たした。
 第五に、劇本における服装や道具は、登場人物の身分や地位の重要なメルクマールであり、明末清初にはすでに完全な体制を確立していた。ところが「班定遠平西域」では軍士たちの衣装が洋装である。衣装の面でも従来の伝統を打破して新しい試みをしている。
 第六に、中国戯曲中の程式化した所作が日常的な動作にとって代わっているのは、匈奴の勅使たちの退場の場面などにも見られるとおりである。
 第七に、フィナーレで大同学校の教師と生徒を舞台に登場させ、古代と現代の融合、舞台と観客との融合を図ったこと。
 これらの新機軸は、梁啓超が“戊戌の政変”後の1898年10月に日本に亡命して、西洋のシナリオを読んだり、日本の壮士劇や新劇を見て影響を受けた面が大いにあったことだろう。

むすび

 西洋話劇の中国導入は、1899年、上海の教会学校の生徒たちがクリスマスに上演したアマチュア演劇に始まり、1904年、陳去病・柳亜子等が中国で最初の演劇専門雑誌『二十世紀大舞台』を創刊して正式に演劇革命を提唱する。さらに東京の中国人留学生たちが“春柳社”を組織して中国人による最初の本格的話劇『椿姫』を上演するのは1907年2月である。それらに先立つ「班定遠平西域」の上演と、演劇革命の提唱は、清末における演劇革新運動に清新な刺激を与えたと思われる。
 梁啓超は、小説家としての才能にはあまり恵まれていなかったようで、5年間に渡り構想を温め「新小説雑誌を発刊したのも『新中国未来記』を掲載するためだった」(『新中国未来記』例言)と言うほど力を入れて書き始めた『新中国未来記』が、僅か5回で中断しているのも、この小説家としての才能に関わる部分が大きかったのではなかろうか。文学作品としては小説より「ローラン夫人伝」などの伝記作品、「十五小豪傑」などの翻訳作品にすぐれたものが多く見受けられるが、それらも范文蘭の言う“天才的宣伝家”の本領を遺憾なく発揮して、自分の政治的主張に都合の良いように改変を加え、情感にあふれた流麗で説得力に富んだ文体で清末文壇・詩壇に一大センセーションを巻き起こし、後の五・四運動を準備するが、同時に梁啓超が清末の演劇革新に果たした役割も看過してはならないと思う。この後、無涯生(欧P甲)の「観戯記」(『黄帝魂』所収)、観雲「中国之演劇界」(『新民叢報』第三年第十七号)、淵實「中国詩楽之遷變與戯曲発展之関係」(『新民叢報』第四年第五号)などの重要な戯曲論や、種々の劇本が登場し、演劇改良が強力に推進されるのである。
 なお、梁啓超にはこの他にも『新中国未来記』などの重要な文学作品があるが、紙数の関係で稿を改めて検討したい。




【註】
1)1873-1929。字は卓如、号は任公、別号滄江、飲冰室主人。広東省新会県の人。変法派のリーダーとして活躍。
2)拙稿「梁啓超と“詩界革命”――杜甫と黄遵憲評を中心に――」(『中国文学論集目加田誠博士古稀記念』龍溪書舎 昭和49年10月を参照のこと。
3)もともとは「政治小説『佳人奇遇』序」であったが、後に「譯印政治小説序」と改題して『清議報』に発表され、清末文壇に大きな影響を与えた。
4)連燕堂『梁啓超与晩清文学革命』近代文学研究叢書第一輯 漓江出版社出版1991年5月第1版p.298に基づく。なお、梁啓超のこの詩話は『新民叢報』第78号に登載されている。
5)?-B.C.114。漢の武帝に派遣されて、中央アジアの大月氏に行き、十数年に渡る大旅行をして西域に関する知識を中国にもたらした。
6)32-102。後漢の将軍。字は仲昇。『漢書』を著わした班固の弟。明帝の時、西域に出兵して武功を立て、定遠候に封じられた。なお、劇中には班恵という弟が登場するが、これは女子学生が出演したがらなかったので、やむを得ず妹の班昭を弟に変えたためであり、実際は弟はいなかった。
7)「新式学堂」で歌われるために作られたおびただしい「学堂楽歌」には、海外の歌に対する替え歌と創作が混在した。そして、最も取り上げられやすい旋律は当時の日本の唱歌、並びに軍歌だった。(岩波講座 『現代中国』第五巻「文学芸術の新潮流」]U音楽――その姿と軌跡「1 近代の中国音楽」團伊久磨)とあり、大同学校で歌われた歌も日本のメロディだった可能性は否定できない。


(もりかわ<むぎお> とみえ)