●清末小説 第20号 1997.12.1


新 実 証 主 義 の 著 書
樽本照雄『清末小説論集』


中 島 利 郎




 樽本照雄『清末小説閑談』(1983.9.20法律文化社、以下『閑談』と略記)が日本で最初の清末小説研究専著として世に出てからほぼ10年後、その第二集『清末小説論集』(1992.2.20法律文化社、以下『論集』と略記)が出た。『閑談』が出て以後の10年間、清末小説研究はそれ以前に比して格段の進歩と深化をみた。すでに清末小説に関しては資料もなく、まとまった研究もないという時期は過ぎたといってよいであろう。いま、机辺を見えるだけでも、この10数年間の清末小説研究に関する専著には以下のようなものがある。

○林明徳編著『晩清小説研究』(1983.3台湾・聯経出版事業公司)
●樽本照雄『清末小説閑談』(1983.9.20法律文化社)
○国立政治大学中文系・中研所編『漢学論文集・晩清小説専号』(1984.12台 湾・文史哲出版社)
○中国社会科学院近代文学研究組編『中国近代文学研究集』(1986.4中国文 聯出版公司)
○康来新『晩清小説理論研究』(1986.6台湾・大安出版社)
○時萌『中国近代文学論稿』(1986.10上海古籍出版社)
○陳平原『中国小説叙事模式的転変』(1988.3上海人民出版社)
●清末小説研究会(樽本照雄)編『清末民初小説目録』(1988.3中国文芸研 究会)
○時萌『晩清小説』(1989.6上海古籍出版社)
○袁健・鄭栄編著『晩清小説研究概説』(1989.7天津教育出版社)
○陳平原『二十世紀中国小説史・第一巻』(1989.12北京大学出版社)
○米琳娜編・伍暁明訳『従伝統到現代』(1991.10北京大学出版社)
●樽本照雄『清末小説論集』(1992.2.20法律文化社)
○袁進『中国小説的近代変革』(1992.6中国社会科学出版社)
○呉淳邦『晩清諷刺小説的諷刺芸術』(1994.7復旦大学出版社)
○頼芳伶『清末小説与社会政治変遷』(1994.9大安出版社)
○黄錦珠『晩清時期小説観念之転変』(1995.2台湾・文史哲出版社)
○顔廷亮『晩清小説理論』(1996.8中華書局)

 以上に挙げたものは単行書のほんの一部であるが、この他にも、主に清末小説等を研究対象にした雑誌『中国近代文学研究』(中山大学出版社)が1983年11月に創刊されたし(3号で休刊)、台湾の総合文芸誌『聯合文学』第一巻第六期(1985.4聯合文学雑誌社)は、一般文芸誌としては初めて「晩清小説専輯」と題して清末小説を特集し、また1991年10月には復旦大学中国近代文学研究室編『中国近代文学研究(1)』が刊行されている。研究論文を集成したものでは、中国社会科学院文学研究所近代文学研究組編『中国近代文学論文集(1949ー1979)小説巻』(1983.4中国社会科学出版社)に続き、王俊年編『中国近代文学論文集(1919ー1949)小説巻』(1988.5中国社会科学出版社)が出て、中国における過去60年間の清末小説研究が一覧できるようになった。さらに、作品資料集としては台湾において「晩清小説大系」全37冊(1984.3広雅出版有限公司)が出版された後、清末小説を含む「中国近代文学大系」全30巻(1990.10-1996.10上海書店)や「中国近代小説大系」(江西人民出版社)、「中国近代文学作品系列」(海峡文芸出版社)が叢書として出版されている。個別的な作家や作品集も、たとえば呉熕lの作品を全8冊に収録した『我仏山人文集』(1988花城出版社)をはじめ、李伯元、劉鉄雲、曽樸などいわゆる清末の四大作家の代表作も様々な出版社から刊行されているし、それ以外の作家の作品も枚挙にいとまがないほどである(また、台湾ではかなりの数の修士論文が清末小説を論題にしている)。より詳しく知りたければ、覆印報刊資料「中国古代、近代文学研究」各期に付された文献索引及び清末小説研究会発行、季刊誌『清末小説から』末尾に毎号掲載される樽本照雄編の文献目録を一覧すれば、その盛況の様子はいっそうよく解る。
 以上のように1983年以降の10数年間においては、それ以前には考えられなかったほど清末小説研究は盛んになったといえよう。ところが、上に掲げた専著類を一見すればわかるように、この期間に出版されたものは主に華文で書かれたもの、華文使用地区で出版されたものばかりで日本語で書かれ日本で出版された専著は、樽本照雄氏の『閑談』『論集』および目録資料集『清末民初小説目録』のみなのである。つまり、清末小説研究は盛んになったとはいえ、それは文革後、改革開放政策に転じた中国大陸や戒厳令解除に前後する台湾でのことで、日本における清末小説の本格的な研究は、この10数年来もそれ以前も、依然として樽本照雄氏一人が弧軍奮闘しているという状況なのである。



 『論集』はA5判、本文427頁、索引39頁。全体は三部からなる。先ず、『論集』全体について言えることは、以前『閑談』を書評した時にも述べたが、全編実証的な態度に貫かれており、論旨は緻密で精度が高く、且つ一読して主旨が明確なことである。全46篇の各論のほとんどは短文であるが、それは良質の短篇推理小説を読むように読後に爽快感をともなうほど小気味よい。
 第一部は「『繍像小説』をめぐって――編者問題から盗用問題へ」と題して、『繍像小説』関係の論考9篇を収録する。第一部では、中国の研究者汪家熔の出した『繍像小説』の編者は李伯元ではなく夏曽佑ではないかという新説および劉鉄雲が「老残遊記」で李伯元の「文明小史」を盗用したのだという新説への反論と、張純の出した『繍像小説』の刊行時期の問題が主要なテーマになっている。その白眉は「劉鉄雲が李伯元を盗用したのか――汪家熔を批判する」である。従来、李伯元は劉鉄雲の「老残遊記」第11回から自己の「文明小史」第59回にその一部を盗用した、とされていたが、汪家熔はそれは逆で劉が李の作品から盗用したとの説を出し、その主たる根拠として「現存する劉鉄雲の手稿にない78文字が、李伯元『文明小史』には、ある。発表年月を見ると『文明小史』の方が早く、78文字を加筆した『老残遊記』は後である。となると、先に発表された『文明小史』を劉鉄雲は『老残遊記』に盗用した」(15頁)と確信をもって論じた。この説がほんとうならば今まで通説を補強しつつ論を展開してきた樽本氏も根本的に自論を訂正しなければならなくなる。ところが樽本氏はさまざまな反証を掲げた上で、「文明小史」第59回の盗用部分は、実際には「劉鉄雲の文章とは異同があるばかりでなく、78字の6割にあたる後半の47字が、ない」(18頁)という決定的な点に言及し汪家熔の立論の曖昧さを暴露し、劉の原稿を観ることのできる立場にあったのは李であり、李伯元が『繍像小説』の編集者ではなかったとの汪の説も同時に成立しないことをも立証している。徹底した実証的研究の前には、汪家熔の立論の余地はない。ところが今度は、張純が『繍像小説』の終刊が今まで考えられていたより一年以上後の光緒33年であるという確証をともなった新説を出した(「『繍像小説』の刊行時期」)。もしこの説が成立するならば、李伯元が死んだ(光緒32年3月14日)後も『繍像小説』は刊行されたことになり、「文明小史」第59回掲載期には李は亡くなっているから、件の盗用問題は成立しなくなる。しかし、氏は泰然として、李伯元の小説の代作者とされる欧陽鉅源との関係から、盗用問題は「李伯元を欧陽鉅源と置き換えるだけで私の回答は成り立つ」とし、さらに「南亭亭長は、李伯元と欧陽鉅源の共同筆名だ、というようなことも充分に考えられる」という推論する。もちろん、この推論に至るまでには博捜した資料を駆使して複雑な手続きを経るのだが、南亭亭長という筆名が「李伯元と欧陽鉅源の共同筆名」の可能性があるという指摘は示唆に富む。
 第二部の「作家と作品に関連して」は、劉鉄雲「老残遊記」をはじめとして呉熕l、李伯元、秋瑾、連夢青に関連する22篇の論考を収める。ここで興味深いのは「劉鉄雲の来日」「劉鉄雲と中根斎」「劉鉄雲と日本人」「李伯元と朝日新聞社の西村君」「秋瑾来日考」「新聞に見る秋瑾来日」「秋瑾来日再考」の諸論考だ。氏は緻密で執念としかいいようのない探求心で、清末の作家と日本および日本人との関係を浮き彫りにしている。それも一見すれば個々の論考は独立した形をとっているのだが、実は先の第一部の緒論および次の第三部の論考「清末民初小説のふたこぶラクダ」「商務印書館と山本条太郎」「商務印書館研究はどうなっているか」「初期商務印書館をもとめて」などの論考と巧妙に対応して相乗効果をもたらすようになっている。樽本氏の研究の出発点である劉鉄雲の「老残遊記」研究から、李伯元の盗用問題、李伯元と『繍像小説』の関係へと派生し、そして『繍像小説』の発行元である商務印書館と日本の書店金港堂との合弁およびそれに纏わる人々の交流へと連関し、すべてが一本の糸で繋がっているのである。つまり、本書全編を読み終えると、個々に独立した各部の論考が実に有機的に結びつき、清末期に勃興しつつある近代ジャーナリズムの世界が深みと広がりをもち且つ説得力をもって立体的な像を結ぶ仕掛けになっているのである。したがって本書は必ず全編通読することをお勧めする。樽本氏の緻密で執念としかいいようのない探求心がもっともよく現われているのが「呉熕l『電術奇談』の原作」である。翻案小説の原作を探索することは実に難しいこと、多大な労力がかかるわりには成果は乏しい、経験があればよく解る。ゆえに原作者が解っていながらもこの論考が出るまで、何人も『電術奇談』の原作を捜し当てることができなかったのである。かなりの時間と労力をかけて氏がそれを探求されたことは、まったく驚嘆し敬服するばかりである。しかし、本論考が短文で、まるでいとも簡単に捜し当てた印象を与えるのは、氏自身が資料探索を楽しんでいることに起因するのであろう。楽しみながらの研究、というの樽本氏の姿勢も、本書を明解で興味深い読物にしていることは確かである。
 第三部は「本・出版社・その他」、15篇の論考を収録。中でも「清末民初小説のふたこぶラクダ」「引き裂かれる清末」「清末民初作家の原稿料」は、氏の着眼点のすばらしさを示した論考といえる。「清末民初小説のふたこぶラクダ」は多くのグラフを使用していて視覚的も楽しめる。ことに驚いたのは「図5 出版社の推移」、1897年に創立した商務印書館に金港堂の資本参加するのが1903年、翌年から商務印の出版点数が伸びはじめ、1914年金港堂が合弁を解消する年が商務印の出版点数の最高の年であるということ。とすると、清末民初の出版界において「ガリバー型寡占状況」(314頁)を作り上げた背景には当然金港堂との合弁があるわけで、清末小説の繁栄にも金港堂の存在は大いに影響を及ぼしたことになるわけである。この点において、金港堂と商務印初館の関係をもっと深く知りたいものだ。「引き裂かれる清末」は中国で出版された195種の文学史の中で清末小説がどのように扱われてきたかを調査分析し、中華人民共和国成立を境に清末小説は、「新文学の胎動期というよりも、古典文学の終点と位置付けられることになった」(410頁)と結論づけているは興味深い。読者の中には樽本氏自身はどう考えているのが述べられていないとの不満をもつものがいると聞いたことがあるが、本書末尾に付された『閑談』広告の「清末小説なくして五四文学は成立しない」とのキャッチコピーを見れば充分であろう。「清末民初作家の原稿料」は、瑣末な資料の収集から清末期の作家の原稿料を明らかにしている。近代ジャーナリズムの成立の重要な問題に作家と原稿料の関係がある。職業的作家の登場がなければ、それは成立し得なかったのだが、それはいままでほとんど注目を浴びなかった。それも当時の上海居住の一般世帯の家計との比較で、清末作家たちの生活感をも髣髴させる構成になっているのだから、さりげなく緒論の末尾を飾っているとはいえこの論考のもつ意味は意外と重いのかも知れない。
 以上にように、『論集』収録の緒論はそれぞれ独立した論考である。それらは今までの中国をも含める内外の清末小説研究者が成し得なかった様々な事実を掘り起こし、我々の前に提示してくれた。本書はよけいな憶測や推測や「主義」を極力排し、「原本主義」「実証主義」に徹し、それに加えて豊かな資料収集力と卓抜な着眼点と楽しみとしての研究の上に出来上がったものだ。それはこの46篇の独立した論考をみごとに有機的に連関させ、清末期に勃興しつつある近代ジャーナリズムの世界が説得力をもって立体的に我々の前に提示してくれたのである。谷沢永一氏を指して「新実証主義」と呼称するならば(宇野木洋)、樽本氏の研究はまさに中国文学研究分野の「新実証主義」と言えよう。
 ただし、それに不満をもち批判する研究家も存在する。



 樽本照雄氏の研究姿勢を第一に批判したのが、岡田英樹氏である。『野草』49(1992.2.1中国文芸研究会)末尾の樽本氏「野草漫語」によると、岡田氏は樽本氏の研究について「あんたの書くものには『主義』がない」と批判し、それに対して樽本氏は「自分の研究方法について『原本主義』などと書いたことがある。資料を捜しだしてきて、資料そのものに語らせるという方法である。〜私は、現在まで、ある特定の『主義』に縛られないように、できるだけ『主義』というものを排除しながら調査研究を進めてきた。研究においては、結論とそれにいたる過程こそが重要なのだ。問題に接近する方法は複数あり、ある特定のものに拘束される必要はない。これが私の立場である。〜☆田@樹教授のいう『主義』は、どうやら私の考えている類の『主義』ではないらしい〜☆★@&教授からご自身の信奉する『主義』について具体的な説明があるものと思う」と反論している。その後二人のやりとりは阪口直樹氏に「主義或いは問題意識論争」と名付けられて『中国文芸研究会会報』誌上で行われることになる。同報126号(同年4.30)誌上には岡田「清末小説の価値はどこにあるのでしょう――樽本照雄氏の批判にこたえる」が掲載され、樽本氏の「資料を捜しだしてきて、資料そのものに語らせるという方法」論は認めつつも、「問題は、そのさきにある。何を『語らせる』のか、つまり、何を研究し、何のために研究するか、〜それらの作家なり、作品が、清末小説のなかで、どういう意味をもつのかは示されていない」と批判、また樽本氏が清末小説を「楽しみとしての研究」であり「好きでやっている」という態度に言及し「『楽しみとしての研究』、『好きでやっている』研究というが、すでに価値の定まったものを対象とするのなら、意味があるのかもしれない(=つまり、樽本氏の研究には意味がない<中島注>)」と批難し、最後に自ら持出した「主義」について「わたしの樽本さんへの問題提起は、『主義』といわれるような高尚なものではない。樽本さんの研究姿勢、問題意識を問うているのである。わたしは以後、『問題意識論争』とよんで、再批判にこたえたい」と述べ、「高尚」な「主義」を高尚ではない「問題意識」にすり替えてしまう。
 私も岡田氏から樽本氏の「書くものには『主義』がない」という言葉を聞いたことがある。しかし、樽本氏同様やはり岡田氏の「主義」の意味するところがわからなかった。この「主義」は、まさか岡田氏が信奉する「共産主義」、あるいは日本共産党の「共産主義」ではないと思うが、かりにそうだとしたら、「共産主義」という教条主義が如何に自由な文芸研究を踏みにじってきたかは中国を例にとるまでもなく自明の理と思っているから、そんな「主義」には耳をかす必要はサラサラないと、私は考える。まさか岡田氏自身このことに気がついて「主義」から「問題意識」に論争のトーンを落としたわけではあるまいと思うが。しかし、文学研究における「問題意識」となると、これは一人一人の研究者やその研究対象によって多種多様の「問題意識」が存在するはずであるし、また一人の研究者においても時代や年齢によって変化する可能性がある。たとえば、岡田氏自身も上文の中で、過去の御自分の研究を振返り「わたしのことでいえば、葉聖陶にかかわり、柳青、胡万春を論じたこともある。しかし、それぞれのテーマにとりくんだときの問題意識は、いまふりかえると色あせてみえてくる(資料にもとづく事実の指摘は生きていても)」と述べているのである。現在からみれば、当時の「問題意識」は「色あせ」、「資料にもとづく事実の指摘」のみが残ったならば、その「資料にもとづく事実の指摘」を現時点において最大の「問題意識」として研究を進めている樽本氏に対して、批難はできないはずである。この岡田氏の論に対して、樽本「勝手に仕切り直しする岡田さんへ」(同報126号、同年4.30)、樽本「押しつけられる側の発言――または、岡田さんの研究姿勢」(同会報127号、同年5.30)との反駁が続くが、岡田氏は上文の末尾に「わたしは以後、『問題意識論争』とよんで、再批判にこたえたい」と結んではみたものの、以後再批判にはこたえず、論争は棚上げになってしまった。
 岡田・樽本論争が棚上げになった直後の同年7月、樽本著『清末小説論集』に対する瀬戸宏氏の「清末小説研究の貴重な成果」と題する書評が、東方書店のPR誌『東方』136号(同年7.5)に掲載された。その中の一節に「(『論集』が)なぜ清末文学の中で研究の対象を小説に限定したのか、ということも本書からは明らかにならない。本書では詩文、演劇、説唱芸術等他のジャンルにはほとんど言及がないし、また小説と他ジャンルとの関係や清末の文学芸術全体の中で小説の占める位置についても、本書ではまったくといっていいほど記されていないのである。〜研究が説得力をもつためには、他のジャンルにも目配りをしなければならないのではないだろうか。また他ジャンルとの比較を通して、文学(言語芸術)の位置ジャンルとしての小説の特性が一層明らかになるのではないだろうか」とある。この一節を読んで驚いた。樽本氏のこの著書のタイトルは『清末文学論集』あるいは『清末文芸論集』などというものではなく『清末小説論集』ではなかったのか。先ずタイトルで、この著書は清末の小説に「限定」した論集ですよ、ことわっているのではないか。確かに「研究が説得力をもつためには、他のジャンルにも目配りをしなければならないのではない」という論法は解るが、何故ここでそのような事を言い出すのか理解しがたい。上の瀬戸氏の言葉に御自身の著者『中国の同時代演劇』(1991.1.10好文出版)を重ね合わせて、かりに「(『中国の同時代演劇』が)なぜ文革以後の文芸の中で研究を対象を演劇(と言うよりは戯曲のではないか=中島注)に限定したのか、ということも本書からは明らかにならない。本書では詩文、音楽、説唱芸術等他のジャンルにはほとんど言及がない云々」としたらどうであろうか。「清末小説の研究はまだ始まったばかり」で、ことに「演劇、説唱」「のジャンルにはほとんど言及がない」と感じたならば、「清末民初の話劇成立史に関心をもってきた」瀬戸氏こそがまず率先してやらねばならぬことなのではないか。他人に下駄を預けるようなことは、樽本氏ならしないであろう。この書評に対して樽本氏はただちに反応を示し、『中国文芸研究会会報』129号(同年7.30)に「画期的な書評」と題した一文を発表し「ないものねだり」と反論したが、もっとなことだと思う。

(付記) 本年二月、樽本照雄氏から『清末小説』への原稿依頼があった。しばらく清末小説から遠ざかっている身としては(現在も清末小説研究は継続しているが)、すぐさま論文を仕上げる自信がなかったので、数年前に途中まで書いた『論集』書評に手を加えて発表することにしたことをお断りしておく。


(なかじま としを)