●清末小説 第20号 1997.12.1


劉鉄雲「老残遊記」と黄河(2)



樽 本 照 雄


3-5-1 父成忠の黄河治水論
 先に、「家学としての黄河治水」という言葉を使った。劉家の父から息子へ伝えられた黄河治水に関する学問という意味だ。
 劉鉄雲の父成忠は、河南での勤務が17年間にわたっており、捻軍対策*48と黄河治水に功績があった。この経験が、黄河治水に関する著書『河防芻議』を持つことにつながる。
 劉成忠『河防芻議』についての研究が現在どうなっているのか、簡単に見ておきたい。
 読むべき文献は、多くない*49。劉闡キが、『鉄雲先生年譜長編』において『河防芻議』の内容を「築堤束水、束水攻沙」および「堤不如q、q不如r」にまとめた*50。ところが、これ以上の詳しい説明は、ない。本当にこの16文字だけなのだ。16文字を示されて、ただちに劉成忠の黄河治水論全体を理解することのできる人は、多くないのではなかろうか。
 劉鉄雲研究の専著である『劉鶚小伝』においても、劉闡キとまったく同じ16文字をくりかえす*51。同書では、「劉鶚与父親劉成忠」という別の文章を設けているから、ここで具体的な解説があるかと思えば、それもない。意外な気がしないでもない。
 いずれもが、劉成忠『河防芻議』の中心思想は、「築堤束水、束水攻沙」「堤不如q、q不如r」であると要約しているだけだ。詳細な説明はない。となるとこれを受け取る側ではふたつの反応を示さざるをえない。ひとつは、オウムがえしにくりかえすこと。専門家がそういうのだから疑問をさしはさむ余地はない、というものだ。もうひとつは、せめて16文字を現代語訳してお茶を濁すくらいだ


●劉成忠『河防芻議』
ろう。
 「築堤束水、束水攻沙」とは、文字通り、堤防を築いて黄河の水を束ねる、拡散させない、その上で水勢によって沈殿する土砂を排除してしまうことを言っている。つづいて示されるのは、堤防よりはq、そのqよりrが重要であるという考えだ。つまり、rが最重要という意味になる。
 以上のように書いたところで、その内容が理解できるだろうか。はなはだ不安である。なによりも、要約されたふたつの主張には矛盾があるのだから、理解せよと言われるほうが無理なのだ。
 黄河の土砂を排除するためには、堤防を築造する必要があると述べているのにもかかわらず、堤防よりもq、qよりもrというのでは、重要なのは堤防なのかrなのか、わからなくなる。この矛盾を、研究者の誰ひとりとして指摘していないのも不思議といえばふしぎなのだ。思うに、『河防芻議』そのものが簡単に読める状況ではないのかもしれない。
 丹徒劉成忠子恕著『河防芻議』は、全23葉、半葉10行20字の線装本である。同治十三年刊*52。
 刊年の同治十三(1874)年といえば、劉鉄雲は十八歳である。鉄雲が家に伝わる学問に専念したのは二十一歳のことだった。父の『河防芻議』を読んだとすれば、時間的には充分間に合う。
 劉成忠が、その黄河治水論の冒頭に述べる従来からの洪水防止策として、四項目をかかげる。
 1q、2r、3引河、4重堤である。
 用語の説明をしておこう。qは、決壊箇所を締切るときに使用するもので、柳、竹、縄、高粱の茎などを材料にして作成される。rが、護岸、また決壊時の締切りとして利用され、引河が人工の河道であることはくりかえすまでもない。
 堤防についても説明する。黄河流域の場所にもよるが、特に下流においては堤防は一本とは限らない。本堤防を「大堤」という。本堤防の外側に小さな「縷堤」を築く場合もあるし、本流より遠く離れたところにもうけるのが「遥堤」だ。「遥堤」の外側に二重に作るのを「重堤」と称する。


●福田秀夫、横田周平著『黄河治水に関する資料』コロナ社1941.9.5。204頁

 劉成忠は、述べる。q、r、引河、重堤のなかで、重堤が最も手間がかかるが効果は最大である。引河の効果は、重堤に次ぐが、成功しない時、またはやっと完成したとしてもすぐさま廃止しなければならない心配があったため、古人は発言するのに気をつけていた。rは、重堤引河とくらべて手間を省けるしその効用は広い。流れを導いて引河と同じく岸を守るため、重堤と同じことだ。qは、変化を慌ただしいうちに統御することができて手間も省ける。ゆえに、洪水防止にqは最高だ。しかし、長持ちしない。
 劉成忠は、比喩を持ちだす。洪水防止の治水は、兵法家が都市を守備するのにたとえることができる。都市をよく守るものは、敵が都市に近づくのを待って、城壁に頼りはじめて攻撃するというようなことはしない。境界の地へ追いやり、あるいは近郊で防御し、やむをえない時に都市をめぐって守備をする。つまり、上策は、敵を遠くに追い払っておくものであって、城壁まで敵を近づけるのは下策でしかないという意味だ。
 続ける。近くを守備することは、遠くを守ることにおよばない。qは、都市をめぐっての守りである。引河は、敵を境界の地に追いやるもの。rは、郊外で防御するやりかたで、重堤の建築は、外城を捨て、内城を守ることになる。
 劉成忠は、この四点は、古人のいう洪水防止策であって、今では引河を用いず「守灘」にかえている、という。この灘を守る、というのが劉成忠の新しい主張であり、他に類を見ないものなのだ。
 灘とは、川岸にたまった土砂によって形成された場所をいう。堤防内のものを「外灘」と称している(黄河治水でいう内外は、日本とは正反対)。
 灘を守ることができれば、河床は固まり堤防は保全される。劉成忠の見るところ、堤防が切れる原因は、灘が崩れるからだ。
 結局のところ劉成忠の黄河治水策は、外灘、r、q、重堤の四つに集約できる。 『河防芻議』という書名が示す通り、劉成忠の著作は、黄河の洪水防止策に力点が置かれていることがわかる。黄河が決壊した場合の修復作業については言及がない。
 劉闡キが劉成忠の主張をまとめたという「堤不如q、q不如r」は、劉成忠の著作のどこから引用しているのか不明である。不明であるどころか、そのような主張を『河防芻議』のなかに見出すことはできないのだ。劉闡キは、なにか勘違いをしたのではなかろうか。
 もうひとつの「築堤束水、束水攻沙」は、語句そのものは『河防芻議』に見ることはできない。ただし、それをもって劉闡キの間違いとすることは早計である。明の潘季馴が最も力を入れてとなえた説であり、『河防芻議』にも潘季馴の名前は出てくる。その言葉通りの引用はないが、堤を洪水防止策の基本にすえる劉成忠だから、潘季馴の説に基本的に同意していると考えてよい。
 黄河の治水には、基本的にふたつの側面がある。
 ひとつは、洪水防止方法、ほかのひとつは決壊時の修復方法だ。洪水防止のために堤防があり、修復の方法にqrが利用される。両者の目的が異なるからには、その築造方法も違ってくる。堤防が、あくまでも洪水防止の中心である。rは、時には護岸に使われることもあるが、堤防が決壊した場合に利用されるのが本来の用途だ。
 堤防を守るための灘保守を主張し、r、qを併用しながら堤防を重ねる重堤を築造せよ、という劉成忠の主張は、黄河治水の基本から言って説得力をもつといっていい。
 ただ、ひとことつけくわえれば、鄭州を通過して東する黄河は、南流と東流の可能性を持つから、戦略としての河流を考える必要も出てくる。しかし、劉成忠は、河南に赴任して長く、そこまでは担当するつもりはなかったらしい。『河防芻議』に、黄河が東流へ変化したことを記述しているが、その年である咸豊五年を咸豊三年に間違えている。「五」の書き誤りかもしれないが、いずれにしてもそれくらいの関心しかなかったことを示しているといえるだろう。
3-5-2 『河防芻議』から呉大澂へ
 呉大澂は、鄭州において黄河決壊修復工事の陣頭指揮をとっていた。劉鉄雲は、同知の資格で工事に志願し、呉大澂に対して黄河治水策を進言した、というのが羅振玉証言以来の定説となっている。
 劉鉄雲が、具体的に何を献策したかについて言及する最近の論文は、劉成忠『河防芻議』の場合と同じくわずかに劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』と劉徳隆、朱禧、劉徳平著「劉鶚与治理黄河」のふたつしか発表されてない。後者には、劉鉄雲自身の著作『治河五策』から「設閘r以泄黄」「引清逆淤、束水以攻沙」が引用される*53。
 両文は、呉大澂の次の箇所が劉鉄雲の影響を受けたという。すなわち、「河南省黄河の患いは、治療できないのではない。病は、治療しないところにあるのだ。堤防構築にはよい策がない。qは、恒久策ではない。肝心なのはrを築造し流れを統べることにある。流れを追いつめて土砂を排除し(原文:逼溜以攻沙)、流れを中央部に入れ、河が堤防に着かなければ、堤防本体は堅固なのであって、河の病は自ずと軽いのである」*54という部分がそうなのだ、という。
 この箇所を読む限り、そのまま劉闡キ、劉徳隆、朱禧、劉徳平の意見に同意することができない。そうなのだろうか、と思う。第一、劉鉄雲が唱えるこの治水方法(上の引用文でいえば、逼溜以攻沙)は、そのもとが漢代の王景にあるというのだ。そうして、劉徳隆、朱禧、劉徳平は、文章を「老残遊記」第1回に言及される王景に話を継いでいく。これでは、せっかくの劉一族の家学であった黄河治水策と無関係とはいえないまでも、父成忠を飛び越している点で、不十分な説明であるのは明らかだろう。
 私が思うのに、呉大澂の上奏文で重要なのは、今、引用した箇所ではなく、それに続く次の部分なのだ。すなわちこうである。「役人の中で省に来て最も長い者一同が言うには、咸豊初年、栄沢は増水期になおレンガ、石のrが二十余もあった。堤防の外は、みな灘で、河の流れは堤防からとても遠くにある。rqで危険を防止し、堤防の根元のqについての工事は、ずいぶんと少なかった。古いrの修理を怠り、数年にもならないうちにほとんどが廃棄され、それから河の水勢が、ますます追いつめられて(堤防に)近づき、qは、ますます多くなった」*55
 呉大澂の報告は、灘とそれを守るrの重要性を指摘するものだ。rによって灘を守れば、堤防から河の流れを遠ざけることができる。そうすれば、洪水防止の基本である堤防を守ることが可能だという判断である。
 呉大澂の治水策のほかならぬこの部分にこそ、劉鉄雲ならではの献策が見えている。
 劉鉄雲が呉大澂に進言した時、拠った文献としては、やはり父成忠の『河防芻議』を第一に推す方が必然性があることを、再度、強調しておきたい。後の著作となる鉄雲自身の『治河五説』は、時間の順序からして二の次にするのがいいだろう。『河防芻議』に具体例があると考えるほうが合理的だ、と私は思う。
 『河防芻議』を源とし、劉鉄雲を経由して呉大澂へ流れ込んだ黄河治水策の例として、私は、つぎの二点を指摘したい。引河、挑水rおよび灘である。
 1.引河、挑水rの併用
 呉大澂によって定められた鄭州工事の方針は、挑水rで西rを保護しながら、引河に本流を導き、その間に決壊部分を繋げる、というものであった。rと引河の考えこそ、その水源は劉成忠『河防芻議』にある。本来は堤防保守のためのrと引河であった。劉鉄雲が才知を働かせたとするならば、保守の方法であるrと引河を用途によって使い分け、両者を併用するというように、修復工事に応用した点であろう。
 2.灘の保護
 灘を堤防保守の基本に据えることこそ、劉成忠の創見であった。上に紹介した呉大澂の文章にそれがうかがわれる。そればかりか、より明白に述べた文章がある。「老灘(注:浸水の害をこうむらない灘)は土が固く、流れに遇うと日増しにくずれてくる。これがくずれて堤防もまた次第に崩壊する。今、私はrを築くことによりこの老灘を維持する。この灘があれば、堤防は孤立することがない。堤防を守るためには、灘を守るのにこしたことはない」*56。今、孫引きで示したが、これこそ劉成忠の主張をそのまま反映しているといえる。
 番外の一点として、同類の文章表現があることもつけくわえよう。
 番外.兵法家の比喩
 先に、劉成忠が、洪水防止の治水について、兵法家が都市を守備するのにたとえたことを見てきた。呉大澂の上奏文には、まさに兵法家が出現する。「敵を防ぐのに、戦うことができて、その後に守ることができる、というような兵法家がいるとは知らない。私は、治水工事においても戦いをもって守りとするという説を創立する」*57。
 「戦いをもって守りとする(原文:以戦為守)」という部分は、「守りをもって戦いとする(以守為戦)」と表現を入れ替えてもいい。黄河決壊を目前にして修復工事に力を入れるのは当然である。これが「戦い」だ。しかし、日常的に堤防の保守に精力を注ぎ込んでおくこと(守り)が、「戦い」に匹敵する。まさに、劉成忠の『河防芻議』そのままの論調ということができる。
 さて、次の疑問は、劉鉄雲自身が、修復工事に泥まみれになって従事した理由である。なぜ、劉鉄雲は、そのような行動をとったのか。さぐってみよう。
3-5-3 なぜ工夫にまじって作業をしたか
 劉鉄雲は、河南省にかけつけると、同僚たちが恐れ憚りできないことを、ひとり、工夫に混じって率先してやりとげた、という有名な話である。
 羅振玉が言いはじめて、劉大紳が追随し、その後はどの論文でも引用紹介される。
 劉鉄雲が、実際に工夫たちと修復作業に従事したことを、私は疑っているわけではない。親友であり、親戚でもある羅振玉の証言である。事実であろう。だが、劉鉄雲がなぜそのような行動をとったのかの説明が、どこにもなされていないのを不可解に思うのだ。
 それが劉鉄雲の性格である、といわれれば、それはそれで納得する。
 後年の鉄道敷設の建議、山西鉱山開発、北京難民救済活動などなど、数多くの事業、活動は、思い立つとすぐさま行動に移さずにはいられない性分であった劉鉄雲を示している。この鄭州での修復工事もそのうちのひとつかも知れない。黄河が決壊し、長期間にわたり修復ができないでいるのを見かねての行動だ。その大本に太谷学派の思想があることも理解できる。
 ただし、これらの説明は、いずれも劉鉄雲が鄭州工事に参加する理由として充分であるにしても、土木工事そのものに自らの身体を投入する理由としては不十分である。当時の知識人の常識として、修復工事の立案はするにしても、その工事現場に自らが参加することは考えられないからだ。
 羅振玉証言のなかで、私の問いへの回答を示唆しているのが、「君は、心高ぶらせて自分を試してみたいと同知として呉恒軒中丞のもとに志願した(原文:君慨然欲有以自試以同知往投効於呉恒軒中丞)」という箇所である。
 「自分を試す」ために鄭州へ赴いたというのだ。劉鉄雲は、父に従い河南の黄河治水を体験していたとはいえ、見聞の段階に留っていたのではないか。父成忠『河防芻議』を含む治水論関係の書籍を学んだのち、その知識を実地の修復工事にあてはめて試してみたくなった、と考えればひとつの回答となりうる。
 工事の実際を体験することが、劉鉄雲の参加目的であった。qの作成を自分でやってみる、rの築造がどうなされるのか、自分で土を打ち固める作業に加わったかもしれない。決壊部分を修復するためのrと、それを急流から保護するrの建設と、掘削すべき引河の関係を観察するには、自分が現場で働くのが一番理解しやすいに違いない。
 劉鉄雲は、「挑水r」と「引河」の併用を修復工事の具体策として進言した人物として、責任を感じていたかもしれない。これが、私の考える劉鉄雲の工事現場参加の理由のひとつだ。
 さらにいえば、劉鉄雲は、西洋機器についての関連技術に関心があったのではないかとも想像する。
 この鄭州工事には、李鴻藻によって西洋の機器が導入されていた。鉄道による土砂運搬車百輌、夜間作業のための電燈、資材運搬用の小型汽船2隻である。さらに、呉大澂は、これも西洋の新技術であるセメントの使用を決断していた。これら西洋機器、技術の導入は、それ以前の治水工事には見られないものである。劉鉄雲が興味のあまり、実際の操作と取り扱いにまで自らの手を下したと考えられないだろうか。運搬車、電燈、汽船の操作、セメントの使用の仕方、細かいところまで自分でやらねば気がすまない、劉鉄雲はそういう人物だと想像するのは可能だと感じる。
 劉鉄雲の父、兄ともに西洋の文化技術に興味を示していたという事実がある。
 父成忠は、歯車を使用した西洋水車に興味を示し実際に作成させ、その説明文を残している*58し、兄劉渭清はフランス語を宣教師に習った経験を持つ*59のだ。そういう家庭の環境が、劉鉄雲に好奇心をうえつけ、実際行動にかりたてたのではないか、というのが理由のふたつである。
 次は、劉鉄雲の功績表彰辞退について検討することにしよう。
3-5-4 功績表彰辞退の謎
 鄭州工事がようやく成功し、喜んだ呉大澂は、功績のあった人々にそれ相応の賞を授与するように申請した。すると劉鉄雲は、その功を兄劉渭清に譲ったというのだ。これまた有名な事柄である。
 劉鉄雲と親しかった羅振玉の証言である。疑問をさしはさむ余地はないように見える。だから、羅振玉証言に疑問を提出する研究者は、存在していない。羅振玉の言葉をくりかえし引用しているだけである。
 謎は、ふたつある。ひとつは、劉鉄雲は、なぜ表彰を辞退したか、だ。従来、納得のいく説明がなされていない。もうひとつは、功績を兄劉渭清に譲ったというのは、はたして事実だろうか。より深い疑問が生じる。
 表彰辞退について、それが事実だとすれば、私が思うに、劉鉄雲の鄭州工事志願の目的が重要なのだ。
 前出、羅振玉の言葉、「君は、心高ぶらせて自分を試してみたいと同知として呉恒軒中丞のもとに志願した」をもう一度、見てほしい。「自分を試してみたい」というのが鄭州工事志願の目的だった。この証言からすると、工事で功績をあげて官位を獲得しようという考えは、劉鉄雲には、もともとなかったと考えられる。
 劉鉄雲にしてみれば、官職を求めての志願ではなく、自分自身を試すためのものであった以上、功績表彰を辞退することは、当然のことだと理解できよう。
 ところが、功績を譲られた兄劉渭清についての記述を追ってみると、この事実そのものが揺らいでくるように思われる。
 よく考えてみれば、このことを証明する事実が示されていないことに気がつく。たとえば、兄劉渭清はこれこれの官位を贈られた、という記述を見たことがない。
 そもそも劉渭清*60が、なにをして生涯をすごしたのか、詳細が不明である。劉家の家長として淮安で生涯を終えた、と思われるのだが、劉渭清に焦点を当てた文章は書かれていない。だから劉鉄雲との関係がどういうものであったのか、これも明らかではない。
 劉鉄雲が功績を兄に譲った、という部分だけを見ると、兄劉渭清が、突然、出現してきて奇異な感じをいだかざるをえない。黄河の修復工事に尽力したのは、劉鉄雲でありながら、どこか関係のない場所にいた劉渭清が引っ張りだされてきたような印象を受けるのである。功績を譲る、というのならば、普通に考えて、劉渭清も劉鉄雲と一緒に工事に参加していた可能性もあるのではないか。しかし、羅振玉たちは、そのことにひとことも言及してはいない。
 劉渭清について、証言がはなはだしく不足しているうえに、錯誤した箇所もある。
 たとえば、劉厚沢は、次のように述べる。
 1884年、劉鉄雲の父成忠が病没した。劉鉄雲が、生産に従事して妻子を養う必要はなかったが、「しかし、過去において一貫して家庭に喜ばれず、また、厳しい長兄が家を切り盛りしている状況のもとでは、弟ひとり始終だらしなく生活していくことを許さなかった」*61と。劉一族には、そう伝えられていたのだろうか。劉厚沢の文章からすると、読みようによっては兄夢熊と弟鉄雲の仲は悪かったようにも受け取れる。が、それは正しいのだろうか。厳格な兄に、弟の劉鉄雲が黄河治水の功績を譲った、ということになる。「厳格(原文:厳峻)」な兄であれば、自分の関係しなかった事業に対する表彰など拒否しそうなものだが、いかがか。
 劉厚沢の文章からは、いくつかの疑問が出てくる。ただし、これは劉厚沢の勘違いではないか、と思うのは、劉大紳の証言が一方で存在しているからだ。
 劉鉄雲は幼い頃、記憶力が優れていたが、ただ受験勉強が嫌いで、性格が気ままのうえ決まりを守らなかった、と劉大紳は述べた後、以下のように書いている。「亡き祖母は、家事を治めるのに厳粛で、それ(注:劉鉄雲の行状、性格)をまったく喜ばなかった。亡き伯父(注:夢熊)も、性格が亡父(注:鉄雲)とは異なり、善を求めるのにはなはだ急であった。亡祖父(注:成忠)は退官帰郷したのち、老衰でほどなく亡くなる。伯父は家を切り盛りして、亡父が生産に従事しないのをしきりに気にしていたのだ。亡父は、そこで祖母に請い淮安の南市橋のところに店をかまえ関東タバコを売ったのである」*62
 劉大紳が描く兄劉渭清は、弟鉄雲を思いやる温厚な人物として出現している。
 劉鉄雲の功績表彰辞退を考えるには、関係者の証言では充分ではないことが上の例からも理解できよう。
 では、どういう資料があるというのか。新資料でとっておき、というものは、残念ながら、今のところ存在しない。いくつかの証言と印刷物から劉鉄雲と劉渭清の官位を拾いだし、考えることにする。
3-5-5 劉鉄雲と劉渭清の官職品級

 劉鉄雲と劉渭清の官職品級一覧*63

劉鉄雲 劉渭清
1888 同知 正五品 観察(道員) 正四品
1890 提調
1894 候選同知
1895 知府 従四品
1896 太守(知府) 従四品
1897 候選知府
1898 太守(知府) 従四品 直刺(直隷知州)正五品

 1876年、劉鉄雲は二十歳のとき、南京で郷試を受験し落第した。その後、1880年二十四歳で太谷学派の李竜川の門下に入る。
 父成忠が死去したのは、劉鉄雲二十八歳のとき、1884年だった。タバコ店を営んだのが、実業に身を置く最初となる。
 1886年、劉鉄雲は、南京での郷試をふたたび受験するが、途中で棄権した。三十歳で正規の受験をやめたのだ。つまり、劉鉄雲は、資格としては秀才どまりということがわかる。
 劉鉄雲は、それからは実業に本格的に乗り出す。1887年に上海で石倉書局(石昌ママ書局ではない)*64という石印の印刷所を経営し失敗したのが、鄭州工事に志願する数ヵ月前だ。
 1888年、「同知として呉恒軒中丞のもとに志願した」という羅振玉の文章に、劉鉄雲の官職が出てくる。同知とは、知府の補助官をいい、これは金銭で購入したものである。品級は、正五品。ただし、劉鉄雲が、いつ同知を得たかは不明である。1888年としたのは、同年には同知であったという羅振玉証言によった。
 呉大澂が、鄭州工事を成功させ、「河督は、特に道員で任用するよう推薦したが、長兄夢熊に譲った」*65と劉闡キはいう。
 劉闡キが、「道員」と書いているところに注目されたい。道員は、省以下、府州以上の行政長官をいう。品級は、正四品。
 もうひとつ、羅振玉は、「その兄渭清(夢熊)観察に譲り」*66とする。「観察」は、道員の尊称だ。
 品級をてがかりにすると、このふたつの文章は、劉渭清について明らかに矛盾が生じることに気がつく。劉鉄雲の同知は正五品だから、それが推薦されて道員になるとすれば正四品に昇格する。ここには、矛盾はない。しかし、譲られた兄劉渭清の方は、どうか。すでに観察(道員)であるにもかかわらず、同じ道員を譲られてもしかたないではないか。
 問題は、劉渭清が観察となったのは、いつのことなのか明らかでないことにある。
 この原稿を書くにあたり、今回あらためて劉渭清に注目してみた。しかし、諸資料には、言及されることがきわめて少ない。*67
 劉渭清の、まず、生年がわからない。名は夢熊、字は渭卿。後に孟熊、字は渭清、味青など*68がある。
 劉家は淮安での名家であり、劉渭清のもとに羅振玉がよく本を借りにきていた*69。
 劉鉄雲が淮安でタバコ店を開いたとき、呉服店も始め、布の品質がよく人気があったらしい。この呉服店は、劉渭清、鉄雲兄弟の経営だという証言がある*70。
 宣教師にフランス語を習ったことがあると伝えられている。
 淮安で西学書院が開設されたとき、算学と外交を教えるよう招かれたことがあった*71。
 劉渭清には5人の息子がいる。大金庸、大臨、大章、大猷、大鈞である。1875年、第3子大章が生まれると、劉鉄雲はそれを跡継ぎにむかえた*72。
 前3人は、芬≠フ子供であり、後2人は、継室朱氏との間の子だ*73。
 1884年、弟鉄雲が仕事をするのを喜んだ兄は、タバコ店を経営するのに人をやって補佐させる*74。
 同年四月、劉渭清と劉鉄雲は、李光に率いられ、陳士毅、黄葆年、謝逢源たちと上海に遊んでいる。太谷学派グループである*75。
 劉渭清の曽孫である劉嫻氏のお手紙によると、劉渭清が太谷学派に加入していたかどうかは、不明であるとのことだ*76。
 そうして、今、問題にしている、1888年、鄭州の工事が成功し、呉大澂が表彰しようとすると兄に功績をゆずった、ということになる。
 劉鉄雲「乙巳日記」三月によって、1905年、劉渭清が上海の昌寿里に住んでいることがわかる。兄は、病のため1905年4月22日(光緒三十一年三月十八日)に


●劉渭清の題字と署名。『農学報』第58期光緒二十五年(1899)正月上
死去したと記録される*77。
 劉渭清には、日記「閲歴瑣記」があるという*78
 劉渭清についてわかっているといえば、以上のことくらいだ。
 私が新しくつけ加えることは、下の2点にすぎない。
 『時務報』第52冊(光緒二十四年二月初一日<1898.2.21>)掲載、不纏足会の寄付者のなかに、「劉渭清直刺助洋二十元」とある(中華書局影印3591頁)。自己申告であるから確かな資料だということができる。
 『農学報』第58期(光緒二十五年正月上<1899.2>)に劉渭清の筆による題字と署名がある。
 「直刺」は、直隷知州の別称で、正五品である。十年前には、観察(道員)で正四品であったものが、なぜ、降格して正五品なのか、不思議だ。大きな矛盾であるといわざるをえない。
 兄劉渭清との関係上、ここで劉鉄雲のそれ以後の官職をまとめておきたい。
 1890年 提調――福潤の再度の推薦状に見える。山東巡撫張曜により、黄河下遊提調官に任命されたという。提調は、事務処理をおこなう。張曜の頭脳集団に属した。
 1894年 候選同知――これも福潤の再度の推薦状に見える。ただし、これが掲載されている『歴代黄河変遷図考』は「光緒癸巳仲冬袖海山房石印」とある。1893年だ。
 「候選」とは、任用されるのを待っているという意味。
 1895年 知府――羅振玉が、「(山東巡撫)福潤がすぐれた才能を推薦し、北京で受験し知府に用いられた」*79と書く。
 1896年十月 太守――羅振玉から汪康年にあてた手紙に見える*80。
 1897年7月 候選知府――『農学報』第5冊(光緒二十三年六月上<1897.7>)の「農会続題名」に見える*81。
 候選知府は、資格が知府であるというのはすでに触れた。
 1898年 太守――『時務報』第52冊(光緒二十四年二月初一日)の不纏足会寄付者のなかに「劉鉄雲太守助洋十元」と見える(中華書局影印3591頁)。
 劉鉄雲の官職品級については、正五品から従四品へと昇格しており、不明な箇所はない。納得できる。ところが、功績を譲られたといわれる兄劉渭清については、そこには道員から道員という基本的な不合理があり、さらに十年後にいたって正四品から正五品に降格している。これは、理解しがたい。
 もうひとつ資料があるので紹介しておこう。
3-5-6 姚松雲の劉鉄雲あて手紙
 劉鉄雲には、生涯の友人がふたりいた。姚松雲が第一、馬眉叔(建忠)が第二であった、と劉鉄雲自身がその辛丑日記四月十四日に記している*82
 そのためか劉鉄雲は、姚松雲を黄河がらみで自分の小説に登場させる。すなわち、「老残遊記」第3回および第19回にでてくる姚雲あるいは姚雲松である。姚松雲の「松」を取り姚雲とするのは普通に見られる省略法だし、松雲を転倒させるのも虚構化にともなう処置であろう(ただし、第二の親友馬建忠は小説に姿をあらわさない)。
 この姚松雲から劉鉄雲にあてた手紙が1通残っている。
 劉闡キの説明によると、保存されていた劉鉄雲の黄河関係上申書原稿9種のなかに混ざっていたらしい*83。
 上申書原稿9種が1889年に書かれたとするならば、同梱されていた姚松雲の劉鉄雲あて手紙もほぼ同時期のものと推測されよう。さらに、表彰による官職についての内容だから、時期的にみても一致するのだ。
 宛名は雲摶。劉鉄雲の字である。署名はd雲またはdらしい*84。
 姚松雲は、劉鉄雲と済南で再会したが、話があまりできなかった。そのために書いた手紙である。
 劉鉄雲の功績を讃えたあと、次のように述べる。

 兄上謂ママ翁は、免選にて同知となることをもともと願っている、との部の意見ですが、これは昇進の道ではありません。小生が思うに昇進のためには知州ではないかと。いかがでしょうか*85。

 兄上謂ママ翁は、渭翁の誤植であろう。言うまでもなく、劉渭清を指す。「免選」というのは、選考を経ずして、直接、吏部(文官の任免、賞罰を統括)から任命を受けることをいう。ここでいう「部」は、吏部をさす。
 手紙そのものが短く、前後の事情を説明する部分もない。当事者だけにわかるように書いてある。この手紙は、第三者に見せるものでもないから、当たり前のことだ。
 兄上劉渭清が同知になることを希望しているが、これは昇進の道ではなく、のぼるべきは知州からではないかと思うのだ、という。
 定まった順序を守らないで同知(正五品)になるよりも、後々の昇進を考えた場合、知州(従五品)から始める方がいいのではないか、という姚松雲の意見である。なぜ姚松雲がそう考えるかの説明は、上の文面にはのべられていない。
 劉鉄雲とその兄の官職について相談するくらい、姚松雲は、劉鉄雲と親しかった間柄であったということだろう。
 姚松雲の手紙が、鄭州工事による表彰に関するものであるならば、また、そうとしか思えないが、今まで見てきた羅振玉証言は、その重要部分が根本からくつがえる。劉渭清は、羅振玉がいう観察(道員。正四品)どころか、当時、知州にもなっていなかった。これは劉渭清が無官であったことを意味する。
 劉鉄雲は、その時、すでに同知であったというから、その関係で言えば、弟の官職からの釣り合いを考慮して、少なくとも同等の同知を劉渭清は希望していたということになろう。
 のちの1898年、劉渭清の官職は、直刺(直隷知州。正五品)である。伝聞とは異なり、こちらは印刷物であるから、資料としての信頼性が高い。これを基準に考えるべきだ。1889年時点では、劉渭清は、姚松雲の勧め通りに知州(従五品)を選択し、のち昇進したとするのが合理的である。つまり、羅振玉が、劉渭清を観察とよんでいるのが誤りだということになる。
 短い手紙である。しかし、羅振玉証言について、もうひとつの疑問を生じさせるに充分な文面だといえる。
 つまり、鄭州の工事現場にいたともわからない劉渭清が、なぜ表彰に絡んでくるのか。劉渭清が弟鉄雲と同じく鄭州工事に参加した、などという関係者の証言は、ない。その劉渭清が、治水工事に貢献したとして表彰のうえ官職を得るなどとは、どう考えても不自然だ。
 この疑問を羅振玉も抱いたのではなかろうか。理由を説明するために劉鉄雲の兄渭清に対する功績委譲を言いだしたように思う。
 そもそも、表彰される側が知州だ、同知だ、と選択する自由があったのか。こちらの方がよほど疑問であろう。普通に考えて、治水工事に功績があったことを認め、知州に任ずる、などと本人に対して通知があるのではないか。選ぶ余地があったということは、上から授与された官職ではないということだろう。
 そう考えるもうひとつの手掛かりがある。姚松雲の劉鉄雲あて手紙のなかに、「免選」という言葉がある。選考を経ないで官職を手にできるのは、変則規定によるしかない。
 劉鉄雲にあてた姚松雲の手紙を読めば、劉鉄雲が兄に功績を譲ることに関して何も言及していないことがわかる。劉渭清の官職についてのみを話題にしている。なぜか。
 解答の可能性は、ひとつだ。鄭州工事における劉鉄雲の表彰辞退と劉渭清の官職獲得とは、直接の関係はなかった、ということである。
 それでは、劉渭清の官職は、何によって得られたものか。工事現場で汗を流さないのであれば、金を出す「捐納」しか考えられない。
 金銭を納めると官位を与えられる規則があった。捐納、捐輸などと呼ばれる。もともとは、軍事費調達のため、あるいは黄河決壊の修復費用、災害救援費などを集めるため、臨時に設けられたものだ。のちに恒常化する。
 鄭州の黄河修復工事にも、当然、募集があった。鄭工捐例(事例)である*86。
 希望の官職を得るための金額は、その時の身分により異なっていた。京官と外官、また、その時代によっても幅がある。基本を言うと簡単なのだが、高望みすれば、それだけ金額がかさむということだ。資料によると、この鄭工捐例では、貢監生から知州は、銀2,602.8両、同知は銀2,948.4両となっている*87
 劉渭清も、「捐納」だからこそ知州にしようか、同知がいいか、と選択できた。
 資料と証言をつきあわせると、以下のような話に落ち着く。
 すなわち、鄭州工事成功後、もともと官職を得ることを目的としていなかった劉鉄雲は、表彰される権利を放棄する。一方、それまで無官であった劉渭清は、鄭州治水に献金をしたことにより知州の官職を得た。これが事実に近いのではないか*88。

3-6 呉大澂に対する評価
 呉大澂は、金石文字の研究で著名でありすぎ、その黄河治水については、劉鉄雲研究家の評価があまり高くない。もっとも研究者全員というわけではなく、また、治水に無知だとの定評が最初からあったわけでもない。前出のとおり羅振玉は、「光緒戊子(1888)、黄河が鄭州で決壊した。君は、心高ぶらせて自分を試してみたいと同知として呉恒軒中丞のもとに志願した」と簡潔に述べているだけだ。これにもとづいた劉大紳も、「光緒十四(1888)年、河南におもむき呉清卿中丞に謁見して黄河治水工事に参加した」と事実のみを記述している。両者ともに呉大澂についての価値判断を含まない。
 ところが、劉闡キあたりから、呉大澂が黄河治水の専門家ではないこと、治水について何も知らないところから、劉鉄雲の建議をすべて受け入れ上奏した*89、といいはじめた。劉徳隆、朱禧、劉徳平も、呉大澂本人は水利のことがわからなかった、劉鉄雲の影響を受けた可能性があるなどと、同じようなことを述べている*90。
 劉鉄雲が鉄道敷設と外国技術導入を主張していたところから、鄭州修復工事にセメント使用などの外国技術を提案した本人である可能性が高いと書く研究者もいる*91。
 だが、事実を見れば、劉鉄雲の鄭州工事参加は呉大澂着任以後であるから、李鴻藻時代の土砂運搬車、電燈、小型汽船などの使用提案とは無関係であることがわかろう。さらに、劉鉄雲の鉄道敷設、山西鉱山開発などの建議は、鄭州工事よりも八、九年後のことなのだ。西洋技術導入の功績を劉鉄雲ひとりに帰することは、むつかしいように思う。
 文官である呉大澂に限らず、黄河治水責任者であろうとも、治水に関して誰でもがはじめは素人であった。素人だと自分で認めているからこそ、それぞれの専門家を集めて頭脳集団を組織している。劉鉄雲が呉大澂に認められたのも、鉄雲の治水に関する専門知識のために違いない。劉鉄雲が治水についての建議をするのは当然である。また、劉鉄雲がその父劉成忠の『河防芻議』にもとづいて、さらに自らの創見をつけくわえて進言した事実があることは、すでに述べた通りだ。しかし、決壊修復の功績は、責任者であり、同時に劉鉄雲の雇主である呉大澂が受けるのが、これまた当たり前のことでなかろうか。
 さらに、治水工事成功にたいする賞賛が呉大澂ひとりに集中したわけでもない。検討してきた劉鉄雲の表彰にしても、工事全体の成功による報奨のひとつであった。多数の人員が、それぞれの働きによって論功行賞が行なわれたのはいうまでもない。
 劉闡キ、劉徳隆、朱禧、劉徳平たちが劉鉄雲の後裔であるのは、研究とは無関係ではある。ただし、この部分に関してのみは、鉄雲の才識を顕彰することに急でありすぎるように思うのだ。
 さて、鄭州での黄河決壊箇所は修復された。これが後年の災いの原因となろうとは、劉鉄雲自身、知るはずがなかった。

【注】
48)劉厚沢編「捻軍資料零拾」『近代史資料』1958年第6期(総23号)1958.12。1-38頁。
49)本稿を書いたのちに、森川登美江「劉鶚の治河論について」(『九州中国学会報』第35巻1997.5)の抜き刷りをいただいた。劉成忠『河防芻議』の内容が略述されている。
50)劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』10頁
51)劉徳隆、朱禧、劉徳平『劉鶚小伝』5頁
52)京都大学人文科学研究所所蔵本の写真複写を私は見ている。人文研漢籍目録(1428頁)には「同治十三年刊本」と記されているが、複写本そのものにはそれらしいものがない。よくよくながめると、扉の影らしいものがうつっており、もしかするとここに刊年が書かれているのかもしれない。私の手元の複写本には、欠落頁があることになる。1996年8月現在、人文研は約1年間の休館に入っており、原物で確認できていない。1997年7月、いまだに休館中で確認ができない。
53)劉徳隆、朱禧、劉徳平『劉鶚小伝』6頁
54)光緒十四年十月二十一日の上奏文。朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2518頁
55)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2518頁。
56)張含英編纂『黄河志』第3篇水文工程 上海・商務印書館1936.11。339頁。57)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2519頁
58)劉成忠「記竜尾車遅速」『劉鶚及老残遊記資料』339-341頁。劉徳隆、朱禧、劉徳平『劉鶚小伝』72頁
59)劉徳隆、朱禧、劉徳平『劉鶚小伝』73頁
60)名は夢熊。孟熊と表記されることが多い。劉徳馨「我的回憶」(劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』344頁)に「夢熊」とあり、また劉鉄雲も同様に夢鵬としている。家の位牌にそう書いてあった、と劉徳馨はいう。
61)劉厚沢「劉鶚与《老残遊記》」劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』7頁
62)劉大紳「関於老残遊記」魏紹昌編『老残遊記資料』85頁
63)品級については、山腰敏寛編『清末民初文書解読辞典』(汲古書院1989.1)、呂宗力主編『中国歴代官制大辞典』(北京出版社1994.1)、賀旭志『中国歴代職官辞典』(長春・吉林文史出版社1991.10)などを参照した。
64)郭長海「劉鉄雲雑俎」『清末小説』第14号1991.12.1参照のこと。なお、この論文は日本語に翻訳されている。森川登美江訳「劉鉄雲雑俎」『大分大学経済論集』第44巻第4-6合併号 1993.2。
65)劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』24頁
66)羅振玉「五十日夢痕録」24オ
67)劉渭清については、劉徳隆氏から1996年9月14日付来信により、ご教示を得た。それにより、私は、劉渭清の遺族ふたりに問い合せの手紙をさしあげる。劉嫻氏の1996年11月11日付来信があった。
68)劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』4-5頁
69)羅振玉「集蓼編」『貞松老人遺稿甲集』北京排印本 康徳8。影印本705頁。
70)劉嫻氏の1996年11月11日付来信
71)羅継祖『庭聞憶略』吉林文史出版社1987.9。未見。大川俊隆「上海時代の羅振玉――『農学報』を中心として――」『国際都市上海』大阪産業大学産業研究所1995.9.30。201頁。
72)蒋逸雪「劉鉄雲年譜」140頁。劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』9頁。
73)劉嫻氏の1996年11月11日付来信
74)劉大紳「関於老残遊記」85頁。蒋逸雪「劉鉄雲年譜」144頁。劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』14頁。
75)謝逢源『竜川夫子年譜』40ウ
76)劉嫻氏の1996年11月11日付来信
77)『劉鶚及老残遊記資料』227頁
78)劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』11頁
79)羅振玉「五十日夢痕録」25オ。総理衙門で受験。劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』33-34頁。蒋逸雪は、1893年とする。蒋逸雪「劉鉄雲年譜」152頁。
80)『汪康年師友書札』3 上海古籍出版社1987.5。3152頁。1896年「10」月の手紙とするのは、大川俊隆「上海時代の羅振玉――『農学報』を中心として――」(203-204頁)で、今、これに拠る。太守は、知府の別称である。
81)大川論文229頁に「劉鶚五冊」とある。数年前、張純氏から送られて来た複写に、「劉鶚字鉄雲江蘇丹徒人候選知府」と記されているのに拠る。
82)劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』61頁
83)劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』175頁
84)劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』162頁では、「d雲」と書かれている。しかし、劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』116頁では、単に「d」とだけ示してあり、手紙そのものは収録されていない。ゆえに、手紙の内容は、劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』で見るよりほかない。ついでながら、『劉鶚及老残遊記資料』116頁に「d」を説明して「姚雲松ではないか」とするのは、姚松雲の誤りだろう。
85)劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』162頁
86)許大齡『清代捐納制度』哈仏燕京学社1950.6 燕京学報専号之二十二。65-67頁。
87)許大齡『清代捐納制度』「歴届捐例貢監生捐納官職銀数表(二)外官」
88)参考:『続丹徒県志』の劉成忠の項目に、「長子夢熊、候選直隷州知府、工書、精算術。次子鶚直隷候補道、亦通天算、医術、金石考訂諸書」とある(『劉鶚及老残遊記資料』319頁)。「候選」は、着任待ちをいう。「候補道」は、買官のなかで最高級のもの。今、『続丹徒県志』の発行年が不明なのでここに記すだけにする。
89)劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』24頁
90)劉徳隆、朱禧、劉徳平『劉鶚小伝』6頁
91)厳薇青「劉鶚生平事跡資料二題」『山東師大学報(社会科学版)』1995年第5期 1995。93頁。



(たるもと てるお)