李 伯 元 研 究 の 広 が り と 深 化
――王学鈞編『李伯元全集』第5巻の特色


沢 本 郁 馬


 中国において、清末小説関係の大型出版がつづいている。董文成、李勤学主編『中国近代珍稀本小説』全20冊(瀋陽・春風文芸出版社1997.10)という大型叢書が出版された。海風主編『呉〓人全集』*1全10巻(哈爾濱・北方文芸出版社1998.2)が出たと思ったら、薛正興主編『李伯元全集』全5巻(南京・江蘇古籍出版社1997.12。入手したのは1998年6月下旬)が発行されるというぐあいだ。
 関係書籍の出版は、研究の進展に結びつくものだと私は考えている。うれしい。
 李伯元の作品は、単独で出版されるもの、叢書に収録されるものなど形をかえてくりかえし出版されてきた。だが、作品が全集にまとめられたのは、今回が始めてである。1906年の李伯元死去から数えて91年目の快挙だ。魏紹昌編『李伯元研究資料』(上海古籍出版社1980.12)からでも20年が経過しようとしている。関係者の努力に賛辞を贈りたい。
 第1巻冒頭に薛正興「前言」が、掲げられている。李伯元の生涯を紹介し全集収録作品について解説する。
 たとえば、「海天鴻雪記」は、李伯元の作品ではないという説が提出されていることに触れる。本全集は、疑問のある作品も収録するのが編集方針だとの説明がある。そういう方針ならば、異論はない。
 ただ、薛正興の文章は、簡単で一般的な解説だと私は思う。なぜなら、李伯元の誕生日を1867年6月1日としたり(1頁)、路工の論文を引いて『游戯報』に見える周樹人を魯迅だと決めつけている(10頁)からだ。同全集第5巻に収録された王学鈞の詳細な考証を見れば、薛正興の文章が、今までさんざん言われてきた通説のくりかえしでしかないことがわかる。
 はじめに、全般的な問題点を書いておく。
 収録作品についての一般的説明は、通説のままでもかまわない。ただし、収録作品の底本について、一言も説明していないのはなぜか。「前言」で紹介しているのは、各種版本であって底本について言っているわけではない。せっかくの全集なのだ。それぞれの作品には校点を施した研究者の名前まで明らかにしているのに、底本に言及しないのは不充分である。理解に苦しむ。説明するまでもなく、資料の信頼性にかかわる問題だからだ。全集ですから李伯元の作品が集めてあります、ただし、その出所は不明です、というのでは研究の基礎資料として使用できないことを言っておきたい。研究には厳密さが要求されていることは、いうまでもない。
 もうひとつ、ものたりないのは、李伯元の肖像なり、著作の書影なり、書簡の影印なりが収録されていないことだ。『呉〓人全集』でも同様だったが、全集というのだから、それにふさわしいページが設けられてもよかった。
 それでは、この『李伯元全集』には、評価すべき点はないのかといえば、そんなことはない。
 王学鈞が編集した第5巻について述べたいと思う。

1 王学鈞編『李伯元全集』第5巻

 第5巻は、説明(7頁)、李伯元詩文集(161頁)、李伯元年譜(236頁)、李伯元研究資料篇目索引(47頁)によって構成されている。
 結論をいえば、該巻の特徴は、つぎの二点だ。
  1.研究が広がっている
  2.研究が深化している
 ふたつは、たがいに関係する。広がりが深化につながり、その逆もまた可能となる。それぞれについて見ていこう。

2 広がり

 1の「研究が広がっている」を言い換えれば、資料の収集範囲が広い、ということだ。
 李伯元の詩文集といえば、『南亭四話』『南亭筆記』以外では、魏紹昌編『李伯元研究資料』(上海古籍出版社1980.12)に収録された「詩歌選刊」「諧文選刊」しかなかった。
 魏紹昌編「詩歌選刊」には、4種が収められる。王学鈞編「詩集」では、この4種に加えて14種(これには諧文からの4種を含む)および附録に関連する12種、全部で30種となる。
 李伯元の詩が、どこかにまとめられていたというわけではない。王学鈞は、鄭逸梅の著作から、日本『清末小説』掲載の中村忠行論文から、また入谷仙介論文から、『繍像小説』から、魏紹昌編の資料から、という具合に一つひとつ拾い上げた。
 つぎの李伯元文集は、さらに分類される。
 論文、序跋章程、雑著、諧文、花榜与花選、庚子蘂宮花選、弾詞雑劇、書信、広告である。詩集と同じく、各種雑誌、叢書、資料集から細かく採取してある。量的にいっても空前の成果だ。
 注目すべきは、「第五輯 花榜与花選」、「第六輯 庚子蘂宮花選」だといえる。
 花榜あるいは花選とは、妓女コンテストを意味する。李伯元が自分の主宰する新聞で挙行した有名な催物だ。
 前者は、主として陳无我『老上海三十年見聞録』(上海・大東書局1928.1初版未見/上海書店出版社1997.1)の「十九 艶榜三科」から収録する。後者は、『清末小説研究』第5号に影印掲載したものを採録する。
 李伯元の開催した妓女コンテストは、有名であるにもかかわらず、その詳細を述べた文章がない。資料の少なさからか、李伯元評価に妓女コンテストはじゃまになるのか、言及されることがほとんどないのが今までの状況である。
 『庚子蘂宮花選』は、樽本が日本の書店で見つけた。誰も言及していない未発見の文献なのだ。該書は、当事者である李伯元が直接出版している原本そのものにほかならない。貴重な資料であることはいうまでもないだろう。陳无我『老上海三十年見聞録』(ながらく探していた書物だった。昨年、ようやく復刻本が出て利用できるようになった*2)は間接資料だが、これと併用することによって妓女コンテストの詳細が判明する。
 1981年の『清末小説研究』第5号に『庚子蘂宮花選』全文を影印掲載したあとも、注目する研究者は皆無だったといってもいい。実物の影印があるのに、言及しない研究者がいること自体が、私には想像もできないことだった。推測される結論はただひとつだ。中国の研究界では、李伯元の妓女コンテストはタブーのひとつではないのか。
 今回、全集に『庚子蘂宮花選』が収録された事実が、タブー打破宣言となる。王学鈞が、若い世代の研究者だからこそ可能だったのだろう。
 妓女コンテストについてだけでも、広く資料を収集しているから「李伯元年譜」部分にも、詳細な記述をみることができる。この場合、広く、かつ深い説明となっている。
 「李伯元詩文待訪録」(160-161頁)にあげられている『遊戯雑誌ママ』掲載の11種というのは、実は、雑誌名が間違っている。王学鈞が拠った魏紹昌の資料が誤記したためである。魏紹昌資料に基づいて全集に収録した分(56-68頁)を原載『遊戯雑誌ママ』とするが、正しくは『遊戯世界』という。清末小説研究会編「李伯元研究資料目録」(『清末小説研究』第5号1981.12.1。77頁)において雑誌名の誤りを指摘しておいたが、王学鈞は気づかなかったようだ。上記以外にも『李伯元全集』第5巻に出てくる『遊戯雑誌』は、すべて『遊戯世界』の誤りだ。『遊戯世界』は、日本でも見ることができる。全文を別に掲げておく。これで少しは不足を補うことができるだろう。
 そのほかに、日本人・永井禾原との交遊にも光が当てられる。
 この詩文集は、資料を広く捜索した結果、以前の資料集には収録されていない新出資料の集大成となった。

3 深 化

 2の「研究が深化している」は、最新の研究成果を取りこんでいる、従来の研究を鵜のみにしないで独立思考している、と言い直すことができる。
 王学鈞の「李伯元年譜」は、今までの李伯元年譜*3のなかではいちばん詳しい。
 詳しいばかりではない。李伯元の経歴で問題となる事項が、すべて浮き彫りにされていることをいわなくてはならない。
 たとえば、李伯元の生誕日だ。
 呉〓人がいう同治六年四月十八日(1867.5.21)と魏紹昌がいう同年同月二十九日(1867.6.1)の二説がある。今までの研究の多くは、魏紹昌説を支持し、呉〓人説を無視する。両説があることすら知らないのではないかとも思わせるほどの無関心ぶりなのだ。李伯元の親戚・李錫奇が「李伯元生平事跡大略」で「四月二十九日」と書いているのが根拠らしい。だが、李錫奇の初出の文章(『雨花』原載)に「二十九日」はない事実に誰も気づいていない。実は、魏紹昌が、のちに李錫奇の文章を資料集に収録する時、「二十九日」の四文字を付け加えたのである。編者が勝手にやってはならない資料操作であるといわなければならない。
 王学鈞は、両説を併記する(2頁)。決定的な資料がない以上、王学鈞のように併記するのが正しいやり方であるといえよう。
 たとえば、『游戯報』に見えるという周樹人問題だ。
 『游戯報』に掲載された周樹人は、魯迅だ、という聞きなれた例の説である。1950年代に路工が指摘した。研究者は、今まで、路工説を疑うことなくそのまま引用してきた。王学鈞は、違う。当時、同姓同名の周樹人が複数いたことをいう(144頁)。結論は、『游戯報』に掲げられたという周樹人は、魯迅である可能性はそれほどない、となる。妥当な意見である。
 たとえば、李伯元と呉〓人の経済特科問題だ。
 多様な意見が提出されていた。1901年だ、1903年だ、李伯元だ、呉〓人だと推測ばかりが横行していたのが実情である。王学鈞は、1902年、天津『大公報』の「保挙経済特科員名単」を証拠として提出する(172頁)。ふたりが同時に推薦されていた事実がここにある。すべての推測が、ひとつの新聞記事で一掃されたことになったのだ。
 たとえば、『繍像小説』の編者問題だ。
 『繍像小説』の編者は、李伯元なのかそうではないのか。中国大陸、日本でくりひろげられた一大論争だった。1905年に上海郵政局が調査した文献により李伯元が『繍像小説』の編者であったことを確定する(179頁)。
 王学鈞の説明は、以上に見るとおりあくまでも、資料を重視して、それに立脚した発言であることが理解できよう*4。
 白雲詞人、天地寄廬主人は李伯元の筆名だとする王学鈞の推測は、傾聴にあたいする。
 「李伯元研究資料篇目索引」は、中国以外の研究文献をも収録している。視野が広いのだ。日本で発表された研究論文は、日本語のままに表示されている。ひらがなに誤植があるのはやむをえないか。ひとつだけ例をあげる。『清末小説まぐれ通信』は、『清末小説きまぐれ通信』のあやまり。誤植がでてくるなら、いっそ中国語に翻訳した方がよかったような気もする。

4 問題点

 王学鈞の「李伯元年譜」は、過去の研究水準を質的に大きくのりこえたものである。私が高く評価する理由だ。だが、問題点がないわけではない。
 ひとつは、『繍像小説』の発行についてだ。王学鈞は、『繍像小説』の原物を見ていないのではないか。
 次のように書いている。

 劉鶚は、1903年に小説「老残遊記」を『繍像小説』に渡し発表したことがある。『繍像小説』第18期(該期『繍像小説』の出版時期は癸卯十二月と書かれており<原文:署癸卯十二月>、1904年1月に相当する。ただし、『繍像小説』に書かれた出版時期と実際の出版時期は遅れていた可能性がある)まで連載し、未完で止まった。(202頁)

 『繍像小説』第18期には、あたかも発行年月「癸卯十二月」が書かれているかのように王学鈞は書く。同じく、「載《繍像小説》第55期,署乙巳七月」(203頁)、「《文明小史》従《繍像小説》第1期連載至第56期(乙巳七月)」(208頁)、また「載《繍像小説》第72期,丙午三月」(216頁)、はたまた「《繍像小説》停刊,出至第72期止。第72期署丙午三月」(216頁)と書く。
 『繍像小説』は、第13期より発行年月を記載しなくなる。王学鈞がいう第18、55、56、72期にそれぞれ発行年月が記載されているならば、実物を見せてほしい。本来はあるはずもないものを、あたかも存在するかのように書くのは、王学鈞が『繍像小説』の原本はおろか、上海書店の影印本すらも見ていない証拠である。原物が手元にあるというなら、自分の目で確認していないに違いない。あれほど詳細に、広く資料を集めている王学鈞でさえ見落しがあるのか、といささか意外な気がする。
 「ただし、『繍像小説』に書かれた出版時期と実際の出版時期は遅れていた可能性がある」(216頁にも同じような表現を用いている)というが、これだけでは問題の重要性が理解できていないと推測される。従来から議論されているのは、雑誌に出版年月が印刷されておらず、だからこそ実際の発行が遅延していたことが問題になっているのだ。
 『繍像小説』の発行が大幅に遅れていたことを理解しない、あるいは、それほど重視しない結果はどうなるか。すなわち、李伯元の死後も『繍像小説』が発行されていたこと、「老残遊記」から「文明小史」に盗用したのは、李伯元の死後のことであること、すると盗用したのは李伯元ではなくなり、その友人・欧陽鉅源であること、「文明小史」の終わり部分は、李伯元の死後に発表されているのだから他人(ここでも欧陽鉅源がでてくる)の作になること。これら一連の重要問題が、王学鈞には認識できなくなっているのだ。
 もうひとつの問題点は、世界繁華報館版増注本『官場現形記』に関してだ。
 王学鈞は、該書について「別に世界繁華報館が出版した増注本(これは樽本照雄所蔵、増注本と称する)がある」(211頁)と書く。世界繁華報館版増注本『官場現形記』は、樽本が日本で入手した(完揃いではない。参考までに一部分を掲げておく)。活版本だ。従来の研究書でこれについて言及したものを見ない。本『李伯元全集』でも、説明はない。以前、中国の研究者に手紙で聞いたことがある。資料がないからわからない、という返事をもらった。書き方から見ると、王学鈞も見たことがないらしい。日本で入手できるくらいだ、中国で所蔵しないはずがないと思うのだ。中国の専門家が言及していないのも不思議だ。
 さて、粤東書局、崇本堂が出版した増注本の石印本は、普通に見ることができる。重要なのは、世界繁華報館がみずから出版した増注本であることだ。世界繁華報館本なのだから、李伯元の管理下にある出版だ。つまり、当時、2種類の『官場現形記』が発行されていた事実がこれから判明する。この事実と、包天笑の証言、すなわち『官場現形記』のはじめは李伯元が書いたが、のちには欧陽鉅源に書かせた、を重ねあわせると、必然的に『官場現形記』は李伯元と欧陽鉅源の合作という推論に到達する。加えて、さきほどの李伯元の死後も「文明小史」が発表されていた(欧陽鉅源の代作)を考慮すれば、いずれも成立可能な説だと樽本は、1982年から言いつづけている。
 『繍像小説』の出版年月が記載されていないこと、『繍像小説』の発行が遅れており李伯元死後も出ていたこと、『官場現形記』増注本が世界繁華報館から出版されていること、包天笑の証言があることなどなど、原本を自分の目で確認しながらふたたび考えてほしい。これが、王学鈞に対する私の希望である。

5 結 論

 資料あるいは文章の引用には、すべて出典が明示されている。当たり前のことだ。しかし、中国では、その当然のことが守られていない場合が過去にあった。それと比較すれば、王学鈞の厳格な編集姿勢は称賛に値する。と同時に、出典を明らかにすることによって資料の信頼性を高めていることはいうまでもない。
 王学鈞が編集した『李伯元全集』第5巻は、諸外国の研究も視野に入っているところに特色がある。中国大陸の研究だけにのみ限定されていない。だからこそ、従来の枠を大幅に打ち破るものとなった。李伯元研究が、新しい段階に入ったことを意味する。新しい世代の手になる、新しい研究だということができる。ここには、当然、世界の研究界で通用する普遍性がそなわっている。


薛正興主編『李伯元全集』全5冊
南京・江蘇古籍出版社1997.12

1 文明小史、中国現在記
2 官場現形記
3 活地獄、海天鴻雪記、庚子国変弾詞、醒世縁弾詞、経国美談
4 南亭筆記、南亭四話
5 (王学鈞編)李伯元詩文集、李伯元年譜、李伯元研究資料篇目索引


【注】
1)樽本照雄「文献をあつかう姿勢――『呉〓人全集』を例として」『大阪経大論集』第49巻第3号(通巻245号)1998.9.15
2)王学鈞「李伯元的“艶榜三科”――佚文与伝記」『明清小説研究』1998年第1期(総第47期)発行月日不記
3)まとまったものとしては、時萌「李伯元年譜」(『清末小説』第9号1986.12.1。87-110頁)がある。あとは、比較的簡単なものだからいちいちあげない。
4)王学鈞「李伯元伝記研究的新進展」『明清小説研究』1996年第4期(総第42期)1996.12.1

(さわもと いくま)


『遊戯世界』の関連部分と世界繁華報館増注本は省略する。