商 務 印 書 館 の ラ イ バ ル
――中国図書公司の場合


樽 本 照 雄


1 はじめに

 商務印書館は、日本・金港堂との合弁会社だったことがある。創業まもない1903年から中華民国になってすぐの1914年まで、実質10年間を数える。清朝末期から中華民国成立後という、ふたつの時代にまたがる合弁だ。
 金港堂との合弁だといっても、その実、原亮三郎の個人的投資である。しかし、個人の投資であろうが、知っている人が見れば、合弁会社であったという事実はなくならない。
 外国企業との合弁についての評価は、その時代の思潮、政治動向と無関係ではありえないだろう。不幸なことに、商務印書館の合弁事業は、負の評価がつきまとう時代に重なってしまった。商務印書館自身が、合弁の事実を公表したくなかった理由のひとつである。
 商務印書館と金港堂の合弁は、合弁当時も、また、合弁解消後になっても攻撃を受け続けた。攻撃のかたちは、さまざまである。
 同時代においては、同業者からの批判という攻撃があった。異民族からの独立を強調し、他国からの支配を排斥する時代に、外国企業との合弁の有利さをいくら説いても、理解してもらうことはむつかしい。かえって反発を強めるだけだろう。商務印書館が採用することのできた対抗策は、せいぜいが攻撃を無視するか、陰で相手方の足をひっぱることくらいのものだ。日中合弁を解消するまで、商務印書館自身が感じた精神的圧力には、大きなものがあったに違いない。
 合弁解消後では、攻撃はみえ隠れして複雑になる。研究界における批判の存在がその例だ。商務印書館研究が出現してから、一貫してある問題だといってもいい。合弁をどう評価するか。その時代の政治状況に応じて、批判をこめた意識的な無視から、正反対の賞賛へと、いとも軽々と変化する。日中合弁という事実の無視、軽視は、結局のところ研究の遅延に結びついたということができる。
 商務印書館は、同業者からの攻撃を受けていかに対抗したか。中国図書公司の場合を見てみよう。中国図書公司の設立意図とその背景について考えることになるはずだ。

2 中国図書公司の出現、あるいは樽本照雄説

 中国図書公司の創立は、一般に1908年とされる*1。
 それを否定する材料を持たなかったから、私は、少ない資料で以下のように書いたことがある*2。要約する。
 中国図書公司は、上海の大資本家席子佩と福州の大商人曽少卿によって設立された。投資者が集まり、商務印書館の強敵となるのを見た夏瑞芳は、株価操作とデマを流すという強引なやり方でこれに対抗する。曽少卿が中国図書公司設立に参加したのは、商務印書館に日本資本が多くを占めていたのを聞いたからだ。「独立を尊ぶ曽の気性が知られると同時に、当時、すでに外国企業との合弁会社に対する反発が社会に芽生えつつあったことが注目される」(375頁)
 中国図書公司にしてみれば、商務印書館の夏瑞芳のやり方は、陰謀にちがいない。夏瑞芳からいえば、強力な競争者に打ち勝つためには、少々強引な手段も必要だということだ。また、それくらいの辣腕がなければ、商務印書館を単なる印刷所から全国最大規模の近代的印刷企業兼出版社に育てあげることなどできはしなかっただろう。逆にいえば、ペテン、陰謀を使ってまで抵抗を示したのは、それだけ夏瑞芳の危機感が大きかった証拠でもあると私は、考える。
 曽少卿に関する資料から、「当時、すでに外国企業との合弁会社に対する反発が社会に芽生えつつあったことが注目される」とかろうじて推測はした。しかし、それ以上の資料があったわけではない。席子佩についても、一応、調べてみはしたが、何もみつからなかった。
 中国図書公司は、商務印書館にとっての強力な競争者だとしか、当時の私には認識できなかったのが正直なところである。背後になにかが隠されていようとは、考えがまわらなかった。また、考えようにもその手がかりは、まるでなかったのだ。

3 鱒澤彰夫説

 あれからほとんど20年が経過しようとしている。上にみる私の文章が問題にされようとは思わなかった。別の角度からいえば、人の注目を引いたことがうれしいような気もするが。

3-1 章錫〓論文
 鱒澤彰夫「『官話指南』、そして商務印書館の日中合弁解消」(早大『中国文学研究』第23期1997.12)は、中国図書公司を商務印書館の単なる競争者だとする私の把握のしかたは十分ではない、という。
 鱒澤彰夫は、中国図書公司の出現について章錫〓「漫談商務印書館」*3の記述にもとづいて紹介する。
 章錫〓の文章は、「商務印書館と夏瑞芳」を書いたあとに私も目にしたことがある。ざっと読んで、中国図書公司に関係する部分は、私の論文の内容と違わないと判断した。だから、記憶にも残っていない。章錫〓の該文をあらためて見てみる。
 中国図書公司について、章錫〓が示した表題は、「商務の強敵」となっている。私の把握と同じだ。
 1906年、洞庭山人席子佩(裕福)は、50万元の資金を集め、教科書出版に重点をおいた中国図書公司を組織した。席子佩は、上海の「大買弁資本家」で、南通の官僚大資本家の張謇(季直)を理事長にすえる。張謇は、清末の著名な状元で、清朝の大官僚軍閥たちとも知りあいだった。また、江蘇教育会長でもあって全省の教育大権をにぎっていたからだ。編訳所長は、蘇州の人沈信卿(恩孚)で、江蘇教育界に相当な声望があった。有能な中学、師範学校の教師をまねいて小中学教科書の編集に任じた。中国図書公司の資本は、商務印書館よりも多かったが、しかし、内部組織と編集、発行の経験は、商務印書館に及ばず、激烈な競争のもとで徐々に失敗していく。商務印書館も、ひそかに中国図書公司の株を買収し、人を使って個人の名義で新聞に広告を出させ、廉価で売りだした。株主の混乱を作りだして、これにより訴えられたこともある。
 今読み直しても、大筋は、私が、調査したものとそれほど大きな開きはない。
 細かく見ていけば、興味深い部分も、当然、ある。
 中国図書公司の創設は、一般に1908年となっているから、1906年というのとは、時期がズレている。あとで見るように、正式な創立が1908年で、株式募集が1906年なのだ。
 席子佩が、資金を集めて中国図書公司を設立した。張謇は、席子佩から依頼されて理事長になっている。席子佩が、あくまでも中心であることを確認しておきたい。
 席子佩は、「大買弁資本家」であるという。「買弁資本家」という名称は、ある時期、さかんに使用されたレッテルだ。このレッテルをはられると、即座に黒い人物を意味する。章錫〓が、意識的に使用したかもしれない。「買弁」は、もともとは中国側の代理人を指し、負の意味を持たない(本稿では、「買弁」と表示する)。席子佩については、資料が不足している。あとで問題にしたい。

3-2 「その後ろにある“何か”」
 さて、以上の章錫〓の記述について、鱒澤彰夫は、つぎのように疑義を提出するのだ。「しかし、この記述からは、中国図書公司の背後に“買弁資本家と官僚資本家”がいる、という話か、中国図書公司という商務印書館の強敵が現れたとか、同業間競争の激しさといった、商売上では極くママ当然の話になってしまい、その後ろにある“何か”が隠されてしまっている」(54頁)
 章錫〓の章題が示すように、章錫〓自身、同業者間の激烈な競争をいいたかっただけだ。章錫〓も、まさか「その後ろにある“何か”が隠されて」いようとは思ってはいなかっただろう。
 鱒澤彰夫は、つづけて樽本照雄の記述についても、「この1906年の中国図書公司の登場が、商務印書館の日本資本回収に至る具体的契機としては明確に意識されておられないように思われる」(55頁)と批判する。
 明確どころか、まったく意識していなかった。「当時、すでに外国企業との合弁会社に対する反撥が社会に芽生えつつあったこと」を言うのがせいぜいであった。「具体的契機」もなにも、中国図書公司との闘いは、商務印書館が受けた多数の攻撃のなかのひとつにしかすぎないと考えていたのだ。くりかえすが、中国図書公司の出現の「その後ろにある“何か”が隠されて」いるとは、認識していなかったのである。
 鱒澤彰夫が指摘する「その後ろにある“何か”」とは、利権回収運動だという。

3-3 利権回収運動
 鱒澤彰夫の結論部分だと私が考える箇所を、少し長くなるが引用する。(注番号は省略)

 張謇は1906年当時、「師範学校と小中学校の創辧に注」いでいたという。同時に1906年は、1905年5月に始まったアメリカ商品ボイコット運動が利権回収運動に発展しつつある時であり、親友・曽少卿はその中心にいた。それゆえ、張謇は席子佩らとともに、その政治的目的と教科書市場の獲得のために中国図書公司を設立し、自己の知りうる商務印書館の秘密=「商務印書館中多日資」を意図的に曽少卿に洩らし煽動し、「中国」という冠称とそのキャンペーンを、つまり、理性ではなく感情に訴える手段を採らせしめた、と推測しうる。(58-59頁)

 鱒澤彰夫の文章では、張謇が主となって席子佩らとともに中国図書公司を設立したという筋書になっている。章錫〓論文に見られる席子佩中心とは、見解が異なるといえる。これには、基づく資料があるのだ。すなわち、鱒澤彰夫が発掘しこの論文で公表した外交史料である。私は、該資料の存在を鱒澤論文によって教えられた。

4 資料2件

4-1 外交史料
 上海総領事・永滝久吉が、日本外務省とのあいだに取り交わした電報2通には、それぞれ明治39年(1906)5月16日、31日の日付がある。(今、鱒澤彰夫が論文中に復刻したものに拠る)
 「中国図書会社設立ニ関スル件」と題する電報の冒頭に、こうある。「当地方ニ於ケル有力ナル紳士ニシテ商部顧問タル張謇等首唱者トナリ」(55-56頁)
 鱒澤彰夫が、席子佩ではなく張謇を中心に置き直したのは、この電報にもとづくのだろう。
 さらに、「其趣意書中、当地ニ於ケル商務印書館(日清人ノ合資ニ成リ金港堂主原亮三郎之ヲ経営ス)ノ如キ事実上外国人ノ事業タレハ、同館ニ於テ出版スル書籍類ヲ購読スルハ中国人ノ潔シトセサル所ナリ云々ト記載セルニ徴スルモ、外国人ノ出版書ヲ排シ中国人経営ノ右会社ヨリ出版スル書籍ヲ以テ之ニ代ントスル、例ノ利権回復的主義ニ胚胎スルコトハ明ナル所ニ有之候ヘハ」という部分が重要だ。
 日本から上海に打ち返された電報は、上海からの電報の内容を繰り返す。
 「右ハ蓋シ清国人間ニ於ケル利権回収熱ニ伴フ排外的思想ニ基因スルモノ」と書いて、同じ認識を示している。
 鱒澤彰夫が、張謇らの中国図書公司設立を、利権回収運動に直結したものとして位置づけたのは、これらの電報が根拠となっている。
 外務省の電報から理解できるのは、上海で中国図書公司の設立趣意書のようなものが公表されていること、それに商務印書館が外国人の経営する事業であると暴露していること、これは利権回収運動の一環であること、くらいだろう。
 電報によると、中国図書公司に趣意書を撤回するよう清国官憲に求めろ、此種排外的印刷物の配布を禁止防遏するよう厳重に交渉しろ、と外務省は上海領事館に命じてはいる。が、はたして、そのようなことが可能であったのかどうか、実行したとして効果があったかどうかは、はなはだ疑わしい。
 ともあれ、中国図書公司の設立が、当時の利権回収運動に直結するものである、という認識を上海領事館がもっていた事実が、ここにある。
 同様の認識は、上海領事館ばかりのものではなかった。

4-2 『支那経済全書』
 中国図書公司趣意書が公表されてからわずか2年後に発行された『支那経済全書』第12輯(東亜同文会編纂局、丸善株式会社1908.10.1/1909.6.17第四版)の「第四編 出版業」に次のような記述がある。

 中国図書公司ハ光緒三十一年米貨排斥ノ当時中国人一般ニ排外思想膨漲シテ利権回収熱ニ狂奔セシ時恰モ商務印書館ハ科挙廃止後新書ノ販売ヲナシテ莫大ノ利ヲ占メツヽアルヲ認メ同業者不平ノ徒茲ニ結合シテ対抗的ニ設立シタル公司ニシテ南方報記者姓連ナルモノ商務印書館ガ日本教科書事件ニテ失敗シタル金港堂ヲ株主ニ加ヘタルコトヲ極力攻撃シ其記事実ニ数日ニ亘レリ官吏、郷紳等此記事ヲ読ンデ同公司ノ目的ヲ賛シ株主ニ加入スルモノ甚ダ多カリキ即チ同公司ハ当時社会ニ喧伝セラレタル排外熱ヲ利用シテ設立サレタルモノト云フベシ。(469頁)

 上海領事の電報とは表現が微妙にずれているが、ここでは米貨排斥からつながった利権回収運動を背景として、中国図書公司の設立がある、と認めている。南方報記者の連某などと具体的な名前までも出ていて珍しい。連某の新聞記事を、今、見ることはできないが、相当に詳細な商務印書館攻撃のようだ。
 外交文書、および同時代の論説が、ふたつともに中国図書公司設立の背景には利権回収運動が存在していると述べている。間違いがないように感じはする。
 しかし、考えてみれば、どこかおかしい。
 上海総領事の永滝久吉と『支那経済全書』の筆者が、利権回収運動の存在を認識していた、というのは事実である。表面的には、うまくおさまるように見える。だが、ふたりの認識それ自体と、席子佩の中国図書公司設立の意図は、ぴったり一致していたかどうかは、また、別の問題ではないかと思うのだ。
 利権回収運動のために中国図書公司を設立するのと、有望な市場として教科書市場をとらえ、その際、利権回収運動を利用して中国図書公司を設立したのと、表面的に同一のようでいて、内容は、まったく異なるのではないか、というのが私の疑問である。

5 問題提起

5-1 利権回収――その内容
 鱒澤彰夫は、前に「アメリカ商品ボイコット運動が利権回収運動に発展しつつある時」とも述べている。排外運動の一種としては、外国商品ボイコット運動が、当然、考えられる。
 だが、商務印書館に日本資本が入っていることは、外国商品ボイコット運動の視点から見ればどうなるだろうか。
 具体的な活動をとるとすれば、商務印書館の教科書を買わない運動になるのだろうか。とどのつまりは、商務印書館を倒産に追い込むことしかない。しかし、商務印書館に日本資本が入っていることを攻撃しはするが、教科書不買を提唱しているわけではない。
 利権回収ではどうか。
 利権回収が目的ならば、商務印書館から金港堂を追い出して純粋の中国資本にするということしかありえない。外国資本は出て行け、と攻撃を一方的に続けるか、潤沢な資金があるのだから、商務印書館そのものに株式買収を働きかけるくらいできようなものだ。利権回収のためならば、別に中国図書公司を設立するまでもない。
 当時、商務印書館から見れば、金港堂との合弁は、経済的に大きな利潤が生まれていた。相手の金港堂よりも多くの利益を得ていたのが事実である*4。
 そればかりか、金港堂から派遣されてきた日本人編集者から得ることのできる教科書編集のノウハウも重要だった。1906年の段階で商務印書館の方から合弁解消の申し出が出てくるはずがない。夏瑞芳が、辣腕を発揮してまで中国図書公司に対抗しようとした理由である。商務印書館首脳が合弁解消を提案するのは、中華民国成立後であることを思いだしてほしい。
 ボイコット運動にしても、利権回収運動にしても、その単語だけを見た場合、商務印書館と金港堂の合弁問題にいかにもからんできそうな感じがする。だからこそ、上海領事もそう打電した。だが、内実を見れば、商務印書館側の中国人自身が望まない利権回収運動だったのだ。当事者が望まないことを強制することができるのだろうか、という根本的矛盾に到達する。

5-2 鱒澤彰夫論文の問題点
 鱒澤論文には、いくつか気になる記述がある。
 ひとつは、中国図書公司設立の中心が、席子佩から張謇へと移動していることだ。
 章錫〓の記述のままに、席子佩が資本を集めたとのべ(54頁)、注して「中国図書公司の席子佩は夏瑞芳の商務印書館に対抗する前から、点石斎ママを経営していることから、席子佩は教科書出版への進出とともに、新しい時代の鉛印洋装本への進出を狙ったものとして中国図書公司を考えたのかもしれない」(61頁)と書く。ここでは、席子佩が中心だ。それが、あとの箇所では、「張謇は席子佩らとともに」(59頁)と書かれて、張謇が前面にでてくる。アメリカ商品ボイコット運動を進めていた曽少卿の親友が、張謇だと強調したかったのだろうか。中国図書公司設立を利権回収運動に関連づけるための変更に見える。
 また、「合弁解消の具体的契機」という(55頁)。しかし、実際に金港堂との合弁が解消されたのは、1914年のことになる。1906年の中国図書公司が「具体的契機」というには、時間がはなれすぎるのではないか。だいいち、「具体的契機」とは、どういう意味なのだろうか。直接の合弁解消の引き金になったというのか。いくつかある商務印書館攻撃の具体例のひとつだというのなら、理解できる。しかし、「合弁解消の具体的契機」だとして中国図書公司しか挙げなければ、これだけが合弁解消の理由のように受け取られることになりはしないか。そうであれば、事実から離れるといわざるをえない。
 中国図書公司の設立が、利権回収運動を背景にしているという認識があることは、上に見てきたとおりだ。
 だが、利権回収運動そのものの内容を考えてみれば、商務印書館にそのまま適用できるとも考えられない。
 そうなると、中国図書公司設立に際し利権回収運動をいったのだとしたら、それは単なる口実にすぎないのではないか。問題の所在を私なりにまとめれば、こうなる。
 ここで、中国図書公司設立の趣意書を検討する必要がでてくる。

6 「中国図書有限公司縁起」

 「中国図書有限公司縁起」が、いわゆる設立趣意書である。光緒三十二年四月初二日(1906.4.25)付『申報』に掲載された。中国図書有限公司が正式名称のようだから、以後、そう呼ぶことにする。

6-1 「縁起」

 教育は、国民の基礎である。書籍は、教育がそれを借りて転移していくものだ。数千年の国の精華は、経史に伝えられる。五洲各国の進化の程度は、みな新書出版の多寡を見てはかる。いま、科挙は廃止され、学校が興り、著訳の仕事が盛んに行なわれ群がって教育の目的に赴いている。しかし書籍に注意しないのはなぜか。(教育者国民之基礎也。書籍者教育之所藉以転移者也。是以数千年之国髄伝於経史。五洲各国進化之程度僉視新書出版之多寡以為衡。今者科挙廃、学校興、著訳之業盛行群起以赴教育之的。然而書籍之不注意何也)

 「縁起」の書きだしである。教育を国民の基礎と認める。その国民の基礎である教育は、書籍によって伝えられる。しかるに、書籍そのものに注意しないのはどうしたわけか、と責め立てる。教育の内容を抽象的にうたうのではなく、内容を伝える道具=書籍の方から話が始まる。具体的だということができる。

 書籍の構成は、編集印刷発行からその後に世に伝えられることになる。編集印刷発行は、それによって構成して書籍とするものなのだ。ゆえに編集印刷発行の権利が自分にあれば、書籍を構成する権利は自分にある。そうして教育の権利もまた自分にある。編集印刷発行の権利が他人にあれば、書籍を構成する権利は他人にある。そうして教育の権利もまた他人にある。今の愛国の士は、ややもすれば国権を保つことをいう。今の国権をいうものは、ややもすれば教育する権利を保つことをいう。しかし、書籍を出版している編集印刷発行の書局について注意しないのはなぜか。(書籍之組搆、由於編輯、由於印刷、由於発行、而後乃得流伝於世。是編輯印刷発行者所以組搆而成書籍者也。故編輯印刷発行之権在我則組搆書籍之権在我。而教育之権亦在我。編輯印刷発行之権在人則組搆書籍之権在人。而教育之権亦在人。今之愛国之士動曰保国権。今之談国権者動曰保教育権。然而書籍所出之編輯印刷発行書局之不注意何也)

 肝心の書籍が、編集印刷発行により構成されていることを述べる。編集印刷発行の権利を持つものが、書籍を支配する。ごく当然のことであろう。編集印刷発行が集中している場所が書局にほかならない。ここで、書局の所有者が問題になってくる。考えぬかれた文章構成である。

 今日、編集印刷発行する書局は、いまだかつてなかったわけではない。しかし、資本をもって最大のものは、我が国の人間ではない。我が国の人間ではないものが、また更に大きな資本を持って我が書籍業を経営しようとしているとも聞く。だが、我が書籍業者は、みな資本は薄弱で統一することができない。大は小を兼ねることができる。強は弱を合せることができる。われらは争って編集印刷発行の書局の発達を求めている。書籍をしっかり守って教育の権利を保とうとしている。しかし、編集印刷発行を統合する事業を設立することに注意をしないのはなぜか。(夫今日編輯印刷発行之書局、未嘗無有也。然而挟資本之最大者則非我本国人。且聞非我本国人者亦将更挟其更大之資本以経営我書籍業。而我之書籍業者又皆資本薄弱而不能統一。夫大可以兼小。強可以并弱。我人競競焉以求編輯印刷発行書局之発達。以鞏護書籍而保教育之権。然而設立統合編輯印刷発行事業之不注意何也)

 文中の「資本をもって最大のものは、我が国の人間ではない(挟資本之最大者則非我本国人)」こそが、商務印書館をあてつけているのだ。更に大きな資本が、今まさにやってこようとしている、という部分は、当時、そういう噂があったのかもしれない。日本から、中国大陸に進出して出版会社を設立することが日本でブームになったことがある。このことを指して、さらに危機感をあおっているのだろう。
 商務印書館の名前を出してはいないが、たしかに、それを暗示する文句にはなっている。だが、その表現は、私が見るところ、ごく控え目であるといってもいい。
 あわせて、中国の書籍業者を零細だときめつけている部分は、注目に価する。大資本の商務印書館以外は、統一もできない零細企業ばかりだというのは、冷静な発言だということができる。

 教育権のよいように、書籍を守ってよいように、これらを重視すること、編集印刷発行事業の権利を捨てるべきではないこと、今日、すでに知られている。資本弱小の書局が強大なものに併合されるのは、将来、必ずそうなるものである。そうであるならばわれらはなぜ早く自らが計らないのか。早く自らが計れば、上は国権を保つことができ、下は侵略を免れることができる。中国図書公司のここに発起する理由である。(夫教育権之宜、鞏護書籍之宜、視為重要、編輯印刷発行事業之権之不可旁落、今日所已知者也。資本弱小之書局必被強大者所兼并他日所必至者也。然則我人何勿早自為計乎。早自為計則上可以保国権、下可以免侵略。中国図書公司之所以発起者以此)

 表題に中国図書有限公司とあるにもかかわらず、本文では、中国図書公司だ。「有限」は、あってもなくても実質は同じなのだろう。
 以上が、「縁起」の全文である。
 本文そのものは、利権回収を声だかに叫ぶ、というような血気盛んな文面ではない。しかし、声を低めて事実を述べながら説得しようとしている姿勢を読み取ることができる。商務印書館にしてみれば、文章全体から不気味な強さを感じたのではなかろうか。
 「縁起」には、株式募集規定(招股章程)がかかげられている。
 こちらは、格調高い「縁起」とは異なり、かなり刺激的である。

6-2 「招股章程」
 第1条は、創設主旨だ。「本社は、我が国の教育権を強く守り、文明の進歩を追い求め、外国人の分にすぎた望みを断ち切り、後の禍患をなくすことを主旨とする(本公司以鞏護我国教育権駆策文明之進歩杜絶外人之覬覦消弭後来之禍患為宗旨)」
 中国の教育権を堅持する。すなわち、外国人を排斥すると明示している。商務印書館批判を込めていることがわかる。
 つぎに、念おしをする。「本社は、中国人公衆が創設するものだ。外国人を資本に入れない。ゆえに中国図書有限公司と名付ける(本公司係中国人公衆創辧不入外国人股本故定名曰中国図書有限公司)」
 たしかに外国を意識するから「中国」という命名になった。鱒澤論文に「特に、中国図書公司の「中国」というネーミングに、……中略……この中国図書公司の登場の意図と意味が込められているように思えるのだが」(54頁)と予想した通りである。ただし、中国を名乗ったのは、中国図書有限公司が最初ではない。ほかならぬ商務印書館自身が、1905年よりその発行する単行本、雑誌『東方雑誌』に「中国商務印書館」と印刷している*5。中国図書有限公司よりも以前の事だ。
 さらに、こうもいう。「印刷部を設け印刷上の各種工業を改良し、美術の進歩をはかる。すなわち利権を回収して障害をなくする(設印刷部改良印刷上之各種工業以図美術之進歩即以収回利権杜絶障害)」
 「収回利権」という原文は、この場合、印刷に関係して使用されているようだ。教科書を編集しても、印刷は商務印書館に依頼する、という状況があったのだろう。自社で印刷部を持てば、外部委託がなくなる。すなわち「利権回収」という意味だろう。
 印刷と切り離してこの部分のみを見れば、中国図書有限公司設立そのものが「収回利権」の一環だと認識されても不思議ではない。上海総領事が日本あての電報で示した「例ノ利権回復的主義ニ胚胎スルコトハ明ナル所ニ有之候」に見られる。
 「発行部を設け、販路を拡大する。利益を同業に分け団体を集合し各地の消息を連絡しあう。それにより我が国書籍商の得るべき利益を保全し、かつ外国人が我が教育界に誤った種を蒔かないようにさせる(設発行部推広銷路分利益於同業集合団体聯絡各埠声気以保全我国書商応得之利益且俾外人無播謬種於吾教育界)」
 この規定にうたう「外国人が我が教育界に誤った種を蒔かないようにさせる(俾外人無播謬種於吾教育界)」が、どういうものを意図していたのかは、わからない。だが、私には心当たりがある。商務印書館が発行した教科書につぎのような例があるのだ。
 坪内雄蔵編輯、長尾槙太郎訳校『日文読本』巻5、6(上海・商務印書館 光緒三十(1904)年十月初版/光緒三十二(1906)年八月五版)は、中国人が日本語を学習するための教科書である。このなかの第23に「征清軍」と題するものがある。おりからの日清戦争を題材とする。「頃は明治の二十七、朝鮮みだれし折ぞかし、支那、大国の威におごり、朝鮮国をはづかしめ、なほ、我が軍に手むかひす。/……義州、旅順や威海衛、勢ひ破竹と、攻めおとし、目ざすは、やがて、北京城。/支那、力つき、和をこひぬ。……」*6
 日清戦争を日本人の側から、一方的に描写したものだ。いくらもともとが日本人向けの教科書とはいえ、これをそのまま中国で発行する神経が、まず、理解できない。商務印書館側にも点検して中止させる人はいなかったのか。この教科書を見た中国人が、怒らないはずはなかろう。中国図書有限公司の設立を促すに十分な要因のひとつの例だと思うのだ。
 この教科書に象徴される商務印書館のいわば無神経さが、敵を出現させる土壌をみずからが作りだしていたということもできるだろう。
 設立規定によると、株式百万元を募集しようとしている。まず50万元で有限公司を設立する。四月十一日(5.4)付『申報』の「中国図書有限公司開収股分広告」によると、50万元のうちの15万元は発起人が引き受け、残りの35万元を募集するという*7。
 発起人引き受けの15万元のうち、席子佩がいくらを負担したのかは書かれていない。
 株式の募集期限は、四月初一日より六月三十日までとする。
 1906年当時、商務印書館の総資本は、約40万元だった。翌1907年は、75万元に増資している。これに比較して中国図書有限公司の目標額百万元が、いかに大規模なものかが理解できよう。商務印書館が危機感を抱くのも無理はない。

6-3 発起人
 発起人の名前が掲げられている。便宜上、番号を付して示す。

 1張謇、2曽鋳、3〓祖祁、4厳信厚、5馬良、6周廷弼、7周晋〓、8劉樹屏、9孫廷翰、10李厚祐、11胡〓、12朱佩珍、13陳作霖、14黄継曽、15樊〓、16施則敬、17李鍾〓、18朱開甲、19胡煥、20謝綸輝、21連文澂、22席裕成、23席裕光、24汪鍾霖?、25夏清貽、26狄葆賢、27兪復、28席裕福*8

 1張謇、2曽鋳(少卿)のふたりが、最初に出てくるのは、中国図書有限公司の主要な地位をしめていることを暗示する。しかし、中心であるはずの28席裕福が最後であるのはなぜか不明。
 こんなところに21連文澂の名前を見ようとは予想していなかった。連夢青である。排満を主張していた新聞人であり、劉鉄雲が「老残遊記」を書くきっかけをつくった人物として有名だ。連夢青自身、商務印書館が発行する『繍像小説』に「鄰女語」(第6-20期)「商界第一偉人」(第6-14期)を執筆している。1903年のことだ。その連夢青が、商務印書館を攻撃する中国図書有限公司設立の発起人に名前を連ねていようとは思わなかった。
 連夢青が『繍像小説』に執筆を始めたとき、商務印書館は、まだ、金港堂との合弁会社ではなかった。しかし、1903年11月19日に合弁会社となったあと、『繍像小説』は発行を遅延させながらも出版されている。連夢青の作品も、その合弁以降の『繍像小説』に掲載されているのだ。
 26狄葆賢は、字楚青、楚卿、号を平等閣主という。戊戌変法失敗後、日本に亡命し、上海に帰ってから自立軍の起義活動に参加した。1904年上海で『時報』を創刊し、後の1909年には『小説時報』を出版する。『時報』は、清朝政府の妨害を防ぐため、創刊時には日本商の看板をかかげ、宗方小太郎を名義上の発行人にしたとある*9。
 日本人を前面に押し立てたのは、新聞を発行するためのやむをえぬ措置だったのは理解できる。重要なのは、新聞の中身だからだ。しかし、いかにやむをえなかったとはいえ、そういう人物が、外国人排斥をうたう中国図書有限公司設立の発起人に名前を連ねるのは、なにか納得がいかない気がする。自分の理想を実現するためにはなんでもする、というのなら、そうですかというよりほかないが。
 中国図書有限公司設立の中心人物といわれるのが、28席裕福だ。22席裕成、23席裕光の名前をみると、席裕福の兄弟親戚かとも想像される。席裕福については、後に述べる。 趣意書、規定の文面は、どのようにも書くことができる。重要なのは、行動がともなっているかどうかだろう。『申報』紙上に中国図書有限公司の動きを、しばらく追ってみたい。

6-4 その後
 「縁起」発表の翌四月初三日(4.26)、「中国図書有限公司招股広告」が『申報』に掲載された。趣意書(縁起)を除いた規定部分だけだ。
 ここにも発起人が列挙されている。見れば、おかしなことに名前に異同がある。()内にあらたに加えられた名前をあげる。

 1張謇、2曽鋳、3〓祖祁、4厳信厚、5馬良、6周廷弼、7周晋〓、8劉樹屏、9孫廷翰、10李厚祐、(虞和徳)、11胡〓、12朱佩珍、(金紹城)、13陳作霖、20謝綸輝、15樊〓、16施則敬、17李鍾〓、18朱開甲、(丁維藩)、14黄継曽、22席裕成、23席裕光

 順序の違いはおくとして、削除されたものが、19胡煥、21連文澂、24汪鍾霖?、25夏清貽、26狄葆賢、27兪復、28席裕福だ。
 追加は3名、削除は7名、差し引き4名の減少で合計24名となる。前日の28名が24名に減っているのはなぜか。
 発起人であるからには、会社設立の準備を重ねていた人々だと思うではないか。1日にして入れ替わるほど簡単なものなのか。
 抜けた人のなかに、連文澂と狄葆賢が入っている。なるほど、と思わないでもないが、中心人物である席裕福が見えなくなっているのには、首をかしげる。
 さらに、翌初四日(4.27)にも同じ広告が掲載され、これにも発起人名簿がつく。

 1張謇、2曽鋳、3〓祖祁、4厳信厚、8劉樹屏、6周廷弼、7周晋〓、5馬良、(金紹城)、12朱佩珍、20謝綸輝、15樊〓、10李厚祐、9孫廷翰、11胡〓、23席裕光、22席裕成、(丁維藩)、13陳作霖、16施則敬、18朱開甲、17李鍾〓、(虞和徳)、14黄継曽、25夏清貽、26狄葆賢、28席裕福

 初日に名前を出していた19胡煥、21連文澂、24汪鍾霖?、27兪復らは、依然として削除されたままだ。しかし、25夏清貽、26狄葆賢、28席裕福が、復活する。
 毎日のように入れ替わる発起人とは、何だろうか。推理できることは、名義を借りた、あるいは勝手に使用した人物もいるのではないか。
 たとえば、四月二十二日(5.15)付『申報』の広告に見える発起人のひとり湯寿潜の例がある。発起人・陳観察(作霖だろう)が手紙で湯蟄仙氏に発起人に名前をつらねるよう約束していたが、そののち服喪の暮らしで名前をだすのは遠慮したい連絡があった、以後、発起人のなかには掲げない、という主旨のものが新聞に公表されている(閏四月初七日(5.29)付同紙の「中国図書有限公司広告」)。
 服喪ならしかたがないようだが、その他の発起人については、それらしい説明もない。中心人物といわれる席裕福その人が、出たり入ったりで、もっと不可解だ。
 世界書局で40年間働いていた朱聯保が書いた上海の書店についての回憶録がある。『近現代上海出版業印象記』という。そのなかの「中国図書公司」は、章錫〓「漫談商務印書館」を下敷にしている。朱聯保の筆になる箇所に、「(中国図書公司)内部には意見が多かった。曽少卿は病気と称して退き、張季直を総理に推薦した……」*10とあって、複雑な内部情況を暗示する。
 ここまでくれば、中国図書有限公司設立を中心となって画策したといわれる席子佩について検証する必要がでてくる。

7 席子佩

 はじめに述べたように、席子佩については、まとまった資料をさがしあてることができていない。
 見つけた人名辞典(1924年)に次のように記載されている。

 席裕福(Hsi Yu-fu)字子佩 年齢四十九 江蘇省青浦県人(現在上海)
 経歴 曽テ質屋ヲ営ミ後申報買弁トナリ次テ申報ヲ買収セリ第一革命ノ際革命ニ関スル戦争記事ヲ掲載シタル結果上海市民ノ攻撃ヲ招キ同新聞ヲ史家修ニ引渡スニ至レリ民国五年新申報ヲ創刊ス*11

 何もないよりましだくらいに思われるかもしれない。だが、項目として立てられているだけでも珍しい部類に属する。生年を推測する手がかりがここにある。該書が出版された年に数えで年齢四十九なら、1876年生まれだろう。
 探索する過程で、席子佩が、上海『申報』に関係するらしいことがわかった。新聞史、出版史の関係する書籍のいくつかを見れば、『申報』がらみで席子佩についての断片が浮かんでくる。
 しかし、断片はあくまでも断片にすぎない。徐載平、徐瑞芳『清末四十年申報史料』(新華出版社1988.4)および宋軍『《申報》的興衰』(上海社会科学院出版社1996.2)が、『申報』の歴史を述べて詳細である。ここでは両書を中心にして、二、三の資料を参照しながら席子佩について述べることにする*12。

7-1 『申報』
 『申報』は、1872年上海で創刊された。1949年に停刊するまで78年の歴史をもつ。創設者は、英国人のアーネスト・メイジャー(Ernest Major)である。
 彼は、兄フレデリック・メイジャー(Frederic Major)と貿易業に従事していた。のち上海でマッチ工場、水薬工場を設立したが不景気で、新しい財源を求めて新聞業に進出する。広告掲載で利益をあげることを考えたのだ。
 「買弁」陳〓庚の提案を受け入れ中国語新聞を創刊することにしたメイジャーは、友人ウッドワード(C.Woodward)、プライアー(W.B.Pryer*13)、マチロップ(John Machillop)の三人を誘う。各人は、銀400両を出し、合計1,600両を資金とした。メイジャーを経営責任者にし、資金は印刷機、活字など中国語新聞を発行するのに必要な器材購入にあてる。
 新聞の方針は、過去にあったようなキリスト教の宣教師がやったようでないもの、中国人読者の需要に合せるものでなければならないとした。ここから、経営と編集が分離することになる。英国人が出資経営するが、新聞の内容は、中国人のそれも科挙出身の秀才が決定するという形式ができたのだ。
 メイジャーにとって新聞経営は、利益をあげることが最大の目的だった。広告収入を増やすためには、大部数を発行しなければならない。売れる新聞にするためには、中国人読者が喜ぶ記事内容にしなければならない。中国人に編集を任せるのが適当となる。
 まず秀才の蒋〓湘を主筆に招き、1872年に『申報』を創刊した。財務会計(現在の社長)は、「買弁」趙逸如である。編集に銭〓伯、何桂笙を雇う一方、月刊『瀛寰瑣記』(1872)、『四溟瑣記』(1875)、『寰宇瑣記』(1876)を創刊、大衆紙『民報』(1876)も創刊する。印刷機器を利用しての事業のひとつだ。
 『瀛寰瑣記』といえば、私はいまだに目にしたことがないが、線装本の文芸雑誌だという。阿英『晩清文芸報刊述略』(上海・古典文学出版社1958.3)の巻頭を飾っている。英国小説の翻訳『〓夕閑談』が連載されていることでも有名だ。他の雑誌も『瀛寰瑣記』が改題したもの。
 また、1877年、『瀛寰画報(Wide World Illustrated News)』を創刊する*14。不定期刊でイギリス人のイラスト(絵図)に漢語の説明文を添える。これは、あの有名な『点石斎画報』(1884)の発行につながり、いずれも新しい試みだったということができる。
 新技術の導入にも積極的だった。1881年末から1882年にかけて天津−上海間の電報が開通した。これをニュース速報に利用したのが『申報』だった。北京で公表される科挙の殿試合格者を天津の電報を使って上海で報道する。知識人の関心をすくいあげる記事となり、上海とその近傍で大いに歓迎された。
 1883年の中法戦争の新聞報道でも読者をふやし、事業を順調に拡大していく。
 ひとつの転機は、1889年におとずれる。メイジャーは、体力の衰えを感じ帰国を考えた。関連企業である申報館、申昌書局、集成図書局、点石斎石印書局*15などをひとまとめに美査兄弟有限公司(Major Bros.Ltd)に改組することにする(一説に美査股〓有限公司)。
 のちの話だが、関連書店だけを合併して集成図書公司が組織された。1907年、席裕福*16が発起し小学校教科書などを編集したが、売れなかったという。
 さて、改組後の総資産は、銀30万両にのぼった。そのうち、メイジャー兄弟は、約10万両を回収して帰国する。最初の出資が400両だったから、莫大な利益をあげたということができよう。
 あたらしい会社は、4人の理事のうちひとりが中国人であるため、名義のうえでそれまでの英商独資から中外合資に変更になる(1909年まで)。そのおり『申報』の経営を担当していた「買弁」趙逸如が死去し(一説に辞職転業)、青浦人席子眉に代わった。この席子眉こそが、席子佩の兄なのだ。

7-2 席子佩(裕福)の登場
 1897年、席子眉が病死(享年四十八)すると、弟の席子佩があとを継いで『申報』を担当する。この時、席子佩は、二十二歳だ(兄子眉とは年のはなれた弟になる)。
 日清戦争前後に、『申報』主編に変化が生じた。最初の主筆・蒋〓湘は、1884年進士に合格して辞職する。後を継いだのが銭〓伯だ。銭〓伯は病弱で何桂笙に交代するが、何桂笙も病没し、4代目の主筆が黄協〓である。『申報』担当が席子佩へと交代したのは、この黄協〓の主編時代のことだった。
 黄協〓は、おりからの維新変法運動に反対し、戊戌政変後も康有為、梁啓超を新聞紙上で批判しつづけた。読者離れが進行しはじめた『申報』の発行部数は、下降をたどり、最盛期の1万部近くから6,7千部に減少する。経営母体である美査兄弟有限公司のイギリス人理事長の意向もあり編集陣の改組となった。
 1905年、それまでの康有為、梁啓超批判を改め180度の転換を宣言し、紙面も一新する。
 『申報』改革の主要因は、あくまでも経営側からの要望であることを確認しておきたい。利益優先の結果なのだ。
 批判の矛先を向ける新聞に対して、清朝政府は干渉しようにも、上海の租界には勢力が及ばない。1908年、両江総督は『申報』『新聞報』などに外国人の持ち株を排除させようとしている。同国人に対しては制御できると考えたものか。上から推進された利権回収運動の一環と見ることができよう。
 『申報』の経営を担当していた席子佩は、この状況に対してどういう態度をとったか。
 『申報』は、美査兄弟有限公司の改組によって名義上は合資であった。しかし、事実は、外国人の所有である。利権回収にならっていえば、外国人の持ち株を排除するというよりも、全部を中国側で買い取るという話にならざるをえない。
 1907年、イギリス人理事長は、情勢を判断し、中国側に『申報』を売却する提案をした。席子佩が購入することに決定する。1909年5月、7万5千元で席子佩に売却された『申報』は、創刊から37年を経て中国人の所有となったのだ。
 ところが、席子佩は、おかしな行動をとる。主権を回収したにもかかわらず、『申報』の名義は外国籍のままにした、というのだ。
 中国図書有限公司と席子佩の関係を考える時、『申報』について席子佩がとった態度が、どうしても問題になる。つまり、利権回収を唱えて中国図書有限公司を設立するならば、『申報』の買収=利権回収をなぜ隠すのか、だ。同一人物が、ほとんど同時期に矛盾した行動をとっていることになる。
 乏しい資料をつづって席子佩の行動をさぐった。少なくとも目につく席子佩の伝記が存在していない。ここに中国で下された席子佩についての評価を見ることができる。「買弁」であるがゆえに、伝記を残す価値がない、とでもいわんばかりである。今後、研究が進み、席子佩についても資料の発掘と整理が行なわれ、私の見方が変更を迫られる事態となるように望みたい。

8 おわりに――席子佩にとっての中国図書有限公司

 中国図書有限公司創立のうたい文句は、外国人排斥、すなわち中国人の自主独立である。その発起人のひとりである席子佩は、外国人の所有する『申報』の経営を担当していた。これほどの矛盾は、珍しい。言っていることと、やっていることが正反対なのだ。こういう場合、実際にとった行動がその人に対する評価のもとになる。口ではどんなことでも言うことができるからだ。
 1907年の集成図書公司についても同様だろう。もともとが美査兄弟有限公司が経営する書店だ。それも席子佩が始めたという。1907年といえば、その前年に中国図書有限公司の設立を宣言したばかりではないか。一方で、外国人排斥の中国図書有限公司創設を言い、その直後に外国資本の集成図書公司で教科書を発行する。さらには、『申報』を外国人から完全買収したにもかかわらず、それを公にはしない。表面からだけ見れば、大きな矛盾だといってもいい。
 ただ、表面的には矛盾だけだということはできるが、その底に「利潤追求」「利益獲得」という言葉を置けば、それはそれで筋が通るのだ。
 利潤をあげるためには、外国の旗を利用もするし、有利と見れば新規事業として教科書制作にも乗りだす。商務印書館に日本資本が加わっていることを批判し、口ざわりのいい利権回収を看板に掲げることくらい簡単なことだ。
 同じ上海にいて事業をすすめていた夏瑞芳が、席子佩の正体を知らないはずがない。商務印書館にとって中国図書有限公司が強敵になるかもしれない、という恐怖心もたしかにあったであろう。だが、二枚舌を使う席子佩に対して、夏瑞芳が自分で行なった秘策――デマを流し株価操作をしてまでも対抗したことについて、彼には良心の痛みはなかったのではないか。夏瑞芳は、それらを当然やるべき当たり前の自己防衛手段だと考えていたのではないかと想像するのだ。
 利権回収運動は、その時代の流れであったかもしれない。しかし、中国図書有限公司発起人、創設者の席子佩にとってみれば、単なるスローガン、または口実でしかなかった。教科書市場は、なによりも利益をあげることができそうな分野に見えたに違いない。発起人の内部にゴタゴタが発生したのは、各人の考え方が最初からズレていたからだろう。
 商務印書館の夏瑞芳は、中国図書有限公司の宣言など実体をともなわない茶番でしかないと判断したはずだ。しかし、夏瑞芳は、侮らなかった。必死の対抗策をとったのは、夏瑞芳のすぐれた経営感覚であったということができる。中国図書有限公司の出現は、商務印書館を襲ったライバルのひとつであったことにかわりはない。
 中国図書有限公司が、同年六月に締め切る予定だと公言していた株式募集について、八月末まで延長するという広告が掲載された(『申報』光緒三十二年六月二十九日1906.8.18)。集金状況の悪さを露呈している。夏瑞芳の対抗策が、功を奏したというべきか。
 結局のところ中国図書有限公司の出版活動は、組織の経験不足からいずれも商務印書館におよばなかったという。
 1914年、商務印書館に売却され、中国図書公司和記と改名する。1918年、終業して消滅した。 〓

【注】
1)「一九〇八年席子佩、傅子濂などが中国図書公司を創設し、張季直、曽少卿らが投資した。……」陸費逵「六十年来中国之出版業与印刷業」(初出『申報月刊』創刊号1932.7.15。13-18頁)にほどこされた張静廬注8。張静廬輯註『中国出版史料補編』北京・中華書局1957.5。283頁
「1908年2月17日、席子佩、傅子廉が創設した」馬学新、曹均偉、薛理勇、胡小静主編『上海文化源流辞典』上海社会科学院出版社1992.7。144頁
「1908年2月17日(正月十六日)中国図書公司総発行部営業を開始する」湯志鈞主編『近代上海大事記』上海辞書出版社1989.5。648頁
「中国図書公司は、1908年、席子佩らが創設し、張謇らが投資した……」張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』北京・商務印書館1991.12。131頁の注2
2)「商務印書館と夏瑞芳」『清末小説閑談』所収
3)『文史資料選輯』第43輯1964.3/1980.12第二次印刷(日本影印)。『商務印書館九十年――我和商務印書館』(北京・商務印書館1987.1)所収の該文には、なぜだか中国図書公司の章は省略されている。
4)樽本照雄「変化しつつある商務印書館研究の現在」『大阪経大論集』第46巻第3号(総第227号)1995.9.15
5)中村忠行「検証:商務印書館・金港堂の合弁(一)」『清末小説』第12号1989.12.1
6)樽本照雄「長尾雨山の教科書――初期商務印書館の印刷物」(下)『清末小説から』第44号1997.1.1
7)『支那経済全書』第12輯。472頁にも同様に書く。
8)『支那経済全書』第12輯にも所収。ただし、『申報』掲載とは人物に出入がある。
9)史和、姚福申、葉翠女弟編『中国近代報刊名録』福州・福建人民出版社1991.2。190頁。
10)朱聯保編撰『近現代上海出版業印象記』上海・学林出版社1993.2。103頁
11)外務省情報部『現代支那人名鑑』発行元不記1924.6。1092-1093頁
12)張黙「六十年来之申報」『申報月刊』創刊号1932.7.15。3-7頁。Roswell S.Britton“The Chinese Periodical Press 1800-1912”Kelly & Walsh,Limited 1933。また、史和、姚福申、葉翠女弟編『中国近代報刊名録』(福州・福建人民出版社1991.2。119-120頁)、方漢奇主編『中国新聞事業通史』第1巻(北京・中国人民大学出版社1992.9)を参照した。なお、『中国新聞年鑑(1983)』(中国社会科学出版社1983.10。592頁)の「新聞界名人介紹」に席子佩の項目がある。ただし、生卒年不詳とあり、わずか10行の記述でしかない。残念ながら、本稿に役立つ記事ではなかった。
13)宋軍の原文には、Pryceとある。無理に読めば、プライスだろう。しかし、中国語は普来亜で、そうはならない。徐載平、徐瑞芳説にしたがい(3頁)プライアーとしておく。
14)『瀛寰画報』について二説ある。申報館が創刊発行したとするもの、イギリスで出版したものを申報館が販売したとするもの。徐載平、徐瑞芳は、イギリスで出版し、イギリス人の絵に蔡爾康が説明を加え、上海へ郵送してきたものを販売したとする。319頁。宋軍も、メイジャーは、イギリスで出版していた『瀛寰画報』を上海で発売したことがある、と書いている。40頁。一方で、『中国近代報刊名録』は、中国早期の石印画刊であるとする。1877年6月6日創刊。364頁。同じく、朱聯保編撰『近現代上海出版業印象記』上海・学林出版社1993.2。155頁。考えてみれば、おかしな説明だ。イギリス人の絵に中国人が説明文を加えたものというならば、明らかに中国人を読者として想定しているのではないか。イギリスで創刊発行したものかもしれないが、これは中国で販売することを目的としていると考えるのが自然だ。となると、売り文句はイギリス製造出版でありながら、その実、企画実行は、申報館であった可能性が高いと私は考える。
15)朱聯保編撰『近現代上海出版業印象記』297-298頁
16)朱聯保編撰『近現代上海出版業印象記』378頁で「席豫福」とするが、席裕福の誤植だろう。朱聯保の勘違いかもしれない。


【付記】鱒澤彰夫氏より資料をいただきました。感謝します。


(たるもと てるお)