嶺 南 羽 衣 女 士 の こ と

小 林 寿 彦


 その後お元気でお過ごしのことと存じます。お送り下さいました「清末小説から」第49号、去る十二日落掌致しました。有難く御礼申し上げます。
 季節外れですが「年頭賀詞」、未だ御覧頂いてなかったと思いますので同封しました。年が改まってまた一段と健康の衰えを感じています。そんな訳で気晴らしに、『清末小説』第20号の王学鈞氏の論文を読んで、一寸気になったことを書きとめる気になりました。
 同論文、冒頭第一節、六行目の終りで、羽衣女士を張竹君とする説と、羅普とする説と「二説至今並存、是非未明。」と書いていますが、私はこの問題は殆ど解決されたと考えているので、そのことを書きます。
 1973年は清末小説『東欧女豪傑』研究史上画期的な年でした。この年に同小説の作者に関して、決定的な論文が二篇、日本で発表されます。その一つは中村忠行教授が『天理大学報』第85号に発表されたものであり、今一つは私の『東洋学報』第55巻第3号に載った論文です。夫々の掲載誌の発行年月は、前者が1973年3月、後者が1972年12月で、私のものの方が先に出たことになりますが、『東洋学報』の同じ号に載った別の論文には、1973年6月に「補記」を加えたという注記があることから明らかなように、この雑誌のこの号が実際に発行されたのは1973年の後半です。『天理学報』第85号が何時出たかは私にはわかりません。恐らく『東洋学報』が出る以前ではないかと思います。
 私がこのように二雑誌の発行時期の先後にこだわるのは、二論文の内容の核心が、この小説の素材源が煙山専太郎の『近世無政府主義』であることを発見したという点にあるからです。発明・発見にあってはpriorityが何より大事です。私の論文の方が公表が後れたことから、私が中村教授の論文を見て、それによって『東洋学報』の論文を書いたのではないかと疑われても仕方無い立場にあります。しかし私にとって幸いなことに今まで誰も私に疑いをかけた方はいないようです。事実、私が中村教授の論文の存在を知ったのはずっとあとのことです。そのことは、あの小説に関して別の論文を英文で纏めた際、明らかにしてあります。Priorityの問題については論文を書いている過程で「私の論文の取柄は『東欧女豪傑』が煙山専太郎の『近世無政府主義』に拠っていることを発見したことにある。既にそのことを言っている人がいるのなら、私の論文の値打ちはなくなる。その点どうであろうか」ということを、論文を最初に見ていただいた『東洋学報』主編の榎一雄先生にも尋ね、また兄の同僚で清末政治史を専門とされる、信州大学の永井算巳先生にも確めて頂いたものです。中国研究などに関心のうすいオーストラリアにいて日本の学界の最新の動向など分らないので心配だったのです。そんな手紙を書いていたのは多分1972年の6月頃ではなかつたかと思います。
 ここで私が実際に何時あの論文を纏めたかを少し説明しておきます。私が論文中に書いたことですが、私のあの論文はオーストラリア国立大で学位を取った S.K.Liew 氏の Struggle for Democracy という宋教仁研究の書評の副産物とも言うべきものです。書評の書き方にも色々あると思いますが、私は歴史研究では著者の史料の批判と解釈が研究の価値を左右すると考えますので、ただ出来上がった本を読んで感想を述べるのが書評ではない、著者の史料の選択が正しいか、史料の解釈が妥当であるかどうかを検討しなければならないと考えるのです。そこで書評を書く為には、著者が挙げている史料の原典に当たってみる必要が出てきます。この作業の過程で気付いたことは、この著者が呉相湘の著書によっているらしいことで、史料として第一次史料を挙げている場合も、実際は呉相湘からの孫引きではないかと思われるものが出てきます。例えば日刊紙『民立報』の記事が出てくるが、その日付に疑問がある。1911年武昌起義の後、革命の高揚から退潮と日を逐って変わって行きます。ある政治的主張が何日に提起されたかということが大事になります。本当にその日にこういう主張がなされたのかどうか確認しなければなりません。私には丁度そのころ台湾から出始めた影印本の清末民初の報刊資料に当たる便宜があったので、例えば『民立報』1912年七月「二十日」号の日付が、第二頁だけ「十二日」と誤植されているというようなことが見付かります。それは呉相湘の著書が「十二日」としていることなのです。
 こうして『俄事警聞』・『警鐘日報』とか『民立報』など見ていると、しきりに張竹君の名が出てくる。これは確か1972年中のことでした。私が小説『東欧女豪傑』に何時どうして関心を持つようになったかは思い出せません。1960年代には後進国の近代化の研究が非常に流行していたので、そんな風潮の中で私も西欧近代の合理主義思想の中国移入など考えていて、『近世無政府主義』とか小野川秀美教授の諸論考を読み、また阿英の『晩清小説史』や『小説二談』にも目を通して、『東欧女豪傑』の作者は張竹君であると心得ていた訳です。『東欧女豪傑』については、早く台北時代に中村教授に論考があることも「文献類目」か何かで探し出したのですが、その論文は、とうとう今日まで見ることが出来ないでいます。
 いろいろ材料が集まったところで論文を纏め、「こんなものを書いてみたが……」と榎一雄先生に送ったのが1972年の7月か8月の頃、おって「雑誌に載せることを検討しているが、実際の発行までに間があるから手を入れてみてはどうか」というお手紙を頂き、その間に更に新しい資料が見付かったりして、論文中の「張竹君余論」の部分を書き足して、最終稿を送ったのが年が改まった頃、それにその後気のついた訂正や補足を加えて、原稿が完全に私の手を離れたのは、1973年の2月頃だったと思います。この間の正確な日時は、そのころの往復書簡をひっばり出してみれば、もう少し確かなことが言えるのですが、今それをする気はありません。
 『東欧女豪傑』の作者問題がこじれた理由は、ひとえに金翼謀の「『東欧女豪傑』の作者「羽衣女士」は女医張竹君の筆名だ」という、余り根拠の確かでない記述を、不用意にも文学史家阿英が鵜呑みにし、後人が盲目的にそれに追随していることにあります。『女豪傑』の作者問題を検討する者はまずこの金翼謀の説が根拠薄弱であることに注目すべきなのですが、それはそっちのけにして、ひたすら阿英の説に追随しているのはおかしなことだと思います。金翼謀の『香奩詩話』では「磊磊奇情……」の詩の作者、「代羽衣女士」という「代」字を見落として張竹君自身の作とするとか、その詩が『飲冰室文集』に出てくることにも気付いていないとか、これはまことに杜撰な仕事であるというほかありません。
 私の論文の骨子は、私自身、歴史学徒としてあの小説を文学作品としてではなく、一史料としてとりあげ、そのいわば「内的批判」を試みたことにあります。歴史研究で内的批判というのは、例えば太閤の書簡というようなものを、それが本物か贋物か判定するのに、その手紙の筆跡が秀吉のものか、紙の古さはどうかなどを調べる外的批判にたいして、その手紙の内容が、豊臣秀吉について明らかにされている事実に照らして、いかにも秀吉が書きそうなことか、或いは秀吉がそんなことを書く筈がないようなことかなど検討するのです。この内的批判を『東欧女豪傑』に試みると、あの小説の主要人物、Narodnikiと呼ばれる人達に関する知識を、1902年頃、張竹君がどのようにして得たか、或いは張竹君が、広東で煙山専太郎の『近世無政府主義』にどうして接したか、またどういう伝手があって彼女の作品を、日本の横浜から出ている『新小説』の、しかもその創刊号から載せて貰うことが出来たのかを証明することが、張竹君説の決め手になります。しかし恐らくその事実はなかったのですから、それを証明することは殆ど不可能なのです。一方、記事の内容の信憑性がかなり高いと考えられる『警鐘日報』は、1904年中しきりに張竹君の活動をかなり詳しく報道しています。その中で、この張竹君こそ先年『東欧女豪傑』を書いた羽衣女士その人だという記述は出て来ません。もし張竹君が羽衣女士であったのなら、そんな筈はないだろうというのが、『警鐘日報』などせっせと読んで張竹君の事績をおった私の感想なのです。この小説について、阿英も「影響很大」と言っているのですから、小説発表後一年経つか経たないかの頃、その作者の活動を好意的に報道する場合、「この張竹君こそ、羽衣女士なのだ」と書くのが当然ではないでしょうか。
 これも既に書いたことですが、『世載堂雑憶』の記事を私なりに読むと、羅普は、これが羽衣女士だと偽って粤倡の写真を馬君武に見せ、馬君武はその写真の女、羽衣女士に会いたがったのだと理解されます。ところが馬君武は前に広東で張竹君本人に会っているのですから、その写真が張竹君の写真であった筈はありません。
 羽衣女士は張竹君の筆名であるという説は1973年を以て、殆ど完全に論拠を失ったので、「二説至今並存、是非未明。」ということではないように思うのです。
 なお、張竹君について馮自由は「民元以後、……惟韜光斂迹……」と書いていますが、波多野乾一の『中国共産党史』のどこかで「公安の手入れで張竹君が捕まった」という短い記述を見掛けました。その記事に対応する時期の『時報』や『大公報』にざっと目を通したのですが、都市部に於ける共産党手入れの記事はありましたが、張竹君の名を見付けることはできませんでした。この張竹君が羽衣女士とされる張竹君と同一人であるかどうかは分りません。気にかけていますが、私の探索はそれ以上進展していません。今、波多野の本の第何巻であったかも残念ながら思い出せません。
 Don C. Price著、 Russia and The Roots of the Chinese Revolution, 1896-1911 Harvard U.P.,1974 は題名から察せられるように、辛亥革命に先行する時期を対象とする歴史的研究ですが、煙山専太郎の書いたものが、当時の政治運動に携わっていた中国人に与えた影響を論じるなかで『東欧女豪傑』を取りあげています。この著者は『革命逸史』と、包天笑の自伝的作品『海上蜃楼』(上海;1926)下巻、第147頁の記述に基づいて羅普説に立ち、「張竹君は日本語が出来なかった」などの理由で、張竹君説を却けています(Price, P.250; n.23.参照)。『海上蜃楼』は最近の復刻本を求めてざっと読んだのですが、版が違うためかそのような記述を見付けることが出来ませんでした。Priceの本も、その原稿が書かれたのは矢張り1973年前後だったのでしょう。
 序でですが『東欧女豪傑』の作者を「宇曽女士」とするものがあります。私が見たのは張朋園の『梁啓超与清季革命』の中ですが、Don Priceは『新民叢報』第十七号(1902年10月)に載った『新小説』の広告かと思いますが、そこに宇曽女士の名が出てくることを述べています。この「宇曽」の字は漢語の熟語としては、“yuzeng”でも“yuceng”でも意味をなさないのではないでしょうか。ところがこれを日本語で音読みにすると「ウソ」になり、意味をもつようになります。私はこの点に興味をもっています。
 Priceは羅普が張竹君の筆名「羽衣女士」を借りた可能性を考えていますが、私はその可能性は少ないように思っています。金翼謀が有無を言わさぬといった調子で、「竹君女士、……自号嶺南羽衣女士」と書いているのは、確かに気になりますが、1902年頃、張竹君が羽衣女士を名乗っていたとか、羽衣女士の筆名で張竹君が文章を発表していたという証言はないようですし、また羽衣女士の名で書かれた張竹君の文章というものを私がまだ見ていないことから、「張竹君が嶺南羽衣女士と号した」という記述そのものに疑問をもつのです。
 しかし筆名「羽衣女士」には厄介な問題が付きまとっています。若し『新民叢報』第17号(1902年10月)に出た『新小説』創刊号の予告に『東欧女豪傑』宇曽女士著となっているのでしたら、『新民叢報』第17号とほぼ同じ頃出たと思われる『新小説』の本誌で、その筆者を羽衣女士と変えたのは何故かという問題が出てきます。次に「磊磊奇情」と「天女天花」の二詩は、小説本文には「俚句両首を以て証とする」として引かれています。「俚」を自作の謙譲語として使う用法は余り見掛けないように思われますので、「俚」は世間で行われているというような意味と、私は理解するのですがどうでしょうか。いずれにしてもこの二詩を、小説作者「羽衣女士」の作とはとりにくい書き方だと思います。それで梁啓超が「題東欧女豪傑」、代羽衣女士としてその作品を発表するのは至極妥当なのですが、「題」というのは「出来上がっている小説に題する」ということでしょうから、その詩が小説本文に出てくるというのは少し具合が悪いように思います。
 小説『東欧女豪傑』と梁啓超とのかかわりあいは、中村忠行数授が指摘されたことですが、例えば羅普が小説第一回の原稿を書き、それを梁啓超が読んであの詩を思い付き、出来た詩を羅普に見せる。羅普もその詩が気に入って小説本文に取り入れる、そんな楽屋話を考えればこの問題は解決します。しかしそれにしても最初なぜ「宇曽女士」としたか、それを何故、急遽「羽衣女士」に変えたかという問題は残ります。何れにせよこの変更に張竹君が関係していたとは思われません。
 『世載堂雑憶』の話ですが、羅普等が馬君武の関心を惹くために一才女の作品と偽って詩を示した時、羅普等が口にした名は「羽衣女士」であったろうと私は考えて来ました。それは「飲冰室詩話」に「君武、最愛読……羽衣女士所著『東欧女豪傑』、云々」と出てくるからです。この記述を文字通りに受け取れば、馬君武は羽衣女士が書いたという『東欧女豪傑』に出る「磊々奇情」と「天女天花」の二詩をみて、それに和して詩を作ったということでしょう。しかしあの小説の作者として「羽衣女士」の名を選んだのは何時であったかを決めることは難しいようです。
 劉成禺が「世載堂雑憶」を書いたのは、巻頭の「題辞」によれば成禺七十歳の時で西暦1945年前後のことです。すると馬君武の事件は辛亥革命とか北伐、或いは日中戦争などを挟んで四十余年も隔たりのある昔のことですから、それを劉成禺が正確に覚えていなかったとしても不思議ではありません。『世載堂雑憶』の記述が正確でないのは王学釣論文のいう通りでしょう。しかし劉成禺が書きたかったことは、正確な事実ではなく梁啓超等が馬君武を騙したという逸話でしょう。罪は他愛もない一篇の挿話に尾鰭をつけて、俗受けのしそうな読物に仕立てた、「美人計」の作者にあると私は考えます。
 内輪話ですが、十年程前に勤めをやめて、大学に置いてあった本を引上げることになった結果、目下私の蔵書はお互いに数キロ離れた三ヶ所に分散しています。自宅のものも大部分はガレージに積み上げられていて、ある本がそこにあると分っていても見ることが出来ない状態です。Priceの本も持っていたと思うのですが、大学図書館まで行って調べてきました。そんな訳で、まだいろいろ不確かな点が残っています。申し訳ありません。
 『世載堂雑憶』にある事件は何時起こったか?考えてみました。
 馬君武が張竹君にあったのは 辛丑秋(『新民叢報』:No.7;「女士張竹君伝」)
 馬君武が日本に来たのは 辛丑冬(「馬君武詩稿」、王論文 P.150)
 馬君武の論文は、壬寅(1902年)5-6月頃からしきりに『新民叢報』に現れます。すると劉成禺のいう事件は、1902年の中頃で、『新小説』創刊以前であった可能性もあるように思われます。

(こばやし としひこ)
【編者より】オーストラリア在住の小林寿彦氏より、1998年3月26日付のお手紙をいただいた。投稿を意図していない、と添書きされている。しかし、重要な内容であると判断したので筆者の承諾を得て本誌に掲載する。5月22日付来信で追加した。「張竹君女士小影」(『女子世界』第9期)は、珍しいと考えたのでここに掲げる(省略)。