魯迅「斯巴逹之魂」について


樽本照雄


 魯迅が自樹名義で発表した「斯巴逹之魂」は、創作小説である、という主張がなされている。たとえば、呉作橋「魯迅的第一篇小説応是《斯巴達之魂》」(『上海魯迅研究』第4輯 1991.6)、呉作橋、周暁莉「晩清小説的奇株異葩――談魯迅的《斯巴達之魂》」(『清末小説から』第55号 1999.10.1)などだ。
 翻訳説を否定し、創作であることを強調するところに特徴がある。該作品は翻訳小説だ、と私は漠然と思っていた。だから、強い調子で「斯巴達之魂」は、魯迅の最初の創作小説であり、成功した短篇小説だとする立論に対して少し奇異に感じたことを言っておきたい。見ると「斯巴逹之魂」創作説は、かなり前からとなえられているらしい。
 では、日本においてはどうか。気をつけて探しても、魯迅「斯巴逹之魂」が創作であるか、翻訳なのか、はっきりしない。小説、翻案小説、翻訳に近い、などと書かれているだけで専論が見当たらない。
 日本で議論が少ない理由を推測することは、容易だ。翻訳である、というためには「斯巴逹之魂」が拠った原作を提示しなければならない。しかし、その原作は、現在にいたるまで探し当てられていない。探索の努力は続けられているようだが、成功していないことになる。資料がないのだから、創作か翻訳かについての議論には参加しない。日本では、ごく当然の反応だろう。
 資料のないところで、「斯巴逹之魂」が創作小説であると断言し主張するのは、ある種の勇気が必要とされる。
 本論では、魯迅「斯巴逹之魂」の内容を検討することによって、翻訳と創作について考えることにする。

◎1 「斯巴達之魂」の発表
 「斯巴達之魂」は、日本で発行されていた浙江同郷会の『浙江潮』第5期(癸卯五月二十日<1903.6.15>)および第9期(癸卯九月二十日<1903.11.8>)の小説欄に、2回連載で完結した。
 署名は、自樹と書かれているだけで「著」とはなっていない。また、翻訳であるとも明記されていない。ただし、冒頭部分に「訳者は無学で(原文:訳者無文)」と記されていて、「訳者」とわざわざいうのだから、翻訳らしいとはわかる。だが、原作も原作者も掲げられていない。それでは創作かといえば、一見してそうではなさそうに思える。
 まず題名が「スパルタの魂」とあるところからもわかるように、題材が古代ギリシアから取られている。
 ギリシア征服を計画したペルシア帝国の王ダレイオスは、マラトンでの戦いに敗れ遠征に失敗した。ダレイオス王の死後、後継者クセルクセスは、紀元前480年、大量の陸海軍をギリシアに派遣する。第3次ペルシア戦争である。陸上でペルシア軍をくいとめる場所として中部ギリシアの要害の地テルモピュライが選ばれた。ここにスパルタ軍を指揮してレオニダス王が乗り込む。数の上で圧倒的に優勢なペルシャ軍に対して、ごく少数のスパルタ軍を中心としたギリシア同盟軍が守備にまわる。こうして壮絶な戦闘が始まる。
 著名な物語ではあるが、日本に来て約1年と少しの魯迅が、古代ギリシアについての資料を何も持たずに創作できるような題材ではない。ギリシア、ペルシアの人名、地名などの固有名詞を考えるだけで、拠った資料があるはずだと容易に想像がつく。
 テルモピュライにおける戦いは、ヘロドトスがその著書『歴史』のなかで詳細に描写している。『歴史』を基本において、魯迅の記述と照らし合わせてみよう。

◎2 手掛かり1:沢耳士=クセルクセス
 「斯巴達之魂」書き出しの説明文を、魯迅が使用した固有名詞をカッコ内に注記しながら以下に示す。

 西暦紀元前四百八十年、ペルシア(波斯)王クセルクセス(沢耳士)は、大挙してギリシア(希臘)に侵入した。スパルタ(斯巴達)王レオニダス(黎河尼佗)は、市民三百、同盟軍数千を率いて温泉門(徳爾摩比勒(テルモピュライ))を守備する。敵は、抜け道からやってきた。スパルタの将士は決死の戦いをし、全軍がここに殲滅された。(後略)

 松枝茂夫は、「沢耳士」を「ダリウス」と翻訳し、それに注して「実はダリウスの子のクセルクセス」(154頁)と書いた。「沢耳士」は、現代中国音で読めば、いかにもクセルクセスとは読めないように感じる。だから魯迅が誤ったと判断してこその訳語と注釈だったのだろう。だが、これは松枝茂夫の誤解である。クセルクセスの英語表記Xerxesは、「沢耳士」となっている先例があるのだ。
 たとえば、楯岡良知訳『官版希臘史略』(文部省壬申初冬刊行1872)には、漢字表記「沢耳士」に「ゼルセス」とルビが振ってある。原書は、息〓爾(セウェール)著『ホルスト、ヒストリー、ヲフ、ギリーシ』(ニューヨーク1869)で児童向けギリシア史だという。
 また、『低洛爾氏 万国史』(文部省印行1878.5)にも「沢耳士」にゼクルセスとルビがある(229頁)。この原書は、英・維廉(ウイレム)、孤古(クーク)、低洛爾(テイラー)『エ、マニューアル、オフ、エンシェント、エンド、モゾルン、ヒストリー』(ニューヨーク1867)だと説明されている。
 さらにいえば、岡本監輔著(編纂)、中村正直閲『万国史記』(1878.6.27版権免許。序に、副島種臣、成斎重野安繹、敬宇中村正直)の巻六、希臘国記、八ウ-九オには、「大流士憤馬拉敦之敗。将再挙。会病卒。子沢耳士嗣立、誓報讐。四百八十年、発兵数百万、伐希臘」ともある。もともとがこの通り漢文で書かれており、のち上海で復刻された(同名書 上海・六先書局 光緒丁酉<1897>年校印)。
 いずれもクセルクセスを「沢耳士」と表記しているところから、魯迅もそれにならったことがわかる。

◎3 手掛かり2:温泉門=テルモピュライ
 魯迅が日本語の資料を使用したと推測できる証拠が、上の冒頭部分に見える。注目していただきたい。すなわちテルモピュライという地名を温泉門と記述している箇所である。
 テルモピュライを、なぜ温泉門と翻訳できたのか。カタカナでテルモピュライと地名が出てきたら、せいぜいが「徳爾摩比勒」と音訳するくらいのことだろう。
 多くの指摘があるように、テルモピュライにおけるスパルタの戦いは、当時の中国人留学生の間では共通の認識になっていた事実がある。
 1903年、ロシアの政策に反対して留学生の義勇隊が組織された。その義勇隊が北洋大臣にあてた手紙が『浙江潮』第4期に掲載されている。魯迅の「斯巴達之魂」が載る前の号にあたる。その手紙の中に、このテルモピュライの戦闘に触れる部分があるのだ。こちらはレオニダスを音訳して「留尼達士」、テルモピュライを「徳摩比勒」としており、魯迅の使用した表記「黎河尼佗」「徳爾摩比勒」とは異なる。日本語のカタカナを中国語に音訳すれば、これくらい微妙な違いがでるのが当たり前だろう。
 そこで、テルモピュライをなぜ温泉門と呼ぶか説明しておこう。ヘロドトス『歴史』巻Pの176節と201節に解説がある。「この(注:テルモピュライ)通路には温泉が湧き出ており、土地の者はこれを「鍋の湯(ルビ:キュトロイ)」と呼んでいる。また温泉の傍にヘラクレスの祭壇が設けてある。以前、この通路を扼して城壁が築かれたことがあり、古くはこれに関門もあった」
 温泉(テルモ)の門(あるいは隘路、ピュライ)で温泉門というわけだ。これは日本語訳でしか出てきようがない訳語だといえる。
 事実、坂本健一訳『ヘロドトス』(隆文館1914.2.8)に「温泉門(テルモピレ)」とある。しかし、発行年を見ればわかるように魯迅の文章からは、だいぶ後の出版になる。魯迅は、坂本訳を見ることができない。
 渋江保『希臘波斯戦史』(博文館1896.9.26。142頁)には、「セルモピレ(暖門)」と書かれる。その書名と発行時期からして、魅力的な書物ではあるが、魯迅の資料となった可能性は低い。
 魯迅の文章に温泉門とある以上、拠った日本語の資料があったはずであることは間違いなかろう。

◎4 手掛かり3:不死軍=アタナトイ
 ペルシア王が「不死部隊(アタナトイ)」(P211)と呼んでいたペルシア人部隊があった。これを魯迅は、「不死軍」と記述している。「アタナトイ」を音訳していないところから見れば、これまた、原文が日本語であった証拠となるだろう。
 魯迅「斯巴達之魂」が描くテルモピュライの戦いは、前述のようにヘロドトス『歴史』が詳しい。では、魯迅は、ヘロドトスのみに拠って「斯巴達之魂」を書いたかといえば、そうではない。

◎5 手掛かり4:衣駄=イダ
 ヘロドトス『歴史』にはない記述を魯迅が採択している例がある。
 ひとつは、山の名前「衣駄(イダ)」である。魯迅は、エーゲ海からマリス湾より筆をのばして「衣駄」の第一峰と書く。一方で、ヘロドトスが示すのはオイテ山(P176)だから、魯迅の記述とは異なる。
 魯迅が「衣駄」と表記するのは、ひとり魯迅の誤りであるとは限らない。魯迅が見た資料原文が「イダ」山となっていれば、魯迅も「衣駄」と訳すだろう。事実、「イータ」とする文献がある。
 宮川鉄次郎『希臘羅馬史』(博文館1890.2.28。59頁)には、「紀元前四百八十年七月、ぺるしやノ陸軍、既ニせるもぴりーノ山麓ニ達セリ、せるもぴりーハ山間ノ峡路ナリ、一方ニいーたノ嶮山アリ、一方ニハまりすノ海湾アリ、実ニ希臘要衝タリ」と述べられている。この宮川の著作は、中国語に翻訳された可能性が大きい。日本で発行されていた湖南グループの『遊学訳編』第4冊(光緒二十九年正月十五日<1903.2.12>)の広告に書名が見える。すでに半ばまで翻訳が進んでいるから、他の人が重訳しないように呼びかける広告だ。
 以上は、魯迅が、ヘロドトスを基本文献とはしていても、ヘロドトス以外の資料に拠った可能性を示唆している。同じような例をもうひとつあげてみよう。

◎6 手掛かり5:愛飛得=エピアルテス
 テルモピュライを迂回する抜け道があることをペルシア軍に告げたのは、エピアルテスである。抜け道をたどったペルシア軍は、スパルタ軍の背後に到着し、これがスパルタ軍全滅の原因となった。エピアルテスは、スパルタにとっては裏切り者である。魯迅の説明文を下に示す。

 テッサリア(奢刹利)人のエピアルテス(愛飛得)という者、イダ(衣駄)山中に抜け道のあることを敵に告げた。ゆえに敵軍万余は、夜に乗じて進撃し、ポキス(仏雪)の守兵を敗り、わが軍の背後を攻撃した。

 別の箇所でも魯迅は「テッサリア人のエピアルテス」と書いている。これは、ヘロドトスの記述とは異なる。ヘロドトスによれば、エピアルテスは、トラキス人だ(Z175、214)。テッサリアは、エピアルテスの逃亡先でしかない。ここにも出てきているイダ山中は、オイテ山中とする文章もあることはすでに述べた。
 ただし、ヘロドトスとは別に、エピアルテスをテッサリア人とする文献が実在している。これもイダ山と書く文献があることと同じだ。普魯士・勿的爾Welter著、荷蘭・珀爾倔訳、西村鼎重訳『泰西史鑑』(求諸己斎蔵梓1869/上編巻5)にエピアルテス(以匪亜爾的)を「徳沙利ノ人ナリ」と記述する。「徳沙利」はテッサリアだ。
 「奢刹利」と「徳沙利」では漢字表記が異なる。魯迅が『泰西史鑑』を材料に使ったということはなさそうだ。しかし、エピアルテスをテッサリア人とする資料があることの例とすることができる。
 ヘロドトスと魯迅の文章には、事実の相違点が存在する。ゆえに魯迅は、ヘロドトスを直接の資料に使ったわけではないことがわかるだろう。そもそも、日本におけるヘロドトス『歴史』本体の翻訳は、魯迅が「斯巴達之魂」を書いた時には、参照するには間に合わなかったように思われる。
 ついでだから疑問をひとつ提出しておく。
 レオニダス王は、少数のスパルタ軍を率いてペルシアの大軍と戦うと決めた時、同行していた預言者「息毎〓ka」の命を救おうとした。「息毎〓ka」は、それを断った、というくだりだ。
 ヘロドトス『歴史』P221には、次のように書かれている。「……それはかの従軍の占者メギスティアスのことであるが、彼はアカルナニアの出身で、……レオニダスがこの占者をも、自分たちと運命を共にさせぬため、送り還そうとしたことは明白な事実である。彼は帰るようにすすめられながらも自分は立ち去らず、一緒に従軍していた一人子の息子を帰したのであった」
 魯迅の書く「息毎〓ka」は、明らかにメギスティアスに違いない。そうなると「息毎〓ka」とするのは、魯迅の誤記ではなかろうか。漢字を入れ替えて「毎〓ka息」とすれば、メギスティアスに近くなる。
 メギスティアスには息子がいて、一緒に従軍していたのを、息子の命だけを救った、という。魯迅の文章には、その部分はない。よった資料には、息子の部分がはじめから欠落していたのか、それとも魯迅が削除したのか。原文が特定できないから、そのどちらとも今は言うことはできない。
 テルモピュライの戦いを描いてヘロドトスが詳細だから、大方の文章は、ヘロドトスに拠っているということができる。しかし、前述したように、魯迅がヘロドトス『歴史』を、直接の材料にしたというわけではない。『歴史』をもとにした欧米の著作が日本語に重訳され、その重訳本を魯迅は参考にしたはずだ。とはいえ、どれか特定できる1冊だけに依拠したとは思われない。なぜならば、つぎのような箇所があるからだ。

◎7 典拠複数説
 テルモピュライのギリシア軍は、ペルシアの大軍が押し寄せてきそうだと聞いて恐慌をきたした。撤退の是非を協議するとスパルタを除く他のペロポネソス軍は、撤退を主張する。しかし、ポキス人とロクリス人とがこれに反対した(P207)。それでポキス人は、抜け道を守備していたのだった(P217)。
 これがポキス人についてのヘロドトスの説明である。ポキス人は、あくまでも残留を主張し、抜け道の守備に回っていたというのだから話に矛盾したところはない。魯迅の上述「ゆえに敵軍万余は、夜に乗じて進撃し、ポキス(仏雪)の守兵を敗り」につながる。
 ところが、魯迅は、同じポキス軍について奇妙な記述をするのだ。撤退したもののうちにポキス軍を含めている。

 ここにおいて、ペロポネソス(胚羅蓬)諸州軍三千が退き、ポキス(訪〓斯)軍一千が退き、ロクリス(螺克烈)軍六百が退いた。退かぬ者は、ただテスピアイ(刹司駭)人七百のみであった。

 魯迅の記述の通りに考えれば、抜け道で敗れたのがポキス(仏雪)軍であるのならば、撤退したもののうちにポキスを含めるのは矛盾する。だから、魯迅は、「仏雪」ではなく別物と考えて「訪〓斯」と書いたものか。どのみち、上の記述は、もともとが間違った文章だった。他の例と同様に、魯迅の拠った文章にそのように書かれていたのだろう。
 魯迅は、同じはずのポキスに「仏雪」と「訪〓斯」のふた通りの訳語をあてた。この事実から推測されるのは、魯迅は、少なくとも2種類以上の資料を参照したのではないか、ということだ。
 魯迅が拠った資料は、複数であって、その中にはヘロドトス『歴史』以外から引用した文章も含まれている。
 魯迅全集の注釈にもあるように、プルタルコスの著作から3例が見える。

 魯迅1:スパルタの女子のみが男児を支配する事ができる。スパルタの女子のみが男児を生むことができる。これはレオニダス王の后ゴルゴー(格爾歌)が外国の女王に答えた言葉ではなかったか。
 リュクルゴス第14節:レオニダスの妻ゴルゴーについて伝えられていることを、自分でも言ったり考えたりするようになった。たぶん外人のある女が彼女に向って、「あなたたちラコニア女だけが男を支配していますね」と言ったとき、彼女は「私たちだけが男を生むからです」と答えたのである。

 魯迅2:「願わくば汝盾を持ちて帰りたまえ、しからずば盾に乗りて帰りたまえ」というのをあなたは何度も聞かれているでしょう。
 倫理論集142F:盾を持って戦うか、盾にのって運ばれるか(櫻井悠美からの孫引きによる。出典を該書241Fとするものがあるが未確認)

 魯迅3:もし男の子ならば、弱ければタユゲトス(泰〓托士)の谷に捨てましょう。
 リュクルゴス第16節:もしその子が劣悪で不格好であれば、そもそもの始めからまったく健康と体力向きに生まれつかなかった子が生きることは、その子自身にも国家にもよくないとして、タユゲトス山の傍のアポテタイといわれる深い穴のような場所へ送り出した。

 以上の引用は、偶然だろうが魯迅の該文中の創作部分に出現している。
 材料は、複雑なのだ。ヘロドトス『歴史』に基本を置き、スパルタについての関連文章を参照する。ただし、関連文章を参照するといっても、プルタルコスからの直接の引用ではなかろう。ヘロドトスとプルタルコスを混合して記述されたもとの文章(欧米の文献)があって、それを日本語に重訳した文章、それも複数から魯迅は材料を得ているのではないか。そうであれば編集翻訳、つまり編訳ということになる。これに魯迅の創作がつけくわえられる。図式にすれば以下のようになるだろう。

ヘロドトス、プルタルコスなど→複数の欧米訳→複数の日本語訳→編訳+創作=魯迅「斯巴達之魂」

 魯迅自身の筆による創作部分とは何か。

◎8 創作部分
 魯迅が創作したのではなかろうか、と思われる部分は、全体の調子からはずれ、奇妙だとしか考えられない、破綻した箇所となっている。スパルタに中国をつないだような矛盾のかたまりである。創作部分のためにヘロドトスの記述を改変してもいる。
 問題の箇所は、敵前逃亡者アリストデモス(亜里士多徳/実在)とその妻セレナ(〓烈娜/創作)およびケルタス(克力泰士/創作)にまつわる。いわば魯迅「斯巴達之魂」のクライマックス部分である。
 魯迅によって創作された人物の日本語による読み方は、当然ながら一定しない。〓烈娜が、エイレネ(松枝)、セレーネ(岩城)となり、克力泰士が、クリュタイス(松枝)、クウリトス(岩城)というぐあいだ。実在しない人間だから、その読み方は魯迅しか知らない。
 私は、月の神がセレネだから、〓烈娜は、セレネと読む。克力泰士は、『歴史』P137に登場するシタルケスを逆に置き換えたのではないかと考えて、ケルタスと読んでおく。
 なぜ魯迅の創作とわかるかと言えば、ヘロドトスはアリストデモス本人については記述しているが、彼に妻セレナがいるとは書いておらず、ましてやケルタスに言及することがない。
 特にセレナは、スパルタの女性ではありえない。なぜなら、セレナという女性がとる行動は、スパルタ人ならば絶対にするはずのない種類の行動であるからだ。そういう創造ができるのは、魯迅をおいて他には存在しない。
 魯迅の「斯巴達之魂」は、セレナとケルタスを登場させたために、話の筋がヘロドトスと異なってしまった。ついには、いたるところに論理の綻びが生じてしまう。しかも魯迅自身は、そのことに気がついていない。気づいていたかもしれないが、強引に無視している。ここが重要なところだ。
 まず、ヘロドトスが述べるアリストデモスの物語から紹介しよう。

○ヘロドトスのアリストデモス
 スパルタ三百の将兵のうちエウリュトスとアリストデモスの二人は、眼病を患っていた。ふたりともにレオニダス王の許可を得て陣地を離れ、アルペノイで病床についていたため命をながらえることになる。エウリュトスは、従卒の奴隷に命じて自らを戦場に連れて行かせ、乱戦のなかに躍りこみ討ち死にをする。一方、心臆したアリストデモスは、スパルタに帰国し死を免れようとしたため、「スパルタの国民がアリストデモスに激怒したのは避けられぬことであった」(P229)。
 「スパルタに帰国したアリストデモスは、国民の指弾を受け、恥辱を加えられた。彼が蒙った恥辱がどのようなものであったかといえば、スパルタでは誰一人として彼に火を貸すものも、彼と言葉を交すものもなく、また「腰抜けアリストデモス」の汚名をも得たのであった。しかし彼はプラタイアの戦闘では、蒙った汚名を剰すところなく雪いだのであった」(P231)。ここに見える「恥辱」には、法的制裁が含まれているという。
 後のプラタイアの戦いにおけるアリストデモスをヘロドトスは、次のように説明している。
 「また私の見解によれば、個人として抜群の武功のあったのはアリストダママモスで、彼こそテルモピュライの戦いで三百名中ただ一人生き残り、恥辱と汚名を蒙っていた人である。……アリストダママモスはわが身に負っている非難を免れるために、明らかに死を望んでおり、狂乱の状態で戦列からとび出して大功を樹てたのであるが、……いずれにせよこの戦いで戦死したもののうち、右に挙げた面々はアリストダママモス以外はすべて、その名誉を顕彰されたが、先に述べた理由で自ら死を求めたアリストダママモスのみはその恩典にあずからなかったのである」(R71)
 敵前逃亡を行なったアリストデモスに対して、スパルタの全国民が指弾を実行したという、おそるべき社会風土を説明してあますところがない。その屈辱があったからこそ、汚名を晴らすためにアリストデモスは、プラタイアの戦闘で大功をたてなければならなかった。しかも、大功を立てたにもかかわらず、一度でも汚名をこうむったアリストデモスに対しては名誉を顕彰されることはなかったという厳しさをも明らかにしている。ヘロドトスは、アリストデモス物語を述べてスパルタの尚武精神を十分に印象づけている。簡潔であると同時に十分な説明であるということができよう。
 スパルタにおいて、怯懦に対しては社会制裁が存在してことを述べたヘロドトスに対して、魯迅は、いかなる改変を加えたのだろうか。

○魯迅のアリストデモス
 眼病院にいたふたりのスパルタ人のうち戦場に身を投じたエウリュトスについて、魯迅は、その事跡のみを記述して名前を省略する。
 以下が、魯迅の創作になる部分である。
 アリストデモスは、身重の妻セレナの元に帰る。セレナは、戦死しなかった夫を責め、罵る。そのあげく「ああ、スパルタの武徳はなんと衰えたことでしょう。私は、夫を辱めました。あなたのそばで死にとうございます」といって自殺する。その模様を見ていたケルタスという者がいた。彼はセレナを慕うていたが、ひじ鉄を食らっている。そのケルタスが訴えたらしく、「温泉門の堕落戦士アリストデモスを捕らえきたものには褒美を授ける」と政府の命令が書かれたものが残っている。これによりアリストデモスがスパルタから逃走したことを暗示する。のちプラタイアにおける戦闘で死んだアリストデモスを発見したのがケルタスであった。ケルタスからの報告を受けたパウサニアス将軍は、これを葬ってやろうとしたが、全軍それを拒否する。将軍は、称賛の演説をし、その締めくくりに「彼には墓はないが、彼はついにスパルタ戦士の魂をもつ」と発言したところが、ケルタスは、「その妻セレナが死をもって諌めたからだ」と叫び、ことの次第を説明した。将軍は、セレナの記念碑を建てることを提案する。「これがセレナの碑だ。またすなわちスパルタの国だ」で魯迅の一文は完結する。

○大いなる疑問
 臆病な夫を自らの死によって諌めた女丈夫セレナを賛美して、めでたしスパルタの女、賞賛すべきスパルタの魂、尚武精神と若い魯迅はいいたかったのだろう。中国人向けに発行されていた雑誌『浙江潮』に掲載したのだから、中国人が読んでそういう印象を抱くように、セレナという女性を魯迅は特に意をもちいて創作したのだ。
 だが、読めばよむほど、魯迅の意図は、裏目に出たとしか思えない。いくつかの疑問がわきあがってくる。
 第一に不可解なのは、ケルタスという男をなぜ魯迅が設定したのかという疑問だ。
 単なる狂言回しのつもりなのか。ケルタスは、人妻に恋慕して窓の外から内をうかがい、アリストデモスに賞金を懸けるように仕向け、アリストデモスの死体を捜し出し、ことの顛末を公表してセレナの記念碑を建立する切っ掛けを作る。
 ケルタスが取った行動を見れば、この人物からは、なんともいいようのない不潔で不快な印象しか伝わってこない。さらに魯迅は、よりにもよってセレナとケルタスの不倫すらも匂わせている。一応、セレナがひじ鉄を食わせていることにはしている。しかし、夫が出征しているあいだ、ケルタスがしょっちゅうセレナの家を訪ねてきていることが暗示されているのだ。すなわち、戸が叩かれる音を聞いただけで、スッと「ケルタスさんですか。明日きてくださいな」とセレナは答える。誰かと問う前に「ケルタス」とセレナの口から名前がでるくらいの間柄だと理解できるように魯迅は描写している。
 スパルタにおいては、姦通ということは考えられなかったことになっている。「リュクルゴス」15が伝えるところによると、外人からスパルタでは姦通者はどのような罰を受けるのかと質問をされたゲラダスというスパルタ人がいた。一人もいない、と答えると、外人はしつこく「でももしいれば」と問い返す。ゲラダスは「タユゲトス山の向うから首を伸ばしてエウロータス川の水を飲む大きな牡牛を支払います」と言った。相手が驚いて、信じない。ゲラダスは笑って、「スパルタでは姦通者がいることがどうしてありましょう」と答えたという。
 これを知っていれば、ケルタスの存在がうさん臭いものだと理解できるだろう。
 アリストデモスの首に賞金を懸けたのも、魯迅の改変である。これは、乱暴な書き換えであるといわなければならない。なぜなら、懸賞をかけることによって、魯迅は、アリストデモスを救いようのない犯罪者におとしめてしまったからだ。
 「腰抜けアリストデモス」と呼ばれ、社会から糾弾される存在であった、とヘロドトスは記述する。そういうアリストデモスではあったが、スパルタから逃亡したわけではない。ここに注意したい。アリストデモスは、その社会的制裁を耐え忍んだことにより、その反動でのちのプラタイア戦で汚名を雪ぐ死闘へと駆り立てられることになった。それでも名誉を顕彰されることはなかったという厳しさを私たちは知っている。
 魯迅の筆になる、一方のアリストデモスは、身重の妻に罵られ、自殺までされて、ついには逃亡して首に懸賞がかけられる身になった。はたして、そのような犯罪者がふたたびスパルタ軍の一員として戦闘に参加できたかどうかは、はなはだあやしくなる。
 そもそも、懸賞が出されるほどの罪悪人といえば、スパルタ軍が壊滅する原因を作り出したあの密告者エピアルテスをおいて他にはいない。ヘロドトスは、密告者エピアルテスについて「代議員会はこの男の首に賞金を懸けることを発表した」(P213)と書いている。魯迅は、エピアルテスに行なわれたことをアリストデモスに置き換えた。裏切り者にふさわしい懸賞金をアリストデモスに背負わせたのは、罪の軽重を逆転させる改変といわなければならないだろう。乱暴な書き換えというのは、話のつじつまが合わなくなったと考えるからだ。
 魯迅の創作した人物で、最大の疑問がセレナという女性である。
 スパルタの女性は、戦場における男たちの行動に敏感であったという。勇敢に戦ったかどうかを気にした。「リュクルゴス」25に、息子がスパルタ人にふさわしく死んだかどうかを質問する母親の話がある。死んだ息子がほめたたえられると、その母親は、息子よりすぐれた人がたくさんいる、と謙遜したことになっている。話が逆になれば、勇敢に戦わず生きて帰ってきた息子を殺害した母親もいたという。
 魯迅が、セレナという女性をわざわざ創作したのであれば、怯懦の罪により彼女に夫を殺害させてこそ尚武精神の発揮となるのではないか。そうしてこそスパルタの女性なのだ。
 セレナが、夫アリストデモスが生還したのを見て罵るだけで彼を殺さなかったのが疑問のひとつである。
 だから、セレナが身重でありながら死をもって夫を諌めたという行為は、どう考えてもスパルタの女性らしくない。自殺によって他を諌めるというのは、中国人の思考および行動様式ではなかろうか。セレナは、スパルタの女性ではなく、まったくの中国人であるとしかいいようがない。
 パウサニアス将軍の行動にも不可解な点がある。
 魯迅の筆になるパウサニアス将軍は、アリストデモスを手厚く葬ろうとし、全軍の反対にあって断念している。これでは、アリストデモスの首に賞金が懸っていることを将軍が知らないことになる。また、埋葬に関するスパルタのしきたりをパウサニアスが無視するという不可解な筋運びにもなる。魯迅は、将軍に軽率な行動を取らせた。これが矛盾だというのだ。
 スパルタには、埋葬についての規制があった。これも「リュクルゴス」27に「戦争において倒れた男と産褥で死んだ女の他には、埋葬を行なう者たちが死者の名前を墓標に記すことは許されなかった」と書いてある。
 これは埋葬の規則を言うと同時に、スパルタにおける男女の役割分担をも示している。すなわち、スパルタでは国家に対する貢献は、男は戦争に参加することであり、女においては子を生むことを意味した。ゆえに出産時の女の死去は、男の戦死と同価値であったということだ。これを知れば、セレナが身重でありながら自殺をするはずがないことが理解できる。アリストデモスは、敵前逃亡により祖国の名誉を傷つけた。妻のセレナが子を生まずして自殺したことは、祖国に背くという点で夫と同罪になる。死をもって諌めたことなどスパルタにおいては、犯罪にはなっても賞賛されるべき行為であるはずがない。
 アリストデモスは、後に勇敢に戦って死んだが、それ以前の敵前逃亡という罪があったために名誉は顕彰されなかった。一方でセレナは、自殺である。墓標に名前が記されるわけもなく、ましてや記念碑などもってのほかである。スパルタに関する魯迅の知識が疑われてもしかたがなかろう。
 魯迅の恣意的な改変は、小さいところにもある。眼病を患っていたもうひとりのエウリュトスに従った奴隷についてだ。ヘロドトスは、次のように描写する。「エウリュトスの方はペルシア軍の迂回作戦を知るや、武具をとり寄せて身につけ、従卒の奴隷に自分を戦場まで連れてゆけと命じた。従卒に手をひかれて戦場に着くと、案内してきた従卒は逃亡したが、エウリュトスは乱戦の真只中に躍り込み討死を遂げた」(P229)
 奴隷が逃亡するのは、当然だろう。スパルタ人の戦いであって奴隷とはなんの関係もないことだからだ。それを魯迅は、「(エウリュトスが見えぬ眼で戦場に駆け出しそうにする)下僕はそれを止めようとし、代わりに死のうとする。しかしきこうとはしない。ついにきかなかった。今や主僕ともに手をたずさえて「我もまたスパルタの戦士だ」と大声で叫ぶと幾重にも乱れる戦場に突入した」と書くのだ。奴隷が戦場から逃亡するのは、興ざめだと魯迅は判断したのだろう。ついに奴隷までも「スパルタの戦士」にしなければ臨場感がわかないと考えたらしい。筆が上滑りしている。
 以上のように見てくれば、魯迅の創作部分というのは、スパルタについての知識が少ないからこそ書くことができたという結論になる。セレナとケルタスの二人は、スパルタの衣裳をまとった中身は中国人なのである。中国人が読めば、違和感はないかもしれない。しかし、「斯巴達之魂」をひとつの作品として偏見なく普通に読むならば、スパルタに中国人が出現して行動するから、その違和感に苦しまなければならなくなる。
 魯迅が「斯巴達之魂」のなかで行なったことを整理しておこう。
 すなわち、ヘロドトスを基礎にして組み立てられていた古代ギリシア世界に、魯迅は、スパルタ人を装った中国人のセレナとケルタスを強引に移植しようとした。その意図は、尚武精神をヘロドトスよりもさらに鮮明に印象づけるためである。魯迅は、主観的にはその作業に成功したと考えていたらしい。しかし、客観的に見れば、整合性をもっていた古代ギリシア世界は、中国人セレナとケルタスの挿入により全体を支える論理にゆがみが生じてしまい、矛盾だらけでグロテスクなスパルタが姿を現わした。魯迅が創造したセレナに共感できるのは、中国人しかいないという理由は、セレナが中国人にほかならないからである。
 魯迅は、セレナとケルタスを創作することによって、アリストデモスについても改変する必要が生じた。その結果は、ヘロドトスの原作が持つ簡潔さと歴史の重さをぶち壊してしまった。いらぬ創作部分などつけくわえず、いっそのこと翻訳だけの方がどれくらいましだったかわかりはしない。
 だが一方で考える。若い魯迅が書きたかったのは、中国人の尚武精神を高揚させる直接的な文章だった。その目的のためにはスパルタに、中身は紛うことなき中国人のセレナを登場させなければならなかった。若い魯迅は、そう判断した。ならば、魯迅にとってヘロドトスの世界を破壊することくらい何ほどの苦痛もなかったであろう。スパルタは、あくまでも材料にすぎなかったのだ。
 実際のところ、東京の中国人留学生は、魯迅の文章を大いに歓迎した。沈〓民は、次のように証言する。「この文章は、スパルタ人の死んでも屈伏しないという堅固な意志を書くことによって、中国人の熟睡した霊魂をよび覚ましたのだが、その刺激度はかなり大きかった」(「回憶魯迅早年在弘文学院的片断」『文匯報』1961.9.23。初出未見。薛綏之主編『魯迅生平史料彙編』第2輯 天津人民出版社1982.3。46頁)。
 重ねて強調しておきたい。東京にいた中国人に共感を呼び起こしたのは、セレナの中身が中国人そのものだったからこそだ。魯迅に原稿執筆を依頼した『浙江潮』の編集者・許寿裳は、当時を回想して書いている。魯迅は、執筆を承諾すると、1日おいて、というから2日後には「斯巴達之魂」を持ってきたという。また、えらく早い仕上がりだ。密かに、つまり発表をするかしないかは別にして、魯迅は材料を集めて執筆の準備をしていたとしか思われない。許寿裳の当時の思い出を聞いてみよう。「これは少年の作品であり、スパルタの物語を借りてわれわれ民族の尚武精神を鼓舞しようとするものだ。のちに彼は幼稚だと恥かしがったけれども、実のところ天才で幼稚から成長しないものはいない。文中に描写して、将兵が必死の戦いをする勇敢さ、若い婦人が生還者を厳しく責めるその激しさは、千年後の読者までもその人を目の当たりにするような気にさせるだろう」(『亡友魯迅印象記』北京・人民文学出版社1953.6/1955.9北京第三次印刷。影印本による。14-15頁)
 許寿裳が述べているのは、セレナの中に中国人を見ていることの告白にほかならない。

◎9 創作か翻訳か
 「斯巴達之魂」の内容を見ていくと、創作小説か、翻訳小説か、という問題の立てかたそのものが無理だと思える。きっぱりとふたつに分割できる作品ではないからだ。創作であって翻訳という混合作品としかいいようがない。
 魯迅は「斯巴達之魂」を書くにあたって、2種類以上の日本語資料を参照している。これが、原作を特定できない理由である。また、自樹と署名するだけで、原作名、原作者名を明示しない理由でもある。翻訳に加えて、さらに、魯迅が創作した部分も明らかに存在している。その形態を冷静に述べるとすれば、編訳プラス創作ということになるのではないか。だが、その創作部分は、作品としてのまとまりを考えた場合、作品の水準を大いに引き下げたマイナスの価値しかないと言っておかなければならない。
 「斯巴達之魂」を書いたころを回想する魯迅自身の文章を見てみよう。

 証言1:340506致楊霽雲(『魯迅全集』第12巻403頁)
 楊霽雲あての魯迅の書信である。「『浙江潮』で使用した筆名は、自分でさえ忘れてしまいました。憶えている作品は、一つは「説〓」(後、雷錠ラジウムと訳す)で、もう一篇は「斯巴達之魂」(?)です」

 1934年の手紙だから、『浙江潮』に文章を掲載してから約30年後の記憶ということになる。「斯巴達之魂」が魯迅自身の作品であることを認めていて貴重だ。ただ、それが翻訳か創作かについての言及はない。

 証言2:(集外集)序言(『集外集』上海・群衆図書公司1935.5。影印本による。『魯迅全集』第7巻)
 以前の作品集に収録漏れの作品があることをいう。
 「故意に削ったものもある。それは読めば抄訳のようでもあり、また年をへて記憶がなく、自分でさえも疑わしいからである」(1頁。全集3頁)
 あとの部分との関係で「故意に削ったもの」の一つは、「斯巴達之魂」であることがわかるのだが、「抄訳のようでもあり」というのが重要だ。
 「たとえば最初の二篇は、私が故意に削ったものだ。一篇は「ラジウム」についての最初の紹介であり、一篇はスパルタの尚武精神の描写である。ただし、私は記憶しているのだが、当時の私の化学と歴史についての程度はけっしてそれほど高くはなく、ゆえにおおよそどこかから盗んできたにちがいないのだ。しかし、後になってどのように思いだそうとしても、それらの原典をふたたび思い出すことができない。そのうえその頃は初めて日本語を学んで、文法がまだわからないのに焦って読もうとし、だから読んでもそれほど理解はしていないのに焦って翻訳する。だからその内容もはなはだ疑わしいのだ。また、文章もおおいに風変わりで、とくにあの「スパルタの魂」など、現在読んでみると、自分でも耳たぶが熱くなってくるのを免れない。しかし、それが当時の風潮であって、激昂慷慨、頓挫抑揚しなければならなかったので、それでこそいい文章だと称されたのである」(2頁。全集4頁)

 魯迅は、「斯巴達之魂」についてはっきりと「どこかから盗んできた」と認めている。参考資料を引き写したという意味だろう。「それらの原典をふたたび思い出すことができない」のは、材料1種類のみに拠って文章が書かれたわけではなく、複数の原典があったからだと理解できる。
 魯迅が「耳たぶが熱くなる」というのは、恥ずかしいという意味だが、上の文章を読むかぎりでは、その原因は大仰な文章にあるらしい。
 魯迅は、セレナとケルタスを創作し、さらにアリストデモスの事跡を改変した。このことによって引き起こされた作品内容の壊滅的混乱についての自覚は、最初から終わりまで、魯迅にはなかったようである。

【引用参考文献】
『魯迅全集』第7巻 集外集、集外集拾遺 北京・人民文学出版社1981/1982北京第1次印刷
『魯迅全集』第12巻 書信 北京・人民文学出版社1981/1982北京第1次印刷
魯迅著、松枝茂夫訳「スパルタの魂」『魯迅選集』第12巻 岩波書店1956.10.7/1996.9.16改訂版第2刷
魯迅著、岩城秀夫訳「スパルタ魂」『魯迅全集』第9巻 学習研究社1985.6.25
清永昭次訳「リュクルゴス」『プルタルコス』筑摩書房1966.10.31 世界古典文学全集23
ヘロドトス著、松平千秋訳『歴史』上中下 岩波文庫1971.12.16/1997.9.5第35刷、1972.1.17/1998.8.5第30刷、1972.2.16/1998.5.6第31刷
櫻井悠美『古代ギリシアにおける女と戦争』近代文芸社1998.2.20