魯迅「造人術」の原作


神 田 一 三


 魯迅の初期翻訳の中で、議論の対象にそれほどなっていない作品がある。短篇小説「造人術」という。

魯迅「造人術」の発見
 魯迅の翻訳小説「造人術」は、熊融が1963年に発見した(熊融「関於《哀塵》、《造人術》的説明」『文学評論』1963年第3期1963.6.14)。
 米国路易斯託崙著、訳者が索子名義で『女子世界』第2年第4、5期合刊(原第16、17期 刊年不記)の文芸欄に発表されている。文末に、萍雲(周作人)と初我(丁祖蔭)の評語がつく。
 熊融は、周作人の記憶も参考にした結果、該作品は、1905年に発表されたと推測する。掲載誌に刊年が記されていないのだから、今、これに従う。
 魯迅が科学小説を好んでいたことは、よく知られている。日本留学時にジュール・ヴェルヌの著作を日本語から重訳して「月界旅行」(1903)「地底旅行」(1903、のち単行本化)という題名で発表した。1904年、魯迅は、仙台医学専門学校に入学する。「造人術」の公表が1905年であれば、医学を勉強しながらの翻訳だった。
 魯迅訳「造人術」は、生命を人工的に製造することに成功する短篇小説である。ちょっと見れば、医学を勉強していた魯迅がどこらあたりに興味を持っていたのか、それを探るための好材料といえないこともない。一連の科学小説につながるものとして位置づけることも可能だろうか。
 「当時、魯迅は、生命を人工的に製造することについて心から擁護しており、また深く信じて疑うことがなかった。この事実は、魯迅の唯物主義の科学観をあらわしている」(93頁)と熊融はいう。「唯物主義科学観」という単語をつかう文章がほかにもあって(例:魯迅博物館魯迅研究室編『魯迅年譜』第1巻 北京・人民文学出版社1981.9)、こちらも「(魯迅は)特にこの文を翻訳して我が国の人民の思想を啓発した」(150頁)と述べて、肯定的な評価を下していることがわかる。
 熊融が強調するのは、魯迅の文章が厳復「天演論」の影響を深く受けていることだ。その証拠として魯迅の翻訳冒頭を示し、そこに厳復「天演論」の書き出しからの影響がある、と主張する。はたして、そうか。
 両者の文章を冒頭部分のみ、参考までに下に掲げる。見ていただきたい(熊融が引用する「天演論」には、誤りがある。ここでは正しておく)。

魯迅翻訳:
疏林居中、与正室隔、一小廬、三面囲峻籬、窓僅一、長方形、南向、垂青縞幔、光灼然、常透照庭面、内燃勁電、無間昼夜、故然。(疏林をなかにして、母屋と隔たった、この一小屋は、三方を高き生け垣に囲まれ、窓はわずかにひとつ、長方形で南に面しており、青き絹の帳が懸り、光が灼然と常に帳を通して庭面を照らすのは、内に強い電気が昼夜となく燃えているからである)

厳復「天演論」:
赫胥黎独処一室之中、在英倫之南、背山而面野。檻外諸境、歴歴如在几下。乃懸想二千年前、当羅馬大将ト徹未到時、此間有何景物。(ハックスレーは、ひとり室内に身をおき、英国ロンドンの南に、山を背にして野に面している。欄干の外のありさまは、ありありとまるで目の当たりにしているようだ。二千年前、あのローマの大将シーザーが、いまだ到着していない時、ここにはどういう風景があったのかを考えている。

 以上を魯迅と厳復の文章上の影響関係にまで、熊融はおし広げる。これが妥当かどうかは、一考の余地があろう。
 魯迅の翻訳は、建物の形を説明するところから始まっている。厳復の文章は、ハックスリーが部屋の中にいて、外の風景につながる。両者ともに建物と周囲の風景に言及しているから、ここだけを取り上げれば、似ているか?いや、雰囲気はなんとなく似ているようでいて、よく読めば、ふたつの文章が似ているとは、到底、言うことなどできない。熊融は、別の箇所で魯迅が「天演論」に傾倒していたことを、無理やりこの翻訳にも結びつけたらしい。これだけを根拠に、厳復からの影響を言われても、魯迅の方が困惑するのではないかと思う。
 見解の相違といわれればそうかもしれない。熊融が、魯迅と厳復の文章の類似を強調するなら、それでもいい。しかし、両者が似ていると仮定しても、疑問は生じるのだ。
 熊融は、魯迅の翻訳原文がどういう文章であったのか、確認しているのだろうか。言及していないから翻訳原文を知らないことがわかる。原文を知ることなしに魯迅と厳復を直接結びつけているのは、軽率の謗りを免れない。
 別の方面から、異なる見解が提出されている。すなわち、翻訳を否定する――創作説である。
 原著者の名前があげられ、訳者が索子(魯迅)だと明記されているにもかかわらず、中国では「造人術」が翻訳ではなく魯迅の創作だとする意見があるという。不可思議である。
 創作説の存在は、熊融が同文「附記」の中で明らかにしている。
 その根拠は、1,小説の内容構造が単純で欧米作家の手になったように思えず、学生時代の魯迅の文章にふさわしい、2,魯迅は、楊霽雲への返信のなかでかつて別物を創作「懐旧」の出処だと誤記したことがあった、3,当時の著作界では翻訳を装う風習があった、の3点である。
 このうち2の誤記というのは、魯迅の勘違いを指していると思われる。1934年に魯迅が楊霽雲にあてた書信において、つぎのように書いた。

340506致楊霽雲
……現在、私の最初の小説は「狂人日記」だと皆はいいますが、その実、はじめて活字になったものは、文言の短篇小説で、『小説林』(?)に掲載されました。それはたぶん革命の前で、題目も筆名も全部忘れてしまったのですが、……(『魯迅全集』第12巻 書信 北京・人民文学出版社1981/1982北京第1次印刷。403頁)

 疑問符号は、原文のままだ。魯迅自身にも自信がなかったらしい。掲載誌を『小説林』とするのは、魯迅の記憶違い。事実は、『小説月報』に掲載された。作品名は「懐旧」である。
 後日、魯迅は、楊霽雲に答えて「私の最初の小説を掲載したのは、おそらく『小説月報』ではありますまい……」(『全集』第12巻422頁)とも書いている。事実を教えられても、魯迅は、間違った記憶を正すことができなかった。頑固である。
 さて、これがどうして「造人術」創作説の根拠になるかというと、当時の著作について魯迅は勘違いしているのだから、「造人術」をアメリカ人の作品としたのも勘違いであろう、という推論なのだ。ここに書くのも恥かしいくらいの杜撰な論理ではなかろうか。だいいち魯迅の勘違いといっても、30年近い昔を回想してのものである。間違っても不思議ではない。おまけに、上の手紙は「造人術」とは、もともと無関係である。関係のない勘違いにもかかわらず、これを強引に「造人術」と結びつけている。
 「造人術」は、作品に米国路易斯託崙著だと記されているのだ。間違って記憶しようがないではないか。
 1に見える、内容構造が単純で、というのも奇妙な説明だ。欧米の作家が書くものは、すべてが内容構造が複雑だ、とでもいうのだろうか。理由になりもしない。
 3の翻訳を装うという意見も、確かにそういう実例もあるにはあるが、魯迅に適用できるかどうかは、また別の問題だろう。
 あげられた翻訳説の根拠みっつは、どれをとっても成立しない。愚にもつかない意見を、熊融が附記として特に紹介する理由は何なのか、不明である。
 これを読んで不思議に思うのは、原作が明記されていて翻訳だと書かれているにもかかわらず、なぜ魯迅の創作にしたいのか、ということだ。創作説をとなえる人は、原作を探索する努力を一切しておらず、それゆえ、でまかせの勝手な発言のように見える。研究者は、だれでもそう感じるのではなかろうか。そうならば、「附記」などつけなければいいものを、と考えてしまう。逆にいえば、「附記」をつけなければならなかった程に「造人術」創作説は、熊融にとって魅力だったのだろうか。


●『(小説)泰西奇文』扉
●『(小説)泰西奇文』表紙(国立国会図書館蔵)

 さっそく反論があった。戈宝権「関於魯迅最早的両篇訳文――《哀塵》、《造人術》」(『文学評論』1963年第4期1963.8.14)である。当時、翻訳に仮託する風習はあったが、魯迅はずっと翻訳を重視しており、創作を翻訳とすることはない、というもっともな批判がなされている。納得のいく説明だろう。
 ところが、ほとんど20年後に、この問題をふたたび蒸し返す文章が出る。王爾齢「魯迅編訳《造人術》的一二補正」(北京魯迅博物館魯迅研究室編『魯迅研究資料』11天津人民出版社1983.1)がそれである。
 王爾齢は、「造人術」は翻訳ではない可能性をいう。魯迅の例の勘違い――楊霽雲への返信のなかでかつて別物を創作「懐旧」の出処だと誤記したことがあった、を拾いあげ、そういう混乱が生じたのは、作品が純粋な翻訳ではないからだという。これが根拠なのだそうだ。結論は、「翻案(漢語:訳述)」としたらどうか、という提案なのである。
 私は奇異に感じる。この研究者も魯迅「造人術」の原文を調査することなしに、憶測だけで翻案説を主張するのである。
 呉?人「電術奇談」について、だいぶ前、その原作となる日本語作品が発見された。原作と比較対照したうえで、呉?人の翻訳であると断定されているのにもかかわらず、いまだに中国では、呉?人の再創作だと言っている文章があるのと、事情は同じである。原作調査をしないで発言できる、研究動向に無関心でも文章が書けるのだから、お気楽なものだ、といえば言いすぎかもしれない。
 原作がないのならば、その作品は創作である、あるいは翻案である。どこかで目にした。呉作橋、周暁莉「晩清小説的奇株異葩――談魯迅的《斯巴達之魂》」(『清末小説から』第55号 1999.10.1)で展開している、魯迅「斯巴達之魂」創作説と同類であろう。

魯迅「造人術」の原作
 魯迅「造人術」の原作は、原抱一庵主人(余三郎)訳『(小説)泰西奇文』(知新館1903.9.10)に収録されている。「ルイ・ストロング」原作、原題も同じく「造人術」と称する。
 もとの日本語翻訳作品には、訳者の解説がついている。紹介しておく(ルビ省略。以下同じ)。

 「此怪奇なる一小説は、米国紐育のコスモポリタン雑誌社が新進作家として当時同国の読書界に於て頗る寵愛せらるゝルイ、ストロング氏を起して著作せしめ、稿成て一千九百○三年五月五日の同紙上に掲載せられしものなり」
 1903年にニューヨークで発表された作品が、同年の数ヵ月後には日本で翻訳され単行本で出版されているのだ。その素速いことが理解できよう。ただし、この解説部分は、魯迅の翻訳では省略されている。
 さて、原作品(日本語翻訳)の冒頭部分を示しておきたい。熊融が、厳復「天演論」からの影響を強調する箇所である。

疎林を中間にして正屋と隔たれる、此一小屋は、三方ともに高き生垣をもて囲まれ、窓は南に面して長方形なるが一つあり、青色の薄き絹の帳、之に懸れるが、その帳を透して、灼然として光の絶えず庭面を照し来るは、裡に勁き電気の昼夜となく燃かれあればなり。

 魯迅の漢訳は、すでに上に示しておいた。一見してすぐに理解できる。魯迅の文章は、日本語原文に忠実な翻訳文なのである。熊融は、厳復「天演論」と似ているとしたが、「天演論」とは何の関係もない。熊融は、軽率な判断を下したということができる。
 魯迅の翻訳では、人名の日本語表記を書き換えているものが1ヵ所ある(漢訳1頁)。日本語翻訳原文にあるボストン理化大学非職教授の「以仁透(イニトール)」の名前を、漢訳では「伊尼他」に変更している。「以仁透」では、漢語音で読むと「イニトール」にならないからだ。
 魯迅が原文にない文章を書き加えている箇所がひとつある(漢訳4頁)。日本語翻訳原文(19頁)で眼が生じる部分の「オヽ裂けぬ、破目を生ぜり、オヽこれ一双の眼にあらずや(魯迅訳:咄咄、裂矣。生罅隙矣。噫?、此非双眸子耶)」で改行して、つぎの1行をつけくわえている。「怪珠之目、?而睫、如椒目(怪しの玉の目は、まぶたとまつ毛があってサンショウの目のようだ)」
 このあとに「×」印で段落をわけるのも魯迅のほどこした変更だ。
 以上、ほんのわずかな書き換え、追加があるだけで、あとは、改行、記号ともに日本語原文とほぼ同一で忠実な漢語翻訳ということができる。漢語に直訳できるくらい、日本語訳文が、もともと漢文調であった。

英文原作
 原抱一庵主人が翻訳した「造人術」の英文原作は、Louise J. Strong著“An Unscientific Story”(Cosmopolitan誌1903年1ママ月号。「ママ」としたのは、該誌1月号には掲載されていないことがわかっているからだ。現在、調査中)という。
 作品の一部分が、原抱一庵主人によって翻訳され、最初は、『朝日新聞』に2回にわけての掲載(1903.6.8、7.20)だと報告されている。『大阪朝日新聞』には登載されていないから、『東京朝日新聞』なのだろう。私は、2回掲載されているとは知らなかった。『(小説)泰西奇文』に収録されたのは、初回分のみで、第2回分があることなど、忘れられてしまった。魯迅の漢語訳が初回分であることが示すように、魯迅は、新聞掲載の作品ではなく、単行本を読んで漢語に翻訳する気になったとみえる。
 原抱一庵主人の日本語翻訳は、原文の半分にも満たないらしい。英文原作は、「人工生命の増殖、反乱が起こり、主人公による阻止は失敗するが、人工生命の自滅によって世界は救われる」(66頁)という物語なのだそうだ。(以上、英文原作については、抱一庵主人「特別通信造人術」の解題(藤元直樹)『未来趣味』第7号1999.5.2による)
 英文原作の規模は、日中の翻訳に比較してかなり大きいようだ。同時に、魯迅が翻訳したのは、ほんの冒頭部分にしかすぎなかったことも理解できよう。
 面白いと私が思うのは、英文原作の題名が「非科学小説」だという点だ。ストロング自身が非科学的だと認めている物語であることに注目していただきたい。
 英文原作がそのような物語であったとして、ここであつかうのは、あくまでも魯迅が拠った日本語訳文とそれの漢語訳文のみである。小説冒頭にすぎない部分を、どのように評価すべきか、という問題にもなる。

その内容と評価
 重ねて強調しておく。あくまでも魯迅が目にした単行本『(小説)泰西奇文』所収の「造人術」について考えている。
 日本と中国で翻訳されたストロング著「造人術」は、衝撃作であると同時に凡作である。別の言い方をすれば、相当に変わった作品であってかなり幼稚な作品だといわざるをえない。英文原作の一部分しか翻訳されていないのだから、当然といえばそうなのだ。
 主人公イニトール氏が、6年間、人工生命、人造人間製造を志して、ついに成功することを述べた短篇である。
 人工生命あるいは人造人間という発想は、俗にいうフランケンシュタインの例を示せばわかるように、欧州に存在している。
 「造人術」がフランケンシュタインの怪物と異なるのは、もとになっているのが、日本語訳文「人間の芽製造」、魯迅の翻訳では「造人芽」なのだ。「人間の芽」なら、最初の形態が種子であることを連想させる。
 「人間の芽」について、日本語訳文とそれに対応する魯迅の翻訳を参考までに引用してみる。
 「極めて黒く、極めて小さき一個の玉あり(魯迅訳:端見玄珠、極黒、極微)」
 「その小個の黒玉は、生物なるが如く見ゆるなり。蠢き始めるが如く見ゆるなり(魯迅訳:此小玄珠、如有生、如蠕動)」
 「隆起せるは是れ頭にあらざる歟、前方の二個の角芽はこれ双腕にあらずや、後方の二本の角はこれ双脚にあらずや(魯迅訳:隆然者非顱歟、翹然者非腕歟、後萌双角非其足歟)」
 読めば、なんのことはない、受精卵の細胞分裂から、各器官の生成を描写しただけの文章にすぎない。普通、その過程は女性の子宮内で実行されるものを、この小説では、むき出しの机の上で繰り広げられるものとして記述しているだけだ。
 生命をなぜ人工的に製造しなくてはならないのかという説明は、ない。また、手順、手法など細かいことを講義しているわけでもない。これらについては、英語原文にも言及はないようだ。原作の重点は、人工生命の反乱とその自滅であった。
 人工生命、人造人間を製造することに取りつかれた人物が、実験室のなかで、女性を媒介させずに生命を製造したという一方的な説明である。生命を製造したと書いてはいるが、うえの引用文でもわかるように、受精卵にいたるまでの過程が描写されていないのだから、正確にいえば、製造したということもできない。種子が細胞分裂をくりかえして人間状のものに変化している様子を、ただただ、興奮しながら観察している。それを書いているだけのように見える。くりかえすが、原作の一部分しか翻訳されていないのだから、かたよった印象を受けるのを免れない。
 描写に不十分な箇所があるが、一応、生命を創造したことに成功したものとしよう。それがどうしたというのか、と思う人には説明が必要になる。
 いうまでもなく、小説作品は、読者と切り離して存在するわけではない。アメリカにおいて発表された原作は、衝撃をもって読者に迎えられたに違いない。なぜなら、該作は第二の造物主を読者の前に提出したからだ。生命創造は造物主のみがなしうる、とする宗教を信じている人から見れば、神を冒涜する作品に違いない。これが衝撃作であるという理由だ。
 その興奮が、以下のような文章になる。

 若し世に第一の造物主ありとすれば、吾はこれ第二の造物主にあらずや、生命!吾は之をつくるを得、世界!吾は之をつくるを得、天上天下、造化の主は吾を措いて亦誰かある、吾は人の人の人なり、吾は王の王の王なり、人間生れて造物主となる亦快なり(19-20頁)
 仮世果有第一造物主、則吾非其亜耶、生命!吾能創作。世界!吾能創作。天上天下造化之主、舎我其誰。吾人之人之人也、吾王之王之王也。人生而為造物主、快哉。(4頁)

 第二の造物主となれば、これほどの興奮がともなうものなのか、その宗教的風土を知らなければ理解できないだろう。ゆえに、神が支配する世界において、人工生命を作った「造人術」は、衝撃作となる。
 しかし、日本あるいは中国ではどうか。造物主のいない国なのだから、第二の造物主といわれても、いかほどの衝撃もなかろう。宗教的風土が、進化論を受容する時の温度差を発生させる。
 日本語翻訳者である原抱一庵主人は、原作を解説して「怪奇なる一小説」と言うだけにとどまっている。アメリカにおける衝撃についての説明がなければ、ただの「怪奇なる一小説」で終わるのも無理はない。
 魯迅が漢語に翻訳した際にも、その解説は、ない。ゆえに、日本と中国の宗教風土を考慮した場合、翻訳「造人術」は凡作とならざるをえないのだ。
 結局のところ、日中で翻訳された「造人術」は、荒唐無稽で味も素っ気もない作品だと、私は判断する。ヴェルヌの科学小説とは、傾向が異なることを指摘しなければならない。英文原作の全体が翻訳されたわけではないのだから、しかたがないといわれればそうだ。漢訳された「造人術」を科学幻想小説とよぶ文章もあるから、それでもよい。周作人が評にいう「幻想之寓言」だ。こちらのほうが、偶然、原作者ストロングが命名した「非科学小説」に一致した。どのみち、日本と中国においては、部分訳「造人術」は幼稚な作品だと受け取られてもしかたがないだろう。
 日本で医学を学んでいた魯迅が、進化論とのからみで人間の生成過程に興味を抱いていたから翻訳した、という説明は可能かもしれない。それだけのことだ。魯迅が翻訳したこの短篇小説に「唯物主義科学観」を認めて高く評価するというのは、どこか大仰で、贔屓の引き倒しであるだろう。
 附録として、日本語原文と『女子世界』に掲載された魯迅翻訳の初出文をかかげておく。

(かんだ かずみ)

【追記】『清末小説から』第56号(2000.1.1)掲載予定の「魯迅「造人術」・補遺」を参照されたい。