李錫奇『南亭回憶録』のこと
沢本郁馬
○1 出版のいきさつ
1998年は、李伯元生誕131周年になる。それを記念して『常州李氏家譜』と李錫奇『南亭回憶録』上下冊が出版された。
関係者・李宗沢の話によると、李氏家譜を編纂する過程で、李錫奇の遺作原稿が発見されたという。
李錫奇の原稿は、1961年に書かれた後、3度改めて1964年に完成した。序の日付は1961年だが、1962年8月1日の香港『大公報』(147頁)、あるいは1963年3月3日付『新民晩報』(134頁)に言及しているところからも、この説明は正しく思える。
李錫奇の原稿といえば、思い当たることがある。魏紹昌編『李伯元研究資料』(上海古籍出版社1980.12)には、李錫奇「李伯元生平事跡大略」(初出『雨花』1957年4月号<総第4号>1957.4.1)が収録された。これに「附記」があり、同じく李錫奇の『李伯元生平的回憶』から抜き書きした文章が補われている(35-38頁)。
もともとは『李伯元生平的回憶』という題名の原稿だったのが、のちに『南亭回憶録』と改題されたものか、それとも最初から『南亭回憶録』だったのを魏紹昌が記憶違いしたのか、それはわからない。
魏紹昌は「附記」に説明して、未定稿ですでに散逸したと聞く、と書いている。それは伝聞であったのだろう。実際は、完成していて「文革」中も保存されていた。
○2 李錫奇のこと
『南亭回憶録』の著者である李錫奇については、私は、ほとんど何もしらなかった。ただわかっているといえば、前出「李伯元生平事跡大略」を発表していること、該論文は、『中国近代文学論文集』(1949-1979)小説巻(中国社会科学出版社1983.4)に収録されていることか。もうひとつは、前述のように魏紹昌編『李伯元研究資料』が、「李伯元生平的回憶」に言及するくらいだ。
今、『常州李氏家譜』(A5判、全43頁、表3枚、私家版、刊年不記、1998.10.10受。32頁)によれば、李錫奇は、名が崇基、又の名を受祺、李氏六世新〓系列の九世にあたる。父は、麟図(字は蓉生)だ。李伯元が、李氏六世文〓系列の九世だから、年の離れた同一世代となる。
李錫奇がその「李伯元生平事跡大略」で述べていることを手掛かりにしてみよう。
李伯元より二十余歳若いこと、李伯元一家が上海へ行く前に一時期同居していたこと、李伯元が死去した年は、すでに十七歳で、彼の情況について詳しく知っているということだ。
李伯元が死去したのは、1906年、四十歳だった。その時、李錫奇は十七歳というのだから、年の差は二十三歳だ。「李伯元一家が上海へ行く前に一時期同居していた」のが1896年だとすると、李伯元三十歳、その時、李錫奇は七歳だった。逆算すれば、1890年生まれになる。
七歳でどれくらい李伯元のことを覚えていようか、と否定的に捉えると、李錫奇には気の毒だろう。自分は、直接、李伯元を見知っている、という経験が文章を書く時の自信につながる。李錫奇にとっては、他の人達よりも李伯元についての関心を増した要因だと考えるほうがいいだろう。だからこそ李伯元の遺稿を収集するのにも熱が入ったはずだ。
李錫奇は、常州女子職業学校校長に任じ、のち安徽教育庁で第四科科長および秘書、安徽蚌埠省立第七職業学校校長、安徽穎上教育局局長を歴任している。解放後、引退した(『常州李氏家譜』32頁)。一貫して教育畑を歩んできた人物だとわかる。
○3 全体の印象
まず、『南亭回憶録』の印刷から述べたい。
もともとは、出版を前提に書かれた原稿だと想像する。書き込みはあるが、判読可能の範囲内に収まっているからそのことがわかる。このまま出版社に渡せば、なんとか印刷物にしてくれそうな原稿だとはいうことができる。
使用されているのは、原稿用紙ではない。出納簿のような、事務用箋のような、罫線が引かれた用紙に、毛筆で細かく記入されている。印刷の様子から、元原稿を複写機を使ってコピーしたものをさらに縮小のうえにオフセット印刷、製本したらしい。その結果は、印字が鮮明ではない。決して読みやすい印刷物にはなっていないのが残念だ。
著者の李錫奇は、1957年に「李伯元生平事跡大略」を雑誌『雨花』に発表していることは述べた。相当な時間を費やして李伯元関係の資料を収集したのだろう。そうしてできたのが、この『南亭回憶録』という原稿だった。
機会があれば、また紹介する人がいれば、書店から出版できた原稿であっただろうと私は推測する。しかし、その機会も、紹介人もいなかったらしい。機会があったとしたら、魏紹昌に原稿を見せた時だったのではないか。しかし、魏紹昌自身が自分で資料集を編纂していた、あるいは編集するつもりだったから、魏紹昌は紹介人にはならなかったのだろうか。あくまでも、これは憶測であって、事実は知らない。
魏紹昌の『李伯元研究資料』は、「文革」後に上海古籍出版社(1980.12)から出版された。李錫奇の『南亭回憶録』は、原稿のかたちで眠ったまま、1998年にようやく日の目を見たということになる。その意味では、1960年代の研究成果が、解凍されて現代に出現してきた、ということが可能だろう。
上下冊の2冊に分かたれ、日本風にいえばA5判の大きさで簡易製本されている。自家出版であるためか、単に忘れたのか、発行者名も発行年月日も記載していない。
『南亭回憶録』上冊は、李伯元に関係する場所、書籍、絵画、印などの写真を冒頭に配置する。そのあとに李伯元年譜および伝略、考証、論評などすべてが李錫奇の筆になる文章がつづく。上冊は、186頁だ。
下冊は、主として李伯元の遺稿を収録する。いろいろな種類の文章、広告文、回目、詩詞などだ。それと李伯元についての伝記、論評文を集めて成立する。上冊からの通し番号で187-520頁。途中で同一ページのabがあるから単純に計算して335頁が下冊のページ数だ。印刷部数は、300。
○4 資料的価値
資料集の価値基準は、ひとつしかない。新しい資料を提出しているかどうか。独自に発掘した事実、資料はあるのかという意味だ。
今まで出版された資料集との比較になる。編集された時期を考えれば、李錫奇『南亭回憶録』のほうがずっと早いのだが、出版の順に見ると遅くなるのもしかたがない。
魏紹昌編『李伯元研究資料』(上海古籍出版社1980.12)および『李伯元全集』第5巻(南京・江蘇古籍出版社1997.12)の資料部分(王学鈞編著)とくらべる。
『南亭回憶録』は、大きくみっつに分けられる。1.李錫奇が書いた李伯元年表、評論、2.李伯元の遺稿、3.関係論文だ。
◆4-1 李錫奇の評論文
「李伯元先生年表」は、李伯元の生誕から死去までを簡単な年表にしている。いくつかの疑問点はある(後述)。しかし、1960年代に出版されていたとしたら、それ以前にまとまった年表がなかったから、初めての年表としての価値が生じただろう。今では、王学鈞編著「李伯元年譜」(『李伯元全集』第5巻。236頁)という詳細な年譜が存在する。李錫奇の年表は、参考資料にとどまるだろう。
李錫奇は、李伯元よりも二十三歳年下だった。同居したことがあったが、長期間ではない。直接の知り合いにしては、李伯元の日常の行動についてそれほど書き残してはいない。ただし、祖先、親戚関係についての説明は詳しく、ほかの文章にみられない。だからこそ魏紹昌が補足のために引用したのだろう。
1901年の冬、上海の世界繁華報館を訪問したことがある、と李錫奇は書いている(59、141頁)。建物の下が報館で、左が編集室、向いが助手の欧陽鉅元(源)の休憩室などなど。李錫奇が十二歳の時だ。報館の様子が述べられているだけで、李伯元に面会してどうのこうの、という話ではない。その点では物足りない。しかし、見方を変えれば、これほど短い文章のなかに欧陽鉅源の名前がでてきており、おまけにその時、欧陽鉅源には会ったらしい。さらに、彼の部屋が報館の中にあったのを知ることができた。李伯元と欧陽鉅源の濃厚な関係を知るうえで有益だといえよう。
李錫奇の李伯元についての知識の多くは、李伯元の著作そのもの、あるいは後世の人が李伯元に言及した文章から得ているように見受けられる。李伯元とは知り合いである、という意識が李錫奇を研究熱心にさせたのかもしれない。
◆4-2 李伯元遺稿
李伯元作品の発掘は、いつも重要課題だ。
たとえば、王学鈞が、探求して入手できない文章のいくつかを列挙している(『李伯元全集』第5巻160-161頁)。そのなかの『遊戯世界』(王学鈞は『遊戯雑誌』と誤記する)掲載分は、『清末小説』第21号(1998.12.1)に複写を掲げておいたから見ることができる。
『南亭回憶録』の場合、李伯元の遺稿は、『游戯報』から採録しているものが多く、これこそ本書の最大の価値がある部分だといってよい。
「論歌唱須知反切」「論海上名校書歌唱」「聴小如意弾琵琶因考而論之」「酸酸酸」などは、いずれも掲載紙が『游戯報』であり、王学鈞未見の文章となっている。それを李錫奇『南亭回憶録』は、収録している。貴重だということができよう。
◆4-3 関係論文
李伯元に関する評論文は、二、三を除いて基本的に別の本でも読むことが可能だ。
李錫奇の手になる文章については、時代の制約といおうか、いくつかの疑問がある。
○5 いくつかの疑問
李伯元の生誕日について、二説ある。呉〓人がいう同治六年四月十八日(1867.5.21)と魏紹昌がいう同年同月二十九日(1867.6.1)だ。わずかな違いであって、それほど大きな問題ではなさそうに思われるかもしれない。たしかに、十八日であろうと二十九日であろうと、私は、どちらでもかまわない。しかし、二説あることは記録しておくべきだと考える。片方を勝手に無視してはならない。
もともと、李錫奇は、「李伯元生平事跡大略」において李伯元の生誕日を「四月」としか記述しなかった。のちにどこかから「二十九日」を捜し出したらしい。しかし、典拠を明らかにしていない。
『南亭回憶録』の「李伯元先生年表」には、一八六七年の項目に「清同治六年丁卯四月二十九日(陽暦六月一日の添え書きがある)伯元誕生於山東」と書く。これを魏紹昌は見たのだろう。『李伯元研究資料』に李錫奇の「李伯元生平事跡大略」を収録する際、李錫奇の原文に勝手に手をいれて「四月二十九日」と書き換えたのである。これが現在まで定着している。
しかし、李錫奇自身は、呉〓人の「李伯元伝」に言及しており(46-47頁)、また、『南亭回憶録』にも呉〓人の該文そのものも収録している。さらには、李伯元の籍貫を江蘇上元とする文章を批判し、呉〓人の文章を引用して「李伯元伝では明らかに李伯元が江蘇武進の人だと書いてある」(86頁)とまで述べる。武進には注目して、呉〓人が、李伯元の生誕日を「四月十八日」と明記していることを、李錫奇はなぜ無視するのか。訂正するならするで、ひとこと説明すべき箇所であろう(参考:沢本郁馬「李伯元研究の広がりと深化 ――王学鈞編『李伯元全集』第5巻の特色」『清末小説』第21号 1998.12.1)
李錫奇が説明していないのだから、王学鈞が実行しているように両説を併記すべきだ、と私は考えるのだ。
李伯元が『游戯報』を創刊して挙行した花榜、花選――妓女コンテストについて、李錫奇は、言及しない。『南亭回憶録』執筆当時の社会が許さないから、触れたくなかったのだろう。
李伯元の著作に「海天鴻雪記」(94頁)、「冰山雪海」(96、111頁)と「繁華夢」(104頁)をあげるのは誤り。
李伯元は、経済特科に推薦され、それに応じなかった。1901年とするのは間違いで(41頁)、1902年が正しい。
『繍像小説』の停刊を李伯元の死去した1906年とする(45、120頁)。しかし、李伯元の死後も『繍像小説』は発行されていた。
以上のいずれも、李錫奇が原稿を書いていた当時の研究水準を反映しているということができる。『南亭回憶録』は、たまたま、1998年に発行されただけで、中身は1960年代のものだ。
○6 結論
現在から見れば、いくつかの欠陥はあるかもしれない。しかし、『南亭回憶録』の原稿が完成してすぐに出版されていたら、つまり1960年代ということだが、李伯元研究に多大な貢献をした資料集となっていただろう。私は、断言する。それだけ豊富な資料を提供しているのだ。とくに『游戯報』から捜し出している李伯元の作品のいくつかは、今でも珍しい部類に属する。たかい資料的価値を有していることを強調しておく。1960年代に出版されなかったのは、本当に残念でならない。
李錫奇『南亭回憶録』(私家版、刊年不記、1998.10.10受。目次と本文の記載が異なる場合、本文の文句に従う)
●上冊(全186頁)
李伯元先生遺像
作者李錫奇近影
目録(1)
図片
李伯元故郷的遺跡
常州青果巷故居的門前(7)/羅浮〓祖居址(7)/青果巷故居内室(8)/住居族叔家之玉茗山房書屋(8)
創辧和主編各種報刊版式
游戯報(9)/繁華報(9)/繍像小説(10)/庚子国変弾詞(11)/官場現形記(11)/海天鴻雪記(12)
伯元遺墨
致劉聚卿冊函(13)/為抵制美約事覆同郷史新銘書(14)
文藝作品
彩画花鳥真蹟(15)/〓宝恵題跋(15)
篆刻
伯元原蔵魏帖三級浮屠誌和自彫名章(16)/芋香室印譜版式(16)/芋香室印存選印二十方(17)
瓜豆園雅集遺影(18)/附:朱其石考証(19)
李伯元之墓(21)/墓碑(22)
前言/1961長至節(23)
李伯元先生年表(33)
伝略
1 有関李伯元生平的伝説和記載(46)
2 李伯元的家世和出身的階級(52)
3 一生生活過程中所経歴的各個階段(54)
4 家庭環境和日常生活(62)
5 当日時代歴史的背景(66)
6 深入群衆了解社会現実情況(71)
7 発起辧報的動機(75)
8 李伯元的身後(80)
考証
9 李伯元籍貫問題的考証(84)
10 李伯元屡試不第説不確(87)
11 伯元創作的考証(91)
12 他所創刊和主編的各種書報月刊(113)
13 藝術的成就(125)
14 芋香室印存的発見(130)
15 李伯元不用固定的筆名(135)
16 李伯元与惜秋生(140)
論評
17 認清当時国内外形勢促起反帝反封建的決心(148)
18 写作的思想性和創造性(151)
19 勇於負責不向困難低頭(154)
20 参加各種社会活動(157)
21 筆法和歩驟(162)
22 在宣伝和創作上所起的作用(168)
23 『惰民』中有詩人(171)
24 官場現形記裏的人名和戯劇臉譜的表示有同一用意(174)
25 我対於李伯元的一点体会和所留深刻的印象(179)
●下冊(187-520頁)★印は、『清末小説』第22号、あるいは次号に再録予定の文章を示す。
目録(187)
附録一 遺稿
制藝
★挙人会試而未能中也(200)
賦
★報館賦(203)
禁煙賦(205)
序
官場現形記序(208)
庚子国変弾詞序(214)
庚子国変弾詞序二(215)
庚子国変弾詞序三(216)
海天鴻雪記序(219)
記
★江南放榜日夢遊大羅天記(223)
紀本報開創以来情形(225)
★書王〓客事(227)
★記客述異人劉某軼事(229)
伝
★洪楊小史(231)
★呉三桂軼聞(245)
★陳園園艶史(254)
★陳園園軼事(260)
★別脚大少伝(264)
★銭大人伝(266)
論
★中国積弊難返論(269)
論画理(277)
★論歌唱須知反切(279)
★論海上名校書歌唱(280)
★聴小如意弾琵琶因考而論之(282)
論游戯報之本意(284)
論本報的不合事宜(286)
説
★琵琶説(288)
★本館遷居四馬路説(290)
議
創設因利局為花延寿議(291)
書
★閲本報所紀避債其台一則有感而書(292)
啓
★為詩妓周秀卿集資営墓奠刊詩稿啓(296)
書
★近視眼先生覆蒲郎書(298)
★ 附 蒲郎 近視眼先生伝(300)
散文
品簫(302)
縁起
創設藝文社縁起(304)
商務印書館編印繍像小説縁起(306)
★本館附送鳳雙飛唱本縁起(307)
書後
★閲新聞報紀青楼楽善一則感而書之後(309)
楔子
中国現在記楔子(311)
文明小史楔子(313)
活地獄楔子(316)
告白
本館特開藝文社告白(320)
★游戯主人告白(320)
★重排游戯報書版本告白(321)
★繁華報館特開花叢経済特科告白(321)
条例
藝文社例略(322)
(庚子国変弾詞)例言(325)
回目
新編醒世縁弾詞(326)
海天鴻雪記目録(327)
中国現在記回目(329)
詩詞
★和王夢楼太史夜宴図詩原韻(330)
簪花拈筆図(332)
昭君墓詩(333)
辞年詩十二首(334)
客中秋感(337)
★題贈鶴鳴茶園名伶杜文藝(338)
★上海四明公所閙事感賦(339)
★閲時務日報紀四明公所事続賦(341)
★『惰民中有詩人』贈韻蘭(346)
★撰庚子国変弾詞十四回告成率書其後(347)
★上海春賽竹枝詞(348)
★題文明小史巻首(350)
★題活地獄巻後(350)
★題庚子国変弾詞篇末(350)
★繁華報巻頭詩(351)
★賦得看〓馬(351)
即席賦和日本来青散人見贈原韻(351)
★自題中国積重難返論(352)
★自題醒世縁弾詞第二回後(352)
詞
★念奴橋(353)
★浣紗淡(353)
詞曲
風月空雑劇(354)
★酸酸酸 雑劇一齣(359)
小曲
★戒婦女纏足歌(364)
★纏足歎(365(1))
游戯報新聞★十一則(366)
燈謎
★広告謎(379)
★詩謎(380)
★詞謎(380)
附録二 論評
伝記
李伯元伝 呉沃尭(381)
官場現形記的作者 顧頡剛(383)
清末之譴責小説 魯迅(387)
清代毘陵名人小伝――李宝嘉 張維驤(389)
上海県続志――李宝嘉 (390)
李伯元事蹟 趙孟輅(391)
論評
評論官場現形記 魯迅(393)
論官場現形記的思想性 路遥(396)
官場現形記的十個特点 趙〓狂(436)
弾詞小説論(庚子国変弾詞) 阿英(438)
論文明小史 阿英(444)
論中国現在記 阿英(452)
論海天鴻雪記 阿英(454)
論醒世縁弾詞 阿英(455)
談瀛室随筆 倉山旧主(456)
海鴎閑話 (456)
新菴筆記 周桂笙(457)
小説話 (457)
揮麈拾遺 丘菽園(457)
清末作家李伯元在上海 鄭逸梅(458)
趨庭随筆 江庸(461)
中国文学史新編 張長弓(462)
中国文学研究 鄭振鐸(462)
嗚呼李伯元已矣 林琴南(463)
退醒廬筆記 孫玉声(463)
〓独笑筆記 (464)
花史 董〓菴(464)
李伯元著小説 徐珂(465)
李伯元的芋香印譜 董〓菴(466)
李伯元之玉鈎集 董〓菴(467)
人物品藻録 鄭逸梅(469)
李伯元与劉鉄雲的一段文字案的考証 □□(471)
附 反動文人胡適的文学改良芻議有籍李伯元的定評(475)
序言
重刊庚子国変弾詞序 阿英(478)
官場現形記序 憂患余生(連夢青)(489)
活地獄序 趙景深(491)
有関伯元写作的題詠
題庚子国変弾詞応南亭原也 病紅山人(〓松柏)(497)
題庚子国変弾詞 天地寄塵主人(497)
滬居襍詠 劉炳照(499)
題海上文社寄伯元 李宝〓(499)
張太史薦巻 張鶴齢(500)
即席賦贈游戯主人 日本来青散人(501)
夢伯元 王〓運(503)
寄伯元徴士 丘〓〓(503)
題游戯主人玉鈎集七古一首 史雲〓(504)
輓李伯元徴君五律二首 文廷華(505)
輓南亭亭長李伯元 汪笑儂(505)
輓聯
李伯元徴君輓聯輓詩 (506)
(さわもと いくま)