劉鉄雲「老残遊記」と黄河(3)


樽本照雄


4 鄭州工事成功の後
 光緒十四年十二月十九日に鄭州決壊箇所を修復して、正月をすごしたばかりのことだった。光緒十五(1889)年正月初九日、呉大澂は、黄河治水には必要不可欠であるはずの詳細な地図がないことを痛感した。黄河の深浅、曲直、広い狭いなどを測量しなければならず、これが治水と大いに関係する。今までは、大まかな地図しかなかった。河南省に河図局を設け、南北洋大臣、両広総督、船政大臣と相談し、天津、上海、福建、広東から測量と製図に詳しい委員と学生20余名を山東に派遣して測量させることにした。十六日から二十三日まで、李鴻章、張之洞、曽国〓および福建船政局、上海機器局、広東洋務局に電報を発信している*92。
 呉大澂が、以上のことがらを具体的に上奏したのは二月九日のことになる。黄河の詳細地図作成のために河南省に河図局を設立するよう提案した*93。
 四月十五日、呉大澂は、鄭工合竜以後、事後処理をしなくてはならず、黄河地図の作成を善後局で行なうことを上奏する*94。
 善後局とは、戦争などの後、省に設置してその処理など特殊な事務を担当する部署をいう。清朝後期に設置された。黄河治水は、戦争にも匹敵するというわけだ。二月段階での河図局設立構想は、四月になって善後局に吸収されたらしい。
 呉大澂「三省黄河図後叙」(後述)によれば、善後局の設立は、五月である。
 善後局の責任者が、易順鼎だった。劉〓孫が、この易順鼎について、黄河の測量製図などにはまったくの門外漢で、実際の仕事は、提調(事務処理係官)ひとり、つまり劉鉄雲が担当したと書く*95。のちの劉徳隆、朱禧、劉徳平『劉鶚小伝』(8頁)もそれを踏襲する。蒋逸雪「劉鉄雲年譜」(147頁)は、発表された年こそ劉〓孫よりも早いが、劉〓孫のもともとの原稿を見ているから、易順鼎についても同じ記述をしている。
 易順鼎(1858-1920)は、詩人で有名、博学でも知られる。生年が1858年というから劉鉄雲より一歳年下だ。かつて河南候補道(事実は試用道)として通過税、救済、水利の三部門を統括し、賈魯河の修復を監督、三省河図局の総辧にあたったと書かれる*96。
 「賈魯河の修復」とは、鄭州決壊の修復工事を指すと思われる。決壊した黄河が、賈魯河に流入したからだ。
 劉〓孫らが強調するのは、易順鼎は門外漢で、ひとり劉鉄雲だけが大活躍したという。劉〓孫らは、実際の作業で重要な部分は、すべて劉鉄雲が実行したといいたいのだ。
 しかし、事実はどうだったのだろうか。劉鉄雲が地図作成に活躍したことがあったとしても、最終的には、役割分担、あるいは組織の見方によるのではないか。
 まず、役職が異なる。易順鼎は、監督する立場であり、劉鉄雲は、実際の事務を処理するその部下なのだ。両者の関係は、呉大澂と劉鉄雲の関係と同様だろう。事実は劉鉄雲が動いたかもしれないが、その功績は上司が受ける仕組みになっている。それを無視して、功績のあった人物として上司を差し置いて劉鉄雲のみを顕彰しても、顕彰したことにはならない。ここでも劉〓孫らは、親族である劉鉄雲に肩入れしすぎているように感じられる。
 もうひとつ問題だと考えるのは、劉鉄雲の年譜作成者は、いずれも提調は劉鉄雲ひとりだったような書き方をしている点だ。事実は、劉鉄雲のほかに2名、馮光元と董毓gがいた。序列からすれば、劉鉄雲の上に位置する。三省にまたがる黄河の全体地図を作成しようという規模の大きさだ。いくら劉鉄雲が有能だとしても、これほどの大事業をたった一人で完成させることはできない。集団作業の一部分を担ったし、その能力があると見込まれたからこそ提調に任命されたと考えるべきだろう。
 地図と報告書は、朝廷に提出され、のちに上海の書店から石印本で出版された。この地図集には、提調のひとりとして劉鉄雲の名前が記載されている。名前が記載されたことによって、それだけで劉鉄雲は、十分、報われていると私は考える。

4-1 「河工禀稿」9通
 劉鉄雲が光緒十五(1889)年当時にどのような活動をしていたのか。その模様は、彼自身の文章からうかがうしかない。
 劉〓孫『鉄雲先生年譜長編』においてはじめて公開された「有関河務禀帖的遺稿」がある。のち『劉鶚及老残遊記資料』に再録され、改題して「河工禀稿」と呼ばれる。今、字数の少ない方を使用することにする。
 「河工禀稿」は、張曜、易順鼎らにあてた劉鉄雲の報告書9通だ。黄河地図を作成するために黄河沿いの各地を測量調査した。劉鉄雲が、そこから状況報告を書いて送ったものである。報告書といっても残っているのはその草稿だ。劉鉄雲が記録として書き写させていたものを、子孫が保存していた。劉〓孫『鉄雲先生年譜長編』に収録される文章と、『劉鶚及老残遊記資料』にある文章を照合すると、同一草稿にもかかわらず、多くの異同箇所がある。判読のむつかしい字で書かれていることがわかる。
 「河工禀稿」には、九月初三日から十月までの日付が記され、年は明示されていない。状況証拠から考えることになる。発信地が山東の利津、済南で、宛名が張曜、易順鼎たちだし、黄河地図に関する内容から判断して、光緒十五年のものだと考えて間違いなかろう。そのうちの興味ある箇所をいくつか検討したい(今、文章は、『劉鶚及老残遊記資料』による。数字はその頁数)。

 第1通:張曜あて(利津九月初三日発)
 要点のみを略述する(以下同じ)。張村、大寨などの決壊箇所が合竜したことに対して喜びを述べ、あわせて張曜をほめ讃える。後漢の王景が治水に功績があったが、張曜の才能は、実にその王景の百倍にもなる。黄河の測量で河辺を走り回って、いささかの所見を持った。愚説五篇(原文:俚説五篇)を書いたのでお送りする。(105-106頁)
 王景を持ち上げるのは、劉鉄雲が「老残遊記」第1、3回で行なっていることだ。後に触れることになるだろう。
 興味深いのは、劉鉄雲が黄河を実地調査して書いたという「愚説五篇」が、何を指しているかだ。劉徳隆らは、これを「治河五説」あるいはその初稿ではないかと推測している*97。
 「五篇」という数字からして「治河五説」と同じに見える。「治河五説」と「治河続説二」を合わせて七説、すなわち『治河七説』という。
 劉鉄雲『治河七説』の執筆あるいは刊行年については、意見が分かれる。蒋逸雪は、光緒十七(1891)年の項目に記述している。劉〓孫は、光緒十六(1890)年に書いたことにする。蒋逸雪よりも1年早い。劉徳隆らも、劉〓孫に引きずられたらしく、劉鉄雲が張曜に『治河七説』を提出したのは光緒十六年と書く。もっとも、この場合、提出したと述べているだけで、執筆したのがいつなのかは問題にしていない。考える余地があるということだろう。前述のように劉徳隆らは劉鉄雲の報告書に見える「愚説五篇」は「治河五説」の可能性に気づいているのだ。
 私は、ここにひとつの資料を提出したい。
 木版線装本の『治河七説』(京大人文研所蔵)があり、その冒頭に毛筆で書き込みがしてある。すなわち、

 前五説己丑上/張朗帥/後二説辛卯上/福少帥

とこれだけだ。断片であるにもかかわらず、大いに興味を覚える。
 「張朗帥」は、張曜を、「福少帥」は、福潤を指す。己丑は、1889年、辛卯は、1891年のこと。
 「前五説は1889年に張曜氏へ奉呈、後二説は1891年に福潤氏へ奉呈」という意味だ。
 見ればみるほど「奇妙な」書き込みだとしか私には思えない。なぜ「奇妙な」というかといえば、内容が関係者でなければ書くことができない事柄だからだ。劉鉄雲自身が記入した可能性は、まったくないことはないが、あまりに字数が少ないので、判定はできない。『治河七説』を前五説と後二説に分け、張曜と福潤の実名を出し、さらに正確な年までを記入している。断片とはいえ、普通の素人に書けるような内容ではありえない。事情に詳しい関係者が書いたとしか考えられないのだ。
 後世の研究者の筆だろうか。もしそうならば、他の箇所にも書き込みがあってもいいはずだ。それは一切ない。
 「前五説は1889年に張曜氏へ奉呈」は、「河工禀稿」第1通に見える張曜へ送った「愚説五篇」と年代までピタリと重なるのが、不思議といえばふしぎだ。明らかに、劉鉄雲のいう「愚説五篇」は、「治河五説」のことだと私も思う。劉徳隆らの推測は、正しい。
 今、手元に『治河七説』の複写がある。これを見ながら、劉鉄雲が張曜へ提出したのは、どういう形であったのかを考えてみよう。
 可能性としては、ふたつある。ひとつは手書きの原稿であった。もうひとつは印刷物(この場合は木刻本)にしてあった。
 現存するのは『治河七説』というように「治河五説」(18丁)と「治河続説二」(7丁。附録として「斜堤大意図」1枚)を合わせている。丁数から見ても、この形態を考慮すれば、最初に「治河五説」ができて、あとから「治河続説二」をつけくわえたと思われる。「治河続説二」の作成は、毛筆書き込みによれば、少なくとも光緒十七(1891)年以前ということになる。
 以上の成り立ちをもとにすると、光緒十五(1889)年に劉鉄雲が張曜へ提出したのは、「治河五説」の手書き原稿であったと推測できる。劉鉄雲は、黄河地図を作成する作業のため黄河流域を測量調査していた。測量調査のかたわら、黄河治水についての自分の考えをまとめていたことが理解できる。福潤へは「治河続説二」を提出し、これを合わせた『治河七説』の刊行は、光緒十七(1891)年以降のことだったのだろう。
 毛筆書き込みから、以上のように考えた。

 第2通:易順鼎あて(利津九月初三日発)
 第1通と同じ日に発した。易順鼎は、劉鉄雲にとっては善後局の上司に当る。九月末には作業が完成しそうだと報告する。劉鉄雲は、事務をこなし、測量を手伝うほかに、黄河が決壊する理由を考え続けた。「黄河が大増水すると、一千余の村が水中に没し、一家全体が被害をこうむるもの、どれほどかわからない。目撃して心が痛み、その悲惨さは言うにたえない。庶民は役所を怨み、官吏は天帝に罪をかぶせる」(106頁)。作業に従事して五ヵ月余り、得るところがあったので「愚説五篇」を送るという。
 劉鉄雲は、自らの「治河五説」を張曜ばかりでなく易順鼎にも送付していた。易順鼎は、黄河地図作成事業における劉鉄雲の直接の上司なのだから、自説を聞いてもらうには適当な人物だと劉鉄雲は考えたのだろう。

 第3通:易順鼎あて(済南九月十六日発)
 利津から済南に移動して治水工事の史料収集をしている。ぶつかるのが役所の壁である。下から上へ、上から下への手続が煩雑であることをいう。おまけに写してきた記述が簡略にすぎるといっても再び請求するのはむつかしい。地図はできているのに旧例(原文:成案)が間に合わなかったらどうするか、という悩みをつづる。
 旧例というのは、たとえば、鄭州決壊の場合、地図の該当箇所に、決壊の始まり、その規模、関係者、所用費用などを記録したものをいう。ただの地図ではなく、歴史事実をも記入しようというのだから史料収集を重視しないわけにはいかない。記録だから大ざっぱなものでは劉鉄雲が満足しない。正確で詳細な記録を要求しても、応じてくれない、また、催促しにくいという悩みも述べる。
 この報告書には、「歴案黄河大工表」と「皇朝東河図説」(107頁)のふたつがあげられていて、これは黄河地図とは別に意図されていた編集物である。

 第4通:張曜あて(済南九月十六日発)
 ここでも易順鼎にあてた同日の報告書とほぼ同じようなことが書かれている。すなわち、黄河地図とは別に、「歴案黄河大工表」と「皇朝東河図説」を編集しなければならず、旧例の書き写しを早くするよう催促してほしいことをいう。地図の方は、1ヵ月余りでできそうだが、そうなると善後局(すなわち河図局)は撤収される。旧例が間に合わなければこの二書は完成しない。また、この二書のために局を撤収しなければ、毎月の給料と費用が三千金を下らず、完成しても清算できない。旧例を書き写すのに、中間に河防局が入って行なうと、正確な校正ができない。時間もかかる。直接、劉鉄雲に書き写しと校正を指揮させてほしい、という意味の要望書になっている。
 劉鉄雲は、疑わしい字がひとつでもあれば気に入らない。正確なものを作成したいというのは、学者のやり方である。九月十六日に2通の報告書を発送しているところから見ても、黄河地図の方は着実に完成に近づいているが、史料での裏付けが遅れがちであることに気がきでない様子がうかがえる。これこそ自然を相手の仕事と人間相手の作業との違いなのだ。

 第5通:易順鼎あて(済南九月十九日発)
 河防局が所蔵する古文書の複写にてこずっている。担当者が、理由をつけてなかなか見せようとしない。河防局の前の大王廟を修理していて月内にはかならず完了するから、全部の史料を大王廟に運んで、多めに人を雇って書き写させればいい、と言っていたのが、河防局の委員に会って聞いてみると、言を左右にして答えない。「このような大著作は、山東に作る人がいないならば、河南人に作らせることはできない、といっているようなものだ」(110頁)。
 つまり、縄張り意識からくる妨害活動である。山東、直隷、河南の三省合同事業からくる軋轢なのだろう。ありそうなことだ。

 第6通:易順鼎あて(済南(九月)二十二日発)
 張曜自身が、登場する。十七日が誕生日で、十六日から十九日まで面会ができない。二十日は客が多すぎて、ゆっくり話ができない。二十一日に、河防局で書き写しができていないことを訴えた。善処してくれるというので、提調の黄君に会うと、来月はじめには部屋の修理が終わるので、来て書き写せるという。また、書類が多すぎて、どこから始めるのか一人ではできない、事務に熟知した者四,五人に選択してもらい、数十人に写させても半年十ヵ月はかかるだろう。
 結局のところ史料管理者は、めんどうで、劉鉄雲に作業をさせたくないのである。

 第7通:朱寿繧て(済南(九月)二十三日発?)
 原文は、「上河南南汝光兵備道朱稟」である。この朱とは、朱寿繧フこと。三省黄河全図作成事業においては、易順鼎と同じ総理に任じられている。劉鉄雲の上司のひとりになる。
 再三の希望を出してようやく張曜の許可を得ているのに、部下がじゃまをする。大王廟の工事が終わっておらず、十月始めには可能だという。「小生、役所仕事には本来通じていなかったが、以前の測量は、数学で足りないところをまだ補うことができた。今度の事は、もともと通じていないから、必ずや多く誤らせることになるだろう」(112頁)。
 さすがの劉鉄雲も役所の下役人にはお手上げのようである。劉鉄雲が済南に来たのは九月十一日だった。2週間近く、史料を見せてもらっていない勘定になる。仕事がはかどらない状況を報告書で知らせなければ、職務怠慢の汚名を劉鉄雲自身が受けなければならなくなる。これらの報告書は、罰を免れるための予防措置だとも考えられる。

 第8通:易順鼎あて(済南九月二十七日発)
 二十五日になって河防局において、複雑な黄河関係部署の設立状況を知ったことを報告する。それまで画いていた史料収集の計画はご破算にし、別のやり方に切り換える。済南に来てすでに半月あまり、まだ一字も書き写していない、心中はまことにあわてる、とも劉鉄雲は書かざるをえない。

 第9通:易順鼎あて(済南十月発)
 張曜に窮状をまたもや訴えることになった。提調に言っておく、と返事がある。十月初一日、大王廟は落成し、演劇と宴会が開かれる。初二日朝、河防局に行くが、張曜からの言葉はないとの返答。黄提調が役所に来るのを待つが、こない。黄の屋敷まで赴いて告げると、明日、書記に言っておくという。初三日、河防局に行く。書記に聞くと黄提調から命令があったが、本日は河防局が大王廟に移転するから仕事はできない。初四日、ふたたび大王廟に赴き、光緒九年の旧例は、すべて木箱の中にはいっており、並べていない。書記の張某ではラチがあかない。有能な者が大寨にいて、提調は張某に命令して彼を帰らせるという。劉鉄雲自身が整理をするからといっても、提調は承知しない。張某は、初四日朝出かけたまま、初五、初六、初七になってももどってこない。おそらく妨害活動なのだろう。先方と協議したのち、明日からまず光緒十、十一年より始めることにする。黄河測量は、初一日に済陽に到着し、本日はまだ洛口には至っていない。たぶん月半ばには終了するだろう。
 この後ろに、山東の黄河沿いの郡県志などについて長い文章が続く。報告書第9通とは別物のような気もするが、わからない。また、「卑職作《済水故道図》、《〓水故道図》各一幅」(115頁)とある。劉鉄雲が、この2種を書いたというのだが、劉徳隆らは未見としているのだから、その存在そのものが不明だ。
 張司事が辛荘へ行ってもめごとを起こしてから、劉鉄雲を怨み、その図面を隠してしまい、劉鉄雲に見せようとはしなかった、というような表現がある。具体的な内容は、書かれていない。劉鉄雲との感情の行き違いかなにかがあったのかもしれない。劉鉄雲は、済南の役所での役人たちとギクシャクとした関係しか持つことができなかった模様である。

 以上、報告書9通を簡単に紹介した。
 文面からうかがえることは、ひとつに、劉鉄雲の積極的な活動状況が理解できることだ。黄河測量ばかりか、沿岸各地における役所保存の史料閲覧と筆写に多大の情熱を傾けている。それも正確に詳細に書き写したいという態度をつらぬく。時として劉鉄雲の強硬な姿勢に反発をおぼえる現地役人がいた。
 ふたつに、上司である張曜の命令不徹底である。劉鉄雲の史料閲覧に善処しておくといいながら、活動が実際には円滑に動いていない。にもかかわらず、態度がアイマイなままずるずると事態をながめているだけだ。九月初三日の利津発報告書で、張曜の才能を王景の百倍と賞賛したのを、後の劉鉄雲は悔いたはずである。
 みっつに、下役人の劉鉄雲に対する妨害活動である。なにかと理由をつけて作業を引きのばす。ただし、済南の河防局にしてみれば、下役人にも文句はあるかもしれない。大王廟への移転を控えている多忙な時期に、史料を見せろとせっつかれれば、いやがらせの一つもやってみたくなるかもしれない。おまけに山東人ならいざしらず、河南からやってきた劉鉄雲は、いわば余所者である。協力するなどバカらしいと考えてもおかしくはないだろう。
 最初からの計画には、黄河地図作成のほかに「歴案黄河大工表」と「皇朝東河図説」の編集が含まれていたらしい。しかし、実際にそれらの両書が提出されたという記事を見ない。また、研究者も言及していない。黄河地図集は、完成したが、残る二書は完成しなかったのだろう。
 のちの劉鉄雲の著作に『歴代黄河変遷図考』があり、もしかすると、これに吸収された可能性も考えられる。ここでは、不明としておく。
 さて、つぎに劉鉄雲が心血を注いだ黄河地図集について述べることにしよう。

4-2 『山東直隷河南三省黄河全図』
 劉鉄雲が苦労の末にまとめた黄河地図集は、その書名を『豫直魯三省黄河図』という。どの文献を見てもこう書かれている。研究論文にも『豫直魯三省黄河図』だとくりかえし出現する。また、そう書く研究者のうちのだれ一人として、該書は未見であるとは述べていない。見ているはずの書物について、まさか書名が誤っているとは誰も思わない。私も、過去の文章において、『豫直魯三省黄河図』が完成した、などとうのみにして書いたことがある。

4-2-1 書名の謎
 『豫直魯三省黄河図』という本を、私は、長く求めていて見ることができなかった。それもそのはず、言及する文章の全部が、書名を誤記していたのである。
 しつこいようだが、劉鉄雲の黄河治水に言及する文献は、どれも『豫直魯三省黄河図』をあげる。河南、直隷、山東を通過する黄河の詳しい地図制作に劉鉄雲が参加したのだから、当然だろう。専門論文のなかのいくつかの例をあげよう。
 蒋逸雪「劉鉄雲年譜」(147頁)には、書名を具体的にかかげていない。「豫直魯三省の黄河図を画くことを監督する(原文:董絵豫直魯三省河図事)」と書いて、書名を兼ねているように見せてはいるが、正確にいうと書名ではない。それだけかというとそうではない。150篇、5冊に分けて合わせるとひとつの図になる、と書いているから実物を見たのかと勘違いしそうになる。しかし、書名がないのだから、見てはいないのだろう。
 劉〓孫『鉄雲先生年譜長編』(24頁)は、『豫直魯三省黄河図』と明記する。説明して、全5冊、150篇、合わせてひとつの図になる、と書くのは蒋逸雪と同じだ。同じだというよりも、蒋逸雪の方が劉〓孫の文章を参照したのだから、同じ表現になるのだ。該書の刊年を劉味青(劉鉄雲の兄)の日記(光緒十七年正月十三日)にもとづいて、光緒十六年冬だと推測する(25頁)。原書を見ていないらしい。だが、呉大澂の後叙を引用している箇所がある。原本を見ていないのに文章を引用できるのだろうか。不思議だ
 劉徳隆、朱禧、劉徳平『劉鶚小伝』(10頁)は、劉〓孫から引用している。書名を『豫、直、魯三省黄河図』と変形させているのが異なるくらいか。これも原書は、確認していないことがわかる。
 王学鈞『劉鶚与老残遊記』(瀋陽・遼寧教育出版社1992.10)も『豫直魯三省黄河図』(14頁)と記す。
 書名は一致している。これらの記述に導かれて、私は、『豫直魯三省黄河図』を捜査していた。ないものは、ない。なかばあきらめかけていた時だ。日本の書店目録に『山東直隷河南三省黄河全図』が掲載されているのが目にとまった。どこかで見たことのあるような、『豫直魯三省黄河図』に似ているが、書名が異なる。いうまでもなく、豫は河南、直は直隷、魯は山東を指す。だが、記述の順序が違う。「黄河全図」と「黄河図」も同じではない。しかし、どこか気にかかる。
 古書だからか、値段が高い。しばらく迷った。原物を確認できればいいのだが、東京の書店だから見に行くわけにもいかない。目録で書名を見ただけの注文では、過去、どれだけ落胆する結果になったか、数えることもできない。まあ、しかたがない。気になるのだから。どうか当りませんように、となかば祈る気持ちで、別のこれも値のはる書籍と一緒に注文を出した。
 ぜひとも入手したいと願う本はソッポを向くが、当りませんようにと思うものは、運悪く送られて来る。やれやれと前もって半分気落ちしながら大きな小包を開けてみる。出現したのが、題簽に『山東直隷河南三省黄河全図』と書かれた、帙入り大冊(縦横34×30cm)線装石印本5冊である。見て驚いた。これこそが、劉鉄雲の参加した黄河調査の地図だったのだ。あらためて調べなおしてみれば、京都大学人文科学研究所の目録にある『三省黄河全図』というのがこれらしい。
 原本を手元において見れば、中国で今まで書かれていた書名『豫直魯三省黄河図』は、すべて誤りだったことがわかった。中国では、専門家でさえ原物を確認できなかった。誤記に誤記を重ねる結果となったのだろう。それほど珍しいものなのか。
 私が入手したのは、日本のどこかの機関が所蔵していて、廃棄処分にしたものだ。蔵書印に消印が押されているところからわかる。

4-2-2 『山東直隷河南三省黄河全図』について
 表紙をめくれば、紅色で三匹の竜が空に飛んで「進呈御覧三省黄河全図」と中央に掲げる。
 その裏に印刷年と印刷所を記す。「光緒十六年孟冬上海鴻文書局石印」。孟冬は、旧暦十月をいう。
 「恭録進呈三省黄河全図奏稿」は、倪文蔚による全図作成の経緯を報告し三省黄河全図を提出する上奏文だ。呉大澂が、光緒十五年三月に、李鴻章、張曜、倪文蔚にはかって地図作成の上奏をし、十六年三月に全図が完成したことをいう*98。
 「恭録辧理三省黄河河道図説職名」は、関係者の名簿である。長い肩書きをそのまま記録しておく。

監修
太子太傅文華殿大学士兵部尚書兼都察院右都御史直隷総督兼管河道一等粛毅伯 臣 李鴻章
頭品頂戴兵部尚書銜兼都察院右副都御史前任河南山東河道総督 臣 呉大澂
太子少保頭品頂戴兵部尚書銜兼都察院右副都御史山東巡撫世襲一等軽車都尉兼一雲騎尉世職 臣 張曜
兵部侍郎兼都察院右副都御史河南巡撫兼理河道暫署河南山東河道総督 臣 倪文蔚
総理
頭品頂戴河南布政使升任山西巡撫 臣 劉瑞祺
二品銜河南按察使署布政使 臣 賈致恩
二品銜河南分巡開帰陳許道兼理河務 臣 蔭保
二品銜河南分巡南汝光道前署開帰陳許道 臣 朱寿
河南試用道 臣 易順鼎
提調
塩運使銜河南候補知府 臣 馮光元
安徽儘先補用同知 臣 董毓g
候選同知 臣 劉鶚

 以下、分校6名、測量兼絵図19名、繕写4名があげられるが、ここでは省略する。
 監修にみえる李鴻章、呉大澂、張曜、倪文蔚は、黄河治水に関係しているいわゆる看板である。李鴻章を押し立てて(直隷の関係もある)、立案者の呉大澂に山東の張曜と河南の倪文蔚を配する。看板とはいえ、それぞれが役割をになった必要な人達であるといえよう。
 易順鼎が黄河地図作成については門外漢であると蒋逸雪、劉〓孫、劉徳隆から批判があることは述べた。この序列を見れば、易順鼎は管理者であり、劉鉄雲は、その部下にあたることが理解できる。易順鼎を批判することは、有効ではないと重ねて述べておく。
 凡例があって、総図がつづく。
 総図は、索引の役目をはたす。黄河全体の地図を示し、方眼で区切り、東西を縦一から縦四十六まで、南北を横一から横四十一までに番号を振る。縦横の番号を組み合わせれば、目的の場所を検索することができるように工夫されている。
 それぞれの地図は、さらに細かな方眼が切ってあり、これを貼り合わせれば、たしかに1枚の全体図になる。
 第5冊の地図が終了した後ろに「三省黄河河道一、二」「三省黄河北岸〓工表」「三省黄河南岸〓工表」「三省黄河全図北岸〓工高寛表」「三省黄河全図南岸〓工高寛表」「三省黄河北岸金〓表」「述意十二条」(無署名)がある。
 以上は(「述意十二条」を除く)、主として地名と距離を数字をあげて詳しく説明した文章だ。
 そのなかの「三省黄河河道一、二」は、劉鉄雲の筆になると考えられる。なぜなら、劉鉄雲の『歴代黄河変遷図考』のなかの「見今河道図考第十」が、同文だからだ。該文は、さらに改題され「小方壷斎輿地叢鈔補編」に収録されている。丹徒劉鶚輯「三省黄河図説」が、それである。
 『劉鶚及老残遊記資料』の編者(『劉鶚小伝』の著者たちと同じ劉徳隆、朱禧、劉徳平)は、「三省黄河図説」と「見今河道図考第十」が同文であることのみを言う*99。「三省黄河河道一、二」に触れないのは、『山東直隷河南三省黄河全図』を見ていないからだろう。
 最後に置かれるのは、呉大澂の「三省黄河図後叙」だ。
 大意をのべる。海防、江防、河防のいずれもが地図なくしてはできない。西洋の各国は地図学が精密になり中国でも海図、長江図には精密な測量図がある。しかし黄河にはそれがない。光緒戊子冬十二月の鄭工合竜以後、黄河を測量して地図を作ることが最重要だと考えた。福建船政局、上海機器局、天津製造局、広東輿図局の測量と製図に詳しい委員、学生20余名を派遣し、易順鼎に河道図説の監督をまかせた。こうして河道2042里が157枚の地図となる。光緒十五年五月より十ヵ月かかって完成した。
 呉大澂が、後叙のなかでわざわざ易順鼎の名前を出しているのは、それだけの働きをしたからだ。つまり、『山東直隷河南三省黄河全図』という目に見える具体的な報告書ができあがったのだから、易順鼎は、総理としての役割を果たしたということである。

4-2-3 『山東直隷河南三省黄河全図』の意義
 『山東直隷河南三省黄河全図』は、地図そのものに特徴がそなわっている。
 その一つは、方眼を切って正確な地図にしようと心掛けている。すなわち、方向と距離を精密に割り出した地図になっているのだ。それまでの、方向と距離に無頓着な、絵画のような黄河絵図というか、だいたいの流れと周囲の村落を適当にちりばめた大ざっぱな地図とは根本的に異なる。堤防についても細かく記入しているのも特徴のうちにはいる。
 もうひとつの特徴は、省ごとに区切っていないことだ。つまり、山東、直隷、河南の三省にまたがった1本の黄河という視点で作図されている。全体の流れを一目瞭然で把握することが可能になった。
 さらには、地図上に決壊箇所を明記し、その発生年月日、規模、関係者、所用費用などの記録を掲載しているのも特徴である。正確な地図であると同時に、記録書をも兼ねている。
 『山東直隷河南三省黄河全図』の作成は、劉鉄雲にとって大きな意味を持っていた。
 ひとつは、提調に任じられたことにより、劉鉄雲の黄河治水についての知識と経験が評価されたことがわかる。
 ふたつは、提調として書物に名前が掲げられたことは、その後の劉鉄雲にとっては、大きな経歴になった。
 みっつは、実際に黄河を調査してまわった経験が、より一層の深い知識と結びついて劉鉄雲に蓄積された。この体験こそのちの「老残遊記」執筆に生かされることになる。

【注】
92)顧廷竜『呉〓斎先生年譜』燕京学報専号 哈仏燕京社1935/東方文化書局影印。175-176頁
93)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2584頁
94)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2610頁
95)劉〓孫『鉄雲先生年譜長編』25頁
96)『清代碑伝全集』下 上海古籍出版社1987.11。1831頁
97)劉徳隆、朱禧、劉徳平『劉鶚小伝』11頁
98)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2739頁にも部分を収録する。
99)劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』126頁