劉鉄雲「老残遊記」と黄河(4完)


樽本照雄


5 山東巡撫張曜の治水方針
 鄭州における黄河決壊は、光緒十三(1887)年八月から翌十四(1888)年十二月までの約十六ヵ月である。黄河主流は、賈魯河に注ぎこんだから、山東巡撫張曜にとっては、めぐみの決壊だった。自分の持ち場である山東地方は、それまでたびたびの黄河決壊に悩まされていたから、その心配がなくなっただけでもありがたい。
 事実、その年の秋のいつもの増水期には、金堤百数十里の間は、水位があがり堤まで六七寸の危険な状態になったが、鄭州決壊により無事であった、という張曜の上奏文がある*100。
 断流とは、以前に説明したとおり、黄河の水が流れないことをいう。鄭州で賈魯河に注ぎこんだから、山東黄河は、当然、断流になる。断流は、張曜にとっては、黄河治水工事に集中するよい機会だった。河底に沈殿した泥砂を浚渫するに好都合だからだ。光緒十三(1887)年十月張曜は、将来、黄河主流がまた山東にもどってくることを恐れ、その時にそなえて浚渫工事を行ないたい、そのための費用銀約89万両、堤防の土盛りに銀約21万両そのほかを請求してもいる*101。
 張曜の提案は、朝廷に一部分が認められ、費用も鄭工捐款のなかから銀60万両が回されたようだ*102。
 張曜は、もともと浚渫を重要視していた。光緒十二(1886)年九月九日の上奏文には、大意、つぎのようにいう。従来、治水の方法は、浚渫策が上策である。これまで浚渫はむつかしく、もっぱら堤防にかかわってきた。その堤防がよく決壊する。河底を浚渫するのは、困難だが、上流で決壊すれば、下流は干上がる。その時に掘り起こす*103。
 黄河断流が、浚渫に絶好の機会だという認識が、張曜にはあった。
 光緒十五(1889)年三月、張曜は上奏文において、鄭州決壊により山東には黄河氾濫事故はなかったこと、救済事業は停止したこと、ただし、以前の災害で村の資産はなくなったことなど民情の困窮した模様を報告している。その中に、一部分の民間堤防について、従来からもともとなかった、あるいは破壊されたままで修理していないことを言ったあとで、「もともと河幅を広げる考えであったが(原文:原以為展寛河深ママ(身)之計)」と述べる*104。「河身」は、普通、河底という意味で使われる。河底を拡張する、でもいいかと思うが、ここでは河幅と解した。
 八月の上奏文にも同じ語句が見られる*105。張曜がもっていた治水のもうひとつの方針が、河幅を拡張することだと理解できる。ただし、無制限の拡張ではない。堤防を固めたうえでの河幅拡張であることを言っておきたい。
 張曜の以前からの方針が、河幅拡張であって、それに加え、黄河断流の機会に乗じて河底浚渫を実行しようとした、となる。さらには、黄河の水を十分の三だけ旧道へ分流させる案も、張曜は持っていた(後述)。単純ではない。
 また、黄河の南北両岸に堤防を建設し、水門を設けることもしているし、治水に意見を持つものは、誰でも招いて意見を聞いたのが張曜だった。災害にあった人々には、常に救済策を実行した、ともその列伝に見える*106。劉鉄雲の「老残遊記」に登場する荘宮保=張曜が、河幅拡張方針の一本槍であったのとは、実際は、異なっていることを指摘しておこう。
 周知のように、光緒十四年十二月、鄭州合竜が成功したのにともない、黄河は、もとのように山東に流れ込む。利津から渤海に入海したと報告されたのは、光緒十五(1889)年一月十七日のことだった*107。

6 光緒十五年山東の黄河氾濫
 光緒十五年の山東黄河の氾濫に関して、張曜の上奏文だけを見ても、以下のようにあげることができる。
 二月初六日(1889-27)、三月初九日(-38)、六月初六日(-39)、二十九日(-42)、七月初三日(-9)、初七日(-28)、十四日(-10)、十八日(-11、-29)、八月初三日(-30)、九月初二日(-12)、二十八日(-15)、十月二十七日(-16)、十一月二十五日(-17)、十二月十二日(-18)、十五日(-32)、十六日(-19)(数字は、『清代黄河流域洪〓サンズイ+労}档案史料』の分類番号)
 一年間に16件である。ほとんど一ヵ月に1件以上の氾濫状況報告だ。これが何を意味しているかというと、説明するまでもなく、前年の鄭州合竜によって山東にふたたび黄河の氾濫が復活したということだ。
 たとえば、七月初三日には、「……調査するとそこの大堤の外には金王など四ヵ村があり、南は大堤によっていて、その四カ村の住民は、東西北の三方に堤を築き、その長さは十里になる。堤の内に移住するようしばしば勧告したが、そこの住民は住み慣れた土地は離れ難いといって、かじりついて去ろうとはしない」*108と報告される。この洪水は、六月二十五日に大寨を襲ったものをいう。「老残遊記」第13、14回で描かれる斉東城の氾濫と関係が深い(後述)。河幅を広げるのが方針のところに、大堤の外側に、つまり黄河により近づいて民間堤防を築いて居住して動かない。その結果は、明らかだろう。
 黄河が断流している間は、当然ながら堤防決壊もなかった。だが、鄭州で決壊箇所は合竜した。いったん主流が山東にもどってくれば、大堤の位置までは水位があがるのを予想している。また、それが方針なのだから、その間の民間堤防の決壊は、始めから予測済みのことだった。洪水の危険性が予想されるから、そのための住民への移転勧告だとわかる。これが張曜の方針だ。
 それにしても山東で黄河が断流した時、張曜は、朝廷に黄河浚渫の上奏を提出し、認められていたのではなかったのか。費用の支出は承認されたが、工事の実施が間に合わなかったのか、あるいは実行したが効果があがらなかったということか。もし、期待する効果がなかったとすれば、張曜は、従来の河幅拡張の方針を再度確認したことだろう。
 張曜が、黄河氾濫とその対策のためにおおわらわという時に、劉鉄雲は、『山東直隷河南三省黄河全図』作成を目的として測量調査を山東各地で実施していた。当然ながら、黄河が氾濫する様子を、劉鉄雲は、目の当たりにした。
 地元の役人から邪険に扱われて史料閲覧が自由にできない、と劉鉄雲は報告書を提出していた。役人のいやがらせもあったであろうが、混雑する現場と状況であったことを想像すれば、役人に協力を期待しても無駄なことだった。

7 黄河治水論のおおよそ
 古来から伝えられた黄河治水論は、つぎのみっつに集約できるという。
 すなわち、(1)河身浚治(2)以堤束水(3)蓄清敵黄である*109。
 (1)河身浚治とは、河底に沈殿した泥をとにかく浚渫することだ。ただし、泥はあまりにも多量で、人力で完全に取り去ることは不可能である。いったん出水するとただちに詰まってしまい、水が流れない。労多くして功少なし、というのが結論だ。
 (2)以堤束水は、堤防を構築し黄河の水を束ね、水の勢いで泥砂を押し流す方法をいう。
 (3)蓄清敵黄の特徴は、淮水を利用する点だ。泥砂のまじらない清水を集めて使う。淮水の水を蓄えて黄河に注入し、ふたつの水流の勢いで泥砂を押し出そうという考えである。2,3ともに明の潘季馴が主張した。
 以上、みっつをあげたが、そのうちの(3)蓄清敵黄は、黄河が南流していたころの方法だ。ゆえに、東流している1855年以降の黄河には適用できない。(1)の泥砂浚渫が、金ばかりかかって効果があがらないとなれば、残るは(2)以堤束水しかないではないか。
 いや、もうひとつ、張曜の河幅拡張がある。以堤束水も河幅拡張も、人力による浚渫はしない、という点では同じだ。異なるのは、以堤束水が、泥砂が河底に沈殿しないように堤防を建設して工夫をするが、河幅拡張は、ただただ広げるだけである点だ。浚渫もしなければ、泥砂の沈殿防止も考えない。いわば、ただ、大堤を大事に守って災難をやりすごす、というやり方である。
 とはいいながら、以堤束水だけで治水ができるとすれば、洪水氾濫をくりかえすはずがない。実際には、それほど簡単でないことが容易に想像できるだろう。
 黄河がその流れる方向を変えるほどまでの大洪水は、そうめったに発生しないかもしれない。あれば、流れをどうするのか、移動させたままにするのか旧道にもどすのか、という戦略が必要になる。問題がそれほど大きくない場合でも、日常的な堤防保守と決壊時の修復工事に対応する態勢を用意しておくことが求められる。
 その年の天候、泥砂の量、流れの箇所、河の曲がり具合、流れと堤防の関係、堤防の築造情況また補修の有無、〓ba4の敷設がどのようになっているのか、水門の保守、支流との関係、保守費用、人員の配置、増水の監視などなど数え切れないくらいの観測準備必要項目が存在している。場所によって河幅も当然違っている。それに応じた処置が必要になろう。黄河治水を少しでも知れば、これくらいのことは理解できる。
 黄河治水については、もう少し細かい分類と説明もある。治水の方法を知ることは、のちの劉鉄雲の治水論を検討する時にも有効だと考える。紹介しておきたい。
 王京陽が論じるのは、黄河が南流していたころの治水策だ*110。
 1.堵塞決口――決壊箇所の修復をいう。早期に修復すれば、被害を最小限にすることができるが、時機を失うと被害が大きくなる。ただし、やみくもに早期修復してよいわけではない。場所によっては、すこし修復を遅らせても水の逃げ道をつくってから修復に着手すべきこともある。
 2.修築堤防――黄河両岸に堤防を築くことは継続して行なわれてきたが、河道が変化するし、泥砂が絶え間なく沈殿して、それにあわせて堤防を高くしなければならない。
 3.束水攻沙――上で説明した「以堤束水」と同じだ。明代の潘季馴が提出した考えで、清朝の人は不断にこの方法を採用している、と王景陽はいう。ただし、この方法にも限界がある。泥砂も変化する。3年以内の泥砂ならば、まだ乾いておらず流しやすい。5年以上の泥砂は、すでに乾いて押し流すのはむつかしい。なるほど、万能ではないのだ。
 4.蓄清敵黄――すでに説明した。東流している黄河には、直接の関係がないので、説明は省略する。
 5.開〓テヘン+穴wa1}引河――修復工事の時、別に河道を開いてそちらへ主流を誘導するという方法だ。鄭州決壊のとき、劉鉄雲が提案したといわれる方法のひとつであることは前に述べた。非常時の方法ではあるが、日常に応用することもできる。すなわち、決壊しない前に、あらかじめ、適宜、誘導河道を開いておけば出水をふせぐことができる。掘り出した土を堤防に用いれば、一挙両得ということができる。
 6.修築減水〓ba4――減水〓ba4とは、主流の水量が多すぎるときに、その一部が流出するように工夫した堤防のことをいう。いわば安全弁の役割をはたす。水量調整をして決壊を防ぐのが目的だ。湖に導く、近くの河川に引っ張ればよい。これにも欠点がある。水量を減らすわけだから、黄河本体が泥砂を押し流す勢いを削ぐことになる。本流に泥砂が蓄積しやすくなり、これがまた、新しい決壊の原因となる。
 7.修建挑水〓ba4――挑水〓ba4は、水の勢いを殺す目的で、大堤から水流にむけて斜めに突き出す形で構築する堤をいう。大堤が、水流の直撃を受けないですむから、決壊を避けることができる。これも鄭州工事で使われた方法だ。
 8.人工改道――人工的に河道を変えるとは、既存の大堤とは別に堤防を建築し、そちらに主流を導くことをいう。河底に泥砂が沈殿することを防ぐことはできるが、それは暫くのことにすぎない。実際の例からすると2、3年だったという。
 王景陽は、以上のように平常の黄河治水に関するものと、決壊時の修復工事についてのものを合わせて説明している。
 当時の治水策としては、実際の黄河地域の状況を見ながら、いろいろな方法を組み合わせて施行することになろう。黄河といっても、その実態が場所によって大きく異なる。どれかひとつの方策だけが有効というわけではないはずだ。
 背後に時代の大きな制約があるのは、しかたがない。黄河の氾濫原因は、多量の泥砂が運ばれて沈殿することにつきる。その泥砂をどうするか、これが黄河治水論の要である。そうであるならば、泥砂がどこからやってくるのか、の考察が不可欠になる。泥砂が黄河に混入しなければ、氾濫の原因にもならない。しかし、当時は、ここまで考え至る人はいなかったらしい。
 これを指摘する人が出現したのは、ずっと後の事だった。
 つぎに引用するのは、私がたまたま見つけた文献であって、それ以前から源の黄土の存在を指摘するものがあるかもしれない。

 大平原を貫流する黄河の洪水の危険を除くためには、堤防以外に種々の対策が考慮されてゐる。即ち
(イ)一時的に西部の調節池で水を抑へて最大高水流量を低減する方法
(ロ)山東省西部に於ける黄河の両岸及びその附近に於て遊水池に導く方法
(ハ)大運河との交点より黄河の北に沿ふて海に至る徒駭河の分水路による方法
(ニ)土堤とその保護工
(ホ)河道の整正と安定
(ヘ)山西省・陝西省・甘粛省・河南省の一部に於ける侵蝕の防止
(ト)山西省・陝西省・甘粛省・河南省の一部に森林をふやして流出を抑制する方法*111

 イからホまでは、すでに述べられてきた方法である。ヘとトが根本方策だ。黄河の泥砂は、黄土地帯に源を発している。源で防がなければ、下流でいかなる方法を用いても、ほとんど効果が表われないのもしかたのないことだ。源にさかのぼって泥砂の流出を防止しようというのは、これは国家規模の事業にちがいない。植林には時間がかかるだろう。清朝政府そのものに、もともとその発想がないとすれば、黄河治水担当官は、やはり定められた担当箇所のみの治水に専念せざるをえない。

8 劉鉄雲の黄河治水論
 劉鉄雲には、黄河治水に関する専門著書「治河七説」があることはよく知られている。
 該書の成立については、前に推測した。つまり、光緒十五(1889)年、黄河地図作成のため測量調査していた劉鉄雲は、「治河五説」の手書き原稿を張曜と易順鼎の二人に提出した。続稿の「治河続説」は、光緒十七(1891)、福潤へ提出し、これを合わせた『治河七説』の木刻本による刊行は、光緒十七(1891)年以降のことだったろう。
 木刻本には、表紙に「治河七説」と題簽が貼られているだけで、刊行年も書店名もない。自家出版だとわかる。
 「治河五説」と「治河続説」は、別々に書かれた。これまで誰も指摘していないが、「治河五説」は、劉鉄雲が、黄河決壊修復を経験して書いたものであり、「治河続説」は、黄河の堤防維持保守の経験にもとづいて立論した。ゆえに、内容に変化が生じている。
 それほど長い論文ではない。内容を検討しよう。

8-1 「治河五説」
 以下の5項目にわけての論述となる。便宜的に番号をふる。

8-1-1 1.河患説
 山東黄河の水害がなぜ起こるか、その原因を冒頭に述べる。
 「河底に泥砂が沈殿すればするほど、(河底は)ますます高くなる。高くなれば水が溢れる。上流で溢れれば、下流は泥砂が沈殿する。沈殿から洪水が発生し、洪水から沈殿が生じる。水害はめぐりめぐって止むことはむつかしい。ここ十年来、秋に塞がり、夏に洪水をひきおこす」
 泥砂の沈殿により、河底が平地より高くなる。日本でいう天井川だ。高きから低きへ流れるのは水の本性にすぎない。沈殿と洪水を繰り返し、終わることがない。黄河決壊の原因が、泥砂の沈殿であるというのは、劉鉄雲ばかりか、各時代の共通した認識であっただろう。一歩進めて、その泥砂がどこに端を発しているかまでの考察は、なされていない。ゆえに、黄河治水の抜本的な解決法を提示するには至らない。泥砂の処理に関する、部分的で対処療法的な方策を建議することにとどまるのもしかたがない。
 ここで前漢の人・賈譲の名前が出てくる。賈譲の「河と土地を争わない(不与河争地)」説を支持するものは、放縦な川を従順なものと考える誤りを犯している、と劉鉄雲は説明する。賈譲の名前はあるが、詳しい説明がなされているわけではない。
 「河と土地を争わない」とは、黄河の流れに逆らわない、一定の範囲内で氾濫するにまかせる、そこの住民は移転させるという方法だ。賈譲がもともと主張したのは、黄河主流を北に方向転換させるように「争わない」ことであった*112。劉鉄雲は、賈譲説の時代背景は無視して、「河と土地を争わない」の字面だけを問題にし、批判するために賈譲を引用しているだけだ。賈譲は、「河と土地を争わない」のみを主張しているわけではない。賈譲が唱える治水策は、上中下の三策があった。治水三策のなかの上策が、この「河と土地を争わない」氾濫策である。中策は、水路を開いて水の勢いを分散させる。下策は、堤防を修築することだが、これは金ばかりかかって効果がないという。
 劉鉄雲は、賈譲の中策にはなぜか言及していない。中策でいう水勢を分散させることこそ、のちに劉鉄雲が強調して主張する治河策なのだ。だから、河患説で腑に落ちないのは、賈譲に三策があるのに、上策しかあげず、その上策をもって賈譲を代表させている点だ。自説を際立たせて主張するためには、省略も必要か。
 河幅拡張策は、張曜の採用している方針である。民間堤防を築いて居住する人々に勧告して大堤のなかに移住させようとしたのも張曜だった。劉鉄雲は、河患説において、名前は明らかにしていないが張曜の方針を批判していることになる。
 劉鉄雲が、この河患説において批判するもうひとつの方法が、賈譲のいう下策に当る。堤防を高くしろという説に対して、劉鉄雲が反対して具体的に数字をあげる。斉河が水深4丈、済陽、斉東が3丈56、蒲台、利津は次第に低減していき、鉄門関はわずかに1丈ばかり。来年、上流の堤防を高くすることができたとして、下流の河底は深くすることができようか。
 河患説に見る特徴のひとつは、各地の水深を数字をあげて具体的である。劉鉄雲は、実際に黄河の測量調査に従事した。だからこその記述であることがわかるだろう。
 治水方法について、賈譲説の一部を取り上げて賈譲全体を批判している。だが、ここでは、まだ、劉鉄雲自身の治水方法を述べるにはいたっていない。黄河氾濫の原因をいう部分だから、泥砂沈殿だけをいえばいいようなものの、つい批判が混入したというところだろう。

8-1-2 2.河性説
 ここでは、黄河の性質を説明する。
 王景が登場する。あとの箇所でも、劉鉄雲は、王景を歴代治水者のなかで首位に推す。その王景は、禹の方法に拠った。古代地理書の一種「禹貢」には、「導」くという文字があることをいう。つまり、黄河治水には、積極策を採用しなければならない、と劉鉄雲は言いたいらしい。
 「他の河川の性質は、すべて頭(部分)が弱く尾が強い。ゆえに水勢は従順でおさめやすい。ただ黄河の性質だけが、頭と尾が弱く、真ん中が強い。中間が強いから氾濫しやすい」
 この文章は、あいまいである。どこが頭で尾なのか。黄河は、長い。氾濫の状況をふまえれば、源流から潼関あたりまでが頭か。尾が河口付近だとすると、中間は、当時の河南、直隷、山東部分になる。鄭州を扇の要と見立てると、扇状に河道を変化させているのだから、暴れ竜のようなものだ。それは強く、制御しにくいに違いない。
 「禹は、分けて九河とし(播為九河)、尾は弱く、ゆえに泥砂が沈殿してつまりやすい。禹は、同じように「逆河」とした(同為逆河)。分けて九河とする理由は、その増水を解消するためである。同じように「逆河」とする理由は、その泥砂を押し出すためである」
 「分けて九河とし」の「九」は数が多いことを象徴させている。いくつかの支流に分散させる、という意味だ。
 「同為逆河」の「同」については、解釈が分かれる。集める、と考えれば、せっかく河を分散させているのに、河口で一つにしては矛盾する。ゆえに、「同じように」と解釈する*113。
 「逆河」という見慣れない言葉の意味は、普通、増水期に支流に本流から水が逆流することをいう。支流は、黄河に注いでいる。支流には、泥砂は、ない。「逆河」は、結局のところ支流に泥砂を押し出してしまうという意味になる。ただし、実態を知らない私には、そう読めばここは意味が不明である。もうひとつの解釈は、「逆」というのは「迎える」意味で、満ち潮によって海水が河に逆流することをいう。「同為逆河」は、「同じように(作り変えて)潮が逆流する河にする」という意味になる。
 劉鉄雲が、王景を大いに持ち上げるのは、禹の思考法を踏襲しているからだ。
 「徳(県)、(無)棣の間を分けて八河としたのは、河を分けるという意味だ。千乗で合わさり海に入る。同じように逆河とするという意味だ。その方法は、最もすばらしく、ゆえにその効果はまた最も顕著である」
 もし、これを禹と同じ内容だと考えると、間違ってしまう。禹の方法は、多くの支流に分けて黄河治水に成功したといっても、実態は氾濫するのを放置しているだけのように思える。古代においては、氾濫に任せておいても、そこに住民がいなければ、なんの問題も発生しない。氾濫によって肥沃な土壌が堆積し、それは農業にとっては好都合のはずだ。
 王景も支流に分けて、すばらしい、という。多くの支流に分けるといっても、禹の古代の方法を、王景がそっくり真似たという意味ではなかろう。劉鉄雲が、もし、王景の方法は禹と同じだと把握したとしたら、時代錯誤もはなはだしいといわなければならない。王景の場合は、管理して支流に分ける。あくまでも思考法を共有している。
 劉鉄雲が、なぜ、この箇所に記述していないのか不明だが、王景の治水論といえば、「十里に水門一つを立て、さらに水流の方向を転じさせる(十里立一水門、令更相注)」をあげるのが普通だ。(のちの治河説で出す)
 解釈は、分かれる。十里ごとの水門は、不可能だとか、黄河と支流の水門が十里離れていたとか、確定できない。王景の方法は、河底を整備し、堤防を固め、水門を建築するものだ、とまとめたものに、今、従う*114。
 劉鉄雲は、王景を讃えたあとで、次のように言葉を繋げる。
 「それに続くものは潘季馴、〓革+斤}文襄、黎襄勤らであり、これらの有名人は、水門、〓ba4を設けて排水する。河を分けるという意味だ。清水を引いて泥砂を押し出す。水を束ねて泥砂を押し出す(束水以攻沙)は、すなわち同じように逆河にするという意味だ」
 つまり、劉鉄雲は、禹の治水策を煮詰めて、「水勢を削ぎ(播)」、「泥砂を押し流す(同)」というふたつに凝縮した。この凝縮された思考法が、王景から潘季馴、〓革+斤}文襄、黎襄勤らに受け継がれる。それを実現するための方法は、時代によってそれぞれに異なる。王景は、意図的に河底を整備し、堤防を固め、水門を構築することで実現した。さらに時代がさがると、潘季馴、〓革+斤}文襄、黎襄勤らの、水門、〓ba4を設けて排水し、水を束ねて泥砂を押し出すことになる。
 水勢を削ぎ、泥砂を押し流す、まではいい。しかし、首をかしげたくなる部分も生じる。
 水門などの設備により黄河の水勢を削ぐということは、その思考法として、賈譲の「河と土地を争わない」説、あるいは張曜の河幅拡張方針とどう異なるというのか。方法は違うとはいえ、両説とも、水勢を削ぐ点では、同類ではないか。
 河の性質に逆らえば洪水が発生する。黄河のある箇所では、状況判断により「河と土地を争わない」方法を取らなくてはならない場合もあるだろう。ということは、基本的に黄河の流れるままに放置せざるをえない。いくら堤防を固め、水門を設置したところで、それを上回る水量になれば、水門によって調整したくても、洪水になる、堤防が決壊する、黄河のなすがままになる可能性も否定できないだろう。そうであれば、河幅拡張説も治水方法の一つとなる。
 誰かの説を一つだけ後生大事に守っていて、果たして具体的な状況に対応できるのかどうかは、はなはだ疑問に思うのだ。なにしろ黄河は、長大にして複雑だ。最適と思われる方法を、適宜、それぞれにあてがうほかないのではなかろうか。
 結論を急ぎすぎた。劉鉄雲の治水論の、まだ途中ではあるが、読めば自然に疑問が生じるので意見を述べた。当然、劉鉄雲は、複数の方策をもっている。あとで述べることになる。
 水勢を削ぎ(播)、泥砂を押し流す(同)が基本の二大方針だとすれば、いくつかの条件が派生してくる。
 「1.河は狭いほうがよく、広いのはよくない。狭いと力が下にあって、底を浚う。広いと力は上にあって、堤防を撃つ。河底をさらえば河は日に日に深くなり、堤防を撃てば河は日に日に溢れる。定理である」
 ここで劉鉄雲は、たとえ話をする。木桶をふたつ用意する。ひとつは内径2尺、高さは1尺の3千立方寸。もうひとつは内径1尺、高さが4尺の同じく3千立方寸。底から5分のところに小さな穴をあける。水を満たして高くかかげれば、痩せた木桶の水は、太った木桶の水よりも数倍も遠く飛ぶ。これと同じで、河が狭いと力は下にある証拠だ。
 静止した状態では、パスカルの原理で劉鉄雲のいうような圧力の差になって飛び出るだろう。木桶の水は、動いていない。だが、黄河は流動している。劉鉄雲の持ち出す例にならえば、狭いというのは水深が深いことになる。水深が深ければ、泥砂は押し出されるのだろうか。水深が深く河幅の広い場所もあれば、水深が浅く幅の狭い箇所もあるだろう。木桶の例は、黄河には応用できそうにない。子供騙しの説明だとあえて言っておく(ついでに、πが示してないから、3千立方寸は概数だ)。
 「1.河は曲がっているのがよく、真っ直ぐなのはよくない。河が曲がっていれば、水の休む場所ができて流れが平均する。河が真っ直ぐならば、水はあまりにも急に流れる。水があまりにも急に流れると、来れば溢れやすく、行けば泥砂が沈殿しやすい」
 長江では、〓番+オオザト}陽、洞庭のふたつの湖が緩衝地帯となって流れが平均するが、黄河では湖に泥砂がたまってしまう。そこで曲がっている箇所で流れを休ませ、速さを調整するわけだ。
 この説明もよくわからない。河が曲がっていれば、水勢を削ぐという方針に合うように思える。しかし、泥砂について見れば、水流が早ければ、底をさらって泥砂は排除されるのではないのか。これこそ「水を束ねて泥砂を押し出す」だと考えるが、これと矛盾が生じる。
 「1.泥砂をとどめて、水中に含まれる砂を多くさせず、急流が方向を転じる場所におく」
 河が曲がっていれば、流れの方向が変わり、そこに泥砂がたまる、という意味だろう。急流が方向をひとつ転じれば、泥砂はひとつの層になる。一層の泥砂は、水中に含まれた砂の百分の一にすぎないが、1日に曲がれば曲がるほどたまる量がふえる。
 曲がった部分に泥砂が沈殿する、では氾濫の原因になるように思う。泥砂が沈殿しないように工夫をするのが、劉鉄雲の治水方法のはずだが、これでは矛盾する。

8-1-3 3.治河説――縷堤、分流、河口
 劉鉄雲の提案する治水策は、みっつある。
 「1.縷堤を構築してたまった泥砂を押し流す」
 縷堤というのは、もとの堤防に半円型にせりだす形で作られたものをいう。河に突き出しているから、その分だけ河幅が狭まり、水流が速くなる。「水を束ねて泥砂を押し出す」ための具体的方法だ。
 河幅が狭ければ、風によって発生する波による堤防に対する衝撃も防ぐことができる、ともいう。
 ここには、劉鉄雲の主張する治水策の矛盾が存在する。次の項目で説明されているが、前倒しにする。その方が理解しやすい。
 縷堤がなければ、「水を束ねて泥砂を押し出す」効果がない。縷堤で河幅を狭めれば、必然的に急激な増水を解消することはできない。
 河幅を狭めて泥砂を押し流すつもりが、堤防決壊の恐れを生じる。泥砂の排除と堤防とどちらが大事なのか。あきらかな矛盾である。劉鉄雲は「ふたつの難点(両難)」という。その解決策は、つぎに示される。
 「1.支流に分けて急激な増水を解消する」
 禹、王景の方法だ。分流させて水勢を削ぐことを目的とする。
 それぞれの支流の河口には石の水門を建て、増水すれば水門を開けて排水する。水が引けば水門を閉めて泥砂を押し出す。王景の「十里に水門一つを立て、さらに水流の方向を転じさせる(十里立一水門、令更相注)」が、ここで出現する。
 支流に分けて、それぞれに縷堤を建築し、河幅を狭めて泥砂が沈殿しないようにする。劉鉄雲の治水策をこう理解すれば、一応、論理の筋は通る。
 分流を主張するならば、鄭州決壊はどうなのか、という疑問が出てきてもおかしくはない。鄭州での決壊を完全に修復するのではなく、一部を鄭州から賈魯河に放出し、一部を黄河の東流にもどす、という方法である。河道を変化させるのも、大きく考えれば、当然、流れを分けることになるだろう。
 鄭州決壊によって形成された新道か、それまでの東流か、いずれにするかの二者択一ではない。一部を新道へ、一部を東流へ、といういわば折衷案だが、分流の考え方を適応すれば、自然な方法だと思う。ところが、劉鉄雲が、これを主張した記録はない。意外な気がする。劉鉄雲が考える支流は、小規模なものだったのかもしれない。もしそうならば、劉鉄雲は、想像力が足りない。
 早くから分流の建議を行なっていた人物がいた。それも大規模分流だ。主張したのは、ほかならぬ張曜である。
 張曜が、くりかえし黄河を南流にもどすことを提案していたことは述べた。早いものとして光緒十二年三月二十九日の上奏文では、河南から江蘇まで実際に出向いて実地調査を行なった報告をしている。河南から南流にもどして山東の黄河洪水から救ってほしいということだ。同時に、南流にもどすことの問題点も指摘している。堤防を再び建築するのには大金がかかる。もとの河原に入植している人々がいて、その生業を奪うことになり、これがむつかしい。洪沢湖との関係が複雑だという三点である*115。張曜は、なにがなんでも山東の黄河洪水から逃れたいというのでもなさそうだ。問題があることを承知している。冷静に状況判断をしたうえでの上奏だとわかる。
 そののち、問題点がみっつあることから全面的に南流にもどすのが無理だと考え直し、それなら黄河の十分の三だけを部分的に南流させるのはどうかと提案する。それなら費用も少なくてすむ、という判断である*116。
 張曜のこの献策こそ、劉鉄雲が提案してもいい内容だろう。ただし、この時点では劉鉄雲は、黄河治水の実際には関わっていない。鄭州での修復工事に参加するのは、張曜の提案よりも二年後のことだ。劉鉄雲が、黄河分流の提案が張曜によって上奏されたことなど知るはずもない。
 張曜の分流策は、遊百川より大きな支持を受けていた。光緒十二年十月二十二日の上奏文がある。黄河が北に移って三十余年、大清河より海に入った。現在の河底は泥砂が積もり高くなり、毎年のように溢れるようになった。ほとんど収拾不可能で、山東の数十州県は人々が生活できないなどなど、状況が厳しく、それも黄河の氾濫が山東のみに集中していることを認めている。分流することに利があって害はないこと、費用節減にもなる、と述べてほぼ全面的な賛同を示している*117。
 分流策は、賛同者があったものの、実現はしていない。その理由は不明だ。
 みずからが提案したことのある黄河分流説が、規模は異なるが、劉鉄雲から送られてきた「治河説」のなかに出現している。張曜にすれば、劉鉄雲の「治河五説」原稿を受け取ったとき、自分の理解者がいたと思ったかもしれない。光緒十五(1889)年九月二十日、劉鉄雲は張曜に面会した。話らしい話はできなかったが、「治河五説」には触れたのではないかと想像する。
 「1.河口を改めて淀みなくさせる」
 韓家園ママ(垣)より鉄門関を経て牡蛎嘴を通って海に注ぐ。河道は、曲がりくねって行くのがむつかしい。河口はつまっている。尾が通じないから胸腹が滞る。河全体を大いに害している、という判断である。
 河口に泥砂が沈殿するのは、どうしようもない。この沈殿で山東半島ができたくらいの規模なのだ。曲がりくねるのは、必然だろう。それを、なんとか真っ直ぐにして海に排出させようという提案である。新しく河口をつくり、そこに堤防を構築する。工事費用までも試算していて行き届いている。
 以上、劉鉄雲の治水三策は、単語でまとめると「縷堤、分流、河口」となる。縷堤建造による河幅縮小で泥砂を押し流す方法は、堤防の決壊を招きやすいという矛盾をはらんだものだった。その欠点を、水門から排水することにより、あるいは支流に分けて、回避しようとし、分流の効果をあげるためにも河口まで真っ直ぐな河道をつける、という考えである。

8-1-4 4.估費説
 黄河氾濫を防止するための堤防建設にどれくらいの費用がかかるか、その計算をする。おおよそ300万両くらいだろう、と明細を述べる。比較のために、鄭州工事は、国費で1,000万両だとも劉鉄雲は書く。実際の総工費は、銀1,200万両だったから、大きく外れているというわけではない。劉鉄雲が実際に関わった工事だったからだろう。
 土砂、毎立方が銀1銭5分8厘7毫3絲という数字を見ただけで、いかに詳しいかがわかる。高さ1丈、天辺の幅が2丈、底が8丈で計算すると使用する土砂は、毎丈50立方。毎里で9,000立方。銀で合計1428両5銭7分8毫3絲。これを基礎数字とし、斉河の大王廟から建造しはじめ、全体の距離と南北の堤だからそれを2倍にして、古い堤を利用すると、全体の六掛けの費用で、などと細かい。鄭州での工事の経験があってこその計算だとわかる。
 ただし、冒頭に、予防策は金にならない、と述べるのはいかがなものか。つまり、堤防が決壊して被害が生じると、その補償に公金が出る。しかし、被害がでなければ、お上から褒められもしなければ、公金も支給されない。それならば、かえって黄河氾濫を歓迎するわけだ。まさに、役人の心理を穿つ表現である。これでは、提出先の役人、たとえば張曜が、予防策に熱心ではないような印象を与えかねない。受け取った役人が、愉快であるはずがない。役所仕事とは、ほとんど無縁だった劉鉄雲にして書くことのできた文句かもしれない。

8-1-5 5.善後説
 善後というのは、日常の保守をいう。やることをやっても、永久に洪水がなくなるわけではない、という。変に冷静な態度である。
 最も急を要することは、「河底を平らにすることだ」。河底は、常に両端が深く、真ん中が浅い。真ん中に積もった泥砂を押し流すために、対頭〓ba4、束水〓ba4、斜〓ba4を作る。
 対(頭)〓ba4と束水〓ba4は、同じもので、河に突き出す形で構築する。斜〓ba4にしても縷堤と同じで、河幅を狭めて水流の勢いで泥砂を押し流す。
 次に重要なことは、「頂のぶつかりから救うことだ」。頂は、縷堤のでっぱった箇所を指す。河の流れの中に突き出している堤だから、当然、その頂がある。頂が水流に洗われて崩壊しやすい。その部分を砕石で覆い崩壊から防ぐことを提案する。石の運搬には、空の塩運搬船を利用することも申し述べる。周到だ。
 「経河」「支河」の決壊対策をいう。「経河」とは、主流のこと。「支河」は、本来は、灘の内を流れる支流をいう。本流から流出して、また本流にもどっていく。ただし、劉鉄雲が使用している言葉の意味は、主流に対する支流だから、灘と切り離してよい。
 主流、支流の決壊は、ともに水門を開け閉めすることで解決する。これが劉鉄雲の方法だ。水門の操作だけで、決壊を回避することができるのか、あまりにも簡単に書いてあるので、にわかには信じ難い。水門の操作を越えた、予想外の動きが生じて鄭州の時のような大規模な決壊が発生したのではないのか。疑問が残る。日常の保守というのだから、大規模な決壊を想定していないのかもしれない。
 その他、水車の利用とか、石の水門につかう扉について、中国製はよくないので西洋のやり方を参考にするようにとか、こまかな提案もある。
 「治河五説」の治水策をまとめると、「縷堤、分流、河口」のみっつになることを確認しておこう。劉鉄雲が、鄭州における決壊修復工事に参加した経験にもとづいて、提案したものだ。
 「治河五説」は、次の「治河続説」と一体のものとして考えた方が、理解しやすい。「治河続説」を紹介する。

8-2 「治河続説」
 「治河続説」は、「治河五説」の内容を簡略にまとめたものになっている。そのため「治河五説」が18葉を要したのに対して、「治河続説」は7葉ですんだ。だが、内容には微妙なズレが発生している。両者の執筆に時間的隔たりがあったためであり、その間に劉鉄雲の経験したことも違っているからだ。前者が黄河の決壊修復工事であったのに対して、後者は、堤防の維持保守を体験したことが背景になっている点が、異なる。

8-2-1 1.治河続説一
 「河は平定しやすいし、水は治めやすい(河易平。水易治也)」と、常識人が目を剥くような語句を投入して読者の気を引くのは、のちの「老残遊記」にも見られる傾向だ。
 それができないのは、治水関係者が、目先の洪水に目を奪われ、全体を把握することができないからだ、と劉鉄雲は判断する。劉鉄雲の言うことは、正しい。張曜が提出した「黄河、十分の三分流」の上奏文も、支持者があったにもかかわらず、うやむやになったことからも理解できる。
 劉鉄雲は、古今の治水者を二派に分ける。賈譲派と潘季馴派だ。賈譲説は、「河と土地を争わない(不与河争地)」であり、その欠点は、泥砂がたまりやすい。潘季馴説は、「水を束ねて泥砂を押し出す(束水功ママ<攻>沙)」で、その欠点は、氾濫しやすい。
 すでに前で検討したように、賈譲三策のうちのひとつだけで代表させているのは、感心しない。特徴づけるためであるとしても誤解を生むし、また、事実、誤解を生んでいる。
 対する潘季馴の方法には、氾濫しやすいという欠点があることを、劉鉄雲自身が認めている。これは「治河五説」には見られなかった。つまり、ここに至って、賈譲説も潘季馴説も、両者ともに欠点をもった方法として紹介されているのが、今までと異なる。ただ、その欠点の表われかたが相違する。「泥砂の弊害は遠く、禍は後世の人にある。氾濫の弊害は近く、害は身近である。ゆえに、人は争って賈説を尊び悔いなかった。これが数十百年も黄河が治まらなかった理由である」
 以上の部分を読めば、賈譲説についても以前のものとは説明が微妙に変化していることに気づく。
 賈譲説の「河と土地を争わない」は、以前は、あたかも黄河が氾濫するのに任せる、放任する、傍観する、という無責任論として捉えていたのではなかったのか。ところが、ここにいたって、黄河をとりあえず大堤を越えて氾濫させない、という目的のためなら、賈譲説は、有効だといっていることと同じになる。泥砂が蓄積されて、将来の氾濫の原因になるというのだから、目の前の氾濫を忌避したい役人が採用したくなる方策であろう。氾濫する可能性の高い潘季馴説ならば、誰も採用しはしない。治水担当者ならば、当然のことだ。
 潘季馴説をうまく用いれば、氾濫しない、と劉鉄雲は書く。これだけで、説明はない。理解されないままに終わる可能性が高い。私が補足すれば、劉鉄雲の提案三策のうちの「分流」、すなわち水門から支流に排水して水勢を削ぐ、という意味であろう。
 聖人の大原則をふたつかかげる。
 王景の「十里に水門一つを立て、さらに水流の方向を転じさせる(十里立一水門、令更相注)」によって、水門の効用を述べる。
 禹の「分けて九河とし、同じように「逆河」とした(播為九河、同為逆河)」を示すことによって、泥砂を取り除く方法を解説する。
 結局のところ、「治河続説一」は、「治河五説」のうちの河性説を要約したものだ。すなわち、劉鉄雲が独自に凝縮した「水勢を削ぎ(播)、泥砂を押し流す(同)」に相当する。

8-2-2 2.治河続説二
 大原則「水勢を削ぎ(播)、泥砂を押し流す(同)」を実現するため、以下に、よっつの方法を提案する。
8-2-2-1 1.「民間堤防(民〓土+念})を建築し、水を束ねて泥砂を押し出す」
 現在の民間堤防は、昔の縷堤である。河幅を狭めて流れを急にして泥砂を押し流す方法は、潘季馴のやり方を踏襲するものだ。その有効なことを、歴史をさかのぼって説明する。
 咸豊五年、黄河が山東に来た時、大清河の河幅は、わずかに30余丈にすぎなかった。十余年にわたって洪水の害はなかった。それは河幅が狭く、水を束ねていたからだ。同治初年よりあらそって河幅を拡張したため、洪水が頻発するようになったし、一千丈にまで広がった、と書く。
 この劉鉄雲の説明に対して、岑仲勉が反論を加えている。紹介しておこう。
 山東の洪水を、すべて河幅が広いことを原因にしているが、はたして正統な理由になるだろうか。黄河が山東に流入したとき、完全な河というものは存在せず、至る所で氾濫していたにすぎない。決壊しなかったのではなく、溢れ出ていただけだ。また、劉鉄雲が、河南省の状況を視野にいれていないのは問題だ。つまり、山東より河幅が狭い箇所でも決壊していると言いたいのだろう。さらに、岑仲勉は、河南省における黄河決壊の要因を下流の流れが詰まったからだとする。そうなれば、河幅が広ければ多く決壊するという劉鉄雲の説は、否定される*118。
 劉鉄雲自身が、すぐ前の「治河続説一」で認めているように、河幅を狭めると、かえって氾濫の可能性が高くなる場合もあるのだ。だが、劉鉄雲は、ここでは、そのことには触れず、あくまでも民間堤防を構築し補修することを主張する。そうすれば、河自らが日に日に深くなると確信している。
8-2-2-2 2.「斜堤を構築して泥砂を除き、堤を補強する」
 この部分に、極めて重要な事柄が記録されている。注意されたい。
 「去年、下遊総辧候補道李」が、蒲(台)利(津)の間に、斜堤を建設するように願い出た。張曜の命令で、劉鉄雲は、利津と蒲台において斜堤をそれぞれ1本、建築した。経費不足のため、高さと厚さが方式通りにはできなかったが、二百あまりの村は、毎年水中に没していて、毎年のように救済されていたのが、今年は、麦の収穫が一律に豊作となった。枯れた土地が、肥沃な土地に回復したのである。利津から海口までの数十里は、毎年、泥砂でつまっていた。今は、反対に深くなっている。海口は、去年、船を進めることができなかったが、今年は進めることができる。利津の県城は、きわめて危険な地域で著名であった。毎年、護るのに大きな〓saoを40余段も用いていたのが、今年は、多くの泥砂が灘地となっている(灘が堤防を保護して有効だという意味)。
 「斜堤」は、河の中に斜めにせりだす形の堤である。挑水〓ba4と同様の働きをする。流れは、突出した堤にぶつかってその根元に泥砂が溜まり、固まる。そうなれば堤が堅固になる。一方で、中央部は流れが速くなって、泥砂は押し出される。利津と蒲台の2箇所に設置しただけで、大きな効果があった。これを黄河全域に建築すれば、きわめて有効だと劉鉄雲は主張する。巻末に「斜堤大意図」1枚を添えているのは、その自信の表われに違いない。
 「去年」というのは、光緒十六(1890)年だろう。「治河続説」を福潤に奉呈したのが、1891年だとすれば、時間的には合っている。
 この部分が重要だという理由は、劉鉄雲が日常の治水、すなわち堤防の維持保守とその結果による泥砂の押し流しに成功した、これが唯一の実例であるからだ。鄭州工事に参加して得たのは、黄河決壊を修復する経験だった。翌、光緒十五年は、黄河の測量と調査だ。劉鉄雲が、斜堤建設による泥砂を押し出す方法を試みることが可能だったのは、ここで言う利津と蒲台の工事なのだ。
 みずからの黄河保守理論を、試験する好機である。実際の試行を経て、はたしてそれが有効だと判明した。劉鉄雲にとって大いな自信となったに違いない。だからこその「治河続説」の執筆となった。

8-2-2-3 3.「滾〓ba4を構築し、分流させて減水させる」
 「滾〓ba4」は、普通、「滾水〓ba4」と呼ばれる。本流の水量が多すぎるとき、支流に排出するのが減水〓ba4だ。滾水〓ba4は、その一種で排出口部分に障害物のように低い堤を築いて水勢を削ぐ役割を担う。
 王景が治水に成功したのは、水門と〓ba4をうまく利用したからだ。ここで「十里に水門一つを立て、さらに水流の方向を転じさせる(十里立一水門、令更相注)」を出して、劉鉄雲は解説する。くりかえさない。
8-2-2-4 4.「大堤を補修し、河の開閉といっしょにする」
 官営による黄河の主要堤防が「大堤」だ。大堤に組み合わせて、縷堤、遥堤、滾〓ba4、斜堤を構築して、それぞれが役割を分担し、決壊を防いで洪水が起こらなくしようという提案である。そうすれば、経費節減につながることを付け加えている。
 以上をまとめると、1の民〓土+念}、2の斜堤は、劉鉄雲の治水三策でいえば、「縷堤」に当る。3の滾〓ba4は、「分流」だ。「治河五説」で唱えた「河口」は、引っ込めて、あらためて4の大堤と各種堤防を同時に維持していこうという新しい提案になっている。
 結局、劉鉄雲の黄河治水策を私流に要約すれば、その基本は、「各種堤防を利用した泥砂の押し出し」および「分流による減水」である。

8-3 劉鉄雲「治河七説」の意味――「泥砂の押し出し」と「減水」
 劉鉄雲が主張する黄河治水策には、大原則があることが理解できる。別の言葉で表わせば、「水勢を削ぎ(播)、泥砂を押し流す(同)」である。実現するための具体的方法は、「治河五説」で述べられた三策であり、のちに変更が加えられて「治河続説」の四策となった。
 両者の違いがなぜ発生したかといえば、劉鉄雲の経験の深まりが原因である、と重ねて言いたい。利津と蒲台における斜堤の建設という劉鉄雲の実経験が、提案内容に修正を加えるという結果になったのだ。
 ところが、劉鉄雲の治水策といえば、一般には、「水を束ねて泥砂を押し出す(束水以攻沙)」が群を抜いて有名である。あたかも、これだけだと理解されてきた。劉鉄雲は、実際にはもっと総合的に治水案を提出していることに注目すべきだ。
 劉鉄雲の治水策で強調すべきは、「泥砂の押し出し」に加えて「減水」なのだ。片方だけでは、劉鉄雲の治水策を正確に評価したことにはならない。いうまでもなく、このふたつの要約には、前にその具体的方法がついている。くりかえさない。
 上述のように劉鉄雲の治水策の特徴をいうことは可能である。ただし、劉鉄雲の方法が、他よりも抜きんでてすばらしい、というわけではない。その理由は、発想自体が他のものと同じだからだ。以前から存在する治水策を組み合わせているだけだ。対処療法的に、泥砂の沈殿をいかにして防止するか、をめぐる方法に終始しているから、おのずと限界がある。
 限界はある。しかし、強調しておかなくてはならないのは、劉鉄雲には治水、堤防修復、黄河測量調査の実経験が、豊富にあった、実経験に裏付けられた治水策の提案を行なっているという点を無視することはできない。ここを見逃すと、劉鉄雲の治水論が上滑りしているように見えるかもしれない。注意を要する。
 欠点のない理論は、ない。劉鉄雲の治水論の欠点は、ふたつある。
 ひとつは、大局的な把握がなされていない。抜本的に、源の黄土平原を緑地化するという発想が出てこないのは、時代の制約でもある。その壮大な構想があったとしても、数十年、あるいは百年単位の時間を必要とするかもしれない。目の前の黄河氾濫を防止するための直接的な方法には、当然、なりえない。そうなれば、部分的ではあっても具体的な方策の提案をしなければ顧みられないのは必然だ。治水責任者は、自分の担当区域がとにかく黄河氾濫を起こさないような方法を求めている。それに応じる提案でなければ、劉鉄雲の治河策も意味をもたない。
 もうひとつは、分流を言いながら、水門で排水するとか、小規模な支流を想定しているだけで、旧河道に分流するという規模の大きい発想が見られない。張曜には、その発想があったことを私たちは知っている。劉鉄雲にこの大きな発想が存在していないことを言わなくてはならないのは、残念ではある。しかし、客観的に見れば、これが事実だ。
 結果として、劉鉄雲の提案は、多くの治水策のうちのひとつにすぎなくなる。
 劉鉄雲の父・劉成忠が「河防芻議」において主張する「堤防を守るための灘保守を主張し、〓ba4、〓Saoを併用しながら堤防を重ねる重堤を築造せよ」とは、すこし隔たったものになった。その隔たりは、劉成忠と劉鉄雲が生きた時代の時間差を反映しているのだろう。ただし、劉鉄雲の治水論の方が、総合的な展開をしているということができる。

9 劉鉄雲の山東における黄河水利事業
 光緒十五(1889)年、劉鉄雲は、黄河全図作成のために山東を測量調査していた。翌十六(1890)年三月に『山東直隷河南三省黄河全図』は完成し、上海・鴻文書局より石印で出版されたのが、同年十月であった。
 劉鉄雲が、張曜に招かれることになったのは、黄河の測量調査を終了したあとだから、光緒十六(1890)年三月以降のはずだ。

9-1 山東巡撫張曜に招かれる
 拠る資料は、ひとつだ。福潤の手になる「光緒二十(1894)年」の文章である。「尚書銜山東巡撫福片」という。日付はないが、劉〓孫、劉徳隆ともに光緒二十年の文章だとする。内容から判断しているのだろう。ただし、これを掲載する『歴代黄河変遷図考』(袖海山房 光緒癸巳<1893>仲冬<十一月>石印)は、発行年を見ると光緒十九(1893)年となっているのが奇妙だ。発行年より遅く書かれた文書が、石印本の冒頭に飾られることになるからだ。疑問のままにしておく。
 以前述べたように、『山東直隷河南三省黄河全図』のなかの「三省黄河河道一、二」は、『歴代黄河変遷図考』の「見今河道図考第十」と同文だ。
 山東巡撫・福潤が、劉鉄雲を有能な人材として総理各国事務衙門に推薦するのがその内容である。
 説明して、つぎのように述べる。

 再候選同知劉鶚は、江蘇丹徒県の人。光緒十六年、前の巡撫・張曜が山東に呼び、黄河水利事業を任せた。該員は、従来より算学、河工を学び、また機器、船舶器械、水学、力学、電学、測量などに通じている。著書に「句股天元草」「弧角三術」「歴代黄河変遷図考」などがある。前の河南山東河道総督・呉大澂および前の河南巡撫・倪文蔚が、鄭工合竜の後に直隷、山東、河南三省黄河を測量し全図を描き、献上して御覧いただいた。該員に著述をまかせたが、それぞれの考証は、詳細かつ有益である

 「治河続説二」に見える2の「斜堤を構築して泥砂を除き、堤を補強する」において、劉鉄雲が、張曜の命令を得て利津と蒲台で斜堤を建築した事実が書かれていた。劉鉄雲自身が述べていることなのだから、間違いはない。私は、その著作が書かれた時間を考えて、堤防工事が実施されたのを光緒十六(1890)年と推測した。上に見える福潤の文章からも、やはり、劉鉄雲の黄河水利事業は、光緒十六(1890)年であったと確信する。
 もうひとつ間接資料を提示したい。
 劉鉄雲の兄・劉渭清が書いた「毘耶居士夢痕録」の光緒十六年二月二十日の項に、劉鉄雲に手紙を書いて、早く山東に行くよう勧める、とある。また、五月二十六日には、劉鉄雲がすでに事業留任という公務を得たにもかかわらず、任務分担がなされていないことをいう*119。劉鉄雲の山東における黄河水利事業が、光緒十六年であるのは明らかであろう。
 その頃の状況について、劉鉄雲をよく知る羅振玉と劉大紳の証言を見てみよう。

羅振玉の証言:
当時、ちょうど三省の黄河図を測量製図しており、君に命じて提調官とした。黄河図は完成したが、その時、黄河の災害は山東に移り、同郷の張勤果公(曜)がちょうど山東を治めていた。呉大澂公は、(劉鉄雲を)誉め讃え、勤果は公文書で君を東河に呼び寄せたのである。*120

劉大紳の証言:
呉大澂は、(河図)局を設置し三省河図を作ることにし、先君(劉鉄雲)にその事を監督させた。当時、山東はまた氾濫し、張勤果は、河南工事の表彰を見て、手紙で劉渭清を招いたが、返事して(劉鉄雲が)賞賛を譲ったママ理由を詳しく述べて赴かなかった。張曜は、公文書で先君を河南へやり、同知として山東黄河の下遊提調に任命した。河南図が完成したのち、先君は、山東へ赴き始めてママ面会した。これが官吏となった始めで、時に光緒十七年(1891)のことである。先君は、山東に三年滞在した。治水工事は、諸省のうち最優秀で、苦労を重ねて、特別に知府となった。「治河七説」「(歴代)黄河変遷図考」「句股天元草」「弧角三術」などの書は、すべてこの時ママに成ったのである。*121

 鄭州での堤防修復工事に成功したから、山東に氾濫が再現したのだ。
 劉鉄雲の業績が高く評価されたにもかかわらず、それを辞退して兄の劉渭清に譲ったことにしている。それが正しくないことは、すでに述べた。
 劉大紳は、光緒十七年に劉鉄雲が張曜と面会したと書いている。これは、正しくない。劉鉄雲が張曜と面会したのは、劉鉄雲の報告書からわかるように、光緒十五年九月二十日のことだった。山東黄河の測量と調査に従事していた頃である。二年も前のことだ。
 また、劉鉄雲が張曜に招かれたのは、光緒十七年ではなく、十六年だ。さらに、「治河七説」の成立も劉大紳の書くのとは違う。
 細かな間違いはあるが、劉大紳の説明も羅振玉の記述も、基本的には合致している。つまり、鄭州工事を終えたあと、河南省の河図局(のち善後局)に所属して黄河の測量調査に従事した。三省黄河全図を完成させて任務が解除されると、引き続き張曜に招かれて山東に移動、治水事業にたずさわるという経過である。
 張曜も呉大澂と同じように、頭脳集団を抱えていた。

9-2 張曜の頭脳集団(幕友)
 張曜頭脳集団における黄河治水論議については、羅振玉の記述にもとづく。多くの研究論文がこれに言及するのは、「老残遊記」にも同様の議論が書かれているからだ。「老残遊記」が、事実にもとづいた創作であると立論する場合のよい証拠だと考えられてきた。

羅振玉の証言:
(張)勤果が客を好んだため、役所には多くの文士がいたが、実は黄河治水について理解できる者はひとりもいなかった。多くの議論は、賈譲の「河と地を争わず(不与河争地)」という説を主とし、黄河の岸と民間の土地をできるかぎり購入し、河幅を広げようというものだ。上海の慈善家・施少卿(善昌)がこれに賛成し、国内の罹災者救援資金で官が民間の土地を購入するのを助けた。君は、その不可であること、「水を束ねて砂を押しだす(束水刷沙)」という説を主張し努めて争ったのだ。「治河七説」を書き提出した。役所の文士は、これを阻止する理由をさがしたが、その説に反駁できなかった。*122

 羅振玉が、劉鉄雲の主張を「水を束ねて砂を押しだす(束水刷沙)」にまとめている。劉鉄雲の「老残遊記」には、この表現が使われていないにもかかわらず、劉鉄雲の治水論が、「水を束ねて砂を押しだす(束水刷沙/束水以攻沙)」だけだと思われてしまった原因である。すでに見てきたように、劉鉄雲の治水論は、「泥砂の押し出し」および「減水」が基礎になっている。このふたつを実現するために、各種堤防の建造、水門の設置などなど、具体的な提案がなされているのが本当のところだ。
 劉鉄雲自身が、「老残遊記」において羅振玉説を裏付けるような書き方をしているわけではない。だから、羅振玉が、「水を束ねて砂を押しだす(束水刷沙)」ひとつに劉鉄雲の治水論を代表させたのは、やはり乱暴なまとめ方だといっておきたい。
 張曜の頭脳集団にあって、劉鉄雲は「治河七説」を書いて提出した、と羅振玉は書く。「治河七説」が「治河五説」と「治河続説」のふたつに分かれており、その成立には時間的な差があることを無視している。早く光緒十五年には、劉鉄雲から張曜へ、直接、送られている事実が、すでに明らかになっている。羅振玉の記憶違いか、その詳細を知らないための誤記である。
 劉鉄雲の治水論に、頭脳集団の誰もが、結局、反論することができなかった。これは事実だと私は考える。なぜなら、張曜の命令を得て、劉鉄雲は、実際の水利工事を手掛けている事実があるからだ。劉鉄雲の主張が認められなければ、工事着手にこぎつけることはできなかったであろう。しかも、工事には成功した。劉鉄雲が「治河続説」で述べているように、利津と蒲台において斜堤を構築し、その周辺を黄河の氾濫から救っている。限られた地域での成功であったが、劉鉄雲には大きな自信となった。黄河全体に斜堤を構築することを主張しているところに、その自信が表われている。

10 劉鉄雲「老残遊記」と黄河
 黄河治水について、劉鉄雲が、どのような主張と考えを持っているのかを見てきた。
 劉鉄雲の実経験にもとづいた治水論は、まるごと「老残遊記」に見つけることができるのだろうか。「老残遊記」*123の黄河関係部分、特に氾濫描写を中心にし、該当箇所を翻訳して説明する(引用する原文の頁数は、北京・人民文学出版社1957年版のもの。注についての数字は、それぞれの頁数を示す。「……」は、語句の省略を示す)。

10-1 第1回 黄瑞和の病気が黄河を象徴する

 その年、山東の古の千乗という場所にちょうど到着すると、ある金持ちで、姓を黄、名を瑞和というものが、奇病にかかっていた。全身が崩れただれ、毎年のように崩れていくつも穴があく。今年はこちらを治すと、明年は別のところが崩れていくつも穴があく。多年を経て、誰も治すことができない。この病は、夏になると発病し、秋分が過ぎるやいなや、たいしたことはなくなるのだ。(2頁)

 「老残遊記」であまりにも有名な箇所のひとつだ。黄瑞和は、当然、黄河を象徴している。夏に発病するのは、洪水が発生することをいう。秋分が過ぎると、洪水は収まる。崩れてただれる、穴があくのは、黄河の決壊をいう。しかも、黄河治水に成功した人はいない。
 問題は、千乗という地名だ。特別に出現する地名であることは、今、私には分かっている。どこでもいいのならば、鄭州でも、済南でもよいだろう。だが、千乗である。劉鉄雲にしてみれば、千乗でなければならない意味があった。
 戴鴻森は、今の山東高苑県(9頁)だという。私は、以前、深く考えず、そこだとばかり思っていた。一方、厳薇青は、現在の山東省歴城県から益都県一帯の場所だとする(10頁)。ふたりの意見は、一致していない。
 あらためて両説を見直すと、両者ともに間違っている。地図を見れば、戴鴻森がいう高苑県も、厳薇青が示す歴城県から益都県一帯も、黄河本流から離れている場所にある。黄河沿岸でなければ、崩れて穴のあくことなど起こりはしない。
 中国地名辞典には、今の博興、高青、浜県などの地区と説明がある。そこら一帯に目を転じると、出現するのが、利津とその西隣の蒲台なのだ*124。ここ利津と蒲台こそ、劉鉄雲が「治河続説」で述べている治水工事成功の唯一の例であった。劉鉄雲が、堤防を構築して、あたり一帯に洪水の被害が出なかったと自慢している場所にほかならない。私は、千乗は、利津と蒲台だと考える。
 これを知れば、つぎの描写も、なるほどと納得がいくはずだ。

 その年の春、老残がちょうどこの地に到着すると、黄家の執事が、この病を治す方法があるだろうかと彼にたずねた。「方法は、かろうじてありますが、みなさんは、ただ、必ずしも私のやり方でやらなくてもかまいません。今年は、ちょっと私の方法をためしてみてはどうですか。もしこの病が永遠に起こらないようにしたいのでしたら、そんなに難しいことでもありません。古人の方法によりさえすれば、百発百中です。別の病気は、神農、黄帝が伝えた方法なのですが、この病気だけは大禹が伝えた方法でなければなりません。のちに唐ママの王景という人がこれを伝授され、その後は、この方法を知る人はいなくなりました。今、奇縁で私がいささか理解しております」
 そこで黄家は、老残を滞在させて治療してもらうことにした。さて、本当に不思議なことに、その年は、すこしの崩れただれはあったけれども、穴はひとつもできなかった。黄家は大いに喜んだ。
 やがて秋分もすぎたが、病勢は、今年は、それほどでもなくなった。黄主人に穴のあかなかったのは、十数年来なかったことなので、みんなは異常なほどに楽しく、芝居の一座を呼んで、三日間の奉納芝居を催した。また、西の客間には、菊花の築山を築いて、今日は宴会を開き、明日は酒宴を準備するというように十分楽しんだのだった。(2頁)

 「黄家の執事(黄大戸家管事的)」は、黄河の管理者を意味し、そうならば張曜にほかならない。
 禹の治水方法――「水勢を削ぎ(播)」、「泥砂を押し流す(同)」は、王景に伝えられた。「治河五説」で展開した論を、劉鉄雲は、ここで繰り返している。ただし、固有名詞を提出するだけで、内容を示さない。もの足りない。
 「唐の王景」は、後漢をわざと書き誤ったとするのが、一般の説明だ。私もそうだと考える。第3回にも王景は登場し、後漢であることが明示されている。ここでうっかり誤記したわけではないだろう。
 「穴はひとつもできなかった」は、黄河は決壊しなかったを意味するし、それが「十数年来なかったこと」は、劉鉄雲が、利津と蒲台で治水工事に成功したことを指している。
 「奉納芝居を催した」は、喜び事の常であろうが、この場合も治水工事成功を祝っての奉納芝居であるだろう。
 劉鉄雲は、第1回に、自らの治水工事の成功例を象徴させた物語を配置した。ただし、その描写は、「穴はひとつもできなかった」というだけのあっさりとしたものである。治療法すら具体的に述べていない。劉鉄雲にとっては、唯一の成功例なのだから、黄瑞和にほどこした治療法は、身体の要所に針を斜めに挿す、などと得意の斜堤を暗示するものとなってもよかった。私にいわせれば、説明が不十分である。創作をするには、劉鉄雲は、あまりにも素人だった。劉鉄雲「治河七説」を検討したあとで「老残遊記」を対照させれば、そういう不満が出てくるのもやむをえない。

10-2 第3回 賈譲批判

 (高)紹殷の事務室に入って腰をかけてどれほどの時間もたたないうちに、宮保が奥からでてきた。体格は堂々としてはいるが、容貌はしかし柔和である。高紹殷は、それを見てさっと出迎えて、小さくなにかを言った。荘宮保が、つづけて「お通し申せ、お通し申せ」と言うと、使用人がかけつけてきて「宮保が鉄先生をお招きです」とよばわる。……(25頁)

 「荘」宮保の原文は、「張」宮保である。従来からの持論であるが、「老残遊記」では、登場人物は、基本的に仮名が使用されている。その中で、張曜だけが「張」の本姓では例外となり、均衡がとれない。べつの箇所では、「荘」姓で出現するので、「荘」を使用するのが正しい。本稿では、そうする。

 老残は、部屋に入り、深々と一礼した。宮保は、老残をマホガニーの椅子の上座に座らせ、紹殷は、向いにつきそう。ふたりの間に四角な腰掛けを別に運ばせて宮保は座り、質問した。「うかがうところによりますと、補残さんは、学問と実際の政務ともに衆に抜きんでているということです。私は、無学の資質でありながら、聖恩により巡撫となっております。他の省であれば誠意をつくして公務を執行すればよろしいのですが、本省には、さらにこの治水工事というものがあります。実にやりにくく、私にはほかに方法がありませんから、ただ奇才異能の士があるのを聞けば、すべてお招きしようとしておりますのも、広く意見を集めて大きい成果を得ようと考えるからです。もしお気づきのことがありましたら、ご教示いただければ、まことに幸いでございます」
 「宮保の政治上の名声は、だれもが賞賛するところです。いうべきものはございません。ただ、治水ということでしたら、外部の議論を聞きますれば、すべて賈譲三策に基づき、河と土地を争わないことを主としているそうですね」と老残はいう。
 「もともとそうなのです。ほれ、河南の河幅は広く、ここの河幅はあまりにも狭すぎますからね」
 「そういうわけではありません。河幅が狭くて流れを収容しきれないのは、増水する数十日にすぎません。そのほかの時は、水力があまりにも弱く、泥砂は堆積しやすいのです。賈譲はただ文章がうまいだけで、治水工事をやったことがないのを知るべきです。賈譲の後、百年にもならないうちに、王景という人が出てきました。彼の治水の方法は、大禹と同じ流れをくむもので、もっぱら「禹、洪水を抑う」の「抑」字を主としておりまして、賈譲の説とまったく正反対なのです。王景が治水したのちは、一千年あまり黄河の害はありませんでした。明の潘季馴、本朝の〓革+斤}文襄らも皆、ほぼその意に倣っており、名声が知れわたっております。宮保もかならずやご存知のことだと思います」
 宮保は、「王景は、どのような方法を用いたのですか」とたずねる。
 「彼は、「分けて九河とし、同じように逆河とした(播為九河、同為逆河)」という箇所の「播」と「同」の二文字から理解したものです。後漢書には「十里に水門一つを立て、さらに水流の方向を転じさせる(十里立一水門、令更相迴注)」という二句のみがあります。その子細につきましては、とても短時間では説明しつくせるものではありません。ゆっくりと意見書を作成し、ご覧にいれましょう」(25-26頁)

 初対面の荘宮保に対して、劉鉄雲が持論の黄河治水論を述べるというこれまた有名な部分である。
 注目しなければならないのは、後に意見書を提出する、という筋立てが、事実と混同されることになった点だ。
 羅振玉も劉大紳も、劉鉄雲が張曜に招かれて山東にあったとき、張曜に黄河治水論を披露し、さらに「治河七説」を書いて張曜に提出した、という。この順序は、まったく「老残遊記」の記述のままをなぞっているにすぎない。
 事実は、劉鉄雲が黄河地図を作成するために測量調査していた頃に「治河五説」を執筆し、張曜に提出した。そののち劉鉄雲は、調査の便宜をはかってもらうため張曜に会見する。張曜に公文書をもって呼ばれるのは、その三省黄河全図の仕事が終了してからなのだ。
 劉鉄雲は、事実の時間順序を無視して「老残遊記」に盛りこんでいることが分かるだろう。親友の羅振玉であろうとも、また、息子の劉大紳であろうとも、知らないことはある。事実に照らして検証すれば、ふたりとも「老残遊記」の記述を事実として受け止めたことが判明する。根拠のないことだといわねばならない。
 賈譲批判にしても、王景の治水論でも、ともに「治河七説」をそのまま利用していることが理解できるだろう。利用はするのだが、劉鉄雲は、詳しい内容説明をするつもりはないらしい。ここでも説明不足で、物足りないと言っておきたい。ただし、賈譲については、第14回に再び触れることになる。
 「そのほかの時は、水力があまりにも弱く、泥砂は堆積しやすいのです」は、老残の言葉としては、矛盾する。河幅が狭いならば、増水時に氾濫しやすい。これは当然だ。しかし、河幅を狭くすることにより水の流れを速くさせて泥砂を押し流す、というのが劉鉄雲の従来の主張なのだから、「河幅が狭」いのは、好都合のはずだ。それを「水力があまりにも弱」いと説明するのは、論理に矛盾が生じて奇妙である。
 ここは、「河幅が狭くてもかまいません」と書かなくてはならない。しかし、それでは氾濫する危険性が生じる。そこで、以下のように補足説明をすればすむ。すなわち、堤防が決壊するのを防ぐために、支流を設定して水門を設ける。これこそが劉鉄雲の治水策であるはずなのに、それを説明しないから、矛盾があるように見えてしまう。劉鉄雲がここで分流の考えをなぜ老残に提出させなかったのか、理解に苦しむ。絶好の機会であったはずだ。
 たしかに創作小説と治水論文は、異なる。しかし、黄河治水について「老残遊記」に記載があれば、同一著者なのだから、やはり十分な説明がなされていると考えるのではないか。だが、細かいところで異なっている。その実例が、うえの「河幅」についての老残の不十分な説明だ。
 従来は、「老残遊記」に見える老残の治水論=劉鉄雲の治水論、という図式で理解されていた。まさか、両者が微妙に異なっているとは、今まで、誰からも指摘されたことはない。
 「老残遊記」に述べられた老残の不十分な治水論が、劉鉄雲の治水論のすべてだと誤解される結果になったといえよう。

10-3 第13回 黄河氾濫(1)
 黄河の洪水が原因で、肉親と財産を失い、妓女にならざるをえなかった翠環の物語がある。まず、翠花が、語りはじめる。

 「これ(翠環)は、私たちこの斉東県の者で、姓は田といい、この斉東県南門外に二頃(一頃は百畝)あまりの土地があり、城内には雑貨屋も持っていました。両親はこの子と、小さな弟、今年ようやく五六歳ばかりを育てるだけでした。そう、この子にはお婆さんがいました。この大清河のあたりは、大半が綿花畑です。一畝あたり一百吊銭以上の値段がするのですよ。この子のところは二頃あまりの土地がありましたから、二万吊銭以上になりませんか。おまけに店がありますから、三万余りにはなります。俗には「万貫の財産」で、一万貫の財産で金持ちですから、この子に三万貫の金があれば、大金持ちではないでしょうか」
 「どうして困窮したのかね」
 「それは本当に早かったのですよ。三日もせずに、一家は没落離散してしまいました。それは、一昨年の事でした。ここの黄河は、三年に二度は堤防が切れて氾濫しますでしょう。荘巡撫は、この事でたいへん苛立っていらっしゃるようでした。聞くところによりますと、なんとかというお役人さまが、南方の有名な才子だそうですが、一冊のなんとかという本を巡撫にお見せになり、この河の欠点は、河幅が余りにも狭い、広くしなければ治まらない、民間堤防を廃止し、退いて大堤を守らなくてはならない、とおっしゃったのです。
 「その言葉が出るやいなや、あれらの候補のお役人さまは、みんながそれはよいと言いました。巡撫は、「これらの民間堤防の中の人々はどうしたらよいだろうか。金を出して、彼らを移転させなければならないな」とおっしゃいます。あにはからんや、あれらの総辧候補道のバカタレお役人さまたちは、「人々に知らせてはなりません。お考えください、この民間堤防の中は幅五六里、長さは六百里あり、全部で十数万の家があります。彼らに知られたら、この幾十万人は、民間堤防を守って、どうして棄てることができましょうか」と言ったのです。荘巡撫もしかたなく、うなずいてため息をつかれ、涙を流されたということです。その年の春、急いで大堤を建設し、済陽県の南岸には、格堤を一本構築しました。このふたつがこの幾十万人を一刀のもとに殺してしまったのです。かわいそうに、あの人達はどうして知りましょうか。
 「やがて六月のはじめになって、大水が来た、大水が来たと人々が言っているのが聞こえました。堤の上の兵隊はひっきりなしに右往左往しています。河の水は、一日に一尺あまりずつ増してきて、十日もしないうちに堤の高さと変わらなくなりましたし、その堤のうちの平地に比べて、おそらく一二丈も高くなっていたのです。十三四日になると、堤の上には報告の馬が一頭、また一頭と言ったり来たりするのが見えるだけで、次の日の昼にはそれぞれの兵営では、召集ラッパを鳴らして隊伍を整えて大堤に行ってしまいました。
 「その時、機転のきく人が、だめだ、大変なことになりそうだぞ、急いでもどって移動の準備をしよう、と言います。思いもよらぬことに、その夜の三更(午前零時)、大風大雨がおそってきて、ドドーと聞こえたかと思うと、黄河の水が山のようにして降ってきたのです。村の人たちは、大半が家の中で寝ておりましたが、ゴーという音で水が入っていくと、びっくりして目を覚まし、走りに走っても水はすでに家屋の軒を越しています。空は暗く、風は強く、雨もひどく、水も激しく――旦那様、こんな時にはどんな方法があるというのでしょうか」(129-131頁)

 翠花の回想である。時間は、いつか。「一昨年」という言葉だけでは、確定できない。第14回の自評で劉鉄雲は、次のように言っている。

済陽以下の民間堤防を廃したのは、光緒己丑年のことであった。その時、作者は、ちょうど公文書を奉じて山東の黄河を測量していたが、屍骸が流れのままに下っていくのを目撃した。朝から日暮まで、どのくらいあったかわからない……。*125

 己丑は、光緒十五(1889)年だ。自評に書いている通り、劉鉄雲は、まさに『山東直隷河南三省黄河全図』を作成するために黄河流域を測量調査していた。
 「老残遊記」では、六月十三四日まで増水し、十五日に兵隊の退去がある。その夜に黄河堤防から洪水になったことになっている。
 溢れ出したその場所は、「その年の春、急いで大堤を建設し、済陽県の南岸には、格堤を一本構築しました」から、済陽県の南だとわかる。地理的に確認しておくと、黄河の上流から下流へ、つまり西から東へむかって、済陽−斉東−蒲台−利津という順序で位置している。
 済陽といっても範囲は広い。済陽のどこかを特定するためには、『山東直隷河南三省黄河全図』が役立つ。
 該図には、済陽地区の大寨に書き込みがなされている。「大寨。光緒十五年六月漫決。山東巡撫張曜辧理。本年十月合竜」「老残遊記」に見える六月という時間、済陽という場所、登場人物で張曜、とまったく一致しているのに注目されたい。大寨での黄河氾濫は、「老残遊記」における斉東の被害と無関係ではないはずだ。
 調べてみると、張曜の上奏文が大寨での被害を報告している*126。ただし、その発生は、六月二十五日だ。「老残遊記」に見える斉東被害が六月十五日だから、このあとになる。
 「老残遊記」の六月十五日が正しいとすれば、済陽県の大寨付近で黄河が溢れ出し、まず、すぐ下流の斉東城を襲った。その十日後、大寨など四ヵ村を保護する民間堤防を破壊したという順序になる。
 第13回自評において、劉鉄雲は、張曜が済陽以下の民間堤防を廃止し、退いて大堤を守るという方針を、「天理を損なうもの」(『繍像小説』初出)、「荒唐無稽の極まり」(『天津日日新聞』)と述べて、罵しる。民間堤防を強固にし、各種堤防を建設して河幅を狭くするというのが、劉鉄雲の治水策の一方の柱である。張曜の方法は、劉鉄雲にとって容認できることではない。
 「老残遊記」の黄河氾濫を問題にする場合、民間堤防の実態について説明しなければ、問題の複雑さを理解することはできないだろう。
 「民〓土+念(民間堤防)」の性格について述べる。
 大堤と民間堤防がある。大堤は官営。山東では、1855年の銅瓦廂決壊により黄河が東流して後、両岸に徐々に建築されたという。
 大堤は、黄河の氾濫を予想して、幅の余裕をもって建設される。すると、その時の流れによって空き地が出現したように見える。肥沃な土地だから、勝手に住み着いて畑にして耕作する、など十分考えられることだ。住み着いた人々が、自らの畑を黄河の氾濫から守るために民間堤防を独自に建設してしまう。
 大堤が官営であるのに対して、民間堤防は、名前の通り民営による。住民が、自発的に建築する。ただし、住民の自発的な、言葉を変えれば勝手なものだから、十分な高さがなく堤防としての機能が低いとか、流れを無視して自分の都合のいいように作るとか、無秩序なものとなりやすい。黄河治水の全体から考えて、政府管理者から見れば、むしろじゃまな存在であることの方が多かった。
 ただし、民間で勝手に開墾するのを、役所が放任しておくわけがない。利益が出る箇所からは、徴税するはずだという当然すぎる予想が生じる。その事実があった。「河湖地租銀」という。
 「河湖地租銀トハ河湖等淤灘地ノ治水上障害ナキ処ニ於テ許可シ開墾者ヨリ徴収スル租銀ニシテ、……奏准ニ依リ河南山東二省黄河大堤内外ノ灘地ハ召墾徴租シ其租銀ヲ河庫ニ解送セシメシカ如キハ是レナリ」*127という具合である。しかし、税金を徴収できれば、すべてを認可したというわけでもない。黄河氾濫を防止するための取締事項があり、そのうちのひとつが、「(ヘ)堤内ノ灘地ヲ開墾シ或ハ民房ヲ建設スルコト」だった。

 堤内ノ淤灘地ニ在リテハ民人往往之ヲ開墾シ又ハ房屋ヲ建設スル者アリ。官吏亦名ヲ升科ニ借リテ之ヲ黙許スル者アリ。其益河身ヲ淤浅スルノ虞アルヲ以テ国法ハ之ヲ禁止セリ。……灘地ノ開墾及居住ノ禁止ハ一般ニ之ヲ行フニ非ス。唯河水ノ疎通ニ妨害アル処ニ於テハ絶対的ニ此等事項ヲ禁止スルモ然ラサレハ必スシモ之ヲ禁止セス。且其絶対的ニ禁止スル場合ニ於テモ既ニ灘地ヲ占有シテ耕種居住スル者ニ対シテハ漸次ニ其移転ヲ命スヘキモノトス。*128

 「河水ノ疎通ニ妨害アル処ニ於テハ絶対的ニ此等事項ヲ禁止スル」としながらも、当事者の自由裁量にまかされる部分もあったようだから、実質は、民間人のやりほうだい、ということができるかもしれない。
 「老残遊記」の上の部分、すなわち、張曜が民間堤防を廃止するのを捉えて、著者である劉鉄雲自身が大いに罵っている。研究者も、人民の命を無視する当時の為政者の無責任を責め立てる材料にしている。一貫してこの論調は、変わっていない。為政者を批判するのが、一番、楽だからだ。
 しかし、民間堤防について、歴史的に以上のような事情があることを知れば、少しは、見方が違ってきてもいいだろう。自らの財産を保持するために民間堤防にしがみつく人々は、その心情はわからないわけではないが、絶対的に正しいとも思えない。危険を承知で、開墾し住み着いたはずなのだからだ。
 役人の論理からすれば、「あれらの総辧候補道のバカタレお役人さまたち」が、大堤を守るために、民間堤防内にいる住民に補償金を出して移住させようとした張曜に反対したのも、理由がないわけではなかった。
 劉鉄雲が、「老残遊記」を執筆したとき、民間堤防の歴史的背景については、熟知していたはずだ。あまりに当たり前すぎて、説明する気にはならなかったのかもしれない。だから、説明がない。今の、私たちにとって読みとばしてしまうことの方が多いが、上のような問題が存在していたのである。
 大寨付近の地図を見る。黄河の流れる方向に関係して、北岸には、堤防が二重に構築されている。しかし、南側は、寸断された堤防が残るのが目につく。民間堤防であろう。河からかなり離れた場所に、大寨、陳荘、新街口、金王荘という四ヵ村を囲んで堤防が建築されており、その南は大堤に接する。黄河は、民間堤防を断ち切る状況を示しており、明らかにここで決壊している。そのように地図に記載されているからわかる。劉鉄雲が実地に測量して書き込んだものだろう。大寨付近で決壊したまま、水は流れて梯子〓ba4にさえぎられるが、また、ここでも氾濫した様子が描かれる。黄河の中州につくられたような形の斉東城は、本来は北側に河が大きく曲がって町を取り囲んで流れている。しかし、地図を見る限り、梯子〓ba4で氾濫した流れは、自然に斉東城の南を襲うことになり、斉東城は、水中に孤立せざるをえない。そもそも斉東城の立地そのものが、奇妙なのである。
 水に囲まれて孤立する斉東城を、次の第14回で述べる。

10-4 第14回 黄河氾濫(2)

 さて、翠花は、言葉をついで話した。「四更(午前二時)を過ぎると、風も止み、雨もやみ、雲も散って、月が出てきてそれは明るく澄んでいるのでした。むこうの村の様子は、見ることができません。ただ、民間堤防に近い人が、戸板や机、椅子につかまったまま、民間堤防に流れつき、はいあがります。また、その民間堤防の上に住んでいる人は、竹竿をにぎって急いで救い出していました、それで救われた人も少なくありません。命が助かると、一息をいれていましたが、すこし考えれば、一家の人は皆いなくなってしまい、自分だけが残ってしまったのですから、大声で泣き叫ばないものはいません。父母を呼ぶもの、夫を思って泣くもの、子供をいたむもの、その泣き声は、五百里余りもひとつながりになって、旦那様、悲惨だと思われませんか」(132頁)

 斉東城の上流から漂流する住民について描写している。民間堤防とあるから、黄河に接近して建設されている堤防を指すのだろう。黄河から離れた南側に長大な堤防があるが、これは大堤だ。漢語原文では、あくまでも「民〓土+念(民間堤防)」だから、大堤と区別してある。地図によれば、黄河に接近して船張道口、長家荘、楊家荘から斉東城まで、民間堤防がつづく。ここらあたりか。

 翠環がそれに続けます。「六月十五日のあの日、私とお母さんは南門のお店にいました。夜中に、水が出た!との叫び声が聞こえましたので、皆は急いで起きだしました。その日は暑く、大半の人は下着のままで中庭に寝ていたのですが、雨が降ってきましたから部屋に入ったのです。ようやく寝ついたとたんに、外で騒いでいるのが聞こえてきて、いそいで通りに出て見ますと、城門が開いていて、人々が城外にむかって走っていきます。城の外にもともと小さな堤防があるのですが、毎年、氾濫のときに使うもので、五尺余りの高さで、これを守るためにその人たちは出ていったのです。その頃は、雨はようやく止みましたが、空はまだ曇っていました。
 「しばらくして、見ると、城外の人が、必死になって城内にめがけて走ってきます。県知事も、駕篭にもお乗りにならず、城内に駆け込んでいらっしゃり、城壁にお上りになります。どなり声を聞けば、「城外の者、荷物を運びこむことは許さん!急いで城内に入れ、閉めてしまえ、待てないぞ!」とおっしゃっています。私たちも城壁に這い上がって見にいきますと、そこでは多くの人がカマスに泥を詰めて、城門を塞ぐ準備をしています。知事は、上で「みんな城内にはいった、さっさと城門を閉めろ」と叫びました。城内には用意をしていた土嚢があり、それを城門の後ろに積み上げたのです」(132-133頁)

 前にも触れたように「六月十五日」には、特別の意味があるのだろう。ただし、記録を調べても、当日の斉東城に該当するものがない。考えれば、斉東城が崩壊したというなら大事件だが、周囲を出水で囲まれたというだけでは、記事にならないのかもしれない。もっとも、私の調査不足で、その記録が残されている可能性もある。
 済陽県・大寨付近で黄河が溢れ出し、まず、すぐ下流の斉東城を襲った、というのが私の推測だ。
 住民は、布団、古着、布、紙、綿花、手当り次第になんでもつかんで城門の隙間を埋める。翠環の雑貨屋も、城門の詰め物に家捜しされ、ついでに穀物も持っていかれてしまった。こうして、斉東城は、洪水の中に孤立した。
 老残は、黄人瑞に、誰の考えなのか、なんという本なのかをたずねた。

 「私は、ここには庚寅の年に来てね、あれは己丑年の事だった。私も人から聞いて、しかとは知らないのだが、史鈞甫つまり史観察が提案したもので、持ち出したのは賈譲の「治河策」だそうだ」(134頁)

 「庚寅の年」は、光緒十六(1890)年、「己丑年」は、前年の光緒十五(1889)年である。光緒十五(1889)年は、劉鉄雲が黄河流域を測量調査していた年に当る。この部分は、劉鉄雲の実体験を反映していることがわかる。
 「観察」とは、観察使のことで民政と軍事を掌握する。史という姓から、前に引用した羅振玉の証言を思い出す。張曜の頭脳集団の治水方針が、賈譲の「河と地を争わず(不与河争地)」であったため、民間の土地を購入して河幅を広げようとしていた。上海の慈善家・施少卿(善昌)がこれに賛成し、罹災者救援資金で民間の土地を購入するのを助けた。史鈞甫は、この施少卿(善昌)を投影しているのかと思われるかもしれない。史と施は通音する。だが、姓は似ていても、名前が違う*129。
 史鈞甫は、施補華(均甫)である、とする重聞の指摘がある*130。湖州烏程県の人。張曜のもとで従軍しており、両者は古くからの知り合いであったようだ。光緒十六年閏二月に逝去した*131。劉鉄雲が施均甫と会う可能性は、ある。
 施均甫が、「老残遊記」では史鈞甫となって、張曜に強く勧めるのが、賈譲三策のうちの上策「河と土地を争わない」だ。ここでは、最後に賈譲の下策がチラリと出現していることに注目されたい。

 史観察が言うには、昔、斉と趙、魏は、黄河を境にし、趙と魏は山に近く、斉の土地は低かったため、河から二十五里のところに堤を作った。河水が東へ斉の堤に到達すれば、西の趙、魏はあふれる。そこで趙、魏もまた河から二十五里のところに堤を作った、と。
 その日、お役人たちは全員が役所にいて、史観察は、これらの文句をみんなに示して言った。「戦国の時には、双方の堤は五十里も離れていたから、洪水もなかった。今日、双方の民間堤防は、三四里しか離れていないし、ふたつの大堤にしても二十里も離れていない。これでは昔に比べて半分にも及ばない。もし民間堤防を廃止しなければ、洪水の害はなくなる時はないでしょう」「その道理は、私もわかる。ただ、この堤の内は、すべて村であって、肥沃な土地なのだから、幾万という家の生産を破壊してしまうではないか」と宮保はいった。(134-135頁)

 史鈞甫は、戦国時代の治水策を、清代に応用することを主張する。典拠書物を示しての説明に対して、荘宮保は、同じく書物に拠って反論をするわけではない。わずかに、弱々しく農民の生活を案じるだけだ。ここには、「黄河、十分の三分流」策を大胆に提案する張曜は、存在しない。黄河両岸の堤防を建築し、断流を利用して河底を浚渫する張曜も、いない。他人の言説に右往左往する無能力者がいるだけだ。黄河の劉鉄雲の筆になる荘宮保は、実際の張曜を矮小化して描いているということができる。あとは、史観察の独壇場で、一方的に賈譲説を解説し、荘宮保にその採用を迫ることになる。

 史観察は、また「治河策」を宮保に見せて、いった。「ここをごらんください。「非難するものはつぎのように言うであろう。もし城郭、田地と家屋、家墓など数万を破壊するならば、人々は怨むであろう、と」。賈譲がいうには、「昔、大禹が治水をするとき、山陵の路は壊し、故意に竜門を穿ち、伊闕を拓き、砥柱を折り、碣石を破り、天地の性を破壊してなお実行した。いわんや人工の物であるのに、言う価値があろうか」と。「小さいことを我慢しなければ、大謀を乱す」ともいいます、宮保が堤防内の人間について、家屋、墓、生産が惜しいとお考えですが、毎年、堤防が決壊して人命を損なっているではありませんか。これは一度の苦労で長く楽ができることなのです。ですから、賈譲は、こう言っています。「大漢の領土は万里で、少しの土地を水と争ったことがあったろうか。この功績がひとたび立てられるならば、黄河は安定し、民は安らかである。千年、災害はない。ゆえに上策という」。漢の領土は、一万里にすぎませんが、水と土地を争うことはしませんでした。我が国家の領土は数万里でありますのに、もし水と土地を争うならば、昔の賢人に笑われることになりませんか。
 「さらに儲同人の批評を指して、言うのです。「三策は、ついに反駁のできない古典となった。しかし、漢以後、治水者は、下策に従った。悲しいことだ。漢、晋、唐、宋、元、明以来、知識人で賈譲の治河策が聖経賢伝に等しいことを知らない人はいないが、惜しいことに治水者には知識人はおらず、ゆえに大きな功績は立てられないのだ」。宮保が、もしこの上策を実行できれば、賈譲の二千年後に知己を得たことになりますまいか。その功績は記録され、万世不朽でありますぞ」
 宮保は眉をひそめ、「しかし、重要なことがある。私には、この十幾万の人々の今の財産を棄てさせるに忍びないのだ」といえば、両司*132は「もし一度の苦労で長く楽ができるというのでしたら、別に費用を出して、人々を移転させてはどうでしょうか」と答える。「その方法のほうが、まだ穏当だ」と宮保はいってね、後に聞けば銀三十万両を調達して、移転させようとしたらしい。ところがどうして移転させないことになったのか、私も知らないよ。(135頁)

 以上の結果は、人々を堤内に残したままの黄河氾濫であった。締めくくりは、「老残遊記」で有名な文句が出てくる。

 こりゃまったくでたらめだな。史観察だか誰だか知らんがね、あの提案を行なった人は、悪気があったのでもなく、決して自分のためというのでもなかっただろうが、ただ勉強ができるだけで、世の中の事がわからないものだから、やることなすことに間違ってしまう。孟子の「書をすべて信じるくらいなら、いっそ本などないほうがよい」というやつだ。治水工事だけであろうか。天下の大事で、奸臣のために失敗するのは十のうち三四だが、世の中の事に通じない君子によって失敗するのは、十のうち六七にもなる。(136-137頁)

 史観察を批判する老残は、また劉鉄雲自身でもある。文献だけを根拠にして、黄河治水をやりとげようという史観察に代表される知識人は、劉鉄雲から見れば、ただの世間知らず、現場知らずのバカタレ役人にすぎない。劉鉄雲の知識人批判の根底には、自らが黄河の堤防修復工事に従事したばかりでなく、堤防保守工事にもたずさわり業績をあげたという自信が秘められていた。
 上の部分で展開された賈譲の治水策は、劉鉄雲の「治河七説」には見ることのできなかった解説である。「老残遊記」で始めて披露したことになる。引用部分は、異なるとはいえ、劉鉄雲が強調するのは、賈譲三策のうちの上策であることには変わりはない。色合いが違って見えるのは、「治河七説」では無視していた賈譲の下策、すなわち堤防を修築することを取り上げ、これが黄河治水の伝統と認識している点だろう。同じ賈譲の治水策といっても、幅があるのだ。
 「老残遊記」に登場する荘宮保は、幕友の説得に反論をすることができない、まったく能無しで優柔不断、かつ主張なし、という人物に創作されている。それが、実際の張曜であったという誤解を容易に生じさせることになる。小説が広まれば、実像が歪められていても、知る人しかわからない。その虚像が一人歩きして、実像となってしまうことになるのだ。張曜とその関係者にしてみれば、いい迷惑だろう。同情してしまう。

結論――疑問
 劉鉄雲の黄河治水活動を追い、それを基礎において「老残遊記」を見てきた。劉鉄雲が自らの黄河治水体験にもとづいて書かれたはずの「老残遊記」には、いくつかの疑問が生じる。
 劉鉄雲が「治河七説」で展開した黄河治水論は、「老残遊記」のなかでは、十分には書き込まれなかった。第3回で自らの主張を述べることができたはずだ。疑問の第一である。
 劉鉄雲治水論の大原則は、「水勢を削ぎ(播)、泥砂を押し流す(同)」である。両者がそろって、劉鉄雲の治水論を形成している。ところが、前者の分流という考えは、「老残遊記」には述べられていない。後者のあの有名な「水を束ねて泥砂を押し出す(束水<以>攻沙)」ですら、語句としては、一言も「老残遊記」の中では使用されていないのである。疑問の二だ。
 それに比べて、ただただ、賈譲の上策が批判されるのは、やや不可解であるとしか言いようがない。黄河氾濫に筆が及び、その原因を追求すると、当時の治水責任者の方針に行き着き、さらにさかのぼると賈譲に到達したのだろう。筋の運びからすると、やむをえないかもしれない。黄河氾濫の原因を、賈譲の上策に負わせようという意図だろうが、やはり、これだけでは、物足りなく感じる。疑問の三である。
 鄭州の修復工事、利津、蒲台の堤防保守工事とふたつともに経験している劉鉄雲にもかかわらず、「老残遊記」のなかでは具体的な描写がない。黄河で登場すれば、地の文章であれ、登場人物の口からであれ、もう少し蘊蓄を傾けてもいいのではないかと思う。それがないのが、不思議なのだ。疑問の四である。
 ないものねだりになるが、黄河治水が、きれい事ではない点を暴露してもよかったはずだ。
 「治河五説」の「估費説」で述べた、予防策は金にならない、を思い浮かべる。悪く言えば、黄河氾濫は、役人にしてみれば、国庫からの公金を引き出すためのよい口実になりうる。黄河は、金の卵を生む鶏といったところで、氾濫を抜本的に防止してしまったら、鶏を殺すのと同じになってしまう。黄河治水をやっているような、やらないような、氾濫を起こさせるような、防止するような、そういう悪徳役人が登場してもいいはずなのだ。
 小説なのだから、あからさまに書いてもいい。ところが、黄河治水関係の役人に対しては「老残遊記」の描写は、自制しているのか、遠慮しているのかわからないくらいにおとなしい。鄭州工事に参加するまでは、劉鉄雲は、官吏としての仕事を経験したことがなかった。当時は、官吏の実態を知らなかった、ということは可能だ。だが、「老残遊記」を執筆した時期には、十分に認識があったのではなかろうか。疑問の五である。
 黄河治水について、あれだけ豊富な経験を持ち、治水の専門著作も書いたほどの劉鉄雲であったが、その体験と知識は、十分には「老残遊記」に反映されていないといわざるをえない。
 劉鉄雲の黄河治水経験がそのまま「老残遊記」に書き込まれたというのが通説である。この通説とは異なる意外な結論だと思われるかもしれない。しかし、これが事実である。


【注】
100)水利電力部水管司、科技司、水利水電科学研究院編『清代黄河流域洪〓サンズイ+労}档案史料』北京・中華書局1993.10。分類番号1887-24(752頁)
101)『清代黄河流域洪〓サンズイ+労}档案史料』分類番号1887-40(760頁)
102)山東師範大学歴史系中国近代史研究室選編『清実録山東史料選』済南・斉魯書社1984.10。1853頁
103)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2160頁
104)『清代黄河流域洪〓サンズイ+労}档案史料』分類番号1888-11(764頁)。
105)『清代黄河流域洪〓サンズイ+労}档案史料』分類番号1888-13(764頁)
106)『清史稿』第41冊。北京・中華書局1977.8。12614頁
107)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2567頁
108)『清代黄河流域洪〓サンズイ+労}档案史料』分類番号1889-9(772頁)。朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2632頁
109)説明は、『清国行政法』192-194頁による。
110)王京陽「清代銅瓦廂改道前的河患及其治理」『陝西師範大学学報』社科版1979年第1期。初出未見。譚其驤主編『黄河史論叢』上海・復旦大学出版社1986.10。195-202頁
111)O.J.Todd, S.Eliassen著、福田秀夫抄訳『黄河』東亜研究所1939.9(原載は、“Proceedings: American Society of Civil Engineers”December 1938。初出未見)。37頁
112)賈譲三策については、岑仲勉『黄河変遷史』北京・人民出版社1957.6を参照した。
113)岑仲勉『黄河変遷史』156-157頁
114)譚其驤「何以黄河在東漢以後会出現一個長期安流的局面」『学術月刊』1962年第2期。初出未見。譚其驤主編『黄河史論叢』上海・復旦大学出版社1986.10。76頁
115)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2091頁
116)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2101頁
117)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2178-2179頁。森川登美江「劉鶚の治河論について」91頁では、張曜の上奏文とする。
118)岑仲勉『黄河変遷史』625-626頁
119)劉〓孫『鉄雲先生年譜長編』26頁
120)羅振玉「五十日夢痕録」24オ
121)劉大紳「関於老残遊記」86頁
122)羅振玉「五十日夢痕録」24オ-ウ
123)使用する版本は、次の2種類である。戴鴻森注『老残遊記』(北京・人民文学出版社1957.10 陳翔鶴校)および厳薇青注『老残遊記』(済南・斉魯書社1981.2)。
124)重聞「従老残遊記談到東河」『中和月刊』第4巻第7号 1943.7。6頁に利津だけの指摘がある。
125)参照:樽本照雄「「老残遊記」の年代を考える」樽本『清末小説論集』法律文化社1992.2.20所収
126)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2632頁
127)『清国行政法』205頁
128)『清国行政法』229頁
129)胡適は、「五十年来中国之文学」において史観察を施善昌と誤る。注15参照
130)重聞「従老残遊記談到東河」8-10頁
131)『清代碑伝全集』全2冊 上海古籍出版社1987.11。1001頁に墓志銘がある。
132)両司は、当時、張曜の幕友にいた蒋子相、李奇峰であり、候補道は、黄〓王+幾}ではないかと、重聞は推測している。(重聞「従老残遊記談到東河」9頁)

(たるもと てるお)