「救劫伝」の作者艮廬居士は、胡思敬か?
――附:「救劫伝」第12-16回


沢本香子


 「救劫伝」の作者・艮廬居士は、誰か。
 現在、二説ある。ひとつは胡思敬とし、もうひとつは張仲清だとする。
 二説あるといっても、張仲清とする文献は、ごく少数にすぎない。胡思敬説を唱える文章が、圧倒的に多数を占める。多数ではあっても、それが正しいかどうかは、また、別問題であるところに学術研究の複雑さがある。
 胡思敬説の源を探っていけば、ここでも阿英に突き当たってしまう。
 清末小説研究の分野において、比較的多くの問題が阿英に発生しているといわざるをえない。その理由のひとつは、それだけ阿英が先行して研究を進めていたからだ。
 もうひとつの問題点をあげれば、阿英以後、多くの研究者が阿英を権威として高みにあげて信用してしまったことがあるだろう。権威だから、当然、少しの疑問すら誰も感じない。資料上、少々つじつまがあわなくても、目をつぶる。あるいは、阿英説に強引に合わせてしまったのが実情だと推測する。一人が引用すれば、他人もそれに従う。これの繰り返しである。かくして、現在は、艮廬居士=胡思敬ということに、ほとんどなっている。
 さかのぼって阿英説から検討する前に、いくつか存在する「救劫伝」の版本について簡単に説明しておきたい。阿英が後の研究に与えた影響が、小さくないからだ。

1 「救劫伝」の版本について
 「救劫伝」の版本は多くはないが、それでも複数ある。雑誌連載からはじまり、のちに単行本となった。叢書に収録されてもいる。

1-1 「救劫伝」16回 艮廬居士演 『杭州白話報』第2-31期 光緒二十七年五月十五日-壬寅四月五日(1901.6.30-1902.5.12) 写真で見る限り刊行月日は、不鮮明。
 「救劫伝」は、最初、『杭州白話報』に連載された。最終回には、序、同人題詞、回目を掲載する。
 『杭州白話報』(1901-1904)は、「救劫伝」が連載されていたころは、木刻、線装の旬刊、つまり月3回発行の雑誌だった。題名通りに杭州で発行された口語による定期刊行物だ。その主旨は、「民の知恵を開き、民の気概を作る」ことにあった。当時、収束したばかりの義和団事件についても多くの記事が掲載され、おおむね、義和団に反対する立場にたったという*1。
 義和団事件を描いた作品のひとつが、艮廬居士演「救劫伝」である。
 「救劫伝」第16回に「厄災から救済するという私のこの考え(我這個挽救劫数的意思)」とある。義和団事件を、中国が見舞われたひとつの厄災と考え、事件後に実施された新政を改革(変法)つまり救済法だととらえる小説だ。
 『杭州白話報』に連載されたものが、そのまま単行本に形を変えて出版された。
1-2 『救劫伝』16回 2冊 艮廬居士撰 杭州白話報刊本 刊年不記
 木刻、線装本。序および桃源山人、太虚子の「同人題詞」などがつく。これらは前述の通り、雑誌での連載を終了した時点で附されたもの。単行本化にあたって、冒頭に移された。
 『杭州白話報』連載のままを引き抜いて2冊本にしたことが明白だ。別の言い方をすれば、同一版木を使用して刊行している。
 第1-10回、第11-16回の2冊に分ける。それほどの分量もないのに、なぜ2分冊にしているのか不明。事実、1冊にまとめたものを別に見たことがある。
 私の手元にある複写を見れば、もともと、刊年を記載していない。ところが、北京図書館編『西諦書目』(北京・文物出版社1963.10。目4の64ウ)は、刊年を「光緒二十七年」と明記している。連載終了が光緒二十八(1902)年であるから、『西諦書目』の記述は、明らかに矛盾する。おおよそ1902年の発行だと考えていいだろう。
 これ以後、阿英が叢書に収録するまで、本文そのものは、長らく人の目に触れなかった。
1-3 「救劫伝」12回 艮廬居士 阿英編『庚子事変文学集』中国近代反侵略文学集 北京・中華書局1959.5。207-255頁
 叢書に収録されたことは、学術上、大きな意味を持つ。散逸が激しい清末小説を、なんとか保存しようとした阿英の功績は、高く評価すべきものだと考える。ややもすれば、無視されがちな分野だけに、作品そのものを読むことができる状態にしたことは、阿英の大きな貢献だ。のちの研究者によっても広く利用されたことは、いうまでもない。
 しかし、疑問を感じる点もある。たとえば、序および桃源山人、太虚子の「同人題詞」などを省略する。不可解なのが、全16回ある本文のうちの12回分しか収めていないことだ。部分収録ならば、そう書くだろう。阿英は、16回本を入手しているはずなのだが、なぜ12回だけなのか。その説明は、ない。
 それどころか、阿英編の第12回本文には、まことに奇妙な箇所がある。
 終わりの部分に「和約草稿」12条が掲げられる。その冒頭に前文がついているが、これは原作にはもともと存在しないのだ。さらに条文そのものが、原作よりもかなり詳しい。
 つまり、阿英は編纂するにあたって、勝手に、正式な条文と入れ替えたのである。原作「救劫伝」には、前文もなければ、12条の条文は簡略化したものを掲げるにすぎないにもかかわらずだ。
 さらに、原作では、条文の後ろには、清朝の国家財政が赤字のうえに、莫大な賠償金を捻出するためどうするかと説明がつづく。塩税はどうの、アヘンはどうの、インフレがひどいの、とこまごまと情況が述べられる。ところが、阿英編纂の「救劫伝」は、それらをすべて削除する。削除して以下の文章に置き換えた。翻訳を示す。

諸君!これこそが北京和約の全文である。中国の慶親王と李鴻章が、各国の公使と北京で一年間議論したのちにようやく議定した。この十二条は、大綱にすぎない。まだそれぞれに詳細な規定があるが、我々はいまだに見ていない。考えれば、徹底的にしてやられたのにほかならない。今、ロシアが我が東三省地方を無理矢理占領しようとしており、半年前にすでに条約を結んだ。幸いにして我が全国のなかで理解している人は、力を合わせて電報を政府に打ち、抗議したため、ようやく中止となった。現在、この事は、まだ終了していない。私が見るところ、ロシアは東三省を必ず占拠するつもりである。また私が見るところ、我が中国は、ふたたびロシアと争うことができないのだ。ああ!どのみち我々は、まるっきり意気地がなく、力を合わせて国家を防衛しようとは思わないのである。この時におよんで、目を見開いて何を望むというのか?なにを望むというのか?

 本来はあるはずの文章が、削除されたうえ、上のように書き換えられた。この部分は、阿英が捏造した真っ赤な偽物なのである。だから、文末の「次回につづく(且聽下回分解)」がない。これでは、第12回で完結したような印象を持つ研究者が出現しても不思議ではなかろう。
 原作とはなんの関係もない文章を、よくもまあ挿入したものだとあきれてしまう。ロシアの東三省占拠を非難しているのは、阿英が編集していた当時の中ソ対立を背景にしているに違いない。
 いくら阿英であろうとも、これは編集者がやるべきではない改変である。もし、阿英が手を加えたこの「救劫伝」を根拠にして、作品論を展開するならば、それは、原作とは無関係なものにならざるをえない。
 阿英は、原作12回の最後部分を書き換えたから、第13回以降にそのまま接続することができなくなった。だから全16回のうちの12回しか収録できないという中途半端に終わったのだとわかる。
 この『庚子事変文学集』に収録されている「鄰女語」には、阿英の勝手な省略があることがすでに明らかにされている*2。はるか以前に、研究者に対して警告が発せられたと考えるべきだ。ゆえに阿英の編集物をあつかう場合、慎重な姿勢が要求されるのは自明の理である。
 案の定、阿英は、「救劫伝」でも同じ行為をくりかえしているのだった。中国大陸で編纂されたから、阿英が編集者だから、といって鵜呑みにしてしまう研究者は、阿英に騙されたことになる。
1-4 「救劫伝」12回 艮盧ママ居士 台湾・広雅出版有限公司1984.3 晩清小説大系
 「鄰女語」「恨海」「京華碧血録」「庚子国変弾詞」とともに1冊に収録される。義和団事件ものを集めて1冊にしたとわかる。著者名を間違えているが、誤植だ。また、こちらも12回しかないのは、収録に際して阿英編『庚子事変文学集』に拠ったからだ。ゆえに、阿英の書き換えもそのままひき写す結果になっている。研究論文を書く場合、阿英編集本と同じく、この台湾本も底本にしてはならない。
 以上のようなわけで、現在、普及しているのは、12回版の「救劫伝」でしかない。それも、全16回本ではない、阿英による改竄がある、というふたつの理由で欠陥品である。
 いうまでもなく、原作16回は、『杭州白話報』で読むか、杭州白話報の単行本2冊で確認するのが最良かつ基本の方法となる。日本においては、やろうと思えば、珍しくこの両方ともに可能なのだ。
 さて、艮廬居士問題に入ろう。

2 阿英説の基本、変化から決定へ
 問題が、阿英から始まるから、その軌跡を追わざるをえない。
 阿英の「救劫伝」に関する記述は、ほとんど研究メモのような短文から始まる。
2-1 阿英『小説閑談』上海良友図書印刷公司1936.6.10
 「「救劫伝」十二回、艮廬作、「杭州白話報」に掲載されて、庚子国変の事を記す。小説の体裁を用いて事変の経過を説明するが、材料は忠実でなく、文筆も極めて平凡である。もっとも奇怪なのは、義和団の殺戮行為について、大いに攻撃を加えており、しかも帝国主義に対しては、言及しようとしないのだ」(204頁)
 研究メモらしいから、艮廬居士ではなく、艮廬と書いていたりするのだろう。また、16回あるはずの本文が12回しかないことになっている。
 10回本ならまだ理解できる。現存する『救劫伝』2冊本は、10回で第1冊を構成しているからだ。阿英がいう12回とは、中途半端だ。疑問を述べれば、「同人題詞」などについて言及していないことが理解しがたい。推測できるのは、阿英が入手したのは『杭州白話報』そのものか、あるいは連載途中のものを抜き出して私的に一本としたものだろう。それにしても12回は、いかにも半端であるとくりかえしておく。12回本が、別にあるようにも読めるが、おそらく単行本化された12回本は存在しないと私は考えている。
 艮廬(居士)の本名についての言及はない。
 次の『晩清小説史』も、記述は、これとほぼ同じである。
2-2 阿英編『晩清小説史』上海・商務印書館1937.5
 「また艮蘆ママ居士と署名するものが、『杭州白話報』上に「救劫伝」十二回を作り、義和団の事を述べる。海外との通商から辛丑条約までを描いて完成する。義和団に対しては非難が周到であるが、帝国主義が民衆に行なった残虐行為に対しては一言もいわない。文筆は拙劣である」(80頁)
 艮蘆ママ居士とするのは、単なる誤植と思われる。ここでも12回とし、しかもそれで完成したとも書いているのは奇妙である。手元にある原本複写を見れば、第12回末尾には、「次回に続く(且聽下回分解)」とあるばかりか、第13回の回目も本文に印刷されているからだ。明らかに続きが存在しているにもかかわらず、それを12回で完結したと阿英が受け取ったのは、何としても不可解である。
 また、艮廬居士についても、著者が誰であるのかの推測はなされていない。
 新しい事態をむかえたのは、「救劫伝」16回本を阿英が発見してからのことだ。
2-3 阿英「庚子八国聯軍戦争書録」張静廬輯註『中国近代出版史料初編』上海・上雑出版社1953.10
 この書録は、未発表であったという。その作成は、1938年4月11日と記されている。『晩清小説史』を出版して約1年後だ。話の順序からいって、この文献に触れないわけにはいかない。
 阿英が所蔵していた「救劫伝」は、12回本だったから、説明の文章ではいずれも12回と書いている。その後、蘇州で16回本を見つけた。だが、購入する時間がなかった(阿英がそう書いている)。そこで、この書録では、「戦(日中戦争)前、蘇州で1冊を見たことがある。16回のようだった」と書き加える。
 一度は取り逃がした16回本だったが、結局、阿英は上海で入手した。蘇州の本屋が、戦火を逃れて上海に移転してきて、その在庫に「救劫伝」16回本があったからだ。
 艮廬居士の正体について言及が始まるのは、この翌年からである。
2-4 鷹隼(阿英)『剣腥集』上海・風雨書屋1939.3――胡思敬説浮上
 研究メモ風の短文いくつかを「国難小説叢話」の題名のもとにまとめた。その「救劫伝」の項目は、発見があったため書き直されて、以下のようになった。
 「「晩清小説史」では、十二回本の「救劫伝」に言及したが、実はこの本は十六回であったのを、私は、はじめは知らなかった」「庚子事変の諸小説の中で優秀作ということはできない。作者は、艮廬居士というが、「驢背集」を著した人と同一人物であるかどうかは知らない。「驢背集」は詩文ともにすばらしいが、こちらは平凡で言うに足りない。にわかにはよう断定しない」(93頁)
 16回本の存在を明らかにした点が新しい。
 新しいことのもうひとつは、艮廬居士が「驢背集」の著者と同一人物であるかどうか、ひとつの手掛かりを提出しているところだ。
 「驢背集」の著者名を、ここで阿英は書いていないが、胡思敬なのだ。「驢背集」は、義和団事件を自ら体験した胡思敬が、その経験を詩と注釈によって描写した作品である。阿英のこの詩文に対する評価は、高い。一方の「救劫伝」は、低い。それでも、阿英は、ここで著者についてひとつの可能性を示唆する。強調しておきたいのは、胡思敬だと断定しているわけではない点だ。判断を留保していることに注目しておく。
 該書「国難小説叢話」のなかには、「中東和戦本末紀略」に関する短文をあらたに追加収録する。
 「中東和戦本末紀略」は、平情客演で同じく『杭州白話報』第2年第1-31期(光緒二十八-二十九<1902-1903>)に連載されている(未見)。
 阿英は、この作品について「平情客著、十回。該報に庚子小説「救劫伝」十六回を作った艮廬居士と同一人物かどうか知らない」(90頁)とも書く。
 阿英は、『剣腥集』という書物の中において、「救劫伝」の作者・艮廬居士について二人の候補者を掲げた。すなわち、胡思敬と平情客(狄楚青のこと)である。いずれも決め手に欠けるため、可能性をいうに止まっているのは、研究者として良心的であるということができる。
 解放後、阿英は、『晩清小説史』を部分的に改訂して出版する。全面的な改訂ではない。だから、多くの箇所が旧版のままだ。「救劫伝」についても、わずかな手直ししかなされていない。
2-5 阿英『晩清小説史』北京・作家出版社1955.8
 「また艮廬居士と署名するものが、『杭州白話報』上に「救劫伝」十六回を作り、……」(51頁)
 初版の語句とほとんど同じだ。初版で「艮蘆ママ居士」と誤記していたのを訂正し、「十二回」を「十六回」に書き換えただけにすぎない。ここでは、胡思敬にも、平情客にも触れない。
 情況が変化するのは、義和団事件についての文学資料集を編纂してからになる。
2-6 阿英編『庚子事変文学集』中国近代反侵略文学集 北京・中華書局1959.5――胡思敬説の確立
 序文として書かれたのが、「関於庚子事変的文学」だ。この中で、「救劫伝」について2ヵ所で言及する。
 まず、「救劫伝」に関する解説から見ていこう。
 「この戦役について語り物の性質を完全にそなえている小説は、最初には艮廬居士の「救劫伝」十六回がある。『杭州白話報』に掲載され、小説の体裁で事変の経過を説明し、……」(23頁)
 この記述は、あくまでも「国難小説叢話」あるいは『晩清小説史』で行なった説明の延長線上にある。
 16回本を入手しているはずなのに、資料集には、本文は12回しか収録していない。阿英は、12回末尾を改竄したから第13回と接続できなくなったのだろう、とくりかえしておく。
 もうひとつの言及箇所は、「驢背集」を説明するところだ。
 「胡思敬(艮廬居士)の驢背集四巻は、最初、雑誌『華国』に掲載され、後に単行本として発行された。この戦役の事実を記録した詩集のひとつである。「救劫伝」の作者艮廬と同一人物であるかどうかは知らない(胡思敬(艮廬居士)的驢背集四巻、最早登載在雑誌華国上、後来刊印了専冊。也是這一戦役紀事史詩集之一。与救劫伝作者艮廬、不知是否一人?)」(9頁。「驢背集」も同書に収録する。84-101頁)
 ここにきわめて重要な指摘がある。阿英は、まぎれもなく「胡思敬(艮廬居士)」と書いているのだ。
 『剣腥集』(1939)で艮廬居士が胡思敬である可能性を示唆して以来、20年後の『庚子事変文学集』(1959)において「胡思敬(艮廬居士)」と明示するにいたった。阿英は、長年の資料収集の結果、ついに艮廬居士が胡思敬である証拠を発見した。誰しもが、これで決定した、と考えるだろう。同時に、もうひとつの可能性であった平情客は捨てられた。
 事実、後の研究者のほとんどが、阿英が記述する「胡思敬(艮廬居士)」に飛びついた。だれ一人として、同じ箇所に、「「救劫伝」の作者艮廬と同一人物であるかどうかは知らない」と阿英が重ねて書いていることに注意を払わなかった。
 阿英の『庚子事変文学集』における「胡思敬(艮廬居士)」説が、どれくらい研究者に影響を及ぼしたのか。次に検証してみよう。

3 阿英以後の趨勢――圧倒的に胡思敬説
 「文化大革命」をむかえた中国では学術研究が中断していた。「救劫伝」の艮廬居士については、日本での言及の方が先である。
3-1 中島利郎訳注「晩清小説史試訳ノオト(5)――第4章庚子事変の反映――」『〓口+伊}唖』第9号 1977.11.30
 阿英『晩清小説史』の日本語翻訳と注釈である。注に、関係する部分がある。
 「(29)艮廬居士 本名不詳。ただ詩集『驢背集』等の著者、胡思敬にも「艮廬居士、退廬、退廬居士」などの筆名があり、彼のことかもしれない。阿英「晩清小説目」では「銀廬居士」となっている」(50頁)
 中島利郎は、胡思敬について「「艮廬居士、退廬、退廬居士」などの筆名があり」と注した。胡思敬の筆名に艮廬居士を含めたその根拠は、阿英の文章に違いない。
 説明しなければならないのは、「阿英「晩清小説目」では「銀廬居士」となっている」という箇所だ。誤るのは初版(上海文芸聯合出版社1954.8。89頁)であって、増補版(上海・古典文学出版社1957.9)では訂正している。それを書かないのは、不親切だろう。
 中島利郎の訳注は、平凡社出版の翻訳に吸収された。
3-2 阿英著 飯塚朗、中野美代子訳『晩清小説史』日本・平凡社 東洋文庫349 1979.2.23
 「(25)艮廬居士 胡思敬(一八七〇〜一九二二)字は漱唐のこと。退廬、退廬居士ともいう。『小説目』に銀廬居士とするのは誤り」(320頁)
 もとになった「試訳ノオト」では、「彼のことかもしれない」と一応の疑問符をともなっていた記述が、こちらでは、艮廬居士は胡思敬であると断定されるにいたった。「晩清小説目」の初版しか参照していないのは、もとのままだ。
 作品についても注釈がつけられた。
 「(27)『救劫伝』『杭州白話報』連載後、同報館より各期から分離して抽印本として単行(年は未詳)。いま『庚子事変文学集』上冊所収。阿英、「十六回」に誤る。阿英「救劫伝」(『小説閑談』初版所収)参照」(320頁)
 「阿英、「十六回」に誤る」とは、大胆な説明である。阿英自身が、12回は間違っていた、16回本を入手したと書いているのを否定するのだ。おそらく『庚子事変文学集』に12回分しか収録していないから、阿英が誤ったと判断したのだろう。ここは、「誤る」とする指摘そのものが間違っているという、不注意であると同時に恥かしい注釈である。
 一方、中国では「文革」後、ようやく清末小説研究が復活しはじめる。
 「救劫伝」は、辞書項目として収録されることが多い。著者については、基本的に、すべて阿英が書いた「胡思敬(艮廬居士)」説を踏襲しているといってもいいだろう。
3-3 江蘇省社会科学院明清小説研究中心編『中国通俗小説総目提要』北京・中国文聯出版公司1990.2/1991.9再版
 「救劫伝 十六回 存 “艮廬居士演”と題す。すなわち胡思敬であり、詩集『驢背集』四巻がある」(846頁。蕭相〓心+豈}執筆)のように書かれる。
 艮廬居士は胡思敬である、と理由も根拠もなく断言される。理由も根拠も必要のない事実である、という認識があるからだろう。
 ついでに触れておくと、提要において回目は16回を示すが、13-16回の内容を説明していない。阿英が行なった原文の書き換えについても言及しないから、執筆者の蕭相〓心+豈}は、阿英編集本に拠って該当項目を書いたのだろう。「正文半葉十一行、行二十五字」と原物を見ていなければ書けないと思われるのに、不思議なことだ。
 あとの文献は、列挙するだけに止めたい。
 王継権主編『中国歴代小説辞典』第4巻近代(昆明・雲南人民出版社1993.3)には、「艮廬居士(胡思敬)著」(144頁。童〓火+韋}鋼執筆)とある。孫文光主編『中国近代文学大辞典』(合肥・黄山書社1995.12)は、「作者即胡思敬」、「光緒二十八年(1902)《杭州白話報》連載」とする(890頁。万建清執筆)。梁淑安主編『中国文学家大辞典・近代巻』(北京・中華書局1997.2)は、胡思敬の項目で「一号艮廬居士」とし、「又作小説《救劫伝》十六回」と記述する(317頁。王飆執筆)。

4 新説提起
 艮廬居士=胡思敬説一色のように見えるかもしれない。だが、胡思敬をあげない文献も、実は存在する。
 たとえば、清末小説研究会編『清末民初小説目録』(中国文芸研究会1988.3.1)は、「救劫伝」の項目において、「艮廬居士(張仲清)」とし、胡思敬には触れない。また、樽本照雄編『新編清末民初小説目録』(清末小説研究会1997.10.10)も、同じく張仲清と注記する。ただし、異なる説を紹介することを忘れない。「[提要846]では、艮廬居士を胡思敬とする」(325頁)といった具合だ。さらに、樽本照雄編『清末民初小説年表』(清末小説研究会1999.10.10)では、「艮廬居士(胡思敬)/張仲清?」(7a)と微妙に変化させている。それは、考えにユレが生じたためであろう。
 王継権、夏生元『中国近代小説目録』(南昌・百花洲文芸出版社1998.5 中国近代小説大系80)が、「艮廬居士(張仲清)」(402頁)と書くのは、『清末民初小説目録』を引き写しているからにすぎない。
 森川登美江「清末小説点描1――義和団事件を描いた文学作品――」(『大分大学経済論集』第50巻第2号 1998.7.20)は、『新編清末民初小説目録』により二説があることを知ったうえで、注1において胡思敬と張仲清の両説を併記している(64頁)。張仲清が合編で『万国演義』を出版していることを指摘しているところが新しい。
 『清末民初小説目録』の出版は、1988年である。『中国通俗小説総目提要』が1990年に発行されるよりだいぶ前のことになるのに、なぜ、張仲清説が中国の研究者の目に入らないのか。理由は、簡単である。中国の研究者の多くは、『清末民初小説目録』を見ていないからだ。
 それよりもなにも、清末文学研究の権威である阿英が、艮廬居士は胡思敬だと断定しているのだ。異論が出てくるはずがない。そういう意味では、王継権、夏生元『中国近代小説目録』は例外的な存在だろう。ただし、こちらは、前述したように『清末民初小説目録』に拠っており、阿英説を検討する時間的余裕がなかったのかとも思う。
 では、艮廬居士は、胡思敬なのかそれとも張仲清なのか。

5 胡思敬説
 まず、胡思敬説からはじめよう。
 阿英がとりあげる胡思敬は、著名な人物で、人名辞典などにも多く採録されている。手元の古い文献から見ていくと、橋川時雄のものがある。
5-1 橋川時雄『中国文化界人物総鑑』北京・中華法令編印館1940.10.25初版/名著普及会復刻1982.3.20
 これには胡思敬の経歴が、かなり詳しく書かれている。冒頭部分を引用する。
 「字は漱唐、号は退廬、江西西昌の人。光緒癸巳に郷試に挙げられ翌年進士、乙未に殿試に補せられ、翰林院庶吉士となり、戊戌に散館、史部主事となり、其の間読書と購書につとめ、……」(275頁)という。蔵書の多さでも有名で、かつまた『退廬文集』7巻など著書多数がある。多数の著書のひとつが、阿英のあげた「驢背集」だった。
 橋川の記述で気になるのは、号のなかに艮廬居士が含まれていないことだ。辞書項目だから、すべての号が列挙されているわけではない、と考えれば、おかしいことはない。では、別の筆名録を見ておく。
5-2 張静廬、林松、李松年「戊戌変法前後報刊作者字号筆名録」『文史』第4輯 1965.6
 胡思敬 胡漱唐、痩唐、退廬、退廬居士(226頁)
5-3 藤田正典『現代中国人物別称総覧』汲古書店1986.3
 胡思敬 1870-1922.5.26(字)漱唐、痩篁、痩唐(号)退廬居士、退廬、問影楼主(72頁)
 このふたつとも似たようなものだが、いずれも艮廬居士を挙げていない。
 朱宝〓木+梁}主編『二十世紀中国作家筆名録』増訂版上下(台湾・漢学研究中心編印1989.6。317頁)にしろ、大部な陳玉堂編著『中国近現代人物名号大辞典』(杭州・浙江古籍出版社1993.5。653頁)にしろ、胡思敬の項目に艮廬居士を収録していないのは同様である。また、徐為民編『中国近現代人物別名詞典』(瀋陽出版社1993.10)にも「1870年生 江西新昌人 痩唐、漱唐(字)、退廬、退廬居士(号)、問影楼主」(113頁)とあって、艮廬居士が見えない。
 胡思敬と親しい友人の陳毅が書いた「胡退廬墓表」(卞孝萱、唐文権編『民国人物碑伝集』北京・団結出版社1995.2)には、「退廬諱思敬、字痩篁、新昌胡氏、退廬其晩号」(936頁)と記されている。艮廬居士はおろか、艮廬すらもない。
 これはどうしたことだろうか。
 胡思敬の「驢背集」は、最初、雑誌『華国』に掲載された、と阿英はいう。『華国』(目次では華国月刊)そのものを見れば、第1巻第2-9期(1923.10.15-1924.5.15)に連載されているのが確認できる。その著者名に「艮廬居士」とでもあれば、胡思敬が号に艮廬居士を使用したという証拠になる。だが、雑誌を手にすると、本文には、退廬居士(目次は退廬)とあるだけだ。
 こうなれば、推測はひとつしかない。胡思敬は、艮廬居士という号を持っていないのではないか。
 大量の文章を残している胡思敬だから、その著作集に「救劫伝」が含まれていれば、その著者だと断定することができる。
 そこで、胡思敬撰『退廬全集』全7冊(近代中国史料叢刊第45輯、台北・文海出版社。刊年不記)を見る。 しかし、ここには「救劫伝」は収録されていない。
 胡思敬の全集に「救劫伝」が存在しないということは、該作品は胡思敬のものではないと判断していいだろう。
 艮廬居士が胡思敬の号でないならば、出発点にもどって検討しなければならなくなった。つまり、「胡思敬(艮廬居士)」と書いた阿英説の再検討である。

6 阿英「胡思敬(艮廬居士)」説の謎
 阿英は、次のように書いている。重要な箇所だから、くりかえす。
 「胡思敬(艮廬居士)の驢背集四巻は、最初、雑誌『華国』に掲載され、後に単行本として発行された。この戦役の事実を記録した詩集のひとつである。「救劫伝」の作者艮廬と同一人物であるかどうかは知らない」
 あらためて読んでも、不可解な、筋の通らない文章であると私は感じる。なぜか。
 「胡思敬(艮廬居士)」と明記しておいて、その後ろに「「救劫伝」の作者艮廬と同一人物であるかどうかは知らない」と続けるのは、論理的につじつまが合わない。
 「胡思敬(艮廬居士)」と記しているからには、艮廬居士の本名が胡思敬であることを示しているにほかならない。したがって「救劫伝」の艮廬も胡思敬になる。ところが、「「救劫伝」の作者艮廬と同一人物であるかどうかは知らない」というのだから、書いていることが前後であきらかに矛盾する。
 それとも、胡思敬は、艮廬居士という号を持っていて、しかも「救劫伝」の作者艮廬と同一人物ではないというのか。
 中国には、同姓同名の人物も多い。同じ号を使用する複数の文人も存在する。「救劫伝」の場合も、それと同じなのだろうか。
 つまり、艮廬居士と同一の号を使用している別人の存在を阿英は言っているのか。そうであれば、「救劫伝」の艮廬居士は、胡思敬とは別人ということになる。阿英以後、艮廬居士=胡思敬と書いてきた研究者の全員が誤っていることを意味する。
 それよりも、同一号を持つ別人というのであれば、上とはちがった書き方になるのではないか、というのが私の考えである。たとえば、「同一号を有しているが」などの注釈をつけて、「「救劫伝」の作者艮廬と同一人物であるかどうかは知らない」と記述するのであれば、同号別人という考えも成立しないわけではない。
 だが、私が推測する真相は、それほどまでに複雑ではない。簡単なことなのだ。印刷過程で発生した誤植なのである。
 すなわち、「胡思敬(艮廬居士)」で示している「艮廬居士」は、「退廬居士」の誤植だと思う。
 阿英の原稿は、「胡思敬(退廬居士)」となっていたのではないか。それを植字段階で「胡思敬(艮廬居士)」と誤った。「退廬」と「艮廬」は、見た目に似通っている。おまけに、著述の箇所は、「艮廬」が話題にのぼっているからなおさらだ。校正段階で、その誤植を見逃し、現在に至るまで誤解が継承されているのである。そうとしか考えられない。
 私の推測にしたがって、阿英原文の「艮」を「退」に直してみる。
 「胡思敬(退廬居士)の驢背集四巻は、最初、雑誌『華国』に掲載され、後に単行本として発行された。この戦役の事実を記録した詩集のひとつである。「救劫伝」の作者艮廬と同一人物であるかどうかは知らない」
 これでようやく話の筋が通る。「退廬居士」だからこそ、その直後にある「「救劫伝」の作者艮廬と同一人物であるかどうかは知らない」となんの矛盾もなく文章が成立する。阿英は、退廬居士である胡思敬が、艮廬と同一人物かどうかは分からない、と従来の自説をくりかえしているにすぎない。
 阿英の原文が「胡思敬(退廬居士)」であったとするならば、そうだと私は確信するが、「胡思敬=艮廬居士」説は、一瞬にして根底からくつがえる。したがって、誤植を信じた研究者は、必然的に総てが誤ることになる。
 胡思敬は、艮廬居士という号を持っていなかった。これが、ひとつの結論である。
 それでは、もうひとつの張仲清説はどうなるか。

7 張仲清説
 艮廬居士=胡思敬説が否定されると、張仲清が有力な存在として浮き上がっていくる。
 艮廬を号に持つ人物は、筆名録によると二人いる。
7-1 楊廷福、楊同甫編『清人室名別称字号索引』上下 上海古籍出版社1988.11
 張茂烱 呉県 仲清 艮廬(1317頁)
 蒋元〓木+越} 海寧 照生 艮廬(1667頁)

 蒋元〓木+越}について、私は知らない。
 張仲清は、人名録に収録されている。そのまま紹介する。
7-2 北京支那研究会編『最新支那官紳録』同会1918.8.20/1919.9.10三版
「張茂烱(Chang Mao-ch'iung) 字 仲清 江蘇省呉県人/前清甲辰科進士出身にして曽て度支部主事軍餉司科長たり、民国成立するや塩政署参事に任ぜられ、嗣で財政部整理賦政所議員、清査官産處評議員となり四年七月五日少大夫を授けられ、十月十日三等嘉禾章を給与せらる、六年十二月善哉塩務署参事たり。年齢四十三」(440頁)
7-3 『最近官紳履歴彙録』第一集 北京敷文社1920.7
「張茂炯 字仲清年四十五歳江蘇呉県人(後略)」(138頁)
 2種類の数え年をもとにして計算すれば、張仲清は、1876年生まれとなる。甲辰は光緒三十(1904)年だから、科挙が廃止される直前に進士となった。その経歴を見れば、『清塩法志』三百巻(塩務署1920)という著書をもつこととあわせて塩務に従事したことがわかる。
 義和団事件発生時は、数えで二十五歳、「救劫伝」の連載が光緒二十七(1901)年から翌年にかけてだから、二十六歳の時となる。著作と年齢との関係は、不合理なところはない。
 艮廬という号のほかに、もうひとつの手掛かりは、『万国演義』という作品になる。
7-4 『万国演義』
 『万国演義』60巻は、前出『中国通俗小説総目提要』(854頁)の記載によれば、沈惟賢輯著、高尚縉鑑定、張茂炯述章(上賢斎蔵版、作新社制印 光緒二十九(1903)年四月)となっているという(原物未見)。
 注目されるのは、張茂炯の名前があることだ。「炯」の俗字が「烱」である。つまりここの張茂炯は、問題にしている張仲清と同一人物にほかならない。
 「救劫伝」第15回には、義和団に殺害されたドイツ公使ケッテレル男爵の件に関して、醇親王がドイツまで赴いてドイツ皇帝に謝罪する模様が書き込まれる。ベルリン(柏林)が出てくるところなど、世界歴史を述べているらしい『万国演義』に関係している張茂炯(仲清)にとっては、執筆はそれほど困難なことではないと想像する。
 上賢斎は、杭州にあったというから、『杭州白話報』と同じ土地であるのも、何やらかかわりがありそうな気もする。さらに加えて「救劫伝」の発表が1901年からで、『万国演義』の出版が1903年だから、時間的に接近しているのも興味深い。
 『新編清末民初小説目録』に収録された膨大な作品の中に、艮廬居士名義の作品は、わずかに「救劫伝」1作しかない。艮廬という号を持つ人物が張仲清であり、その本名・張茂炯を冠した作品『万国演義』がほとんど同時期に存在しているのは、偶然の一致とは思えない。
 以上の資料を総合して結論を述べる。
 「救劫伝」の作者・艮廬居士とは、胡思敬ではない。張仲清のことである。


【注】
1)謝俊美「杭州白話報」北京・中国社会科学院近代史研究所文化史研究室、丁守和主編『辛亥革命時期期刊介紹』第2集 北京・人民出版社1982.10。63-80頁
2)樽本照雄「版本のこと――「鄰女語」を例として」『清末小説論集』法律文化社1992.2.20所収


◆「附:「救劫伝」第12-16回」について。本文の第12回から掲げる理由は、阿英編集本第12回には改竄があり、本来の姿ではないからだ。また、手元の単行本(写真複写本 原本は東洋文庫所蔵)の第14回には、理解しがたいことに重複頁がある。そのほか、破れ、虫くい箇所もある。今、初出の『杭州白話報』(国立国会図書館所蔵)を挿入することによってそれらを補った。