『官場現形記』の海賊版をめぐって


大 塚 秀 高


一 『官場現形記』の海賊版

 樽本照雄氏に「「官場現形記」の初期版本」(『中国文芸研究会会報』31〔1981.12.1〕所収。のち『清末小説閑談』〔法律文化社、1983.9〕に収める。引用は後者による)という文章があって『官場現形記』の版本を簡明に整理している。それによれば『官場現形記』には原本系と増注本系があり、前者に以下の二種があるという(筆者において要約した)。
 @『世界繁華報』紙上に光緒二九年(一九○三)四月から光緒三一年六月まで連載されたもの。
 A繁華報館がこれを逐次まとめ出版した五編六十巻本。ちなみに初編(巻一〜一二)は光緒二九年九月に、続編(巻一三〜二四)は光緒三○年四月以前に、三編(巻二五〜三六)は光緒三○年一一月以前に出版された。四編と五編については「光緒三一年以内に出されたと考えられる」という。
 もっとも「増田渉文庫に、光緒二九年(一九○三)八月一六日発行の二四巻一二冊が所蔵されている。初編にあとから続編をくっつけたわけで、これがはじめの形態であろう。また、同年月日の日付をもつ六○巻二○分冊というのもある(東洋文庫)」との矛盾する記述もあり、不明な点がないわけではない。
 後者にはいずれも欧陽鉅源の注が附された以下の三種があるという。
 B「世界繁華報館校刊」と柱に明記するもの(刊年不記)。
 C粤東書局石印本(光緒三○年一一月、四編四八巻一二分冊、絵図あり)。
 D崇本堂石印本(宣統元年二月改訂初版、絵図あり)。
 樽本氏は上記BCD三本の関係について、「Bの増注本が原本(大塚按:Aを指すとみられる)と同じ世界繁華報発行である」からBがCDの「原本(大塚按:この原本がAの意味でないことは明らか)なのだ」とし、Cの発行が光緒三○年一一月だから「原本が『世界繁華報』連載中に、すでに増注本が作られていたこと」になるが、「欧陽は李伯元を助けて八年間も一緒に仕事をしており、二人の関係から考えても、原本と増注本の同時進行という情況も不自然ではない」とする。またCとDの関係について(注)で「増注本に絵図をつけ加えた石印本――粤東書局本と崇本堂本は、筆耕者が異なるためか、絵図の部分が微妙にちがっている。しかし、一見しただけでは区別がつかず、この二種類の版本を合体して所蔵するところもある」と述べ、具体例を挙げる。
 樽本氏はこののち「「官場現形記」裁判」(『中国文芸研究会会報』33〔1982.4.1〕所収。のち『清末小説閑談』〔法律文化社、1983.9〕に収める。引用は後者による)を書き、上記のCとDについて改めて言及した。樽本氏によれば、『官場現形記』が近ごろ他人によって翻刻されたため、著者が裁判所に訴え出たという事件が則狷の『新笑史』に「法廷での自供」と題して収められているが、この訴えられた海賊版の可能性があるのがCDであるとする。ただし「訴えられたのは粤東書局か、崇本堂か。今のところ、それはわからぬ」とした。該論文前半における両書肆への言及は以上にとどまる。
 該論文後半は『官場現形記』の版権をめぐるいまひとつの「正式な裁判ではなく、裁判官立ち合いの、いわば談合」事件に焦点をあてる。「李伯元の死後、世界繁華報館の経営と、「官場現形記」の版権をめぐって、残された親族と欧陽鉅源(李伯元の親しい友人であった)の間でイザコザがもちあが」り、「増注絵図本が出て、原本の売れ行きに大影響をおよぼしている。列席した裁判官関炯之にたずねると罰則等を教えてくれた。海賊版を出したある「書館」の支配人も同席しており、孫(菊仙)は、原本および版権を三千元で、その「書館」に買収してもらうよう調停し、その通りになった」のだという記事(魏紹昌編『李伯元研究資料』〔上海古籍出版社、1980.12〕所収李錫奇「李伯元生平事蹟大略」)を引き、この海賊版を出したある「書館」につき、包天笑の商務印書館説を否定したのち、「ここでも、粤東書局と崇本堂の二軒の書店が残るのだが、前の裁判との関係がはっきりせず、どちらの書店かを判定するのには決め手を欠く。両書店の活動は「官場現形記」の出版くらいのもので、他にどういう作品を出したのか不明だし、主人がだれであったのかさえわからない」とする。以下では『官場現形記』の海賊版につきいささか考察することにしたい。

二 石印本の版下は縮印を前提に作成される

 樽本氏の『新編清末民初小説目録』(清末小説研究会、1997.10)には『官場現形記』の増注本がG0381からG0387まで七種著録されている。G0381が上記Bに相当する世界繁華報館刊年不記の不全本、G0382(4編48巻)がCの粤東書局石印本、G0383がDの崇本堂宣統元年二月修正初版石印本であり、G0384とG0385はいずれもCとDの配本とされる。樽本氏はG0384を巻1-28が崇本堂本、巻37-60が粤東書局本からなる、発行所、刊年とも不記の不全本、G0385を巻1-36が崇本堂本、巻37-60が粤東書局本からなる、崇本堂を銘打つ刊年不記の配本とする。遺憾ながら『新編清末民初小説目録』はテクストの所蔵機関を明記しないが、樽本氏の私信によれば、Cの粤東書局石印本は拓殖大学佐藤文庫蔵本、G0384の配本は東京外国語大学諸岡文庫蔵本(巻1-4・13-28・37-38・46-48・52-60現存。G0384の記載と一致しない)といい、いずれも筆者において調査しえた。なおG0381とG0385の配本は樽本氏の蔵本、G0387は山口大学蔵本という。Dの崇本堂宣統元年二月修正初版石印本については所蔵を失念されたそうだが、管見では東京大学総合図書館蔵本とおぼしく、これについても調査しえた(G0386は所在不明という)。
 Dの崇本堂本には『新編清末民初小説目録』が記すごとく「崇本堂啓」が見える。樽本氏はこの「啓」(正確には「賞格」つまり賞金広告とすべきであろう)をさして重視しておられぬようだが、なかなかに興味深い文章であり、以下に句読点を附して引用しておくことにする。なお上海崇本堂の印記から、崇本堂が上海にあったこともわかる。

啓者、此書為前世界繁華報主人李君伯元所著、頗蒙閲者歓迎、久已風行海内。其版権現帰本堂経辨。近聞有無頼書賈翻印此書者。如有人通信本堂、因而拿獲者、当贈洋五十元、決不食言。   崇本堂啓

 つまり「『官場現形記』の版権は現在崇本堂に帰している。近ごろ無断翻印する無頼の書賈がいると聞くので情報を提供してほしい。その結果その書賈を捕らえることが出来たらお礼に大洋五十枚をさしあげる。うそではない」というのである。『官場現形記』の版権は、宣統元年ないしはこれをさして遡らぬ時点において、いずれかの書肆から崇本堂に移ったとみられる。しからば李錫奇のいう「書館」は崇本堂なのであろうか。
 ここで問題となるのが崇本堂本と粤東書局本の関係である。両者の外見は「筆耕者(挙げ足をとるようだが、絵図を描いた人物を筆耕者とはいうまい)が異なるためか、絵図の部分が微妙にちがっている。しかし、一見しただけでは区別がつか」ない関係にあった。樽本氏は絵図の微妙な相違のみをいい、実際には存する本文のそれに言及しないが、本文は絵図以上に酷似していた。だが配本とするには外見のみならず版形も同一でなければならない。
 そうなってみると気になることがある。Dと文字も図もそっくりな増注本で、版形のみ異なる石印本があるからである。Dの崇本堂本は版面(木版本ではないが、仮にこのようにいっておく)が16.3p×9.6pだが、この東京大学東洋文化研究所仁井田文庫所蔵の発行書肆不明石印本は13.4p×7.8pであった。ちなみにCの粤東書局本はこの石印本とほぼ同大の13.4cm×8.1cmであった。かくてDの崇本堂本と仁井田文庫蔵本との間にいずれか一方が他方を拡大または縮小した関係が存することが想定されるに至った。
 ここで以上に論じたことを整理しておこう。増注本系の石印本には
  T 崇本堂本
  U 粤東書局本
  V 刊行書肆不明本
  W TとUの配本
があり、TとVは図・本文とも同一だが、Tは版形が大きいとなろう。
 範慕韓主編の『中国印刷近代史(初稿)』(印刷工業出版社、1995.11)によれば、石印本は筆耕の書いた版下を湿版に撮影した陰画を特製の「膠紙」に焼き付け、石版に転写した後に印刷するといい、版面の大小については随意に設定可能という(尺寸又可随意放大縮小)。石印本には小本、極小本が多いが、それは石印本の版面の大きさが版下のそれに規制されないという特性を生かした結果なのである。縮印本の作成には版下や「膠紙」があれば好都合だが、それらがなくとも、原本が一部あれば可能なのである。

三 どれが配本なのか

 ここで樽本氏が「「官場現形記」裁判」で要約紹介した李錫奇「李伯元生平事蹟大略」につき再度検討することにしたい。筆者にはそこにこの間の経緯の一部を物語る記載があるように思われるからである。
 李伯元の没後、『繁華報』の経営を欧陽鉅源が「把持侵占」しようとした。李夫人は一族を通じ孫菊仙に善処を依頼した。孫菊仙は約百十人を某西餐館に集めた。そこには「上海社会知名且与伯元相交有素者,並有上海会審公堂的〓員(即法官)関炯之,欧陽鉅源」が招かれ列席していたという。以下は原文を引こう。

孫於説明伯元身後情形後,即提出報紙或停或招人承接的問題。与会者一致主張続弁,但礙於欧陽鉅源之面,願承頂者不肯有所表示。孫即説明願先〓款承頂,並当面請託欧陽鉅源継続主持編務,欧陽只得応允。最後提到已出版的《官場現形記》一書,謂伯元方逝世,而坊間已将其翻印,是侵犯版権的行為,且翻印版本縮小,加添挿図,定価反較原書為低,亦大影響伯元原印成書銷路。因転詢関〓員,租界章程,対此情況,有何規定。関炯之説照章応如何罰款等等。当時翻印該書之某書館経理亦在座,大窘。孫乃従容調停説,不如将版権連伯元原印成書作価三千元,一并由該書館収買。該書館経理亦感激願照弁。於是許多問題同時解決。

 この文章にはあまたの注目すべき点があるのだが、それらについてはひとまずおき、とりあえず樽本氏のいう海賊版が「原書」より縮小された翻印版(この言葉の意味するところについては後述したい)であり、「原書」にない挿図(絵図)が加添され、定価も「原書」より低廉だったことを確認しておきたい。書価の実態は不明だが、縮小版という点に限っていえば、仁井田文庫本とCの粤東書局本に海賊版たる可能性が高いことになる。ただしDの崇本堂本にもより大きな版の縮小版である可能性は残される。この場合、現状において「原書」の候補たりうるのはBの排印本であるが、それもその大きさがDより大きい場合に限られよう(遺憾ながら『清末小説』21〔1998.12.1〕に掲げられるBの書影には原寸が記されていない)。
 ところで『官場現形記』にはこの仁井田文庫本と同版形(版面も同じ)の第六編と第七編が存在していた。『新編清末民初小説目録』の『官場現形記』の項の「3.その他」にG0389、G0390と著録されるものがそれである。樽本氏は「贋作の本棚」(『清末小説から』4〔1987.1〕)でこの第六編を紹介し、「絵柄などから推測するに、粤東書局の出版らしい」とされたが、『新編清末民初小説目録』ではその点に言及しない。第六編については、G0390として著録される第七編とあわせ、呉暁鈴氏旧蔵本を調査したことがあるが、粤東書局の出版を示す記載はみあたらなかった。第七編には「庚戊春仲月湖漁隠題」の文字があり、宣統二年二月に出版されたとみられる。ちなみに李伯元が『官場現形記』の第六編ならびに第七編を執筆した事実はない。ここで重要なのは、この某書肆による『官場現形記』第六編ならびに第七編出版の時期が、崇本堂が「賞格」で『官場現形記』の版権帰属を宣言し、無断翻印する無頼の書賈の告発を募った宣統元年二月以降だったという点である。
 かくて検討を要する問題が新たに二つ生じた。第一は、この某書肆が印行した李伯元死後に発行された『官場現形記』の第六編ならびに第七編の作者は誰かという点である。按ずるにこの問題の関鍵は第六編、第七編のいずれにも、第五編以前と同様注が附されている点にあろう(増注本系の第五編以前には欧陽鉅源の注が附されており、それがそのセールス・ポイントの一つであった)。これを言い換えれば、偽作執筆と海賊版発行に欧陽鉅源がどれほど関わっていたのかということになろう。第二は、この某書肆が樽本氏がかつて推測した粤東書局であり、なおかつそれが崇本堂のいう無頼の書肆だったのかという点である。
 まずは第二の点から考えてみよう。かつての樽本説のごとく第六編が粤東書局から発行された可能性は存する。とはいえ崇本堂本と粤東書局本の相違は絵図にあっては「微妙」なものだったはずだから(ただし筆者の見解では両者の絵図は明白に異なるのだが)、絵柄から画風を判断することは困難であって、それのみによりこれを粤東書局本と断ずることは出来まい。だが粤東書局には光緒甲辰三十年の時点で『官場現形記』の増注石印本を発行していた事実があった。これは粤東書局が崇本堂以前に『官場現形記』の石印本を発行していた可能性を示唆する。粤東書局は崇本堂が宣統元年の時点で版権を得た対象になりうるのである。のみならず粤東書局本と第六編、第七編は版形が一致していた(Dの崇本堂本と相似の関係にある仁井田文庫蔵本がこれと同版形であることは既述した)。
 ひるがえって李錫奇の記す該書館経理も感激し照弁を願ったという孫菊仙の調停案、「将版権連伯元原印成書作価三千元,一并由該書館収買」によれば、海賊版の出版元は『官場現形記』の版権を「伯元原印成書」、すなわち元来版権を所有していた書肆において印刷製本済の在庫こみで買い取ったことになっている。だがこの「原書」に絵図はなかったはずだから、粤東書局本、崇本堂本とも「原書」たりえないことは明らかである。さらに原本系に海賊版が存在した事実は確認されていないから、「原書」は増注本系だったはずである。しからば、完本が発見され、その巻頭に絵図が置かれていることが確認されぬ限りにおいてはG0381のBをその「原書」と考えるのが至当であろう(G0381は巻37-42・46-60のみを存する)。石印本である粤東書局本や崇本堂本を排印本Bの翻印版といってよいものかいささか疑問だが、李錫奇はそれに頓着することなくこの言葉を使ったのであろう。ひるがえってBの排印本だが、第五編まで刊行されていたことは明らかであって、在庫はそのまま某書館から市販されたに相違ない。
 ところでCの粤東書局本だが、第三編までと異なり、第四編(第五編缺)は絵図の置かれる場所と版面の大小をのぞき、絵図・本文ともDの崇本堂本に一致する。そもそもこれまでの筆者の調査によれば、石印本『官場現形記』の第四編ならびに第五編については、第三編までと異なり、版面の大小をのぞき、絵図を含めすべて同一の版下によるとおぼしく、異版は存在しない。これを樽本氏はCの粤東書局本によるとみた。しからば崇本堂は自らの手では第一編から第三編までしか出版しなかったことになろう。しかし現存する石印本『官場現形記』の第一編から第三編まではCの粤東書局本以外同一の版下、言い換えればDの崇本堂本と同じ版下によっている。一方、崇本堂には宣統元年に活動していた証拠があるが、粤東書局のそれは光緒甲辰三十年に遡る。崇本堂の活動が粤東書局のそれ以後に及ぶ可能性が高いなら、石印本『官場現形記』第四編ならびに第五編の版下を作成したのは唯一崇本堂のみであって、粤東書局は第一編から第三編を出版したのちその活動を停止したとみることも出来なくはあるまい(たとえば『新笑史』が言及する訴訟事件によって)。Cの第一編封面に見える「光緒甲辰冬月」「粤東書局石印」の文字にしても一括出版された第一編から第三編に関わるものであって、第四編に関わるものではなかろう。以上の推測の通りなら、これまで配本とみなされてきたテクストは配本ではなく、Cの粤東書局本こそが配本だったということになろう。
 ここで再度崇本堂と粤東書局の関係について考えてみよう。いくつかのケースが考えられるのだが、まずは以下のごとき可能性を考えてみたい。
 両者は当初いずれも『官場現形記』の海賊版出版元であった。この時期の両者の関係は、競争意識とともに仲間意識の働く奇妙なものだったろう。そこへ先に紹介した孫菊仙の調停事件がおこった。両者の一方が三千元と引き替えに『官場現形記』の版権と排印本の在庫を譲り受けることになった。この「書館」は崇本堂だったとおぼしい。こうなるとかつての海賊版仲間粤東書局も崇本堂の目には自己の権利の侵害者としてしか映らなくなってしまう。かくて訴訟がなされ、敗訴した粤東書局は賠償金とともに在庫の第一編から第三編を崇本堂に引き渡すことになった。崇本堂はこれを自身版下の作成にあたった第四編・第五編とあわせ完本として販売し、譲渡本がなくなった時点ですべて自身が作成した版下によるものに切り替えた。Dは配本を販売する必要がなくなったことを自ら祝し、あわせて今後海賊版を出版しようとする同業者に警告すべく出版した拡大豪華版であり、仁井田文庫蔵本は通常版だったと。
 むろんこれと異なる想定をすることも可能である。海賊版出版元は当初版権を譲り受けた粤東書局のみであった。粤東書局はしばし『官場現形記』の五編セットを一手販売していたが、数年後なんらかの理由からその版権と在庫を崇本堂に譲渡した。崇本堂はその後第一編から第三編を新しくしたセットを作り、これを修正本として出版し、以後はもっぱらこれによったと。この場合、崇本堂が第四編以下を新作しなかった点に鑑み、第四編以下の出版の時期はかなり遅れ、なおかつその時点で粤東書局と崇本堂の共同出資になっていたとみることも出来よう。(『新笑史』が言及する訴訟事件を無視することになっても)筆者としてはむしろこちらの想定の方に魅力を感ずる。

四 三千元のゆくえ――某書館経理は誰か

 ここで視点をかえ、この海賊版出版元の経営者(某書館経理)につき考察してみたい。私見によれば、これを明らかにすることが、樽本氏が「だれであったのかさえわからない」とする粤東書局、崇本堂の主人を究めることに直結するはずだからである。
 李錫奇は孫菊仙が調停をした現場にいたわけではないらしい。だが李伯元未亡人の意を体し孫菊仙に調停を依頼した長兄俊賢から某西餐館における経緯の一部始終を聞いていたという(余長兄俊賢与伯元年相若,交素密,当時料理経過,曽為余詳述之)。某書館経理についてもそれが誰か承知していたに相違ない。当人の名誉を護るため口外するわけにはゆかずとも、読者にそれを暗示したい。否それが自分の務めである。李錫奇がこう考えていても不思議はあるまい。そこで筆者もそのつもりで李錫奇の文を解読することにしたい。
 まず参会者だが、当時の上海社会の知名人で李伯元と平素交際のあったものに限られていた。匿名を貫くならこれで十分だったにも関わらず、関炯之と欧陽鉅源についてはその姓名を特記した。これが偶然のはずはない。李未亡人がこの会の開催を孫菊仙に依頼した趣意は、欧陽鉅源の侵占から繁華報館における李家の権利を護ることにあった(不意伯元所聘報館助手欧陽鉅源,恃其在館有年,熟悉内外情形,竟意図把持侵占,以為外人無従接洽。伯元太夫人偵知情況,急馳書回里,召族人前往料理)。孫菊仙による繁華報館経営者の公募はそのための第一着であった。だが予想通り名乗り出る者はいなかった。孫はそこで約款にのっとり経営依託する旨の提案をし、百余人の面前で欧陽鉅源に「継続主持編務」を依頼した。欧陽鉅源も手順を踏んだ提案ゆえ否むことは出来なかった。かくてそれまで繁華報館(から上がる利益)を私物化していた欧陽鉅源にも約款というタガがはめられることになった。だがこれだけで終わったとしたら李家側は不満だったろう。それまでに得られたはずの利益の回復がまったくなされないままになってしまうからである。一方の欧陽鉅源にしてみれば、今後繁華報館から上がる旨味こそ減ったものの、経営私物化で得ていた従前の利益についてはおかまいなしなのだから、まずまずだったに相違ない。
 孫菊仙は続いて『官場現形記』の海賊版に話題をかえ、わざわざ招待しておいた関炯之にそれが犯罪としてはどれほどの刑罰をともなうものかを詢うた。その場に同席していた某書館経理に圧力をかけたわけである。こうなると某書館経理も孫菊仙の調停に応ぜざるをえなくなった。かくて『官場現形記』の版権と印刷製本済の在庫をあわせて三千元で買い取る(李夫人に支払う)ことで手が打たれたというのである。これなら李家の不満は一応解消されたろう。だが欧陽鉅源へのお咎めがないままでは李家側も釈然としなかったろうし、「許多問題」が同時に解決したとはいえまい。
 按ずるに、この某書館経理とはすでに繁華報館の編務を正式に引き継いだ欧陽鉅源だったのではあるまいか。孫菊仙は前もって繁華報館経営者の地位公認という餌をまいて気をゆるさせ、そのうえで欧陽鉅源に訴訟となり敗れた場合の罰則を示し、なおかつ百余人の名士の前で悪事を公開された場合の不利益をそれとなく理解させ、先の提案による利益と相殺の形で三千元を出させたのではあるまいか(この件に関してはおそらく孫菊仙・関炯之・欧陽鉅源の三人に李伯元未亡人を含む李家側が一卓を囲んだ席で密かに交渉されたのであろう)。
 以上の推察通りなら、欧陽鉅源は繁華報館に原本Aと並行して自らの注を加えた増注本Bを発行させたのみならず(この非常識な行為が繁華報館の経営を少なからず圧迫したことは間違いあるまい)、経営を把持侵占していた繁華報館の資金を流用し、絵図を加えた石印本を李伯元に断りなしに出版し、それによって得られた利益を自家のものとし、李伯元(と李家)が本来得るべき利益を目減りさせ、詐取していたに相違ない。孫菊仙はこうした背信行為により李家のこうむった逸失利益を三千元と踏み、『官場現形記』の版権とBの在庫本と引き替えに、今や正式に繁華報館の経理となった欧陽鉅源にこれを吐き出させたのであろう。粤東書局こそは欧陽鉅源が海賊版出版の際ダミーとしてもちいた書肆名であったろう。
 では光緒三三年(1907)冬暮における欧陽鉅源の死後、『官場現形記』の版権はどうなったのか。おそらく「崇本堂啓」にあるごとく、崇本堂に移ったに相違ない。ちなみにDの崇本堂修正初版が出版された宣統元年(1909)二月は欧陽鉅源の死後一年有余にあたる。
 なお先に懸案としてあげておいた第六編と第七編の作者だが、欧陽鉅源の死後まもなくならいざ知らず、二年余り経った宣統二年二月の段階でわざわざ欧陽鉅源の遺作を出版する書肆もあるまいから、欧陽鉅源以外の誰かであった可能性が高いように思われる。
 最後に問題の三千元のゆくえにつき臆測を述べておきたい。樽本氏は「遺族にしてみれば、『繁華報』を欧陽に譲ることにはなったが、孫菊仙からの二千元のほかに、さらに三千元が転がり込んだのだから文句はない」とし、すべて遺族に渡ったと解している。だが筆者は別の考え方をしている。ここで樽本氏が「孫菊仙からの二千元」といっているのは、光緒三二年三月一四日上海に客死した李伯元の葬儀をとりおこなった孫菊仙が李伯元の臨終に立ち合った際、「三千元の銀兌換紙幣をとり出し、一千元を葬式に、残り二千元を遺族の扶養費に当てると申し出た」とある二千元を指している(『李伯元研究資料』所収魏紹昌「魯迅之李嘉宝伝略箋注」による)。確かに遺族は某書館経理(おそらく欧陽鉅源)から三千元を手に入れたろう。だが遺族がそれをそのまま懐に入れたとは思えない。葬儀に際し三千元を用立て、欧陽鉅源から三千元を取り立ててくれた孫菊仙にむかい、先の三千元の返金を申し出たに相違ない。孫菊仙も辞退しつつ結局はそれを受け取ったのではなかったか。これまたまったく臆測だが、自身が立て替えた三千元を取り戻すため、孫菊仙は欧陽鉅源との調停役を引き受け一芝居打ったと考えられなくもない。借財がなくなり、約款による収入も将来的に多少なり確保された李未亡人は、それでも感謝したに相違ない。三千元という数字の一致が妙に気になるゆえんである。

(おおつか ひでたか)