劉鉄雲は冤罪である
――逮捕の謎を解く


沢本香子


●1 劉鉄雲逮捕
 劉鉄雲の逮捕について、確認できることは、それほど多くない。
 光緒三十四年六月二十日(1908.7.18)、南京に滞在していた劉鉄雲は、清朝政府により逮捕された。同二十五日、漢口行きの舟に乗せられ、ただちに新疆へむけて身柄を送られる。翌光緒三十五年七月初八日(1909.8.23)、ウルムチにおいて死去。死因は、脳卒中だった。
 逮捕にいたるまでの人々の動き、逮捕後の情況など、証言はいくつかある。しかし、劉鉄雲は、なぜ逮捕されたのか。その理由が、不明瞭なのである。流罪という大罪であるにもかかわらず、逮捕理由があいまいなのは、奇妙だというほかない。

●2 従来の説明
 劉鉄雲の逮捕理由がどういわれてきたか、今までの諸説をここで詳しく紹介するのは、あまり意味がない。結論からいえば、どれも伝聞かそれに近いものであるからだ。なかには資料を提出しながら、結論がはっきりしない例もある。ただし、それにはそれなりの理由が存在する。
 証言の筋道だけを簡単にたどると、以下のようになる。
 劉鉄雲の逮捕に最初に言及したのは、羅振玉であった。
 羅振玉が「五十日夢痕録」(1915)のなかに記述したいわゆる「劉鉄雲伝」のなかで、わずかに触れる。1900年義和団事件のとき、北京を占領した八ヵ国連合軍から劉鉄雲が太倉米を購入し住民に販売した。彼のこの行為が、罪に問われたというのだ*1。
 羅振玉の「劉鉄雲伝」は、小説「老残遊記」について何も言わない。彼がそのような小説を書いたとは一言も記していない。「老残遊記」の著者洪都百錬生(または鴻都百錬生)が誰なのか調査をしていた胡適が、たまたま羅振玉の文章を読んだ。胡適は、ただちに劉鉄雲と「老残遊記」の関係を理解した。
 胡適は、劉鉄雲が新疆に流された理由を羅振玉のいうとおりに受け取る。「老残遊記序」(1925)でさらにつけくわえて、劉鉄雲の生涯には四つの大事件――黄河治水、甲骨文字の認知、山西鉱山開発、太倉米の放出があったことをあげた。あげたついでに、劉鉄雲が山西鉱山開発のとき、西洋人のために働いたことを理由に「売国奴(漢奸)」と呼ばれた事実をいう*2。
 太倉米の放出、山西鉱山の開発のふたつが劉鉄雲逮捕の理由であるかのような印象を与えることになった。
 劉鉄雲の息子・劉大紳がのべる逮捕理由は、これとはまたすこし異なる。
 劉大紳は、「関於老残遊記」(1939)で、袁世凱が元凶であって、逮捕の理由は、太倉米の放出と浦口の土地問題だ、といいはじめた。当時の電報を資料にしているらしいから信憑性があるようにも思われる*3。
 劉大紳説を継承するのが、蒋逸雪「劉鉄雲年譜」(1962)だ*4。
 公表されるのが遅くなったが、魏紹昌編『老残遊記資料』に収録されるはずであった劉〓孫『鉄雲先生年譜長編』(1982)がある。
 劉〓孫の文章が、それ以前のものと根本的に異なるのは、確かな資料に基づいているからだ。端方(両江総督)、袁世凱(外務部、軍機処)などが交わした電報7通を発掘のうえ引用しているのが注目される。日付を掲げると、以下のようになる。発信者→受信者の順序である。光緒三十四(1908)年六月二十日が劉鉄雲の逮捕された当日だから、その前後を含んでいる。

(1)光緒三十四年月日ママ 両江総督→袁世凱
(2)光緒三十四年六月十九日 外務部→南京制台
(3)光緒三十四年六月二十日 (南京制台)→外務部 劉鉄雲逮捕
(4)光緒三十四年六月二十三日 外務部→南京制台
(5)      六月二十三日 端方→軍機処、外務部
(6)光緒三十四年六月二十五日 (端方)→北京
(7)      六月二十五日 端方→上海大日本総領事永滝

 第一級資料を発掘しながら、劉〓孫は、劉鉄雲の逮捕理由については特定していない。袁世凱が恨みを根に持って中傷したことが原因だとする*5。はなはだあいまいだ。電報という資料がありながら、逮捕の理由が特定できなかったのには、重要な意味がある(後述)。
 一方で、劉厚滋「劉鶚与《老残遊記》」(1985)が、浦口の土地売買にまつわる係争と袁世凱の昔の恨みを原因にあげるのは、劉大紳説と劉〓孫説の折衷案に見える*6。
 その後発表された劉徳隆らの「劉鶚的被捕与流放」(1987)は、やや詳しいものといえよう。
 それまでに公表された資料を統合して得られた彼らの結論は、劉鉄雲と端方の不仲説、袁世凱との不仲説は、原因とはなりえず、劉鉄雲逮捕の真の原因は、はっきりしないという*7。はっきりとした結論に達することができなかったから、劉鉄雲逮捕の理由を明記した新資料が、将来、発見されることを期待した。しかし、その期待は現在にいたるまで実現していない。
 こうして、劉鉄雲の逮捕理由は、霧の中に入りこんでしまったかのように不明のままだった。だが、長くつづいた不透明な情況を打破する論文が、ようやく出現する。過去の諸説をそうざらえして、決定的な結論を提出するのが汪叔子論文である。いくつかの逮捕理由をかかげ、それらのひとつひとつを資料にもとづいて検討し、是非を決定する。さらに、これまで取り上げられなかった事件を劉鉄雲逮捕に関連づける。その徹底ぶりは、画期的だといってもよい。

●3 堅牢無比な汪叔子説
 汪叔子論文(2000)*8は、新しい資料を発掘し、さらに詳細な論証によって構成されている。一大長編論文になるのは、当然といえよう。以下、論文の内容を手短に紹介しながら、述べることにしたい。
 劉鉄雲は、南京において秘密逮捕された。まず逮捕があって、のちに上奏文がでてくるという不可思議な実態が存在する。審理をへずして、あらかじめ重罪が定まっている。逮捕後、ただちに新疆に流されたのが、事件処理の異常性を証明している。汪叔子が冒頭で述べるように、まことに釈然としないおかしな事件である。多くの劉鉄雲関係者と後の研究者が指摘する逮捕の理由が一致していないのも、その不可解さを一層強調する。だから、劉鉄雲逮捕の謎だ、と私もいうのだ。
 汪叔子論文がすぐれている第一点は、外務部保存資料(档案)のなかから、劉鉄雲逮捕関連電報を17件も探しだしたことだ*9。劉〓孫が公表したものよりも数が多い。電報の語句についても、正確さを重視しているのは評価できる。
 これらの電報から汪叔子が読みとったことのひとつは、劉鉄雲を逮捕処罰しようとする袁世凱の決心に揺らぎが見られないことだ。
 その上で、劉鉄雲逮捕の鍵となる最重要の電報が、外務部発六月二十二日のものであることを指摘する。この二十二日付電報は、劉〓孫の『鉄雲先生年譜長編』には収録されていないという。見れば、たしかにそうだ(144頁)。新発見である(ただし、以下にかかげる劉鉄雲の罪状三点は、六月十九日付外務部発電報にすでに記載があることを指摘しておく)。

◎3-1 劉鉄雲の罪状三点
 汪叔子によれば、二十二日付電報において、外務部は、劉鉄雲の罪状を三点あげる。
 (1)戊戌(1898)に鉱山開発の利益を独占しようとした罪(戊戌壟断鉱利)
 (2)庚子(1900)に太倉米を横流しした罪(庚子盗売倉米)
 (3)丁未(1907)に遼寧塩を密売した罪(丁未走私遼塩)
 汪叔子論文は、以上の三点にまとをしぼって、内容を詳細に検討する。それらの告発について、はたして、劉鉄雲は有罪か無罪か。
 まことに理解しやすく、しかも論理的で人を納得させる力をもった論文の書き方だと感心する。汪叔子の詳しい論証部分は省略して結論だけをまとめるとこうなる。

◎3-2 (1)の鉱山開発について――無罪
 劉鉄雲は上級の許可のもとに行動しており、しかものちに事業そのものから排除されている。また、光緒三十四(1908)年正月には、懲戒免職(革職永不叙用)の処分になった。ゆえに逮捕理由は成立しない。
 汪叔子の書く通りだ。劉鉄雲は、自分が懲戒免職されたことを新聞の報道で知った。自らの日記に、それを書き写している*10。

◎3-3 (2)の太倉米について――無罪
 劉鉄雲が北京で従事した救済活動は、公明正大なものであった。太倉米の放出は、慶親王もかかわっており、罪を劉鉄雲のみにかぶせるのは是非を転倒させるものである。
 以上の二点について、劉鉄雲は無罪である、と汪叔子は結論する。彼は、『光緒朝東華録』、陸樹藩『救済日記』、『瓦徳西拳乱筆記』などなどの資料を複数使用し歴史事実を明らかにしながら検討している。だから、人を納得させる結論に到達した。
 ところが、残る(3)の遼寧塩販売については、違う。1907年の塩販売についてのみは、有罪だという。

◎3-4 (3)の遼寧塩密売について――有罪
 劉鉄雲は、1905年から1907年まで、外国人と結託して国境を越えて塩の密売を行なっている。明らかな法律違反であり、証拠がある。これが汪叔子の結論だ。重要な部分だから、こまかく見ていこう。

●4 劉鉄雲と塩
 汪叔子が使用している資料は、2種類ある。
 ひとつは、外務部から端方あての電報(光緒三十四年六月十九日付)に引用されている在韓総領事馬廷亮の報告書である。もうひとつは、劉鉄雲の1905年「乙巳日記」だ。前者は、1908年の文献に見え、後者は1905年の日記、という具合に時間の順序が逆転している。今、汪叔子の記述にしたがって見ていく。

◎4-1 韓国輸出塩
 重要だから、汪叔子が引用した原文を下に示す。

  上年六月,據駐韓総領事馬廷亮禀,韓在甑南浦私設塩運会社,合同内載華人劉鉄雲、劉大章均為発起,又勾結外人営私罔利,迄未悛改。(昨年六月、駐韓総領事馬廷亮の報告によると、韓国の甑南浦に塩運会社を非合法に設立し、契約には中国人劉鉄雲、劉大章らが発起人となっている。また外国人と結託し私利を求めて儲けをごまかそうとしており、いまだに改悛していない、と)(汪叔子論文221頁。頁数は雑誌のものを示す。以下同じ)

 外務部の六月二十三日付上奏文では、少し語句を改めているという。

  上年夏間,復在韓国私設塩運会社,購運遼塩出境。種種行為,均系営私罔利,勾結外人,貽患民生,肆無忌憚(昨年夏、韓国の甑南浦に塩運会社をまた非合法に設立し、遼寧塩を購入し運んで輸出した。種々の行為は、すべて私利を求めて儲けをごまかそうとするもので、外国人と結託し、人民の生活に災難を残し、目にあまるものである)(221頁)

 1908年の電報に引用されて「上年」だから、在韓総領事馬廷亮の報告は、1907年に行なわれたと汪叔子は、考えた。だから「丁未(1907)に遼寧塩を密売した罪(丁未走私遼塩)」ということになる。
 汪叔子は、このふたつの文章について真偽を検討をしていない。事実だとそのままに受け取っている。韓国での塩運送会社は、1905年の劉鉄雲日記に記載された「塩の密輸」からつづいている一連の活動であると確証もないのに断定する(224頁)。
 汪叔子が引用したふたつの文章は、ほぼ同じ内容だといってもいい。だが、その書きかえに微妙な変化があることがわかる。汪叔子は、その差異を無視した。
 前者は、劉鉄雲、劉大章が発起人に名前を連ねていることをいう。劉鉄雲らのほかにも発起人がいる可能性を否定することはできない。事実、いるのだ。
 後者では発起人をいわないから、劉鉄雲ひとりが非合法の会社を設立したように読める。また、遼寧塩を輸出したと具体的に指摘している部分が新しい。別の情報があって、それを取り込んだとわかる。
 前者では、塩運送会社を設立したとのべるだけで、それが機能したかどうかを書かない。ところが、後者になると、そこを書き換えて実際に遼寧塩を購入運搬した事実があるかのようにいう。
 告発文だから、劉鉄雲を一方的に悪者に仕立て上げる。かたよった情報ではないかと疑ってみるのが、普通の研究者だろう。駐韓総領事馬廷亮だとか、遼寧塩だとか、具体的な名詞が出現しているからには、どういういきさつがあったのか、調査する必要があると汪叔子は気づいてもよかった。しかし、汪叔子は、これに関する資料を持たなかったのか、日本には言及する文章があるなどは予想できなかったのか、上奏文が事実だと思い込んだ。劉鉄雲の行動を検証するのに、告発者の一方的な文章だけを採用したのは、公平ではないといわれてもしかたがなかろう。

◎4-2 韓国輸出塩の真相
 劉鉄雲が塩の買い付けに奔走したのは、日本人・鄭永昌との関係があったからだ。鄭永昌については、あとで述べることにし、韓国輸出塩に触れた文章をふたつ引用する。

同年(注:明治38年1905年)、君(注:鄭永昌)は山東省より朝鮮に輸入される脱税塩を禁じ、遼東半島租借地内の産塩を以て之に代へんとして画策に努め、清国政府及び我が関東都督府の許可を得たが、韓国統監府の肯かざる所となつて止んだ。*11
又た三十九年山東脱税塩の韓国輸入を禁止し、之に代ふるに遼東半島租借地内の製塩を以て同国全般の需要に供せんとして、彼は韓国塩運会社を京城に創立し、其代表者となつて各方面に奔走を試みた結果、清国政府は山東巡撫に訓令し其輸出を厳禁することになつたが、韓国統監府は斯くする時は塩価騰貴の惧れあり、暴徒の未だ鎮定せざる折柄人民の感情を刺戟することを顧慮し、許可を与へなかつた為め、遂に事業は中途にして挫折した。*12

 前述の外務部文章に見える韓国密輸塩事件は、1907年のことだと汪叔子はする。1、2年ずれているだけで、上にある鄭永昌の活動とまったく重なる。外務部文章は、鄭永昌の韓国塩運会社のことを指していると考えてよい。ただし、1、2年の記述のずれがどうして生じるのかしらない。
 山東脱税塩が韓国に輸出されるのを禁止しようとしたのがはじまりだ。不正をただそうという動機は、正しいといわなければならない。脱税塩を取締り、正規の遼寧塩を輸出することになれば、清国政府の財源を豊かにすることに通じる。鄭永昌は、韓国京城で韓国塩運会社を設立した。この会社の発起人に劉鉄雲親子の名前があった。鄭永昌は、強調しておくが、山東脱税塩にかわって正規の遼寧塩を韓国に輸出しようとした。中国における塩の販売は、厳しく規制されていた。特に外国に輸出することは、特別に管理が厳格になる。だから責任者の許可が必要なのは、当然だろう。個人の力ではどうにもならない。袁世凱とのつながりをもつ鄭永昌だからこそ可能になった仕事である。おりから、日露戦争終結後であり、東三省も日本の軍政下にある。日本軍もこれにかかわってくる。遼東半島の塩だから、清国政府の許可が、軍政下だから日本の関東都府の許可が必要だった。鄭永昌は、これらの許可を取得した。のみならず、清国政府を動かし山東巡撫に脱税塩の輸出を厳禁させてもいる。必要とされるすべての許可を得ているというべきだ。ならば、公認の活動である。外務部文章にあるような、非合法な会社ではない。
 ところが、不正をただす脱税塩輸出禁止にもかかわらず、これに反対したものがいた。ほかならぬ韓国統監府である。脱税塩の輸入禁止はかえって塩価騰貴を招くと反対する。不正のままの状態を維持したいというのだ。
 記事に矛盾がある。鄭永昌らの韓国塩運会社は、統監府の指示のもとに成立している。山東塩を輸入するため会社が、それを実行しようとしたときに、統監府がでてきて反対するのは、理解できない。記述にいきちがいがあるようだ。
 清国政府が許可を出しているにもかかわらず、駐韓総領事馬廷亮は、その事実を知らないかのような報告書を書いた。まがぬけている。あるいは、裏に別の意図があったのかもしれない。それをそのまま上奏文にもりこんだ外務部は、事実を知っていて知らぬふりをしたことになる。
 だいいち、韓国へ遼寧塩を輸出する事業は、清国政府の許可があったにもかかわらず不成功に終わった。それをあたかも実現したかのように書く外務部文章は、あきらかに欺瞞である。欺瞞にもとづいた告発ということになろう。汪叔子論文は、全体の流れを把握していないから、結果として外務部文章に騙されたことになる。
 つぎに、さかのぼって1905年の劉鉄雲の遼寧塩の購入活動について検討する。

◎4-3 劉鉄雲乙巳日記の遼寧塩と吉林塩
 汪叔子論文は、まず、劉鉄雲と日本人鄭永昌が、1905年に「塩公司」を開設したことをいう。ついで劉大紳の文章を引用し、会社の名前が海北公司で、精製塩を製造し、朝鮮へ販売することをいう。さらに蒋逸雪「劉鉄雲年譜」から鄭永昌と海北公司を天津に設立したこと、1906年に日本に遊んだこと、「この年2度の渡日は、意図不明、あるいは精製塩の販売、あるいは骨董の販売のためというが、いずれが正しいのかしらない」を引用する(221頁)。そうして、劉鉄雲「乙巳日記」からの関係部分の抜粋になる。
 乙巳日記に入る前に、問題点を指摘しておく。
 まず、海北公司について、いかなる事業が背後にあって、そのなかのどんな役割をになったのか、汪叔子は説明していない。単なる個人企業で、塩の製造と販売をしただけだと考えている。しかし、事実は、それほど簡単なものではないのだ。もうひとつ、蒋逸雪が劉鉄雲の日本訪問2回の目的について結論を保留しているにもかかわらず、いかにも精製塩販売が目的であったかのようにあつかう(230頁)。しかし、劉鉄雲の2度にわたる日本訪問については、すでに論文が書かれており謎は解明されている。単なる観光旅行だった*13。塩販売などとは何の関係もない。
 さて、劉鉄雲乙巳日記の光緒三十一年七月二十四日より、鄭永昌の名前がひんぱんに出てくる。そのなかから私なりに必要だと思う部分を引用し説明する。

 1905年8月24日(七月二十四日)、劉鉄雲は、北京発11時20分の列車に乗り、夕方5時に天津に到着した。そのまま鄭永昌を訪問するが、彼は北京に行っており、二三日で帰ってくるという。行き違いになったらしい。
1905年8月27日(七月二十七日)
 鄭永昌君来て話す、午後帰る。
 (この間、北京に一度もどっている)
1905年8月31日(八月初二日)
 日本総領事は、私が来るのを知っていた。神戸館に行き酒を飲もうと堅く約束する。おおいに酔う。出席者は、小村、高尾、坂、速水、西、河合である。中国人は、方葯雨、歛之および私の三人。鄭永昌、遅れてきて、また酔う。
1905年9月3日(八月初五日)
 午前、鄭永昌来て話す。
1905年9月4日(八月初六日)
 午前、鄭君来て話す。契約がまとまる。
1905年9月5日(八月初七日)
 鄭君来て話す。
1905年9月6日(八月初八日)
 鄭君来て、契約に捺印する。
 (この間、北京にもどって書、拓本などの購入、臨書、鑑賞に忙しい。また、古い琴も購入している。劉鉄雲は北京にいるから鄭永昌とは接触がない。九月初三日に天津に来るが、その時、鄭永昌は大連にいる)
1905年10月5日(九月初七日)
 ふたたび鄭君に電報を打ち、十一日営口で会う約束をする。
 (ただし、これまた行き違い、とうとう天津にとんぼ返りしなくてはならなかった)
1905年10月10日(九月十二日)
 午前、鄭君来て、秘密契約を起草しおわり、倩子衡が代書する。午後、鄭君とともに領事館に行き、正式契約に捺印する。

 ここまでは、順調に事は運んだようだ。ところが、劉鉄雲が瀋陽に着いて趙爾巽将軍に会ってみると思いもかけず情況が変わっている。

1905年10月23日(九月二十五日)
 行って将軍に会うと、塩務は中国の利権であり、外人に譲ることはできないといわれた。すこし議論して退く。財政処に寄り、史都護に会うと、昨日、すでに将軍と相談して、許可したくないわけではなく、思い切って許可できないだけだ。もし、本初(袁世凱)の一札が得られるならば、できる、という。

 計画は頓挫した。「本初(袁世凱)の一札が得られるならば、できる」というのは、ヒントである。直隷総督袁世凱との交渉が必要となれば、もはや、劉鉄雲の手には負えない。
 (瀋陽滞在中、劉鉄雲は、「老残遊記」初集巻11、また、巻15、16を日をおかずに書いている。巻11は、初出『繍像小説』で没にされたのを復元したものだ。巻15、16は、新たな書きおろしである。以前考えられていた二集の原稿ではないことは、いうまでもない)
 汪叔子は、10月23日(九月二十五日)までの劉鉄雲の行動とそれ以降の行動については、分けて考える。10月23日(九月二十五日)に計画が失敗した段階で行動を止めていれば、劉鉄雲は晩節を汚さずにすんだという。どういう意味かと考えれば、つぎのようになる。塩の販売は国家の専売特許である。だから、劉鉄雲の購入計画が趙爾巽将軍により却下されたのは、それで正しい。劉鉄雲についていえば、活動が実現していないのだから密輸にはならない。こう汪叔子はいいたいらしい。ここまでは私も納得する。
 ところが、劉鉄雲の塩購買活動は、これ以降もつづいた。次の目標は、吉林塩である。10月24日(九月二十六日)から11月1日(十月初五日)に契約に署名したまでの行動は、汪叔子にいわせれば「これも塩務であるが、しかしその実外国人と結託し、密売密輸し、国境を越えての密貿易である(亦塩務也,而其実則尽皆勾結外人、私販私運、越境走私也)」(224頁)。
 「外人」とは日本人にほかならない。遼寧塩にまつわる劉鉄雲の行動は、正規の商行為だと認めた汪叔子であったが、どういうわけか吉林塩については密貿易だと断定する。おかしな論理だ。なぜならば、劉鉄雲は、吉林塩に関して契約に署名をしたが、購買輸送が実現したかどうかまでは書いていないからだ。遼寧塩の場合は契約をしながら、土壇場で覆っている。契約署名が、そのまま契約実現に結びつくとは、必ずしもないことがこの例からもわかる。吉林塩も輸出の段階まで至らなかった可能性があるし、また、その可能性のほうが高いと私は考えている。その可能性があるかぎり、劉鉄雲の日記だけを根拠にして彼を密貿易従事者と断定することはできない。
 汪叔子は、劉鉄雲乙巳(1905)日記に出てくる遼寧塩購買(密輸)行動と、1907年韓国への塩輸出を一連のものだととらえている(224頁)。しかも、ここが重要なのだが、劉鉄雲が個人で、外国人(日本人)と共同で塩輸出を計画し、実行したと理解している。つまり、劉鉄雲が主体となって個人会社を設立し活動したと思い込んでいるらしい。事実は、異なる。遼寧塩と吉林塩の購買輸出活動は、鄭永昌が天津に設立した海北公司の事業であり、のちの韓国への塩輸出は、海北公司とはまったく別の韓国塩運会社の仕事だ。たまたま、両社ともに鄭永昌と劉鉄雲が関係しているが、業務内容は別物なのである。

◎4-4 海北公司*14
 海北公司は、当時、必要があって設立された。その背景から考えても、日本人の鄭永昌が主体となった会社であって、劉鉄雲はその協力者であることは揺るがない。発起人に名をつらねていたとしても、劉鉄雲が従である関係には変化はない。
 海北公司の活動については、その背後に国家事業がひかえていることを指摘した中国の文献を見ない。単なる個人企業だと考えているのが、私の知るかぎりすべてである。個人企業だと考えるから、塩の密輸に結びつけたくなるのではないか。この海北公司を説明するには、まず、鄭永昌について紹介しなければならないだろう。

◎4-5 鄭永昌のこと*15
 前述のように、1905年の8月から10月にかけて、劉鉄雲「乙巳日記」に集中的に登場している日本人が、鄭永昌である。
 鄭永昌(1856-1931)。その父鄭永寧、および弟鄭永邦も、ともに外交官をつとめる。1870年、外務省官費生に選ばれ、同省内漢語学校に入学。1872年、父永寧の清国出張に伴われ、天津において北京語を学習した。帰途、上海で南京語を学ぶ。その後、北京公使館で一等書記見習、ニューヨーク領事館書記生、天津領事館書記生、北京公使館交際官試補をへて二等書記官に昇進する。日清戦争後、北京公使館に復職、1896年、天津領事を命じられ、在任中に義和団事件に遭遇した。
 1902年、官を辞し、直隷総督袁世凱(在任期間:1902-1907年)の嘱託となる。総督直轄の大清河塩田の産塩を日本、朝鮮、ロシア領沿海州へ輸出して直隷財源のひとつとすることを計画し調査に従事したが、日露戦争で計画は中止となった。満洲軍の嘱託として、遼東半島占領地内における塩業の調査に従事してもいる。
 興味深い経歴である。目を引くのが、日本外務省をやめて袁世凱の嘱託になっている点だ。ここにいう「嘱託」とは、中国での「幕客」「幕友」に相当するものだろう。いわば、顧問である。そして調査をまかされたのが塩の輸出問題だ。直隷財源のひとつとして塩輸出が考慮されていたという。
 塩の販売は国家の専売事業であることは常識だ。個人が私的に販売輸出すれば、当然ながら厳罰に処せられる。しかし、直隷総督の袁世凱が輸出を計画するならば、正当な事業として認められるはずだ。
 もうひとつ注目されるのは、鄭永昌が遼東半島の塩業を調査していることである。劉鉄雲、すなわち海北公司が、遼寧塩を購入しようとしたことと結びつく。
 では、なぜ海北公司は遼寧塩を購入運搬しようとしたのか。さぐっていけば、個人規模の商業活動ではなく、国家規模の事業であることが判明する。

◎4-6 海北公司から長芦塩へ
 塩の売買運輸を管理するために各省の最高機関として「塩政」があり、実務を担当したのが「塩運使」である。時代とともにその形態は変化する。このような一般的な説明よりも、今、本稿に関連して重要なことは、みっつある。
 ひとつは、袁世凱が直隷総督として1902-1907年のあいだ、権力の座についていたこと。
 ふたつには、直隷省長芦塩政は、1860年より直隷総督の兼管になっていること。
 みっつには、日露戦争後の東三省は日本軍政下にあったこと。
 以上のみっつがなにを意味しているかといえば、鄭永昌と劉鉄雲の海北公司設立経営活動の背後には、袁世凱が大きく存在しているということにほかならない。くわえて日本軍政下だから日本人が深くかかわってこざるをえない情況だった。
 1905年、日本国内で、産塩地の天候不良のため、食塩の供給が困難になるという事態が発生した。日本政府は、遼東半島の産塩を輸入することを検討したが、当地の産塩は少なく、価格も高いことから、直隷省長芦塩田の塩を緊急輸入することにした。
 以上が、話の大筋である。活躍するのが、鄭永昌だ。伝記的文章からふたつ、ほとんど同内容ではあるが関連部分を引用する。

 三十八年日本内地に於ける天候不良の結果食塩飢饉となり、遼東半島の製塩も其缺乏を補ふこと能はざるに至つた際、彼は袁世凱を説き直隷官塩を以て其の不足を補ふの策を講じ、明治三十八年秋から三十九年夏頃まで日本へ向け食塩を輸出してその目的を遂げた。*16
 三十八年、日本内地に於ける産塩地の天候不良のため食塩の供給困難となり、政府は遼東半島の産塩を以て之を補はんとしたが、到底急の間に合はぬので、此に始めて君が数年来の調査は活用さるヽことヽなり、竊に袁世凱に計つて直隷の官塩を輸出し、三十八年秋より翌年夏に至る間、我が食塩飢饉を補救した。*17

 上のふたつともに、「遼東半島の製塩も其缺乏を補ふこと能はざる」とか「政府は遼東半島の産塩を以て之を補はんとしたが、到底急の間に合はぬ」とか書いている。これこそが、劉鉄雲が契約が成立しているにもかかわらず、趙爾巽将軍に却下された事件についての遠回しな表現なのだ。
 すなわち、日本政府は、はじめは私企業に託して食塩輸入を企てた。これが、劉鉄雲と鄭永昌が天津で設立した海北公司である。直隷総督袁世凱の嘱託をしたことがあり、もと外交官、さらには塩業に詳しいのが鄭永昌だ。その任にうってつけの人物である。彼ならば、各方面の許可を得ることができるだろうと考えられた。
 劉鉄雲「乙巳日記」に書かれているのは、日本政府が背後に存在して指示されていた食塩緊急輸入活動なのだ。劉鉄雲が日本政府の命令を受けて行動していたと短絡してはならない。あくまでも正当な商取引の一環として海北公司が存在している。正規の輸入活動だから、契約を結び、それが破棄されれば、それ以上の行動は続けていない。吉林塩も、やはり海北公司の活動のひとつだ*18。ゆえに遼寧塩と同様の手続きで実施を目指していた。しかし、成功しなかったというのが私の推測だ。
 劉鉄雲が、趙爾巽将軍から塩の販売を断わられたのは、遼寧省の製塩を海北公司で扱うことができない、という意味だ。劉鉄雲の機転でそれにかわる吉林塩を契約したと考えられる。結果としてふたつともに不可能となって、残った候補が直隷省長芦塩である。さいわい直隷総督は、鄭永昌と旧知の袁世凱だ。日本政府は、海北公司の件はそのまま捨てておき、鄭永昌を使って袁世凱に根回しをしながら、清国政府へ、直接の正式申し入れを行なうことにした。

◎4-7 外交史料に見る長芦塩輸出*19
 日本政府が、清国より塩の輸入を計画したことからすべてがはじまった。中国の複数の方面における塩産出の調査を進めながら、結局のところ政府間交渉でなければ問題が解決できないと判断したのは、1905(明治三十八)年10月末のことだ。
 大蔵次官から外務次官あての通信にそのいきさつが述べられている。その大略は、日本内地における塩の生産が僅少につき、外国から輸入する必要が生じた。清国の遼東半島と各方面を調査したが、遼東半島の塩は量が少なくしかも価格が高い。直隷省長芦塩は、量が多く価格も安い。塩の輸出は禁止されているから、日本政府から清国政府に公式の申し入れをして、無税で塩の購入輸出許可をもらうよう交渉してほしいと要請している。天津領事は直隷省総督へ、公使は清国政府へ、両方面からの交渉である。
 この時点で、遼東半島と各方面の調査は、すでに終了していることが重要である。鄭永昌、劉鉄雲らの海北公司の活動は、終了ずみの各方面の調査のなかに含まれているとわかる。
 外交史料の明治38年10月31日付電信案には、以下のようにある。

本年ハ塩ノ飢饉トモ云フヘキ年柄ニテ内地并ニ台湾ノ産額極メテ僅少ナレハ到底内国需要ニ応エル能ハス勢ヒ外国塩ヲ輸入シ之乃補足ヲナスノ必要アリ清国直隷省長芦塩田ノ塩ハ価格廉ニ産額ハ豊カナレハ同地ヨリ輸入ヲ試ミントス元来清国ニテハ塩ノ輸出ハ禁止ノコトト成リ居レトモ公然ノ手続ヲ以テ政府ニ照会スレハ特別ノ詮議ヲ以テ輸出ヲ許可スヘキ模様ナルニ由リ清国官憲ニ特ニ無税ヲ以テ輸出ヲ許可スル様交渉方大蔵大臣ヨリ依頼アリタリ依テ貴官ハ右ノ趣旨ニ由リ清国政府ヘ可然御交渉相成度右許可ノ上ハ早速輸入取扱人ヲ派遣スヘク且輸入数量ハ来年三月末マテニ二千万斤ノ見込ミナリ貴官ノ御見込ニ依テハ伊集院総領事ヲシテ本件ニツキ同時ニ袁総督ニ交渉セシ(ママ)ラルヽモ可ナリ

 1905年11月1日、上に示した電報は、内田康哉在清全権公使にあてて、小村外務大臣名で発信された。
 「元来清国ニテハ塩ノ輸出ハ禁止ノコトト成リ居レトモ公然ノ手続ヲ以テ政府ニ照会スレハ特別ノ詮議ヲ以テ輸出ヲ許可スヘキ模様ナル」と書かれているところから、すでに下交渉が行なわれていることがわかる。大筋の合意はなされており、政府から正式な申し込みがあれば、清国政府レベルで検討しようという段階に到達しているのだ。
 日本政府の正式交渉の申し込みが、時期的に見て、鄭永昌らの海北公司が遼寧塩の購入に失敗したあとである点に注目しなければならない。海北公司の活動と日本政府の行動は、つながっていることが明らかだ。
 内田全権公使、伊集院彦吉天津領事が正式に交渉した結果、清国政府は、食塩2千万斤を寄贈する、隣国の民食に関することであるので代価は要求しない、との回答を得た。塩の代金は不要だという。日本政府の予想しなかった事態である。

No.4939 卅八年十一月十一日北京一、六発/東京五、一〇着
 桂外務大臣 内田全権公使
第二九八号
長芦塩輸出ノ件ニ関シテハ慶王初メ瞿鴻機ニ於テハ最初ヨリ異存ナク袁モ亦之ニ同意セル結果戸部ノ承議ヲ経ルヲ待タス日本ニ於ケル塩ノ不作ニ対シ清国ガ一時其急ヲ救フハ当然ノコトナルノミナラズ数額モ多大ニアラサレバ無代価ニテ日本ノ請求ヲ承諾スルコトニ決セリ公文ノ回答ハ今明日中ニ送付ノ筈ナリ日本ヨリ是非代価ヲ支払ヒタシト申出デ更ニ交渉ヲ重ネ反ツテ時機ヲ遅ラスコトナキヲ望ムト那桐ヨリ内諾アリタリ

 代価を支払って購入したいという日本政府の申し入れにもかかわらず、清国政府は、無料でいい、という。おまけに、さっさと受け取れとも言っている。困惑したのは、日本政府の方だった。義捐をうけた塩を有料で自国民に販売するわけにはいかないだろう。北京と天津間に電報がとびかった。天津からは、取扱人を指定しろと連絡がはいる。

No.5049 卅八年十一月十九日天津前一一、二六発/東京後四、三〇着
 桂大臣 伊集院総領事
第四十九号
塩輸出ノ事手筈已ニ整ヒ清国当海関ヨリ右日本側取扱人ノ指名ヲ照会シ来レリ鄭永昌ハ小栗ノ代理トシテ当地ニ在ルモ公然ノ御訓示ナキヲ以テ公然ノ回答出来ズ至急右指定アリタシ

 鄭永昌の名前が出てきた。
 結局のところ、結氷期が近づいていることもあり、日本政府は、清国政府の好意を受け、輸入取扱人に小栗商店小栗冨次郎、代理鄭永昌を指定したのである。
 清国側の文書も1通掲載しておこう。内田康哉あてである。

内田大臣 台啓
慶親王 /瞿鴻機 那桐/聯芳 伍廷芳
逕復者、本月初七日、准
函称、本国塩斤歉収、請准借運長芦塩斤、以済急需、当経本部咨行戸部、曁北洋大臣校〓ban在案、十一日、又准函催前因、茲准戸部曁北洋大臣覆称、中国食塩関係民生国課、向不准販運進出口、載在条約、第念日本与中国唇歯相依夙敦睦誼、現値塩斤歉収、自応尽救災恤鄰之道、擬由長芦官商、公捐一次、共塩二千万斤、不取価値、以済鄰邦民食等因前来、本部査此次戸部与北洋大臣允運芦塩、作為公捐接済、不取価値、実為顧念鄰邦民食、以昭公誼、特此布復、即希転違
貴政府査照〓ban理可也、順頌
時祉
那〓ling具十月十五日

 これまで述べたことが、すべて盛り込まれた内容になっている。袁世凱の名前こそないが、慶親王を先頭に立てた文章であるから清国政府の公式文書である。
 清国からの塩の無償提供は、日本でも報道された。ただし、その扱いは、驚くほど小さい。

『大阪朝日新聞』明治38(1905)年11月25日
北京電報●清国の好意 清国政府が日本に供給す可きことを承諾せる官塩の全額は二千万斤にて好意を以て贈与せる者にて代価を要せずと照会し来れりと

 今ならば、鳴り物入りで日中友好の好例だと宣伝されてもいいような事件であるにもかかわらず、たったこれだけの記事である。大国中国だから小国日本の窮状を救うのは当然だという意識でもあったのか、どうか。そこまでは、わからない。
 1906年5月、塩2千万斤は、無事、清国から輸出された*20。
 日本政府は、無料の塩をもらったままでほっておくこともできない。感謝の意を表わすため、小型水雷艇型ヨットを神戸川崎造船所で建造すると、西太后に献上した。
 公文書で、たどることができるのは、ここらあたりまでだ。袁世凱とは、裏取り引きがあったか、なかったか、それに言及する資料を私は持っていない。
 1992年12月、私が、北京郊外の頤和園を訪問したときのことだ。昆明湖畔に鋼鉄製の小型蒸気船が展示してある。大きなマストはなかった気がするし、ヨットという名称からはほど遠い。小型とはいっても、30メートルはありそうだ(長さの記憶は不確実)。説明を読むと、日本政府から西太后に贈呈されたと書いてある。これが、直隷省長芦塩2千万斤のお礼として建造された小型水雷艇型ヨットであった。破壊もされずに残っていことに、少々驚いた記憶がある。
 鄭永昌、劉鉄雲らの海北公司は、上に述べたように長芦塩輸出につながるものとして存在した。
 清国政府が無償で長芦塩を提供したことが、中国国民の利益を損なったということになるだろうか。もしそうであれば、当時の清国政府首脳は、それこそ売国奴ということになる。売国奴といわないまでも、一般論として、清国政府内部において、批判する側とそうでない側に分裂するかもしれない。日本だけを特別扱いすることに対して反発を抱く人間がでてくる可能性がないわけではない。
 袁世凱について言えば、彼は、直隷省長芦塩の日本への無償供与をはじめから承認していた。韓国塩運会社の件にしても、鄭永昌らの行動を承知し認めていた。だから、それらが劉鉄雲逮捕の理由になるはずがない。もし劉鉄雲逮捕の理由にするならば、それらを認めてきた袁世凱自らが誤っていたことになるからだ。自分で自分を逮捕しなければならなくなる。
 汪叔子論文が、つぎに指摘するのが第二辰丸事件という、今まで、誰も話題にしなかった事件だ。劉鉄雲逮捕とこの第二辰丸事件が関係するなどとは、研究者のだれひとりとして気づかなかった。劉鉄雲逮捕事件の深層背景だと指摘するのは、まさに、汪叔子の着眼点のよさを表わしている部分だといえよう。私は、これを高く評価する。

●5 劉鉄雲逮捕の背景――第二辰丸事件
 劉鉄雲逮捕の約四ヵ月前、光緒三十四年二月十六日(1908.3.18)劉鉄雲の親友鍾笙叔が逮捕された。翌十七日、劉鉄雲の親戚高子穀も逮捕されている。
 汪叔子が使用する材料は、孫宝〓王宣}の日記だ。この日記に鍾笙叔と高子穀が逮捕された理由らしきものが記録されている。第二辰丸事件について、日本と中国の交渉会議がもたれた。その席上、中国側の情報が日本側に漏れていることが判明する。追求すると、情報を洩らした張本人として鍾笙叔と高子穀が浮かび上がり、それで逮捕されたという。
 高、鍾逮捕の原因となった第二辰丸事件についての説明が必要となる。

◎5-1 第二辰丸事件
 1908年2月5日、日本の商船第二辰丸(神戸辰馬商会所有)は、マカオの海域において清国の巡視船4隻に拿捕された。積荷は、マカオの中国人銃砲商が注文した銃器弾薬だった。拿捕の理由は、主として武器密輸の疑いである。
 日本側は強硬に抗議をした。清国政府にしても、当時、日本から革命派に武器が渡ることを警戒していたから頑として譲らない。ついに、日本側は、軍艦を派遣するなどの高圧的行動にでて、清国側を屈伏させた。同年3月14日、清国側の謝罪礼砲の実施、損害賠償、関係官吏の懲罰などの条件をつけて、第二辰丸は放免となった。これに反発して、中国では、日本製品ボイコット運動がはじまる*21。
 これが第二辰丸事件の概要である。
 日本では、この事件について新聞が刻々と報道をつづけている。大量報道のなかから解決部分のみを引用する。

『大阪朝日新聞』明治41(1908)年3月17日
北京電報●辰丸事件解決 辰丸事件に関し彼我両国政府間に決定の条件要領左の如し
第一 清国政府は日本国旗引卸の件に関し辰丸碇泊中其の附近に於て日本帝国領事立会の上清国軍艦は日本国旗を掲げ艦砲を放ちて謝罪の誠意を表し且右に関せる不都合の官吏を懲罰する事
第二 清国政府は即日辰丸を解放する事
第三 清国政府は辰丸抑留の為生ぜし損害を賠償する事
第四 清国政府は辰丸抑留に対し事実取調べの上不都合なりしと認むる官吏を処分する事
第五 辰丸搭載の澳門行武器弾薬に就ては清国に於て其の輸入後の成行きを懸念し之が買収を望めるを以て日本政府は特に好意を表し買収するを得せしむる事

 第四の「不都合なりしと認むる官吏を処分する事」というのは、第二辰丸の日本国国旗を引きずりおろした中国人官吏を指す。
 新聞報道を読めば一目瞭然である。清国政府の一方的しかも全面的敗北に終わった。このままタダではすまないのが政治の世界だ。日本にも漏れでてくるニュースがあった。北京政界の当時の雰囲気を伝えている。

『大阪朝日新聞』明治41年3月21日
 ●辰丸事件の余波 十九日夜北京より或筋に達したる電報左の如し
 日本の提案に対し全面屈伏したる清国政府は対外失敗の善後方略として先づ在日日本神戸の密告者を罰し一方澳門に於ける購買清商を死刑に処す可し
之に就き香港在留各国有志は何故に日本政府は是等内政に関する条件を提出せざりしかを怪しみつヽありと

 外国に居住する中国人についても処罰をしようというのだ。ましてや、中国国内での追求処罰がないわけがない。こう考えるのが普通だろう。そうすると、あの鍾笙叔、高子穀逮捕処罰がそれに該当するのではないかとすぐ思いつく。この際、逮捕理由は、何でもいい。

◎5-2 高子穀と鍾笙叔の逮捕
 前出、孫宝〓王宣}日記(二月十九日付)に述べる高、鍾ふたりの逮捕理由は、こうだ。詳しく見てみよう。
 朱桂卿が孫宝〓王宣}に語った内容が根拠になる。外務部が日本辰丸を拿捕した事件について、日本の外交官と交渉を始めた。すると日本外交官は、清国と駐日李家駒欽差との談合密電を暴露した。袁世凱は大いに驚き、漏洩者をきびしく追求すると、電報学生数人が、高子穀、鍾笙叔のふたりのことを供述した。取り調べると、秘密書類、外務部の暗号電報書などがそろっている。毎日外務部の機密電語を入手すると抄訳して外国の大使館へ売っていたらしい。14ヵ国との取り引きがあったという、云々。(225頁)*22
 汪叔子は、以上の記述にもとづいて、人の証言、事実の証明、物の証拠、自供がそれぞれある。ゆえに、清国政府が、高子穀と鍾笙叔を逮捕処罰したのは、「民族の大義について論じても、適切だというべきだし、議論の余地はない」(227頁)と断定する。
 よく考えてみれば、おかしな話だ。疑問だらけだといってもいい。
 日本と清国の交渉の席上で、なぜ日本外交官が秘密電報を暴露する必要があるのだろうか。秘密情報は、相手側に知られていないと思わせている時にこそ有効である。秘密を知っていると相手に気づかれれば、外交カードとしての有効性は減少すると考えるのが普通だ。
 そもそも、その秘密電報の内容が、はっきりしない。日本と交渉する際に、知られては不利になるような内容だったのか、それすらも明らかではない。
 汪叔子が書くように、孫宝〓王宣}は、公開することを考えて日記を書いてはいない。その限りにおいて、朱桂卿が話した内容というのは、そのまま事実なのだろう。だが、今、書いたように内容そのものが信頼性に欠ける、と私は感じる。話の出方が一方的だ。罰する側からの証言であり、それらが本当のことかどうかは、確認のしようがないのだ。その場合は、高子穀と鍾笙叔を逮捕するための口実ではないか、と疑うのが研究者のとるべき姿勢ではないのか。
 もうひとつの疑問は、秘密電報すなわちいわゆる「国家機密」そのものについての考え方だ。簡単に「国家機密」というが、その定義があいまいなのだ。高、鍾逮捕事件は、電報が「国家機密」だとする前提があってはじめて成立する。その判断は、政府高官に決定権があって、恣意的になる可能性がある。つまり、誰かを逮捕したければ、内容もはっきりしない「国家機密」を洩らしたときめつけるだけでいいのだ。第二辰丸事件の日本との交渉が失敗したのは、外務部内部の人間が情報を敵方に漏洩したためである、とすれば、責任のすこしは免れることが可能だろう。この種の事件は、研究者は、慎重にとりあつかう必要がある。
 今、外務部内部の人間だと書いたように、劉鉄雲の妻の兄弟である高子穀は、総理各国事務衙門に勤務していた人物だ*23。総理各国事務衙門は、のちの外務部にほかならない。高子穀は、ひきつづいて外務部に勤めていたのだろう。当時の外務部において、情報管理がどのようになされていたのかは、明らかではない。だが、外務部に勤務していた人物であれば、秘密書類、暗号電報書などを持っていても不思議ではなかろう。しかし、情報を外国大使館に売るというのは、また別問題ではある。疑問をのべれば、はたしてそういう事実があったのかどうか、確認のしようがない。一方的な説明があるだけなのだ。
 朱桂卿が孫宝〓王宣}に語った話の内容が、結果として虚偽であったとしたら(その可能性を完全には否定できない)、高子穀と鍾笙叔の逮捕処罰は別の意味を持つ。その場合は、高子穀と鍾笙叔は、第二辰丸事件の余波を受け、無実の罪で処刑された犠牲者となる。まったくの空想だと否定できるのだろうか。
 その理由が何であれ、無実か有罪かは今おいておき、ともかく高子穀と鍾笙叔は逮捕処罰されたという事実は存在する。

◎5-3 劉鉄雲と高子穀および鍾笙叔の関係
 さて、これからが、汪叔子のいう劉鉄雲と高子穀および鍾笙叔との関係である。数え上げているから、順番にしかも簡潔に紹介する。
関係1:劉鉄雲と高、鍾の関係は緊密だ
 劉鉄雲の日記には、(高)子穀と(鍾)笙叔が多く記録されている。劉鉄雲と二人の間柄は、一般の親戚友人にとどまるものではない。きわめて親密である。(227頁)――たしかに劉鉄雲日記には、おおくの場所に二人の名前を見いだすことができる。親密であるという汪叔子の意見に賛成する。
関係2:情報のやりとりをしている
 1908年はじめには、高、鍾が情報を劉鉄雲にもたらしていたが、彼らふたりが逮捕された以後は、劉鉄雲が彼らを助けだす相談を頻繁に行なっている。(228頁)――高、鍾が外務部の情報を入手できる地位にあるならば、親戚友人の劉鉄雲を助けようと情報を流すのは当然である。逆に、逮捕されたふたりをなんとか救助できないかと劉鉄雲が奔走するのも、また、当然の行為であろう。確かに、汪叔子の言う通り彼らの関係は密である。関係が密であるということと劉鉄雲の逮捕については、後述する。
関係3:「国家機密」を外国人に流している
 劉鉄雲の乙巳日記二月十六日付に、「外務部の電報を駐ベルギー公使に送る(外部電致駐比使臣)」*24とか「外務部の電報案」が出て来るが、それらは皆「国家機密」であり、「政府の公開禁止の重要書類」である。また、電報の内容は中国の鉄道、民族利権にかかわるものである。しかるに、鍾笙叔が北京から電報、手紙で伝えて来たものを、劉鉄雲、高子穀らは「哲美森」「哲君」に転送している。「哲美森」あるいは「哲君」というのは誰かといえば、イギリス人で、福公司の外国商人にほかならない。機密を盗んで外人に売り渡した三人ともに売国奴である。――あきれはてた論理というのは、こういうことをいう。1902年の河南鉱山鉄道の開発は、外国資本の福公司がらみで実施されていた。汪叔子は、「外務部の電報を駐ベルギー公使に送る(外部電致駐比使臣)」とわざと省略して引用している。劉鉄雲が、いかにも「国家機密」を洩らしているように説明する。しかし、原文は、「昨晩鍾笙叔より電報が来て、沢道鉄路のことがすでに外務部で許可されたことをしった。駐ベルギー公使に電報で知らせる(昨晩接笙叔来電,知沢道事已経外部核准,電致駐比使臣)」だ。鉄道事業が外務部により批准されたことをいう。外務部が許可したことを指しているから、秘密でもなんでもないことは明らかなのだ。引用は正確にしなければならない。原文をねじ曲げて引用し、自分の都合のよいように利用するのは、研究者がやってはならないことだ。また、劉鉄雲は、福公司で働いているのだから、中国側の用件を外国人に伝えるのは当然の仕事のうちである。電報の内容も吟味せず、外務部の電報が、すべて「国家機密」であるかのように考えている汪叔子の論理はどこからくるものか、理解しがたい。
 くりかえしていうが、「国家機密」ということばほど、あいまいなものはない。罰する側からいえば、恣意的に利用できるため、きわめて便利である。誰でもが知っている事柄でも、国家の側が「国家機密」だといえば、それで厳罰に処す理由にできる。
 たとえば、外務部の電報にしても、どこまでが「国家機密」でどこまでがそうでないのかは、外部の人間には判断できるものではない。ましてや、当事者が、国家と私物の区別をつけていないかったとしたら、どうなるだろうか。例をあげれば、まさに劉鉄雲の逮捕についての端方の電報がある。
 さきに劉〓孫が外務部ほかの電報を発掘したことを述べた。そのいきさつを劉〓孫自身が書いている。
 1940年のことだった。端家が役所の電報原稿を売り出そうとした。劉〓孫は、故宮博物院文献館に紹介してもらうと価格は700元余りだった、という*25。
 劉〓孫は、関係する電報原稿を借り出して書き写したものを『鉄雲先生年譜長編』に収録したというわけだ。だから汪叔子がいうように、原物とは語句の違う箇所があり、また、劉〓孫が目にできなかった電報があるのもうなずける。
 この事実が何を物語っているかといえば、端方が外務部あるいは軍機処と取り交わしていた電報あるいは電報原稿は、端方の私邸に保存されていたということだ。「国家機密」ならば、保存する場所があるだろう。原物ではなくて写しという可能性は考えられる。ならば、写しを私邸に保存しておくことは許されるのか。外務部における文書管理の問題になる。はたして、当時、電報原稿を含んだ情報がすべて「国家機密」として厳重に管理されていたかどうか、私は、疑うものである。ものによっては、管理がずさんであって、それが「国家機密」だとは考えられなかったこともあったのではないか(だからこそ売り立てられた)。その場合、情報を洩らせば、厳密な意味で「国家機密」漏洩罪に当たるのであろうか。大いに疑問である。ゆえに、劉鉄雲を「国家機密」漏洩罪で告発ができるかどうか、厳格な吟味が必要なのだ。
 朱桂卿の発言にもどると、発言内容を検討する必要を汪叔子は、感じていないようだ。汪叔子は、高と鍾が「国家機密」を洩らしたと信じているが、実は、単なる伝聞である。事実は、確認できてはいない。伝聞を目の前にして、それについて検討する姿勢を放棄した瞬間に、汪叔子は歴史研究者ではなくなる。何になったかといえば、1908年当時の清国政府高官、すなわち恣意的に「国家機密」漏洩罪を利用して、高と鍾の逮捕を命じ、高と鍾を裁く立場の人物となったのである。
関係4:劉鉄雲は日本人と結託している
 清末以降、「日本軍国主義」はわが中華を侵略し、重点は東北三省に注がれた。劉鉄雲は、晩年、日本との関係をはなはだ深くしている。北京、天津、上海を往来し、日本大使館、洋行への出入りも激しく、「倭人」の氏名も枚挙にいとまがない。劉鉄雲は「上政務処書」*26において、新疆全省を一国に、内外蒙古を一国に、東三省を一国にして、永遠局外中立国とし、万国の共同保護にする。東三省は、日本に開発させて、最終的には中国が回収すればよい、云々。この献策は、救国か、それとも売国か。さらに、乙巳日記を見れば、日本海軍が勝利しているのを喜んでいる。誰のために喜んでいるのか。1906年の日本訪問、1907年の韓国で塩運会社を設立したのは、日本人と結託して遼寧塩を密売するためだった。1908年はじめ、劉鉄雲逮捕の情報が、日本人(鄭永昌、御幡雅文)からもたらされてもいる。第二辰丸事件にからまって「外交はすでに手を焼いている。内なる売国奴を急いで取り調べなければならない。高、鍾の罪状は確実ですでに逮捕している。劉鶚が日本(倭)と通じている嫌疑は重大であるから、猶予を許さなかったのだ」(230頁)――「文化大革命」時代に逆戻りしたのではないかと思うような汪叔子の論調である。日本人と交際のある劉鉄雲は、それだけで罪を問う理由になるのだ。
 「上政務処書」のなかで陳開する論理は、劉鉄雲が、鉱山開発には外国資本を導入することを主張したのと同主旨のものをくりかえしているにすぎない。「文化大革命」時代に「自力更生」が叫ばれていた時、劉鉄雲の外資導入による開発政策は、まさに、売国奴の論理だと批判された。汪叔子の劉鉄雲批判は、その再現である。改革開放政策が推し進められている現在の中国では、外資を利用して開発を主張する劉鉄雲は、先駆者として評価されても不思議ではない。
 日露戦争時における日本海軍の勝利を喜ぶ劉鉄雲を批判する汪叔子は、ならば、劉鉄雲がロシア海軍の敗北を嘆くのならば満足なのだろうか。
 劉鉄雲が、「倭人」の友人知人を多くもち、「倭」と通じている嫌疑が重大ならば、逮捕理由はそうなっていたはずだ。わざわざ、戊戌壟断鉱利、庚子盗売倉米、丁未走私遼塩などとみっつも理由をあげる必要はなかった。事実は、そうなっていない。日本人と結託していることは、逮捕理由にならなかった証拠である。
関係5:まとめ
 高子穀、鍾笙叔は、秘密漏洩を自供(とは断定できないと私は考えるが)した。劉鉄雲は、彼らと長年のつきあいがあり、外務部電報、電報案など秘密書類を外国人に洩らしている。これらからして、彼らは明らかに同類である。――まとめであり、くりかえしだ。
 汪叔子論文の論点を紹介し、必要な部分には反論した。
 汪叔子の結論「その判決は、犯罪行為の事実を根拠にしなければならない。外務部の上奏文で指摘する罪状みっつのうち、「戊戌鉱山」と「庚子の米」については、事実ではなく公平ではない。だから問題にしない。みっつめの「丁未の塩」は、確かに証拠があり、日本人と結託して遼寧塩を密輸し、売国奴の罪は確定している。高、鍾の事件が発生した。劉鶚は高、鍾と共謀し機密を盗み出し外国人に与えたのには確かに証拠がある。売国奴の罪を逃れることはできない。逮捕され罰せられたのは、当然の罪なのである(夫判案定〓言献},終須以罪行事実為根拠。外務部奏章所指罪款三,“戊戌砿”、“庚子米”,此二款不実不公,可不計;其第三款“丁未塩”,則確属有據,勾結日人、走私遼塩,已可確定漢奸之罪。高、鍾事発。劉鶚之与高、鍾同謀合〓人火},盗竊機密、輸告外人,并確属有據,更無逃漢奸之罪。其遭捕受懲,罪有応得也)」(232頁)でいう有罪部分は、まったく成立しないのだ。劉鉄雲は、罪なく逮捕処罰された。これほどの冤罪事件もめずらしい。
 結局のところ、事実のみを書き出せば、第二辰丸事件の余波で、高子穀と鍾笙叔が逮捕された。またその余波で劉鉄雲が逮捕処刑されたというのが、劉鉄雲逮捕事件の大筋だ。
 この大筋を提出した点は、汪叔子論文の評価すべき箇所である。
 役所間の電報のやりとりというような閉ざされた資料ではなく、公開性のある資料をつぎに提出する。劉鉄雲逮捕に関する新聞記事だ。

●6 劉鶚を厳罰に処するという政府論議――新聞報道
 劉鉄雲の逮捕についての公にされた文章が1件だけある。新聞記事だから、これ以上の公表性はないといえよう。

『申報』戊申七月初六日(1908.8.2)
厳懲劉鶚之朝議 北京○外務部片奏略云前准両江督臣端方電称革員劉鶚以浦口開作商埠在本県具禀願将自有地畝報効経該督臣電飭密拿旋即弋獲電〓言旬}〓ban法到部査該革員劣迹不止一端未便任其逍遥法外応如何厳加懲処之処伏候聖裁摺上慈宮曾諭枢堂該革員罪悪満盈応従重治罪某尚書亦云胡聘之撫晋時所〓ban各事大半誤於該革員之手某中堂亦云非重〓ban不可遂請旨将劉鶚発往新疆監禁永不釈回一面並電致江督将劉鶚家産一併査抄充作該省公益之用並飭迅速押解起程*27

 外務部から新聞に意図的に流されたニュースであろう。この記事が新聞に掲載されたのは、劉鉄雲が逮捕されてから十五日目のことになる。
 片奏とは、正奏に同封する付帯的奏文のこと。追って書きの役割をもつという。その内容は、劉鉄雲の例の浦口開発に関連するものだ。浦口の土地買収について地元の有力者とごたごたが発生していたのは事実だ。しかし、奇妙なのは、劉鉄雲が自ら購入した土地を寄附したいといっているにもかかわらず、それでも劉鉄雲を処罰しようとしたことだ。おまけに、過去をほじくりかえし胡聘之が山西を治めていたときの鉱山開発についても、つごうの悪いことの大半は劉鉄雲が原因だとする。清国政府の高官に、劉鉄雲はよほど反感を持たれていた、俗にいえば睨まれていたことが、この新聞記事からもよく理解できる。
 当時の中国社会にむけて公表された劉鉄雲逮捕の理由は、以上の新聞記事以外には、私は知らない。浦口土地問題にしても、山西鉱山開発にしても、問題は解決している。それをあらためて逮捕の理由にするのが不思議不可解である。もうひとつ、注目すべき点がある。ここには、太倉米もなければ、韓国への塩輸送も出てこない。
 塩の密売は、いうまでもなく中国においては大罪である。韓国への塩密売が事実であれば、劉鉄雲逮捕の理由は、これだけで充分すぎるくらいだ。過去にさかのぼり鉱山開発、太倉米を持ち出す必要は、まったくない。それをいわないのは、劉鉄雲には塩に関する罪状はなかったことを逆に証明していることになろう。ついでにいえば、「国家機密」漏洩についても、一言も触れてはいない。
 新聞記事を見ればわかる。外務部、軍機処と端方の間でやりとりされた電報のなかに出てくる劉鉄雲の逮捕理由とも異なっている。複数の逮捕理由が、混在しており、しかも、どれと特定することができない。ならば、結論は、ひとつしかない。罰する側、すなわち清朝外務部にとっては、劉鉄雲を逮捕する理由などどうでもよかった。とにかく逮捕して処罰することが最大の目的だったということだ。『清実録』にその証拠がある。

光緒三十四年戊申六月二十二日丙子(1908.7.20)
  又諭:外務部奏,已革知府劉鶚貪鄙謬妄不止一端,請旨懲處一片。革員劉鶚違法罔利,怙悪不悛,著発往新疆永遠監禁。該犯所有産業,著両江総督査明充公,〓ban理地方要政。(巻593葉11)
  また諭告:外務部の上奏によれば、すでに知府を免ぜられている劉鶚は、ひどくでたらめなこと一部にとどまらないため、その処罰の勅令を奏請している。免職されている劉鶚は、法律に違反し、利益を根こそぎ取り込み、あやまちを犯したと知りながらも強情を張って改めないので、新疆にやり永遠に監禁を申しつける。犯罪人の有するすべての不動産は、両江総督に調査させ没収のうえ公有とし、地方政治に役立てることとする。*28

 驚くべきとは、まさにこのことだ。劉鉄雲の逮捕後に発せられたこの文書は、具体的な理由は何ひとつないにもかかわらず、劉鉄雲を逮捕処罰したことの重要証拠にほからない。
 劉〓孫は、劉鉄雲の処遇をめぐってとりかわした当事者の電報という有力な資料を手元においていた。しかし、劉鉄雲逮捕の理由を特定することができなかった。それは当然であった。上に述べたように、劉鉄雲には、逮捕される理由がなかったからである。劉徳隆らが材料を収集して、劉〓孫と同じ結果になったのも同様の原因による。将来も、劉鉄雲逮捕の理由を明示した資料は出現しないだろう、と私は推測する。

●7 劉鉄雲は冤罪である――結論
 汪叔子論文の劉鉄雲売国奴説は、劉鉄雲がかかわった韓国への塩輸送が有罪であると断定したところからはじまる。さらに、第二辰丸事件の際、高子穀と鍾笙叔は、「国家機密」を漏洩したとする伝聞を本当のことだと考える。劉鉄雲は、高子穀と鍾笙叔と深い交遊関係を持ち、同様に「国家機密」を漏洩していた。だから逮捕された。これが、汪叔子が考える、第二辰丸事件から高、鍾逮捕におよび、劉鉄雲逮捕につながる経過である。
 しかし、汪叔子論文が有罪とする韓国への塩輸送は、合法的なものである。しかも、結果として失敗しており、無罪であることは明らかだ。第二辰丸事件に関係する高子穀と鍾笙叔の「国家機密」漏洩は疑わしいこと、ましてや、劉鉄雲に「国家機密」漏洩の事実はないことも述べた。ゆえに、劉鉄雲は、汪叔子がいうような売国奴ではない。これが、私の結論である。
 汪叔子論文は、一見「堅牢無比」だった。複数の資料を駆使しながら、その論理は緻密である。事実、戊戌(1898)の鉱山開発と庚子(1900)の太倉米を無罪と判定した箇所は、資料の使い方、論理の積み重ねともに完璧であるといえる。ところが、劉鉄雲と日本および日本人に関する部分になると、とたんに資料の裏付けがあやふやになる。日本側の資料がない、つまり事の是非を判断するための材料を持たないにもかかわらず、告発者側の発言を躊躇することなく一方的に信用するのだ。
 調査が不足しているから、遼寧塩、吉林塩、長芦塩、韓国への塩運送などについて、大きな動きがあることを知らない。すべてが劉鉄雲らの個人行動だと誤解したところに、初歩的な誤りが存在している。塩関係で有罪だと決めつけたから、それ以降の交遊関係、情報伝達もすべて有罪に見誤った。劉鉄雲を有罪ときめつける重要な部分での調査不足、それも日本側資料の不足が、汪叔子論文を誤った結論に導いた原因である。
 遼寧塩、吉林塩、韓国への塩輸出を含めて、すべての事業で劉鉄雲は、無罪である。第二辰丸事件の処理に屈辱的な敗北をした清国外務部は、みずからの失敗を隠蔽するために、機密漏洩の罪をでっちあげて高子穀と鍾笙叔を逮捕した。劉鉄雲は、まさにその余波をかぶっただけにすぎない*29。根拠のない、理由のない逮捕処罰であった。だからこそ、逮捕が先行し、その理由が複数あげられるという不明瞭なかたちにならざるをえなかったのだ。冤罪でなくて、何であろうか。
 清朝政府に逮捕処罰された劉鉄雲には、逮捕される理由があるはずだ。理由がなければ、逮捕されることもなかったにちがいない。汪叔子を含んですべての研究者が、現在にいたるまで、そう思い込んでいる。しかし、もともと存在しないものを探したところで、ないものはないのだ。今まで、研究者の誰ひとりとして劉鉄雲の逮捕理由を明らかにできなかった理由である。

●8 おわりに
 汪叔子論文を読んで、私が抱いた素朴な疑問について書いておく。
 日本と中国の両国にまたがる事件を研究対象とするとき、利用する資料は、漢語文献だけで充分なのだろうか。ことに双方の意見が対立する事件であれば、なおさら双方の資料を収集して分析する必要があると考えるのが研究者として当然ではないのか。
 山西鉱山開発、義和団事件の2件については、汪叔子は、複数の資料を収集参照し、検討したうえで慎重に結論を導き出している。何度でもいうが、この部分の論文の構築は堅牢で、しかも説得力がある。その手腕は、見事だというべきだ。
 しかし、遼寧塩、吉林塩および韓国への塩輸出に関しては、日本側の資料に目もくれない。これはどうしたことだろう。論文を読めば、関連資料のすべてに目を通すのが汪叔子の研究方法だとわかる。しかし、それは漢語文献のみに限られているかのように見える。
 劉鉄雲が日本人とかかわりを持っているにもかかわらず、汪叔子は、日本側の資料を無視する。これでは研究を深めることは困難だろうと危惧する。もし手元に日本の資料がないのであれば、それを断わったうえで、慎重に結論を回避するやり方もあったはずだ。劉鉄雲と日本人の関係について、すでに日本で論文が発表されている。日本と中国の両国に関係する事柄は、中国の資料だけでは研究が不十分とならざるを得ない事実を知るべきだろう。
 劉鉄雲は、すでに歴史上の人物である。歴史上の人物の有罪をいうときは、とくに慎重にしなければならない。自ら弁明することもできなければ、批判に対して反論することも不可能だからだ。一般にいって、歴史上の人物であろうとなかろうと、個人が有罪か無罪かを判定するときは、資料を集めたうえで充分に吟味して行なう必要がある。
 「文化大革命」時代では、もはや、ない。しかし、劉鉄雲の後裔は、現在も健在だ。歴史研究には、そういう配慮は不要だという見解はあるだろう。だが、無罪の劉鉄雲をつかまえて有罪の、しかもきわめつけの重罪である「売国奴(漢奸)」の烙印を押すのは、いかがなものか。大いに疑問である。歴史研究者には誤審の責任は発生しないのか、と私はいぶかしく思うのだ。


【注】
1)厳一萍選輯「原刻景印叢書集成続編」台湾・芸文印書館 刊年不記。これは「国学叢刊」巻15(1915)の該当部分を影印したもの。魏紹昌編『老残遊記資料』(北京・中華書局1962.4。日本・采華書林の影印本がある)所収による。190頁「数年後柄臣某乃以私售倉粟罪君,致流新疆死矣」
2)胡適「老残遊記序」『老残遊記』上海・亜東図書館1925.12初出未見/1934.10第十版。9-10頁。「太倉米的案子叫他受充軍到新疆的刑罰,然而知道此事的人都能原諒他,説他無罪。只有山西開鉱造路的一案,当時的人很少了解他的。他的計画是要『厳定其制,令三十年而全鉱路歸我。如是則彼之利在一時,而我之利在百世矣』。這種〓ban法本是很有遠識的。但在那個昏〓ココロ貴}的時代,遠見的人都逃不了惑世誤国的罪名,於是劉先生遂被人叫做「漢奸」了。他的老朋友羅振玉先生也不能不説:『君既受廩於欧人,雖顧惜国権,卒不能剖心自明於人,在君烏得無罪?』一個知己的朋友尚且説他烏得無罪,何況一般不相知的衆人〓NE?」
3)劉大紳「関於老残遊記」(署名は紳)『文苑』第1輯1939.4.15。のち『宇宙風乙刊』第20-24期1940.1.15-5.1に再掲。また、魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4(采華書林影印あり)。劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』成都・四川人民出版社1985.7などに収録される。『老残遊記資料』78頁「翌年夏,袁(世凱)又罪以散太倉粟及浦(口)地事,電端忠愍相緝,端(方)密嘱世丈王孝禹先生左右先君速避,誤於僕人陳貴,先君遂被禍」
4)魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4。采華書林影印本。184-185頁。また、蒋逸雪『劉鶚年譜』済南斉魯書社1980.6
5)劉〓孫『鉄雲先生年譜長編』済南・斉魯書社1982.8。143頁「六月被袁世凱、世続等挟嫌中傷。由軍機処密令両江総督拘捕,流放新疆」
6)劉厚滋「劉鶚与《老残遊記》」劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』成都・四川人民出版社1985.7。14頁「正在計劃擬訂過程中,当初争買地産的仇家陳瀏密告在北京的御史呉某,指控劉鶚為漢奸,在浦口為外国人買地。当時軍機大臣袁世凱又因和劉鶚於二十年前在山東河工任上素有夙怨,在衆毒斉発的形勢之下,袁世凱就密電当時両江総督端方,在南京寓所将劉鶚逮捕」
7)劉徳隆、朱禧、劉徳平著『劉鶚小伝』天津人民出版社1987.8。59-64頁
8)汪叔子「近代史上一大疑獄――劉鶚被捕流放案試析」『明清小説研究』2000年第4期(発行月日不記)
9)汪叔子論文の注2「台湾省“近代史研究所”編《砿務档》,1960年台北清華印書館影印本,第168至177頁」。
10)「劉鉄雲戊申(1908)日記」『資料』277頁。光緒三十四年正月十二日(光緒朝東華録5843頁に掲載される)「(諭)開缺山西巡撫胡□□(聘之)、前在巡撫任内昏謬妄為、貽誤地方、著即行革職。其随同〓ban事之江蘇候補道賈□□(景仁)、已革職知府劉□(鶚)胆大貪劣、狼狽為奸。賈□□(景仁)著革職永不叙用、劉□(鶚)著一併永不叙用、以示薄懲、/欽此」□は、劉鉄雲日記の記述のママ。()内に正しい語句を補った。
11)「鄭永寧君、鄭永昌君、鄭永邦君合伝」東亜同文会編『対支回顧録』下巻 原書房影印1968.6.20。36-37頁
12)「鄭永昌」『東亜先覚志士記伝』下巻 原書房影印1966.6.20/1974.10.25。584頁
13)樽本照雄「劉鉄雲の来日」『清末小説論集』日本・法律文化社1992.2.20
樽本照雄「晩清小説資料在日本」熊向東、周榕芳、王継権選編『首届中国近代文学国際学術研討会論文集』南昌・百花洲文芸出版社1994.7
樽本照雄「日本における清末小説関係資料」『清末小説探索』日本・法律文化社1998.9.20
14)海北公司についての代表的説明を以下にかかげる。
劉大紳「関於老残遊記」『老残遊記資料』86頁「至天津与鄭永昌先生創設海北公司,製煉精塩,運銷朝鮮」
蒋逸雪「劉鉄雲年譜」『老残遊記資料』180頁「(一九〇五)九月,与鄭永昌合設海北公司於天津,製造精塩」
劉〓孫『年譜長編』125頁「秋与鄭永昌在天津設立“海北塩公司”」
劉厚滋「劉鶚与《老残遊記》」劉徳隆ら『劉鶚及老残遊記資料』13頁「同時又和友人鄭永昌創設“海北精塩公司”、計劃在山東沿海購入粗塩運到青泥窪、〓豸比}子窩製成精塩後再運銷朝鮮、日本。在創〓ban這些企業的過程中,劉鶚終年奔走於北京、天津、東北各地,甚至遠到朝鮮、日本」
 名称には、ほかに海北塩公司、海北精塩公司などがある。名前を特定するための資料を持たない。以下、海北公司と呼んでおく。
15)主として樽本照雄「劉鉄雲と日本人」(『清末小説論集』法律文化社1992.2.20所収)による。
「鄭永昌」『東亜先覚志士記伝』下巻 原書房影印1966.6.20/1974.10.25。583-584頁
「鄭永寧君、鄭永昌君、鄭永邦君合伝」東亜同文会編『対支回顧録』下巻 原書房影印1968.6.20。32-39頁
宮田安『唐通事家系論攷』(長崎文献社1979.12.10)も見たが、本稿に必要な情報は記されていなかった。
16)『東亜先覚志士記伝』下巻。584頁
17)『対支回顧録』下巻。36頁
18)阿部聡「劉鉄雲日記中の日本人(3)」『清末小説から』第23号1991.10.1「直隷省長芦塩ママの輸出が駄目なら、吉林塩の販売をというわけである。そして、日露戦争後の軍政下では商業活動にも規制が加えられており、そのうえ中国人だけによる塩輸送では日本軍に接収されてしまう危険があったため、日本人に手助けしてもらうのが安全であった。そこで鉄雲は軍に顔の利く中島を訪ね、日本人を紹介してもらおうと考えたのである」
19)以下に引用する電報などすべては、明治三十八年十一月「清国塩輸出一件 附西太后陛下ヘ大蔵省ヨリ遊船一隻贈呈之件」という外交史料である。
20)長芦塩無償提供について、わずかに触れる文章がある。関文斌著、張栄明主訳『文明初曙――近代天津塩商与社会』天津人民出版社1999.4。160頁「長芦塩業還跨出国門,走向了国外。1904ママ年,在日本政府的請求下,袁世凱同意向日本和朝鮮出口2000万斤長芦塩。然而,売塩所得的12万銀両却被免收。為促進外交関係,清廷決定将這些塩作為礼物贈予日本。其他在外交上不太重要的国家和地区,如沙俄和香港,則無此優待,1905〜1908年刊他們従長芦購塩4.7万頓」
21)菅野正「辰丸事件と在日中国人の動向」『奈良大学紀要』第11号1982.12.27
松本武彦「対日ボイコットと在日華僑――第二辰丸事件をめぐって――」『中国近現代史論集――菊池貴晴先生追悼論集』汲古書院1985.9
22)孫宝〓王宣}『忘山廬日記』上下 上海古籍出版社1983.4。1157頁
23)劉徳隆ら『劉鶚及老残遊記資料』208頁注11。ただし、劉鉄雲の正室王氏からはじまり、側室は、衡氏、茅氏、鄭安香(継室)、郭氏などがあげられる。このうちの誰に該当するのか、それとも関係はないのか、不明。
24)引用が正確ではない。ここの原文は、「昨晩接笙叔来電,知沢道事已経外部核准,電致駐比使臣」(『劉鶚及老残遊記資料』219頁)である。
25)劉〓孫『鉄雲先生年譜長編』146頁
26)劉徳隆「《劉観察上政務処書》簡介」『劉鶚散論』昆明・雲南人民出版社1998.3
27)荘月江「八十一年前的一条電訊――関於劉鶚被捕和流放的新聞報道」『衢州報』1990.5.10。樽本照雄「研究結石」『清末小説から』第18号1990.7.1。3,4頁
28)馬泰来「《清実録》中的劉鶚」『清末小説研究』第7号中文版1983.12.1。28頁/沢本香子訳「『清実録』の中の劉鶚」『野草』第33号1984.2.10。59頁より孫引き。
29)劉〓孫が『劉鶚及老残遊記資料』146頁で、劉鉄雲逮捕に前後して、高子穀、高子衡、鍾笙叔などが逮捕され流刑に処せられている、これらの人々は李鴻章、王文韶が外務部を掌握していた頃に活動していた人物だ、一網打尽にされたのには、派閥抗争の意味があった、という。興味深い指摘である。ただし、劉徳隆ら「劉鶚的被捕与流放」『劉鶚小伝』61頁には、逮捕された人々は李鴻章集団の中核人物ではなかったし、重用されたこともなかった。だから、派閥を形成したとは考えにくい、とある。重用されていなくても、上からすれば派閥を形成していたように見えたこともあったのではないか、と思うが、それを裏付ける資料はない。

(さわもと きょうこ)