内輪話はどこまで読み込んでよいのか
――「「老残遊記」の「虎」問題」再商〓――


大 塚 秀 高




 樽本照雄氏に「「老残遊記」の「虎」問題」(『清末小説探索』所収、法律文化社、1998.9。初出は『清末小説から』27、1992.10)と題する論文があり、『老残遊記』第8回に見える虎について論じている。この論文は「「老残遊記」第8回には、虎が出現する。この「虎」に関する誤解が、中国では今にいたるまで訂正されることなく流布している」としたのち、まず桃花山にはいった申子平たちが険しい雪の山道で夜になり大いに難渋する場面を紹介し、続いて第8回回末の評を劉鉄雲の自評とみなす根拠をあげ、そのうえでこれを本文にそった劉鉄雲の自評と評し、最後に『老残遊記』の原稿第11回はかつて「ボツにされ、内容を改竄された」が、通行の『老残遊記』は「ボツ原稿と改竄された部分を復元し、原稿を書き足」し「第1回よりあらためて連載をはじめ、第20回をもって……完結した」『天津日日新聞』本であり、そこでは「商務印書館による改竄部分は、劉鉄雲によって削除されたと考えなければならない」ことを力説したのち、「第8回の「虎」は、原稿では「狐」となっていた」という、劉鉄雲の子息劉大紳によって言いはじめられた「事実に照らして、明らかに間違いである」説明」が、「(劉鉄雲の子息という:筆者)権威」ゆえに「中国においてのちのちまで伝えられ」「安易に引用されることにな」ったことへ憤りを発している(「何回でもいう。劉大紳の誤解である」、あるいは「あるがままを見れば、劉大紳の証言が誤っていることにすぐ気づくはずなのだ」といった口吻からこのように表現することは許されよう)。しかし、筆者には「事実に照して、あきらかに間違いである」とまでいえるとは思えないのである。以下にしかく考えるゆえんを記そう。
 まず関連する劉大紳の証言を、樽本氏の訳で引こう。「関於老残遊記」(『老残遊記資料』所収)の注七がそれである。

  (第8回の:筆者)もとの回目は、「桃花山で月下に狐にあう」であったが、商務印書館は、狐を虎に改め、……

 この「関於老残遊記」に注を加えた劉大紳の次男劉厚沢は、この点につき、次のようにいっている(同じく樽本氏の訳文による)。

[八]亡父(注:劉大紳)の文章によると、第8回のもとの回目は「桃花山で月下に狐にあう」であったが、商務印書館は、狐を虎に改めた、ということだ。しかし、私の調査によると、そののち出版された……は、いずれも『繍像小説』の第十回を書き改めた五百字あまりと削除した第十一回の原状を回復したものであり、「虎」を「狐」に復元したものはない。また、自作の評語のなかで、「虎にあう」ところを描写した一節について、「施耐庵ののべる虎は、百錬生が述べる虎に及ばない。施耐庵ののべる虎は凡虎であり、百錬生がのべるのは神虎である」といっている。もしも他人が書き改めたものであるならば、祖父が賛成するはずがなく、このような評語を書くわけがない。ゆえに亡父のこの説明については、判断を保留せざるをえない。

 最初に読者にことわっておかなければならないことがある。この虎狐問題は、読者の多くにとってどうでもよいたわいのない問題に見えるに相違ない。だがこれは決してたわいないどうでもよい問題というわけではないのである。否、単純といえば単純なのだが、この問題の根子にあり、なおかつ虎か狐かによって決定される(かに見える)もうひとつの問題の存在ゆえに、(少なくとも)樽本氏はこの問題にこだわる、否こだわらざるをえなくなっているとおぼしい。これすなわち、『老残遊記』の評が劉鉄雲自身のものか否か(ただし筆者は後述のごとく自評を所与の事実と考える)、ひいては通行の『老残遊記』の本文が劉鉄雲自身によって復元された当初の原稿通りの(ないしはそれに近い)ものなのか否か、がそれであって、結句「劉鉄雲が李伯元を盗用したのか」はたまた「李伯元が劉鉄雲を盗用したのか」に関わる大問題に発展するからである。とはいえ、筆者は虎狐問題に対しては、背後にひかえる重要問題のための橋頭堡とみなさず、もっと柔軟に対応すべきものと考えている。以下ではその点につきいささか論じてみたい。



 樽本氏には「「老残遊記」の「虎」問題」に先立ち、「『繍像小説』の編者は誰か――論争の情況」(『清末小説論集』所収、法律文化社、1992.2。初出は『中国文芸研究会会報』50、1985.2)、「『繍像小説』李伯元編者説の根」(『清末小説論集』所収。初出は『中国文芸研究会会報』52、1985.5)、「劉鉄雲が李伯元を盗用したのか――汪家熔説を批判する――」(『清末小説論集』所収。初出は『大阪経大論集』166、1985.7)、「「老残遊記」の評について」(『清末小説論集』所収。初出は『野草』44、1989.8)などの論文を発表していた。いずれも、『老残遊記』第11回と李伯元の『文明小史』第59回の類似に気づいた魏紹昌が1961年に発表した、李伯元が「『老残遊記』第一一回から一部分を自分の『文明小史』第五九回に取り込んだ」とする説(「李伯元与劉鉄雲的一段文字案」、『光明日報』1961.3.25)に異を唱え、汪家熔が1984年に発表した「李伯元が劉鉄雲を盗作したのではなく、その正反対で、劉鉄雲の方が李伯元を盗用したのだ」との説に対する反論として書かれたものであって、ここで取り上げる「「老残遊記」の「虎」問題」も、私見ではその延長線上に書かれたものであった。劉李盗用問題における樽本氏のスタンスは、以下の引用に見える魏紹昌説の要約と、それに付した氏の見解に端的に見て取れる。

 残念ながら、汪家熔は、『繍像小説』の編者問題を考えるうえで重要な事実を見逃している。それは魏紹昌のいう「李伯元与劉鉄雲的一段文字案」(『光明日報』一九六一年三月二五日)である。劉鉄雲の「老残遊記」第一一回の原稿から「北拳南革」をののしる部分を、李伯元は自分の「文明小史」第五九回にそっくりそのまま借用した。「文明小史」第五九回が『繍像小説』誌上に掲載されたのは光緒三十一年(一九○五)七月初一日である。原稿の「老残遊記」第一一回は没書にされて該誌には登載されていない。劉鉄雲が没にされた第一一回を新たに書きなおしたのが光緒三十一年十月、『天津日日新聞』に発表されるのはそれ以降である。劉鉄雲のオリジナル原稿が日の目を見るのは、いずれも「文明小史」第五九回発表よりもおくれるという奇妙な、しかし否定できぬこの事実がある。ここから、李伯元が借用したのは、没にした劉鉄雲の原稿から直接であったことがわかるのだ。
 李伯元は、どうして劉鉄雲の文章を借用できたのであろうか。もし、李伯元が『繍像小説』の単なる投稿者にすぎなかったとしたら、他人の原稿を見る可能性などあるはずがない。それとも、時の編者がわざわざ劉鉄雲の原稿を李伯元に見せたとでも言うのだろうか。そんなことは、ありえない。そうなると李伯元は他人の原稿を自由に見ることができる立場にあったと考えざるをえない。それは、『繍像小説』の編者をおいてはないのだ。もしも、李伯元が『繍像小説』の編者でなかったならば、劉鉄雲の文章を借用するような事件はおこらなかったはずだ。この文章盗用事件こそは、『繍像小説』の編者が李伯元であることを示す明白な証拠以外のなにものでもない。その他の事柄は、ほとんど理由にもならぬ枝葉末節にすぎない、と私は考えている(『繍像小説』の編者は誰か)。

 樽本氏は上記の諸論文に続けて発表した「『繍像小説』の刊行時期」(『清末小説論集』所収。初出は『中国文芸研究会会報』55、1985.9)並びに「李伯元と劉鉄雲の盗用関係2」(『清末小説論集』所収。初出は『〓唖』11、1986.6)において、問題となっている『文明小史』の第59回が、李伯元の死後に発行された『繍像小説』に掲載されたものであることにより、その執筆者、すなわち盗作者を李伯元から欧陽鉅源に変更され、「李伯元を欧陽鉅源に置き換えるだけで私の回答は成り立つ」とされた。
 筆者は結論的には樽本氏の欧陽鉅源盗作説に同意するものである。そのことをことわったうえで、「「老残遊記」の「虎」問題」で述べられる樽本氏の結論、「劉大紳の証言が誤っている」には同意しえないことも述べておきたい。なぜなら、そこでの議論は情況証拠のみに依拠したものであるうえ、循環論法に陥っていて、論証になっていないように思えるからである。



 閑話休題、『老残遊記』の虎狐問題にもどろう。樽本氏の「「老残遊記」の「虎」問題」の論理展開をたどれば、およそ次のようになろう。
 『老残遊記』第8回の評は「わざわざ活字の大きさを小さくして巻末の空白に無理やり詰め込」まれている。「文章が終わっているのに余白が大きく残った場合、編者が勝手に埋草的に評を書くこともあるかもしれない。しかし、第8回の掲載をみると、埋草が必要とされる空間は残っていないのだ。それを活字を小さくしてまで評を載せたというのは、原稿に劉鉄雲自身の評が書き込まれていたから、としか考えようがないだろう」。しかもその評たるや「本文の内容と一致し」ており、「自評というべきである」と。樽本氏はこれに加え、劉鉄雲が「再度、『天津日日新聞』に第1回から連載をはじめた」以上、「商務印書館による改竄部分は、劉鉄雲によって削除されたと考えなければならない」とも述べられる。だが、この部分、第8回と第10回・第11回のいずれを対象に述べられたものかあいまいなうえ、論証の範疇に属するものではないから、ここではあえて論じない。
 案ずるに、本文の内容と評との一致不一致は、その評が自評と否との問題と直接関わるまい。『老残遊記』第8回末の評の現況についても、(仮に第8回の本文に改竄があったなら)改竄した本文に合わせ、改竄者自身がそれに合わせた評を巻末に書き込んだ、そのおり空白が少なかったため、字を小さくして無理やり詰め込んだ、しかく考えて矛盾はないからである。『水滸伝』の金聖嘆評が、自身の改竄した本文をほめそやしているのは有名な事実である。筆者には、樽本氏の説くようにしか考えようがないとはとうてい思えないのである。
 ひるがえって、樽本氏が多方面から論証を試みられる『老残遊記』評の自評説だが、筆者としては論証の要はないように思う(論証はむしろ自評でないとする立場の論者に求められるべきである)。劉鉄雲自身がそれを自評といっている事実はないようだが、劉大紳の「関於老残遊記」に、樽本氏がなぜか言及されぬ以下のごとき記述があるからである。

 又原稿前十四巻之后,皆有評語,亦先君自写,非他人后加。今坊印本多去之,実大誤也。

 筆者にはこれを疑う根拠がない。したがって、以下では『老残遊記』の評は劉鉄雲の自評であるとの立場をとることにしたい。ところで、劉大紳の次男であり、劉鉄雲の孫にあたる劉厚沢が、先に引いた注釈の後段で次のようにいっている(ここでは原文を引く)。

而且第八回自作評語中,対描写『遇虎』一節云:『施耐庵説虎,不及百錬生説虎,施耐庵説的是凡虎,百錬生説的是神虎。』如果経人刪改,先祖不同意,就不至于作出這様的評語。

 先に概要を紹介した樽本説は、この点を根拠のひとつとして「劉厚沢の推測は、正しい」とする。だが、劉厚沢は、商務印書館の狐を虎とする「改」が、第8回の回目のみならず、本文にも及んだかのごとき書き方をしていた(わざわざ原文を引用したのはこのためである)。これは劉大紳のいっていないことである。劉大紳は「原回目為『桃花山月下遇狐』,商務改狐為虎,且刪改文字(詳后)」といったにすぎない。後述(詳后)とした「刪改文字」についても、これに対応する部分が本文の74ページ以下に見えており、それが第10回・第11回を指すものであることは明らかである。もっとも、劉厚沢のこの注釈も、よく読めば、第8回の本文の「改」については言及していないことがわかろう。だが、第8回の評語を持ち出し、『繍像小説』が『老残遊記』の原稿の第10回五百字余りを修改し、第11回の全文を刪去したことと一概に論じた罪は軽くあるまい。
 劉大紳によれば、劉鉄雲の『老残遊記』の原稿に対する態度は「不独従未着意経営,亦従未復看修改。直待《繍像小説》刊出后,始復見之」であったという。「未復看修改」はいささかわかりにくいが、書きっぱなしのうえ、ゲラの校正もしなかったということであろう。著者が校正をしなければ、誰かが替わって校正したはずである。書きっぱなしで著者がその後一度も目を通していない原稿とあらば、校正のおり疑義が生じ、担当者には判断のつかぬ場合もあったに相違ない。その場合においても、我関せずの態度をつらぬく著者に聞き糾せぬとあらば、校正担当者において適宜判断を下さざるをえなかったに相違ない。だから、第8回の回目が「遇狐」となっているのを見た校正担当者が、本文の内容に照らし、同音の虎の誤記とみて改めた、といったケースは十分想定可能なのである。
 既述のごとく、劉大紳の第8回における商務印書館の「改」に関する言及は回目のそれにとどまり、本文には及んでいなかった。つまり、本文の全部または一部の狐まで虎に書き替えられたといっているわけではないのである。だから『老残遊記』の評(もし劉大紳の記述が疑わしい、あるいは一応疑ってかかるべきだと考えるなら、まず劉大紳の記述を紹介し、その後にそれに対する疑問を表明し、然るのちにそれが誰の手になるものかを論じなければなるまい)と本文は、一致して当然なのである。内容と一致するから自評であるとか、自評と一致するから回目ももともと虎であった、狐であったはずはないといった議論はさして意味のあるものではないのである。



 筆者が拙文で論じたかったことは以上でほぼ尽きているのだが、いま少し蛇足を付け加えるのをお許しいただきたい。それは『老残遊記』第8回の回目がそもそも「遇狐」であって、なおかつそれに間違いなかった場合、言い換えるなら、劉鉄雲の原意が「遇狐」にあり、「遇虎」にはなかった場合である(予めお断りしておくが、以下は今までの議論を前提とするが、一部については異なる認識に立つことになる)。以下では、この仮説が成り立つか否かにつき、いささか考察することにしたい(以下では便宜により、回目の「遇虎」を「遇hu」、本文と自評に見える「神虎」を「神hu」と表記することにしたい)。
 第8回の「桃花山月下遇hu」部分は以下のごとく構成されている。
 @桃花山の夜の雪の山道での、豺虎豹を恐れる申子平に応えた車夫の言葉。
  この山にや虎は多かありません。神huが支配していますんで、人を傷つけたためしはありやせん。狼はいくらか多いかな。(でも)そいつが出てきたって、われわれには棍棒がありやす。恐いことはありやせん。
 A虎叫に続き虎が姿を現わし、一行に襲いかかる。
  三、四十歩もゆかないうちに、遠くからウォーウォーという咆哮が聞こえた。車夫は「虎の咆哮だ」といい……「旦那さん、驢馬に乗ってちゃいけません。下りてくだせい。虎の咆哮は西からますます近くなっておりやす。この道に来そうな塩梅ですから隠れるとしゃしょう。目の前に来てからじゃあ手遅れですから」……ちょうどその時、月明かりに照らされた西の峰の上に何かが現われ、頂上で咆哮するや、ひらっと身を翻したかと思うと、もう西の渓にいて、またもや咆哮した。かの虎は……又も咆哮するや、身を屈めてこちらに跳びかかってきた。
 Bちょうどその時、なにごとかが起こり、虎は姿を消す。
  その時、山中に風は吹いていなかったのに、いきなり梢がヒューヒューと鳴り、散り残った枯葉がハラハラと落ちかかり、人々の顔は冷気でバリバリにこわばってしまった。一同は肝をつぶしたのなんの。
 C樹上にいた車夫による、この間の経緯の説き明かし。
  一行はしばらくまったが、なぜか虎の気配はなくなっていた。やはり樹上の車夫の方が肝っ玉がでかかったのだろう、下りてきて皆にいった。「出てこいよ。虎はいっちまった」……子平が「虎はどうしていってしまったんだ。怪我はないか」と聞くと、かの樹上の車夫が、「やつが渓の西からこっちに来るのを見たんだが、まるで鳥かなにかのように一跳び。アッという間にこっちに来ちまった。やつが着地したのはこの樹の梢より七、八丈は高いところで、一跳ねしたかと思ったらもう東の峰の上にいて、ウオーと咆哮して東にいっちまった」といった。
 こう見てくると、ここで出現した虎は、普通の虎(以下では凡虎とよぶ)ではなく、自評で「百錬生説的是神hu」と自讃する神huだったにことになる。せっかく@でこの山(桃花山)には凡虎とそのうえに立つ神huがいるといっているのだから、はなから神huを登場させず、まず一行を襲わんとする凡虎を登場させ、それについての迫真の描写をし、あわやこれまでという場面で神huを登場させた方がよかった、と筆者などは思うのだが、自評に照らせば、劉鉄雲はそうした構想を持たなかったようだ。筆者のこの構想が万人を納得させる底のものだったなら、劉大紳の「従未着意経営」の指摘もうべなるかなといわざるをえまい。
 だが、買い被りかも知れないのだが、筆者には劉鉄雲の筆力がその程度だったとは思えないのである。そこで、以下においては、回目と同様、本文とこの回の評も「改」をへていたとの想定に立ち、あくまで理論的な考察をおこなってみたい。
 この場合、元来の劉鉄雲の原稿では、一同は凡虎を支配する、人には決して姿を見せぬ神huにあわやというところを救われ、凡虎はBで暗示される神hu出現の啓示に恐れをなし、姿を消すことになっていたはずである。ひるがえって、回目のhuをうっかり狐と書いてしまった劉鉄雲のミスを、校正者が同音の虎の誤記とみて正した行為が劉鉄雲本来の意向にそったものであったなら、「改」でなく「校」または「正」の文字を使ってしかるべきだったし、そもそもそうした(不名誉な)経緯に言及しないという選択肢もあったはずである。ならば劉大紳はなにゆえそれに言及し、なおかつ「改」の文字を使ったのか。「改」が本文(ならびに自評)にも及んでいたからこそ、劉大紳は「改」の文字を使ったに相違ない。仮にそうだったとすると、本文の神huは神虎でも神狐でもよかったことになる。そこで問題となるのが劉鉄雲本来の意向なのであるが、筆者はそれを神狐と考えたい。だからこそ劉鉄雲は回目を「遇狐」としたのである。しかし、劉鉄雲に校正をまかされた者は、本文に神狐の文字はでていても、一向にそれらしい姿を現わさないから、これについても神虎の誤記に相違ないと考え、回目の「遇虎」と合わせて虎にかえた。しかも、そのままでは劉鉄雲が臍をまげ、原稿の送付を中止するかも知れぬと考え、評を書き加え、劉鉄雲の虎の描写を神虎のそれと誉めあげたのではなかったか。
 しかく考える場合、まず第一に、劉大紳が『老残遊記』の評を劉鉄雲の自評としている点が問題となってくる。筆者はこの点につき、現存する『老残遊記』の評は、大部分自評だが、なかにはそうでないものもあると考えている。なぜなら、劉大紳の「原稿前十四巻之后,皆有評語,亦先君自写,非他人后加」の言葉にもかかわらず、『老残遊記』のすべての回に評が付されていたわけではなく、評のない回もあったからである(たとえば第12回には、いずれのテキストにも評は付されていない)。それゆえ、評のない回などに別人、たとえば商務印書館(責任者は欧陽鉅源だった可能性が高い)が、勝手に評を書き込むことがなかったとはいえないのである。
 樽本氏の「劉鉄雲と「老残遊記」」(『清末小説閑談』所収、法律文化社、1983.9。初出は『大阪経大論集』97、1974.1)は、新小説社本などの第10回に見える「元来はないはずの評」の存在に言及する。「「老残遊記」の版本と修改について」(『清末小説閑談』所収。初出は『大阪経大論集』109・110、1976.3)に引くものによれば、『繍像小説』本第10回に見える、「従第八回借宿起」に始まる評は、これと異なる。にもかかわらず、樽本氏は上記二論文においてその存在に言及しない。この評に触れた論文に「「老残遊記」の評について」がある。筆者にはそこで展開される論理がいまいちのみこめないのだが、樽本氏がこれを「劉鉄雲の考えとは正反対の内容にされ」たものとみていることは明らかである。樽本氏の「天津で見つけた『老残遊記』初集」(『清末小説論集』所収。初出は『中国文芸研究会会報』48、1984.9)によれば、『天津日日新聞』本の第10回に評は付されてい ないから、内容に言及するまでもなく、氏の論理の帰結するところにより、『繍像小説』本第10回の評は自評ではないことになる。しからば『繍像小説』本の他の回の評にも劉鉄雲以外の人物の手が加わっている可能性は排除できまい。のみならず、問題の第8回の評には、それが劉鉄雲の自評でないことを疑わせる事実が存在する。この回の評にのみ、『老残遊記』が『繍像小説』に連載された時の劉鉄雲の筆名百錬生が二度に亙ってもちいられ、しかも百錬生に対する最大級の賛辞が呈されている点がそれである。第2回の評で、劉鉄雲は「作者云」として登場していた。だが、第8回の評にその文字は見えず、百錬生となっていた。
 よって筆者は、第8回の(少なくとも前半の)評は、回目の「遇狐」と本文の神狐を、それぞれ「遇虎」と神虎に改めた者が、著者劉鉄雲の叱責をかわぬよう、わざわざ付したもの、このように考えたいのである(劉鉄雲の原稿を持ち込んだ連夢青が商務印書館と交わした訂約、「不得刪改原文一字」は、原文の刪改は禁止しても、新たな評の付加まで禁止する底ものではなかった)。
 第二に問題となるのは、回目のみならず本文にまで手を入れられた劉鉄雲が、再度『天津日日新聞』に第1回から連載しなおした際、なぜそれをもとの姿にもどさなかったのかという点である。筆者も、これについて満足のゆく回答を持ち合わせているわけではなく、劉鉄雲の気持ちを忖度してみるしかないのだが、現在のところは以下のように考えている。
 劉鉄雲は『老残遊記』の『繍像小説』連載時に書き変えられた回目と本文、ならびに書き加えられた評をなんらかの理由でそのままにしてもよいと考えた。第8回の原稿からの変更は、回目・本文とも一字ずつだったし、それを行なった人物が、自身その生活を援くべく『老残遊記』の原稿を書いて贈った連夢青(筆名は憂患余生)だったからであると(劉鉄雲の『老残遊記』と憂患余生の『鄰女語』は、同時に『繍像小説』に連載されていたから、連夢青が両者の校正を担当したと考えてもさほど不自然ではあるまい)。おそらく、商務印書館による『老残遊記』第10回の改変と第11回の削除に対し、自身の『鄰女語』の連載を中止してまで抗議した連夢青が善意でした「校正」までもとにもどしては、連夢青にすまぬと劉鉄雲は考えたのではなかったか(ただし、このあたりの経緯については今一度検討しなおす余地もあろう)。
 かくて『天津日日新聞』本にあっても、回目と本文の二箇所の狐は虎のままとなったのである。劉大紳は以上の事実を「改」の一字で仄めかしたかったのであろう。



 上記で述べた想定が事実だった可能性はかなりの確率で存在すると筆者は考えている。ただし、それには劉大紳が触れていない、『老残遊記』第8回本文の「改」(たった一字ではあるが)を前提とせねばならぬうえ、自評とされる評の一部についてもそうではないとしなければならない。『繍像小説』本の評のすべてが自評であるとする議論はすでに崩壊していようが、本文の改変を前提とする議論はいわゆる論証の範囲をこえよう。したがって、この部分については遺憾ながら仮説として記すにとどめたい。
 最後に論証の範囲における筆者の結論を改めて記しておこう。
 『老残遊記』第8回の本文ならびに評は商務印書館によって「改」されてはいまい(上述のごとく、連夢青による回目と本文に亙る善意の「校正」と、これにともなう評の付加の可能性はあると筆者は考えているのだが)。回目については、たまたまうっかり劉鉄雲が「遇狐」と書いてしまっていたものを、代理校正者が本文や評に照らし「遇虎」と改めることはあったかも知れない(「遇狐」であったはずがないなどとはいえない、ということ)。また、以上の点は第10回の修改や第11回の全文刪去とは切り離して論ぜられるべきである、ということになろう。
 ただし、上述の想定が成り立つなら、そうではなくなり、むしろ連関して考えるべきだということになる。たとえば、第8回の「改」が黙認されたことに意を強くした商務印書館の代理校正者(この場合は欧陽鉅源ということになろう)が、第10回において本格的な「改」を試み、あわせて第11回全文刪去という挙に出た。だが、意外にも劉鉄雲(または連夢青)が臍を曲げ、連載中止に追い込まれてしまった。かくて代理校正者は仕返しの意味も込め、いわゆる盗作事件をおこしたとみることもできよう。もちろん第8回の「改」と第10回の修改や第11回の全文刪去は別人、すなわち連夢青と欧陽鉅源により、まったく異なる意図によってなされた考えることも可能であり、こちらの方がより穏当と筆者は考えている。B

(おおつか ひでたか)