『官場現形記』の版本をめぐって



樽 本 照 雄


1 はじめに
 南亭亭長著「官場現形記」は、あまりにも有名な作品である。だが、細部にわたってすべてが解明されているというわけでもない。
 たとえば、『世界繁華報』に連載されていた時期が、そもそも不明なのだ。信じられないかもしれないが、これが事実だ。いつ連載がはじまり、いつ完結したのか。現在に至るまで、その正確な年月日が確定されていない。
 簡単なことだ、掲載紙『世界繁華報』を見ればわかる、と言われるだろう。だが、中国において『世界繁華報』の原物の全揃いが存在しないことは、『天津日日新聞』の全揃いが存在しないことと同じなのである。原物がないのだから、確認しようにもできない。だからこそ、憶測があたかも事実のように伝えられてきた。
 胡適、魯迅、阿英らが、連載時期は1901-1906年だと書いた。根拠がないにもかかわらず、これが中国の学界では定説になっていた。長らく、そう信じられていたのだ。反論したのが、魏紹昌である。
 魏紹昌は「《官場現形記》的写作与刊行問題」と題してこの問題に取り組んだ*1。現存するわずかな『世界繁華報』をてがかりとした。「官場現形記」の連載情況を部分的に確認し、かなり確実性の高い推測を加えて、1903年四月にはじまり1905年六月に終了したと結論する(四月六月は旧暦)。資料がないのだから、いまのところ、これ以上の解答は出しようがない。
 私が、「「官場現形記」の初期版本」*2を書いた目的は、世界繁華報館が出版した『官場現形記』と、欧陽鉅源がそれに注した増注本という大きな二系統があることを明らかにするためだった。
 魏紹昌は、多数発行されている「官場現形記」の版本について、その系統を問題にしなかった。だから、私の論文は、一定の意味を持っていたといえる。
 中国において、このふたつの系統に注目する研究者は、ほとんどいない。増注本は、ややもすれば添え物風に扱われる傾向がある。そこには、版本の系統についての無理解、無関心しか存在しない。
 世界繁華報館本の『官場現形記』は、柱に「上海世界繁華報館校刊」と印刷してある。原本というべき版本だ。小型ながら活版印刷だからか、整然かつ権威あるような印象を受ける。一方、増注絵図と称する版本は、石版印刷であり、縮小された手書きの文字は、一見いかにも頼りない。出版社も、粤東書局とか崇本堂とかあまり聞いたことがない。なにやらうさん臭いのである。研究者から軽く扱われる、言及されることが少ないのも理解できそうな気もする。
 私が、軽視されていた増注本になぜ注目したかといえば、世界繁華報館が出版した増注本の端本を日本の書店で発掘したからだ。ほかならぬ世界繁華報館が刊行している活版線装本だ。ゆえに、増注本は李伯元の認可、承諾、合意をえていたと考えられる。同じ出版社が、みずから海賊版を作るとも思えない。この場合は、海賊版ではなく、正規に出版された増注本というわけだ。
 ゆえに、世界繁華報館の活版増注本にもとづいて作成された石印の増注絵図本は、海賊版の問題は別にして、本文については、まことに由緒正しい出版物になるのである。
 現在でも、増注本に注目する研究者は、多くない。それよりも、世界繁華報館が発行した増注本の存在に言及する文献を、私は見たことがない。中国の複数の研究者に、直接、質問したことがある。しかし、その返答は、資料がない、というものだった。
 王学鈞は、博捜した資料を駆使して「李伯元年譜」*3を書いた。有用な資料であれば、中国国内に限らず、日本の印刷物からも引用している。おどろくべき資料の多さで研究者を圧倒し、空前の年譜だということができる。私が高く評価する理由である。
 『官場現形記』についても、多数の版本を調査したと私は推測する。しかし、世界繁華報館が出した増注本は、目にしていないようなのだ(「李伯元年譜」211頁)。
 私が日本で入手できた世界繁華報館発行の増注本である。中国にないわけがない。考えるに、中国の図書館で所蔵されていたとしても、それは、単なる世界繁華報館本として扱われているのではないか。増注本と区別をしていない可能性がある。こればかりは、実際に調査してみないことには、なんとも言えない。
 「官場現形記」の版本について、以前とは、私の考えに変化が生じている。特に「配本」に関しての見方が決定的に異なってしまっている。大塚秀高氏の「『官場現形記』の海賊版をめぐって」(『清末小説』第23号2000.12.1)が発表されたのがいい機会だ。説明をしながら、「官場現形記」の版本について再度述べることにする。
 順序として、まず、「官場現形記」の連載状況から、単行本の発行、版本の系列などについてひとまとめに説明する。出版の事実を固めておけば、版本に関する裁判問題、李伯元の死後に発生したゴタゴタ、いわゆる談合などを考える際にも、公平で合理的な結論に到達しやすくなると思うからだ。

2 「官場現形記」の発表状況
 大筋をのべれば、「官場現形記」は、最初、日刊紙『世界繁華報』に連載された。新聞連載をしながら、12回でまとまると、文章に手を入れたあとに単行本で出版する。新聞連載と単行本化を並行して同時に実行していた。さらに、同時に海賊版が出てもいる。
 一方で欧陽鉅源による増注本が作成される。これも世界繁華報館より発行された。
 この世界繁華報館版増注本をもとにして絵図を加えた石印本が発行される。絵図をつけたのは、別の出版社の工夫だ。
 それぞれの関係を明らかにするためにも、発表時間に従って説明する必要がある。

2-1 『世界繁華報』連載
 前述のように『世界繁華報』そのものの全部は、確認できない。
 私が、上海図書館所蔵のマイクロフィルムを調査し、「官場現形記」の掲載を以下のように確かめた。

光緒二十九(1903)年七月二十日 11回七
光緒三十(1904)年正月初八日 23回五/四月初五日 29巻八/四月初八−十一日 29巻九−十四/十一月初十日 44巻三
光緒三十一(1905)年二月初三日 49巻十七

 「11回七」というのは、「官場現形記」第11回七を意味する(七は丁数。本稿では、巻ではなく回を使用する)。魏紹昌の計算によると、1回の連載は平均13日を要するという。それから推測すると、連載開始は、1903年四月となり、1905年六月に終了する。

2-2 単行本の発行
 新聞連載が12回でまとまると、それを推敲したうえで活版線装本にして発行した。初編、続編、三−五編の合計60回である。注意をしなければならないのは、連載を完了したあと5編全部をまとめて単行本化したわけではないことだ。12回分がまとまれば、それを1編とする。これをくりかえす。新聞連載を継続しながら、一方で単行本を発行する。
 今でいう奥附は、世界繁華報館版『官場現形記』にはつけられていない。発行年月日も記載があったりなかったり、で一定していない。『官場現形記』の場合、初編には、扉に年月日が明記してあっても、続編以後は、その表示がないのがほとんどだ。現在のように、分冊のつど年月日を印刷するということではない。
 だから、年月日を印刷した初編に、あとから発行した続編をくっつけて発売しても、続編には発行年月日はないのだから、セット全体がいつごろの刊行物であるかは不明となる。少なくとも、初編以後のもの、という漠然とした表現にならざるをえない。
 私が、「増田渉文庫に、光緒二九年(一九○三)八月一六日発行の二四巻一二冊が所蔵されている。初編にあとから続編をくっつけたわけで、これがはじめの形態であろう。また、同年月日の日付をもつ六○巻二○分冊というのもある(東洋文庫)」と書いたことに対して、大塚氏は、「矛盾する記述もあり、不明な点がないわけではない」(97頁)という。増田渉文庫所蔵本は、初編に続編だけを組み合わせたもの。東洋文庫所蔵本は、同じ初編に残りの続編から五編までを組み合わせたものである。「これがはじめの形態であ」るのだから、「矛盾する記述」ではありえない。
 各編の発行(推定)年月日を示す。
○初編 第1-12回 光緒二十九年八月十六日
 東洋文庫所蔵本には、「光緒癸卯八月既望」と扉にある。八月十六日という日付は、この扉の表記による。ただし、茂苑惜秋生(欧陽鉅源)の序には、「光緒癸卯中秋後五日」とあって八月二十日になる。扉の日付よりも序のほうが遅れている。
○続編 第13-24回 光緒三十年二月(推定)
 王学鈞は、魏紹昌の資料から引用する。それによると、五月初四日の『世界繁華報』に「《官場現形記》初編於癸卯九月出版,二編次年二月出版」(資料119頁、李伯元年譜196頁)とあるという。だから、二月だ。
 この広告は、初編については不正確ではないか。初編の原本には、たしかに「光緒癸卯八月既望」とあるのだから、「九月」ではない。
 私が見た四月初五日付『世界繁華報』の広告には、「南亭新著官場現形記初続両編」とある。四月の広告だから、続編は四月以前に発行されていればいいわけで、二月でかまわない。正月初八日には、「官場現形記」の第23回の途中までが『世界繁華報』に掲載されている。二月に24回までをまとめて続編にすることは、時間的にみても間に合う。
○三編 第25-36回 光緒三十年七月(推定)
 李伯元の劉聚卿あての六月の手紙に、『官場現形記』三編は印刷中で、七月中旬には出版されるとある(『資料』111頁。「李伯元年譜」198頁)
 十一月初十日付『世界繁華報』の広告に、官場現形記初二三編を出したとある。広告より前の七月に出ているから矛盾しない。
○四編 第37-48回 光緒三十一年二月(推定)
 二月初三日の『世界繁華報』の「特別告白」に、『官場現形記』四編は、修正の後に出版する、とあるらしい(「李伯元年譜」207頁)。
 三月初二日付『世界繁華報』の広告に「官場現形記四編出版」と見える。二月発行であるので矛盾しない。
○五編 第49-60回 光緒三十二年正月(推定)
 世界繁華報館発行の『官場現形記』全60回に、扉に「光緒丙午正月五版」と印刷するものがある。
 前述したように、初編にのみ発行年月が印刷されている。だから、「光緒丙午正月五版」も初編の発行年月だ(『資料』118頁。「李伯元年譜」209頁)。
 だが、初編のもともとの「光緒癸卯八月既望」ではないのが気になる。なぜ、わざわざ「光緒丙午正月五版」と表記したのか。そちらのほうが不思議だろう。これこそ手掛かりだ。
 「五版」の表示に目が引かれる。初編が一版とすると、続編をくっつけて二版となる。このように1編ごとに数えていけば、五編を印刷したときは五版になるではないか。
 『世界繁華報』での連載が終了したのが、光緒三十一年六月だと予測される。新聞連載が終了して、翌年光緒三十二年正月に単行本が刊行されるのは、矛盾しない。
 正月に全60回が発行されたという確率は、かなり高いように思う。

3 増注本2系統
 欧陽鉅源が注を書いた増注本は1種類だが、印刷物は2系統がある。
 ひとつは、世界繁華報館が発行した活版線装本。もうひとつは、世界繁華報館増注本を元本とし、それに絵図を付加した石印線装本である。こちらの出版社は、粤東書局と崇本堂のふたつが存在している。

3-1 世界繁華報館増注本
 刊年不記。活版線装本。37-42回、46-60回、7冊。絵図は、ない。
 すでに述べたように、世界繁華報館が発行しているからこそ重要な意味を持っている。
 後述する粤東書局本が光緒甲辰(三十年)冬月(十一月)発行だから、36回より前の部分は、それ以前に出版されていたと考えられる。
 粤東書局本は、この世界繁華報館増注本にもとづいて作成された。
 私の予測では、「官場現形記」の単行本化とほぼ並行して、この世界繁華報館増注本は作成刊行されていた。
 手元にあるのは、一部分だ。
 現在、私がいうことができるのは、以上につきる。

3-2 「配本」の謎
 世界繁華報館増注本と区別するため、石印本の増注本には絵図がついているから増注絵図本とよぶことにする。
 増注絵図本は、既述のとおり基本的に粤東書局と崇本堂の二出版社より発行されている。出版社名を記さない版本も多い。出版社名がなくても、このふたつの出版社の印刷物である。
 この2系統の関係を考えるまえに、「配本」の問題がある。
 私が、1980年代に『官場現形記』の版本を調査したとき、太田辰夫氏の助言が大きなヒントとなったことを今でも思いだす。
 調査した石印本のいくつかが、粤東書局本と崇本堂本をまぜあわせたものであることがわかった。それについて、太田氏から「複数の版本を配合したものを配本という」とハガキによるご教示をいただいた。活版洋装本しか触れていない頃のことで、そういうものがあるのか、と私は線装本の奥深さに感心したのだった。だから、論文を『清末小説閑談』に収録したとき、わざわざそのことを論文前書きにつけくわえている(240頁)。それほど印象深かった。
 粤東書局が出版した増注絵図本の一部と、崇本堂が別に刊行した増注絵図本の一部を配合してセットにしている。私は、長くそう信じて疑わなかった。
 だが、その「配本」状態を見るたびに、どこか奇妙だと思うようになった。
 「配本」とは「欠けた冊を別に伝来した冊で補った本」(長澤規矩也『図書学辞典』三省堂1979.1.20)という説明がある。実際には、いくつかの例が考えられる。
 『官場現形記』の場合、たとえば初編の第5-8回の1冊が欠けていれば、その1冊を同じ出版社発行の同じ版本、あるいは刷りの違うものから補うのが通常だろう。ちょっと見ただけでは、それが「配本」であるとは見分けがつかない。
 もうひとつ考えられるのは、同じく初編の第5-8回の1冊が欠けているとすれば、その1冊を別の出版社の別の版本から抜き出して「配本」にする。この場合、大塚氏がいうように「配本とするには外見のみならず版形も同一でなければならない」(100頁)。同じ線装本で同じ大きさであることが必要だ。さらには、欠けた部分の回数も同じである必要もある。活版洋装本で補うことはできないだろう。その時、別の出版社の似たような冊で補ったとして、それも「配本」というのだろうか。大きく見れば、それも可能か。
 粤東書局本と崇本堂本をまぜあわせたものは、まさに同じ石印線装本で同じ大きさなのである。1冊や2冊ならまだ理解できる。だが、前半と後半に大きく分かれる、という形態であっても「配本」ということは可能か。
 見ればみるほど、奇妙なのだ。どこが奇妙なのか。
 ふたつの出版社が、印刷所も違えば、印刷時期も異なってそれぞれに発行した本にしては、両者の状態が酷似している。
 出版社には、個性というものがある。個性の違う編集者が出版を手掛けるのだから、刊行された書籍は、装丁にしても組版にしても独特の色合いが自然とにじみ出てくるものなのだ。だからこそ書籍出版はおもしろい。
 だが、粤東書局と崇本堂の増注絵図本は、その違いが、ほとんど、ない。見分けがつかないほどだ。目を凝らせば、絵図のタッチの違い、部分の相異、本文の手書き文字の違いなどに気づくくらいだ。(大塚氏は、「ただし筆者の見解では両者の絵図は明白に異なるのだが」(102頁)とある。見解の相違である)
 だから、私は「粤東書局本と崇本堂本は、筆耕者が異なるためか、絵図の部分が微妙にちがっている。しかし、一見しただけでは区別がつか」ないと書いた(この部分について、大塚氏は、「絵図を描いた人物を筆耕者とはいうまい」(100頁)と指摘された。その通りだ。絵師と訂正する)。
 大塚氏は、上につづけて「樽本氏は絵図の微妙な相違のみをいい、実際には存する本文のそれに言及しないが、本文は絵図以上に酷似していた」(同上)という。私が、本文についての比較対照を行なっていないように考えている。私は、「「官場現形記」の真偽問題」において、両者を照らし合わせて異同があることを指摘している(235頁)。
 それはそれとして、両版本間には、本文の異同がいくつかあるが、これはあって当然なのだ。というよりも、本文には異同がなければならない(後述)。ただし、本文に一部の違いがあっても、また、字体の相違は見られても両者が似ているという印象を打ち壊すことはできない。
 増注本については、もうすこし比較検討する必要がある。結論は、それからでいい。検討すれば、おのずと「配本」の真相にたどりつくはずだ。

3-3 増注絵図本2種の関係
 別にかかげた「増注本一覧」は、私が日本で確認した版本にもとづいて作成した。
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●増注本系一覧(原本系は除く)
+ 粤東書局
- 崇本堂
// 目次あり
* 絵図「*初」は、絵図がまとめて配置されていることを表わす。「*37」は、その巻頭に絵図が配置されていることを表わす。
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333 444 444 455 555 555 556
//四789/012/ /678//五901/234/567/890
G0381 官場現形記
 南亭新著 世界繁華報館 /刊年不記
 巻37-42,46-60 7冊 活版線装本(13cm×9.2cm)
 ★樽本所蔵。書影を『清末小説』第21号の40-42頁に掲載
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111 1111 1112 222 2222 2333 3333 3334 4444 4444
//*初123/45678/9012/続3456/7890/1234/三5678/9012/3456//*四7890/1234/5678
G0382 官場現形記 (増注絵図)
 粤東書局 光緒甲辰冬月(1904)
 4編48巻12冊 石印線装本
 ★拓殖大学佐藤文庫所蔵(13.4cm×8.0cm)
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111 1111 1112 2222 2222 2333 3333 3334 4444 4444 4555 5555 5556
//*初1234/5678/9012/*続3456/7890/1234/*三5678/9012/3456//四7890/1234/5678//五9012/3456/7890
G0383 官場現形記 (増補絵図)
 扉 武進李伯元著 欧陽鉅元増註 崇本堂 /宣統1(1909)二月訂正初版
 5編60巻15冊 石印線装本 「賞格」あり
 巻1-28(崇本堂本)、巻37-60(粤東書局本)
 ★東京大学所蔵(大塚16.3cm×9.6cm)
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111 1111 1112 2222 2222 2333 3333 33 3444 444 444 555 555 555 556
//*初1234/5678/9012/*続3456/7890/1234/*三5678/9012/3456//*四78/9012/345/678//五901/234/567/890
 官場現形記 (増注絵図)
 5編60巻17冊 石印線装本 発行所、刊年不記
 巻1-28(崇本堂本13.4cm×7.8cm)、巻37-60(粤東書局本13.5cm×8.0cm)
 ★東京大学東洋文化研究所仁井田文庫所蔵(東京外国語大学諸岡文庫とほぼ同じ)
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1111 1112 2222 2222 33 444 555 555 556
//*初1234/ / /*続3456/7890/1234/*三5678/ / //*四78/ / /678/(五) /234/567/890
G0384 官場現形記 (増注絵図)
 5編60巻17冊 石印線装本 発行所、刊年不記
 巻1-28(崇本堂本13.5cm×7.9cm)、巻37-60(粤東書局本13.5cm×8.0cm)
 ★東京外国語大学諸岡文庫所蔵
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111 11 1111 122 222 222 223 333 333 3334 4444 4444 4555 5555 5556
//*初1234/5678/9012/*続34/5678/901/234/*三567/890/123/456//四7890/1234/5678//五9012/3456/7890
G0385 官場現形記 (増注絵図)
 扉 武進李伯元著 欧陽鉅元増註 崇本堂 /刊年不記
 5編60巻17冊 石印線装本
 巻1-36(崇本堂本13.9cm×8.3cm)、巻37-60(粤東書局本13.8cm×8.3cm)
 ★樽本所蔵
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111 1111 1112 2222 2222 2333 3333
//*初1234/5678/9012/*続3456/7890/1234/*三5678/9012/3456
G0387 官場現形記 (滬游襍記)
 発行所、刊年不記
 3編36巻9冊 石印線装本
 ★巻36まで。山口大学所蔵。崇本堂本と同じ(13.5cm×7.9cm)
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6666 6666 6777 7777
//六*1234/*5678/*9012/*3456
G0389 官場現形記 (増注絵図)
 (粤東書局)
 6編巻61-76 4冊 石印線装本
 ★樽本所蔵、東大東洋文化研究所仁井田文庫(青色表紙 13.7-9cm×8.3-4cm)
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G0390 官場現形記 (最新増注絵図)
 7編巻77-92 4冊 石印 庚戊春仲月湖漁隠題。(大塚秀高)
 ★未見

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 絵図の有無、その位置、冊数、出版社、所蔵、版の大きさなどなど、できるだけ詳細に記録しておいた。
 大きさでいえば、増注絵図本は、ミリ単位の違いはあるにしても、ほとんど同じ大きさであるといってもいい。だからこそ「配本」にすることができた。ただし、例外が1種類ある。崇本堂宣統元年二月訂正初版(東京大学所蔵)だ(後述)。
 記号+は、粤東書局本を表わし、記号−は崇本堂本を示す。
 記号+−を見れば、その分布がきれいに分かれていることが理解できる。
 粤東書局が光緒甲辰(1904)冬月に発行した版本(拓殖大学所蔵)のみ、初編から四編まで、全部が粤東書局本である。
 妙な書き方になってしまった。ひとつの出版社が、全部をまとめて発行するのが、当然であり普通の状態だと誰しもが考える。ゆえに、粤東書局が増注絵図本を出版して、全部が粤東書局本である、というのは当たり前すぎてかえって不思議な説明になる。
 だが、増注絵図本についてのみ、常識が通じないのだ。全部まるまる粤東書局の増注絵図本は、私の見た限りにおいて、この拓殖大学所蔵の1種類だけなのである(他に所蔵されている可能性を否定しない)。
 それでは、ほかの増注絵図本は、何なのか。
 説明するのも躊躇するくらい奇妙なのだが、残りのすべては、崇本堂本と粤東書局本の「配本」だ。
 くりかえすと、初編続編三編が、崇本堂が版下をあらたに作成し石版印刷で出版するもの。ここまでは理解してもらえるだろう。次が問題だが、四編五編が粤東書局本だ。この組み合わせのみがあり、拓殖大学所蔵本以外に例外はない。初編から五編まで、全冊が崇本堂の出版物ではあるのだが、そのなかに粤東書局本が混入しているのである。
 たとえ、出版社名が崇本堂と明記してあっても、四編五編は、実質のところ粤東書局本なのだ。
 不思議な状態であることが、理解いただけたであろうか。また、あとで説明する。
 ここで、大塚氏の記述(103頁)を見てみたい。
 「そもそもこれまでの筆者の調査によれば、石印本『官場現形記』の第四編ならびに第五編については、第三編までと異なり、版面の大小をのぞき、絵図を含めすべて同一の版下によるとおぼしく、異版は存在しない」→正しい判断だ。私と同じ見解である。
 「これを樽本氏はCの粤東書局本によるとみた。しからば崇本堂は自らの手では第一編から第三編までしか出版しなかったことになろう」→正しい。私の考えを大塚氏がまとめたのだから、当然だ。
 「しかし現存する石印本『官場現形記』の第一編から第三編まではCの粤東書局本以外同一の版下、言い換えればDの崇本堂本と同じ版下によっている」→初編から三編までは、ここに書かれているように、粤東書局本以外は、崇本堂本であることにかわりはない。
 「一方、崇本堂には宣統元年に活動していた証拠があるが、粤東書局のそれは光緒甲辰三十年に遡る」→崇本堂が宣統元年に活動していたのは、増注絵図本を出版していることからわかる。ここは、正しい。ただし、一方の粤東書局については、光緒甲辰三十年しかいわないのは、不十分である。なぜなら、1909年の出版物1点が『新編清末民初小説目録』に収録されているからだ。

  Q0065 七載繁華夢 蘇大闊 広州・粤東書局1909夏 [景深335]

 渡辺浩司氏のご教示によると「蘇大闊は作者ではなく、作中人物の綽名」という。[景深335]は、復旦大学図書館、復旦大学古籍整理研究所編『趙景深先生贈書目録(下冊)』(孔版1988.12。渡辺浩司氏に感謝)を指す。
 孫楷第の『中国通俗小説書目』(人民文学出版社1982)には、「七載繁華夢 宣統三年広東刊本。南海梁紀佩撰」(237頁)と記載がある。のちの宣統三(1911)年版からは、粤東書局の名前がはずれているらしい。
 粤東書局とは、名前からして広州の出版社だとわかる。また、それを裏付けているのが上の作品なのだ。1909年に出版をしているのだから、増注絵図本を出したあとも活動を続けていたことが理解できる。
 粤東書局が出版活動を終えたあと、崇本堂が出現したかのように大塚氏は考えているが、これは正しくない。崇本堂が増注絵図本の訂正初版を刊行したのが宣統元年二月だから、そのあとも、粤東書局は、引き続き出版活動を行なっている。
 「崇本堂の活動が粤東書局のそれ以後に及ぶ可能性が高いなら、石印本『官場現形記』第四編ならびに第五編の版下を作成したのは唯一崇本堂のみであって、粤東書局は第一編から第三編を出版したのちその活動を停止したとみることも出来なくはあるまい(たとえば『新笑史』が言及する訴訟事件によって)」→上の段階で、大塚氏の推測が正しくないことが判明している。また、各種版本を調査した結果、「第四編ならびに第五編の版下を作成したのは唯一崇本堂のみであって」は間違い。四編五編の版下を作成したのは唯一粤東書局のみである。ゆえに、そのあとにくる「粤東書局が第三編を出版したのちその活動を停止したとみること」はできない。
 「Cの第一編封面に見える「光緒甲辰冬月」「粤東書局石印」の文字にしても一括出版された第一編から第三編に関わるものであって、第四編に関わるものではなかろう」→正しい。刊行年月は、三編までに関してである。なぜならば、光緒三十年十一月といえば、『世界繁華報』に「官場現形記」44回を連載中であって、まだ48回までは掲載されていないからだ。粤東書局は、あとから自社の四編をくっつけたのである。
 「以上の推測の通りなら、これまで配本とみなされてきたテクストは配本ではなく、Cの粤東書局本こそが配本だったということになろう」→正しくない。粤東書局本の四編は、あとからそれをくっつけただけだ。そもそも、本文、絵図を見ても崇本堂本との「配本」ではありえない。
 どうやら、増注絵図本における「配本」の真相を明らかにする段階になったようだ。

3-4 「配本」の真相
 事実を確認することからはじめよう。
 私が見た限りにおいて、という限定になるのはご了承いただきたい。以下の四つにまとめる。
 (1)拓殖大学所蔵 粤東書局 光緒甲辰冬月 初編から四編まですべて粤東書局本。
 (2)東京大学所蔵 上海・崇本堂 宣統元年二月訂正初版(大型本) 初編から三編までは崇本堂本、四五編は粤東書局本を元本とする。
 (3)樽本照雄所蔵 崇本堂 刊年不記(小型本) 初編から三編まで崇本堂本、四五編は粤東書局本を元本とする。
 (4)仁井田文庫、諸岡文庫、山口大学各所蔵 発行所刊年ともに不記 初編から三編まで崇本堂本、四五編は粤東書局本を元本とする。山口大学本は、三編までのみ。
 拓殖大学所蔵の粤東書局本以外は、崇本堂本と粤東書局本のいわゆる「配本」である。
 おかしなことに、あとから出現したはずの崇本堂が、前にしゃしゃり出てきて初編から三編を刊行している。以前から活動している粤東書局の方が、うしろの四五編を印刷出版している(ように見える)。逆転しているのではないかと感じる人もいよう。たしかに逆転している。だが、これが事実なのだ。
 たびたびくりかえして申し訳ない。粤東書局本と崇本堂本を見て、その違いのなさに、驚く。ウリふたつとは、まさにこのことをいう。その奇妙さを説明するためには、くりかえす以外に方法がない。
 二つの出版社が、それぞれ独自に刊行したものだと思うから、なおさら区別のつかないありさまにとまどう。絵図はおろか、1丁の字数、行数ともに、まったく同じなのだ。おまけに文字を囲った花罫にいたるまで、同じなのである。つけくわえれば、紙質もまったく同一で、両者に区別をつけることはできない。別々に刊行して、こうまで類似するだろうか。
 ここまで材料をそろえれば、これが偶然の一致ではありえないことに容易に気づく。
 真相は、ひとつである。
 崇本堂本は、崇本堂が粤東書局本にもとづいて、そっくりそのまま模倣して作成したのだ。
 確かに「配本」だが、別々に刊行したものをたまたま配合したのではない。一方の形態に合わせた、正確にいえば、字数、行数、花罫にいたるまで忠実に模倣して作成したものだ。だから、絵図までも絵柄がそっくりそのままなのである。
 (2)の東京大学所蔵の上海・崇本堂本が「宣統元年二月訂正初版」とうたうのは、粤東書局本を、それも初編から三編までの本文を「訂正」して初版という意味だ。
 崇本堂は、粤東書局本の初編から三編の本文の誤りを訂正した。訂正箇所に紙でも貼って書きなおすという小細工はしなかった。ゆえに、粤東書局本と崇本堂本の初編から三編の本文に文字の異同が若干あるのは当然なのである。なにしろ「訂正」したのだから、異同がないほうがおかしい。もし、これがまったく同一文であれば、「訂正」の看板に偽りありということになろう。新しく版下を作成しなおした。筆耕が異なるから、字体は、同じということにはならない。しかし、字数、行数、花罫を粤東書局本とまったく同じになるように模倣した。ただ、理解できないのは、絵図だ。本文とは異なり、別に訂正する必要はないのだから、そのまま版下にすればいい。ところが、絵師を変えて同じく模写させた。
 四編と五編は、粤東書局がすでに刊行したものを版下として石版印刷すればよい。大塚氏が書くように「縮印本の作成には版下や「膠紙」があれば好都合だが、それらがなくとも、原本が一部あれば可能なのである」(100頁)。
 縮小率を同じにして、同時に印刷製本したから、用紙は同じ紙質になるはずだ。
 東京大学所蔵の宣統元年二月訂正初版上海・崇本堂本のみが、ほかと比較して大型である。
 このことから、現在は見つかっていない大型の粤東書局本が存在していることを予測させる*4。
 小型の崇本堂本、あるいは出版社名、刊年を記載しない版本は、すべて宣統元年二月訂正初版上海・崇本堂本を縮小印刷したものだと考える。
 以上が、『官場現形記』増注絵図本の「配本」の真相である。
 大塚氏は、該論文において、粤東書局と崇本堂の関係について二つの可能性を述べる。裁判がらみなのだが、ここで紹介しておく。
 いわく、粤東書局は裁判に負けて、賠償金とともに在庫の初編から三編を崇本堂に引き渡した。崇本堂は自身版下の作成にあたった四編、五編とあわせて販売した。これが、ひとつ。
 別の想定。粤東書局は、五編セットを一手販売していたが、なんらかの理由で版権と在庫を崇本堂に譲渡した。崇本堂は初編から三編を新しくしたセットを作り、修正本として出版した。崇本堂は、四編以下を新作しなかった。大塚氏は、「筆者としてはむしろこちらの想定の方に魅力を感ずる」(104頁)という。
 前者は、成立しない。崇本堂は、四編五編の版下を筆耕を変えて作り直していないからだ。元本は、粤東書局本である。
 後者は、「配本」の真相でのべた私の結論と一致する。
 大塚氏は、崇本堂は、四編以下を作成した、と四編以下を新作しなかった、とふたつの見方を並列する。可能性を述べるだけだから、著者の自由である。ただし、各版本の系統を無視し、それまでの記述と矛盾することを並列して、「筆者としてはむしろこちらの想定の方に魅力を感ずる」などというにいたっては、かえすがえすも残念だった。「魅力を感ずる」方に論を一本にしぼって論述されたほうが、よかった。立論がすっきりするうえに説得力が増していたはずだ。
 つぎに増注絵図本六編と七編について考えてみる。

3-5 増注絵図本六編と七編
 増注絵図本六編(七編は未見)には、出版社名、刊行年月の記載がない。
 私は、「絵柄などから推測するに、粤東書局の出版らしい。増注本は、李伯元の存命中から出ていて、これに欧陽鉅源が関係しているから、この続作は欧陽鉅源の作品である可能性が高い。欧陽鉅源と李伯元の関係は、極めて密接である。ほとんど共同執筆者といっていいのではないか。この「官場現形記」続作を偽作と呼ぶのは、ためらわれる」*5と書いたことがある。
 大塚氏は、「(樽本は)「絵柄などから推測するに、粤東書局の出版らしい」とされたが、『新編清末民初小説目録』ではその点に言及しない」(102頁)と非難する。わが目を疑うとはこのことだ。『新編清末民初小説目録』184頁左には「G0389/官場現形記(増注絵図)/(南亭 李伯元)/(粤東書局)/6編巻61-76 4冊 石印 偽作」と書いているからだ。
 増注絵図本六編が、粤東書局の出版になると考えるのは、私だけではない。
 孫楷第『中国通俗小説書目』*6には、「光緒甲辰(三十年)粤東書局石印本,有注,六編七十六回。末回結云,尚有続編」とある。
 孫楷第は、光緒甲辰刊行の粤東書局本に、六編が一緒になっているものを見たらしい。全部を粤東書局本だと断定している。
 六編、七編の作者は、欧陽鉅源だろうと私は今でも考えている。『新編清末民初小説目録』に「偽作」と注した。ここでいう「偽作」の意味は、李伯元の作品ではないという意味だ。
 大塚氏によると「第七編には「庚戊春仲月湖漁隠題」の文字があり、宣統二年二月に出版されたとみられる」(102頁)という。私は、一貫して粤東書局の出版だと見ている。光緒三十三(1907)年冬に死去した欧陽鉅源の著作が、約二年後の宣統二(1910)年にようやく出版されるのも奇妙だという意見もあろう。だが、欧陽鉅源は、『世界繁華報』に六七編を連載していたかもしれない。一年あれば、六編と七編は連載を終了することができる。
 六編と七編が粤東書局によって出版されたという可能性は、大いにある。『七載繁華夢』が広州・粤東書局より発行されたのが、1909年夏という。1910年まで存続していても不思議はない。
 六編、七編の出版状況について、資料がない現在では、これ以上述べてもしかたがない。いっそうの資料発掘を待たなければならないだろう。
 以上、「官場現形記」の版本の系統を押さえたうえで、裁判、談合問題に入ることにしよう。

4 「官場現形記」裁判
 「官場現形記」をめぐる事件は、2回発生している。
 1回目は、光緒三十一(1905)年ころに行なわれた裁判、もう1回は、光緒三十二(1906)年の李伯元の死後にもたれた談合だった。
 この裁判と談合についても、確かな資料は、ほとんど、存在しない。裁判については、笑い話のたぐいに引用されるだけだし、談合を証言するのは、李錫奇ひとりだけなのだ。

4-1 裁判
 『新小説』第2年第8号に掲載された「新笑史」のなかの「法廷での自供(堂上親供)」が材料だ。
 概略を示す。
 上海で出版された『官場現形記』が、ちかごろ他人によって海賊版が作られた。著者は裁判所に訴えた。『中外日報』の記事によると、該書は絵に書いたようにありありとしていると審問官が判定した。つまり法廷で官が自供したことになる。
 これだけのことだ。笑い話だから、たわいがない。
 多くの資料は、この「官場現形記」裁判を光緒三十一(1905)年八月のことだとする。その理由は、『新小説』第2年第8号の発行が同月だからだ。でたらめである。『新小説』の該号には、刊年は記載されていない。八月は、推定の年月だ。事実、該号に掲載されている知新室主人(周桂笙)訳述「知新室新訳叢」の弁言の日付は「乙巳仲冬」だ。すなわち光緒三十一年十一月になる。「官場現形記」裁判が八月に行なわれた保証は、ない。少なくとも同年十一月以前のことだということができるだけだ。
 『中外日報』の記事を調査しなければ話にならない。いま、それができないのだから、あとは推測にならざるをえない。
 まず気づくことは、この裁判の詳細が不明である。かろうじて『官場現形記』の海賊版を著者が訴えたとわかるだけだ。その海賊版には、絵図がついているかどうかも明らかではない。ということは、この時の海賊版の可能性は、原本系と増注絵図本系のふたつともにあるということだ。さらに、判決はどうなったのか。重要事項が、書かれていない。謎だらけの文章だといってもいい。笑い話だもの。
 海賊版といわれるのは、どの版本か。どの書店が発行したものか。
 著者とは、誰か。李伯元でいいか。
 裁判の結論は、いくつかが予測できよう。原告の勝利、原告の敗北、和解、門前払い。
 いくつもの予想が可能であるということは、確実なことを述べるのがむつかしいと同義である。
 まず、海賊版はどれか。原本系と増注絵図本系のふたつを対象として、いくつかの可能性について、私はすでに提出している。5種類を挙げるのは、変わらない。しかし、時間が経過すれば、考えが違ってくる箇所もでてくる。

  @G0381世界繁華報館増注本 発行年不記
  AG0388出版元不記本 光緒三十年(1904)四月再版
  BG0376日本知新社本 日本吉田太郎著 光緒三十年六月
  CG0382粤東書局増注絵図本 光緒三十年十一月
  DG0383崇本堂増注絵図本 宣統元(1909)年二月訂正初版

 @の世界繁華報館増注本は、原本とおなじ発行所だから海賊版ではありえない。この考えは、現在でも揺るがない。
 以前は、被告の可能性があるものとしてCの粤東書局本とDの崇本堂本を残した。ただし、そのどちらかを特定できず、結論は保留した。
 その理由は、崇本堂が宣統元年に訂正初版を刊行しているのならば、訂正していないものをそれ以前に出版していただろうと考えたからだ。そうならば、粤東書局本と崇本堂本が同時期に共存していたはずだ。そのどちらかを判断する材料がない以上、結論を保留せざるをえない。
 だが、今は違う。
 上に掲げたように、崇本堂本に限っていえば、宣統元(1909)年二月訂正初版以外に発行年月を明記したものを確認できていない。扉に崇本堂とうたった刊年不記の版本は、ある。だが、宣統元年以前に発行された保証はない。大塚氏が指摘するように崇本堂本の「賞格」に版権を譲られたとあるのだから、小型石印本は、宣統元年以後に縮小作成刊行されたと考えるほうが合理的だ。
 ということは、光緒三十一年の裁判当時には、Dの宣統元年崇本堂本は、存在していなかった。被告の対象からはずれる。
 残るは、ABCの3種類だ。
 Aは出版元不記本の活版線装本である。出版元が不明だから訴えようがない、と以前は考えた。
 しかし、不明だろうがなんだろうが、訴えて、しかも告訴が受理されたとして、販売禁止命令でも出れば、書店への圧力には少しはなるだろう。被告となった可能性は、まったくなくなったわけではない。
 Bは、活版洋装本の日本知新社本だ。12回1冊で、その奥附には、「光緒三十年五月印刷/光緒三十年六月発行/著者 日本吉田太郎/発行所 印刷所 日本知新社」と記載がある。笑ってしまうのは、大きく「不許翻刻」と印刷していることだ。海賊版を許さん、と海賊版がうたうのだから、自然と頬がゆるんでしまう。日本を強調しているが、「光緒」を使用して中国で出版されたことを示す。以前は、告訴のしようがない、と考えた。
 しかし、Aと同じ理由で、販売禁止令を期待するのであれば、被告となる可能性もあろう。大塚氏は、「さらに原本系に海賊版が存在した事実は確認されていない」(103頁)というが、Bの日本知新社本は、原本系の海賊版である。
 Cの粤東書局増注絵図本が、被告の有力候補となる。
 粤東書局は、広州の出版社だ。支店とか販売所が上海にあったかどうかもわからない。
 1905年の上海は、反美華工禁約運動で燃え上がっていた。各種業界でアメリカ製品の不買運動がくりひろげられている。書業界も運動に賛同しアメリカ製品ボイコットを呼びかける集会を開催した。
 光緒三十一年七月五日(1905.8.5)付『申報』には「書業簽允不売買美貨」と題して、文明小学堂での集会模様を報道する。文明書局の社長が開会を宣言し、呉〓人に演説を依頼している。「呉君謂此事宜堅持到底万不可稍懈初心致為環球各国所笑□日後愈加軽侮吾国」世界各国の物笑いにならぬよう徹底してやりぬけと演説したらしい。この集会に参加した書店(出版社を兼ねている)の名前が約80もあがっている。古香閣、文宜書局、広智書局、文明書局、商務印書館、美華書館、開明書店、申昌、点石斎恒記老局、点石恒記分局などなど。約80の書店は、少なくない数だ。しかし、この中には粤東書局の名前は見えない。私が言いたいのは、粤東書局は上海には店を構えていなかったのではないか、ということだ。(同時に崇本堂の名前も、ない。その活動は、ずっと遅れた宣統元年だから、ないのも当然だろう)
 というわけで、本体が広州に置かれていては、はたして被告になりうるだろうか。疑問が残らないではない。ただし、のちに増注絵図本六編七編を出版している関係からいえば、裁判の被告から、一転して協力者になる可能性が大である。
 予測できる判決についてふれておく。
 原告の勝利か。――被告を特定して、罰金と出版差止めを命じる。しかし、被告が、誰かわからないのだから、原告の勝利になりようがない。せいぜいが、販売禁止命令でも出てくれば、原告の勝利を意味するくらいだ。
 原告の敗北か。――被告が特定できないから、告訴は棄却されてしまう。海賊版は作成しほうだい、売り放題となる。訴える相手がはっきりしないのに、あえて告訴するのは不当である、と門前払いされたのと同じ結果となろう。しかし、海賊版を野放しにしておくとは考えにくい。
 和解か。――作成された海賊版は、そのまま販売を許可する。ただし、慰謝料と印刷数に応じた歩合を受け取る。版権は、依然として世界繁華報館が所有している。この点が重要だ。粤東書局にとっては、いわば依託制作販売となる。この条件ならば、遠く広州にある粤東書局でも、和解に応じることができるのではないか。絵図という付加価値をつけているから、売れるものなら歩合を取ったほうが、世界繁華報館にとっても都合がよい。和解が成立すれば、その後の増注絵図本の販売を一手に握ることもできる。その時点で、粤東書局は、裁判の被告という地位から、世界繁華報館にとっての協力者の地位に横滑りすることになる。協力者ならば、李伯元の死後をついだ欧陽鉅源の増注絵図本六編七編を発行しても不思議ではない。
 いくつかある判決の可能性のうち、私は、和解というのが、いちばんありそうな気がする。
 粤東書局が裁判の被告であり、判決は和解だと私が考える根拠は、李伯元死後に行なわれた談合(推定1906年)と関係している。
 あとで詳しく述べるが、談合の席上に出席していたのは、増注絵図本を作成販売していた書店である。当時、増注絵図本を作成販売していたのは、粤東書局しか存在していない。崇本堂は、影も形もない。ずっとあとの宣統元(1909)年に出現する。
 くりかえす。粤東書局は、増注絵図本を継続して作成販売していからこそ談合の席上に呼ばれていた。注意してほしいのは、その時点では、増注絵図本は海賊版ではありえない。裁判による和解で、すでに正式の発行元に変化している。正式の発行元だから、欧陽鉅源の六編、七編も出版することができる。また、談合の席上でも、再度、正式の発行元に認定された(後述)。だから、崇本堂に版権をゆずることができ、崇本堂の宣統元(1909)年二月訂正初版の増注絵図本が出版されるにいたるのだ。
 さて、つぎは談合問題について述べよう。

4-2 談合
 李伯元の死後にもたれた談合について、李錫奇が文章を発表したのは、1950年代である。しかも、ひとり李錫奇しか、その模様を詳細に書いてはいない。李伯元の親戚だからこそ内部事情を知っていたということもできる。しかし、李伯元とその家族を擁護する立場で文章を書いていることを研究者は視野にいれておく必要がある。李錫奇が書いていることを、すべて事実だと受け取るのは、危険だといいたいのだ。親族には親族の立場があり、それは客観的に見れば、偏向している可能性が高い。
 李錫奇が「李伯元生平事跡大略」*7で明らかにした談合の骨子は、以下のようになる。
 李伯元の死後のことである。病気の母親、妻と側室のふたりが残されていた。子供はいない。李伯元を故郷に葬る必要もある。『世界繁華報』は独立経営で、早急に責任者を決めなければならない。李伯元が世界繁華報館の助手に雇っていた欧陽鉅源が、館内外の事情を熟知していることをかさにきて、ほしいままに不法に占有しようとした(意図把持侵占)。李伯元夫人はそれを知り、親族を故郷から呼び寄せるが、上海の事情には疎い。後に、孫菊仙に調停を依頼することにした。顔の広い孫は、約百十名の人を西洋料理店(一品香)に集め、裁判官の関炯之と欧陽鉅源を招いて列席させる。孫は、状況を説明し、『世界繁華報』を停刊するか人を招いて継続発行するかの選択をせまる。参加者は一致して続刊を主張する。欧陽鉅源に編集を主宰してもらうように依頼し、欧陽鉅源も承諾する。
 もうひとつの『官場現形記』については、こうだ。李伯元が死去して、海賊版を作成し版権を犯しているものがいる。判型は縮小し、絵図を加え、定価は「原書」よりも安く、李伯元がもともと印刷した書籍の販路に大きな影響を与えている。裁判官に、この状況についてどのような規定があるかと質問すると、罰金などについて回答があった。その時、海賊版を作成していた「某書館」の社長も同座しており、大いに窮した。孫は調停して版権と李伯元の原書(原印成書)を三千元で該書館に購入させた。該書館の社長も感激し、多くの問題が同時に解決したのだった。
 当時、問題はふたつあった。『世界繁華報』の後継者を決定すること、および『官場現形記』海賊版問題を処理することだ。
 ふたつの問題を考えるまえに、疑問をひとつ提出しておく。
 李錫奇の文章によると、上海の西洋料理店に約百十名の人々を集めて談合が行なわれたのは、李伯元の死後、だいぶ時間が経過しているように読める。夫人が親戚を呼び寄せたりしているからだ。はたしてそのような悠長なことでよかったのだろうか。
 『世界繁華報』は、日刊紙である。李伯元の死後も毎日発行する必要がある。後継者を指名するにしても、のんびりしてはいられない。李伯元死去の直後に、後継者問題を処理してしまわなければ、新聞は停刊してしまう。
 おまけに、たったふたつの問題を解決するために、わざわざ約百十名という多数の人々を西洋料理店に招待する必要があったのだろうか。大いに疑問である。
 大塚氏は、「この件に関してはおそらく孫菊仙・関炯之・欧陽鉅源の三人に李伯元未亡人を含む李家側が一卓を囲んだ席で密かに交渉されたのであろう」(106頁)と考える。しごく妥当な意見である。ふたつの問題を解決するだけなのだから、当事者だけで密かに談合したほうが、はるかに話がまとまりやすい。それを、わざわざ約百十名もの人々を一品香に集める必要があるとは、とうてい思われない。
 この談合は、李伯元の葬儀の過程でもたれたものではなかったか。一番好都合なのは、大勢の人々が李伯元の葬儀に集まった機会をとらえて、問題を一挙に解決してしまうことだ。葬儀そのものでなくとも、西洋料理店だから葬儀直後の宴会でもかまわない。と、このように李錫奇の記述には、こちらがよほど補足して考えなければ、そのままでは納得のいかない不審な点が複数ある。

○『世界繁華報』の後継者
 李錫奇は、欧陽鉅源に対してきわめて厳しい見方をしている。「ほしいままに不法に占有しようとした(意図把持侵占)」と表現している。わざわざ孫菊仙をたよって調停を依頼しているのだから、李伯元夫人も同様の見方をしていたのだろう。
 欧陽鉅源が、李伯元夫人を含めた親族にそれほどよい印象を持たれていなかったのは、事実だとしよう。では、李伯元夫人は、『世界繁華報』の後継者として誰を指名したかったのか。子供はおらず、李伯元の兄弟といっても上海の事情には詳しくない。まず、李伯元夫人の意図が不明である。
 唯一考えられるのは、『世界繁華報』を欧陽鉅源に渡したくなかったというところか。ただし、『世界繁華報』からあがる利益を李伯元夫人自らが相続したかったとは考えられない。李伯元の死後、遺族は生活に窮したと一般に伝えられている。これはデマである*8。だいいち、李錫奇も夫人は金を必要としていたとは書いていない。
 孫菊仙の調停の結果は、夫人の希望を裏切るものだった。欧陽鉅源が後継者として参会者に認められた。そのかわり『官場現形記』の版権が売却されて予期せぬ「三千元」を入手した。

○『官場現形記』の版権
 李錫奇がのべる『官場現形記』の海賊版は、「判型は縮小し、絵図を加え」とあるから、増注絵図本に違いはない。しかし、奇妙な箇所がある。李錫奇は、海賊版の出版元は「某書館」だというのだ。書館といえば、商務印書館をすぐ連想する。事実、李錫奇は、別の文章で、あからさまに商務印書館が海賊版を作成したと書いている。だが、商務印書館は、『官場現形記』を出版したことなどなかった。
 『世界繁華報』と『官場現形記』の問題だけで、わざわざ百十名もの人を招待するだろうか。すでにそのことに対して、私は疑問を呈しておいた。そのうえに、海賊版を作成販売している、つまり、これから糾弾しようという某書館の社長まで、どういう口実で会合に招待したというのだろうか。某書館の社長が参加できる条件は、海賊版を作成販売していなかったことでなければならない。
 では、某書館が商務印書館でなければ、どこの書店になるか。当時、増注絵図本を出版していたのは、粤東書局だけだった。だが、注意してほしい。李伯元、欧陽鉅源らと粤東書局は、前の裁判ですでに和解している。最初は、海賊出版であったかもしれないが、裁判後は正式な発行元なのだ。正式な発行元であれば、社長も堂々と李伯元の葬儀に参加することができる。談合の席にいたとしても、なんの不思議もない。海賊版うんぬんは、李錫奇の勘違いである。
 もうひとつ、李錫奇の記述によると、その某書局の社長に、『官場現形記』の版権と在庫本を「三千元」で買い取らせたという。奇妙なのは、まさにこのことだ。ひとつの謎を解決しても、次々と謎が出てくる。
 なぜ奇妙かといえば、粤東書局は、光緒三十一年の裁判で世界繁華報館とすでに和解している。増注絵図本を正式に、つまり歩合を支払って刊行していると考えられる。その上に、再度、版権と在庫本を「三千元」で購入しろというのだろうか。充分金は支払っているうえに、また「三千元」も出せといわれれば、粤東書局の社長が「大いに窮し」てあたりまえだ。
 この一見欲深い孫菊仙の調停案を合理的に理解する方法は、ひとつしかない。
 すなわち、世界繁華報館は、粤東書局とそれまで取り交わしていた歩合制を放棄するという意味だ。裁判による和解によって取り交わした約束は、発行数による歩合制にすぎなかった。『官場現形記』の版権は、まだ世界繁華報館が所有している。その証拠に、談合前の光緒三十二年正月に世界繁華報館は『官場現形記』五版を出版している。
 この談合により、世界繁華報館は、『官場現形記』全5編の版権を粤東書局に譲り渡し、以後、『官場現形記』の刊行からは一切の手を引く。在庫本もすべて引き渡す。世界繁華報館が、発行歩合による将来の収益よりも、一時の利益を優先させたとすれば、矛盾ではなくなる。こう考えることによってのみ、のちの崇本堂が版権を自分のものにしたと公言する事情を説明できる。
 版権に注目しておく。ここでいう版権とは、原本の『官場現形記』全5編、増注本全5編、および増注絵図本全5編の3種類を含んでいる。
 『官場現形記』の版権についていえば、裁判後に、世界繁華報館がまだ所有していた。光緒三十二年の談合で世界繁華報館から粤東書局に正式に売り渡された。それがさらに宣統元年、崇本堂に移ったと考える。
 さて版権と在庫本で「三千元」と書いているが、この数字が、また、あやしい。
 だいいち、李錫奇のみが「三千元」と書いている。李錫奇よりはるか以前に、版権委譲について言及する文章がある。顧頡剛だ。

 宝嘉(李伯元)の死後、家ははなはだ貧しく生計の道なく、「官場現形記」の版権を譲ることにより数千元の金を得て、ようやく持ちこたえることができた。*9

 李伯元の死後、家計が苦しかったというのは、李伯元落魄伝説のひとつである。信用できない。
 ここには、「数千元」としか書かれていない。
 李錫奇自身の別の文章を見れば、その「三千元」についてのアイマイさがよりはっきりするだろう。

又因伯元所著的官場現形記、為商務印書館増図、縮小、削価、翻印、非特侵犯版権、且影響伯元原有存書的出售、當交渉由該書館連存書及版権出価収買。*10

 商務印書館は、当時、増注絵図本はおろか、『官場現形記』そのものを出版したことがない。李錫奇は、自分の誤りに気づかないほどに思い込んでしまっている。ここには在庫本と版権を買収させたとあるだけで、その金額がいくらであったかなど、書かれていない。
 また、同主旨のことを同書の「李伯元先生年表」(45頁)にも書いている。ここにも「三千元」などどこにもない。
 三千元に妙にこだわるようだが、理由がある。大塚氏が、「三千元という数字の一致が妙に記になるゆえんである」(107頁)と述べられ、三千元にまつわって李伯元の遺族がそれを孫菊仙に返金したと書かれているからだ。私は、「三千元」そのものが、あやふやな数字だと指摘しておく。
 「按ずるに、この某書館経理とはすでに繁華報館の編務を正式に引き継いだ欧陽鉅源だったのではあるまいか」(105頁)とか、「粤東書局こそは欧陽鉅源が海賊版出版の際ダミーとしてもちいた書肆名であったろう」(106頁)と大塚氏がいうにいたっては、その発想の奇抜さ大胆さにまず感心する。魅力的な仮説ということができよう。
 増注本に絵図を加えた縮小石印本が、欧陽鉅源に関係なく粤東書局から出版されてこそ裁判沙汰に発展するのだ。ただし、裁判の途中で、和解が成立すれば、大塚氏のいうように、粤東書局が欧陽鉅源のダミーであったというのは、はずれではなくなる。ただし、ダミーというのは、言いすぎだ。というのは、欧陽鉅源の死後も、粤東書局は広州で出版活動を継続していた事実がある。まるまるのダミーではない。最初は、増注絵図本についてのみ発売権を認めていただけ。のちには版権と在庫本を売り渡したのだと考える。
 私は、疑問に思うことがある。
 大塚氏は、粤東書局と崇本堂の活動時期について区別をしているだろうか。
 両者の出版活動時期は、重なる時期があるにしても、長くはない。まず粤東書局が光緒三十年に出てきて、崇本堂は、ずっと遅れて宣統元年に出現するという時間的なズレが存在する。これが前提である。(この時、刊行年月を明記しない版本は、考慮の対象にしないことが重要だ。あくまでも、印刷された刊行年月を手掛かりにしなければならない)
 「両者は当初いずれも『官場現形記』の海賊版出版元であった。この時期の両者の関係は、競争意識とともに仲間意識の働く奇妙なものだったろう」(104頁)大塚氏がここでいう「両者」とは、粤東書局と崇本堂だ。つづいて「そこへ先に紹介した孫菊仙の調停事件がおこった」とあるから、あたかも光緒三十二年段階で、両書店が併存しているかのようだ。しかし、崇本堂が出てくるのは、宣統元年であって、光緒三十二年には、影も形もない。当時、増注絵図本を刊行していたのは、粤東書局しかなかったのだ。
 もうひとつ、大塚氏は、裁判と談合の区別をしているだろうか。両者は、時間的にも前後しているし、内容も異なる。
 上の「そこへ先に紹介した孫菊仙の調停事件がおこった」(104頁)から、3行あとに「かくて訴訟がなされ、敗訴した粤東書局は賠償金とともに在庫の第一編から第三編を崇本堂に引き渡すことになった」とある。こちらの「訴訟」とは、なにか。大塚氏の考えでは、知られている裁判と談合のほかに、もうひとつ崇本堂が粤東書局を告訴した「訴訟」があるらしい。私は、第3の「訴訟」に言及する中国の文献を知らない。
 粤東書局と崇本堂の活動時期を区別し、裁判と談合を区別して、大塚氏の粤東書局の欧陽鉅源ダミー説を検討しよう。
 裁判の時、訴えられたのが粤東書局とする。大塚氏によれば、粤東書局は欧陽鉅源が海賊版出版をするためのダミーだという。では、欧陽鉅源は、自分で自分を告訴したことになる。変ではないか。
 増注本は、世界繁華報館から出版されていた。当然、李伯元の承認がある。「この非常識な行為が繁華報館の経営を少なからず圧迫したことは間違いあるまい」(106頁)と大塚氏はいうが、もしそうであれば、李伯元が許すはずがなかろう。
 李伯元の遺族は、欧陽鉅源のことを助手であるとか、その地位を低くみておきたいらしい。だからこそ、欧陽鉅源が『世界繁華報』を乗っ取ると警戒心をあらわにする。
 大塚氏も、「それまで繁華報館(から上がる利益)を私物化していた欧陽鉅源」(105頁)、「経営私物化で得ていた従前の利益」(105頁)、「経営を把持侵占していた繁華報館の資金を流用し、絵図を加えた石印本を李伯元に断りなしに出版し、それによって得られた利益を自家のものとし、李伯元(と李家)が本来得るべき利益を目減りさせ、詐取していたに相違ない」(106頁)と書いて、欧陽鉅源悪者説を強調する。
 しかし、事実は、李伯元と欧陽鉅源は、創作作品の共同執筆者といってもいい間柄だった。欧陽鉅源を知る包天笑の証言がある。李伯元の小説の多くは、欧陽鉅源が書いていたというのだ。
 「絵図を加えた石印本を李伯元に断りなしに出版し」に至っては、冤罪としかいいようがない。増注絵図本は、粤東書局が勝手に作成販売したものだ。だからこそ裁判になった。「繁華報館の資金を流用し」たというのなら、その証拠があるのだろうか。
 欧陽鉅源は、当初は、助手として雇用されたかもしれない。しかし、のちの李伯元と欧陽鉅源は、きわめて緊密な関係を保っていた。作品執筆と世界繁華報の発行およびその経営、あるいは商務印書館から編集を請け負っていた『繍像小説』への執筆などなど、ふたりの協力なくしては、どれも動かなかった。
 李錫奇は、1901年に上海の世界繁華報館を訪問したことがあった。階上は、李伯元の住居となっており、階下が世界繁華報館だった。左が編集室、その向いが「助手」欧陽鉅源の寝室、中間が印刷室で、印刷機と植字部だという*11。
 欧陽鉅源は、世界繁華報館に寝室をもっていた。李伯元は階上、欧陽鉅源は階下と別はあるにしても、同じ場所に寝泊まりして原稿執筆、編集を行なっていたことが李錫奇の証言から理解できる。単なる社員ではない。
 「官場現形記」は、李伯元と欧陽鉅源の共同作品であったと私は見ている。なにより、李伯元の死後に、『繍像小説』第53期より発行を再開できたのは欧陽鉅源が編集したからだ。第53-72期の全20期、ほとんど1年分の『繍像小説』を光緒三十二年年末までに出版しきった。ゆえに、李伯元の作品とされる「文明小史」「活地獄」「醒世縁弾詞」の最後部分は、欧陽鉅源の筆になる。
 南亭、南亭亭長は、李伯元と欧陽鉅源の共同筆名であったと私がいうのは、以上のような事情があるからだ。
 それだけ親密な間柄であれば、欧陽鉅源が「官場現形記」の増注本を作るのも、李伯元が許可したであろうことは容易に理解できる。自由にやらせるばかりか、世界繁華報館からも活版線装本で出版させてもいるのだ。
 その収入にしても、両者が厳密に分配していたとも思われない。どこからが李伯元の筆であり、どこまでが欧陽鉅源の執筆か、区別することができないのだ。増注本にしても、その売り上げは、ドンブリ勘定で世界繁華報館に収められたと想像するほうが事実に近い感じがする。
 植字工印刷工、事務員には給料が支払われていたとして、編集費と原稿料については、会計は別になっていたのではないか。『官場現形記』、その増注本、『世界繁華報』などの売り上げ、商務印書館から支払われる『繍像小説』編集費から、ある程度のものが、置いてある金櫃(あったと仮定して)に常に投入されており、李伯元あるいは欧陽鉅源が必要なだけ、そのなかに手をつっこんで取りだしている姿を想像したりする。
 以上のような状態が想像できるにもかかわらず、「経営私物化」「資金を流用」「詐取していた」などといわれても、ピンとこないのだ。
 李伯元の遺族がもった色メガネをのちの研究者が同じようにかける必要はないだろう。

5 おわりに
 いろいろと書き連ねてきた。よるべき資料が少ないと、想像の翼がはばたくのである。
 これだけは、確実だといえる談合の結果を、三者それぞれについてまとめておきたい。
○欧陽鉅源の場合
 『世界繁華報』の主編を継続することが公認された。李伯元の生前から続けてきたことを、これからもやってよい、と許可されたことになる。それまで住んでいた世界繁華報館を追い出されなかっただけまし、という考えもあるだろう。だが、欧陽鉅源にしてみれば、大いに不満であったのではないか。李伯元との共同事業の結果が『世界繁華報』だけなのだ。自分も関係していた『官場現形記』の版権を取り上げられた。おまけに、それは、自分の収入にはならず、李伯元夫人に渡ったのである。つまり、共同作品である「官場現形記」ばかりか、自分が注も書いた増注絵図本の歩合も切り離されることになった。かろうじて、『世界繁華報』の売り上げと、商務印書館から支払われる『繍像小説』の編集費用は、自分の収入とすることができるくらいだ。わしゃ知らん、と放り出してもよかった。ほかの新聞雑誌に原稿を売ってもいい。作家として充分に独立できる力量を持っていた。しかし、欧陽鉅源は、放り出さなかった。律儀に『世界繁華報』を発行し、『繍像小説』を編集したのだ。
○李伯元夫人の場合
 『世界繁華報』は、なんとしても欧陽鉅源へだけは渡したくなかった。しかし、それには失敗してしまった。かわって、『官場現形記』の版権と在庫本の譲渡により数千元の代金を得ることができた。
○粤東書局の場合
 前の裁判で増注絵図本を歩合制で販売する許可を得た。その時、賠償金を支払ったかどうかはわからない。いくらかは出したのではないか。順調な売り上げがあったと思われる。海賊版の制作販売出版社から、正規の出版活動と認められたからこそ、李伯元死後の談合の席にも社長は正式に招かれている。今回の談合では、歩合制を終了しそのかわりに版権と在庫本をコミで数千元にて譲渡することになった。買い切りだから、自由に増注絵図本を印刷し販売することができる。将来の収入が見込める。悪くはない条件だろう。このとき数千元を支払って正式に『官場現形記』の版権を入手したから、のちの宣統元年に崇本堂に版権を譲渡することができたのである。
 四番目の人物がいる。孫菊仙だ。
 大塚氏は、遺族は、版権と在庫本の数千元(一説に三千元)をそのまま懐には入れなかった、葬儀費用を用立ててくれた孫菊仙に返金を申し出たに相違ないといわれる。談合のあとの話だ。私は、まったく、それには気がつかなかった。孫菊仙が自分の出した「三千元」を取り返すための芝居だと考えられなくもない、といわれれば、美談が一気に色あせてしまう。だが、大塚氏の考え方は、私には大いに好都合だ。なぜなら、私が主張している李伯元落魄伝説のインチキ性に側面から光を当ててくれるからだ。遺族は、三千元を孫菊仙に返却しても生活には、困らなかった。ならば、李伯元の死後、遺族は貧困に苦しんだという落魄伝説は成立しえない。                            B


【注】
1)魏紹昌編『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12所収。113-120頁。以下、『資料』と略称する。
2)樽本照雄『清末小説閑談』法律文化社1983.9.20所収
3)王学鈞編著「李伯元年譜」薛正興主編『李伯元全集』第5巻 南京・江蘇古籍出版社1997.12
4)粤東書局の光緒三十二年石印《官場現形記》60回が記録されている(韓錫鐸、王清原編纂『小説書坊録』瀋陽・春風文藝出版社1987.11。114頁)。
5)樽本「贋作の本棚」『清末小説論集』386頁
6)孫楷第『中国通俗小説書目』北平・中国大辞典編纂処、国立北平図書館1933.3(289頁)/北京・作家出版社1957.7北京第1版未見、1958.1北京第2次印刷/北京・人民文学出版社1982.12訂正重版。231頁
7)李錫奇「李伯元生平事跡大略」『雨花』1957年4月号(1957.4.1)初出。『資料』29-35頁。資料本には、編者魏紹昌による書き換えがある。
8)樽本照雄「清末小説家の落魄伝説」『清末小説探索』法律文化社1998.9.20
9)顧頡剛「官場現形記之作者」『小説月報』第15巻第6号1924.6.10。『資料』16-17頁所収
10)李錫奇『南亭回憶録』上下冊 私家版1998。81頁
11)李錫奇『南亭回憶録』上冊59、141頁

(たるもと てるお)