『何典』のテキストについて



周   力


1 はじめに
 『何典』は清代中葉の張南荘によって記された地方色の濃い通俗白話小説である。多くの方言と俗諺を用い、しかもそれらの言葉の使い方が非常にユニークな点において、他方言地域に住む人にとって、理解しにくいところが少なくない。
 にもかかわらず、『何典』の出版はこれまで中断されたことはなく、出版の周期も時代が降るとともに短くなる傾向にある。『何典』が初めて出版されて以来、すでに100年以上を経、そのテキストも10種類以上にのぼる。それら数多くのテキストの中で、19世紀末葉に申報館から出版された排印本(以下「申報館本」と呼ぶ)と上海晋記書荘より印行された石印本(以下「石印本」と呼ぶ)は『何典』の出版史上重要な意味を持つ。なぜなら、そのあと出版された『何典』の諸本はみなこの二つのテキストを直接あるいは間接に出版したものだからである。
 申報館本は中国大陸(北京図書館と南京図書館)と日本(国立国会図書館)のいずれにも所蔵されているが、石印本は日本に蔵されていないらしく、中国にあっても入手は容易でない(筆者は北京大学図書館善本室所蔵本によった)。
 孫楷第の『中国通俗小説書目』には『何典』のテキストも著録されているが、石印本に関する記載は不正確である。
 小論では、申報館本(日本国立国会図書館に所蔵される光緒戊寅(4年、1878)年本を使用する。なお、上海古籍出版社から出版された『古本小説集成』の『何典』影印本も上記光緒戊寅年本によっている)と上記石印本により、両書の概要、相違および出版の流れを考察してみたい。

2 申報館本
(1)概要
 『何典』は張南荘の在世中には出版されず、その死後のおよそ半世紀後、その親戚によって提供された原稿に跋文を付し、申報館から刊行された。これが申報館本である。
 申報館本は清の光緒4年(1878)上海の申報館によって出版され、線装一冊(16.5×11.2cm)、表紙の中央に縦書きで「何典 巻一至十」、左側に縦書きで「申報館叢書」の五文字が書かれ、その下に叢書の通し番号が「六十八、六十九」と記されている。
 扉の真中には草書で「何典」と記され、左側には「戊寅七月曾傑」と題字を書いた人の名前と日付を見ることができる。扉の裏面には「申報館倣聚珍板印」という識語がある。このあと、「太平客人」の序、「過路人」の序を収め、その次に目次がある。目次に続いて『何典』の正文があり、十巻十回に分かれている。各巻の巻首には「纏夾二先生評 過路人編定」と題され、巻末には「海上餐霞客」の跋文がある。全文は縦書きで、句読点は振っていない。

(2)「海上餐霞客」の跋文について
 上述のように、申報館本『何典』の作者、評者および序文、跋文の作者はみなペンネームを使用している。しかしながら、幸いなことに、自称「海上餐霞客」の跋文には『何典』の作者および『何典』出版の経緯に関する情報が記されている。未だに『何典』作者に関する資料が見つかっていない現状では、この跋文は『何典』の研究にきわめて重要な参考資料である。ここで跋文の全文を引用し、必要な注釈と説明を加えることとする。(原文には句読点はないが、便宜上筆者が付した)

海上餐霞客跋
  何典一書,上邑張南莊先生作也。先生爲姑丈春蕃貳尹之尊人,外兄小蕃學博之祖。當乾嘉時,邑中有十布衣,皆高才不遇者,而先生爲之冠。先生書法歐陽,詩宗范陸,尤劬書。歳入千金,盡以購善本,藏書甲於時。著作等身,而身後不名一錢,無力付手民。憶余齠齡時,猶見先生編年詩稿,蝿頭細書,共十餘册。而咸豐初,紅巾據邑城,盡付一炬,獨是書幸存。夫是書特先生遊戲筆墨耳,烏足以見先生?然並是書不傳,則吉光片羽,無復留者,後人又何自見先生?爰商於縷馨僊史,代爲印行。庶後人藉是書見先生,而悲先生以是書傳之非幸也。光緒戊寅端午前一日,海上餐霞客跋。
海上餐霞客跋(日本語訳)
 『何典』は上邑(上海県城)の張南荘氏の作である。先生はおばの夫春蕃貳尹の父親であり、外兄(いとこ)小蕃学博の祖父である。乾隆(1736-1795)、嘉慶(1796-1820)の時代、上海県城には十人の布衣が居り、皆優れた才能の持ち主ではあったが、出世の機会に恵まれなかった。先生はその筆頭であった。先生の書は欧陽詢を、詩は范成大・陸遊を範としたが、とりわけ書物を好んだ。歳入は千金もあったが、それをすべて良書の購入に充てており、蔵書数は当時随一であった。背丈ほどの著作はあったが、死後に一文のお金も残らず、それで出版にまわす金はまったくなかった。私は幼い頃、先生の年代順に編集された詩稿を見たことがあるが、それらは小さな字で整然と書かれ、合計十冊あまりがあったと記憶している。咸豊(1851-1861)初年、紅巾軍が上海県城を占拠し(清の咸豊3年(1853)、秘密結社「小刀会」は武装蜂起を起こし、一時上海城を占拠した。兵士たちは赤い布を頭に巻いたため、「紅巾」と呼ばれてきた)、県城はすべて戦火に焼き払われたが、この書(『何典』)のみ幸いにも残った。そもそも本書は先生が遊び気分で作ったものであって、先生の全貌を窺い知ることはできない。しかし、本書さえも伝わらなかったら、先生の業績の片鱗すら残らないことになろう。そうすれば、後人は何によって、先生のことを知り得るだろうか。そこで、縷馨仙史と相談し、この書を世に出すことにした。できれば、後人はこの書により先生を知り、先生がこの本によってしか名が伝わらない不幸を悲しんでほしい。光緒戊寅(4年)端午の前日。海上餐霞客跋を記す。

 この跋文から少なくとも以下のことが読み取れる。
 (1)「過路人」は『何典』の作者張南荘のペンネームである。
 (2)張南荘は清の乾隆嘉慶時代上海県城の文人であり、科挙試験に落ち、生涯布衣のまま人生を送った。張氏の詩文が優れ、書も上手であり、背丈ほどの著作があるが、死後もその価値は認められず、出版できなかった。しかも遺稿は戦火に焼き払われ、『何典』のみが伝わっただけである。
 (3)跋文の作者である「海上餐霞客」は張南荘の親戚である。跋文の記述によって、張南荘は「海上餐霞客」の妻の祖父にあたることがわかる。
 申報館本は『何典』の最初のしかも最も信用できるテキストであり、その後のテキストはみな直接あるいは間接にこれを基にして出版されたと考えられる。

3 石印本
(1)概要
 申報館本『何典』が世に出た16年後、『何典』のもう一つのテキストが上海で出された。光緒20年(1894)に上海晋記書荘より印行された石印本がそれである。
 石印本は線装四冊(12.1cm×7.1cm)からなり、表紙には「絵図弟十一才子書」と記されている。扉には「絵図増像鬼話連篇録」と記され、左側やや下方に題字を書いた「宋晟」の名前と「晟印」の白印がある。また扉の裏側には篆書体、縦書きで「光緒甲午小春十日之吉上海晋記書荘印」という刊記がある。次頁以降「太平客人」の序、「過路人」の序および「海上餐霞客」の跋文、目次と22枚の口絵が順に収められている。本文は回に分けず十巻に分け、各巻巻首には「上海張南荘先生編 茂苑陳得仁小舫評」と題される。縦書きで句読点はない。
 石印本と申報館本は文字の若干の相違を除けば(詳しくは後に述べる)、表紙と扉の題名は異なっているものの小説全体のストーリーは完全に一致しており、いわゆる「同書異名」である。
 清末の出版業者は『三国志演義』『好逑傳』『玉嬌梨』『平山冷燕』『水滸傳』『西廂記』『琵琶記』『白圭志』『斬鬼傳』『駐春園』といった書物をよく「十才子書」と呼んでいたが、これが『何典』の封面に「絵図弟十一才子書」と題された所以である。扉にある「絵図増像鬼話連篇録」という題名は『何典』の筋がすべて冥界つまり「鬼」の世界で展開されたという点から名付けられたと考えられる。「弟十一才子書」にしろ、「鬼話連篇録」にしろ、その題名は『何典』よりはより小説書の題名にふさわしく、読者の興味を引きやすいもので、おそらくこれは出版業者の販売促進対策であったと考えられる。

(2) 石印本に対する孫楷第書目の不備な箇所
 孫楷第はかつて『中国通俗小説書目』(以下「孫目」と呼ぶ)巻七明清小説部乙の諷喩の四に『何典』を著録した。その著録の内容(小論は作家出版社1957年版によった。なお、1932年版と1982年版において著録の内容も同一である。)は以下の通りである。

何典十回
 存 申報館排印本。北新書局排印本。附清光緒戊寅(四年)海上餐霞客跋。
 光緒甲午上海晋記書荘石印本。十巻,不分回。改題十一才子書鬼話連篇録。署張南荘先生編 茂苑陳詩仁小舫評。
 清張南荘撰。原題纏夾二先生評,過路人編定。首太平客人序,過路人自序。

 石印本の原本と照合した結果、孫目の著録にはいくつか原本と異なった箇所がある。
 (1)孫目の著録は原本の表紙と扉の題名を一つにしたものである。
 (2)口絵の有無について言及していない。
 (3)作者の出身地「上海」が抜けている。
 (4)評者の名前「陳得仁」を「陳詩仁」と誤っている。
 1990年中国文連出版公司から出された『中国通俗小説総目提要』と1993年中国大百科全書出版社から出された『中国古代小説百科全書』は基本的に孫目の著録に従って、『何典』の石印本を紹介した。しかし、引用する時些少の変更を加え、この結果石印本の原本とも孫目とも異なった形になっている。

4 申報館本と石印本の比較
 以下、申報館本と石印本の比較を試みたい。
 まず、テキストの形式上の大きな違いは、海上餐霞客の跋文の位置である。申報館本では巻末に収録されているが、石印本では巻末ではなく、巻首の太平客人序と過路人序の後におかれている。更に書誌的には以下のような相違が見られる。

│ テキスト │ │ │
│項目 │申報館本 │  石印本 │
│書名 │表紙:何典 │  表紙:絵図弟十一才子書 │
│ │扉:何典 │  扉:絵図増像鬼話連篇録 │
│編者 │過路人編定 │  上海張南荘先生編 │
│評者 │纏夾二先生評 │  茂苑陳得仁小舫評 │
│口絵 │無 │  有り(22枚) │
│印刷形式 │倣聚珍板(活字本)│  石印本 │
│大きさ │16.5cm×11.2cm │  12.1cm×7.1cm │
│冊数 │全一冊 │  全四冊 │

 前述のように、『何典』の申報館本と石印本は、ストーリーとしては完全に一致しているものの、文字表現においては相違が見られる。それらの相違点は、以下の四つに分類できる。
 一つ目は誤字にかかわるものであり、以下の二通りがある。申報館本が正しく石印本が誤っているものと、石印本が正しく申報館本が誤っているものである。それらは前者が8箇所、後者が13箇所、合計21箇所にのぼる。
 これらの誤字は大半が字形の酷似により発生したと思われる。そのうち、「白手或家」(申報館本第一回、誤)と「白手成家」(無一文から財を成す。石印本第一巻、正)や、「看看閑者……」(申報館本第七回、誤)と「看看閑書……」(暇つぶしに読む本を読んだりして……石印本第七巻、正)のように誤字であることが容易に判別できるものもあれば、中には方言の問題を考慮しなければならないものもあり注意を要する。
 例えば、第三回の活鬼(主人公活死人の父)が無実の罪に問われ、地方官に大金を渡したことでどうにか釈放され、同じ日に形容鬼(活鬼の妻の兄)と六事鬼(活鬼の隣家)が役所に活鬼の様子を尋ねて来るという場面が、申報館本では

  只見餓殺鬼坐在上面,聲色不動,反好説好話的放了他,眞似死里逃生,連忙?個響頭謝了,走出衙門。?巧形容鬼與六事鬼兩個到來旱打聽,恰好接着。大家歡喜,擁着便走。
(すると土地様の餓殺鬼は正面に座り、全く表情も変えず、かえってやさしく話かけて、活鬼を釈放した。活鬼はまるで命乞いするかのように慌てて頭を地面に近づけ丁寧に礼をし、役所をあとにした。ちょうど形容鬼と六事鬼の二人が活鬼の様子を尋ねてきて、活鬼を迎えた。皆、大喜びし活鬼を抱きかかえながら帰って行った。)

とあるのに対し、石印本では

  只見餓殺鬼坐在上面,聲色不動,反好説好話的放了他,眞似死里逃生,連忙?個響頭謝了,走出衙門。?巧形容鬼與六事鬼兩個到來早打聽,恰好接着。大家歡喜,擁着便走。

と書かれている。申報館本で使われている「旱打聴」とは呉方言では「自分に関係のないことを面倒がらずに尋ねる」という意味である。よって、この場面では「旱打聴」を用いるのが自然であり、石印本の「早打聴」が「旱打聴」の間違いだと指摘することができる。
 また、第十回のヒロインの臭花娘が戦乱を避けるために、難民たちとともに避難する途中、「撮合山」にやって来るという場面を申報館本は

  誰知這個山,名爲撮合山。山里有個女怪,叫做羅殺女,住在灣山角絡一間剥衣亭里,專好喫男子骨髄。時常在山前山後四處八路巡視,遇有男子走過,便將隨身一件寶貝,名爲熄火罐頭,抛來罩住。
(この山は撮合山といい、山の中には羅殺女という女の化け物がいる。山間の剥衣亭というところに住んでいて、男の骨髄が好物である。常に山のあちこちを廻って、通りかかった男を見付けると、身に付けている「熄火罐頭」(火を消す缶)という名の宝を投げつけ、男をつかまえるのだ。)

と記しているのに対し、石印本は

  誰知這個山,名爲撮合山。山里有個女怪,叫做羅殺女,住在灣山角絡一間剥衣亭里,專好喫男子骨髄。時常在山前山後四處八路巡視,遇有男子走過,便將隨身一件寶貝,名爲?火罐頭,抛來罩住。

となっている。「熄火罐頭」とは呉方言で生育年齢を超えた女性のたとえであり、「熄火」は火を消すという意味が転じ、出産できなくなるという意である。この場面では、石印本の「?火罐頭」の「?」(嫁の意)を用いたのでは意味が通らない。よって「?」は「熄」の間違いであると言える。
 二つ目は語順の相違であり、全部で21箇所にのぼる。この語順の相違により、文意が全く通らなくなることも少なくない。仮に意味が通ずる場合でも言葉のニュアンスが変化するといった例が見受けられる。
 例えば、第七回のヒロインの臭花娘が色鬼に乱暴されそうになり、主人公の活死人に助けられるという場面について申報館本は次のように記している。

  那魘子便來?他?子。臭花娘那時少個地孔鑽鑽,叫爺娘弗應的,只得殺猪一般喊起救命來。恰被活死人聽見,打門進來救了他,領出廟門,猶如死里逃生,千恩萬謝的感激不了。

 このように活死人が廟内へ入って来るという動作に対して「打門進來」(ドアをノックして入る)という語彙が用いられている。これに対し石印本では、

  那魘子便來?他?子。臭花娘那時少個地孔鑽鑽,叫爺娘弗應的,只得殺猪一般喊起救命來。恰被活死人聽見,打進門來救了他,領出廟門,猶如死里逃生,千恩萬謝的感激不了。
(すると色鬼は、臭花娘のズボンを引き裂こうとした。臭花娘は地面に穴があるならばどこでもいいから逃げ込もうとした。必死に親を呼んだが全く返事がない、ただ大声で助けを求めて叫んだ。するとおりよく活死人がその声を聞きつけ、門をぶち壊して廟内に入り、臭花娘を救った。活死人は臭花娘を連れて廟外へ出た。臭花娘はまるで九死に一生を得たようだった。何度も何度も活死人に礼を言った。)

と、「打進門來」(門をぶち壊して入る)となっている。『何典』の物語の粗筋から見れば、この場合は石印本の「打進門來」が適切な表現だと思われる。
 三つ目は脱字と衍字であり、合計33箇所にのぼる。ほとんどが一文字の増減であるが、中には23文字にも及ぶ語句を増やしている例も見られる。この文字の増減により、意味が全く通らなくなるわけではないが、意味上のニュアンスが異なるといった傾向が見られる。
 例えば、第四回の未亡人の雌鬼が寂しさに耐え切れず、鬼廟の和尚に会いに行こうとする場面が、申報館本では、

  算計已定,重新梳光了直?頭,換了一身茄花色素服,家里有用存的香燭拿了一副,叮囑搭脚阿媽看好屋里,開了後門出去。
(雌鬼は考えが決まると、まっすぐに立った髪を改めて梳きなおし、白色の喪服に着替え、残っていた二本のろうそくを取り出し、ちゃんと留守番をするように女中に言いつけると、裏門を開け鬼廟へ出かけて行った。)

と記されている。ところが石印本では、

  算計已定,重新梳光了頭,換了一身簇新茄花色素服,家里有用存的香燭拿了一副,叮囑搭脚阿媽看好屋里,開了後門出去。

となっている。石印本の「頭」よりも申報館本の「直?頭」(まっすぐに立った髪)の方が、生き生きとした雌鬼の様子を如実に表していると言えよう。また、申報館本の「一身茄花色素服」に比べて、石印本は「茄花色素服」の前に「簇新」(真新しい)という修飾語を加えており、雰囲気がだいぶ違っている。
 四つ目は字形が異なり、語意が近似しているものであり、異同例の中では最も多く見られ、81箇所にのぼる。
 語意が近似していると雖もやはり若干の相違があり、それらの違いは次の二種類に分類できる。
 先ず、官話と方言の違いである。例えば、申報館本の第一回では「形容鬼也不管三七念一,……(形容鬼はがむしゃらに……)」とあるのに対して、石印本では「形容鬼也弗管三七念一,……」となっている。周知のように、「不」は官話の否定を表す副詞であり、「弗」は同じ打ち消しの意味を表し、古典籍では頻出する傾向にある副詞である。汪東の『呉語』にも「通語謂不,蘇州言弗。」とあり、方言としては主に明清時代の呉方言地域で使われていた語句である。もう一つの例を見てみよう。豆腐羹飯鬼の一人娘の豆腐西施は色鬼に臭花娘と間違われ、色鬼の仲間たちに色鬼の自宅まで連れ去れ、色鬼の妻である畔房小姐に殴り殺された。豆腐羹飯鬼は告訴しようと思ったが、隣家の迷露裏鬼に止められた。申報館本の第九回では

  迷露裡鬼道:“……即或有個好親眷好朋友,想替?伸冤理枉,又恐防先盤水先濕脚,反弄得撒尿弗洗手,拌在八斗槽裡,倒要?上州拔下縣的喫苦頭,自然都縮起脚不出來了。……”
(迷露裏鬼は言う。「……たとえ仲の良い親戚や友達がいて、あなたの代わりに冤罪を晴らそうとするのだとすれば、また先に出てきた人は先にひどい目にあうことを恐れ、かえっていざこざの渦中に巻き込まれ、州県まで廻り続き、苦しめをなめられ、当然誰も尻込みして、前に進まないだろう。……」)

となっている。これに対し、石印本では

  迷露裡鬼道:“……即或有個好親眷好朋友,想替?伸冤理枉,又恐防先盤水先濕脚,反弄得撒尿弗淨手,拌在八斗槽裡,倒要?上州拔下縣的喫苦頭,自然都縮起脚不出來了。……”

と書かれている。「洗手」は官話の手を洗うという意味で、「浄手」とは手を洗うことの方言的な表現であり、「浄」が動詞として用いられるのは呉方言地域ではよく見られる言語習慣である。『昆山新陽合志』「方言」に「諱死,呼洗曰浄」(死をさけるため、洗を浄と呼ぶ)とあり、「洗」と「死」の発音が近いことから、呉方言地域では「浄」が用いられていたことが分かる。
 次に文語と口語の違いである。例えば、申報館本の第二回に「若没錢時、憑?親爺娘活老子,話出靈天表*1來,他也只當耳邊風。我們亦不好空口白牙去説什麼」(もしもお金がない時に、親が来たならば、いくらうまい話をしても、彼は馬耳東風と聞き流してしまうだろう。口先だけではわれわれにもどうにもならない)と書かれているのに対して、石印本では「若没錢時、憑?親爺娘活老子,説出靈天表來,他也只當耳邊風。我們也不好空口白牙去説什麼」となっている。「話出」と「説出」はともに話すという意味であり、前者は書き言葉、後者は話し言葉として用いられる語句である。他に「亦不好」と「也不好」などがあり、前出の例と同様に、文語と口語という差はありながらも字形が異なり、語意の上では近似しているものである。
 以上文字異同のうち、一つ目の誤字と二つ目の順序の相違は、稿本から抄本へ移行する段階及び両テキストが組版された時点のいずれかで生じたと考えられる。
 また、三つ目の脱字衍字や四つ目の字形が異なり、意味が近似しているものは、意味的にはさしたる影響を及ぼさない人為的なものと思われる。例えば、第三回に見える活鬼を祭る料理の名が申報館本では、すでに「?牛卵?」など八種類も挙げられているのに対し、石印本では「?牛卵?」の前に「触?老哺鶏、忘八炒蛋、湯罐里熬鴨」の三品が追加されている。仮に石印本を出版する際、申報館本を底本とし、数多くの箇所に(三つ目と四つ目をあわせて114個所にのぼる)修正作業を加えることは経済的に見て非常に可能性は低いと考えられる。『何典』の作者及び『何典』に関する新しい資料が未だ発見されていない現段階では申報館本と石印本の関係についてのこれ以上の解明は難しい。

5 おわりに
 申報館本と石印本はともに19世紀の後半に出版され、当時、大した反響も起こさなかったため、時間の推移とともに、人々に忘れられた。
 20世紀に入って、北新書局よりいち早く『何典』の再版本が出版された。そのきっかけは呉稚暉の文章によるものである。呉氏は1925年12月の『「現代評論」第一周年記念増刊』の中でこう語っていた。「露店の本屋で、『豈有此理』という本を手に入れ、その本の冒頭に「屁をひった、屁をひった、こんなけしからんことあるものか」と書かれていた。それを見て、にわかに悟り、文人を軽視し、そのふりをしないことを決意した。文章を書くとすれば、屁をひった、屁をひった、こんなけしからんことあるものかという気持ちを念頭におきながら書くことにした。」(“在小書攤上得到一部《豈有此理》,開頭便説,放屁放屁,眞正豈有此理。忽然大徹大悟,決計薄文人而不為。偶渉筆,即以放屁放屁眞正豈有此理之精神行之。”)
 呉稚暉の文章は劉復と銭玄同の関心を引き起こした。呉氏は間違って、書名の『何典』を『豈有此理』と覚えたため、劉復と銭玄同はさんざん苦労して探した。結局1926年劉復は偶然北京厰甸の縁日でその本を見つけた。その後、劉復は『何典』に句読点を打ち、注釈を加え、北新書局に出版依頼をした。これが北新書局本(以下「北新本」と呼ぶ)のことである。
 劉復は「重印『何典』序」の中で北新本『何典』の底本は何によったものかを明言しなかった。北新本扉の書名、文字上の異同などから見れば北新本『何典』の底本は申報館本であることがわかる。
 北新本『何典』の初版本では劉復に「穢語」(汚い言葉)と思われた文字が若干カットされ、それが空欄で示されている。カットされた箇所は主に第四回にあり、夫と死に別れた雌鬼が和尚と密会の場面で、109文字が削除された。(第四回のほかに、第五回には一文字カットされ、第四回と合わせて計110文字削除された。)北新本『何典』が再版(第二版)された際、魯迅などの指摘により、元に戻った。
 劉復は「『何典』の再版について」(1926年12月)という文章の中でこう語っていた。「半月前、私は露店の本屋さんから不完全な石印の本を一冊手に入れた。その内容は『何典』の後半であったが、表紙には『絵図第十一才子書』と書かれており、本文には『鬼話連篇録』と記されていた。……しかし、原本の「纏夾二先生評 過路人編定」はこの重印本の中では「上海張南荘先生編 茂苑陳得仁小舫評」と変わっている。」(“半月前,我又在冷攤上買到一部不完全的石印小書,其内容即是《何典》的下半部,但封面上寫的是:‘繪圖第十一才子書’,書中的標目,却又是‘鬼話連篇録’。……可是原書中的‘纏夾二先生評,過路人編定’,在這飜印本裏已改做了‘上海張南莊先生編,茂苑陳得仁小舫評’。”)劉復の記載から、この石印本は上海晋記書荘本とわかる。残念ながら、劉復が見たのは石印本の後半で、石印本の全貌(特に扉、出版者の識語、口絵、序跋の配置など)を見ることができなかった。
 魯迅も北新本を通じて初めて『何典』を読んだのである。氏は1926年5月「半農のため『何典』に題記した後に作る」(『華蓋集続編』)という文章の中でこう言った。「二三年も前のことだが、たまたま、光緒5年(1879)出版の『申報館書目続集』で『何典』の提要を見たが……なかなかに奇抜なものではないかと思い、そこで気をつけて捜し求めたが、入手できなかった。常維鈞は古書の店に知人が多いので、彼に頼んで探してもらったが、やはり、入手できなかった。」(訳文は学研版『魯迅全集』による)(“還是兩三年前,偶然在光緒五年(1879)印的《申報館書目續集》上看見《何典》題要,……疑其頗別致,於是留心訪求,但不得;常維鈞多識舊書肆中人,因託他搜尋,仍不得。”)
 1932年、増田渉氏は佐藤春夫の推薦を受け、『世界ユーモア全集』(「支那篇」)の編集作業に携わる時、魯迅に中国の作品を推薦してほしいと頼んだが、魯迅は増田氏に『何典』を含め、『水滸傳』『鏡花縁』『儒林外史』『達夫全集』(郁達夫著)『今古奇観』『老残遊記』『小彼得』(張天翼著)の計八種類の本を送った*2。
 北新本は1926年に初版本が出され、1933年9月には第五版が出版された。
 確かに北新本は申報館本と石印本より入手しやすい点もあり、20世紀80年代まで出版された『何典』のテキストはほとんど北新本を底本とし、北新本の誤りもそのまま引継がれた。そのため、申報館本と石印本の存在がますます薄れてしまったようである。(付録の「『何典』テキスト一覧参照」)            B
【注】
1)「霊天表」とは死者を祭るため、道士が壇を設け神に祈祷する時に、死者の善事を書いたお札のこと。ここではよい話の意として用いられている。
2)1933年(昭和8年)3月、日本改造社から『世界ユーモア全集』が出版され、第12集の「支那篇」には魯迅の「阿Q正傳」「幸福な家庭」などの作品が収録され、『何典』は収録されなかった。

【付録】『何典』テキスト一覧 ( )の数字は出版年を示す
                申報館本(1878)
┌────────┼──────────┐ 
│ │ │
     北新書局(1926)  上海古籍出版社(1990)  三民書局(1998)

    東方文化供応社(1954) 
    長歌出版社(1976)
    河洛出版社(1980)
    工商出版社(1981)
    人民文学出版社(1981)
    文化図書公司(1982)
    上海書店(1985)
    学林出版社(2000)など

                 石印本(1894)

                遼沈書社(1990)
 (編集者の「出版説明」によると『荒誕奇書』に収めた「鬼話連篇」は光緒
十年晋記書荘石印本によったという。管見によれば、@光緒十年晋記書荘石印
本の存在は確認できず、光緒ニ十年晋記書荘石印本の間違いだと思う。A石印
本原本と照合した結果、かなり相違があるとわかった。)

(ZHOU Li)