商務印書館版「説部叢書」の成立


神田一三

 「説部」とは、小説を意味する。「説部叢書」は、その名前のとおり小説を集めたひとつのシリーズを指す普通名詞だ。このばあいの説部は、翻訳小説とは限らない。創作小説をも含む。
 清朝末期の上海において、いくつかの出版社が、「説部叢書」と銘打ったシリーズを発行した。
 目録を見れば、改良小説社が創作を主体とし、群学社が創作と翻訳の、小説進歩社が数種類の「説部叢書」を発行しているのがわかる。
 だが、一般に、「説部叢書」と聞けば、商務印書館が発行した外国小説の翻訳シリーズを連想する。
 商務印書館は、300種類をこえる翻訳書を出版した。数のうえからも、内容からも、それらを前にしては、ほかの出版社の「説部叢書」は、影が薄くなる。比較にならない。商務印書館以外の出版社が、「説部叢書」をだしていたことすら、今では言う人は少ない。
 清末から民初にかけて、大量に翻訳発行された商務印書館の「説部叢書」である。のちに作家となる青年の多くが、該シリーズによってはじめて外国文学に触れた。その存在は、研究者ならば、誰でも知っているといってもいい。
 しかし、存在が知られていることと、商務印書館の「説部叢書」について文章が書かれることには、直接の関係がないかのように見える。つまり、言及する人が、なぜだか極端に少ない。論文中に「説部叢書」という単語を使うが、その内容について説明しない。ただ、発行されたことがある、というだけであったりする。

●1 最近の言及

 商務印書館版「説部叢書」が当時の中国文藝界におよぼした影響の大きさを考えれば、解説のないほうが不思議に思える。いくつかの具体例をあげよう。

○『中国翻訳詞典』
 林煌天主編『中国翻訳詞典』(武漢・湖北教育出版社1997.11)は、文字通りの巨著だ。
 「綜合条目」には、翻訳家、原作者、作品、雑誌、翻訳組織、作品の翻訳情況などなど、翻訳に関するあらゆる項目があげられる。これに加えて識者の翻訳についての考えを記述する「百家論翻訳」がある。このふたつで1133頁になる。附録、索引もついた大部な出版物だ。
 これほど大きな辞書だから「林訳小説(百種)叢書」(418頁。陳応年執筆)は、ある。だが、「説部叢書」の項目はない。また、年表の「中国翻訳大事記」にも単語のかけらもない。
 さがせば、「商務印書館」(陳応年執筆。584頁)の項目に、「20世紀初頭より外国文学および社会科学の訳著が大量に出版された。たとえば「説部叢書」(1-4集、全322種)、「厳(復)訳名著」(8種)、「林(〓)訳小説」(両集、全100種)などである」と記述される。これだけだ。「説部叢書」が全322種であることをさりげなく書いているところに注目しておこう。
 「林訳小説叢書」を独立項目としてあげるならば、やはり「説部叢書」もそうしなければ平衡がとれない。
 専門の辞典に言及がないとなると、一抹の不安をおぼえる。忘れられかけているのではあるまいか。

○郭延礼説
 郭延礼『中国近代翻訳文学概論』(漢口・湖北教育出版社1998.3)は、翻訳文学研究の本格的専門書として出現した。翻訳文学研究をする場合の必読基礎書籍だ。その言及範囲の広さと記述の深さには、目を見張るものがある。
 目配りのいい研究書だから商務の「説部叢書」について、その成立経過、収録種類など、全体を概観する解説が当然あると考えるではないか。だが、なぜかしら、ない。
 文中に、単語としては出てくる。たとえば、「《説部叢書》中的《回頭看》」(131頁注4)とか「商務印書館的《説部叢書》也出版了……」(192頁)というぐあいだ。
 ついでにいうと、「説部叢書」から林〓の作品を抜き出した「林訳小説叢書」についても同様だ。「林訳小説」(278頁)はいうが、商務の「林訳小説叢書」を説明しない。「林訳小説叢書」(300頁注1)の名称は出てくる。また、引用文のなかに「那両小箱《林訳小説叢書》……」(303頁)と見える。さらに「“林訳小説”叢書」(386頁注1)と言及がある。ほんのすこしの説明でもあれば、それでいいのだが、あまりにそっけないので、これまた忘れられたのではないかと心配なのだ。
 情況がこうだから「説部叢書」についての説明にであうと、少し安心する。

○鄒振環説
 最近の例をあげれば、鄒振環『20世紀上海翻訳出版与文化変遷』(南寧・広西教育出版社2000.12)がある。
 その説明を引用翻訳しておこう。

 「説部叢書」は商務印書館が早くに発行した大型叢書であり、1903年4ママ月から出版が始まった。第一集は、わずかに『佳人奇遇』と『経国美談』の2種を収録しただけママだったが、それ以後各集10種で、1908年までに10集総計92ママ種を出版した。そのなかには大量の名著の訳本がふくまれ、たとえば……(略)。以後、「説部叢書」は、初集、二集が編集され、それぞれに翻訳小説を100種収録する。のち、売れ行きがよいため第三集、第四集も出版された。そのなかの林訳小説に対する読者の特別な愛好を考えて、商務印書館は後に「説部叢書」のなかから林訳小説の全部を抜き出し、紙箱に入れて「林訳小説ママ」と題し売り出して、その売れ行きはまことによかった。51-52頁

 鄒振環は、翻訳された書名を具体的に示しながら説明をする。また、「説部叢書」と「林訳小説叢書」との関係を簡潔に述べている。さらに、謝冰心、魯迅、沈従文、蘇雪林、銭鍾書たちがいかにそれらの翻訳小説を好んだのかも、彼らの文章を引用しながら紹介しているから理解しやすい
 ただし、鄒振環の説明文は簡潔にすぎて著者自身が知っているのかどうかわからないが、事実と異なる部分がある。
 第一集には、2種類の翻訳しかない、と断定する。だが、なぜ2種類だけなのか、説明がない。
 各集10種を出して、10集で92種だと明示している。ここには、疑問符がつかないのだから、あたかも原物で確認しているかのような印象をあたえる。だが、はたして92種は正しいのだろうか。
 ひとつ不明なのは、全10集のものと、初集、二集、第三集、第四集の関係はどうなっているのか。「説部叢書」は全体で幾種類の小説を収録しているのか、鄒振環は、説明しない。
 鄒振環が書いたそのほかの文章を読んでの私の想像だが、原物を調べて記述する人であるらしい。だから詳細な説明になるのもうなずける。ただし、例外があるようだ。それが、「説部叢書」である。鄒振環は、原物を見ているわけではなく、第2次資料の目録に拠っていると思われる。
 つまり、第一集には2種の翻訳しかない、という説明は、「説部叢書」の原物を手にとってそう書いているわけではない。第2次資料にその典拠がある。鄒振環は、注記、明記してはいないが、知っている人は、容易にその資料を指摘することができる。上海図書館編『中国近代現代叢書目録』(香港・商務印書館1980.2)だ。
 『中国近代現代叢書目録』には、商務印書館版「説部叢書」の細目が収録してある(777-789頁)。
 第一集には、1『佳人奇遇』、2『経国美談』の2種類をあげるのみだ。残りの8種は、収録していない。鄒振環は、この目録の記述を信じた。2種類の書名しか見えないから、2種類しか出版しなかったと短絡して理解したらしい。典拠資料を示していればまだしも、なにも書かないからその誤りを指摘されることになる。
 第一集には、複雑ないきさつがあることについては後述するが、とにかく1『佳人奇遇』、2『経国美談』の2種類を含んで全10種類の翻訳を出版していることだけを、ここでは言っておきたい(参照:附録2)。
 第二集以降について、該目録には具体的な書名が書かれている。今その数だけを示しておく。
 第二集十編、第三集十編、第四集十編、第五集十編、第六集十編(第四編『天方夜譚』は未収)、第七集十編、第八集十編、第九集十編、第十集十編で総計百編(種)だ。
 説明の都合上、この全十集を元版(中村忠行の用語に従う。ただし、元版を1型と2型に分けることについては後述)とよぶことにする。
 この元版一百種を初集と呼びかえて初集1-100編を出し、第2集1-100編、第3集1-100編とつづいて第4集1-22編(ただし第17編『〓目霍}目英雄』は目録に未収録)が出た。
 該目録には、注記したように第六集第四編と第4集第17編をとりこぼしている。
 最初の十集、すなわち元版と後の初集以降を区別するために、前者元版の集編数には漢数字を(例:第二集第一編)、後者にはアラビア数字を用いることにする(例第2集第1編)。
 鄒振環の説明は、著書のなかのほんの一部分を占めるにすぎない。本格的紹介というのには、ほど遠い。

○陸〓日斤}説
 そういうなかでの陸〓日斤}「説《説部叢書》」(『蔵書家』第3輯 2001.6。106-109頁)は、注目に値する。短文とはいえ、書影4幅を添えて、「説部叢書」をうまく紹介している。
 最初に指摘しておきたいのは、陸〓日斤}が「説部叢書」の実物を多数所蔵していることだ。
 彼の説明によると、初集91種、第2集87種、第3集63種、第4集4種の合計245種を所有しているという。所蔵数をあげて実物をこれほどまでに持っている人を、私は、今まで聞いたことがない。
 十数年前、彼がバラ本を購入したころには、話題にするひとはまだ少なかったという。そののち、日本人や韓国人が争って購入しはじめ、4、5年前には入手しようにもどこにもなくなってしまったらしい。道理で、現在、私が欲しいと思っても購入はおろか実物を目にすることさえできないはずだ。争って購入した日本人や韓国人が、その後、研究論文を発表したとも聞かないから、どこかに所蔵されたままなのだろう。
 それはさておき、多数の実物を所蔵する陸〓日斤}だから、その記述には信頼がおける(と思われる)。
 彼がまず述べるのは、「説部叢書」は重要でありながら、ややもすればなおざりにされる傾向である。
 旧文学と新文学の継ぎ目のところに「説部叢書」は出現した。当時の青年は、「説部叢書」を読むことによって、西洋文化の影響を受けた。そのことについて、言及しないのは、不当だというわけだ。おっしゃる通りです。
 陸〓日斤}が解説する「説部叢書」の種類数は、以下のようになる。
 説明:4集にわかれた前の3集は、それぞれ100種をあつめており、第4集は40ママ種である。(106頁)
 つまり、合計は340ママ種となる。
 最初から文句をつけるようで申し訳ない。私が数字に「ママ」をなぜつけるかと言えば、340種という数には疑問があるからである。目録類には、第4集22種とある。合計322種にしかならない。どちらが正しいのだろうか。
 陸〓日斤}の説明をもう少し聞いてみよう。
 説明:初集100種は、光緒末年には出そろった。紙は道林紙を用い、表紙は一律に柳と桃花で縁取りし、柳の枝は緑色、桃花はあでやか、真ん中に黒色で縦書きの書名がある。(107頁)
 陸〓日斤}は、「初集一百種」とはっきり書いている。間違いない。「中間為黒色竪体書名」だから縦書きの書名だ。だが、該文に添えられた書影には、これに該当する初集本は掲げられていない。示されている初集第47編『簾外人』は、あきらかに1914年の再版本だ。特別な用語を使ってしまったが、おいおい説明していく。
 緑色の柳の枝に桃花模様に黒色縦書き書名の初集本は、私は、見たことがない。この部分は、陸〓日斤}論文の重要箇所だから、あとでまた問題にする。
 説明:民国2、3年ころ、再版した。紙は新聞用紙にかわり、表紙も藍色の飾り模様と紅色の縦書き書名になった。2集100種も同じ装丁である。(107頁)
 紅色の縦書き書名のこの初集本は、普通によく見ることができる。書影がかかげられている初集第47編、と第2集第66編が、まさに陸〓日斤}が書いているとおりだとわかる。
 説明:3、4集を出版したとき、紙はやはり新聞用紙を使ったが、表紙は一変し、本の内容に合った彩色絵画になる。3集100種と4集40ママ種も同様である。(107頁)
 第3集第6編と第4集第16編の書影がある。表紙が絵画で飾られていることがわかるから、明らかに初集、第2集の意匠とは違うことに納得する。
 説明:「説部叢書」のほかに「林訳小説叢書」がある。「説部叢書」には林〓の翻訳が多いので、商務はそのなかから50ママ種を選び出し「林訳小説」の名称を用いて単独で発行したのだ。ただし、表紙を変えただけで、ページも用紙もまったく「説部叢書」と同じものである。「林訳小説」の表紙も「説部叢書」とほとんど同じで、藍色の飾り模様を緑色のものに変え、書名も紅色の縦書き、表紙の上方に横組みで「林訳小説叢書」と6文字が書かれる。そのほか48開本、16開本もある。(107頁)
 「林訳小説叢書」を50種とするのは、不十分であるといわねばならない。これには第2集があり、50種ずつで合計100種を発行したというのが正しい。
 「林訳小説叢書」の表紙が「説部叢書」とほとんど同じ、という指摘も正確ではない。書名は第1集が横組みで、第2集は縦組みだ。叢書名も、第1集は、横組み「林訳小説叢書」でいいが、第2集は、縦組みで「林訳小説」のみとなる。
 商務版「説部叢書」を紹介して貴重な陸〓日斤}論文である。なにしろ原物を手元において書いているのだから、強い。「説部叢書」について書かれた中国ではほとんど最初のまとまった文章かもしれない。
 くりかえすが、陸〓日斤}の文章は、比較的詳しい紹介文であることは間違いがない。
 だが、原物を所有したうえで説明しているにしては、いくつかの疑問が生じる。
 ひとつ、「説部叢書」第4集には40種があるというのは本当だろうか。前述したように、目録を見るかぎり22種類しかないはずだ。陸〓日斤}は、340種とはっきり2箇所に書いているからなんらかの典拠があるのかもしれない。疑問としておく。
 また、「説部叢書」から派生した「林訳小説叢書」についても、前述したように誤解があった。
 陸〓日斤}の紹介文で、私がいだく疑問の大きなものは、「説部叢書」初集100種以前のいわゆる元版について一言も説明していないことだ。
 陸〓日斤}は、初集100種は光緒末年に完結していると説明している。光緒末年に完結しているのは、私のいう元版のことに相当するはずだ。しかし、私の見ている元版の表紙と陸〓日斤}の説明する初版の表紙が違う。
 陸〓日斤}が書くのは、柳の枝に桃花、縦書きの書名だ。私の手元にある元版(2型)は、タンポポをもとにして変形させた意匠で表紙下部に葉っぱを上部に花を左右対称に配置し、中央の名札のなかに横組みで書名を置く。2、3色を使っているわりには、地味な表紙だ。両者は異なるといわなければならない。
 陸〓日斤}は、初集についてしか説明しない。だから、元版の存在があることが読者には伝わらない。商務印書館は、最初から初集100種を「説部叢書」として発行したように読める。掲げられた表紙書影も、初集以前のものを提示しない。
 重要だから気にとめておいてほしいのだが、商務印書館の「説部叢書」には、初集に改題する前に、第一集から第十集までの元版が存在している。このことに陸〓日斤}は、言及しないのである。
 文章のなかで触れていないのだから、初集100種以前にも「説部叢書」と称する刊行物があるとは知らないのではなかろうか、という疑問を払拭することができない。
 ただ、元版の存在を知らないことについて、陸〓日斤}の不勉強といってしまえば簡単だ。だが、もしかすると中国ではやむをえない事情があるのかもしれない。その例として、『商務印書館百年大事記』(北京・商務印書館1997.4)をあげよう。

○『商務印書館百年大事記』
 この年表の巻頭には、創業当時の商務印書館を描いた絵画、創業者の肖像、刊行物がかかげられている。
 そのなかに「林訳小説叢書」と「説部叢書」の一部をカラーで見ることができる。それらは、すべて改称後の初集と第2集であるにもかかわらず、その説明文に「《説部叢書》(1903)」と書くのだ。改称は民国後の1913年のことだから、1903年ではありえない。明らかに間違いであるにもかかわらず、まったくその間違いに気づいていない。1903年から「説部叢書」を刊行しはじめた、といいたいのであれば、元版の書影をかかげなければならない。
 どのみち、該年表の1906年の項目に、「出版《説部叢書》第一、二、三集」と書いて、これとも矛盾している。
 元版を示してほしい箇所には、それがない。どうやら商務印書館の編集部では、元版が入手できなかったものか。所蔵はするが、示す手間をはぶいたのか。その間の事情は、わからない。本家本元で示すことができなければ、その存在に気づく研究者はマレということになる。
 元版の存在が知られていないのは、原物が入手しにくいという事情とあわせて、商務印書館の発行する書目類の多くがその存在を明示していないからだろう。元版の存在にいかに触れていないか、その証拠をあげよう。

●2 商務印書館の刊行物から

 「説部叢書」を広告する商務印書館の刊行物をすべては見ることはできないから、私の知っている範囲内で示す。
 さかのぼれば、『繍像小説』にまで行き着く。ただし、『繍像小説』の広告は、「説部叢書」成立と同時期のものになるから、「説部叢書」成立を説明する箇所で触れることにしたい。
 上海のガイドブックからはじめよう。

○『上海指南』商務印書館 宣統元年(1909)五月初版/七月再版
 石印線装本。一部の広告は活版で印刷されている。
 その広告に「説部叢書百種/全部定価/二十八元」とある。説明文を引用しておこう。

本館所印説部叢書皆系新訳新著之作饒有興味早已風行一時積五六年之力始得完成一百種計一百二十八冊茲特装成一木箱廉価出售以便購者得窺全豹 商務印書館啓

 ここにある百種128冊が元版である。誤解してはならないのは、初集についての広告ではないことだ。区別しなければならない。だが、この事実に気づく人は多くないかもしれない。
 第一−十集各十種合計百種だ。五六年で完結したともある。数えれば、そのはじまりは1903年頃になる。
 叢書名の「説部叢書」が1903年にすでに成立していたという意味で間違いないと考える理由が、別にある。これは後述する。
 この広告から読みとれるもうひとつの事柄は、刊行完了の時間だ。遅くとも1909年に、絞り込めば1908年には、元版十集は発行を完了していたのではないか。ひとつは該『上海指南』の発行年が1909年であること。もうひとつは、元版第十集第十編『海衛偵探案(偵探小説)』の発行が1908.3(1913.10三版)であるからだ。
 以上から、元版百種の発行完了は、1908年ころだったという推測がなりたつ。
 ただ、『上海指南』の広告が惜しいのは、全体の刊行完結をいうだけで、具体的な書名がかかげられていないことだ。書名を知るためには、つぎの『東方雑誌』広告を見る必要がある。

○『東方雑誌』第8巻第1号(1911.3.25)の広告
 「商務印書館出版図書総目録○小説類 説部叢書/全集百種/連木箱/二十八元」と書かれ、その百種の書名とそれぞれの定価までも掲げる。
 この広告でいう木箱に入れて28元は、『上海指南』の広告に見られた木箱に28元と一致する。
 『天際落花』『劇場奇案』からはじまり、『夢遊二十一世紀』『華生包探案』と書名がつづく。『上海指南』にはあげられなかった元版の題名が『東方雑誌』によって明らかにされた、と誰しもが考える。自然な流れであって、不自然なところはない。
 そこで改組の問題が生じる。
 ここでいう改組とは、収録作品の入れ替えを意味する。
 『東方雑誌』にかかげるのは、元版百種を改組したものなのだ。作品を入れ替えているのだが、書名を見る限り、その事実をうかがうことができない。元版第一集を知っていなければ、気がつかないだろう。
 あとでも問題にするが、広告の最初に出てくる『天際落花』は、元版の『佳人奇遇』を差し替えたものだし、『劇場奇案』の前は、『経国美談』だった。『華生包探案』は、元版では『補訳華生包探案』という題名である。
 商務印書館自身が、初集に改組したことを説明しない。知らん顔なのだから、読者にとっては迷惑なはなしだ。
◆改組その1
 元版の2作品を入れ替え、配列の順序を手直ししていることを記憶にとどめておいてほしい。
 この改組が即「初集」への改称とはならないから、複雑だというのだ。
 改組の時期は、『天際落花』の発行が1908年五月、『劇場奇案』が1908年六月らしいから、1908年ではないかと考えられる。
 「説部叢書」は、最初、『佳人奇遇』『経国美談』からはじまった。1908年に、それぞれ『天際落花』『劇場奇案』に入れ替え改組した元版百種を木箱に入れて販売する。その広告が、上にみた『上海指南』の記事だ。あとでもう一度、論じる。
 これ以後も、商務印書館は、「説部叢書」に元版があったことは、広告のうえでも一言も触れない。ただし、実際には、元版も改称後の初集などと一緒に刊行していたことを示す証拠がある。

○『商務印書館訳印説部叢書三集様本』刊年不記(1920年?)
 「説部叢書」第3集100種173冊の購入予約募集冊子である。
 その発行年は、記載がない。ただ、「旧暦庚申年七月底為止八月底出書」とあるので1920年の発行だと予想される。
 あわせて第1集(すなわち初集)、第2集の予約も募る。貴重なのは、第3集の書目ばかりではなく、初集、第2集のものを収録している点だ。
 初集の題名は、『天際落花』『劇場奇案』『夢遊二十一世紀』『華生包探案』とならんで、あきらかに表示通りの初集である。元版については、何もいわない。

○『小説書目』商務印書館 刊年不記
 これも商務印書館の広告冊子だ。
 収録「説部叢書」の呼称を「第一集」などと書いて、初集との区別をしない。ずさんである。
 この書目のおもしろいところは、ひとつは第4集22種を掲載していること。ふたつめは、内容別に分類し、さらに一部の作品に原書、原著者を明示していることだ。残念なのは、発行年月日を書かない。広告のための書目だからしかたがない。
 第4集第22編『情天補恨録』の発行が1924年5月だから、これを掲載する『小説書目』の発行は1924年以降となろう。

○商務印書館『図書彙報』第118期(1927.4)
 「説部叢書」初集から第4集22種の書名をかかげる。分類せず、順番に書名を並べ、これにも一部の作品には、原書と原著者を掲載している。
 のちの『図書彙報』1936年3月版には、「説部叢書」の掲載はない。売りきったとしても、売れるとなればいくらでも重版するのが出版社のやりかただ。あるいは、陸〓日斤}がその文章のなかで書くように、商務印書館が日本軍の爆撃を受け、紙型などすべてを焼いてしまったから再版できなかったのだろうか。また、文言で翻訳された「説部叢書」は、すでに時代の流れにあわなくなってその使命を終えていたとも考えられる。
 以上のような書目をも参考にして編集されたのが、次に紹介する『商務印書館図書目録(1897-1949)』だ。

○『商務印書館図書目録(1897-1949)』北京・商務印書館1981。92-98頁
 創業当時からの刊行物を分類収録したこの目録は、とても貴重である。
 貴重であるにもかかわらず、出版年月を省略するという大失態を演じている。これでは、それまで商務印書館が発行していた広告用の冊子とかわらない。それが商務印書館の編集方針である、といわれれば、そうですかと答えるしかない。原物で確認しながら記録したであろうに、出版年月を書き落すとは、中途半端といわれてもしかたがなかろう。研究用の資料とすることは、できない。まことに残念なことだ。
 それでも、書名と一部の原著と著者名がわかるだけマシ、といえようか。
 全体の規模を数字で示すと、こうなる。

第一集初集一百種130冊
第二集二集百種162冊
第三集三集百種173冊
第四集四集二十二種35冊

 「第一集初集」などとわけのわからぬ表記をしている。もしかして、初集以前に元版十集があることを知らないのではなかろうか。
 というわけで、商務印書館の発行する目録類は、いずれも元版第一-十集とのちの初集から第4集までの区別をしていない。区別しないどころか、元版第一集第一-十編と初集の第1-10編に書籍の入れ替えがあったことを知るてがかりは、これらの目録にはどこにもないのだ。
 だから、くりかえして申し訳ないが、やむをえない事情があるにせよ、陸〓日斤}の紹介文は貴重ではありながら、大きな欠点があるといわざるをえない。
 欠点が欠点であるとなぜわかるのか。簡単なことだ。日本では、これよりもはるか以前に「説部叢書」を論じる中村忠行の詳細な論文が発表されているからである。
 中村の研究を紹介しながら、商務印書館版「説部叢書」の複雑な成立情況の説明に筆を進めたい。

●3 中村忠行の研究

 中村忠行「商務版『説部叢書』について――書誌学的なアプローチ」(『野草』27号 1981.4.20)の説明は、きわめて詳細である。日本古典文学研究のかたわら、長いあいだ日中比較文学研究に従事していた著者にしてはじめて著述が可能になったといってもいい。深い学識と広い調査、および長い経験と鋭い洞察に裏打ちされた注目すべき論文である。
 論文は、全5章より成る。各章の内容を要約しておこう。

○1
 利用できる資料として前出『中国近代現代叢書目録』が出版されたことをいう。
 中村論文の冒頭に第2次資料が出てくるのは、日本の研究者としてしかたのないことだ。どういう意味かというと、日本には、商務印書館版「説部叢書」の原物全冊を所蔵する公共機関は、存在しないからだ。ほんの一部分が実藤文庫(東京都立図書館)に収蔵されているくらいか。中村忠行自身は、台湾で原物を収集していたが、敗戦で日本に渡ってくるとき、すべてを失った。のちアメリカに交換教授として日本文学を教えに赴任した先に、「説部叢書」が所蔵されていることを知った。それを複写してふたたび研究論文を発表しはじめた、といういきさつがある。
 原物の多くが手元になければ、目録の記載を頼りにせざるをえない。だから、まず目録の記載を問題にする。
 この『中国近代現代叢書目録』について中村が指摘した不備は、いくつもある。
 ひとつは、「説部叢書」の刊行開始を1903年(光緒二十九年)4月とするが、ほかの資料では1906年(光緒三十二年)となっていて一致しない(鄒振環が「説部叢書」の出版開始を1903年4月としたのは、『中国近代現代叢書目録』にもとづいていることがわかる)。
 ひとつは、元版の第一集第三編以下第十編までと、第六集第四編の書名が抜けている。
 ひとつは、原著者名を間違うものがある。
 ひとつは、刊記には、元版のそれと初集本のそれとの間に、相異するものがある。
 ひとつは、重版の記録が、年月と矛盾する。たとえば、1906年5月3版、12月再版のように。
 いずれも、原本の矛盾した記載を指摘するものだ。『中国近代現代叢書目録』の記載の問題もあるのだが、これらは「説部叢書」それ自体がもっている矛盾であるといってもいい。それだけ、成立の過程が複雑であったことの証拠となるだろう。

○2
 いくつかの作品についてその刊記を問題にする。年月が話題の中心となり、ややこしい。
 問題を複雑にしている原因のひとつは、『繍像小説』がからんでくるからだ。
 『繍像小説』にはじめ連載されていたものが、のちに単行本となり、さらにそれが「説部叢書」に吸収される。
 別のある作品は、最初に単行本が刊行され、のちに『繍像小説』において再度連載がはじまる。
 ところが、ある作品は、日本語翻訳から漢語に翻訳しているにもかかわらず、日本語翻訳の刊行年月よりも漢訳の『繍像小説』連載のほうが時間的に早いという信じられない「事実」があることを指摘する。
 今、深入りすることは避ける。その理由のひとつは、元版の「説部叢書」を全部は見ることができないからだ。元版といっても、それの1型と2型がある(後述)。再版の奥付に記載された初版の刊年は、信用度が低い。初版の元版を見ることは、きわめてむつかしい。
 となると、再版の元版を根拠にしての推測は、確実性をそこなうといってもいい。
 もうひとつ留意しなければならないのは、『繍像小説』の刊年が記載されなくなり、発行が遅れ気味であった事実がある。だから、予測される刊年をもとにして問題を検討しても、事実とは離れることになる。
 中村忠行がこの論文を書いた時には、『繍像小説』発行遅延説は、まだ提出されていなかった。
 現在は、研究がより深化しているから軽々しく論じるわけにはいかない。
 中村論文のこの部分は、刊記について一筋縄ではいかないことが存在している、くらいに認識すれば、それで十分だ。

○3
 中村論文の中心をなす部分である。
 主張:「説部叢書」は当初から計画立案したものではない。
 論文から引用すると次のようになる。
 「初版上梓の期日が、編序に従ってはいない。それも、一二個月前後する程度のものではなく、年を隔てるものが、雑然と並べられているのである。これは、当初から計画立案された叢書の出版され方ではない。既刊のものを任意に拾い、叢書に仕上げたことを示すものである」(287頁)
 その証拠として、版式が統一されていないことをあげる。
 32字詰13行、25字詰11行、33字詰12行、32字詰11行という不統一である。この不統一は、「先行する本の組版乃至は紙型をその侭に用いて、印刷したものであるに違いない」(288頁)。
 初集の整った版式と統一された表紙を見ているだけでは、誰でもが最初から計画的に「説部叢書」が編集発行されたと考える。統一感のある初集なのだ。
 だが、初集以前の状態を考えれば、確かに、中村論文のいうように、バラバラで発行され統一感はないかもしれない。
 中村の主張には、大いにうなずくことができる。あとで別の訳書をあげて説明しよう。

○4
 表紙を示しながら、いくつもある装丁の違いを説明する。
 第1形式から第3形式まである。さらに第3形式のなかには5種を数える。複雑にしてその数は、多い。
 ここで問題をややこしくしているのは、表紙、扉の絵柄の違いだけでなく、商務印書館の呼称が上海商務印書館であったり中国商務印書館であったりするからだ。
 中村が商務印書館の頭に上海がつくか、中国がつくかで区別しようとしているのには、理由がある。
 商務印書館と金港堂の合弁にからんで名称が変化したと考えるからだ。
 すなわち、創業時は上海商務印書館とよび、金港堂との日中合弁時期は中国商務印書館とし、1911年5月以降の独立期は商務印書館といった、と推測する。
 この呼称の変化は、中村の持論である。私の見るところ、そのようでもあり、そうでもなさそうでもあり、今のところ確認できない。
 陸〓日斤}が初集、第2集と第3、4集の表紙が異なることだけを指摘するのに比較すれば、中村論文の示す多様な表紙には目をみはる。日本では20年前にすでに相当深い研究論文が発表されているのだと、いまさらながらに感心せざるをえない。

○5
 元版第一集の『佳人奇遇』と『経国美談』が『天際落花』『劇場奇案』に入れ替えられたことを指摘するのが第1点だ。第2点は、元版第五集第三編として発行した『魯濱孫飄流続記』をくりあげて第四集第三編『魯濱孫飄流記』に接続したことをいう。つまり、配列に手を加えたのである。
 中村は、初集に改組したのは、商務印書館が金港堂との合弁を解消したのがきっかけだという。
 「既刊の百種を「初集」の名に統一し、各集十編、十集一具という組織を改めて、第一編から第百編までの通し番号として、覆刊を図った」(296頁)
 以上、中村論文は、商務印書館版「説部叢書」の成立情況をほぼ説明していると考える。
 私が以下にのべることは、中村説を大きくはずれることはないかもしれない。資料を提出しながら、私なりの整理説明を試みたいと思う。

●4 商務印書館版「説部叢書」の成立

 強調しておきたいのは、商務印書館版「説部叢書」は、初集100種からはじまって第4集22種で完結した、というものではないことだ。初集が最初からのかたちではない、といいたい。
 初集100種の前には、すでに「説部叢書」が存在していた。中村忠行は、それを元版と呼んだ。今、その呼称に私も従う。ただし、元版を、1型と2型のふたつに分ける。
 さらに、この元版の前にも刊行物が存在しているばあいがあって、これを先元版とよぶ。ただし、この先元版は、「説部叢書」とは直接の関係はない。どういうことかといえば、商務印書館が単なる翻訳として出版したものであるにすぎない。当初は、「説部叢書」という名称で翻訳作品をまとめる意図はなかったということだ。
 「説部叢書」の成立過程をたどるためにここで使用する資料は、『繍像小説』と『東方雑誌』に掲載された自社刊行物の広告だ。

◎4-1 先元版
 先元版とは、「説部叢書」に組み込まれる前の刊行物を指す。簡単にいえば『繍像小説』連載の、あるいは単行本になった翻訳小説である。
 まず、『繍像小説』の出版広告から見ていく。

○『繍像小説』広告
 自社刊行物の広告を追っていくと興味深い事実を見いだすことができる(なお、この広告は、上海書店の影印本では削除されている。周知の事実ではあるが、念のために書いておく)。
 商務印書館にとって『繍像小説』は、最初の文藝雑誌である。その時々に発行した書籍がそのつど掲載広告される。これを見れば、のちに「説部叢書」としてまとまる翻訳書群は、最初はひとつふたつの独立した単行本にすぎなかった。「説部叢書」など影も形も存在しないことが理解できる。
 その証拠をかかげよう。

◆第1期癸卯(1903)五月初一日
 華英字典、華英文教科書を冒頭におく。英文、漢文、和文教科書のあとに政学叢書、歴史叢書、財政叢書、地理叢書、帝国叢書、戦史叢書などがつづいて、それらのなかに説部叢書がある。

説部叢書 経国美談前後編、佳人奇遇、広長舌

 商務印書館が刊行した翻訳小説の初期のものは、日本の『経国美談』と『佳人之奇遇』であったことがわかる。
 同時に掲げられている『広長舌』は、日本幸徳秋水著、中国国民叢書社訳*1であって、こちらは小説ではない。政治類(『商務印書館与新教育年譜』では社会科学類の国際関係)に分類される種類の翻訳だ。
 小説以外の書籍も含んでいるところからわかるように、この広告に見える「説部叢書」というのは、のちに有名になる固有名詞ではなく、普通名詞の「説部叢書」ということだ。それにしても、いいかげんな分類である。

◆第2期癸卯(1903)五月十五日
 説部叢書の欄に2点の刊行物が加わる。

説部叢書 経国美談前後編、佳人奇遇、広長舌、造化機新論、繍像小説

 『造化機新論』は、日本細野順君著、出洋学生編輯所訳*2で『商務印書館与新教育年譜』では応用科学類の生理に分類される。『繍像小説』は、いうまでもなく中国大陸では最初の小説専門雑誌だ。自社刊行物だからここに収録したのだろう。
 ここでも『造化機新論』という小説以外の書籍を含んでいる。
 小説とその他を混在させる広告は、このあとも第6、7期とつづく。

◆第6期癸卯(1903)六月十五日
説部叢書 経国美談前後編、佳人奇遇、広長舌、造化機新論、繍像小説、天演論
◆第7期癸卯(1903)七月初一日
説部叢書 繍像小説、佳人奇遇、経国美談前後編、広長舌、造化機新論、天演論、夢遊二十一世紀

 厳復の有名な翻訳論文『天演論』までも「説部叢書」に収録しているのが目を引く。
 小説以外の作品を説部叢書に収録する矛盾にようやく気がついたためか、分類に変化が生じるのが第9期からだ。

◆第9期癸卯(1903)八月初一日
説部叢書 繍像小説、佳人奇遇、経国美談前後編、夢遊二十一世紀
雑  誌 広長舌、造化機新論、天演論など

 ここに見える「雑誌」というのは、書名を見ればわかるように、今日の用語と同じではない。「その他」というくらいの意味で使われている。
 『繍像小説』は、第13期より刊行年月日を記載しなくなる。

◆第18期刊年不記
説部叢書 繍像小説、佳人奇遇、経国美談前後編、夢遊二十一世紀、補訳華生包探案

 広告を見れば、発行書籍が確実に増加していることが理解できる。
 あいかわらず普通名詞としての「説部叢書」が使われている。このあとも、かなり長期にわたって事情は変化しない。
 たとえば、該誌第30期には、「上海商務印書館新訳説部叢書出版広告」と銘打って『英国詩人吟辺燕語』以下18種類の書名があがっている(そのなかには『東方雑誌』も含む)。「続出書」には4種類がある。
 この時点でも、あいかわらず単なる翻訳小説として集められているにすぎない。
 変化が見られるのは、第41期の広告からだ。
 「本館出版説部叢書」と題して第一集十編と第二集十編、および第三集二編の書名が掲げられている。
 ここではじめて固有名詞の「説部叢書」が出現した。
 ただ残念なことに『繍像小説』第41期には刊行年月日が記載されていない。雑誌そのものの刊行が遅れ気味であった。私の推測では、該誌第41期は、1905年八月ころには発行されていた。
 これを根拠にすれば、およそ1905年ころには組織的な「説部叢書」第三集が発行されていたことがわかる。第一集の刊行は、それよりも前にはじまった可能性が高い。これが元版1型である。
 『佳人奇遇』『経国美談』を「説部叢書」第一集に収録する広告が、『繍像小説』の第72期まで掲載された。
 『繍像小説』の刊行は、なんどでも言うが、遅れていた。最後の第72期は、私の推測では、1906年年末に発行されている。
 『繍像小説』の広告から推測されるのは、『佳人奇遇』『経国美談』を収録した「説部叢書」は、1906年年末頃まで刊行されていたということだ。
 別の手掛かりがないか『東方雑誌』の出版広告を見ることにする。

○『東方雑誌』出版広告
 広告ページに小説作品を並べるのは、『繍像小説』とかわらない。

◆第2年第2期光緒三十一(1905)年二月二十五日
商務印書館出版小説類 夢遊二十一世紀、補訳華生包探案、金銀島、三国志演義、東周列国志演義、水滸伝、岳伝、聊斎志異/英国詩人吟辺燕語、案中案、環遊月球、奪嫡奇冤、空中飛艇、経国美談前後編、佳人奇遇

 『経国美談』と『佳人奇遇』の2書が見えるが、これも先元版であって「説部叢書」とは関係がない。
 『東方雑誌』に組織化された「説部叢書」の広告が表われるのは、『繍像小説』よりも少し時間的に遅れる。

◆第3年第2期光緒三十二(1906)年二月二十五日
商務印書館出版 説部叢書第三集
第三集第五編 巴黎繁華期、第六編 斐洲烟水愁城録、第七編 撤克遜劫後英雄略
説部叢書第一集
第一集第一編 佳人奇遇、第二編 経国美談前後編、第三編 夢遊二十一世紀、第四編 補訳華生包探案
説部叢書第三集
第三集第三編 曇花夢、第四編 指環党
(後略)

 なぜだか順序を入れ替えて第三集からはじまる「説部叢書」の広告だ。
 これらが元版である。ここでもすでに第三集が発行されていることに注目したい。

◎4-2 元版1型ab
 元版を1型と2型に分けるのは、表紙の意匠が異なるからだ。
 元版1型をさらにabにわけて複雑なように見えるかもしれない。だが、1型aは、扉の説部叢書と商務印書館が毛筆で書かれており、1型bは、それらが活字であるにすぎない。
 私が考えるに、元版1型は、先元版にもとづいて制作されている。
 『補訳華生包探案』を例にして説明しよう。
 該作品は、もともと「華生包探案」として1903年の『繍像小説』第4-10期に連載された。コナン・ドイル作シャーロック・ホームズ物語のなかの6篇である。
 『繍像小説』は、線装の活版印刷だ。連載終了後、「華生包探案」部分のみを抜き出して1冊の単行本に仕立てた。単行本にできるよう、初出の雑誌では最初からページ数が連続するように印刷してある。単行本化が目的であるかのように、雑誌の連載途中で物語が断ち切られようと、その不自由な体裁には配慮しない。
 線装本だから表紙と扉をつければ、それで単行本となる。単行本にするとき『補訳華生包探案』と題名を変更するのも簡単だ。
 表紙は印刷題簽、扉は毛筆書きで右側に「説部叢書」第一集第四編と示し、中央に大きく書名を置く。左下は「上海商務印書館印行」と書く。本文は『繍像小説』連載分を流用する。奥付は、ついていない。お手軽に単行本ができあがった。
 ただし、「序」の日付が「光緒二十九年癸卯仲冬」とあるから1903年陰暦十一月頃には発行されていたと予測される。
 第一集第四編という比較的早い序列の作品が1903年の刊行だとすれば、「説部叢書」の刊行は、1903年に始まっていたと推測してもいいのではないか。
 該作品は、のちに表紙を一新し彩色をほどこし、洋装に変更される(2型)。この2型の『補訳華生包探案』は、おもしろいことに、扉に元版1型bの活字版扉を同時に収録している。この元版1型bと2型の混在は、のちに別の作品にも出現する(後述)。
 さらに改組があり、1913年に初集に改称して初集第4編に配置される。その時、書名は『華生包探案』に変更された。また、改称と同時に表紙がみたび変更になり、おなじみの紅色縦組みの書名で出現するのだ。

◎4-3 元版2型
 前述のように、元版2型は、タンポポ文様である(中村忠行は、蔓草文様という)。
 第一集から第十集までの意匠はすべて同じだが、色使いは、作品によって異なっている。変化をつけたのだ。
 洋装活版印刷に変更し、表紙に「説部叢書 第○集第○編」と大きく印刷するから、叢書としての統一感が自然に生まれる。
 元版2型タンポポ表紙が採用されたのは、いつか。
 中村は、「光緒三十二年も早い頃」すなわち1906年とする。
 目録によって元版の初版発行年を見れば、1905年を記録している。私は、1905年だとしたい。
 元版2型タンポポ表紙にしたのならば、1905年以降は、タンポポ表紙に統一されたと思うではないか。
 ところが、ここに奇妙な版本がある。表紙はタンポポだが、扉に前の世代の元版1型bもあわせもったものが存在している。
 元版第四集第六編『澳洲歴険記』(光緒三十二年四月首版)の表紙は、タンポポで、扉は縦書きの元版1型bそのものである。
 もうひとつは、元版第六集第3編『美人煙草』(光緒三十二年歳次丙午季夏首版/光緒三十二年丙午九月二版)も同様だ。
 先に紹介した元版2型第一集第四編『補訳華生包探案』も同じ例であった。
 せっかく印刷していたものを捨てるのは惜しいから、使用したということだろうか。おおらかなことだ。

◎4-4 改組その2
 「説部叢書」に作品の入れ替えがあった事実は、中村忠行がすでに指摘している。本稿でも、たびたび言及した。
 その時期は、いつか。先に1908年と書きはしたが、実は、確定するのは、むつかしい。
 入れ替えられた『佳人奇遇』について見てみよう。
 第一集第一編に配列され、しかもタンポポ文様の2型の表紙をもつ版本がある。
 ただし、奥付はない。裏表紙に掲げられた小説類のなかに、定価を示さない作品がある。『金塔剖尸記』(1905年三月)、『珊瑚美人』(同年四月)、『売国奴』(同年十一月)の3作だ。中村が書くように、定価がないということは、まだ発行されていないことを意味する。それぞれの初版は、カッコ内に示したとおりで、ならば、2型『佳人奇遇』の刊行は、1905年ということになる。
 また、おなじ広告に見られる『繍像小説』一至三十五期から推測しても、1905年六月以降の発行だ。
 元版第六集第三編『美人煙草』の裏表紙には、『佳人奇遇』『経国美談』を掲げているから、これも改組前の発行だとわかる。奥付には、「光緒三十二年歳次丙午季夏首版/光緒三十二年丙午九月二版」とあって、1906年九月とわかる。すなわち、改組は、1906年九月以後に絞られる。
 前出『東方雑誌』第8巻第1号(1911.3.25)の広告には、すでに改組されている作品が紹介されている。
 以上から、改組は、ほぼ1906-10年の間に実行されたと推測できよう。
 『天際落花』の発行は1908年五月、『劇場奇案』が1908年六月となれば、両者の出版は、推測の期間内だ。
 そうなると、両書の示す1908年を改組の時期と考えてもいいのではないか。
 中村忠行は、「これを差換えの時期と見るには、少しく躊躇」(294頁)するという。この2書のみ、字詰めとアラビア数字を用いるノンブルの打ち方、波ケイを引いた柱の位置といった版の組み方が、ほかのものとは異なるからだ。つづけて「これは明らかに他からの流用である」と主張する。
 何度もいうように、「説部叢書」といっても表紙と奥付を張り替えるだけで成立する。だから、「説部叢書」用に新しく活字を組みなおす必要など、最初からないのだ。「他からの流用である」からこそ、簡単に『佳人奇遇』『経国美談』と入れ替わることができる。手間がかかるのであれば、なにも作品を入れ替える必然性もない。
 私の手元に、(英)蜚立伯倭本翰著 林〓、魏易同訳『藕孔避兵録(偵探小説)』(上海・商務印書館 宣統元(1909)年五月初版 E. PHILLIPS OPPENHEIM“THE SECRET”1907)がある。見れば、その組版は、中村が指摘したのとまったく同じなのだ。
 当時、商務印書館が翻訳小説を刊行する時に採用していた共通の組版があった。それを使用して出版したか、これから出版しようとしていた単行本を表紙と奥付を張り替えて「説部叢書」に組み入れたということだ。
 そうであるならば、『天際落花』と『劇場奇案』にある1908年を改組の時期だと断定してもいいのではないか。
 改組にともなって生じる疑問をいくつか書いておきたい。

○改組の理由
 1908年になって、なぜ日本人の原作の『佳人奇遇』と『経国美談』を別作品に入れ替える必要があったのだろうか。納得のいく説明を聞いたことがない。もっとも、この事実に気づいている中国の研究者は、ほとんどいないようだから、無理もない。
 「説部叢書」に収録する日本語原作にまつわる事実を書いた文章がある。
 謝菊曾「《説部叢書》和《林訳小説》」(「涵芬楼往事」のうちのひとつ『随筆』第6集1980.2)だ。
 謝菊曾は、1916年、商務印書館編訳所に入所して働いたことがあるから当事者の証言となる*3。
 おおよそ次のように説明している。
 当時、欧米の小説が大量の読者をもっていた。そこで商務印書館は、『東方雑誌』『小説月報』に連載した欧米の長篇小説の翻訳を、単行本にして「説部叢書」に収録した。第1集ママ、第2集の売れ行きがいいので、また第3集をだす。そのなかのいくつかは、雑誌に連載せず、原稿を買い取ってそのまま単行本にしたものもある。日本の小説を翻訳した『乳姐ママ妹』という作品があった。そのころ、日本の小説の評判は欧米の小説よりも低く、また「説部叢書」はすべて欧米名家の作品であることを標榜していたから、日本の小説が入り込むと非難を引き起こしかねない。しかし、すでに印刷しはじめていたため、主編の〓軍}鉄樵と高夢旦は相談して、それを「説部叢書」第3集から引きぬき、表紙をかえて中国図書公司名義で発行した。(82頁)

 「説部叢書」の成立過程から、収録作品の出し入れの内情までを公表していて興味深い。
 補えば、翻訳作品を連載していた雑誌は、『東方雑誌』『小説月報』のほかに、『繍像小説』があることを謝菊曾は忘れている。彼が編訳所に入所したのが民国になってからで、それよりずっと以前に『繍像小説』は停刊している。謝菊曾が言及しないのも無理はないか。
 上でいう「第1集」は、初集を指す。初集以前の元版については、謝菊曾も知らないらしい。
 「説部叢書」第3集からはじきだされた作品は、以下のものだ。

菊池幽芳著、韻琴訳『乳姉妹』上下冊 上海・中国図書公司和記1916.6(BERTHA M. CLAY“DORA THORNE”1883。菊池幽芳「家庭小説乳姉妹」『大阪毎日新聞』1903.8.24-12.26。翻案)

 たしかに中国図書公司和記の発行になっている。この出版社は、清朝末期に商務印書館に対抗して設立された。のち、商務印書館が買収して子会社のような立場にある。上の例に見えるように、商務印書館では出版できない作品を、身代わりして発行するなどの役割をはたしている。
 日本の小説が、欧米のものに比較して評判が低いため作品を差し換えた、と謝菊曾は説明する。
 「説部叢書」が欧米の作品を売り物にしていたとは知らなかった。そうであるならば、菊池幽芳原作作品を「説部叢書」から抜き出した商務印書館の処置も理解できないわけではない。
 「説部叢書」の冒頭に収録されていた『佳人奇遇』と『経国美談』が排除されたのも、その延長線上におけば理解できないでもない……。そう考える人がいないとも限らない。しかし、それはありえないことなのだ。
 まず、謝菊曾が証言しているのは、1916年当時のことだとわかる。『佳人奇遇』『経国美談』が別作品に入れ替わるのは、それよりもずっと以前の1908年にさかのぼる。
 もうひとつ、「説部叢書」の売り物が欧米の作品であったというが、にわかには信じがたい。それでは、日本の作品は、「説部叢書」には一作品も収録されていないのであろうか。
 「説部叢書」を見れば、日本語原作の漢訳が15種類もある(書名の現代漢語音abc順)。

■不如帰 (哀情小説)
(日)徳冨健次郎著 塩谷栄英訳 林〓、魏易訳
上海商務印書館 戊申10.6(1908.10.30)/1915.10.25四版 説部叢書2=23
塩谷栄、E.F.EDGETT英訳“NAMI-KO”1904。原作は、徳冨健次郎「不如帰」1900
■懺情記 (言情小説) 2巻 上下冊
(日)黒岩涙香原訳 商務印書館編訳所訳
中国商務印書館1906.5三版/12再版 説部叢書二=8
黒岩涙香「妾の罪」『都新聞』連載後、大川屋1890.9.19
■車中毒針
(英)勃拉錫克著 呉梼訳
中国商務印書館1905.12/1906.4二版 説部叢書三=10
石井ブラック(HENRY JAMES BLACK 快楽亭ブラック)述、今村次郎筆記『車中の毒針』三友社1891.10
■鬼士官 (写情小説)
(日)小栗風葉著 商務印書館編訳所訳
中国商務印書館1907.11 説部叢書九=4
小栗風葉『鬼士官』青山嵩山堂1905.6
■寒牡丹 (哀情小説) 2巻 上下冊
(日)尾崎紅葉著 呉梼訳
中国商務印書館1906.3/1915.6三版 説部叢書四=10
長田忠一、尾崎徳太郎『寒牡丹』春陽堂1901.2.6。本文に秋涛居士、紅葉山人とある。
■橘英男 (偵探小説)
(日)楓村居士(町田柳塘)著 商務印書館編訳所訳
中国商務印書館1907.12 説部叢書十=2
楓村居士『軍事小説 橘英男』読賣新聞日就社1905.4,菊洋社1906.4
■美人煙草 (立志小説)
(日)尾崎徳太郎著 呉梼訳
上海中国商務印書館 光緒32.6(1906)/光緒32年丙午9(1906)二版 説部叢書六=3
尾崎徳太郎は、広津柳浪の誤り。(広津)柳浪「美人莨」『太陽』11巻12-13号 1905.9.1-10.1
■秘密電光艇 (科学小説)
(日)押川春浪著 金石,〓嘉猷訳
中国商務印書館1906.4/9二版 説部叢書四=7
押川春浪『海島冒険奇譚 海底軍艦』文武堂1900.11
■秘密怪洞 (社会小説)
(日)暁風山人著 郭家声、孟文翰訳
上海商務印書館1915.7.23 説部叢書2=88
暁風山人『秘密怪洞』大学館1905.12か
■模範町村 (政治小説)
(日)農学博士横井時敬著 唐人傑、徐鳳書訳
上海商務印書館 戊申12.4(1908.12.26)/1915.10.12再版 説部叢書2=67
横井時敬『模範町村』読賣新聞社1907.10
■珊瑚美人 (政治小説)
(日)三宅彦弥原訳 中国商務印書館編訳所重訳
上海・中国商務印書館 光緒31.4首版(1905)/9再版 説部叢書二=5
三宅彦弥『珊瑚美人』東京三友堂1895.12.21
■世界一周 (冒険小説)
(日)渡辺氏著 商務印書館編訳所訳
中国商務印書館1907.6/1908.1再版 説部叢書七=6
■侠黒奴 (義侠小説)
(日)尾崎徳太郎(紅葉)著 呉梼訳
中国商務印書館1906.6 説部叢書六=2
尾崎紅葉『少年文学第19編 侠男児』博文館1892.6
■侠女郎 (冒険小説)
(日)押川春郎(ママ浪)著 呉梼訳
上海商務印書館1915.5.26/10.14再版 説部叢書2=47
岡崎由美は、押川春浪『冒険小説 女侠姫』1907未確認とする。
■血簑衣 (義侠小説)
(日)村井弦斎著 中国商務印書館編訳所訳
中国商務印書館1906.6/12二版 説部叢書五=10
村井弦斎「両美人」『郵便報知新聞』1892.9.7-11.15連載。単行本は春陽堂1897.6。

 ほかに日本語経由で漢訳された欧米の作品も多数ある。これらを含めて、「説部叢書」からはいずれも排除されてはいない。重版をくりかえしているほどによく読まれていたというのが事実だ。
 「説部叢書」の目録を見れば、日本の原作があるかないか、すぐに確認できることだ。謝菊曾は、商務印書館編訳所に勤務していたにもかかわらず、調べるという少しの努力すらせず、たまたま自分が見聞したことだけをあたかも「説部叢書」全体の方針のように拡大解釈したのである。

○集編の番号
 『佳人奇遇』『経国美談』にかわって『天際落花』と『劇場奇案』が組み込まれた事実だけは、わかった。
 では、両書の集編番号は、どうなっているのか。
 元版2型だから第一集第一編『天際落花』と第一集第二編『劇場奇案』となるはずだ。
 だが、この両書については、初集本しか記録がない。私が見ていないだけで、どこかに第一集本があるのかもしれない。探索の課題とする。

○作品の移動
 改組にあたり、作品配列の手直しも行なわれた。
 第四集第三編『魯濱孫飄流記』のうしろに、本来は第五集第三編に配置されていた『魯濱孫飄流続記』を移動した。つまり『魯濱孫飄流続記』は、第四集第四編にくりあがったのだ。それにともない9作品について1番ずつズレていった*4。
 だが、番号がズレている改組後の元版2型を原物で確認することができない。さがせば出てくるはずだが、今は、課題としておく。

○●印の謎
 元版2型第四集第一編『寒桃記』の表紙に、集編番号を●印で塗りつぶす版本がある。
 中村忠行は、塗りつぶしの原因を元版第二、第三、第四集と新企画になる第2、第3、第4集との「間に生ずる名称の混乱」を避けるためであるとする。
 はたして、そうか。
 確かに、元版第二、第三、第四集と初集以後の名称が重複してしまう。だが、●印で塗りつぶした『寒桃記』の発行年は「光緒三十二年二月首版」で1906年だ。一方、初集以後の第二集が発行されはじめるのが1914年以降になる。『寒桃記』が出てきた1906年には、新企画の第2集など影も形もない。配慮する必要などなかったから●印でかくすこともない。
 改組にともなう作品配列の移動に関係するだろうか。
 説明したように、集編番号が変更になるのは、第四集第四編からだ。『寒桃記』は第四集第一編だからその影響外にある。
 理由は別のところに求めなければならない。今は、疑問としておきたい。

◎4-5 刊行完結と一括販売
 目録を見るかぎり、元版第十集全10編のうち、8編が1908年に発行されている。上の改組が同じく1908年だとすれば、全十集の刊行完結を1908年だと考えれば、つじつまがあう。
 1908年に改組と刊行完結があったとすれば、前出『上海指南』に見られる箱入りの一括販売も時間的につながって納得がいく。
 実は、『上海指南』(1909年)と同文の箱売り広告が、『東方雑誌』第5年第9期(1908.10.19)に掲載されている。
 この広告を根拠にしても、やはり、改組、刊行完結、一括販売が1908年に実行されたと見て間違いなかろう。
 先に示しておいた『東方雑誌』第8巻第1号(1911.3.25)の広告は、当然、改組後の作品と配列になっている。
 一括販売を行なったのは、1908年が最初だ。1911年、おなじく2度目の一括販売が予告される。

 『東方雑誌』第8巻第9号(1911.11.15)
 「装訂結実/説部叢書/印刷精良/装一木箱定価二十八元」と表示する。説明文は、よくにている。

本館所印之説部皆系新訳新著饒有興味早已風行一時積五六年之力始得完成一百種計一百二十八冊若毎冊零購共須洋四十元零若百種合購祇収回洋念八元並装一木箱廉以便携帯

 木箱の写真を添えているのが目を引く。携帯便利とは、とても思えないが、まとめておけば紛失をまぬかれることも可能だ。
 以上の2度にわたる一括販売の木箱に詰められた書籍群は、改組されているから『天際落花』『劇場奇案』に始まる元版2型――すなわちタンポポ文様の表紙をもった翻訳小説である。

◎4-4 改称――初集
 1908年、作品を入れ替えて改組した元版全十集一百種を増刷して一括販売を行なっていた。
 清朝末期に歓迎された翻訳小説であるが、中華民国になってそれに対応した新しい時代には、またそれ以上の新しい翻訳小説が刊行されてもいい。継続して規模を拡大するのに、第十一集十種というふうに、数を重ねるのもひとつの方法だ。だが、時代の変化にあわせて古い叢書を新しく装うためには名称を変えるのもひとつのやり方としてある。
 元版全十集を初集と呼びかえ、全100種とする。それにつづけて第2集100種というぐあいに数えれば、規模が大きくなっても対応できる。
 というような議論が商務印書館編訳所で行なわれたのではなかろうか。その間の事情を説明する証言は、なにひとつ残ってはいない。だから私が想像するのだ。
 初集と改称して、表紙も一新する。その時期は、1913年ではなかろうか。
 1914年4月再版の奥付をもつ翻訳書があまりに多いため、改称は1914年かと考えた人もいるかもしれない。
 だが、初集の表紙をもつ以下の発行年月を見れば、1913年に初集の初版が出版されたとわかる。

 初集第14編『降妖記』乙巳2/1913.12
 初集第17編『埃及金塔剖屍記』乙巳3/1913.12
 初集第18編『懺情記』乙巳4/1913.12
 初集第56編『霧中人』丙午11/1913.10
 初集第63編『空谷佳人』丁未3/1913.9

 以上の改革は、いずれも商務印書館と金港堂が合弁会社であった時代に実行されている。
 ところが、1913年から金港堂との合弁を解消する交渉がはじまった(正式決定は1914年1月)。

◎4-5 1914年の再版
 合弁解消が成功することを予定していたのだろう、「説部叢書」初集100種をまとめて再版することにした。
 その予告が『東方雑誌』第10巻第4号(1913.10.1)と翌第5号(11.1)に掲載されている。資料だから全文を引用する(下線部分は大活字を使用)。

説部叢書 商務印書館出版
右:一百又三十冊/一万六千余頁/七百数十万言
左:零售四十余元/預約減収十元/陽歴二月截止
本館出版小説。情節新奇。趣味濃深。極承閲者歓迎。惟以陸続発行。未得窺全貌為憾。本館特▲重行彙印▲発售。定価二十元。預約十元。▲不及原価四分之一▲中有▲林琴南▲先生手筆▲二十一種▲尤為本叢書之特色。三年陽暦▲三月出版決不有誤▲〓ling刊▲目録様本▲函索即行▲寄贈▲預約二月底截止。四川、雲南、貴州、陝西、山西、甘粛、新疆、八省。路途較遠。展期至五月底為止。愛読小説者▲幸勿失此機会▲
◎◎上海商務印書館謹啓

 文中でわざわざ林琴南の名前を出すのは、外国文学の翻訳者として、購読者を増加させる効果があったことを意味する。
 民国3年3月には必ず刊行すると約束した。だが、実際は1ヵ月遅い4月になった。
 先に『商務印書館訳印説部叢書三集様本』を示しておいた。上の広告を見ると初集を再版するとき募集した予約に「目録様本」を発行すると書いてある。初集で行なったのと同じことを三集発行時にも実行したことがわかる。
 中国は広い。上海から離れて遠い地方の読者には、3ヵ月の時間的余裕を見るのも親切な扱いだ。
 本文は、紙型を利用して増刷ができる。あるいは、多めに印刷していて在庫があったのであれば、それを使うことが可能だ。
 前年の1913年に一新した表紙――赤色縦書きの書名は、そのまま流用する。奥付だけを張り替えればいい。
 こうして、商務印書館が金港堂との合弁を解消した直後に、大型叢書「説部叢書」の初集100種の再版が大々的に発売された。大いに注目を集めただろう。現在、一般に目にすることのできる版本がこの1914年再版本であるというのは、それだけ大量に印刷発行したという証拠である。

◎4-6 元版と初集の混在
 1914年、「説部叢書」の再版がまとまって出版されたことは以上の説明で理解できる。
 再版本が出る前の1913年に、奇妙な現象が発生している。
 1913年といえば、それまでの元版(2型)第一集から第十集までを改称して「初集」にした年だ。普通、新しいシリーズの出版がはじまれば、旧版(このばあいは元版2型)は、印刷しない。ところが、商務印書館は、作品によっては、「初集」が発行されたあとに、元版を出版している。つまり元版と初集が混在しているのだ。
 3作品について、その元版2型と初集本の奥付を示す。

第四集第三編
『魯濱孫飄流記(冒険小説)』2巻 上下巻 (英)達孚著 林〓、曾宗鞏訳
DANIEL DEFOE“LIFE AND STRANGE SURPRISING ADVENTURES OF ROBINSON CRUSOE”1719
*中国商務印書館 1905.12/1906.閏4再版[叢書778]
上海商務印書館 乙巳年(1905)十二月/中華民国二年(1913)十月六版
→初集第33編
*上海商務印書館 乙巳年(1905)十二月/1913.10五版
上海商務印書館 乙巳年(1905)十二月/中華民国三年(1914)四月再版

 「1905.12」は新旧暦の混用だ。それを考慮すれば、元版が乙巳年(1905)十二月に発行されたのは、記述が一致している。元版についていえば、それの再版、六版がだされたのも理解できる。
 初集第33編を見ればどうなるか。奥付表示が1914年の再版となっているのは、同一作品について初集で再版した、という意味である。しかし、初集になって「1913.10五版」があるのに、1914年4月の再版と表示するのは版数の数え方がおかしいではないか。
 それよりも、初集の五版を1913年10月に発行していて、おなじ10月に元版六版を出すのは、同時に元版と初集を印刷発行したことを意味する。これが元版と初集の混在である。

第七集第七編
『真偶然(言情小説)』26章 (英)伯爾著 商務印書館編訳所訳
上海商務印書館 丁未年(1907)六月/中華民国二年(1913)十月三版
*1907.6/1908.1再版[叢書779]
→初集第67編
上海商務印書館 丁未年(1907)六月/中華民国二年(1913)七月三版
上海商務印書館 丁未年(1907)六月/中華民国三年(1914)四月再版

 こちらも元版が丁未年(1907)六月の発行であるのは、一致している。
 初集は、1913年7月に三版が刊行された。それより後の同年10月に元版の三版を出版したことが奥付を見ればわかる。元版と初集がここでも同時に存在している。初集の三版を数えているのに、翌年4月のあとからのものが再版と称するのも奇妙だ。

第七集第9編
『希臘神話(神怪小説)』(英)巴徳文著 商務印書館編訳所訳
JAMES BALDWIN著
上海商務印書館 丁未年(1907)六月/中華民国二年(1913)五月三版
*1908.1再版[叢書779]
→初集第69編
上海商務印書館 丁未年(1907)六月/中華民国二年(1913)十二月三版
上海商務印書館 丁未年(1907)六月/中華民国三年(1914)四月再版

 『真偶然』と似た現象が見られる。元版の1913年5月三版と初集の1913年12月三版が、あやしい。ただし、一方が5月で他方が同年12月なら、時間的にズレているから矛盾しているとはいえないかもしれない。初集の三版があるのに、後のものが再版となるのは矛盾する。
 混乱しているとしかいいようがない。

●5 結論

 商務印書館版「説部叢書」の成立過程は、かなり複雑な様相を呈しているといわなければならない。
 商務印書館が翻訳小説をまとめた「説部叢書」シリーズを初集から第4集まで発行しました、と簡単にすませることはできないことが理解できよう。
 図式にしてまとめると、以下のようになる。

 先元版→(1903-07)元版1型ab→(1905-08)元版2型表紙一新→(1908)改組→(1913)改称して初集表紙一新→(1914.4)再版→第2集100種、第3集100種、第4集22種の発行

 「説部叢書」の成立と変遷について、要点だけを述べておきたい。
 1.先元版
 商務印書館が単行本で出版した外国小説の漢訳本、あるいは『繍像小説』創刊後、連載した翻訳小説がある。最初から「説部叢書」にまとめる構想はなかった。翻訳小説の発行点数が多くなるにつれて、それらをひとつの叢書にまとめる方針が打ち出される。
 2.(1903-07)元版1型ab
 元版とは、第一集から第十集まで各集十種の合計百種のことだ。
 『佳人奇遇』『経国美談』が第一編と第二編に配列されている。
 本文は雑誌連載のものならば、その作品部分を抜き出して使用する。単行本で発行されたものは、紙型を使用する。表紙、あるいは扉は別に印刷したものをはりつけるだけでいい。
 「説部叢書」としてまとめはじめられたのは、1903年だと考える。
 元版1型aは、表紙あるいは扉の表示が毛筆であるものを指す。
 元版1型bは、「説部叢書」の集編表示と商務印書館の名称が活字になったものを指す。
 3.(1905-08)元版2型表紙一新
 タンポポ文様の表紙に徐々に統一していく。ある作品には、元版1型bの扉を併用する。過渡期の現象だ。
 表紙を一新したことにより「説部叢書」としての統一感がうまれただろう。
 4.(1908)改組
 『佳人奇遇』と『経国美談』の2作品を、『天際落花』と『劇場奇案』に差し換える。一部の作品の順序を入れ替えもする。これを改組とよぶ。
 1908の改組が実行された段階で、全百種をまとめて販売した。2度目のまとめ売りは、1911年に実行された。
 5.(1913)改称して初集表紙一新
 元版の第一集から第十集というまとめ方を、廃止する。新しく初集100編と改称し番号をふりなおす。同時に、紅字縦書き書名の表紙に変更する。
 商務印書館は、金港堂との合弁解消を見越して、1913年に全編の再版予告を行なう。
 6.(1914.4)再版
 予告より約1ヵ月遅れて再版本を発行した。
 7.第2集、第3集、第4集の発行
 第2集100種を1914-15年に、第3集100種を1916-20年に、第4集22種を1921-24年に刊行した。
 番外 (1914)「林訳小説叢書」の発行
 簡単に触れるだけにする。
 林〓の翻訳を、まず、50種を集めて「林訳小説叢書」となづけた。その発行は、奥付によると1914年6月である(第2集50種には、刊年を記載しない)。
 『東方雑誌』第11巻第1号7月号(1914.7.1)に「林訳小説叢書 五十種九十七冊」の発売広告が掲載されていることだけを指摘しておく。



【注】
1)『商務印書館与新教育年譜』26頁。『東方雑誌』創刊号(光緒三十年正月二十五日)の広告に掲載されている。『商務印書館与新教育年譜』は、『東方雑誌』の広告にもとづいて当時の刊行物を採取したのだから、あって当然だ。
2)『商務印書館与新教育年譜』30頁
3)謝菊曾「商務編訳所与我的習作生活」『(1897-1992)商務印書館九十五年――我和商務印書館』北京・商務印書館1992.1
4)第四集第四編『洪罕女郎伝』→第四集第五編/第四集第五編『白巾人』→第四集第六編/第四集第六編『澳洲歴険記』→第四集第七編/第四集第七編『秘密電光艇』→第四集第八編/第四集第八編『蛮荒誌異』→第四集第九編/第四集第九編『穽中花』→第四集第十編/第四集第十編『寒牡丹』→第五集第一編/第五集第一編『香嚢記』→第五集第二編/第五集第二編『三字獄』→第五集第三編





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附録1:商務印書館版「説部叢書」変遷概略図

1903-07 1905-08 1913 1914.4再版
  1908箱売り 1911箱売り 13再版予告
先元版 元版   1908改組 改称して初集
1型ab 2型表紙一新 表紙一新
*佳人之奇遇1901 *一=一 一=一佳人奇遇 刊年不記 ×
*一=一天際落花1908 1=1 1914.4再版
経国美談後編 活版線装 一=二経国美談a刊年不記 *一=二経国美談 刊年不記 ×
*一=二劇場奇案1908 1=2  〃
夢遊二十一世紀1903繍像小説 *一=三 *一=三 1=3  〃
華生包探案1903繍像小説 一=四補訳華生包探案a  一=四補訳華生包探案 1=4華生包探案 〃
   1903十一    1906/1907
小仙源1903繍像小説 *一=五 *一=五 1=5  〃
*案中案1904 *一=六 *一=六 1=6  〃
*環遊月球1904 *一=七環遊月球b表紙写真 *一=七 1=7  〃
*吟辺燕語1904 *一=八 *一=八 1=8  〃
*美州童子万里尋親記1905 *一=九 *一=九 1=9  〃
*黄金血1904 *一=十 *一=十 1=10 〃
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珊瑚美人1904?繍像小説 二=五珊瑚美人b1905 1=15 〃
四=一寒桃記1906●で消去
*四=三魯濱孫飄流記1905 四=三魯濱孫飄流記1913六版1=33 〃
四=六澳洲歴険記b1906− *四=七澳洲歴険記1908 1=37 〃
美人煙草1906東方雑誌 六=三美人煙草b1906−− 六=三美人煙草1906 1=53 〃
*七=七真偶然1907 七=七真偶然1913.10三版 1=67/1913.7三版
*七=九希臘神話1907 七=九希臘神話1913.5三版 1=69/1913.12三版
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第2集1914-15年刊行
第3集1916-20年刊行
第4集1921-24年刊行
「林訳小説叢書」第1集1914
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附録2:商務印書館版「説部叢書」第一集全十編(改組以前)目録(『新編清末民初小説目録』にもとづき作成した)

1■佳人奇遇 (政治小説)
(日)柴四郎ママ著 中国商務印書館編訳所訳
中国商務印書館1906.11六版/8三版
東海散士柴四朗『佳人之奇遇』博文堂1885.10-1897.10[叢書777][大典9][中村]刊年不記(馬祖毅703頁)訳本於1901年由広智書局出版単行本。1902年、又由商務印書館編入“説部叢書”。
★『東方雑誌』8:1広告では(言情小説)天際落花に入れ替える。
2■経国美談 前編20回 後編25回
((日)矢野文雄) 中国商務印書館編訳所訳
中国商務印書館 無版年
矢野龍溪『斉武名士 経国美談』全2編 報知社1883.3-1884.2[叢書777]『東方雑誌』8:1広告では(偵探小説)劇場奇案に入れ替える。[中村]鉛印本
3■夢遊二十一世紀 (紀西歴紀元後二千零七十一年事)
(荷蘭)達愛斯克洛提斯著 楊徳森訳 楊珈統校閲
中国商務印書館
DR.PSEUD DIOSCORIDES“ANNO 2065.,EEN BLIK IN DE TOEKOMST”1865。本名PIETER HARTING。華訳はDR.ALEX.V.W.BIKKERSの英訳再版本によったらしい(中村忠行)。『東方雑誌』8:1広告
4■補訳華生包探案 (のち華生包探案)
(柯南道爾著 上海商務印書館編訳所訳述)
上海商務印書館(光緒29癸卯11(1903))
ARTHUR CONAN DOYLE“THE MEMOIRS OF SHERLOCK HOLMES”1894。光緒二十九年癸卯仲冬上海商務印書館主人序。哥利亜司考得船案“THE GLORIA SCOTT”1893.4、銀光馬“SILVER BLAZE”1892.12、孀婦匿女“THE YELLOW FACE”1893.2、墨斯格力夫礼典“THE MUSGRAVE RITUAL”1893.5、書記被騙“THE STOCKBROKER'S CLERK”1893.3、旅居病夫“THE RESIDENT PATIENT”1893.8。顧燮光「小説経眼録」
★『東方雑誌』8:1広告では(偵探小説)華生包探案とする。
5■小仙源 (原名小殖民地 冒険小説)
戈特爾芬美蘭女史著 (商務印書館訳)
中国商務印書館
JOHANN DAVID WYSS“DER SCHWEIZERISCHE ROBINSON”1812-27。息子JOHANN RUDOLF WYSSが出版。英訳“THE SWISS FAMILY ROBINSON”『東方雑誌』8:1広告
6■案中案 (偵探小説)
(英)柯南達利著 商務印書館訳印
中国商務印書館
ARTHUR CONAN DOYLE“THE SIGN OF FOUR”1890.2『東方雑誌』8:1広告
7■環遊月球 (科学小説)
(法)焦奴士威爾名士著 商務印書館訳
中国商務印書館
JULES VERNE“AUTOUR DE LA LUNE”1869。英訳“A TRIP ROUND THE MOON”。井上勤訳『月世界一周』博聞社1883.7.28。『東方雑誌』8:1広告
8■吟辺燕語 (英国詩人 神怪小説)
(英)莎士比(亜)著 林〓、魏易同訳
中国商務印書館
CHARLES LAMB, MARY LAMB“TALES FROM SHAKESPEARE”1807。肉券MERCHANT OF VENICE、馴悍TAMING OF THE SHREW、〓誤THE COMEDY OF ERRORS、鋳情ROMEO AND JULIET、仇金TIMON OF ATHENS、神合PERICLES、蠱徴MACBETH、医諧ALL'S WELL THAT ENDS WELL、獄配MEASURE FOR MEASURE、鬼詔HAMLET、環証CYMBELINE、女変KING LEAR、林集AS YOU LIKE IT、礼哄MUCH ADO ABOUT NOTHING、仙獪A MIDSUMMER NIGHT'S DREAM、珠還THE WINTER'S TALE、黒〓OTHELLO、婚詭TWELFTH NIGHT、情感THE TWO GENTLEMEN OF VERONA、颶引THE TEMPEST。顧燮光「小説経眼録」『東方雑誌』8:1広告
9■美州童子万里尋親記
(美)増米自記 (英ママ)亜丁編輯 林〓、曾宗鞏同訳
中国商務印書館
WILLIAM L.ALDEN“JIMMY BROWN TRYING TO FIND EUROPE”1889。『東方雑誌』8:1広告
10■黄金血 (偵探小説)
(美ママ)楽林司朗治著 商務印書館訳
中国商務印書館 光緒30.11(1904)
LAWRENCE LYNCH著『東方雑誌』8:1広告


(かんだ かずみ)