中国におけるコナン・ドイル(3)
樽本照雄
●7 『四つのサイン』――漢訳『四名案』と『案中案』
038 The Sign of Four | Lippincott's Magazine 1890.2
英文原題は、2種類ある。“The Sign of the Four”と“The Sign of Four”だ。“the”があるかないかだが、ややこしい。初出『リピンコッツ・マガジン』に掲載されたとき、題名は“The Sign of the Four; or, The Problem of the Sholtos(四つのサイン、もしくはショルトー一族の問題)”であったという*51。
単行本になったときの書名は、“the”がなかった。しかし、作中では、“the”をつけて使っている。というように混在しているのが実情である。
コナン・ドイルが最初に書いたシャーロック・ホームズ物語が『緋色の習作』(1887)だった。それから2年とすこし経過して発表されたホームズ物語の第2作となる。
中国では、清末に翻訳されたものは、2種類ある。『四名案』と『案中案』だ。
◎7-1 『四名案』
『(唯一偵探譚)四名案』原文医士華生筆記、英国愛考難陶列輯述、無錫呉栄鬯、〓禾尤山}長康同訳 文明書局 光緒癸卯(1903)
本漢訳は、残念ながら見る機会を得ていない。中国の研究者にもたずねたが、中国でも所蔵が不明であるという。きわめて有名な翻訳である。しかも、研究書には書名を掲げて説明しているにもかかわらず、所蔵がわからないというのは、不可解である(ご教示いただけるとありがたい)。
すでに触れたが、本書においてなされている著者名などの表記は、興味深い。医者のワトスンが記録したものを、コナン・ドイルが編集著述したことになっている。つまり実話をもとにして書かれた物語だという認識なのだ。
『四名案』を紹介する文章がある。
『遊戯世界』第1-2期(刊年不記)*52に掲載された寅半生「小説閑評」に収録されている*53。
それまでの漢訳ホームズ物語に触れて、『時務報』にはじまり、これが『包探案』の書名で刊行されたこと、商務ママ書館の『繍像小説』の『続包探案』に受け継がれる、と説明している。
誤解がある。『繍像小説』の漢訳は、『補訳華生包探案』のちの『華生包探案』であって、『続包探案』は、文明書局から出版されている別物だ。似たような書名で発行されるから、混乱している。
寅半生は、該書の粗筋を述べることによって紹介にかえる。その評価というのは、「ただこの作品は、不思議でかつ壮大であり、その風変わりで変化するなかに、申し分のない夫婦の縁をひそませて、巧妙に組み合わせている。実に探偵事件のなかにひとつの特色をだしているのだ」というもの。
もうひとつは、人名が5、6文字になるものがあり、読みづらいと注文をつけているのが目新しいか。ただし、その注文が妥当であるかどうかは、別問題だ。外国小説に出てくる人名が漢訳するさいに、3文字、あるいは4文字におさまらないからといって、読みづらいと文句を言う方もいう方だ。中国小説ではないのだから、同じであるわけがない。だいいち歇洛克福而摩斯は、7文字だ。だからこそ「福」と省略形を使うのだが。
顧燮光「小説経眼録」(『訳書経眼録』1927初出未見。研究巻535-536頁)も、『四名案』をとりあげている。
話の大筋を紹介し、ホームズの推理をほめる。ただし、漢訳については、やや厳しい評価をくだす。すなわち、むだに重複していて、3分の1は削ることができる、というものだ。原文を見ていないから、本当にそうなのかどうかは不明である。
ただし、前述寅半生は同書異名の『案中案』を評して、つぎのようにいう。「本作品は、『四名案』である。そのなかの筋はひとつも加筆削除をしない。しかも、そのまま述べており、『四名案』に雰囲気があるのにはおよばない」
寅半生は、『案中案』よりも『四名案』の漢訳を高く評価している。しかし、その評価基準が、現在とは異なるように見える。
できるだけ原文のままを翻訳するのが、あるべき翻訳の姿勢だと私は考えている。しかし、寅半生は、加筆削除をして雰囲気のあるように変更するのがよい漢訳だと思っているらしい。寅半生が当時の翻訳観を代表しているかどうかは、わからない。だが、ひとつの見解であるということはできる。
はたして漢訳の実態はどうなのか。具体的に検討できるようになるまで、結論はだせないだろう。
◎7-2 『案中案』
『(偵探小説)案中案』は、1904年に商務印書館から単行本で発行されたという。
最初から「説部叢書」に組み込まれていたかどうかは不明だ。「説部叢書」の表示があるかどうか、1904年発行の原物をみていないから確認できない。
つまり、可能性としては、ふたつある。
ひとつは、翻訳作品の単行本『案中案』が発行される。そのあとで、「説部叢書」に組み入れられ、扉に「説部叢書 第一集第六編」と印刷した本が出版される。
別のひとつは、最初から「説部叢書」の1冊として発行されるというかたちだ。
商務印書館「説部叢書」に入れられたのは、確認できている。最初は、第一集第六編であり、のちに改編されたとき初集第六編となる。
私が見ているのは、(英)屠哀爾士著、商務印書館編訳所訳、上海商務印書館(甲辰(1904)年十一月初版/民国二年五月六版)の「説部叢書」初集第六編本だ。
商務印書館は、『華生包探案』のときは原著者名をあきらかにしなかった。こちらは、奥付に「屠哀爾士」と示す。「ドイル氏」ということになろう。商務印書館編訳所を使う翻訳は、買い取り原稿であったという。
よく売れた。目録所収の発行年月を見ると、1905.3再版、1906.4四版、1914.2、1914.4再版などとあるところから、それがわかる。
英文原作は、12章に分けるが、漢訳では、それを無視する。(章題は、小林+東山訳による。[ ]内に説部叢書本のページを示す)
○第1章 推理学 The Science of Deduction [1-3頁]
冒頭を示す。
Sherlock Holmes took his bottle from the corner of the mantelpiece, and his hypodermic syringe from its neat morocco case. With his long, white, nervous fingers he adjusted the delicate needle and rolled back his left shirt-cuff. For some little time his eyes rested thoughtfully upon the sinewy forearm and wrist, all dotted and scarred with innumerable puncture-marks. Finally, he thrust the sharp point home, pressed down the tiny piston, and sank back into the velvet-lined armchair with a long sigh of satisfaction.(シャーロック・ホームズはマントルピースの片隅からびんを取り上げると、格好のよいモロッコ革のケースから皮下注射器を取り出した。そして、力強い白く長い指先で細い注射針を整え、左手のワイシャツのそでをたくし上げた。彼はおびただしい数の注射針の跡が点々と残る筋肉質の前腕と手首に、しばらくじっと視線を落とした。やがて鋭い針先を一気に突き刺し、小さな内筒をぐっと押し下げると、満足げに長い溜息をついてビロード張りのひじかけ椅子に身を沈めた)11頁
某年月日。余見歇洛克福而摩斯。自火炉架上取薬水一瓶。又出一革射管於軟皮篋中。復捲其袖。用細針刺入臂及腕上。一転瞬間。臂腕間水漬淋漓。乃収針棄管。閉目喘息。穩坐椅中。若甚愉快。(あるとき、シャーロック・ホームズは、暖炉の台から薬ビンを取り上げると、やわらかい革の箱のなかから注射器をだした。さらに、袖をめくり、細い針を手首と腕に刺すと、その瞬間、手首から腕はびしょびしょになった。針をしまうと、目を綴じて一息をいれ、静かに椅子に座ってとても愉快げであった)1頁
原作は、ホームズが、7パーセントのコカイン溶液を注射している場面からはじまる。
「モロッコ革」ではあるが、そのままに翻訳されるよりも、漢訳のように「やわらかい革」と翻訳してくれる方が、読者にはやさしい。ただし、手首から腕がびしょびしょになるというのは、原文の注射の跡を誤解したものだろうか。この部分の漢訳は、理解できない。さらに、7パーセントのコカイン溶液 cocaine, a seven-per-cent solution を「コカイン。75パーセントの溶液(哥加因。是為七成半之薬汁)」と漢訳するのは、あまりにも濃度が高すぎる。
ワトスンは、ホームズにコカイン注射をやめるように注意したいのだが、彼の才能に気おされて、それができない。ワトスンの心の葛藤部分を、漢訳では省略する。
ホームズからコカインをすすめられて、ワトスンは、「ぼくの体はアフガニスタン戦争の後遺症からまだ治っていないからね。よけいな負担などはかけられない。My constitution has not got over the Afghan campaign yet. I cannot afford to throw any extra strain upon it.」(12頁)と断わる。
漢訳では、「僕の身体は、すこぶる健康だから、まだそんなものはいらないよ。吾体殊健。尚無需此」(1頁)と答える。アフガン戦争で負傷をしたことを無視しては、ワトスンの生活史がだいなしになる。漢訳が、なぜこれを書き換えるのか、私の理解をこえる。
漢訳の出だしは、まあまあではある。だが、びしょびしょと75パーセントの誤解が見え、省略、書き換えもあるとなると、すばらしいできだとは言いにくい。探偵小説の翻訳では、細部をおろそかにしないことが肝心なのだ。漢訳者には、そこが理解できているのだろうか、と不安をおぼえる。
もう少し漢訳を見てみよう。翻訳者が、漢訳をする時の方針をさぐりたいのだ。原文に忠実に漢訳するのか、あるいは原文を適当につまんで翻訳してすませるのか。
ワトスンが、麻薬が身体によくないことをホームズに話すと、彼は、仕事によって精神が高揚するのだったら、麻薬は必要ではなくなると答える。ホームズにとっては、精神の高揚こそが生きている証明なのだ。
“My mind,”he said,“rebels at stagnation. Give me problems, give me work, give me the most abstruse cryptogram, or the most intricate analysis, and I am in my own proper atmosphere. I can dispense then with artificial stimulants. But I abhor the dull routine of existence. I crave for mental exaltation. That is why I have chosen my own particular profession, or rather created it, for I am the only one in the world.”(「ぼくの精神は停滞を嫌うのさ。問題があればいい。仕事がしたいのだ。このうえなく難解な暗号文の解読でもいい。あるいは複雑このうえない分析でもいい。そうすれば、ぼくはすぐに水を得た魚のように生き返るのさ。そうなれば人工的な刺激などは要らなくなる。ぼくは、ぼんやりと生きていくことに耐えられない。精神の高揚が必要なのだ。だからこそ、自分の性にあったこの職業を選んだ、いや、創り出したと言うべきかな。世界広しといえども、この仕事をしているのはぼくしかいないのだからねえ」)13頁
鄙性好動。不能常静。新奇之事。足以啓吾思想者。無不楽為。愈幻愈妙。藉以舒暢胸懐。然欲究新奇事理。必須大費心力。而求助於斯薬。雖身体有損。而収效実足償之。故自信世間操業最奇。而用心最深者。莫我若也。(僕の性格は動くのがすきで、いつも静かにしてはいられないんだ。目新しい事で、僕の考えを啓蒙してくれるのに十分なものは、楽しくないわけがない。不思議なものほどいいんだな。それで心を解き放つんだ。ただ、目新しい事の道理を解明するためには、大いに神経をすりへらさなくてはならず、そこでこの薬の助けがいるというわけなんだ。身体には悪くても、効果がある。だから、僕だけが、この世の中で最も奇妙で、もっとも用心しなくてはならない仕事をしていると信じているんだよ)1-2頁
漢訳者は、誤解している。ホームズは、仕事で精神の高揚感を得ることができれば、麻薬など必要はない、といっている。だが、漢訳では、精神を静めるために麻薬がいる、と反対に翻訳する。わかっていないのだ。
ホームズだけの仕事、すなわちただひとりの私立諮問探偵 the only unofficial consulting detective である。漢訳では、「議探」とする。
「議探」とは、なつかしい。以前に使われたことのある新しい翻訳語だ。すでに述べたことがある。『泰西説部叢書之一』の訳者・黄鼎らが、警察官の「包探」とは区別して私立探偵の訳語として「議探」を考えだしたのだった。
ホームズのところには、事件の解明に行き詰まった警察官が相談にくる。グレグスン、レストレイド、アセルニー・ジョウンズたちだ。漢訳は、彼らを登場させず、この部分を削除する。
ホームズにとっては、仕事そのものが報酬であることをいう。その例として『緋色の習作』があげられる。
“……But you have yourself had some experience of my methods of work in the Jefferson Hope case.”/“Yes, indeed,”said I cordially.“I was never so struck by anything in my life. I even embodied it in a small brochure, with the somewhat fantastic title of ‘A Study in Scarlet.'”(「……あのジェファスン・ホープ事件で、ぼくのやり方はすこしはわかってもらえたと思うがね」/「そう、よくわかったよ」わたしはすなおに認めた。「あれほど感銘を受けたことは今までになかったね。だから、『緋色の習作』という少々風変わりな題名をつけて、小さな冊子にまとめたというわけだ」)13頁
吾之所最快心而見長者。為傑福森一案。子其知之乎。余欣然曰、唯。然鄙意紅色案尤奇。(僕が最も楽しんで得意としたことは、ジェファスン事件で、君は知ったのじゃないかな。そうだ、私の考えでは「緋色事件」が特に奇怪だった、と答えた)2頁
文中にいうジェファスン・ホープ事件とは、『緋色の習作』のことをさす。漢訳は、ここで「傑福森一案」とするが、第7、8章で出てくる時「傑弗森花栢(命)案」(33、40頁)と書き換える。単なる不統一か。
『緋色の習作』の漢訳である『恩讐血』の発行が1904年であった。『案中案』とは同書異名の『四名案』が出版されるのは、その前年の1903年だから、両書の関係を知っている読者はいなかったのではないか。しかも、「紅色案」だから題名を見ただけでは、『恩讐血』『大復讐』『福爾摩斯偵探第一案』『歇洛克奇案開場』のいずれとも関連が見いだせない。
漢訳では、さらに、原文を省略する。『緋色の習作』にワトスンがロマンチックに味付けしすぎたというホームズの批評、フランス人のホームズに対する賞賛、ホームズのタバコの灰に関する論文、足跡についての論文、些細なことが重要であることなどだ。
原文には、ホームズ物語を象徴する文句がでてくる。すなわち、「他の要因をすべて消していって、残ったのが真実というわけさ。Eliminate all other factors, and the one which remains must be the truth.」(17頁)。これを漢訳では削除するのだから、困ったものだ。第6章でも同様のセリフが出てくるが、漢訳は、それも無視する。
ホームズ物語の特徴のひとつであり、しかも中国の読者によって特に好まれたのが、ホームズの観察術だ。『四つのサイン』でも、当然、でてくる。ふたつある。
ワトスンが、その朝、郵便局に行って電報を打ったことを、ホームズは観察によって推理する。この部分を省略した。漢訳全体の分量を圧縮するためかもしれない。くりかえすが、あの有名な「他の要因をすべて消していって、……。Eliminate all other factors, …….」(17頁)というセリフも削除している(第6章にも関連する語句がある)。それにしても、読者の好みを無視した漢訳者の処置は、納得できない。
もうひとつのワトスンの時計についての観察術は、漢訳する。
時計を観察しただけで、それがワトスンの兄のものであること、父親から譲り受けたもの、兄の性格は、だらしなくずぼらで、何度も機会を失い、金回りがよかったり悪かったり、長い間貧乏でとうとう酒浸りになったことをいう。ここまで、漢訳は、ほぼ原文通りに翻訳している。
会ったこともないはずの兄について、ホームズがあまりにも詳しく知っているのでワトスンは、驚く。ホームズは、当て推量はしない。彼が推理の根拠を説明する部分を見てみよう。
For example, I began by stating that your brother was careless. When you observe the lower part of that watch-case you notice that it is not only dinted in two places but it is cut and marked all over from the habit of keeping other hard objects, such as coins or keys, in the same pocket. Surely it is no great feat to assume that a man who treats a fifty-guinea watch so cavalierly must be a careless man.(たとえば、君の兄さんはだらしない人だ、とぼくは言った。時計の側を見ると、下の方が二か所へこんでいるだけでなく、一面にかすり傷がついているのがわかる。これは、硬貨や鍵といった固いものと一緒にポケットに入れておく癖があったからだ。五十ギニーもする高価な時計をこんなふうに扱う人間をずぼらな人と推理するぐらいでは、大した芸当とも言えない)20頁
即以令兄為人不謹而言。試観表殻下沿。有汚痕二處。界紋無数。此与銀銭鑰匙同置一嚢之証。以値千余先令之表。而不知珍惜。任意乱置。其為人不謹可知(君の兄さんはだらしがないといった。時計の側を見ると下あたりに汚れが2ヵ所と無数のキズがある。これは硬貨や鍵といっしょにポケットにいれていた証拠だ。千シリング以上もする時計を大切にせずほうりだしているところから、性格がだらしないとわかるのだ)3頁
ここの漢訳は、ほぼ英文原作通りだといってもいい。50ギニーがなぜ千シリング以上になるのか。誤訳ではない。1ギニー金貨は、21シリングに相当するから、計算すれば1,050シリングとなる。漢訳者は、イギリスの貨幣制度には詳しいようだ(漢訳42頁に「一幾〓口尼}」に割注して「英幣値二十一先零」とある)。
It is very customary for pawnbrokers in England, when they take a watch, to scratch the numbers of the ticket with a pin-point upon the inside of the case. It is more handy than a label as there is no risk of the number being lost or transposed. There are no less than four such numbers visible to my lens on the inside of this case. Inference -- that your brother was often at low water. Secondary inference -- that he had occasional bursts of prosperity, or he could not have redeemed the pledge. Finally, I ask you to look at the inner plate, which contains the keyhole. Look at the thousands of scratches all round the hole -- marks where the key has slipped. What sober man's key could have scored those grooves? But you will never see a drunkard's watch without them. He winds it at night, and he leaves these traces of his unsteady hand.(イングランドの質屋では、普通、時計を質に取るときには、ふたの内側にピンの先で質札の番号を書いておく。札を貼るより便利だからね。なくなったり他のと入れ替わったりする危険性をなくすためだ。ルーペで見ると、ふたの内側にそういう番号が四つも見える。まず、推理できるのは、君の兄さんはたびたび金に困っていたということだ。さらには、時には金回りがよくなることもあったということにもなる。そうでなければ、質草を引き出せないからね。最後に、内ぶたを見てほしい。ネジ穴がついているだろう。穴のまわり中に無数の引っかき傷が見えないかい。ネジが滑ってできた傷だ。しらふの人なら、ネジでこういう引っかき傷をつけないだろう?ところが、酔っ払いの懐中時計には、必ず傷がある。夜中に時計のネジを巻くので、ふるえる手で傷をつけてしまうのさ)20頁
英国質庫常例。質入之表。必用針刺識号数。以免混雑。是表殻内有第四号字様。可知而兄常以入質。不免窘迫之憂。至嗜酒一事。可験諸鑰孔。其處有紋無数。蓋由彼酔時開表。心神恍惚手腕触動所致。苦心定神爽者。必不至此(英国の質屋の常として、質入れの時計には、まぎれるのを防ぐために、必ず針で認識番号を書いておく。この時計の内側には、4号活字の大きさのがある。お兄さんはいつも質にいれていて、貧乏の憂いに苦しんでいたことがわかるのだ。酒好きというのは、鍵穴でわかる。そこには無数のキズがついているが、酔っ払ったとき時計を開け、ぼんやりしていて手が震えてつけたものだ。しっかりしているなら、そんなことにはならないよ)3頁
小林+東山訳に「ネジ穴」とあるのは、原文でいえば keyhole に当たる。鍵穴だ。鍵を使ってネジを巻くから、「ネジ穴」でも間違いではない。蛇足ながらつけくわえれば、当時、すでに竜頭巻き時計はあったが、まだ鍵でネジを巻くものの方が多く、上に引用したのはこの鍵巻き時計のことを指している*54。
イギリスのお金には詳しいとほめたところなのに、訳者は、質草の番号について誤解をしている。数字が4個もあるから、それだけの回数を入れた、すなわち金に困っていた証拠としている。出したというのは、金が入って質草を受け出したことを意味しているのだ。それを数字の大きさに解したのでは、この部分が漢訳者には、わかっていないという意味になる。肝心の部分が、はずれる。たよりない。
そこにミス・メアリ・モースタン(Miss Mary Morstan 美蘭馬斯頓)が登場する。
○第2章 事件の始まり The Statement of the Case [3-8頁]
事件が解決されたのち、ワトスンは、このメアリと結婚することになる。だから、初対面の印象は、重要な意味をもっている。容貌、着衣について説明したあとで、ワトスンは、つぎのようにつけくわえる。
In an experience of women which extends over many nations and three separate continents, I have never looked upon a face which gave a clearer promise of a refined and sensitive nature.(わたしはこれまで、三大大陸の数多くの国々で、様々な女性を見てきたが、これほど上品で繊細な人柄を表わした顔には、出会ったことがなかった)22頁
この大事な箇所を、漢訳は削除するのである。なんということをするか。
さて、メアリが語る事件というのは、こうだ。
メアリの父は、インドのある連隊で士官をしていた。子供だったメアリは、イギリスに送りかえされ、母親はなくなっている。メアリは、17歳になるまで寄宿舎で生活をする。1878年、父親が1年間の休暇でアンダマン諸島 the Andaman Islands から帰国したが、メアリに会う前に、ロンドンで消息をたってしまう。父の知人だというショルトー少佐 major Sholto(漢訳では、最期まで美査喜爾〓手也}と表記する)は、彼が帰国していることすら知らなかった。その後、1882年5月4日の『タイムズ』紙にメアリの住所をたずねる広告が掲載され、それに答えると、毎年、大粒の真珠が入っているボール箱が届くようになった。
メアリの父が、アンダマン諸島で囚人警備隊の将校をつとめていたというのが、この事件の鍵のひとつなのだ。読者がその重要さには気づかないように、ドイルはさりげなく記述している。
話の筋とは関係のない箇所だが、どうして間違うのか、と思うような漢訳がある。上の、日付で the fourth of May を「四月四号」とするのは、誤訳ではなく誤植だろう。
6粒の真珠をホームズらに見せ、さらに、手紙が届いた、とメアリは、説明をつづける。
手紙の日付は7月7日*55で、メアリを呼び出している内容だ。
ここまでは、漢訳は、ほぼ原文通りともいってもいいくらいの翻訳になっている。だが、信じられないような間違いがある。ホームズが、メアリの持参した手紙を点検しながら独り言をいう箇所だ。
The envelope, too, please. Post-mark, London, S.W. Date, July 7. Hum! Man's thumb-mark on corner -- probably postman. Best quality paper. Envelopes at sixpence a packet. Particular man in his stationery. No address.(封筒も見せていただけますか。消印はロンドン南西区域局、日付は九月七日。おや、隅に男の親指の指紋があるが、おそらく郵便配達人のものでしょう。最上質の便せんと、一束六ペンスの封筒。文房具にかけては、うるさい人物のようだ。差出人の住所はなし)25-26頁
上蓋倫敦S.W郵局印。七月七日発。紙良佳。信封毎包値六便士。語至此。忽詫曰。信函上何来指印。美蘭曰。度為投遞者所汚。福不語(ロンドン南西区の消印がある。7月7日の投函だ。紙質はよい。便せんは1包6ペンスだ。ここまでくると、ふと怪しんで、封筒のうえの指紋はどこからか、という。たぶん投函した人のものでしょう、とメアリが言葉をはさむと、ホームズは、なにもいわなかった)6頁
英文を見ても、メアリの出番は、ない。ホームズの独り言で、自分で観察しながら自分で点検している。便せんの指紋が投函した人間のものだったら、ひとつの材料となるところだ。ワトスンなら、口をはさむ可能性もないこともない。だが、なぜ、メアリに首をつっこませる必要が漢訳にあるのか。いらぬお節介ではないか。しかも、もともとホームズが口にした言葉通りでもない。ここは、漢訳者の捏造といってもいい。
この漢訳者は、翻訳について、何か根本的に勘違いしているのではないか、と私は危惧する。原作のままを漢語に置き換えるだけでは、すぐれた翻訳ではない、と考えているのではないか。
おかしな箇所は、まだある。その呼び出しの手紙の待ち合わせ場所だ。原文では、「ライシーアム劇場前面の、左から三番目の柱のところ at the third pillar from the left outside the Lyceum Theatre」(26頁)を、「ライシーアム劇場の左ボックス3号室で 蘭勝戯院左廂第三室中」(6頁)と書き改める。
ホームズが調べ物で外出するとき、ワトスンに示した本がある。「ウィンウッド・リードの『人類の苦悩』 Winwood Reade's ▲Martyrdom of Man▲斜体」だ。漢訳では、「ウィンウッド著『義士殉教記』 Winwood Readママ 〓リッシン軍}桓特所著之義士殉教記」とする。
漢訳がなぜ英語で著者の名前を、それも間違ったものを提示するのか不明。『義士殉教記』という漢訳書名もいかがか。Martyr は、当時の英漢辞典には「守死善道者,為教致命者」とあって、たしかに殉教者だ。だが、-dom がついて、苦痛という意味があるのを、漢訳者は知らなかったらしい。
○第3章 解決の糸口 In Quest of a Solution [8-11頁]
帰宅したホームズは、ショルトー少佐が、すでに死亡していることをワトスンに告げる。メアリ嬢に送られてくる真珠は、少佐の死亡と関係があるという。
呼び出し場所にむかって、メアリ嬢ら3人が一緒に馬車に乗る。メアリは、不思議な図面をみつけたといってホームズに見せる。建物の見取図のようであり、奇妙な記号と名前が書かれている。
In the left-hand corner is a curious hieroglyphic like four crosses in a line with their arms touching. Beside it is written, in very rough and coarse characters, ‘The sign of the four -- Jonathan Small, Mahomet Singh, Abdullah Khan, Dost Akbar.' (左手の隅には、四つの×印を横につなげて一列に並べたような奇妙な記号が見える。そのわきには、たいへん乱雑な文字で『四つのサイン――ジョナサン・スモール、マホメット・シング、アブドゥラー・カーン、ドスト・アクバー』と書かれている)32頁
左角有四直線。縦横相交。其下草書“The Sign of thefママ our -- Jonathan Small, Mahomet Singh, Abdullah Khan, Dost Akbdママr.”四花押。其音為傑納森斯麻。墨漢模新。亜勃度汗。特斯安倍(左下に四つの直線があり、縦横に交わっている。その下に筆記体の英文で四つのサインがある。ジョナサン・スモール、マホメット・シング、アブドゥラー・カーン、ドスト・アクバーだ)9頁
人名など、ここでも英語をそのままに引用しているが、その必要があるのだろうか。音訳しているのだから、なおさら不自然さを感じる。四つのサインを「四花押」と漢訳している。これで十分だと思う。好意的に解釈すれば、題名に関係する部分だから、原文も示して強調したかったのかもしれない。あとでも同じことを行なっている。
また、「四花押」こそが書名なのだ。なぜ、変更して『案中案』としなければならなかったのかも不明である。『四花押』のままに、これを書名にすればよかったのだ。
時は9月の夕方 It was a September evening である。だが、手紙の場面で7月にしてしまっているから、漢訳では、つじつまを合わせるために9月を省略した(10頁)。英文原作の矛盾した箇所だから、漢訳者の処理は、しかたがない。
劇場につくと(漢訳は、待ち合わせ場所を、あいかわらず「左廂第三号室」(10頁)と誤解している)男が近づいてきて、別の馬車に案内する。車中でワトスンは、不安でならず、メアリを元気づけようとアフガニスタンでの冒険を話して聞かせる。
To this day she declares that I told her one moving anecdote as to how a musket looked into my tent at the dead of night, and how I fired a double-barrelled tiger cub at it.(今になっても彼女に言われることだが、真夜中にわたしのテントにマスケット銃がのぞきこんだので、それに向かって二連発の子ども虎を発射したなどという、しどろもどろで感動的な話をしていたらしい)34頁
在某地鎗斃一虎。在某地獲一猛獣(あるところでは虎を1頭撃ち殺し、またある場所では猛獣をつかまえた)10-11頁
原文は、ワトスンのあわてぶりを描写している。どこに連れて行かれるかわからないのだから、不安でないはずがない。「二連発の子ども虎を発射した」などとありえない表現が、その時のワトスンの心情を如実に表わしているから、今でもメアリにからかわれるのだ。漢訳は、その滑稽さを無視して、単なる武勇伝に書き換えてしまった。不十分である。
ある屋敷の前で馬車はとまった。インド人の使用人が、3人を中に案内する。
○第4章 サディアス・ショルトーは語る The Story of the Bald-Headed Man [11-18頁]
その家の主人は、すでに死亡したショルトー少佐が残した双子の息子のひとりサディアスだった。貧弱な屋敷であるが、部屋は豪華に飾り立ててある。カーテン、絵画、花瓶、じゅうたん、虎の皮、銀の香炉などの調度品を描写する。だが、なぜかしら大きな水ギセル a huge hookah を漢訳していない。意味するものがわからなかったのか。だから、サディアスが気分を落着けるためにタバコを水ギセルで吸う場面が、妙なことになる。
Well, then, I trust that you have no objection to tobacco-smoke, to the balsamic odour of the Eastern tobacco. I am a little nervous, and I find my hookah an invaluable sedative.(それでは、失礼して、タバコを一服させていただきますよ。東洋の香り高いタバコです。少々興奮しておりまして。心を静めるには、水ぎせるが一番でしてね)39-40頁
客悪煙気否。僕所吸者。産東方。昧良善。無悪気。僕脳筋易漲。終日需此。尚祈垂諒(皆さんはタバコ<アヘン>の匂いはお嫌いですか。私が吸いますのは東洋産でして、落着くのにいいのです。悪い匂いはしません。私の脳は疲れやすくて、いつもこれが必要なんです。失礼しますよ)13頁
漢語で「煙」といえば、タバコとアヘンの両方を意味する。水ギセルを漢訳しないから、アヘンを吸っていると中国の読者には理解されたかもしれない。もっとも、本作品においては、ホームズも葉巻を吸っているが、その時の漢訳も「吸煙」となっている。
漢訳は、サディアスが部屋の中の絵画を自慢する場面を省略する。コロー Corot、サルヴァトール・ローザ Salvator Roza、ブーグロー Bouguereauなどの名前を漢訳したところで、読者には無用だという訳者の判断なのだろう。そうかもしれない。だが、こういう一見ムダに見える箇所を、細かく漢訳しておくことが、小説読みの楽しみにつながる可能性があるかもしれないことに、漢訳者は、気づいていないのである。
ショルトーは、父がインドで成功し、退役帰国した後に起こったことを話して聞かせた。
彼の父は、アッパー・ノーウッドのポンディチェリ荘に住んだが、何かを恐れていた。義足をつけた男を、特に嫌っていた。メアリの父モースタンが帰国してショルトーを訪ねたのは、インドで入手した財宝の分け前を要求するためだったのだ。ところが、配分について意見があわず興奮のあまりメアリの父は、心臓発作で死んでしまった。警察に届ければ財宝のことが知られるかもしれない。そこで死体を処分してしまう。これが、不可思議な失踪の真相なのだ。1882年、インドから手紙が届くと、父は、ショックを受けて寝込んでしまった。息子ふたりを枕もとによんで遺言したいという。それまでの経緯を話し、モースタンの娘、すなわちメアリに分け前をやってくれ、それが真珠の頭飾りだという。財宝の隠し場所を告げるところで、暗やみに人が潜んでいるのに気づく。窓際に駆け寄っているあいだに、父は死んでしまった。翌朝、その遺体のうえには「四つのサイン」と書いた紙切れが留めてある。真珠の頭飾りは、遺言通りに郵送されつづけた。双子の息子は、庭中を掘りおこしさがしまわり、兄がとうとう屋敷の隠し部屋を発見し、そこに財宝をみつけたという次第だ。
以上が、ショルトーが水ギセルを吸いながら話した長い物語の粗筋である。
いくつかの箇所で、漢訳が気にかかる。
アッパー・ノーウッドのポンディチェリ荘 Pondicherry Lodge in Upper Norwood を「上拿垣旁色隙来落棋」(13頁)と漢訳する。地名だから、「上」とわざわざ翻訳するまでもない。一方で、 Lodge を音訳して「落棋」としたのは、間違いではないが、本当に理解しているのかどうか、これでは不明だ。
護衛にプロのボクサー two prize-fighters 2名を雇っていた。漢訳が、「2名の強い下僕(二健僕)」(14頁)になるのはしかたがないか。
遺言をしたいといったのは、4月末ごろ the end of April だ。8月末「八月杪」(14頁)にするのはなぜか。
遺体のうえに留められた「四つのサイン」という紙片だが、漢訳では、遺体のうえではなく、箱のうえに変更する。しかも、ここでも原文を示す。しかも誤植がある。「The Sign ofthe Fouzママ 四花押」(16頁)。強調したいのも理解できるが、しつこい。
父親の死亡について話されたとき、メアリ嬢は真っ青になって気を失いそうだった。ワトスンがヴェネチアン・グラスの水差しから水を注いで手渡したのを飲んで、元気をとりもどす。
これを漢訳では、「メアリは父親の死の知らせを聞いた時、気を失ってしまった。私は急いで水を飲ませると、ようやく気がついた(美蘭聞父死耗。已暈去。余急飲以水。始醒)」(16頁)と書き換える。豪華なヴェネチアン・グラスも消え失せており、意味がズレる。
どうでもいいような箇所であると思われるか。もし、そう感じるならば、誤訳しないでいただきたい。
そこで配分を要求するためにみんなしてポンディチェリ荘へおもむくのだ。
財宝の値打ちが50万ポンドを下らないと聞かされて、ワトスンの気分は沈んだ。
Miss Morstan, could we secure her rights, would change from a needy governess to the richest heiress in England. Surely it was the place of a loyal friend to rejoice at such news, yet I am ashamed to say that selfishness took me by the soul and that my heart turned as heavy as lead within me.(もし、モースタン嬢の権利を確保してあげることができたら、彼女は貧しい家庭教師から、いちやくイングランド一の相続人になれるはずだ。確かに、こんな嬉しい知らせを聞いたら、心から祝うのが本当の友達というものだ。しかし、恥かしいことに、自分勝手な考えにとらわれて、わたしの心は鉛のように重く沈んだ)49頁
因思美蘭或分得応有之資。則驟為英倫富女。竊為美蘭慶。不覚露於言語間。美蘭与余素無交誼。乃関切如是(メアリが手に入れるべき金銭をあるいは得ることができれば、たちまちイングランド一の金持ちになると思った。メアリのために喜んでいることが、おもわず言葉に漏れたのだ。メアリと私は交際はないけれども、関心はあった)17頁
友人として祝うという部分は、かろうじて漢訳に反映されている。しかし、ワトスンの心が沈んだという部分の意味が、漢訳者には理解できなかった。通り一遍の表面的なワトスンの反応しかすくい取れておらず、勝手に原文を無視する。ワトスンの心は、なぜ、沈んだのか。いうまでもなく、メアリ嬢を好きになっていたからだ。その彼女が、突然、大金持ちになってしまったら、愛の告白をしたところで金めあてだと誤解される可能性が高い。だから、心が沈む。そう読むべき箇所だから、漢訳を見れば、原文を理解しているとは思えない。原文第7章にこのときのワトスンの気持ちが文字に示されているからこそ、ますます、いぶかしく感じる。
○第5章 ポンディチェリ荘の悲劇 The Tragedy of Pondicherry Lodge [18-22頁]
夜の11時近く、ポンディチェリ荘に到着した。待ちうけていたのは、双子の兄バーソロミューの死体だった。密室の殺人事件である。そのうえ財宝が盗まれていた。
さきにショルトーの護衛がプロ・ボクサーであることを述べた。ホームズたちを主人の命令がないから屋敷には入らせない、と拒む下僕が、それである。
ホームズが、声をかける。
Don't you remember that amateur who fought three rounds with you at Alison's rooms on the night of your benefit four years back?(四年前、アリスン館での君のチャリティ試合の夜、君と三ラウンド戦ったあのアマチュア・ボクサーを、覚えているだろう?)51頁
爾猶憶四年前。在亜礼生室中。与爾角技者乎(4年前、アリスン室で、君と戦ったのを覚えているだろう)18頁
ホームズにはボクシングの心得がある証拠となるせりふなのだ。漢訳では、ここでもボクシングについてはいわない。チャリティもアマチュアもだ。日本語でもカタカナを使用しているように、もともと漢語にはない言葉だから、漢訳で省略してもしかたがなかろう。
暗やみのなかで、ワトスンとメアリは自然と手を握りあっていた。愛情のきざしである。当時を回想して、メアリは、ワトスンを頼っていたのだと何度も語った。その部分の原文と漢訳は、以下のようになっている。
I have marvelled at it since, but at the time it seemed the most natural thing that I should go out to her so, and, as she has often told me, there was in her also the instinct to turn to me for comfort and protection.(後になってこそ、なぜそうなったのか信じられないような気がしたが、その時は、そうすることが何より自然だと思えたし、彼女のほうも、慰めと保護を求めて本能からわたしを頼ったのだと、その後何度も語り合ったものだ)54頁
美蘭顧余曰。妾性惶怯。君幸見憐。復緊握両手(メアリは私を見て言った。私は怖がりですし、さいわいあなたが保護してくださいます。そうしてきつく両手を握った)20頁
英文原作では、時制の転換がある。物語のなかでは現在だが、その物語全体を過去のこととして回想するという視点が導入されている。だが、漢訳のほうは、すべてを現在に帰属させる。だから、その場で、頼りになるとメアリに言わせることになった。理解が不十分である。
ドアを破ってなかに入る。死体のそばに紙切れがある。漢訳は、ここでも「The Sign of Four.四花押」(21-22頁)と英文を引用するが、the が抜けている。
ホームズは、警察に通報するようショルトーにいいつけた。
○第6章 シャーロック・ホームズの活躍 Sherlock Holmes Gives a Demonstration [22-29頁]
ホームズが行なう現場の調査と、間抜けな警部アセルニー・ジョウンズが対比して描かれる。犯人の名前までホームズによって特定される。義足のスモールである。彼は、事件の全体をすでに把握しているようだ。しかし、密室殺人の謎がここで明らかになるわけではない。
第1章で「他の要因をすべて消していって、残ったのが真実というわけさ」という有名な言葉を漢訳が省略したことを指摘しておいた。この第6章にも、それを詳しく説明する箇所がある。
How often have I said to you that when you have eliminated the impossible, whatever remains, ▲however improbable▲斜体, must be the truth?(これまでにも、君に言ったと思うが、ありそうにないものを消していって、残ったものが、たとえどんなにありそうでなくとも、真実に違いない)63頁
漢訳者がここを削除したのは、こういうセリフは、事件の進行とはなんの関係もないという判断だろうか。もしそうであれば、探偵小説のおもしろみを知らないことになるだろう。
死体の硬直と毒トゲについて、漢訳が省略しなかったのは、さいわいである。犯人推理のうえでの重要なてがかりを中国の読者に残しているからだ。
ホームズが特定した犯人の名前は、Jonathan Small 傑納森斯麻だ。漢訳は、英文を添えて強調する。
○第7章 樽のエピソード The Episode of the Barrel [29-37頁]
本作品は、短篇ではないから、一気に事件解決とはならない。謎の追求がある。それは一直線ではなく、脇道にそれてしまうこともあるのだ。
本章では、ふたつの話題がある。ひとつは、ワトスンのメアリ嬢に対する愛情と、もうひとつは、犬を使った犯人追求とその失敗だ。
原文では、ワトスンの苦悩が、詳しく述べられている。まず、メアリ嬢は、精神的に揺さぶられているから、こんな時に愛を押しつけるのは、相手の弱みにつけこむことになる。また、彼女は金持ちになってしまったから、年金をうけている軍医では、財産狙いだと思われるかもしれない。ふたつのことが原因で、ワトスンの言葉も少なくなっていた。
漢訳は、原文通りではなく、すこし離れて簡潔にしてしまった。「精神が不安定なところにかまうのはよろしくない。また、万一事件が解決して、彼女が財宝を得るとなると、貧富がはるかに違ってしまう。そう考えずにはおられようか。だから、疑いを避けないわけにはいかなかった。徒以心神無主。周旋失宜。又万一破案。珍宝復得。則貧富迥殊。何敢罔想。固不得不遠嫌耳」(29頁)
犬を借りに寄るのだが、そのシャーマンという人物は、ロンドン訛で話す。漢訳者は、これにてこずる。
ワトスンが誰か知らずに脅かし、毒蛇を落とすという。viper を wiper と発音するから、漢訳は、「鞭」にしてしまった。アナグマ badger もイタチ stoat も、みんな犬に漢訳する。目的の犬が、スパニエル spaniel とラーチャー lurcher の血がまじっているのも、省略。事件の大筋とは関係はない。だが、そういうことをする漢訳者なのだ。
原文を無視して平気な傾向のある漢訳者は、それによって誤りを免れた例もある。
ホームズが、屋根裏部屋を調査するためランタンを前にぶら下げられるようにする場面でのことだ。
Now tie this bit of card round my neck, so as to hang it in front of me.(ランタンをぼくの前に提げられるように、首の回りに、この紐を結んでくれたまえ)79頁*56
請以灯假余。並請以灯索繋余頸下(ランプを僕に貸してくれ。それからランプの紐を僕の首のまわりに結んでくれないか)31頁
原文の“card”は“cord”のあきらかな誤りである。漢訳者は、それに気づいたから、躊躇なく訂正して翻訳した。
追跡の途中、ホームズは、ワトスンに答えて、事件のあらましを話して聞かせた。モースタンとショルトーは、囚人警備隊の士官で、囚人4人が隠した財宝を横取りしたという。インドからの手紙は、囚人たちが脱走したことを知らせるものだった。4人にしてみれば、制裁だから、「四つのサイン」もその記念なのだ。
犬は、途中で迷って、とうとうたどりついたのが樽だった。途中で、混線したため間違った目標に到着したというわけだ。
犬が犯人のところまで連れていってくれて事件が解決したというのでは、芸がなさすぎる。
○第8章 ベイカー街遊撃隊 The Baker Street Irregulars [37-45頁]
義足の犯人は船に乗って逃亡したとわかった。貸し船屋のかみさんがいうには、夜中の3時頃、義足の男が亭主を起こして一緒に出かけたという。
about three it would be.‘Show a leg, matey,' says he:‘time to turn out guard.'(あれは、三時頃だったかな。『おい、起きろ』って、どなるんです。『当直の時間だぞ』ってね)94頁
時已至。苟不信。請視吾足(時間だぞ。信じないんだったら、おれの足を見てくれ)39頁
仲間 matey と呼びかけているから、義足の男と貸し船屋はいくらかの面識はあったらしい。Show a leg というのは、俗語で「起きる」という意味だ。漢訳が「請視吾足」とわけのわからぬ直訳風にしてしまったのは、その俗語が理解できなかったからだ。
新聞で事件が報道された。これを引用するのは、事件の概要を復習するためである。ホームズ物語では、第1作の『緋色の習作』から利用されている方法であることは周知のことだろう。
本書にも出現する刑事警察ベイカー街支隊 the Baker Street division of the detective police force は、「培克街之探捕」(40頁)と漢訳している。もうひとつの呼称、the Baker Street irregulars の方は、「培克街之閑探隊」(42頁)と表現をかえる。『恩讐血』の「▲匏瓜街▲之偵探巡捕軍」、あるいは『歇洛克奇案開場』の「俾格爾街偵探隊」とにたようなものだ。別の日訳は、ベイカー街不正規連隊という。いうまでもなく、浮浪児たち street Arabs で構成される少年探偵団である。漢訳が「アラブ人。亜剌伯人」(42頁)としたのは、英語の単語にまどわされたからだ。文脈からいって、なぜ突然、アラブ人が出てくるのか不思議に感じなかったのだろうか。
ホームズは、義足の犯人に協力者がいたと目星をつけ、それがアンダマン諸島の原住民だろうと推理する。
○第9章 解決への鎖が切れる A Break in the Chain [45-52頁]
犯人がのった船の行方が、わからなくなった。事件が解決するまえの、膠着状態におちいる。この停頓があるからこそ、犯人逮捕の際の緊張が、生じる。なんの障害もなく、超人的な探偵の働きで、するすると犯人がつかまってしまえば、それが質のよくない探偵小説の証拠となろう。
ワトスンは、新聞に尋ね人広告が載っているのに気づいた。(犯人が逃亡に使った)船と父子を、その家族がさがしているという形にしてある。短い文面であるが、漢訳は、3ヵ所もあやしい。ひとつ、船長の息子ジムを省略する。出航時間の「先日の火曜日午前三時頃 about three o'clock last Tuesday morning」(110頁)を「先日の火曜日朝7時頃。於前星期二晨七句鐘時」(48頁)に変更する。連絡先の「ベイカー街二二一B at 221B, Baker Street」(同上)を「ベイカー街B字221号。培克街B字二百二十一号」(同上)とした。
警察もお手上げで、ジョウンズがホームズから呼び出しをうけて訪問してくる。ホームズは、なにかてがかりを見つけたらしい。そこに船のありかを知っているという老水夫が来る。それこそはホームズの変装なのである。
変装を必要とする理由まで述べてある。
You see, a good many of the criminal classes begin to know me -- especially since our friend here took to publishing some of my cases:(たくさんの犯罪者が、わたしの名前を知り始めていますからね。ことに、このワトスンが、わたしのかかわった事件のうちのいくつかを発表するようになってからですが)116頁
近宵小識余者日多。且自華生偵探録之作。益易為人注目。非喬装不可(僕のことを知っている悪人が、近頃はふえていますからね。また、ワトスンが探偵記録を発表するようになって、ますます人が注目して、変装しなくてはだめなんだ)51頁
ワトスンがホームズの探偵記録をとって発表している、と書いてあれば、それが事実だと考える中国の読者がいても不思議ではなかろう。
ホームズは、老水夫の変装で調査をした結果、ついに犯人を逮捕できる手はずを整えたらしい。財宝が見つかったとき、分配をうける権利をもったメアリ嬢に最初に箱を開けてもらうという異例の条件も、ジョウンズは、承知した。まことに異常である。これでは、警察の権限も権威もあったものではない。ホームズに、事件解決のすべてをゆだねた警察の弱みである。
すべての条件をジョウンズがのんだから、そこで食事を一緒にすることにした。
I have oysters and a brace of grouse, with something a little choice in white wines.(カキと、つがいのライチョウ、それに、白ワインのちょっとしたのがありますよ)118頁
余有佳肴旨酒。特以饗客(上等な料理にうまい酒があります。それでお客さんをもてなすことにしましょう)52頁
こういう細かいところに手を抜くから漢訳がつまらないものになる。カキ、ライチョウ、白ワインという名詞を翻訳するのにどれくらいの労力がかかろうというのだろうか。簡単な事柄を省略しているところに、漢訳者の姿勢が見える。あくまでも具体的に描写するからこそ、大きな虚構を支えることができるという事実に、漢訳者は気づいていない。
カキもライチョウも、7月のものではなく9月だという説がある*57。手紙の日付の7月は間違いで、ドイル自身が9月に訂正しなくてはならない、というのに符合する(原文は、なぜか訂正されていないが)。
事件調査が静の状態から、動の状態に急変するのが、次の第10章だ。
○第10章 島から来た男の最期 The End of the Islander [52-58頁]
ホームズたちは、警察船に乗り込んだ。行き先の the Tower といえば、ロンドン塔に決まっている。漢訳はたんに「鐘楼」(52頁)としており、その知識がないことを示している。
船中でホームズは、犯人の行動について彼の推測を説明する。船が見つからないのは、造船所に隠されていたからだ。老水夫の変装をしたのは、その確認のためだった。
この章の最高潮は、船による追跡劇だ。高速船どうしで抜きつぬかれつを展開する。猛烈な速さで逃亡するのを、全速力で追っかけるのだ。
ほんの一部分をお目にかけよう。
The furnaces roared, and the powerful engines whizzed and clanked like a great metallic heart. Her sharp, steep prow cut through the still river-water and sent two rolling waves to right and to left of us. With every throb of the engines we sprang and quivered like a living thing.(ボイラーは唸り、強力なエンジンは巨大な金属の心臓のように、荒く力強い音を響かせた。鋭く尖った船首が、静かな水面をかき分けて、左右両舷に波のうねりを送り出す。エンジンが鼓動するたびに、船上にいるもの全員が、一つの生き物になったように、飛び上がったり、震えたりした)126頁
鑪中火声機声。轟騰震耳。衝波直進。船舷浪激瀾翻。水花飛濺。機輪一震。跳躍幾如絶大動物(ボイラーの火と機械の音が、ゴウゴウと耳を震わせた。波にぶつかり直進すると、船の両側面に波がはげしくみだれ、水しぶきがまきあがる。エンジンが震えて、まるで巨大な動物のようにとびあがる)55頁
漢訳は、原文の逐語訳というわけではない。しかし、緊迫した雰囲気はよく伝えている。
義足の犯人には、協力者がいた。アンダマン諸島の原住民だ。その男が船の上にうずくまっている。そいつが吹き矢を使う瞬間に、ホームズとワトスンの拳銃が鳴った。原住民は、川に落ちていく。船は、沼地に乗りあげ、義足の男は泥に足をとられて身動きならず、逮捕されてしまった。甲板には、鉄製の箱がある。これこそが、ショルトー一族の呪われた財宝なのだ。
○第11章 大いなるアグラの財宝 The Great Agra Treasure [58-63頁]
本章は、長くはない。
財宝は、無事、入手した。大金持ちになるメアリ嬢とワトスンは、どうなるのか。下心があると思われるのではないかと躊躇するワトスンは、この困難をどう乗りきるつもりか。読者は、かたずをのんで注目している。
問題を一挙に解決するためにドイルがひねり出したのが、この第11章なのである。
宝の箱の鍵は、河底に投げ捨てたことにした。ドイルは、その場で箱を開けたくなかったからだ。しかたなく、ワトスンは、直接メアリ嬢のいるところへ財宝の箱を持って行く。ホームズが、事前に警視庁のジョウンズに約束させたことが伏線になっている。だが、どう考えても不自然な話の運びであるように思う。ただし、そういうことにしなければ、ワトスンとメアリ嬢の恋愛も、劇的な展開をむかえることにならない。
メアリ嬢は、ひとりで家にいた。ワトスンは、財宝を持参したことを告げる。
“I have brought something better than news,”said I, putting down the box upon the table and speaking jovially and boisterously, though my heart was heavy within me.(「知らせより、ずっとよいものです」と言って、私は箱をテーブルの上に置き、陽気にはしゃいでしゃべったが、本心は重かった)136頁
余欣然置鉄箱於〓卓木}。曰。謹報好音(私は、喜んでテーブルのうえに鉄の箱を置いていった。よいニュースをお知らせしましょう)61頁
漢訳は、原文の「本心は重かった」を省略する。財宝を手に入れたのだから、嬉しいに決まっているとでもいいたいらしい。漢訳者は、ワトスンの複雑な心理状態を理解していないといわざるをえないのだ。
ワトスンが、テムズ河での追跡劇などを話しはじめるのも、おかしなことだ。まず箱を開けてからでもいいはずだが、いっこうにそうしない。蓋を開ければ、それで話が終わってしまうから、ドイルはむりやり引き伸ばしている。
さて鍵がないから、その家のあるじ「フォレスター夫人の火かき棒を、ちょっとお借りしましょう。I must borrow Mrs. Forrester's poker.」(138頁)。こじあけようというのだ。漢訳が、「フォレスターの鍵を借りて開けることにしましょう。可借花爾斯〓心弋}之鑰匙啓之」(62頁)とするのは、誤解だ。これでは鍵の役目をなさない。
箱は、空だった。義足のスモールが、自分のものにならないのならというので、河に捨てたのだ。
ワトスンとメアリ嬢を隔てていた障害がなくなったことを意味する。ふたりは、お互いの愛情を確かめた。
○第12章 ジョナサン・スモールの不思議な物語 The Strange Story of Jonathan Small [63-83頁]
本章は、事件の謎解きに当てられている。
ホームズ物語第1作の『緋色の習作』は、2部構成になっており、前半で殺人事件の発生と犯人逮捕がある。後半が事件が発生する因縁話であり、謎解きをも兼ねていた。物語が2分されるのは、やはり構成上に問題があるといえる。第2作の本作品では、物語の一貫性を重視し、原因部分を1章にまとめたのは賢明であった。
義足の男ジョナサン・スモール(傑納森斯麻)が、自分の体験を語る。イギリスを出てインドで軍隊生活を送っていたが、ガンジス河でワニに右足を持っていかれた。セポイの乱が起きたためアグラへ避難する。インド北部の金持ちがアグラに隠そうとした財宝を奪う計画に引きこまれた。仲間は、スモールをいれて4人だ。
鉄の箱にいれている財宝を強奪する場面で、漢訳は、大きな誤訳をする。
I cast my firelock between his legs as he raced past, and he rolled twice over like a shot rabbit.(奴があっしの脇を走り抜けようとした時、銃を奴の足の間に投げつけてやると、弾にあたったウサギのように二回ころころと転がった)156頁
急発槍射之。商人応声倒(奴にむけて急いで発砲すると、商人はバッタリ倒れた)73頁
漢訳では、スモールが自ら殺人をおかしたことになってしまう。銃で殺したほうが、てっとりばやい、と訳者は考えたのだろう。だが、スモールがズル賢いのは、自分で直接手を下さないところなのだ。あくまでも、逃げるのを阻止しただけ。実際に殺したのは、他人なのである。
財宝を隠し、誰も抜け駆けしない誓いを4人でする。これが「四つのサイン」の理由なのだった。インド暴動が鎮圧されたところで、殺人容疑で4人は逮捕されてしまう。終身刑でアンダマン諸島へと移送された。そこに勤務していたのが、ショルトー少佐、モースタン大尉たちだ。賭けトランプの借金がかさんだショルトーに財宝の話をして取引を申し出る。これでスモールたち4人とショルトー、モースタンが結びつく。これこそが、事件の発端なのである。
あとは、述べるまでもない。財宝を一人占めしたショルトーを追って、スモールとアンダマン諸島の原住民トンガ(〓心弋}革)がイギリスへ渡ったというわけ。
もともとはインド人の財宝が、なぜにスモールを含めて4人の所有になるのか、おかしな理屈なのだ。だから、いちおうは、ショルトーに「政府のものだよ。To government 報官」(163頁/77頁)と答えさせている。ここでいう政府というのは、イギリス政府を指すのだろう。植民地というのは、そういうことになるのか。
どのみち不正な手段で入手した邪悪な財宝なのだから、それにメアリ嬢がからんでくると、ワトスンとの関係もややこしくなる。事件の結末としてスッキリさせるためには、やはり、財宝はテムズ河の底に捨てられなければならなかった。
では、メアリ嬢に送られてきた6粒の真珠は、どうなる。そのまま保存しておいたのだろうか。そうなら、ワトスンも承知のことになる。ワトスン、すなわちドイルは、その相当な値打ちのある真珠については、おしまいまで何も説明していない。世界に多数いるシャーロック愛好家のことだ、誰かが、この問題についてはすでに文章を発表していることだろう。
中村忠行は、「清末探偵小説史稿(一)」において、漢訳『案中案』をつぎのように評している。
「わざわざ原文を参照するまでもなく,大意訳である」31頁
「ただ筋を逐うて直叙するばかりであるから,無味乾燥,真に読み辛いものになつてゐる。前掲、寅半生の文に,「依事直敍,不及『四名案』之有神韻」とあるのは,訳文の巧拙もさることながら,如上の事実も大いに関係してゐるであらう」31-32頁
「さうした欠陥が認められるにもせよ,平静に之を眺めれば,『案中案』の訳文も,さう拙いものではない。失笑を買ふ様な誤訳も少なければ,詞章もそれなりに整つて居り、当代の水準からすれば,まづまづの翻訳と言へるのではないかと思ふ」32頁
漢訳は、物語全体をいじくって別物にしているわけではない。しかし、うえに見てきたように、誤訳と削除、ことに重要部分の省略が多いといわなければならない。私の見方は、中村の評価「まづまづ」よりもすこし厳しく、せいぜいが良の下どまりである。
以前にも述べたが、ここでも商務印書館編訳所の役割について疑問を提出しておこう。ちゃんと原稿を点検したのだろうか。点検をした結果がこの『案中案』ならば、その編集水準は、あまり高くない。
●8 『緋色の習作』
032 A Study in Scarlet | Beeton's Christmas Annual 1887.12
『緋色の習作』については、清末に少なくとも4種類の漢訳が出版されている。
阿英目録によれば、以下のようになる(*印は未見)。
1 恩讐血 柯南道爾著。陳彦訳。光緒甲辰(一九〇四)小説林社刊[阿英136]
2 *大復讐 英柯南道爾著。奚若黄人合訳。光緒甲辰(一九〇四)小説林社刊[阿英112]
3 *福爾摩斯偵探第一案 英柯南道爾著。佚名訳。光緒丙午(一九〇六)小説林社刊[阿英159]
4 歇洛克奇案開場 英柯南道爾著。林〓魏易同訳。光緒三十四年(一九〇八)商務印書館刊[阿英156]
4種類のうち、2種類しか私は見ていない。
いくつかの疑問があるが、原物で確認できないのだからしかたがない。ホームズ物語の第1作である『緋色の習作』とその漢訳については、別に文章を発表した*58。
そちらを見てもらうことにして、次は周桂笙の漢訳ホームズを紹介しよう。
【注】
51)小林司、東山あかね訳『四つのサイン』シャーロック・ホームズ全集第2巻 河出書房新社1998.6.25。179頁。ただし、ロンドン版『リピンコッツ・マガジン』には、“the”がついている。家次房夫「《四つのサイン》(誕生秘話)」小林司、東山あかね編『シャーロック・ホームズ大事典』東京堂出版2001.3.20。903頁
52)木版。「光緒丙午春季寅半生識於鏡秋閣」とあるから、発行は1906年ころだろう。また、阿英編「晩清文学叢鈔」小説戯曲研究巻(北京・中華書局1960.3上海第1次印刷)所収。研究巻は、台湾・文豊出版公司(1989.4)の影印本がある。
53)研究巻476-477頁
54)コナン・ドイル著、小池滋監訳『詳注版シャーロック・ホームズ全集』5 ちくま文庫1997.8.25。32頁注28
55)原作では、July 7 と書かれているから、漢訳も当然ながら「七月七日」と訳している。ただし、小林司、東山あかね訳『四つのサイン』は、「九月七日」(25頁)とする。ドイル自身が、9月に訂正しなければならないといっていることが根拠だ。同左187頁注24
56)コナン・ドイル著、小池滋監訳『詳注版シャーロック・ホームズ全集』5では「ランプが前にぶらさげられるように、この厚紙(カード)を首のまわりに結んでくれないか」143頁とある。注して「この“card”という単語は“cord”としなければならない」とある。
57)コナン・ドイル著、小池滋監訳『詳注版シャーロック・ホームズ全集』5。216頁注136
58)樽本照雄「漢訳ホームズ『緋色の習作』」『大阪経大論集』第53巻第1号(通巻第267号)2002.5.15
(たるもと てるお)