「老残遊記」の底本から回想録まで3題
沢本香子
●1 「老残遊記」の底本
本稿でいう「底本」とは、劉鉄雲著「老残遊記」を研究するさいに基準とすべき版本を指していう。
「老残遊記」は、なにしろ版本が多い。底本というのは簡単だが、みきわめるのはむつかしい。筋道を押さえておかなければ、版本の迷路にはいりこむ恐れがある。
底本問題を解決するためには、複雑な発表情況を頭にいれておく必要がある。それを知らなければ、何が重要な版本か理解できないからだ。
◎1-1 「老残遊記」発表に関連して
劉鉄雲が執筆した「老残遊記」は、初集20回、二集9回、外編残稿があるだけだ(呼称については、複数ある。本稿では初集、二集、外編残稿とよぶ。また、巻ではなく回を使う)。
そのうち、劉鉄雲の生前に公表された「老残遊記」は、初集と二集の2種類のみである。外編残稿は、彼の死後に発見された。全文が公表されたのは、1960年代になってからのことになる。
また、原稿第11回の一部分が「下書き手稿」として残っている。だが、これは、下書きであって公表された文章とは字句が一部異なる。底本問題に的をしぼっているから、ここでは取り上げない。
公表されたことを基準にすれば、以上にあげた初集20回、二集9回についての底本を確定することからはじめなければならない。
ただし、外編残稿は、劉鉄雲の生前には発表されてはいないが、重要な文章だ。ゆえに、これをふくめて底本を考えることにする。
劉鉄雲の「老残遊記」が発表されるいきさつは、書きはじめるときりがない。*1。
読者の理解を助けるため、大筋だけをかいつまんで示す。
「老残遊記」が最初に発表されたのは、雑誌『繍像小説』(1903ー04)においてであった。ところが、途中で原稿を没書にされて中断、『天津日日新聞』(1906?)に発表の舞台を移して完結する。これが初集20回だ。
同紙に二集9回を連載して(1907)中断した。
のちに、劉鉄雲の生前には公表されなかった外編残稿が出てくる。
簡単に述べれば、以上のようになる。
情況を複雑にしているのは、そのほかにいくつかの問題がこれにからんでいるからだ。
没書だけではない。南亭亭長(李伯元)「文明小史」との盗用問題がある。おまけに、掲載誌である『繍像小説』の発行遅延問題が、背景によこたわっている。李伯元の死後も『繍像小説』が発行されている事実が判明しており、「文明小史」の著者にまで問題がひろがってくる。いくつもの大きな謎が同時に存在しているが、指摘するだけにとどめて、今は触れない。
以下、初集、二集、外編残稿の順に底本を追求する。
重要だと私が考える版本だけをとりあげる。本文に言及されていない版本は、出版されていることを知っているだけでいい(参照:樽本照雄編『新編増補清末民初小説目録』済南・斉魯書社2002.4)。研究するばあい、底本にすることができないから無視してもいいという意味だ。
○1-2 初集
「老残遊記」の初出は『繍像小説』である。しかし、前述のように原稿第11回を没書にしたことにともない、前後回には編集者による書き換えがある。著者劉鉄雲とはかかわりのない部分で書き換えがあるという事実は、初出でありながら『繍像小説』の本文を底本にすることができないことを意味する。
『繍像小説』掲載分は、書き換え問題を考えるときに、参考にすべきものという位置づけである(雑誌の影印本がでているから簡単に見ることが可能だ)。
初集20回が完全な形で発表されたのは、『天津日日新聞』(1906?)紙上であった。
ゆえに、もっとも信頼できるのは、『天津日日新聞』に連載されたものということになる。
昔は、新聞そのものを見ることができたのも当然だ。だが、今は、できない。現在にいたるまで中国を含めて世界のどこにも、該当する『天津日日新聞』の原物は、その存在が確認されていない。
存在していないものを最善であると指定したところで、研究の役に立つわけではない。見ることができなければ意味はない。
そこで浮上するのが、『天津日日新聞』連載分をそのまま別に印刷して線装本に仕立てなおした単行本だ。天津・孟晋書社から刊年を示さずに出版されている。新聞連載後に出版された最初の単行本でもある。新聞の連載そのままだから、最善と同じことだ。原本は、天津図書館に所蔵される。
のちの版本で、『天津日日新聞』連載のもの、あるいは孟晋書社本を底本にしていないものは、利用するに値しないと考えてよろしい。底本を明示しない版本などは、問題外である。
孟晋書社本は、所在がはっきりしているのだから、自分で行くなりして閲覧することが可能だ。
自分の目で確認することがむつかしい人のために、『天津日日新聞』を底本としたという以下の版本がある。
a 北京・人民文学出版社1957.10
初集20回と二集6回を収録し、のちの再版本には二集に3回を追加する(後述)。。
『天津日日新聞』本に主として拠り、『繍像小説』連載本、亜東図書館本、藝文書房本を参照したと書いてある。
ここに出てきている『天津日日新聞』本は、上に示した孟晋書社本と同じものであろう。魏紹昌からの話だが、以前は、孟晋書社本は普通に見ることができた版本であったそうだ。そうかもしれないが、のちに情況が変化した。私が聞いた1980年代では、めったに見ることのできない種類の版本になってしまっていた。事実、天津図書館以外にその所蔵を知らない。該図書館以外の機関、あるいは研究者が個人的に所有している可能性は、ある。しかし、その存在が明らかにされたことはない。
劉鉄雲生誕百周年を記念して発行された人民文学出版社本(陳翔鶴校、戴鴻森注)は、『天津日日新聞』本によっていると書くが、本文に、異同がある。それが、担当者による校訂なのだろうか。ごく部分的な字句であって、話の筋に影響が生じるというものではない。だが、このことについて言及した文章がないから、特にここで指摘しておく。
また、本書は、残念なことにもともとあった評を削除する。『天津日日新聞』本にも掲載されている評なのだから、なぜ収録しなかったのか、その方が疑問だ。また、初集20回には注がほどこされるが、二集には注がない。
人民文学出版社本は、のちの出版社に大いに利用されることになった。つまり、出版社の多くは、本文をそのままに流用してすませるのである。
b 『中国近代文学大系』第2集第6巻小説集四 上海書店1992.12
本シリーズには、「老残遊記」初集20回、二集9回、外編残稿が収録されている。校訂者の名前は書かれていないが、劉徳隆である。
初集第1-9回は、『繍像小説』連載本を、第10-20回は『天津日日新聞』本を底本にした(二集、外編残稿については後述)。
附録として『繍像小説』に掲載された「老残遊記」第10、11回を収録する。書き換えがあるからそれとの対照ができるように工夫したのだ。
前半の底本を『繍像小説』本にしたのは、初出を重視するという考えなのだろう。ただし、劉鉄雲とは関係のない、編集者による書き換えが原因で連載が中断した。あらためて第1回より『天津日日新聞』に連載されている、という事実がある。再度、文章を公表するにあたって劉鉄雲が文章に手を入れている可能性もあるだろう。たまたま、本文には目立った異同がなさそうだからよかった。
だが、評については、そうはいかない。
第6回と第7回の評は、初出の『繍像小説』本とのちの『天津日日新聞』本では字句が異なる。のちの『天津日日新聞』に連載したとき、追加した部分がある。大系本には、その追加部分が収録されていない。注で示す方法もあっただろうが、劉徳隆には別の考えがあったのか、それは実行されなかった。大系本が底本として『繍像小説』本を採用したことによって生じた不都合だといわざるをえない。
後半は、『天津日日新聞』本を底本としている。その言葉通りだと私が考えるのは、本文のいくつかの箇所が『天津日日新聞』本のままであるからだ。
前述したように、人民文学出版社本は、『天津日日新聞』本によっているといいながら、ごく少数ではあるが文字が異なる箇所がある。それとは違う。それは、大系本が『天津日日新聞』本に忠実に従っていることを意味する。劉徳隆が細心の注意を払って本文を校訂していることがわかる。
すこし横道にはいる。
大系本には、版本を説明する文章がもともと書かれていた。劉徳隆の「《老残遊記》校点後記」である。しかし、該本には収録を拒否されたという*2。
その理由を考えるに、『老残遊記資料』(北京・中華書局1962.4。采華書林影印あり)出版にまつわる紛糾の事実が書き込まれているからだ。
そのおおよそは、以下のようになる。
『老残遊記資料』は劉〓孫と劉厚沢が編集したが、出版されたのをみると、進めていた内容とは違う。彼らには事前の相談もなく論文が差し換えられ、編集者の名前も違う人物にかわっていた。
部外者である私には、なぜそういうことになったのか、まるで理解できない。
該資料は、いうまでもなく魏紹昌の編集で広く知られている。劉徳隆の文章には、魏紹昌の名前は伏せられているとはいえ、研究者なら誰でもわかる。劉徳隆は、魏紹昌が成果を横取りしたと告発しているのである。
ところが、大系本全体を統括する関係者のひとりがその魏紹昌なのだから、劉徳隆の暴露文が収録されるはずもない。
『老残遊記資料』が再版されないのも、そういう事情があることに関係するのだろう。
c 北京燕山出版社1995.11
劉鶚、劉〓孫『老残遊記全編』と称している。
初集20回、二集9回と外編を収録する。初集20回は天津日日新聞社本にもとづく、と説明しながら、評がない。推測するに、『天津日日新聞』本そのものを底本にしたのではなく、人民文学出版社本に拠ったらしい。無視してよい。
そのほかに、注釈のついた整理本が2種類でている。
前出の人民文学出版社本がそのなかのひとつだ。
もうひとつは、厳薇青の注(初集のみ)がついたもので済南・斉魯書社(1981.2/1985.8再)から出ている。
斉魯書社本の底本は、人民文学出版社本である。それに加えて、光緒三十三年(1907年)発行の上海神州日報館排印本を参照したとある。なぜ上海神州日報館本かといえば、これが単行本では早いものだとの判断があったのだろう。厳薇青による詳細な注は役に立つ。
初集についての結論:まず、孟晋書社本を底本にしなければならない。それを除けば、人民文学出版社本と大系本の2種類しか残らない。この2種類には、小さなキズがある、ということを知ったうえで、底本にしてもよい。また、注については、人民文学出版社本と斉魯書社本を参考にすることができる。
○1-3 二集
二集9回が発表される情況というのが、これまた複雑である。
二集は、もともと9回が『天津日日新聞』に連載された。だが、初集と異なり単行本にはならなかった。その理由は、9回で中断したからだろう。9回では、いかにもきりが悪い。ゆえに、長く忘れられた存在になった。
1929年、天津日日新聞社内で9回の新聞切り抜きが発見された。これを劉〓孫と劉厚沢のふたりが夜を徹して筆写し複製をつくる。原本は、発見者の劉大経に返却した。そのうちの4回が雑誌『人間世』第6-14期(1934)に連載されたのが、公表された2度目である。
翌年、二集だけが、良友図書印刷公司(1935.3.1)から単行本として出版された。おかしなことに本文は2回を足して全部で6回である。『人間世』の4回でもなければ初出の全9回でもない。9回のうち6回しか収録していないから、中途半端としかいいようがない。底本となったのは、『天津日日新聞』二集本である。
上海・良友図書印刷公司の二集6回本は、広く読まれた。
以後、二集といえば6回があるだけだと思われることになる。
ゆえに、人民文学出版社本にも二集は6回しか収録されていない。良友図書印刷公司本にもとづいている。
二集の残り第7-9回の3回分が公表されるのは、その後になってからだ。
魏紹昌編『老残遊記資料』に収録された。該書の中心を構成する扱いである。当時の研究者の多くは、驚いたのではなかろうか。それまで30年近くにわたって6回しか公表されたことのない二集が、実は9回まで存在していた。その事実を、この資料で知ることになったからだ。
まさに、画期的な出現のしかたであった。
だが、注意深い研究者、たとえば戴鴻森は、そのあつかいには慎重な態度をとった。
前出の人民文学出版社本が再版(1982.4)されたとき、二集の3回分を追加するにあたり、以下のように説明している。
「老残遊記二集」については、われわれは、1935年の上海良友図書公司発行の巻1から巻6まで(すなわち第1-6回)の単行本しか見ていない。ゆえに「附録」としておいたのである。1962年、中華書局出版の魏紹昌編『老残遊記資料』には、「二集」巻7から巻9(すなわち第7-9回)が収録されているが、それはその作者の子孫である劉厚滋、劉厚沢が『天津日日新聞』から筆写した複製にもとづいている。われわれは、現在、それによって追加収録した。思想および筆致からしても「二集」9回は、確実に劉鶚の作であると信じることができる。ただ、もともとの『天津日日新聞』を今にいたるまで見ることができない。われわれがもとづいた版本の出所は同じではないので、目次ではふたつに分け、慎重を期した。306頁
ここに書いてある通りである。問題は、劉厚滋(〓孫)と劉厚沢が筆写したという点にある。『天津日日新聞』二集本の原本ではない。つまり、筆写間違いを懸念したことが明白であろう。
戴鴻森の心配は、的中している。魏紹昌編『老残遊記資料』の大きな柱である二集の第7-9回の3回分は、初出の『天津日日新聞』二集と対照すると異同が、それも数多くが存在している。筆写誤りである。
二集第7-9回を収録するのちの版本は、例外なく魏紹昌編『老残遊記資料』によっている。ゆえに、誤りを踏襲して疑わない。字句の異同がかなりあるということは、広くは知られていない。誰もそのことに触れない。念のために注意を喚起しておきたい。
以上の情況を見れば、中国では『天津日日新聞』二集本を目にすることができなくなっていることが理解できよう。
それに加えて、二集は偽作ではないか、という疑惑が長いあいだ存在した。それゆえ人民文学出版社本の二集には、注がほどこされていない。
斉魯書社本の二集にも、厳薇青は注をつけていない。私は、氏にその理由を質問したことがある。「二集は偽作だと考えていたからだ」という返答をもらった。二集偽作説は、深く広く長く信じられていたことがわかる。初集と二集の扱いに差があるのは、理由のないことではなかった。
だが、樽本照雄が二集の『天津日日新聞』掲載本を京都大学で発見して、情況は一変した。
二集の偽作説が完全に否定されたばかりではない。不明であった新聞掲載年月が、七月初十日(1907.8.18)から十月初六日(11.11)までであると判明した。さらに、二集は14回が書かれたという証言があるが、9回で中断したことがほぼ確定的になった。
『天津日日新聞』二集本の存在が明らかになったあとに出てきたのが前述大系本なのだ。
その説明に、二集は『天津日日新聞』(1907)本に拠ったと明示されている。書かれてはいないが、京大所蔵本であることは明らかだ。本文を見れば、人民文学出版社本、魏紹昌編『老残遊記資料』所収のものとは異なる箇所がある。それでいい。つまり、劉〓孫、劉厚沢の筆写誤りを訂正していることになるからだ。『天津日日新聞』二集本を見ていなければ、できないことだといえる。
ただし、日本で発見された『天津日日新聞』二集本には、第9回に1日分だけが欠落している。魏紹昌編『老残遊記資料』でいえば34頁3行目から35頁5行目までだ。ここは『老残遊記資料』で補わなくてはならない。劉徳隆は、煩雑になると判断したためか、その説明をしていない。
北京燕山出版社『老残遊記全編』本は、すこし形態が異なる。
二集は9回を収録するが、底本としたのは既存の、つまり人民文学出版社本と『老残遊記資料』であるらしい。なぜなら、劉〓孫が筆写間違いを放置したままにして、本文を訂正していないからである。
劉〓孫は、樽本から『天津日日新聞』二集本を電子コピーで受け取っている。しかし、送られてきた電子コピーによって自分が写し間違えた本文を訂正することはしなかった。細かな異同など、どうでもよかったらしい。劉〓孫の興味は、そんなところにはなかった。彼が多大の精力を注ぎこんでいたのは、二集と外編の補作であったのだ。
北京燕山出版社『老残遊記全編』本は、二集といわず「補篇」と称する。その理由は、劉〓孫が二集9回に続けて第10-20回を書き足しているからである。
二集についての結論:『天津日日新聞』連載本を底本にしなければならない。該本の欠落部分のみは、魏紹昌編『老残遊記資料』で補う。原物を見ることができないというのならば、次善の策として大系本を利用する。
○1-4 外編残稿
外編残稿は、全部で15枚が現存している。頁数は16だが、第3頁が失われているから15枚である。私は原物を見たことはないが、そうなっている。1929年に発見された*3。
長く公表されなかった。魏紹昌編『老残遊記資料』(1962)に収録されたのが最初だ。
のちの版本で外編残稿を収録するものは、すべて該資料を底本としている。そこでしか活字になっていないのだから、自然と底本になる。
例外が、ひとつだけある。大系本である。
外編残稿の原物は、劉〓孫が所蔵していた(現在は、その遺族が保存している)。劉徳隆は、劉鉄雲の子孫だから、外篇残稿そのものを利用することができた。大系本に、原稿にもとづいて整理したと書くとおりだ。
ところが、奇妙なことに気づく。魏紹昌編『老残遊記資料』所収と大系本を比較対照すると、いくつかの箇所で字句の異同がある。
大きな箇所ではない。たとえば、資料本の冒頭に「……給諸位貴官解悶如何」とある部分だ。「貴官」を大系本では「客官」としている。
外編残稿を見れば、資料本が示す「貴官」の方が正しい。ほかのいくつかも、資料本の方が原稿を忠実に反映している。外編残稿の原物によっているはずの大系本が、なぜ間違っているのか、その理由を知らない。
わずかの異同であるならば、問題にはならないだろう。こう考える人は、底本問題には手を出すべきではない。数の多少ではないのだ。異同があることが問題であることを認識する必要がある。
珍しいといえば、樽本照雄編『老残遊記資料』(2004)が、外篇の原稿を電子コピーして収録する。
ひとことつけくわえる。北京燕山出版社『老残遊記全編』本において、外篇残稿を組み込んで劉〓孫が20回分を創作している。補作といえようか。底本問題とは関係がない。
外編についての結論:樽本照雄編『老残遊記資料』が外編残稿の影印であるという理由でこれを底本とする。魏紹昌編『老残遊記資料』所収の文章が、活字だから読みやすい。参照することができる。
●2 『老残遊記』全集の企画
「老残遊記」は、ばらばらに、紆余曲折をへて発行されている。その後、単行本化されるにあたっても、すっきりとはじめから1本にはまとまってはいない。
本文だけでなく、序、評を収録したりしなかったり、その扱いも一定していないままだ。だからこそ全集という発想がうまれる。
「老残遊記」の初集20回、二集9回、外編残稿とそろったところで、全集出版の企画があった。
最初の計画は、かなり早い。1936年だという*4。
『老残遊記全編』と題して、以上の3種類の本文を収録する予定が立てられた。その序として劉大紳「関於老残遊記」*5が用意されてもいた。しかし、『老残遊記全編』の出版は、結局のところ実現しなかった。そのかわり、劉大紳の文章だけが別に公表される。
作者劉鉄雲については、胡適が羅振玉の文章を引いて簡単な伝記を公表したことがある(胡適「老残遊記序」『老残遊記』上海・亜東図書館1925)。だが、作者と作品については、多くの謎が残されていた。劉鉄雲の息子劉大紳が書いた文章が発表されたことで、その詳細がはじめて知られることになったのだ。全編の副産物ということができる。
中華人民共和国になってから、劉鉄雲生誕百周年にあたる1957年に人民文学出版社より注釈本が出る。これに収録されたのは、初集20回と二集6回にすぎなかった。編集者は、劉鉄雲の子孫とは連絡を取らなかったものと見える。二集は9回が存在し、外編残稿も発見されているにもかかわらず無視する。企画としては、以前よりも一歩後退したかたちになった。
台湾でも『老残遊記』は出版されている。
1960年代に、初集と二集4回、6回、および劉鉄雲について書かれた文章もあわせて収録する版本が、台湾・世界書局からたびたび出た。
二集が4回であったり6回であったりするのは、『人間世』か良友図書印刷公司本に拠っていることを示している。また、初集序、あるいは評を削除していたりして完全本というわけにはいかない。
情況が複雑だからこそ、それらを整理して1本にすっきりとまとめてみたい。編集者は、そう考えるらしい。
「老残遊記全集」と名のらなくても、初集20回、二集9回、外編残稿を収録すれば、りっぱな全集である。いく種類も出版されている。
それでも、なお、「全」にこだわる版本がある。大陸と台湾から各1種類づつ、両者に劉〓孫がからんで、合計2種類が出版されている。
d 『老残遊記全編』北京燕山出版社1995.11
梅慶吉校点。梅慶祝吉「前言」、劉〓孫「(補篇)引言」、「書中影射人名説明」、劉〓孫「(外篇)前言」を収録する。
上で少し触れた。特異なのは、二集9回に続けた劉〓孫「老残遊記補篇」第10-20回を、外編残稿に続けた劉〓孫著「老残遊記外篇」20回を収録するところだ。
劉〓孫は、「老残遊記」の書かれていない部分を補作することに力を注いでいる。その分、初集、二集の本文には関心を払っていない。評も無視して収録していない。
もう1種類は、シリーズで全4冊あるらしい。私は、そのうちの3冊を入手した。以下のとおりだ。
e 「老残遊記全書」シリーズ 台湾・建安出版社1997.4
○『老残遊記』20回 老残遊記全書 学術新刊21
建安出版社「出版者的話」、厳薇青「前言」を収める。
初集の本文は、厳薇青の注釈本を採用している。だから中身は、斉魯書社本だ。ただし、初集20回だけで、元本が収録していた二集9回、外編を削除する。なぜなら、二集、外編は、劉〓孫の補作を前面に出すために別に編集出版しているからだ。
○『老残遊記外篇』20回、残稿 老残遊記全書 学術新刊22
劉鶚(劉鉄雲)残稿、劉〓孫続写、劉徳威参訂とある。外編残稿に劉〓孫がつづけて20回を創作したもの。残稿を巻末に収録する。建安出版社「出版者的話」、劉〓孫「前言」(劉徳威附記)がある。北京燕山出版社本にもとづいている。
○『老残遊記補篇』20回 老残遊記全書 学術新刊23(未見)
二集に劉〓孫が続作して20回にしているのだろう。ゆえに二集とはいわず「補篇」と名付けた。
「補篇」だけの単行本が出ている。北京・文化藝術出版社(1992.2)本だ。本書は、この文化藝術出版社本か、あるいは北京燕山出版社本によっていると考えられる。
○劉〓孫『我与《老残遊記・補篇》』老残遊記全書 学術新刊24
これについては、以下で紹介する。
●3 劉〓孫『我与《老残遊記・補篇》』について
本書において、劉〓孫は、劉鉄雲の書いていない「老残遊記」の補篇を創作した経過を述べ、関連して劉鉄雲とその家族、「老残遊記」にまつわる事柄を回想する。1995年の「あとがき」がついているから、その頃までには書かれていたらしい。劉〓孫が、回想録を残しているとは、私は知らなかった。
「老残遊記」についての回想録では、有名な文献がひとつある。前出の劉大紳「関於老残遊記」だ*6。
劉鉄雲の息子が劉大紳だ。劉〓孫は、劉大紳の息子にして劉鉄雲の孫にあたる。劉大紳、劉〓孫と親子2代にわたって父、祖父の創作した「老残遊記」にかかわる回想録を残すことになった。
参考のために本書の目次を示し、内容を簡単にしるす。
出版社的話(「老残遊記」の発表情況、劉鉄雲と劉〓孫の紹介)
前 言(「老残遊記補篇」を書くことになったいきさつ)
一 仏頭著糞(劉鉄雲の子孫による資料集の出版と「老残遊記」を補作しようと考えた動機)
二 騎在老虎的脊背上(約100年の時間をへて補作することの困難さ)
三 洪都百錬生与《老残遊記》(「老残遊記」が『繍像小説』に連載されて中断した経緯)
四 民国初年的偽作糾紛(民国に出版された偽作の顛末)
五 踏破鉄鞋無覓処(二集、外編残稿の発見と発表のいきさつ)
六 種種疑団(劉鉄雲とその作品をめぐる数々の謎)
七 謝訳《老残遊記・初集》与《関於<老残遊記>》(英訳者シャディックとその質問に答えるために劉大紳が書いた「関於老残遊記」)
八 《補篇》的基本素材(補作の材料となった『鉄雲詩存』、『鉄雲先生年譜長編』が出版されるいきさつ)
九 長老伝聞和耆旧訪問(親戚関係者の証言と太谷学派)
十 魯詩堂夜話(羅振玉の証言)
十一 洋務派的影響与洋務派的異同(劉鉄雲の開発思想)
十二 聖功弟子(太谷学派)
十三 与康、梁等人的微妙関係(劉鉄雲と康有為、梁啓超の関係)
十四 淮上旧遊(劉鉄雲の淮安における交遊)
十五 平生知好(姚雲ママ松、馬眉叔と顔実甫、黄葆年ほか)
十六 衛静芳与茹氏夫人(劉鉄雲の夫人たち)
十七 六位郎君(劉鉄雲の子供たち)
十八 従賽金花与金小(筱)宝説起(賽金花)
十九 義和団和太倉米(義和団事件と太倉米)
二十 古書、名画百餘箱(劉鉄雲の所蔵していた金石書画)
二十一 従焚桃源到牧馬帰群(太谷学派と黄崖教案)
二十二 遣戍的恩恩怨怨(劉鉄雲逮捕の理由)
二十三 恨未能生入玉門(新疆流刑)
二十四 鉄雲先生晩年的経済出入和日常生活(劉鉄雲の経済状態)
尾 声(『老残遺恨』の紹介)
補作については劉〓孫の経験だから、彼独自のものだ。それはそれで貴重な証言だとは思う。
ただし、劉鉄雲「老残遊記」研究という視点からながめれば、ちがった見解も生まれる。
ひとことでいえば、劉〓孫の回憶は、劉大紳の回憶録とそれにほどこされた劉厚沢の注釈のわくをこえていない。あくまでも「老残遊記」に限定していえば、という条件がつく。誤解のないように願いたい。
劉大紳の「関於老残遊記」をくりかえしたり、それまでの彼の文章で幾度か述べていることとも重複する部分もある。
しかし、新しい部分がまったくないわけではない。私の興味を引いたことのいくつかを以下に紹介しておきたい。
○1963年、周揚が福州を視察したさい、座談会で劉鉄雲と「老残遊記」にかんする未発表資料をすべて出すようにと提案した(2頁)
「老残遊記」に関連して周揚の名前が出てくるのを、私は、はじめて目にした。
『老残遊記資料』が出版されたのは1962年だ。ここで述べられている座談会が1963年ならば、資料が出版された後のことになる。資料が社会の注目を集めたということだろう。ただし、そののちに「老残遊記」批判が巻き起こり、「文革」につながっていくから、未発表資料の公表には、ずいぶんと時間がかかることになる。
ただし、劉〓孫が周揚について触れる箇所が、該書にはもうひとつあるところに注目しよう。39-40頁にかけてだ。ここでは、周揚の提案は『老残遊記資料』が出版される前のことになっている。説明する時間が一致していない。記憶違いなのか。どちらが正確なのか、わからない。
○日本で発行されている『清末小説』は、実際上はほとんど「老残遊記」研究論文集である(3頁)
わざわざ誌名を掲げたのは、表彰するつもりだったのだろう。しかし、その誌名が表わしているように、べつに「老残遊記」研究の専門誌ではない。だから、正確な紹介にはなっていない。
せいぜいが、「老残遊記」についての論文がよく掲載されている、くらいのことだろう。読者に誤解を与えるのではないかと心配する。小さいところだが、気になった。
○現存する「老残遊記」の原稿について(10頁)
劉鉄雲が「老残遊記」を書くことになったいきさつを説明する。例の連夢青を経済的に援助するためだったというやつだ。劉大紳がそう説明している。そこまではいい。
しかし、続けて妙なことが書かれている。『繍像小説』の編集者が、第11回の原稿が迷信に関連すると判断し、書き換えるように要求したというのだ。連夢青は、原稿を取りもどして劉鉄雲に返却し、それで中断したという。その原稿は、劉〓孫の母の衣裳箱に入れたままにしてあったが、劉厚沢がそこから取りだし保存していた。のちに南京博物院に寄贈した。これが現存する3ママ枚の原稿である(10頁)。
まず簡単なことから指摘する。現存する原稿は3枚ではなく6枚である。すでにそのすべてが写真版で公開されている(『清末小説』第9号1986収録)。劉〓孫の勘違いだ。
大きな疑問は、『繍像小説』の編集者が内容が迷信だとして書き換えを要求したという箇所だ。
劉大紳の証言によると、劉鉄雲は、原稿を書くと見直すことはせず、『繍像小説』が発行されたのを見るだけだった。だから、原稿第11回が没書になっていることは、『繍像小説』が出たのを見てはじめて気がついた。没書の理由を追求すると、内容が迷信だからだ、という返答があった、とこれまた劉大紳の説明である。
劉大紳の証言と劉〓孫の書くことは、矛盾する。
まず、連載の途中で原稿の書き直しを要求されるようなことがあれば、それ以後の原稿が『繍像小説』に掲載されることはなかったであろう。劉〓孫の説明のおかしなところだ。
原稿第14回までをまとめて『繍像小説』編集部に渡していたからこそ、編集者による没書があってのちも「老残遊記」は連載されつづけた。これが事実だろうと考える。そう考えて、どこにも不合理は生じない。途中で書き直しの要求があったとは、とても信じられない。
劉〓孫は、原稿が残っているという事実を解釈して、『繍像小説』から連夢青が取りもどしたと単純に推測したのではないか。その原稿がどういう性格のものか考えなかった。
『繍像小説』が掲載ずみの原稿を著者に返却したとは思えない。そういう習慣があったとは、どこにも書かれていないではないか。
残っている原稿となれば、これは「下書き手稿」よりほかに考えようがない。複写機のなかった時代では、原稿でも手紙でも、自分用に控えをとっておくものだ。「下書き手稿」にほかならない。
樽本照雄は、現存する原稿は「下書き手稿」だとして詳細な文章をいくつか発表している。日本語が読める劉〓孫は、しかし、まるで興味がなかったようである。もっとも、劉〓孫は自分でも書いているように晩年は目が不自由であった。外国人の論文など読む気にはならなかったとしても不思議ではない。それならそれで納得する。
劉〓孫の説明は、根拠もなにもない、ただのつじつまあわせにすぎない。しかし、劉鉄雲の子孫という劉〓孫の発言は、それだけで権威をおびる可能性がある。注意をしておく必要があろう。
○二集発見のいきさつ(20-21頁)
『天津日日新聞』に連載された二集が、再度、発見されたのは1929年であった。劉厚沢が説明して、有名だ。すでに上で紹介した。説明の都合上、もう一度くりかえす。
劉大経が二集のバラと切り抜き9回分を見つけた。保存するために劉厚沢と劉〓孫が書き写して複製をつくり原物は返却した(魏紹昌編『老残遊記資料』92頁)。
もうひとりの当事者が劉〓孫だったから、説明はいっそう詳しくなっている。
すなわち、劉大経がみつけたのは、最初は6回までのもので、全部で5部あった。さらに探してみると9回の切り抜き本がでてきた。9回本の方は1冊だけしかない。送られてきた9回本を見た劉大紳は、第7、8,9回の3回分を劉〓孫、劉厚沢、劉厚瑞の3人に命じて1晩で書き写させ複製をつくった。翌日、切り抜き本は返却したという(21頁)。
以前、私は、劉厚沢の証言から、二集の第1-9回の全部の複製をつくったのだろう、と考えていた。事実は、そうではなかったらしい。6回までは複数部がみつかっているのだから、そのうちの1部を譲り受けたのだろう。そうであれば、書き写す必要はない。ところが、9回の切り抜き本は1部しか見つからなかった。しかたなく、3回分を筆写したということになる。急いでいたから、部分的に写し間違いが生じたのもうなづける。
その誤りが正されることなく魏紹昌編『老残遊記資料』に収録されてしまった理由は、1部しかなかった9回切り抜き本そのものが紛失してしまい、複製しか残っていなかったからだ。
○行方不明の劉鉄雲辛丑日記(40頁)
劉鉄雲日記は、劉〓孫が自らの手で南京博物院に寄贈した。ところが、なぜだか上海博物館に移っており、のちにこれも理由がわからないが劉厚沢の家に返却されたという。
過去に発表された文章によると、劉厚沢のもとにも劉鉄雲日記が所蔵されていた。ふたりが別々に保管していたのを、のちに劉〓孫のところに全部を集めた。それを元にして『鉄雲先生年譜長編』を執筆したということになる。
劉鉄雲日記が重要なことは、誰でも理解するだろう。私は『劉鶚及老残遊記資料』に劉鉄雲日記が収録されたのを、当時、とても喜んだものだ。だが、辛丑日記が収録されていない。行方不明になっていることが判明した。
そこで思いだしたのが『鉄雲先生年譜長編』には辛丑日記からの引用があるという事実だった。
それをもとにして日記を再構成しておいた(沢本香子「劉鉄雲辛丑日記を再構成する」『清末小説』第9号1986.12.1)。
『清末小説』が発行されても、なんの反響もなかった。無視である。いつものことだから落胆もしない。
劉〓孫の該本には、これについて言及がある。
「(辛丑日記は)さいわいなことに『年譜長編』に収録していた。ある日本の女性が、『鉄雲先生年譜長編』から編集しなおして日本『清末小説』に発表した」(40頁)
彼自身に関係する部分だから目にとまったものだろう。
○劉鉄雲が書いた『十五小豪傑』の題簽(69-70頁)
劉鉄雲は、梁啓超と深い関係をもっていたかどうか、樽本照雄と劉徳隆のあいだで論争があった。
劉鉄雲は日記のなかで、梁啓超の翻訳した『十五小豪傑』に題簽を書いたと記している。
該訳文はもともと『新民叢報』に連載されていた。劉鉄雲は、それを抜き出して私家版(連載途中だから部分的なものだ)を作ったさいに、それにはるために題簽を書いたと樽本照雄は、解釈した。劉鉄雲の書いた題簽が、梁啓超の依頼に応じたものであれば、横浜の新民社が出版した単行本にそれを見ることができるだろう。
それに対して、劉徳隆は、梁啓超が劉鉄雲に依頼して題簽を書いてもらったものだとあくまでも主張した。それくらい劉鉄雲と梁啓超は親しいという意味をこめている。
劉〓孫は、そのやりとりを紹介し、カッコにいれて次のように書く。すなわち、「7年後、劉徳隆は私(劉〓孫)に告げていうには、日本版の『十五小豪傑』を調べて明らかになったのは、題簽は隷書であって、鉄雲の書いたものではないということだった」(70頁)。
私は、いまだに単行本の『十五小豪傑』を見る機会をえていない。
しかし、その扉(だろう)を于潤g総主編『挿図本百年中国文学史』(成都・四川人民出版社2002.6)の口絵に見つけた。扉だから題簽ではない。しかし、考えてみれば、新民社が出版しているのだから洋装本であろう。洋装本に題簽というのは、合わないではないか。題簽と称して扉の題字の可能性も否定できない。となると、この題字が劉鉄雲の手になるものであろうか。わずかに5文字であるから、それを判定するのはむつかしい。
では、劉〓孫に告げたという劉徳隆のいう「題簽は隷書」というのは、これとは別物なのだろうか。別物だとしても、劉徳隆は、劉鉄雲が書いたものではないと判断している。
やはり、劉鉄雲日記に見える題簽というのは、私家版のためのもののように考えたほうがいいのではないか。
そのほか、千仏岩写真に写った人物の名前が間違っていた(41、54頁)とか、劉鉄雲の兄劉渭清の官位は、鉄雲の黄河治水の功績を譲ったものだ(79頁)とかあるが、省略する。
本書についての私の結論を述べよう。
劉〓孫の回想録は、劉鉄雲の親族、友人についての詳しい紹介があるから大いに参考になる。子孫の筆になるものとして貴重であるといえる。
ただし、「老残遊記」関係に限っていうと、いくつかの箇所で疑問が生じるばあいがある。他の資料と比較対照しながら利用するのがよい。これが、劉〓孫『我与《老残遊記・補篇》』についての私の評価である。以上、紹介にかえる。
【注】
1)詳細は、樽本照雄編『老残遊記資料』(清末小説研究会2004.2.1)を参照のこと。
2)「《老残遊記》校点後記」は、劉徳隆『劉鶚散論』昆明・雲南人民出版社1998.3に収録される。
3)魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4(采華書林影印あり)。劉厚沢の注2。91頁
4)魏紹昌編『老残遊記資料』。劉厚沢の注1。91頁
5)(署名は紳)『文苑』第1輯1939.4.15。のち『宇宙風乙刊』第20-24期1940.1.15-5.1に再掲。また、魏紹昌編『老残遊記資料』、劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』成都・四川人民出版社1985.7などに収録される。
6)参考:樽本照雄「拠るべき研究文献――劉大紳「関於老残遊記」の場合」『大阪経大論集』第50巻第2号(通巻250号)大阪経大学会1999.7.15。主旨は、劉大紳の該文は、魏紹昌『老残遊記資料』所収の文章を主として利用しつつ、劉徳隆、朱禧、劉徳平『劉鶚及老残遊記資料』を参照するのがよい、という結論である。
(さわもと きょうこ)