商務印書館と金港堂の合弁解約書



沢本郁馬


 商務印書館と金港堂は、それまで維持していた合弁関係を解消することにした。協議を経て契約書(以下、合弁解約書と称する)を作成し双方が調印したのは、1914年1月6日のことである。
 合弁解約書は、今までその存在が明らかにされたことはない。私は、それを日本でみつけた。ここに報告する。

●1 合弁契約書と合弁解約書

 1903年11月19日(光緒二十九年十月初一日)からはじまった両社の合弁事業は、結果として足かけ12年間、実質約10年間で終結したことになる。
 合弁契約締結時には、金港堂の原亮三郎は、日本からわざわざ上海にまで赴いた。合弁の契約書に署名するためだ。ただし、合弁契約書そのものは、現在まで公表されたことがない。
 合弁するための契約書があるなら、解約書もあるはずだ。
 当時、商務印書館の理事をつとめていた鄭孝胥は、1914年1月7日の日記に、日本株回収の調印を前日に行なったと記録している[鄭孝胥1993:1497]。鄭孝胥自身は、調印の場に出席したわけではない。理事会の議題になった。正月31日に臨時株主会を開催することに決めてもいる。調印したのだから、文書になっているとわかる。これが、私のいう合弁解約書である。
 商務印書館と金港堂が締結した合弁契約書、また後の解約書は、いうまでもなく内部文書である。普通、外に出てくることはない。私は、そう考えていた。
 文書は商務印書館の内部に秘蔵されているにしても、しかし、その内容のおおよそは、すでに知られているといってもいい。
 合弁契約書については、当時の商務印書館の指導者たちが、いくつかの証言を残している。その証言を、研究者たちは無条件で信用しているのが現状だ。だが、その証言の内容が正しいかどうかは、契約書そのものが出現しないかぎり、検証することはできない。未解決の大きな問題として、今だに存在していることを知らなければならないだろう。
 一方、合弁解約書のほうも、原物を見ることができない。しかし、その存在を示唆する文章がある。朱蔚伯が書いた「商務印書館はどのように創業したか(商務印書館是怎様創〓BAN4起来的)」だ[朱蔚伯1981]。
 商務印書館は日本株主代表福間甲松と日本株回収のための契約12条を結んだ、と朱蔚伯はのべる。さらに、日本株回収に必要な金額をこまかく記録している。説明の都合上、項目別に整理して紹介しておきたい。

朱蔚伯の記述
1.日本株総額 55万3,916.5元
2.支払い期日 1914年1月6日および6月30日にそれぞれ半額を支払う
3.利息 4,370元を商務印書館が負担する
4.為替差額 1万4,477.5元を商務印書館が負担する
5.経費 2,769.58元を商務印書館が負担する
6.諸経費合計(3+4+5) 2万1,817.08元ママ
7.支払い遅延利息 1万2,464元
8.総額(1+6+7) 約58万8,200元ママ[朱蔚伯1981:150-151]

 計算間違いがある。単純な加算だ。6の諸経費合計は、表示したものよりも200元少ない2万1,617.08元とするのが正しい。総額は、58万7,997.58元だ。おおよその数で示せば、約58万8,000元となる。
 詳細である。概数ではないのだ。分の位まで明示しているところに注目してほしい。私の知る限り、朱蔚伯を除いて、これほどまでに細かな数字を提出している研究者は、いない。
 さらに、日本株主代表者として福間甲松の名前をあげていることに注目したい。内部事情に詳しくなければ、あるいは資料を手元においていなければ、福間の名前を掲げることはできないだろう。
 私が朱蔚伯の文章を重視する理由は、以上のようにほかの文献が述べていない事実を記しているからだ。
 資料がなければ書くことのできない種類のものであると断言できる。合弁解約書そのものか、あるいは詳細を記録した内部文書に依拠しているのだろう。朱蔚伯は、商務印書館に勤務していたというから、それも可能だった。
 そのころの当事者のひとりであった鄭孝胥の日記にも、合弁解消についての言及がある。日付をおって交渉の変化を知ることができて貴重だ。だが、具体的な金額となると「総価五十四万余元」[鄭孝胥1993:1496]というようにおおざっぱな数字しか記録していない。
 比較すれば、朱蔚伯の文章が珍しいものであることが理解できる。
 ただし、上に示した計算違いのほかに、疑問がないわけではない。
 3の利息は、理解できる。それでは7の支払い遅延利息とは、なにか。1万元をこえており、少額というわけにはいかない。3の利息4,370元とくらべると約3倍になっている。いちじるしく平衡を欠くと感じる。ただし、こちらの数字も詳細であって、なんらかの根拠があることを示唆しているようにも思う(後述)。
 すこし先回りして説明すれば、日本人の所有する株数は3,781株であった。商務印書館(代表:夏瑞芳)と金港堂(代表:福間甲松)が協議を経て、1株を146.5元に評価することで合意する。両者を乗じて得られた総額55万3,916.5元という金額は、朱蔚伯の記述と完全に一致する。
 朱蔚伯の文章から、合弁解約書の影をみることができる。だが、彼は、それらの数字がどこに記録されているのか根拠を示さない。事実だから、典拠を示す必要を感じなかったのか、と思いもする。
 影はあるが実物は見たことがない。内部文書だから姿をかくしたままだ、と私が長く考えていた理由である。
 ところが、合弁解約書は、年を経て1度だけ公表されていたのだ。2004年にそれを見つけた私自身が、意外だと感じるくらい奇妙な出現のしかただった。順を追って説明する。

●2 『実業之日本』問題*1

 話は、時間がすこし経過してからのことになる。商務印書館が金港堂との合弁を解消して5年がたったころだ。
 1919年、第1次世界大戦後のパリ講和会議において、旧ドイツ山東利権の回収、日本の対華21ヵ条の廃止などの要求はすべて拒否された。
 5月4日、北京の学生たちは集結しデモ行進を行なった。学生たちは、「条約調印拒否」「21ヵ条撤廃」「日貨排斥」などのスローガンをかかげた。ニュースは、またたくまに中国全土に伝わり、大規模な運動に発展する。五四運動の始まりだ。
 鄭孝胥日記の5月6日には、日本が青島を返還しないことをもって北京の各学校の学生が、曹汝霖の住居に火をかけ、章宗祥を殴打、あるいは殺した、との伝聞が記録されている[鄭孝胥1993:1781]。
 同じく鄭孝胥日記から関連記事を拾ってみる。
 5月11日、上海で国民大会が開催され、日貨ボイコットが宣言された。
 6月5日、北京の学生千名余が逮捕された。上海の学校は授業ボイコットを行ない、学生は商会もそれに応じるよう要求した。
 6月6日、昨日の集会で日本人数人を負傷させたことが『大陸報』で報道された。
 6月9日、学生らは工場がストライキをするよう要求し、イギリス、フランス租界では軍隊が出てきて弾圧した。
 上海の騒然とした雰囲気が伝わってくる。
 中国における反日運動の燃え上がりと広がりを目にして敏感に反応した日本の雑誌があった。『実業之日本』である。
 該誌第22巻第13号(1919.6.15)は、「支那問題号」と題して特集を組んだ【図1】。
 「対支外交の一転機」、増田義一「日支諒解論」、浮田和民「日支提携して東洋モンロー主義を樹立せよ」、小村欣一「日本の対支外交方針」、青柳篤恒「支那外交の特質批判」、中華道人「日支合〓BAN4事業と其経営者」【図2】、服部宇之吉「支那の国民性及ひ支那人」などを掲げる。署名論文24本そのほかを収録して1冊まるごとを特集にあてた。
 そのなかの中華道人の文章が、問題を引き起こすことになる。そればかりか、のちに商務印書館と中華書局の裁判にまで発展するのだ。
 中華道人論文は、「日支合〓BAN4事業の沿革」「日支合〓BAN4事業の現況」「日支合〓BAN4事業の将来」の3章で構成される。「現況」部分で21以上の会社名をあげ、そのなかに商務印書館を入れた。つまり、日本と中国の合弁企業として商務印書館が存在していることを宣伝する結果となっている。
 短い文章で、商務印書館の創業の歴史を述べる。中国人が創立したが火災にあい、経営不振のおり、金港堂との合弁により挽回したことを説明する(詳細は[樽本照雄2004]を参照されたい)。
 内容から判断すると、1912、13年ころまでの商務印書館を描写していることがわかる。必然的に1914年の合弁解消には言及しない。ゆえに、読む人は、雑誌の発行された1919年の時点で商務印書館は日中合弁企業のままだと誤解する。
 1919年に発表されたにもかかわらず、6、7年前の情報しか盛り込んでいない。その箇所についていうならば、時代遅れの文章でしかない。
 執筆者である中華道人は、商務印書館がすでに日本との合弁企業ではなくなっている事実を知らなかったのだろうか。文面から判断すると、そのことについて知識が欠落していたように思える。無知というなら、『実業之日本』の編集者も同様であった。まさか、これが日本と中国の間で問題になろうとは、想像もしなかっただろう。
 すこし触れておくと、中華道人の文章の前半は、先行文献を孫引きしたにすぎない。
 先行文献とは、『支那経済全書』第12輯(1908)である[東亜同文会1908a]。商務印書館が金港堂と合弁企業となったいきさつをかなり詳しく述べている。しかし、こちらは、商務印書館側の注意を引かなかった。1908年といえば、まさに合弁時期の最中である。合弁企業だという点に間違いはないからだ。
 だが、中華道人の文章が発表された1919年は、以前とは情況が違う。だいいち、商務印書館が金港堂との合弁を解消してすでに5年が経過している。さらには、日本製品ボイコットが叫ばれているのに、現在進行形で日中合弁企業だとする誤った文章が日本で発表されたのだ。
 時期が時期だけに商務印書館の神経を逆なでしたのも当然だろう。首脳陣は、なんらかの対策を早急に立てざるをえなかった。

◎2-1 実業之日本社にむけて
 商務印書館の指導者たちは、『実業之日本』誌へ記事訂正の申し込みを行なうことにした。
 1919年6月29日の『張元済年譜』には、次のように書いてある。

 夜、鮑咸昌、王顕華、高夢旦、李抜可、陳叔通らと家で食事をする。日本『実業之日本』雑誌が一文を掲載し、すでに日本株を回収している商務印書館を「日支合〓BAN4之事業及経営者」という名簿のなかにあいかわらず入れている。相談し、該社に手紙を書いて訂正するよう要請する。さらに、当時の契約書を撮影し郵送すること、別に広告を書いて該社の刊行物に掲載することにする。同時に、文章を書いて農商部へ提出する。[張樹年1991:171-172]

 この提案は、実行に移された。しばらくして、『実業之日本』第22巻第16号(1919.8.1)には、以下のような訂正文が掲載されている(総ルビ省略。以下同じ。【図3】)。

◎訂正 本年六月十五日発刊『支那問題号』第百六十三頁第十節商務印書館に関する記事中、該書館を日支合〓BAN4事業として紹介せしも、目下は全然支那人経営の事業なる由に付き訂正す、

 小さな記事ではある。しかし、張元済らの要求通りになったことに違いはない。
 それでは、当時の契約書を撮影して郵送するという件は、どうなったのか。張元済らは、広告を掲載するともいっていたではないか。実行されたのだろうか。
 私は、『実業之日本』に掲載されたはずの商務印書館の広告をさがした。訂正記事がのった次号(『実業之日本』第22巻第17号1919.8.15【図4】)に下のような文章があるのに気づいた。

瓊川生「無適語」
◎本誌の読者は前号広告欄に、支那の商務印書館が同社の事業を日支合〓BAN4として紹介した『支那問題号』の誤を正し、純然たる支那人の事業であるを証明する為、日本人所有の株式全部を買収した民国三年の契約書を掲げた支部ママ[那]文広告二頁を看過しなかつたであらう。◎商務印書館は中華書局と相並んで上海に於ける二大出版業者である。従来互に鎬を削つて競争してゐたが、商務印が日支合〓BAN4の事業であると誤報せらるゝや、中華書局は奇貨措くべしとなし、排日熱の支那民衆に瀰漫せるに乗じ、盛に競争者の日支合〓BAN4なるを新聞に広告し、恰も商務印の書を買ふは憎むべき日本の書を買ふと同じであるかの如く中傷し、一挙敵塁を覆へさんとした。従つて商務印も亦之に対抗して事実の無根を支那新聞に及び本誌に広告した。◎中華書局が最初より商務印の純支那事業たるを知り、只『支那問題号』の記事を故らに悪用したものか否か吾人は之を知らぬ。併し商務印が契約書を公表して記事の誤を正した後に於て尚且つ商務印を非難するに日支合〓BAN4事業を以てするは、排日熱を商策に濫用し、商敵を無根の事実に苦しむるものである。排日熱全盛の日、この問題を提起せるは、中華書局として或は巧慧であらう、併し其手段は餘りに卑劣である。(後略)[瓊川生1919:12]

 瓊川生が「商務印」と書いているのは、誤解にもとづく読み癖である。事実は、商務+印書館が正しい。漢語の「印書館」は、印刷所を意味している。だが、日本人は、ややもすれば、商務印+書館と勘違いする。
 文中に「純然たる支那人の事業であるを証明する為、日本人所有の株式全部を買収した民国三年の契約書を掲げた支部ママ[那]文広告二頁を看過しなかつたであらう」とはっきり書いてある。
 1914年の合弁解約書を掲げた漢語の広告だというのだ。2頁あるとも明記してある。該誌「前号」は、第22巻第16号にあたる。第16号といえば、訂正記事が掲載されている号だ。
 ところが、雑誌のどこをさがしても、いくらさがしても漢語の広告2頁を見つけることができない。
 私が見た『実業之日本』には、ページに欠落があるのかもしれない(実際にはそのようなことはなかったが)。念のため、別の図書館におもむいてその所蔵本をも閲覧した。しかし、ないものは、やはり、ない。不思議なことだ。
 瓊川生は、漢語広告2頁が掲載されていると間違いなく書いている。にもかかわらず、該当雑誌にはそれが、ない。
 『実業之日本』には、それ以後、関連する記事は掲載されなかった。
 日本の雑誌では、探索の糸はこうして途切れてしまった。ところが、中国の資料をさぐっているうちに合弁解約書に出会うことになる。

◎2-2 中華書局にむけて
 『実業之日本』「支那問題号」に注目したのは、商務印書館ばかりではなかった。ライバル会社の中華書局が、先手をうって行動を開始している。雑誌を漢訳し出版したのである。
 商務印書館と中華書局がなにかにつけて競っているのには、理由がある。両者の関係というのが、最初からねじれているのだ。すなわち、中華書局は、商務印書館の出版方針に満足できない人々が、中華民国成立を機会に飛び出して創業した出版社だった。最初に出資したのは、陸費逵、戴克敦(懋哉)、陳寅(協恭)たちだ。のちに、沈頤(朶山)、沈継方(季方)らが加わった。
 中華書局の方が、商務印書館を目の敵にした。外からながめると、商務印書館を攻撃することにみずからの存在理由を求めているかのような印象をうける。
 民国後、学校教科書をめぐって両者が熾烈な競争を繰り広げたのもそのひとつだった。
 商務印書館をライバル視した中華書局だが、創業後しばらくして経営危機にみまわれたことがある。
 1917年、業務の急速な拡張と商務印書館との競争が激烈をきわめ、それに加えて副局長の沈知方が投機に失敗して営業停止直前までになった。
 陸費逵の回憶によると、「副局長の某君が個人的に破産し、公私ともに被害を受けた」[陸費逵1987:225]という。この某君というのが、沈知方だ。陸費逵は、匿名にして述べているだけで、個人の破産については詳しい説明をしない。別の文章では、沈知方が会社の金3万元を流用したというのもある[沈芝盈2002:507]。何に流用したのか、不明だ。
 沈知方は、1900年、商務印書館に入社すると営業に従事していた。1913年に中華書局に招かれている。ある説によると、アメリカ商を通じて大量の紙を購入予約したところが、第1次世界大戦の勃発により紙価が暴落して数万元の損失を出したという[〓登}詠秋2003:48]。戦争が始まれば紙価は、急騰するのではないか。納得しにくい説明だ。だいいち、中華書局で使用する紙を購入するのだから、これは業務だろう。それと個人的な破産とは、無関係ではないのか。詳細がわからない。
 中華書局の営業不振は、沈知方だけが原因ではなかろう。いくつかの要因が重なって、そうなった。
 そこで商務印書館に身売りする話が浮上する。足蹴にして飛び出した古巣への帰還ということだ。皮肉なことだといわなければならない。
 1917年12月14日の商務印書館の理事会では、張元済は買収に賛成し、鄭孝胥は反対した。結局、賛成多数で買収を決定している。しかし、12月16日、中華書局では臨時株主会議を開催し、理事、監察を改選し陸費逵が局長を辞任することになった。これで商務印書館への身売り話は立ち消えになったというのだ[張樹年1991:141,146][銭炳寰2002:30-35]。
 後日談がある。商務印書館が中華書局を買収する件について、山本条太郎の発言が伝えられている。
 1918年2月8日夜、張元済、李抜可、高夢旦、鮑咸昌らは、山本条太郎、小平元、木元毅らと宴会を開いた。その席上、山本は、「買収してはならない」「出版業を独占すれば、人に嫌われる」「外からの圧力がなければ必ず驕る、おごりは最大の病となる」といったという[張樹年1991:149]。
 山本条太郎は、出版社には健全な競争が必要不可欠だ、競争があって事業が発展する、と考えていたのだろう。
 だが、競争は、健全なものばかりだとは限らない。スキがあれば足をひっぱろうという相手であれば、なおさらだ。
 中華書局は、商務印書館にとっては、その類の競争者になっていたのかもしれない。山本条太郎の想像を超えていた。
 中華書局の創業者は、その多くが商務印書館にもともと勤めていた。商務印書館がすでに日本との合弁企業ではなくなっていることは熟知している。しかし、中華道人の文章は格好の商務印書館攻撃材料になる、と中華書局の首脳陣は判断した。
 商務印書館と中華書局は、『実業之日本』の漢訳をめぐって新聞紙上で連日の広告合戦をくりひろげた。
 単行本について、のちの『中華書局図書総目』には、次のように載っている。

『日本人之支那問題』〔日〕実業之日本社著 中華書局編輯所訳 1919年7月初版 32開
内収《日本対華外交方針》、《中国之国民性及国民思想》、《中日合〓BAN4事業与其経営者》、《中国外交之特質批評》等13篇論文。[中華書局1987:66]

 日本語論文は24本だから、そのうちの約半数13本を選択漢訳したらしい。
 この記述からは、漢訳本は、1919年7月初版だとわかるだけだ(実際の発行は7月末だとあとで判明する)。それにしても素早い中華書局の仕事ぶりだった。
 『申報』紙上でくりひろげられた商務印書館と中華書局の広告合戦を読んでいくと、上記の『日本人之支那問題』がいきなり単行本で発行されたわけではないことが理解できる。
 すなわち、単行本の前に、中華道人の例の論文だけが特に抜き出され、先にビラとして印刷されているのだ。そればかりか、そのビラは、各省の学校にむけて大量に送付されたともいう。配布先が学校というのが意味をもっている。「日貨排斥」が叫ばれている最中なのだ。日本企業と合弁である商務印書館の教科書は採用するな、という圧力であることはいうまでもない。
 商務印書館の首脳は、それが中華書局の仕業であるとはウスウスは気づいていただろう*2。ビラの原物も入手していた。しかし、ビラそのものには中華書局の名前は掲載されていなかったと思われる。つぎの新聞広告から、そうと推測される。
 1919年7月19日付『申報』に商務印書館の懸賞広告が掲載された。題して「懸賞1千元(賞格一千元)」【図5】という。内容のおおよそは以下のとおり。
 日本の某雑誌が中華道人の論文を掲載した。中日合弁の会社のなかに本館(商務印書館)を入れている。その雑誌には声明を出し、訂正されることになっている。近頃、上海の人間が該雑誌を漢訳し印刷したうえに多数を各界に送っているという。本館は、民国3年(1914)1月6日に日本株のすべてを回収しており、部に提出し、記念プレゼントをすると新聞広告をした。完全華商であることは誰でもが知っていることだ。ビラを上海のどこで印刷し、誰の指示で、どのような方法で各界に送っているのか。証拠をわたしてくれた人に現金1千元を報酬として出す。
 「訂正されることになっている」というのは、『実業之日本』第22巻第16号(1919.8.1)に掲載される「訂正」記事のことを指している。実業之日本社から事前に連絡があったのかもしれない。
 商務印書館の懸賞広告には、中華道人の論文だけを名指ししている。各界に送っていると表現している。だから、これはビラについて説明していると私は判断するのだ。『日本人之支那問題』そのものではありえない。単行本は、この時、まだ出版されていない。また、まさか単行本を贈呈するとも思えない。ビラが中華道人の論文にしぼっているからこそ、その効果が期待できる。
 商務印書館の懸賞広告には、中華書局の名称を出していない。だしてはいないが、犯人が中華書局だとわかった上での懸賞広告なのだ。商務印書館から中華書局へむけての警告という意味をもつ。
 ところが、中華書局は、翌20日、商務印書館の2度目の懸賞広告のとなりに「商務印書館の懸賞1千元に答える(答商務印書館賞格一千元)」【図6】という広告を掲載した。
 「査中日合股事業及其経営者」は、日本『実業之日本』雑誌の本年6月15日発行の特別号に掲載された。本局(中華書局)は、各論文を漢訳するつもりでその書名を『日本人之支那問題』という。原文通りに翻訳したもので削除はしていない。(ビラは)@中華書局印刷所が印刷したものだ。A中華書局編輯所が編集翻訳したもので他人の指示によるものではない。B郵便で各省に送ったもの。C証拠は中華書局総廠にある。懸賞の1千元は全国学生聯合会に寄付するから送ってほしい。
 ビラを作成したのは自分だ、と中華書局みずからが名乗りでた。
 ビラの題名は、「査中日合股事業及其経営者」である。同時に、単行本の名称が、この段階ではじめて明らかにされた。それに収録される中華道人の論文名は、「中日合〓BAN4事業与其経営者」であって、ビラの題名と異なっていることに注意してほしい。
 日本で出版した雑誌の内容を削除せずに翻訳しただけだ、と中華書局はいう。つまり、商務印書館が日本との合弁企業であると原文に書いてあるから、そのままを漢訳してどこが悪いか、と居直ったのである。さらに、中華書局自身が懸賞金を要求するにいたっては、ほとんど悪い冗談である。『実業之日本』問題について、中華書局は確信犯であることがわかる。
 同じ7月20日付には、中華書局の出版広告が掲載されている。これが問題の『日本人之支那問題』だ【図7】。
 「学界……商界……工界……注意 日本人之最新論調」と小見出しをつけている。見れば、いくつかの事実が浮かびあがってくる。紹介のなかで「中日合〓BAN4事業」に触れる。しかし、商務印書館がそうであるとは一言もいわない。全190頁、定価4角、月末には出版する(准本月底出版)、とある。ということは、7月20日の時点で、書籍そのものは出版されていない。だから、商務印書館が懸賞広告で指摘していたビラは、書籍に先行して印刷配布されたと理解できる。
 さらに翌21日、またも商務印書館の広告が出た。「真相露呈(水落石出)」【図8】と題する。『申報』の紙面を使用して、両社はまるで手紙のやりとりをしているかのようだ。広告の内容は、19日とほとんど同じ。中華書局は事実を認めたのだから訂正するように要求する、と最後部分だけを書き換える。
 商務印書館と中華書局が新聞で広告合戦を行なっているのを見て、仲裁に入った人がいる。王顕華が書報聯合会で史量才に出会うと、史は調停に名のりをあげ、双方が広告を出すことをやめるように要求する。翌日、中華書局は調停を受け入れず広告を継続したので、張元済らは中華書局を名誉毀損で訴え損害賠償を要求することにした[張樹年1991:178]。
 史量才は、1917年の中華書局経営不振のとき、改組された理事会参事のひとりに選ばれている[銭炳寰2002:37]。その史が調停に乗り出したのは、中華書局との関係からなのだろう。
 商務印書館が中華書局に対して名誉毀損だ、損害賠償だ、というだけでは不十分であるのは明らかだ。刊行物について裁判に訴えるというばあい、事実無根の記事を掲載したことを理由に、刊行物の回収、絶版、謝罪広告の掲載を求めるのが通常ではなかろうか。商務印書館は、そうしていない。というよりも、そうできない。なぜなら、商務印書館が過去において日本の企業と合弁会社であったのは、事実だからだ。ゆえに、名誉毀損と損害賠償どまりである。
 中華書局が継続して掲げた広告というのが、7月23日付に見える。題名が刺激的なのだ。「真相露呈?捏造?承認?商務印書館に答える(水落石出?誣陥?承認?答商務印書館)」【図9】
 @『日本人之支那問題』は中華書局の公明正大な出版物であって、真相露呈というのは商務印書館が中日合弁であることが明らかになったということだ。A『日本人之支那問題』は『実業之日本』を翻訳したものであって捏造ではない。B『日本人之支那問題』は自ら翻訳し、自ら印刷し、自ら販売するものである。承認など必要はない。1千元の懸賞金は送っただろうな。C商務印書館が手紙でよこした「実業之日本が誤って商務印書館を日中合弁会社と掲載したことにたいして訂正を要求する」という文面は、将来、該書の巻頭に補うことにする。
 これが、商務印書館の書籍広告のとなりに、『日本人之支那問題』の広告と並べて掲載した文面の内容である。
 商務印書館は、24日付特別広告「商務印書館特別啓事」【図10】において、中華書局を告訴することを宣言する。
 商務印書館と中華書局が『申報』紙上でくりひろげた広告合戦のなかに注目すべき文書が掲載された。1919年7月25日付の第1面、すなわち広告欄に見ることができる。
 冒頭の「商務印書館特別啓事」は、24日と同じものだ。
 「中華書局特別啓事」【図11】は、それに答える。『日本人之支那問題』は、翻訳にすぎない。法律に違反はしていないのに訴えるとはどういうことか、と。商務印書館の手紙とそれに対する中華書局の返答を掲げている。
 商務印書館の中華書局あての手紙(7月20日付)がある。『実業之日本』が弊館(商務印書館)を中日合股公司と間違えて掲載した文章を漢訳して出したと各新聞の広告で知った。同業者どうしで、弊館がむかし日本株を回収したことは新聞にも掲載し、貴局もよく知っているはずだ、うんぬん。新聞広告で明らかにしたことを書面のかたちをとって中華書局に直接あてたものだとわかる。
 中華書局の返書も、新聞広告で明らかになっているものと違わない。
 なによりも、興味深いのは、第1面の下半分を占める商務印書館の広告なのだ。題して「商務印書館が日本株を回収した証拠を見てほしい(請看商務印書館収回日股之証拠)」【図12】という。
 商務印書館が示した証拠は、ふたつの部分によって構成されている。
 上方には、こまかな文字で書かれた文書が写真版で3枚と3行分掲げられる。
 下方には、1914年1月10日付『申報』、1914年4月26日付『新聞報』、1914年7月4日付『時報』の3紙(部分)を写真で示す。
 影印版『申報』の小さすぎる文字に目をこらす。これこそが『実業之日本』を追求する過程で失った探索の糸の実態であった。すなわち、商務印書館と金港堂の合弁解約書なのである(後述)。
 下方の『申報』は、「商務印書館股東特別会」の開催を予告する。すでに樽本照雄がその存在を指摘している[樽本照雄1991a:16-18]。
 『新聞報』の広告は、外国株を回収して「完全華商」であることを農商部が批准したという内容だ。この広告は、私ははじめて見た。
 もうひとつ、『時報』の広告はといえば、完全華商になったことを記念して図書券を贈呈するというものだ。こちらとは意匠の一部が異なるが同文の広告を、樽本は『学生雑誌』においてすでに見つけている[樽本照雄1991a:18]。
 当時の新聞を資料として掲げたのには、当然ながら理由がある。日本人(金港堂)の株を回収したという事実を、すでに新聞の広告というかたちで公表しているという証拠なのである。これだけ広告を出しているのだから中華書局の人間が、それ、すなわち商務印書館がすでに完全な中国人の企業になっていることを知らないはずがない、という意味だ。
 さて、手書きの文書3枚と3行こそが、まぎれもない合弁解約書であることを知って、私は、すこしとまどう。なぜなら、新聞に掲載されているにもかかわらず、その存在に気づいた研究者は、今まで、誰ひとりとしていなかったからだ。商務印書館の内部文書を発掘したというのであれば、感心はしても驚きはしない。関係者ならば、発掘する可能性もあるだろう。だが、広告として新聞に掲載されていようとは思いもしなかった。
 商務印書館がみずからの「潔白」を証明するために取り出してきた合弁解約書である。珍しい出現のしかたである、と私がいう理由だ。逆にいえば、内部文書までも提出しなければ、理解を得ることができないほどのきびしい情況であった。
 次に合弁解約書を紹介する。

●3 商務印書館と金港堂の合弁解約書

 本稿では、「合弁解約書」と称しているが、実物(写真版)には「立合同」【図13】とあるだけだ。契約を結ぶ、という意味に過ぎない。
 夏瑞芳と福間甲松の名前が、冒頭に掲げられている。夏瑞芳には肩書きがない。福間甲松には「商務印書館日本股東全体代表」とある。日本人株主を代表する。
 重要な箇所だから説明をする。
 光緒二十九年十月初一日(1903.11.19)、金港堂が商務印書館に投資して、商務印書館は合弁会社となった。双方が10万元づつを負担し、合計で20万元である。理事も日中で同数が就任した。中国側は、夏瑞芳(兼社長)と印錫璋だ。日本側は、原亮三郎と加藤駒二だった。
 その時、金港堂の原亮三郎が個人で投資した。1株を100元とすれば、10万元は1,000株となる。
 ただし、この個人というのは金港堂と区別がつかない。原亮三郎と金港堂は、一体化しているからだ。原亮三郎は個人であり、また同時に金港堂そのものでもある。
 合弁を解約するときにも、原亮三郎個人がでてきてもいい。だが、事実はそうなっていない。金港堂の原亮三郎は、福間甲松を派遣して全権を委任した。金港堂という名称がどこにも使用されていないとはいえ、福間は原亮三郎であり、また金港堂だった。
 合弁時期の約10年に、原亮三郎の所有株をふくめて日本株は3,781株にまで増加した。
 合弁解約ということの実態は、日本人の所有する株を商務印書館が一括して買い取ることである。調印する時は、代表者の個人名を出して署名する。

 前文がある。
 日本の株主が所有する総数3,781株を中国人のものとすることが宣言される。
 日本人の所有する株数が3,781株というのが、基本だ。カッコのなかの但し書きには、附属文書で株所有の日本人姓名を明らかにしているとある。しかし、その文書はこの新聞広告に含まれていない。具体的な氏名と所有株数については、汪家熔がすでに明らかにしている[汪家熔1994a]。詳しくは別の文献を見てほしい[稲岡勝1996:30][樽本照雄2004:371-372]
 合弁解約書は、以下の12条によって構成される。12条という数字が、朱蔚伯論文と一致する。

 第1条
 夏瑞芳が購入し、福間甲松が売却することを承認する。1株をメキシコ銀146.5元で計算する。すなわち総額55万3,916.5元である。以前の契約はすべて廃止する。
 前文に示された3,781株と146.5元を乗ずれば、総額55万3,916.5元になる。間違いない。本稿冒頭にまとめておいた朱蔚伯の1、すなわち日本株総額と一致している。

 第2条
 契約成立と同時に総額の半額27万6,958.25元を支払う。支払先は、三井洋行の藤瀬政次郎とする。藤瀬より福間甲松へ届ける。残金は、6月30日あるいはそれ以前に支払う。
 2回に分割して支払うという契約である。
 支払い日は、6月30日かそれ以前だと指定されている。つまり、最終期限が6月30日であって、それ以前に支払う可能性を残していると読める。支払い利子に関係するからだと考える。
 全額を1度払いにすることはできなかったようだ。それほど大金であったということだろう。ただし、それでも商務印書館が予想していたよりもはるかに安い金額で妥結したことは確かだ[樽本照雄2003]。
 支払方法については、三井洋行の藤瀬政次郎を介在させているところが興味深い。商務印書館の夏瑞芳から金港堂の福間甲松へ直接現金を手渡してもいいように思う。それをわざわざ三井洋行を経由させたのは、なぜか。
 福間は上海に常駐するわけではなさそうだ。契約書に署名をすれば、日本に帰国するのだろう。分割支払いだから、上海の三井洋行を窓口にするのが便利だったと考えられる。もうひとつは、安全に送金するための方法だろうくらいの推測しか私にはできない。
 第2条は、朱蔚伯の2と基本的に一致する。ただし、朱蔚伯は、藤瀬政次郎に触れない。

 第3条
 買収総額について1913年12月1日から1914年1月5日まで年利8厘で総計4,370元を契約成立日に三井洋行の藤瀬政次郎へ届ける。
 朱蔚伯が書いていた「3.利息 4,370元は商務印書館が負担する」と数字が完全に一致している。朱蔚伯が合弁解約書を見ているのは、このことからも理解できる。
 しかし、この第3条は奇妙だ。年利8厘だとすれば、4,431.332元になる。計算があわない。
 もうひとつおかしい部分がある。期限を切って1913年12月1日から1914年1月5日までだという。実質36日間である。1914年1月5日というのは、合弁解約締結が1月6日だからその前日に当たる。では、なぜ1913年12月1日からなのか。説明がない。また、年利8厘で計算するとして、日にちを限るならば、普通は日割り計算をするものだ。それを1年分の計算をするだろうか。疑問を感じる。ただし、説明がなくても、両者が合意しているからよしとしよう。
 利息についていえば、契約上は、36日間分として4,370元を支払うことに合意した。これを確認しておく。

 第4条
 1913年11月19日を基準にして為替差額1万4,477.5元を三井洋行の藤頼政次郎に届ける。
 これも朱蔚伯の「4.為替差額 1万4,477.5元は商務印書館が負担する」と合致する。金額が大きいように思うが、基準の日にちを明確にしているからそのまま納得するよりしかたがない。

 第5条
 総額の5厘2,769.58元を経費として藤頼政次郎に届ける。
 支払いに三井洋行の藤頼の手を煩わせるから、その手数料だと解釈する。
 朱蔚伯のいう数字と、ここも端数までが同じだ。

 第3条から第5条に明記された金額を合算する。4,370元+1万4,477.5元+2,769.58元=2万1,617.08元が正しい。くりかえすが、朱蔚伯の示す「6.諸経費合計(3+4+5)2万1,817.08元ママ」は計算間違いである。

 第6条
 残額に年利9厘の利息をつける。
 第3条で計上した利息8厘は、1913年12月1日から1914年1月5日までのもの、しかも総額に対してかけるものだった。合意して4,370元だ。
 第6条では、6月30日までの利息となる。厳密に区別していることがわかる。しかも、1厘高くなっている。支払いを延期した分だ。ただし、こちらは残額に対してのものであることに注目されたい。
 それまでの文面と比較して変化がある。第6条には、具体的な数字を書き込んでいない。
 その理由は、契約を結んだ1月6日から、支払い期限の6月30日までには時間の幅があるからだと推測する。随時、繰り上げて支払うこともできるように取り決めた。ということは、繰り上げ支払いをすれば、遅延利息が軽減されるという含みをもたせていると思われる。いつ支払うことになるのか不明だ。だから、金額を明示できなかった。
 理解しにくいと私が思うのは、第6条でも利息計算の方法を述べないところだ。第3条で年利8厘での計算結果が違うことに触れた。おまけに、36日間であるにもかかわらず1年分の金額にしている。細かい数字が出ているにしては、その根拠がはっきりしない。
 条文のとおりに単純計算してみよう。
 支払い残額は、27万6,958.25元だ。年利9厘は、2,492.62元となる(日割り計算はしない)。1厘高くしたにもかかわらず、4,370元よりも安くなった。
 そこで、朱蔚伯が書いている「7.支払い遅延利息 1万2,464元」が問題になる。
 私は、この数字に疑問を出しておいた。合弁解約書を見て計算すれば、とてもそのような数字はでてこないように思える。総額に対する利息の4,370元と比較しても、額が大きい。彼はどこから「1万2,464元」をもってきたのか。
 以下は、私の計算である。
 合弁解約書に見える利息の4,370元は、日にちをかぎって36日分であった。残金支払いの猶予日数は、1月6日より6月30日までで176日になる。これは、36日の約5倍だ。
 残額の利息2,492.62元の5倍は、1万2,463.1元となる。端数を切り上げれば、朱蔚伯のいう「1万2,464元」と完全に一致する。
 支払い遅延利息の計算方法が書かれていないところから、以上のような推測をすることになってしまった。はたして、これが正しいかどうかはわからない。
 結局のところ、なにもないところから出てくる数字ではないと思うのだ。朱蔚伯は商務印書館の内部資料に拠っていると想像する。
 というわけで、合弁解約書に明記することのできなかった支払い遅延利息は、朱蔚伯のいう「1万2,464元」が正しいということにする。繰り上げ支払いはなかったとも判断する。

 第7条
 第2条に記載の残金は、随時、支払う。福間甲松は、1株につき73.25元で計算する。
 73.25元という数字は、146.5元の半分であるといっているにすぎない。総額を2分したということは、1株あたりの評価額を2分したことと同じ意味である。

 第8条
 いろいろと書いてあるが、結局のところひつとのことだけを言っている。すなわち、夏瑞芳は、支払いが遅れないように保証をする。

 第9条
 第8条と同じ条件である。こちらは福間甲松の責任をいう。福間甲松は、支払いが完了したら株券を引き渡すことを保証する。

 第10条
 要旨。夏瑞芳が契約を履行しない場合、保証人が一切の責任をとる。

 第11条
 要旨。福間甲松が契約を履行しない場合、保証人藤瀬政次郎が一切の責任をとる。

 第12条は、契約書をそれぞれが保持することを定める。
 署名人は、以下のようになっている。

夏瑞芳 印
民国三年一月六日立合同
福間甲松 印
保証人商務印書館有限公司董事 伍廷芳 印
保証人商務印書館有限公司董事 夏瑞芳 印
保証人商務印書館有限公司董事 張元済 印
保証人商務印書館有限公司董事 印錫璋 印
保証人 藤瀬政次郎 印
見 議 三木是市 印
見 議 張国傑 印

 以上、合弁解約書を紹介した。
 合弁解約書のなかの確定している数字と、書かれていない支払い遅延利息を分けて計算しておきたい。
 確定部分は、以下のようになる。
1.総額55万3,916.5元
2.1月5日までの利息4,370元
3.為替差額1万4,477.5元
4.経費2,769.58元
5.諸経費合計(2+3+4)2万1,617.08元
 書かれていない数字は、次の利息だ。
6.6月30日までの支払い遅延利息1万2,464元[朱蔚伯1981:151]
7.総計(1+5+6)58万7,997.58元

 以上、合弁解約書を検討し、朱蔚伯の提出する数字をおぎなって58万7,997.58元を得ることができた。
 今まで、朱蔚伯が提出した「8.総額 約58万8,200元ママ」が事実にもっとも近いと考えていた。彼の計算間違いを訂正すれば、約58万8,000元となる。それで正しかった。
 ただし、問題がもうひとつ残っている。
 1914年1月31日の株主大会において理事会が合弁解消について報告を行なった。
 そのおりの「商務印書館特別株主大会理事会報告」には、上に紹介したような詳細な数字は報告されていない。日本人株が3,781株あり、1株につき130元に16.5元を加えた金額で決着したことをいうだけだ。
 そのなかで雑費について言及がある。「一切の雑費は、株の利息で相殺し、約8万元あまりとなる(並一切雑費,合計以股息抵過,約合八万余元)」
 雑費を株の利息でまかなうというのは、問題ではない。「約8万元」という数字が不可解なのだ。どこから出てきたのか。
 雑費というのは、上の数字でいえば5+6の3万4,081.08元にあたる。「約8万元」には、はるかにおよばない。
 商務印書館の理事会が報告するのだから、いいかげんな数字ではないはずだ、とだれでもが考える。ただし、1月31日という日付が、判断するためのひとつの決め手になる。支払期限の6月30日よりもはるか以前の報告である。ということは、この「約8万元」という数字は、あくまでも事前の予想にすぎない。ゆえに、「約」をつけておおよその数字にするしかない。商務印書館理事会は、多めに見積もって報告をしたとわかるのだ。
 以上、合弁解約書を見ることによって、ようやく正しい数字を得ることができた。
 あらためて確認しておきたい。商務印書館は、金港堂との合弁を解消するために、総額58万7,997.58元を支払ったのである。

●4 商務印書館が中華書局を裁判に訴える

 中華道人の文章をめぐって、商務印書館と中華書局は新聞紙上で広告合戦を派手に行なっていた。
 その一方で、もうひとつの問題が浮上する。日本製品ボイコットに関連するのだ。
 日本製品ボイコットをいうのであれば、日本製の印刷用紙を使うわけにはいかない。あえて使えば「日本製品の不正使用」ということになる。紙の1枚1枚に「日本製品」と書かれているわけでもあるまいが、当事者にとってみれば、今日明日の印刷をどうするかの判断を迫られる事態である。それほどにきびしい社会情況だった。
 商務印書館が広告で説明するのを追跡すれば、以下のような事情であった。
 中国産の用紙を使うことにしたが、まもなく品不足に陥った。そこで日本以外の外国、すなわちアメリカ、スウェーデンから輸入することにする。商務印書館は、同業者にもそれを分けて販売するというものだ。
 用紙不足になったということは、逆にいえば、中国の出版社の多くが日本製の印刷用紙を大量に使用していたことの証拠にほかならない。日本製印刷用紙に依拠して大量の教科書出版をふくむ出版業を営んでいたその根底が揺らいでいるという意味だ。
 これにも中華書局が広告を出している。商務印書館は、同業者に用紙を分けるといいながら、『日本人之支那問題』問題を口実にして中華書局には販売を拒絶している、と。
 中華書局は、商務印書館とどこまでもあらそうつもりなのだ。この広告合戦は、1919年の8月中旬までくりひろげられている。
 実業之日本社が訂正記事を自社の『実業之日本』に掲載したことは紹介した。
 8月7日、雑誌掲載記事に社長の手紙を添えたものが、商務印書館に届いた[張樹年1991:174]。
 その原文と漢訳をならべて『申報』1919年8月15日付に広告を掲載している。
 題して「日本の実業之日本社が支那問題号で商務印書館を日支合〓BAN4と誤記したことの訂正(日本実業之日本社支那問題号誤載商務印書館為日支合〓BAN4之更正)」【図14】という。
 雑誌の訂正記事とともに、実業之日本社社長の手紙も写真版で掲げ、それに漢訳をつけている。『実業之日本』に掲載された訂正記事はすでに引用しておいた。それとまったく同じものだ。実業之日本社社長の私信は珍しい。日本語を以下に引用する。

上海
商務印書館御中
粛啓
貴館益御隆昌之段大慶至極奉存候陳者本年六月十五日弊社発行実業之日本特刊支那問題号第一六三頁(日支合〓BAN4事業ト其経営……ママ中華道人述)中第十節ニ商務印書館ヲ日支合〓BAN4事業トシテ紹介セルモ其後貴館全ク日本人ノ手ヲ離レテ純然貴国人ノミノ経営ニ係ルコト判明致シ候故八月一日発行ノ実業之日本ニ誤記事ノ訂正ヲ掲載致置候ヘ共尚聞知スル所ニ依レバ誤記事掲載ノ為ニ貴館及ビ中華書局トノ間ニ累ヲ及ボシ尠カラザル御迷惑相懸候トノ事驚愕措ク所ヲ知ラズ爰ニ同文ノ書面ヲ貴館及ビ中華書局ニ呈シ陳謝ノ意ヲ表スルト共ニ一日モ速ニ和衷共同益々
貴業ノ発展セラレンコトヲ切ニ希望仕候   敬具
大正八年七月二十一日
  実業之日本社社長増田義一 印
商務印書館御中

 中華道人の誤記事によって商務印書館に迷惑をかけた、というのはよい。社長の増田義一は、率直に謝罪している。社長は自社の刊行物の内容に責任を持つ、という態度を表明しているのだ。この部分についていうと、増田社長がとった態度は潔い。
 だが、それが原因で中華書局と紛糾しているのを聞いて申し訳ない、中華書局にも陳謝する、とはどういうことか。
 中華書局にもあやまるというのであれば、増田社長は、該社にも同じ手紙を送ったのであろうか。ここの部分は、私には余計なことだと思われる。中華書局は、事実を熟知したうえで確信をもって商務印書館を批判している。それを知らないらしい増田社長は、自社刊行物が巧妙に利用されていることを認識していないことになる。
 自社の刊行物『実業之日本』に掲載された瓊川生の文章を読んでいないのかという疑問も感じる。すなわち、「併し商務印が契約書を公表して記事の誤を正した後に於て尚且つ商務印を非難するに日支合〓BAN4事業を以てするは、排日熱を商策に濫用し、商敵を無根の事実に苦しむるものである。排日熱全盛の日、この問題を提起せるは、中華書局として或は巧慧であらう、併し其手段は餘りに卑劣である」[瓊川生1919:12]と書いているではないか。
 中華書局にも陳謝うんぬんという部分は、増田社長の無知を暴露している。きわめて軽率であるといわなければならない。
 商務印書館は、中華書局が翻訳した『日本人之支那問題』によってこうむった営業損失と名誉毀損の代金を銀1万両と決めて提訴した。
 1919年12月16日、第1回公判が開かれている。張元済が原告兼証人となり、弁護はライト(来脱 Right)と丁榕がつとめた。被告代表は陸費逵、弁護士は羅傑だった[張樹年1991:180]【図15】。(関連して『申報』1920.1.14【図16】)
 1920年1月27日の午前に第6回公判が、午後に第7回公判が開かれて結審する【図17】。
 2月10日、午前9時半、第4民庭において判決が申し渡された。被告の中華書局は、1万元および訴訟費用を支払うこと、反訴は却下。「反訴」とあるところから、中華書局が逆に商務印書館を訴えていたことがわかる。商務印書館の勝利であった。
 裁判には勝利した。しかし、商務印書館が金港堂との合弁を解消して数年が経過した後においてもこれほど煩瑣な事柄が発生する。過去において外国企業との合弁会社であったという事実が、中国社会にあってはライバル会社からの攻撃理由となる。事あるごとに蒸し返される。骨身にしみて認識したはずだ。
 商務印書館は、自らの合弁問題についてはますます敏感にならざるをえない。


【注】
1)稲岡勝論文が、はやくからこの問題を紹介している[稲岡勝1996]。最近では、柳和城論文がある[柳和城2003c]。
2)『張元済年譜』1919年7月21日の項目に以下の語句が見える。「不久前中華書局根拠《実業之日本》雑誌所載商務有日資一篇文章,訳成中文小冊子《支那問題》,並〓ling印伝単分寄各地学校」[張樹年1991:173]。ビラ(伝単)に先行して単行本(小冊子)『支那問題』が刊行されたと考えているらしい。事実は、その逆である。

【文献一覧】*印未見
稲岡 勝1996 日中合弁事業の先駆、金港堂と商務印書館の合弁1903-1914年 『ひびや』(東京都立中央図書館報)第145号 1996.3
〓登}詠秋2003 “才気宏闊”的出版家沈知方 『編輯学刊』2003年第6期 2003.11
東亜同文会1908a 『支那経済全書』第12輯 東亜同文会編纂局、丸善株式会社 1908.10.1/1909.6.17四版
柳 和城2003c 商務印書館法律顧問丁榕 『出版史料』2003年第3期(新総第7期)2003.9.25
陸費 逵1931* 中華書局二十年之回顧 『中華書局図書月刊』1931.8.10
1987 ―― 中華書局編輯部『回憶中華書局』上編 北京・中華書局1987.2
―― 兪筱堯、劉彦捷編『陸費逵与中華書局』北京・中華書局2002.1
銭 炳寰2002 『中華書局大事紀要(1912-1954)』北京・中華書局2002.5
瓊 川 生1919 無適語 『実業之日本』第22巻第17号1919.8.15
沈 芝盈2002 陸費伯鴻行年紀略 兪筱堯、劉彦捷編『陸費逵与中華書局』北京・中華書局2002.1
汪 家熔1994a 商務印書館日人投資時的日本股東 『編輯学刊』1994年第5期(総第37期) 1994.10.25
―― 『商務印書館史及其他――汪家熔出版史研究文集』北京・中国書籍出版社1998.10
張 樹年1991 『張元済年譜』 張樹年主編 柳和城、張人鳳、陳夢熊編著 北京・商務印書館1991.12(『出版史料』に連載された。今、単行本に拠る)
鄭 孝胥1993 『鄭孝胥日記』全5冊 中国歴史博物館編、労祖徳整理 北京・中華書局1993.10
朱 蔚伯1981 商務印書館是怎様創〓BAN4起来的 『文化史料(叢刊)』第2輯 1981.11
中華道人1919 日支合弁事業と其経営者 『実業之日本』第22巻第13号 1919.6.15
中華書局1987 『中華書局図書総目』中華書局編輯部編 北京・中華書局1987.3
樽本照雄1991a 商務印書館が触れられたがらない事 『中国文芸研究会会報』第113号 1991.3.30
2003 辛亥革命前後における商務印書館と金港堂の合弁 孫文研究会編『辛亥革命の多元構造』汲古書院2003.12.25
2004 『初期商務印書館研究(増補版)』清末小説研究会2004.5.1